シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』第一章(上)を公開します

 
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 
6月17日発売予定の『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』の第一章を公開する許可をいただいたので、公開します。
 
第一章では、現代社会に対して私がどういった問題意識を持っているのか、紹介しています。それらを踏まえたうえで、第二章から先は (2)メンタルヘルス・(3)健康・(4)子育て・(5)清潔・(6)コミュニケーションと空間設計 について詳説していきますが、(2)~(6)は興味のある章から読んでいただいても大丈夫だと思います。第七章は、最後にお読みいただく前提で書かれています。
 
ひとつのブログ記事には長すぎるので、第一章を(上)と(下)の2回にわけてアップロードします。
 
 



 
 

第一章:快適な社会の新たな不自由

 
 
【美しい国と美しい都市】
 
 
ときの首相は、日本のことを「美しい国」と呼んでいる。
 
実際、日本は美しい国である。というより美しいまでに街に秩序が行き届いている。ゴミのポイ捨て、歩きたばこ、物乞いといった、美観や道徳のさわりになるものを目にすることが本当に少ない。
 
なかでも東京は、巨大な、にもかかわらず美しい街である。とてつもない数の人々が猛烈に活動している街だというのに、現在の東京は美しい街並みを保っている。数十年前の東京は、光化学スモッグが垂れ込め、水道からはドブのような匂いがする街だったが、現在の東京は緑にあふれ、ゴミや吐しゃ物やネズミが目に付くことも少なくなった。不快なものが絶無になったわけではないにせよ、ほとんどのエリアで奇跡のような清潔さが保たれている。
 
先進国の諸都市と比較しても、東京の秩序は抜きんでている。2019年に英雑誌『Economist』で発表された世界の安全な都市ランキングでは、東京が1位、シンガポールが2位、大阪が3位にランクインしていて、欧米の大都市を圧倒している[1]
 
だが、本当の驚きは、東京の人口スケールや人口密度を考えに入れたうえでランキングを見直した時にあらわれる。
 
近郊地域も含めた、いわゆる東京都市圏の人口は世界一を誇っている。人口密度も先進国としてはトップクラスだ。東京と同じぐらい安全な街は、欧米にもあるだろう。だが、これほどの人口を抱え、それでいて同じぐらい安全で、同じぐらい秩序だった街は世界のどこにも存在しない。
 
街を歩き比べてもそれが実感できる。パリやローマの住民に比べると、東京の人々、とりわけ住宅街の人々は赤信号を律儀に守る。電車は時刻表どおりに、停車位置をぴったりと守ってやって来るし、乱暴な自動車運転も滅多に見かけない。渋谷駅前のスクランブル交差点の風景は、都民には当たり前のものかもしれないが、3000人近い人々が整然とすれ違うさまは外国人には驚くに値するもので、ちょっとした観光スポットとなっている[2]
 
暴走族や盗みに遭遇することも少なくなった[3]。平成11年には5798人を数えたホームレスの数も、平成29年には695人まで減少している[4]。酔っ払いの喧嘩や行列への割り込みも、今では滅多に見かけない。
 
人口規模や人口密度まで考慮するなら、現在の東京がこれほど快適で安全、清潔、道徳的であること、つまり秩序が行きわたっていることに、私たちはもっと驚いて良いはずである。
 
こうした驚きは、日本という国全体についても当てはまる。というのも、こうした安全、清潔、道徳的な秩序は、そのほかの大都市圏と地方都市、ほとんどの郊外にも当てはまることだからだ。
 
だが、こうした美しさや秩序をさかさまに考えるなら、東京という街では守らなければならない道徳上の決まりごと、秩序を守るための約束事が多い、とも言えるのではないだろうか。
 
歩行者通路に右側通行と標識されていたら、右側通行をきちんと守り、赤信号も横断歩道も標識どおりに遵守する東京の人々。朝夕のラッシュの時間、騒然とした満員電車に揉まれてはいても、「次の電車をお待ちください」というアナウンスには忠実な東京の人々。
 
東京は巨大な人口を擁しているだけでなく、世界的な乗降客数を誇るターミナル駅をいくつも抱え、朝夕のラッシュアワーは猛烈に混雑する。それでも人の流れが混乱せず、交通秩序が保たれているのは、人の流れをさばきやすい動線が街にデザインされているだけでなく、東京に住む人々の行儀の良さ、標識や信号をきちんと守る割合の高さのおかげでもある。
 
裏を返せば、その東京の交通秩序からはみ出して生きるのは簡単ではない、とも言える。ラッシュアワーの人の流れに逆らって動くのが難しい、という物理的な困難さはもちろん、社会的・心理的な困難さもある。
 
つまり、誰もが行儀良く移動し、秩序に従う人が圧倒的多数を占め、そうしたことが当たり前になっている東京という空間のなかでは、その当たり前からはみ出して生きるのは目立つことで、気持ちのうえでも簡単ではなく、そもそも、当たり前の外側を意識することすら難しいのではないだろうか。
 
清潔さや美しさについても同じことが言える。東京に住む人々は皆、清潔な恰好をしているし、行儀の良い、道徳的な振る舞いを身に付けている。閑静な住宅地やタワーマンションにおいては、とりわけそうだと言える。
 
閑静な住宅地やタワーマンションに住むなら清潔な恰好をしていなければならないし、行儀の良い、道徳的な振る舞いを身に付けていなければならない、ということでもある。ゴミひとつない美しい街は、美しくない者を浮かび上がらせる。臭いの少ない街・騒音の少ない街は、臭いのする者・騒がしい者を目立たせる。のみならず、そうしたはみ出し者にばつの悪い気持ちを抱かせもする。
 
こうした東京の秩序や美しさは、そこに適応しきっている人には何のデメリットもないどころか、住み心地の快適さを提供するだけのものだ。東京の秩序や美しさによく適応している人には、こうした秩序や美しさが人を不自由にしたり窮屈にしたりするなど、思いもよらぬことであろう。
 
だが世の中には、なかば無理をして、背伸びをするように行儀良くしている人もいるのではないだろうか。清潔でさっぱりとした身なりを整え、静かに振る舞うこと、行儀良く振る舞うことが苦手であるのを、不承不承、一生懸命にカバーしている人もいるのではないだろうか。
 
あるいは普段は東京の秩序や美しさに溶け込んではいるけれども、経済的余裕や心理的余裕が無くなったとたん、清潔な恰好や道徳的な振る舞いができなくなってしまい、街の景色にそぐわなくなってしまう人もいるかもしれない。
 
東京ほど顕著ではないが、日本社会の大半もそのような秩序や美しさから成り立っていて、それぞれの街、それぞれの郊外にふさわしい行儀良さや道徳的な振る舞いをほとんどの人が身に付けている。
 
なるほど、まさに美しい国。この美しさが景観と秩序を守っているのだろう。だがこの美しさは社会的圧力を帯びていて、そこの住まう私たちを美しさの鋳型へ、行儀良さの鋳型へと押し込んでいるのではないだろうか。そこからはみ出せばはみ出すほど街の景観から浮かび上がり、罪悪感や劣等感を抱かずにいられなくなるのではないだろうか。
 
 
【どこまでも行儀の良い子どもたちと少子化】
 
 
そんな東京の街中で出会ういまどきの子どもたちは、やはりというか、皆とても行儀が良い。いや、地方郊外のショッピングモールで出会う子どもたちも、私自身の子どもにしても、昭和時代の子どもに比べれば驚くほど行儀が良く、聞き分けも良い。
 
いまどきの子どもは交通規則を守り、バスや電車では高齢者に席を譲る。小学校低学年のうちから、まるで模範児童のように「ありがとうございます」とも口にする。子ども同士で取っ組み合いの喧嘩をすることも減ったし、立ち入り禁止の場所で危険な遊びをする子どもも少なくなった。昭和時代の道徳番組『みんななかよし』の登場人物たちと同じかそれ以上に、いまどきの子どもは行儀良く振る舞っているようにみえる。
 
そういえば、昭和時代の百貨店では迷子の子どものアナウンスがよく流れていたが、いまどきのショッピングモールではあまり耳にしなくなった。週末のスーパーマーケットでお菓子をねだって泣く子どもも、なかなか目にしなくなった。子どもならではの無秩序さ、無軌道さを見かけなくなったことも、この美しい国を成立させる無視できない要素と言えるだろう。
 
こうした私の肌感覚を裏付けるように、統計上、未成年者の逮捕・補導数[5]や犯罪被害に遭った子どもの数[6]は大幅に減少している。少子化によって件数が減っているだけではなく、子ども1000人あたりの検挙数や少年被害数も減少しているのだ。マスメディアが未成年の犯罪と犯罪被害をセンセーショナルに報じるのとは裏腹に、令和時代の子どもは、かつてないほど秩序からはみ出さずに暮らしている。
 
 


 
 
平成時代の後半につくられた真新しいニュータウンと、その周辺の公園で見かけるのは、身なりの良い恰好をした子どもが行儀良く遊ぶ姿である。昭和時代に私たちがやっていたような、あるいは『あばれはっちゃく』などの昭和のテレビドラマで描かれていたような、危険な場所で危険な遊びにふける子どもは見かけない。
 
子どもの犯罪と犯罪被害が減り、行儀が良くなったことは、少なくとも表向き、喜ばしいことのようにみえる。
 
だが、昭和時代に「やんちゃに」「わんぱくに」育った私の目には、子どもたちが大人の取り決めた秩序からはみ出さずに行動しているさまが異様なことのようにみえる。そして子どものはみ出しに対する現代の大人たちの目線が厳しすぎるようにも思える。
 
子どもとは、もっと大人の思いどおりにならない存在で、大人の通念や習慣からはみ出して動きまわる存在で、ときにはあっさり死んでしまうこともある存在ではなかったか。また、思春期を迎えれば、もっと大人や秩序に反抗し、もっと寄り道をしながら成長していくものではなかったか。
 
今、子どもの世界でクローズアップされているのは子どものはみ出しや反抗ではない。親からの虐待の問題であったり、子ども同士のいじめの問題であったり、子ども自身の心理発達に関する問題(発達障害など)であったりする。これらは昭和時代には社会の側からなかなか観測できない問題だったが、今日の秩序のなかでは浮き彫りになりやすく、医療や福祉のメスが入ることで明るみになったものだ。
 
現代の基準で考えるなら、昭和時代の人々は虐待やいじめを十分に認識していなかったし、発達障害についてはほとんど何も知らなかった。教育や福祉や医療の専門家がそれらを認識している場合でさえ、今日ほど敏感ではなかったはずである──具体的には、虐待はワイドショーのトピックスになるぐらい過激なものが虐待とみなされ、いじめは金銭を巻き上げられたり傷害事件に発展したりした事例がいじめとみなされ、発達障害は重症度の高い自閉症や知的障害だけがサポートの対象とみなされていた。いじめの定義の変遷[7]や児童虐待防止法の法改正[8]などをみるにつけても、過去と現在で、それらの定義に変化があることがみてとれる。
 
では、定義が変わった2020年の日本ではどうなったのか。
 
虐待の通知件数は空恐ろしい勢いで増大している。いじめにしても同様だ。子どもの心理発達についても、自閉スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder:ASD)、注意欠如多動症(Attention Deficit Hyperactivity Disorder:ADHD)、限局性学習症(Specific Learning Disorder:SLD)などがスペクトラムという新しい装いとともに知られるようになり、医療の専門家はもちろん、教師や親にも知られるようになった。精神科で発達障害と診断される患者は大幅に増え、発達障害を背景として通級指導を受けている子どもも大幅に増えた[9]
 
街が安全で清潔で快適になっていくのと並行して、また、街で見かける子どもが秩序に適合していくにつれて、そのような子どもを育てるプロセスに医療や福祉のメスが入れられるようになり、と同時に、子どもの心理発達にまつわる諸問題が多くピックアップされるようになり、医療や福祉によるサポートの対象とみなされるようになったのである。
 
この、秩序のいきわたった街で暮らす子どもは、そのような街にふさわしい、秩序からはみ出さない子どもでなければならない。もちろん、秩序からはみ出さない子どもとは、秩序からはみ出さない大人の原材料でもある。ところがすべての子どもが2020年の日本の秩序に無条件でついていけるわけではなく、たとえば発達障害と診断されるような子どもは医療・福祉によるサポートを受けなければ、学校への適応、ひいては職場への適応が危ぶまれることになる。
 
そして虐待の通知件数が物語っているように、美しい街にふさわしい子育てを親は実践しなければならない。虐待やネグレクトが昭和時代よりも敏感に察知されるようになり、それらが良くないと誰もが認識するようになり、福祉によるサポートがなされるようになったのは進歩に違いなかった。そのぶん、親の資質が厳しく問われるようになった、とも言える。2020年の親たちは、昭和時代の親よりも厳しい世間からの検閲を受け、と同時に、自分自身に内面化された良心や道徳心による検閲をも受けなければならない。
 
教育費が高騰し、東京を中心として待機児童問題が起こっている[10]のを見るにつけても、令和時代の子育ては大変そうにみえる。そうしたわかりやすい大変さに加えて、実は、美しい街とそこに住まう私たちは、ほとんど無意識のうちに親子に高いハードルを課していて、そのハードルの高さが公共の道徳にかなっていると考えている。公共交通機関のなかで泣く子をあやす母親の申し訳なさそうな素振りや、保育園や児童保護施設の建設に反対する住民の声[11]のうちに、安全で快適な街と、そこで常識や通念になっている私たちの道徳のありかたを考えるヒントがないものだろうか。
 
子どもも親も、この秩序にふさわしい振る舞いを期待され、そこからはみ出すような子どもや親は、医療や福祉、ときには司法をとおして軌道修正されなければならなくなっている。
 
 
【コミュニケーション能力の低い人は求められない国】
 
 
子どもですらこうなのだから、社会人は推して知るべしである。
 
海外渡航するたびに実感させられるが、日本のサービス業のクオリティはほかの先進国よりもずっと高い。もちろん海外でも、高級レストランや高級ホテルに行けば、高度に訓練された従業員のサービスを受けることはできる。だが、コンビニやスーパーのレジ打ち、居酒屋や安ホテルの従業員が提供するサービスを比較すると、日本の水準は際立っている。特別に高い給料をもらっているわけでもないにもかかわらず、日本の庶民向けサービスの従業員はテキパキと効率的に働き、笑顔を絶やさずサービスしている。
 
製造業、運輸業、建設業の従業員にしてもそうだ。きちんと働き、礼儀正しく、盗みや怠勤とも無縁な人々。公務員や銀行員も、権威や立場をかさに威張り散らすようなことはない。医療の世界も例外ではなく、昔は型破りなドクターや威張り散らすドクターがいたものだが、最近の若いドクターは粒ぞろいで、コミュニケーション能力が軒並み高い。
 
日本は、OECDに加盟している先進国のなかでは生産性に劣る国なのだという[12]。実際、一人当たりGDPが日本より高い国はいくらでもある。しかし、これほど粒ぞろいで、これほど愛想良く、これほどコミュニケーション能力のある人々を揃え、ハイクオリティな庶民向けサービスが当たり前になっている国が、他にどれぐらいあるだろうか。
 
匿名掲示板やツイッターにふきだまる恨み節や、精神科で耳にする悩みを聞くにつけても、本当は、テキパキとは働けない人や不愛想な人、コミュニケーション能力が足りない人がいなくなったわけではない。少なくとも私は、そういった不揃いな人々が実在していることを知っている。
 
にもかかわらず、そのような人達が気持ち良く働けるポジションは社会のなかにそれほど多く見当たらない。テキパキしていないほど、不愛想であるほど、コミュニケーション能力が足りないほど、不揃いなほど、活躍の場は制限され、私たちの日常から目につきにくい場所へと追いやられていく。
 
粒ぞろいでコミュニケーション能力が高く、テキパキと働く人々からなる職場──おそらくそのような職場はいわゆるホワイトな職場で、ストレスにも気を遣っている職場でもあろう──に勤めている人々は、このような社会のありかたにあまり疑問を感じないだろうし、自分たちにとって働きやすく、ハイクオリティなサービスの享受しやすい現状をともあれ肯定するだろう。
 
だが、不揃いでコミュニケーション能力が高いとは言えない人々にとって、この社会は働きやすいとは言い難い。そのような人々でも、そこそこの金銭を支払えばハイクオリティなサービスは受けられるから、社会の恩恵を受けていないとは言えない。しかし、まさにその金銭を手に入れるために気持ち良く働けるポジションを社会のなかに見つけようとした時、彼らはどこにどれだけ見つけられるだろうか。
 
昭和時代の日本では、今日ではテキパキと働く人によって占められている仕事の少なくない割合が、もっと不揃いで、もっとコミュニケーション能力の低い人に占められていたと私は記憶している。レストランの従業員、駅員、公務員、そういった職業の人々と彼らが提供するサービスのクオリティには、他の国と同じようなむらがあり、もっと非効率に職場が回っていた。
 
「テキパキとしていない、コミュニケーション能力の低い人でも働けるポジションの広さ」という視点で考えるなら、昭和時代の日本や他の国のほうが、まだしも優しい社会だったと言えるのではないだろうか。
 
大学生の就職活動という、まさに学生が社会人の仲間入りをしていく場面でも、粒ぞろいなクオリティが問われている。というのも、就職活動では誰もが同じリクルートスーツに身を包み、誰もが同じようなエントリーシートを書き、テンプレートどおりの振る舞いを期待されているからだ。実際、経団連による新卒採用のアンケートを確かめてもそれが窺える[13]──働く大人たちから期待され、選考の対象となっているのは、第一に「コミュニケーション能力」であり、「主体性があって」「チャレンジ精神に富み」「協調性があって」「誠実な」新卒者であることを、いまどきの大学生たちは前もって知らされるし、AO入試組は大学入試の段階からそれらを試されている。
 
就職活動やAO入試といった選抜プロセスは、コミュニケーション能力があってハイクオリティで粒ぞろいな人間であることを事実上、これから社会人になる学生に対して強いている。口では多様性を褒め称えてやまないこの社会は、実利の絡む就職という場面では、一律な規格で若者を選別しているのである。
 
こうしたプロセスをとおした学生の選別、そして矯正のプレッシャーは、現代では当たり前のこととみなされているが、たとえば私が記憶している限り、一九八〇~九〇年代の就職活動の風景はここまで画一的ではなかったし、サービスを提供する側もサービスを享受する側も、これほどのクオリティを求めてはいなかったはずである。海外諸都市の風景と比較すると、日本の社会人の働きぶりはやけにハイクオリティで、粒が揃い過ぎている。これもまた、この美しい国ならではの過剰さではないかと私にはうつる。
 
かつて、衆議院議員の山口壮氏が「美しい国」を逆さまに読めば「憎いし苦痛」だと皮肉ったことがある[14]が、実際問題、こうしたハイクオリティで粒ぞろいな要求をクリアできない人々にとって、この「美しい国」は「憎いし苦痛」と言わずにいられないものであろう。まさにそのような恨み節が匿名掲示板やツイッターの裏路地にはふきだまり、精神科というフィールドでも、そうした社会への適応に苦労している人々の声を聞くのである。
 
 
【労働者に期待される能力のハイクオリティ化】
 
 
社会の最前線で働く人々のクオリティが高まれば、高まったクオリティについていけなくなる者が出てくるのは必然である。
 
経団連のアンケートからは社会人に期待される高い要求水準が窺われるが、私にはそれが「美しい国にふさわしいのは優れた人間だけである」と言わんばかりの要求にみえる。
 
一方、ときの首相は「一億総活躍社会」を唱え、どんな人でも活躍できる、いや、活躍しなければならない社会をも提唱している。
 
では、社会から期待される要求に満たない人々は、どこでどうやって活躍すれば良いのか。
 
たとえば工場勤務なら、いわば裏方業務だから大丈夫と考える人がいるかもしれない。携帯ショップや市役所の窓口業務に比べれば、より少ないコミュニケーション能力で務まるのは事実だろう。
 
だが工場勤務ならコミュニケーション能力が全く問われないわけでもない。同じ職場で勤め続けるために、上司や同僚や部下とのコミュニケーションに応じなければならない場面もある。いまどきは雇用の流動性が高まっているため、勤め先が変わる可能性も高い。勤め先を変えるにも、新しい勤め先に適応するにも、しばしばコミュニケーション能力が問われる。コミュニケーションを円滑に進められなければ、工場勤務者といえどもトラブルに見舞われたり不遇をかこつことになりかねない。
 
かりにコミュニケーション能力が問われないとしても、淀みなく働く能力、ひとつの部署で業務に集中し続ける能力、複雑な操作や精密な作業をやってのける能力などは多くの職種で求められるところだ。休み休みしか働けない、業務に集中できない、複雑な操作や精密な作業をやってのけられないとなると、職域はますます狭くなり、ますます活躍できなくなってしまう。
 
実のところ、コミュニケーション能力や淀みなく働く能力といったものは、私生活でも問われるものではある。が、私生活については後に触れることにして、ここではサービス業以外の職域でも、働く者に期待される能力のハイクオリティ化が進んでいることを確認しておく。
 
本人の才能や適性によって選択の余地はあるにせよ、前世紀に比べて高いクオリティが就労者に求められているのはどこも同じだ。社員に生産性の高さを期待すると同時に、むやみに残業させるわけにもいかなくなった時流のなかでは、企業は一定時間内に一定のアウトプットを約束できる人間を、決まった人数だけ雇わなければならない。ホワイトな企業であろうとすればするほど、社員に対して安定したアウトプットを期待せざるを得ない。
 
ハイクオリティ化していく社会についていけない者は、たとえば職場でメンタルヘルスを損なうと、精神医療の場に辿り着いて治療を受ける。治療がうまくいって職場復帰する者、ハローワークを経由して別の職場に辿り着く者も多い。医療と福祉は、働く個人に健康問題が生じた時にその個人を回復させ、仕事への復帰を手助けする役割を担っている。
 
医療と福祉の役割はそれだけに留まらない。いくら復帰を試みても復帰がかなわない人もいれば、より重大な病気によって職域が大きく制限されてしまう人もいる。そのような人々を福祉的就労へと結び付け、活躍できる余地のある場所へと再配置するのも医療や福祉の役割のひとつだ。
 
たとえば障害者雇用や福祉的就労といった制度は、ハイクオリティ化し続ける社会に素のままでは太刀打ちできない事情を持った個人でも活躍できるよう、取り計らってくれる。かつては比較的重い精神疾患の人がこれらの制度の対象となっていたが、最近は、発達障害と診断された人が従事しているケースを見かけるようにもなっている。
 
医療や福祉は、福祉的就労すら困難な人々にも手をさしのべる。しかるべき疾患が診断され、たとえば就労不可能であると判断されるに至った場合には、障害年金制度の対象となる。
 
だから「美しい国」で働く人々をサポートし、「一億総活躍社会」を現実のものにするべく、医療や福祉は大きな貢献をしている。そのことに加えて、人々が障害者への理解を深め、差別や偏見が解消されていくことによって、ますますこの問題は解決に向かっていく。
 
こういった医療や福祉のソリューションが最も効果をあげているケースをひとつ挙げるとしたら、子ども時代のうちに発達障害と診断され、その診断にみあった手当てや教育を受け、その特性にフィットした仕事を見つけ、じゅうぶん配慮された環境で働けるようなケースだろう。こうしたケースは間違いなく当事者の救済になっているし、そこまで満額回答な救済には至らないとしても、医療や福祉の救済はおおむねそのような方向で為されている。
 
だが、このような救済には少なくとも二つの問題点がある。ひとつは、そこで為される救済の方向性は、この、就労者にハイクオリティを求めてやまない社会、誰もが活躍しなければならない社会の基調に回収されてしまうことだ。
 
それが精神障害のようなハンディであれ、あるいはホームレスのような状況であれ、救済は、この社会の基調路線に沿った方向へと為されずにはいられない。つまり、できるだけ経済的に自立した、現代の社会人として望ましい方向へとハンディや状況を変えていくことが、被—救済者には期待されている。実際、医療や福祉の制度にはしばしば「自立支援」という言葉がついてまわるが、裏を返せば、医療や福祉の制度が被—救済者に期待する方向性とは、経済的に自立した個人、それも現代の秩序に妥当するような個人なのであって、そうでない方向性ではない。
 
医療や福祉は確かに人を救う。診断・治療・サポートといった次元では、個人の多様性に寄り添うよう、最善が尽くされていると言っても良いと思う。その一方で、被—救済者が向かうべき方向を、それこそ「自立支援」という言葉に暗に示されるような方向性へと均一化し、正規雇用—障害者雇用—福祉的就労—障害年金からなる「一億総活躍社会」という社会のアドレスのどこかへと再配置する役割を(自覚的にか、それとも無自覚のうちにか)引き受けている。
 



 
『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』第一章(上)はここまでです。<下>に続きます
 
<おことわり>
・これは、版元さんから承諾をいただいて当ブログにアップロードしたものです。
・出版直前のプロトタイプ原稿です。
・行送りや漢数字など、ブログ用に整形してある部分があります。
・オレンジ色の注釈は、ブログ版では略してあります。