シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

どんどん清潔になっていく東京と、タバコ・不健康・不道徳の話

 
ironna.jp
 
 先日、iRONNAさんの「喫煙ヘイト どうにかならぬか」に寄稿した記事への反応が予想どおり、いや予想以上だったので、関連したことを書きたくなった。
 
 記事に対するはてなブックマークの反応をみると、喫煙に対して比較的穏健な意見から非常にアグレッシブな意見まで、さまざまな意見があることがみてとれる。記事のなかで私は、
 

また、会員制交流サイト(SNS)をはじめとするネットメディアで先鋭化したオピニオンが集まりやすくなったことも、喫煙ヘイトを際立たせる一因として見過ごせない。世間では100人に1人しかいないような極端に排斥的なオピニオンでも、SNS上では仲間同士で群れ合い、そうした極論への同調者がたくさんいるかのように錯覚できてしまう。

 と書いたが、はてなブックマークの反応はまさにそのようなものだった。今回は喫煙というテーマだったが、なるほど、これなら思想的に極端な意見もSNSではどんどん加速されるだろうな、と私は思った。
 
 さて、リンク先では「喫煙者は不道徳とみなされる」というテーマに絞ったけれども、この話は喫煙に限定したものではなく、もっと広い範囲で・並行して起こっている問題系の一部だと私は捉えている。
 
 

綺麗になっていった東京と「当たり前」の変化

 
 たとえば東京は、30年前に比べてずっと綺麗な街になった。
 

  
 1990年代前半の東京は、もっと空が澱んでいて、水道水からはイヤな臭いがして、街のあちこちが生ゴミ臭くて、今よりもずっとたくさんの吸い殻が落ちていた。受動禁煙は当時から問題にはなっていたし、タバコの臭いを嫌う人もいたけれども、それらは健康問題や環境問題のひとつという位置づけだったように記憶している。
 
 臭いという点でいえば、そもそも、お互いの臭いをこれほど気にするようになったのもわりと最近のことである。1980年代に、“朝シャン”をはじめとするデオドラント革命が起こったあたりから、私達は自他の体臭に対してとりわけ敏感になった。
 
 他人に臭いと思われないよう、頻繁にシャワーや入浴をするように生活習慣が変わっただけでなく、私達は他人の臭いに対しても敏感になり、「臭う」という事態を強く忌避するようになった。「くさい」という言葉が、いよいよ人間の尊厳にかかわる単語になったのも、誰もが臭いを気にする社会になったからこそである。みんなが臭っている社会では、「くさい」という言葉は人間の尊厳をそれほどには傷つけない。
 
 
 のみならず、東京人のマナーもずいぶんと良くなったようにみえる。
 

※『目で見る新宿区の100年―写真が語る激動のふるさと一世紀』郷土出版社、より
 
 私が記憶している90年代前半の東京は、もっとあちこちにポイ捨てがあり、もっとあちこちに吐しゃ物やチューインガムが落ちていた。東京都内の「民度」の低さについて、上京した友人と議論して「私達の地域社会に比べて、東京人の民度は低い」と結論づけたことさえある。
 
 それに比べると、現在の東京、少なくとも山手線の駅周辺や近隣の住宅街の「民度」はそれよりずっと高いようにみえる。現在では、ほとんどの地方よりも東京のほうが「民度」は高いのではないか。東京の人々は立小便をしたりはしないし、痰や唾をあちこちに吐き散らしたりもしない。昭和時代には痰壺が都内の駅にもあったというが、今では痰壺が備え付けられている駅などどこにもない。東京都心の人口密度の高さを考えるにつけても、東京の現状は驚異的だ。
 
 さらに歴史を遡れば、もっと汚くてマナーの悪い東京を振り返ることもできようが、それは略そう。とにかくここで思い出していただきたいのは、私達が「健康」や「臭い」について考えている「当たり前」は、昔からそうだったのではなく変化の所産だった、ということだ。
 
 そしてそれぞれの時代の「当たり前」をベースとして、それぞれの時代の人々は何が「不道徳」で何が「スキャンダラス」なのかを判断し、時代にみあった規範意識を内面化していく。
 
 2018年の東京人は、現在の東京の環境やマナーの実態に即したかたちで「何が不道徳的か」「何がスキャンダラスなのか」を判断し、それに即した規範意識を内面化しているし、1988年の東京人もまた、当時の東京の環境やマナーの実態に即したかたちで「何が不道徳的か」「何がスキャンダラスなのか」を判断し、それに即した規範意識を内面化していた。タバコに対する感覚や臭いに対する感覚を、単に医学の進歩の産物とみるのは適当ではない。もちろん医学も無関係ではないが、文化の所産としての側面を併せ持っていることを念頭に入れておく必要がある。
 
 とはいえ、大半の人は過去のことなんて忘れてしまうし、こうした文化の所産による変化を意識しないのだけれど。
 
 

「文明化」の歩みと「当たり前」の歩み

 
 こうした、社会状況の変化にともなう「当たり前」の感覚の変化、道徳意識や規範意識の変化は、日本特有のものでも現代特有のものでもない。
 
 たとえばノルベルト・エリアスが書いた『文明化の過程』には、近世~近代のヨーロッパ社会で進行していた変化の軌跡が記されている。
 
 

文明化の過程〈上〉ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

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文明化の過程〈下〉社会の変遷/文明化の理論のための見取図 (叢書・ウニベルシタス)

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 皆が料理を手づかみで食べ、同じグラスで酒を回し飲みし、いつでもどこでも排泄物を垂れ流していた時代の人々は、それらを不道徳でスキャンダラスとみることはなかった。
 
 だが、食事の行儀作法がゆきわたり、排泄物や痰や唾を人前で垂れ流すことが不作法とみなされる時代になると、そういった行動は眉をひそめられる対象となり、不道徳で不潔な、スキャンダラスなものとみなされるようになった。
 
 トイレで用を足すのが「当たり前」になった社会では、人前で放尿したり排便したりするのは不道徳で不清潔なこととみなされ、フォークとナイフで食事を食べるのが「当たり前」になった社会では、手づかみで食事するのはスキャンダラスなこととみなされるわけである。
 
 戦前~戦後の日本、とりわけ東京で進行していった変化も、大筋ではこの「文明化」の延長線上に見据えることができるし、おそらく、それは現在も進行している。
 
 冒頭リンク先のタバコの記事に対して「臭い」の指摘が多かったのも、臭いにかんする私達のセンシティビティや「当たり前」がアップデートされた所産といえる。
 
 

で、どこまで許容しないおつもりで?

 
 「文明化」の進展にともない、作法や規範意識が変わって社会も変わっていくこと自体は、不自然ではない。人口の密集した東京が混乱することなく、みんなの快適な生活が成り立っているのも、作法や規範意識がアップデートされたおかげ、とみることもできよう。
 
 しかし、タバコの問題に限らず、私達は、いったいどこまで、この手の「当たり前」をアップデートさせていくのだろうか?
 
 
 このことに関しては、私は社会学者のデュルケームの一節を引用したくなる。
 

 それが完璧に模範的な僧院だとする。いわゆる犯罪[もしくは逸脱]というものはそこでは起こらないであろう。しかし、俗人にとっては何のことはないさまざまな過ちが、普通の法律違反が俗世界の意識に呼び起こすようなスキャンダルと同じように解釈されて、そこでは生じることになるだろう。したがって、もし、その社会が裁判と処罰の権力を持っているならば、それらの行為は犯罪[もしくは逸脱]的とされ、そのようなものとして扱われるに違いない
 デュルケーム『社会学的方法の規準 (講談社学術文庫)

 これになぞらえるなら、2018年の東京は、1988年の東京に比べて「模範的な僧院」に近い。
 
 それまでと比べてずっと清潔で、ずっと健康的な社会では、それまでは見過ごされてきたことも見逃されなくなり、「問題」とか「スキャンダル」とか、場合によっては「犯罪」や「疾患」とみなされるようになっていく。この一節を敷衍して考えるなら、現在よりももっと清潔で健康的で道徳的な近未来の社会では、今まで以上に細かな不清潔や不健康や不道徳が槍玉に挙げられるようになり、現在のタバコと同等かそれ以上の非難の対象になっていくのではないだろうか。
 
 私達は、いったいどこまで「模範的な僧院」の度合いを高めていくのだろうか。
 その結果、あれもこれも許容しない社会をつくりあげていくつもりなのだろうか。
 
 2018年の日本人にとって、タバコは、いろいろな意味でバッシングするに足る存在であろう。私自身も喫煙者ではないので、個人的なことをいえばタバコを遠ざけられる施策は喜ばしくもある。
 
 だが、このようにタバコについての「当たり前」が変化し、タバコが置かれている状況が急速に変わっていく社会の流れを眺めていると、社会という不定形なサブジェクトの恐ろしさを痛感せずにはいられないし、タバコだけでなく、そうした変化が現代社会のさまざまな問題ともリンクしているように思えてならないのだ。
 
 私にとって、「タバコは不健康で臭いから不道徳」という問題は、「子どもの泣き声はうるさいから迷惑」という問題や、「十分なコミュニケーションができない人は障害者」といった問題と地下茎で繋がっているようにみえる。その地下茎とは「どんどん快適で健康的で便利になっていく社会」という、この数十年間に加速していった社会のことであり、と同時に、その社会のなかで育まれた新しい規範意識や道徳感覚のことである。
 
 この、「どんどん快適で健康的で便利になっていく社会」と、それに伴ってできあがった規範意識や道徳感覚については、書きはじめると無限に長くなってしまうので、今回はここで於くけれども、これからも、さまざまな角度から検討してみたいと思う。
 
 
 
 
 
 ※私が同一の問題系にあると捉えているのは、たとえば以下のブログ記事内容です。
 [関連]:「健康は道徳、不健康は不道徳」 - シロクマの屑籠
 [関連]:そもそも、現代人のライフコース自体が生殖に向いていない。 - シロクマの屑籠
 [関連]:テキパキしてない人、愛想も要領も悪い人はどこへ行ったの? - シロクマの屑籠