シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「健康は道徳、不健康は不道徳」

 
 昨今のインターネットでは、何が正しくて何が正しくないのかについて、言い争いが続いている。
 
 それは狭い意味での"ポリティカルコレクトネス"に留まらない話で、たとえば特定のメディアコンテンツの趣味の良し悪しについてだったり、自転車運転や自動車運転についてのマナーについてだったりする。
 
 そうした正しさを巡る言葉の揺らぎを眺めていて、数年前から気になって、時間が余った時に調べものを進めていることがある。
  
 それは不健康と不道徳についてのものだ。
 
 2018年現在、健康を損ねているからといって、その患者さんが不道徳とみなされることは一般に無い。交通事故に遭って怪我をした患者さんや、先天的な疾患傾向によって健康を損ねざるを得なくなった患者さん、癌や認知症といった難しい病気によって健康を損ねざるを得なくなった患者さんが、そのことを理由として不道徳な人間だと扱われる心配は無い。
 
 ただし、自己選択によって不健康をもたらしかねない行為についてはどうだろうか。
 
 たとえば喫煙。
 
 喫煙は、副流煙の問題などもあって早くから議論の対象となってきた。本人に癌やCOPDのリスクをもたらすばかりでなく、周囲の人にも不健康をもたらしかねない喫煙は、分煙化の対象となり、分煙化がほぼ完了した現在でもたびたび批判されている。
 
 分煙化が行われた後の批判のなかには、もちろん、分煙を徹底できていない違反者が不道徳であるとする向きもあるが、それだけでない。喫煙するという行為そのもの・喫煙という習慣自体を不道徳・不謹慎であるとみる人も一定の割合で存在する。
 
 喫煙行為そのものを不道徳とみなす人々の背景には、健康を損ねる行為をみずから選択することが不道徳であるとする向きがあり、さらにその背景には、医療関係者による健康増進活動に逆らっているという事実や、医療費を増大させかねないという事実が控えているのだろう。
 
 この、医療関係者による健康増進活動に逆らっているという事実と、医療費を増大させかねないという事実は、喫煙行為を不道徳とみなす際の大きな後ろ盾となっているし、たばこ税の値上げを正当化する大義名分の一部分をも担っているだろう。
 
 

アルコールや清涼飲料水も不道徳

 
 こうした不健康が不道徳とみなされる風潮は、喫煙に限ったことではない。
 
 アルコールやジャンクフード、清涼飲料水といったものも、不健康は不道徳であるというまなざしの対象になりはじめている。フランスのソーダ税やルーマニアのジャンクフード税などがまかり通るのも、不健康が健康増進活動に逆らっているという事実と、医療費を増大させかねないという事実が後ろ盾としてあればこそだろう。
 
 医療費の問題も含めての話にはなるが、現代社会では、健康を妨げかねない選択はあまり良い目でみられていないし、良い目でみられていないからこそ、砂糖入りソーダやジャンクフードのたぐいを課税対象とする法律が成立する。
 
 医療費という問題が関与していることを差し引いて考えたとしても、健康を妨げかねない選択は現代社会では歓迎されていないし、批判の槍玉にしやすい。
 
 その延長線上として、コーラやジャンクフードやアルコールは「悪い」もので、新鮮な野菜や地中海食のたぐいは「良い」という考え方が社会全体に浸透している。ここでも、合言葉は健康である。健康に良い食物は善であり、健康に悪い食物は悪であると考えている人は、けして少なくないのではないだろうか。
 
 と同時に、「ジムに足しげく通っている私は良い」「不摂生な生活をしている彼らは悪い」といった価値判断がこっそりと社会全体に忍び込んではいないだろうか。
 
 たとえ、「良い食物」や「ジム通い」がお金や時間に余裕のある人の嗜みで、「悪い食物」や「不摂生な生活」が貧乏人や多忙な人が甘んじざるを得ないという傾向があるとしても、である。
 
 

[道徳-不道徳]の裁定者としての医療者

 
 また、健康診断のたぐいを通して、現代人は健康は守らなければならないもので、不健康は罪悪感の伴うものであることを毎年のように実体験している。
 
 不摂生や偏った食生活をしている人なら、健康診断や人間ドックのたぐいで何度も経験しているはずだ。「ちょっとコレステロールが高いですね」「もう少し運動をすることをお勧めします」「そろそろタバコをやめてはいかがですか」といった言葉は、それが良くないこと・正さなければならない行動であることを知らしめる。
 
 ゆえに、生活習慣に由来するとおぼしき不健康の兆候を医療者から指摘される際には、ある種の後ろめたさや罪悪感が伴う。もちろん、先天的疾患や進行性の疾患を患っている時はこの限りではないが、「身に覚えのある」場合、医師からの不健康の宣告は、現代社会には珍しいタイプのインパクトをもたらす。
 
 いまどき、万人に向かって面と向かって「あなたの行動選択は良くないです」と言えて、それが忠告としてマトモに受け取られる立場が、医療者以外にいったいどれだけあるだろうか? 
 
 医療者からの不健康の宣告に後ろめたさや罪悪感を伴わないようにするためには、健康という概念そのものに対する信心と、その健康を司っている医療者に対する信頼を欠いていなければならない。
 
 ところが、現代社会では健康概念と医療者に対する信頼は非常に広く浸透しているので、たいていの現代人は、健康診断や人間ドックの結果に気をもむことになる。たとえ重大な病気が見つからないとしても、コレステロール値やγ-GTP値や血圧といったバロメータに一喜一憂するのが、現代人しぐさというものだろう。
 
 このような事実を踏まえるなら、現代社会の医療者が担っているもうひとつ役割に私は思いを馳せずにはいられない。
 
 すなわち、道徳-不道徳を裁定する者としての医療者である。
 
 現代の医療者は、健康という見地にもとづいて、何が道徳的で、不道徳なのかを実質的に決定している。少なくとも、健康という分野に関してはそうである。
 
 医学教授の○○先生や、医学博士の××先生が語った健康増進にかなった食物や行動は、社会的にも「良い」ものとみなされ、不健康であると指摘した食物や行動は社会的にも「悪い」ものとみなされる。そうした医療界からのメッセージを私達は半ば神託のように受け止め、(みずから科学的検証や論証に取り組むのではなく)善悪の基準、道徳の規準として受け止める
 
 なぜなら、健康なことは良いことで、不健康なことは悪いことだからである。健康を犯すべからざる御神体とみなし、医学教授や医学博士を司教、医師や看護師を司祭、一般民衆を信者という風に考えるなら、この構図は、宗教組織とよく似ている。異端が発生すれば異端審問が行われ、健康に対する適切な信心と方法論が防備されるという点でも、宗教組織に似ているかもしれない。
 
 むろん、医療者は宗教家ではなく、医学組織は宗教組織ではないので、あくまでこれは健康という次元に限定して起こっていることである。また、個々の医療者に、自分たちが道徳と不道徳を意図的に裁定しているという自覚があるとは思えない。
 
 しかし、健康概念が非常に広く浸透している現代の社会状況では、たとえ健康という次元だけといえ、医療者や医療組織による道徳-不道徳の裁定機能は決して小さくない。
 
 昔の西洋社会では、人々の行動や罪悪感を司り、道徳-不道徳を裁定していた代表的な組織はキリスト教会だった。が、今日においては、案外、医療組織がそういったものを裁定する最も有力な組織なのかもしれない。
 
 というのも、個人の自由や多様性が良いものとされる現代社会において、健康と肩を並べられるほど普遍的と言えそうな価値はほとんど存在しないし*1、医療者や医療組織は、ときの政権などよりよほど信頼されているからである。
 
 健康を巡っての道徳-不道徳の価値判断は、もちろん、病院だけで作られているのではない。
 
 テレビや新聞、雑誌、インターネットをとおして、健康は広く喧伝されている。健康を守るものを良きものとし、不健康に至るものを悪しきものとする情報がメディアには氾濫している。こうした情報の氾濫を、家の中でも、家の外でも、間断なく浴び続けて現代人は育つのだから、健康は、私達の超自我の一部をなしていると言っても過言ではない。
  
 健康という概念じたい、19世紀に発展した生理学によって基礎づけられ、そこから少しずつ広まっていったものだった。ゆえに、21世紀の先進国の人々は、自分自身が健康診断や人間ドックで引っかかるだいぶ前から、不健康に罪悪感をおぼえるように育てられているし、だからこそ、健康を司る医師や医療組織にはpape(法皇)的な権能が宿らずにはいられない。
 
 

科学的な営みだから道徳とは無縁、というわけにはいかない

 
 繰り返すが、今日の医療者や医療組織が往年のキリスト教組織と同じだと私は主張したいわけではないし、彼らが意図的に道徳-不道徳を裁定しているとも思えない。そのような、あたかも法皇のような振る舞いをしている医療関係者を私は見たことが無いし、WHOなどがそういう方面の権力欲に歪んでいるとも考えられない。
 
 しかし、健康がほとんど普遍的な価値観とみなされ、それ以外の領域では価値観の多様化が進んでいるような世の中では、健康という万人共通の次元において、医療者や医療組織が道徳-不道徳の価値基準の問題と無縁でいられるとは、考えられない。たとえ現代医学それ自体は科学的な営みだとしても、である。
 
 どのような社会の、どのような組織も、多かれ少なかれこういった問題には関わっているものだが、今日では、医療がそのような問題のかなりフロントライン寄りの場所に位置している。だから医療は出しゃばるべきではないなどと言いたいわけではない。ただ、医療者に対する信頼と重要性がかように増している社会においては、医療や医療行為のたぐいが個別の患者さんのフィジカルな問題だけを解決していると考えるのは片手落ちもいいところで、マクロな社会全体の道徳や価値基準の次元にも意図せぬ影響を与えている点にも、一応の把握が必要ではないか、と私は思う。
 
 

[道徳-不道徳]は人間の欲するもの

 
 ちなみに、先天的な健康問題や偶発的な健康問題が不道徳とみなされなくなった社会だからこそ、本人の行動選択による健康問題がよりますます槍玉に挙げられやすくなって、いわば、安全にバッシングできる不道徳であるとみなされているとしても、是非はともかく、私はあまり疑問を感じない。
 
 しばしば人間は、道徳とみなされるをもの尊びたがるのと同じぐらい、不道徳とみなされるものを蔑みたがるものだからである。
 
 と同時に、人間は、道徳とみなされる行動選択をもって自らの正しさを示したがり、不道徳とみなされる行動選択をもって他者の過ちを示したがるものだからでもある。
 
 現代人にとっての健康は、個人のフィジカルなコンディションだけにとどまらない何かである。
 
※この問題については、2020年発売の新著でたくさん書いてます。
 

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*1:例外は金銭である