シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

良いところも悪いところもあった映画『トラペジウム』

※この文章は映画『トラペジウム』のネタバレを平然と含んでいます。心配な人はブラウザバックしてください※
 


 
前島賢さんがおっしゃるには、映画『トラペジウム』はロールシャッハテストであるという。実際、X(旧twitter)では色々なオタクの人がこの作品について色んなことを言っているのを目にした。そこで私も観に行ってみることにした。噂にたがわず、お客さんは少なかった。
 
「アイドルを目指す主人公が、東西南北(仮)という四人組をつくってアイドルを目指す作品、今流行のギスギスシーン有り」と書いてしまえばありがちに聞こえるかもしれないけれど、なんというか、すごく変わった作品だった。私自身は、面白いと感じた。でも私が面白いと感じたのはこの作品から面白さを汲みあげてやろう・面白くなさもしっかり探してやろうと身構えていたからだと思う。この作品の序盤はそういう身構えた視聴態度に向いていて、つまりアニメをねっとり視聴しようと考える人・ねっとりと視聴したい人は序盤から作品に踏み入っていくことが可能だ。でも、アニメ映画をもっと楽な姿勢で眺めていたいお客さんを作品世界にご案内するようにできているとは言えない気がした。
 
そういう、みずから作品に踏み入っていくことを要求する作風・踏み入っていけば面白味や気配りがみえてくる作風はアニメフリークな人にはたまらない点かもしれないけれども、この作品を広く遠くに流行らせるには問題があるように思えた。
 
 
 
以下、感想というほどまとまっていない、映画『トラペジウム』を観て思ったことを書き残してみる。
なお、これを書く半日ほど前に小島アジコさんらとごちゃごちゃと意見交換し、そこで見聞きした話から影響を受けていると思うので、そういう前提だと思っててください。その小島アジコさんは、映画『トラペジウム』について以下のような投稿をXにしています。
 
私はアジコさんがこう書いていたので not for me だと思ったけれども、映画館で眺めている最中は「いけるいける、面白い」と感じていました。今もそうです。
 
でも、これはどうかな。東西南北(仮)それぞれがみんな違うのも、願望や性格に違いがあるのもまあわかる。でも私は、南の子、西の子について一回きりの視聴ではわかった気がしませんでした。それで良かったのかもしれないし、そういうところも本作品の良さかもしれない。摩擦係数0のツルツルなキャラクターならともかく、実物の人間ってもやもやしていてわからないものじゃないですか。この作品のキャラクターたちには、そのもやもやに通じるものがあり、良かったように思われました。
 
 

人を選ぶ作品なのは間違いない

 
・この作品は、10代の友達関係、そのたわいもなく、脈絡もなく、一緒にワチャワチャやっているだけで楽しい時間の貴重さを思い出させてくれるし、主人公の東は最終的に格好良い大人になった様子だった。ただ、そういう理解に至るまでの道のりが険しい作品だ。ワインでいえば、「高いポテンシャルはあるけれども、最初の一口で初心者から上級者まで魅了するようなワインではなく、渋みと酸味で不慣れな人を狼狽させてしまうワイン」みたいな感じだろうか。
初心者から上級者まで魅了するワインに難しいところがないのと同様に、初心者から上級者まで魅了するアニメも難しいところがなく、楽しみ(の全部とは言わないが多く)はスクリーンの向こう側から勝手にやってきてくれる。でも映画『トラペジウム』はそうじゃないよね。視聴者がスクリーンに楽しみを取りにいかなければならないし、忍耐を強いられたり過去の古傷を思い出したりさせられる場面がある。東の言動は特にそうだ。
 
・序盤は、東がアイドル結成のメンバーを探しに行く場面が続く。一応アイドルものと仄めかされる描写はあるけれども、本当にそうなのかちょっとわからない気持ちになる。アジコさんは「まともな映画のまともなシナリオは最初の5分でどんな映画かテーマがわかるものだが、これはそうじゃない」とおっしゃったけれども、その意味では本作はまともな映画のまともなシナリオから逸脱している。「確かアイドルについての作品だよね?」みたいなことを思い出しながら、手探りで視聴しなければならない一面があった。
じゃあ、それが悪いことだったかといったら、そうとも言えない。この作品は東が自己中心的にアイドルを目指してしまうストーリーが目立つ一方で、東西南北(仮)の四人組が友達として色々なことをやって思い出を作っていくこと、それを通して変わっていくことも大きなウエイトを占めていて、後者が本命だったとさえ言える。だからアイドルっぽさの目立たない序盤の展開は、本当は、この作品の通奏低音を観測しやすいパートでもあるのだけど、初見の段階ではその構図に気づけず、「こいつら、何やってるんだ?」感のほうが強かった。東のノートがアイドルを目指していることを示唆しているのはそうだけど、実際には東がノートで予定していたとおりにはならず、それをどう解釈すべきかが初手ではわからない。繰り返すが、それが悪いことだったかといったら、そうとも言えない。後から思い出すとあれで良かったんじゃないの? とも思える。
 
・なにより主人公の東のくせが強すぎる。あのメンバーのなかで東だけが本当にアイドルを目指したがっていたが、結局それは自己中心的で、東西南北(仮)は崩壊してしまう。Xでは、この東を非常に悪く書いている人もいたが、それは無理からぬことと思う。制作陣はこうなることを覚悟のうえで彼女をああ描いたのだろうし、彼女の成長過程の一部として重要な描写だと思ったけれども、とにかくきつかった。「きつければきついほど良い」みたいなハラペーニョ依存っぽいアニメフリークには受けがいいかもだけど、私はもう少し甘口のほうが好きなので、とても、しんどかったです。
 
 

でも、この作品だからこその魅力・表現はあるよね

 
・そんなこんなで難しい作品だったけれども、いいものを見せてもらった、という感想が残った。アジコさんは、「ハレとケ」という表現を用いて、アイドルというハレの体験に対してケの体験が重要だ、といった表現をしていたけど私も同感だ。私だったらケの体験を「十代の友達同士がただたむろっている体験」とか「戦略性とか抜きに、友達同士でワチャワチャやっていられる体験」って呼ぶだろう。あの四人組の未来を支えるのは東のアイドル戦略に沿った体験ではなく、一緒にできることをただやっていた体験のほうで、それって十代の青春においてめっちゃ大事なエッセンスだったよね、ということを本作品は強く思い出させてくれた。
 
・この視点では、アイドルを目指しているのか不明瞭に見える序盤が、まさにケの体験、十代の青春の一部だったんだなと思い出される。高専のロボット大会準優勝も、夏の花火も、ボランティアも、戦略的にやって戦略的に成功したかどうかは本当は重要ではなかった。そのとき友達同士で一緒に楽しんでいたことのほうが重要だった──そのようにこの作品は描かれている。でもって、それはアイドルを目指す過程もそうだったのかもしれない。テレビ番組に備えて自主練をやっていた頃、東だけでなく他の三人もキラキラと輝いていた。つまり自主練をやっていた頃の東西南北(仮)は(東の戦略にとってそれがどうだったのかは別にして)ケの体験の領域に属していて、十代の青春をちゃんとやっていたのだった。ところが大人の領域に進出するなかで東の戦略性の有害性があらわになるようになり、ついに東西南北(仮)は壊れてしまう。
 
・私は、東西南北(仮)のみんなは「ちゃんと壊れてくれた」と思った。壊れるまでのプロセスは見ていていやな気持ちでいっぱいだったが、全員壊れてくれたこと自体にはホッとした。西の子が最初に壊れた。無理してたから。北の子も彼氏の問題が露見し、南の子もちゃんとギブアップしてくれた。南の子は流れに身を任せるのが得意な人っぽかったが、それが出来過ぎるのも考え物だ。でも友達が壊れていくなかで彼女自身もちゃんと壊れることができていた。壊れるべき状況下で壊れるのは、とても大切なことだと思う。10代だったら尚更だ。
東だってちゃんと壊れていた。あの東西南北(仮)が終わってしまう場面の彼女の振る舞いは、単なる自己中心的な行動のそれを超えていて、タガが外れていた。でも彼女は自分が友達にやったことを振り返ることができるぐらいにはマトモで、ベランダではきっちり泣いていた。あのベランダのシーンの直前、母親(?)から「良いところも悪いところもある」と言われていたシーンが私のお気に入りだ。作中の東、ひいてはこの作品を表現する言葉として「良いところも悪いところもある」という言葉ほど似合うものはないし、あの時の東にはその一言が必要だった。もし、東が自分が友達にやったことから逃げ続け、自己欺瞞を貫こうとしていたら自己欺瞞に食われていたかもしれない。
 
・東はいつもアイドルのことを考えている。そのせいで、東は友達同士の時間を作る側でなく削る側……と、思い込んでしまいそうになる。でも、そうとも言い切れない。アイドル活動だってある時期までは「一緒にできることをただやっている体験」のひとつとして東以外には体験されていたんじゃなかっただろうか。もしそうだとしたら、東が持ってきたアイドル活動は北の子が持ってきたボランティア活動や西の子が巻き込んだ高専ロボット大会と(ある時期までは)並置されるべきことだったのかもしれない。あと、アイドル以外の活動をやっている時の東の顔って、はじめは曇っていてもだんだん良い顔になっていくんですよね。東のそういう性質はとても良かったと思う。
視聴者の視点から見ると東の自己中心性やアイドル活動の厳しさが意識されるけれども、西の子は西の子で、北の子は北の子で、それぞれのやりたいことを友達に付き合ってもらっていた。高専ロボット大会で準優勝ってのは巧いところで、「もし、あの時優勝していて西の子中心の物語に向かっていたら」というifを連想させる。その際には、それぞれの立場が入れ替わっていたかもしれない。
 
・ボランティア活動の話の時に、北の子が「ボランティア仲間じゃなくて友達って言ってよ」的なことを言って怒っていたのが、すごく効いていると思った。この作品、そうやって友達同士でワチャワチャやっている時間が大事なんだってサインはちゃんと視聴者に送ってくれているわけだ。この台詞は、その後アイドル活動に飲まれていって生気と正気を失っていく彼女たちの姿と一貫性があり、納得感がある。これと正反対の台詞が、東が北の子にぶつけた「彼氏がいるなら友達にならなければ良かった」だ。これは北の子にとって耐え難い一言だったはずで、転じて、「アイドル目当てで付き合っているなら友達にならなければ良かった」というかたちで東自身に跳ね返ってくる呪いの一言でもあった。
繰り返しになるが、このあたりの東の言動は見ていて本当に辛かった。東自身も呪いに焼かれ、反省もし、そののち、仲間たちと一緒に成長する。大きな過ちがチャラになり得るのも10代の友達同士だからこそ*1だとも言える。ラストの描写もいいだろう。でも、そうした色々を許せるのは、私にとってかなりぎりぎりのことで、私自身が「一緒にできることをただやっている体験」や「ケの時間」を高校時代に積み重ねてきたと感じていることに支えられている。もし、私がそうでなかったら東に対して堪忍袋の緒が切れていたかもしれない。
冒頭に貼り付けた前島賢さんのXのポストを思い出す。東西南北(仮)が破綻を迎えるシーンでは、強烈なエモーションが喚起される。あの、客観的になりきりにくい時間帯に自分自身の高校時代や友達関係を思い出さずに視聴し続けるのは至難の業だから、そこが本作品の感想に直結するのは避けがたい。
 
・そうである以上、まだ10代を経験しきっていない現在の中高生が本作品をどのように受け取るのかは興味があるけれども、10代の人がこのアニメに吸い寄せられるかは、正直よくわからない。
 
 
はじめは2000字ぐらいにまとめようと思っていたけれども、書き連ねるうちにこんな長さになってしまった。それは私なりにこの作品にエモーションを掻き立てられ、青春の一幕を思い出したからなんだろうけれど、それだけで言い切った気にはまったくなれないし、なぜこのような映画が眼前に現れたのかも正直よくわからない。そういうよくわからないアニメ映画を鑑賞できたことは、とても良かったと思っています。
 
 

*1:大人の間であれが起こったら許しがたいだろうし、そもそも大人の間で本作の物語のような出来事は、本作で語られるようなかたちでは起こらない

「ひきこもり」は現在も増え続けているのか?

 
最近、忙しくてブログがなかなか書けないなか、面白そうな話題がTLを駆け抜けていった。togetterに、それがまとめられている。
 
togetter.com
 
「昔の方が暴力が横溢していたのに、なぜ今になって不登校やひきこもりが増えているのか」について、いろんな人がいろんな意見を述べている。不登校、というのも意外に新しい概念で、昔は登校拒否という言葉が使われていて、それ以前には、農業手伝いなどの理由で親が子どもに学校に通わせない、なんてこともあった。昭和の終わりになっても、田植えや稲刈りの時期になると学校を抜けて家業を手伝うクラスメートがいたものである。もちろん、今日の不登校においては農業手伝いのために学校に行かない・行けないという事情は滅多になくなっているだろうけれども。
 
で、不登校については、増加し続けている。少しネット検索してもらえれば右肩上がりのグラフにいくらでも出会うはずだ。コロナ禍をとおして数字が跳ね上がっている点も含め、不登校の実数は増え続けている様子がうかがえる。
 
では、ひきこもりも増え続けているのだろうか?
私はひきこもりが本当に増えているのかどうか、2010年代から気にし続けてきたが、あまりよくわからずにいた。現在でもよくわからない。コロナ禍は、たぶんひきこもりを増やしたんじゃないか、と漫然と思う一方、日本社会の個人主義化や親の経済力の衰退がひきこもりという状態の維持を難しくしているのではないかとも思う。、また、特別支援教育や精神医療による支援によってひきこもりとは異なる状態へとガイドされるおかげで、少なくともひきこもりにはならない一群もあるのではないか、等々、ひきこもりを増減させそうな社会変化がいろいろ思い付くからだ。
 
少子高齢化もひきこもりの実数を変化させそうではある。ひきこもりは、不登校のように少子化が進んでいてもなお若年層において増え続けているのだろうか? それとも少子化が進むなかで若年層においては増え止まっているのだろうか。
 
これについて検索すると、NHKが内閣府の調査を報じている記事が引っかかった。
 
www3.nhk.or.jp
 
この報道では、ひきこもりになった理由としてコロナ禍の影響がかなり大きいことが挙げられていて、調査からはひきこもりの実数は146万人、女性にも広がっているといったことが書かれていた。興味深いのは、4年前の調査と比べて中年のひきこもりの女性比が大幅に増えている点である。
 

このうち性別では、4年前に公表された40歳から64歳までの調査では男性が4分の3以上を占めていましたが、今回の調査では、同じ40歳から64歳まででは、女性が52.3%と半数を上回り、15歳から39歳でも45.1%となっていました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230331/k10014025851000.html

なに、これ。
私はこれを見てまず、ちょっとおかしいんじゃないかと思った。中年以降のひきこもりの女性比率が四分の一以下から半数以上にひっくり返るなんてことが本当にあり得るだろうか? このことについて、同報道には
 

また、男性だけでなく、女性にも「ひきこもり」の問題が広がっていることについて「日本の伝統的な価値観の中で、女性は夢や希望を追い求めようとしても、家事や育児などで男性よりも高いハードルを課せられて、諦めてきた人が多くいる。そうした人たちが自分の状況を認識し、存在が顕在化してきたのではないか」という認識を示しました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230331/k10014025851000.html

という見解が書いてあったりするけれども、私はそうは思わなかった。かりにそうだったとしても、たった4年でこれだけ比率がひっくり返るほど考えが変わるのは何かが変だ。4年前の調査と比べて女性のひきこもりが多く見つかるようになったのは事実としても、たった4年で男女比が大きく変わるほど自己認識が変わるのは、おかしいと思う。
 
そう思って内閣府の調査を確認したら、これじゃないかと思うものがあった。
 
それは「調査方法」だ。
新しいほうの調査、令和4年の調査はインターネットや郵送物を利用して調査しているのに対し、平成30年の調査は民間調査会社の調査員が調査対象となった人の家に直接訪問して調査票を渡し、後日、それを回収するために再訪問するという方式を採っている。これは、無視できない違いじゃないだろうか。
 
男性ひきこもりの家に調査員が訪問した時、それをひきこもりではないと答えるのはかなり難しい。日本社会では、男性が家にずっといるのをひきこもりと呼ぶ以外の呼び方は少なそうだ。しかし女性はこの限りではなく、調査員を前にして世間体を気にする人は、当該女性をひきこもりと呼ばないよう言い逃れる余地はあっただろう。世間体を気にする場合、調査員が訪問した時にそのような言い逃れの誘惑にどこまで抵抗できただろうか。
  
いっぽう、令和4年の調査は家に調査員が訪問することがないから、世間体というバイアスがかからない。世間体からフリーであるぶん、調査員を介さない調査のほうがかえって実数に近づける部分もあるだろう。いずれにせよ、平成27/30年の調査の集計結果と令和4年の集計結果は調査方法に違いがあり、調査を受ける人々が世間体バイアスに曝される程度が異なっているから、これらの調査を比較してひきこもりの実数の増減を論じること、ひいては男女比の変化の程度を論じることは、けっこう難しいんじゃないだろうか。
 
 

調査方法と定義の変わるものの実態を追いかけるのは難しい

 
実は平成27年と平成30年の調査も、前者は「専業主婦・専業主夫・家事手伝いなどを自称する人はひきこもりから除外」という調査方法だったのが、後者はそれも除外しない調査方法になっていて、後者のほうがひきこもりに該当する人が増えるような調査になっている。いじめや虐待の統計もそうだが、こうした社会問題の調査ではしばしば、後の時代になればなるほど該当者の範囲が広がるような調査がなされがちで、従って後の時代ほど実数が多く抽出されやすくなる。
 
加えて、さきほど書いたように世間体のようなバイアスがどれだけかかるのかが調査方法によって異なっている場合がある。インターネットユースについての調査、流行の調査なども、こうした調査方法による「揺れ」の影響は本当は意識されなければならない。実数やパーセンテージの違いに加えて、調査方法の違いを比較することで、見えてくることがあるだろうし、逆に「これじゃ比較できないな」とあきらめなければならないこともあるだろう。
 
そうしたわけで、今回も私は「ひきこもりは増えているのかそうでもないのかは、なんだかよくわからないなぁ」という印象を得た。いつも調査方法が同一で、(ひきこもりにせよいじめにせよ)定義も同一なら、こうしたわからなさは回避できるのだけど、社会問題の調査では、それがしばしば難しいようにみえる。じゃあ、アップデートするな、と言い切ってしまっていいものだろうか。わからない。アップデートしなければならない事情はいろいろあるように思える。法務省の犯罪白書などに比べてグラグラとした統計を眺めながら、あれこれ想像せざるを得ないのは仕方のないことなのかもしれない。
 
そうしたわけで、「ひきこもり」が現在も増え続けているのか、それとも増え止まっているのか、については今回もわかりませんでした。もしわかる資料があったら教えていただきたいし、わからないものだとしたら、後世の歴史家はこの現状をどう分析するのだろう?
 
 

年を取って、不健康な食事でターボがかかるようになってしまった

 

 
「年を取るにつれて、自分の健康を気にかけるようになる」、とよく言われる。実際、20~30代の頃には健康だった人が、40~50代と年を取るにつれて高血圧や高コレステロール血症と診断されてにわかに健康リスクを気にしはじめるのはあるあるだし、「改心」してフィットネスジムに通って質素な食生活を心がける人も多い。
 
でも、この年になってきて逆に思うこともある。今、この瞬間だけ自分自身をブーストしたいと思った時、つい不健康な食事をとりたくなってしまいませんか? 不健康をおして血圧をあげたい・血糖値をあげたいと思う瞬間があったりしないだろうか。
 
私自身の身体の挙動を振り返る。
若かった頃よりも血糖値や血圧に「あそび」がなくなっているのか、血糖値をあげてしまいそうなものを食べると、パワーアップするように感じる。長時間のデスクワークにも弱くなり、夜まで続けていると頭が痛くなったり血圧が高くなったりしてしまう。アラフィフのこの身体は、自分自身のホメオスタシスを維持する力が若い頃に比べて劣っていて、血圧や血糖値が昔よりもグラグラしやすくなっている。だから中年になったら働き方も食生活も気を付けなければならないのだと、肌で感じられるようになった。
 
 

でも、ご飯がおいしくて困ってしまう。

 
ところが、いや、そういうホメオスタシスゆるゆる状態だからかだろう、最近、血糖値や血圧のあがる食事が「効く」気がしてしまうのだ。
 
塩分も糖質も控えめな健康的な食事でなく、ラーメンやチョコレートを食べると、自分の動きにブーストがかかる。モンスターエナジーやレッドブルのようなエナジードリンクもてきめんに効く。「パワーランチ」なんて言葉があるけれど、実際、パワーランチ的なものを食べると瞬間的に自分自身にターボがかかる。身体をターボ過給する食べ物として塩分過多・糖質過多な食べ物が効くようになってしまった気がしてならない。
 
それと関連してだろうか、若かった頃と比べて白米のご飯がおいしく感じられるようになった。
 
子ども時代、私は白米が苦手で、ふりかけがなければ食べられない子どもだった。それか、おかずを使ってなんとか白米を食べてしまうか。20~30代も基本は同じだった。白米はそれほど好きじゃなく、仕方なく食べるものだった。
 
それが今では、白米こそ食事の王様だと感じている。おかずに白米が寄り添っているのでなく、白米におかずが寄り添っている──ごはんが本当の意味で主食になった。その気になれば、少ないおかずで白米を腹いっぱい食べることだってできるだろう。
 
実際には白米を腹いっぱい食べることはない。腹八分目であるべきだし、糖質過多を避けるために白米を減らし、野菜などの割合を増やすのが望ましいから。白米なんて小さめの茶碗一杯ぐらい食べればそれでいいだろう。それで30代の頃からやってきたではないか。
 
だというのに、ここ数年、白米がどんどんおいしく感じられるようになったせいで、我慢する必要のなかった白米を、我慢して制限しなければならなくなった。せっかく白米が美味いと思えるようになったのに、好き放題に食べられないなんて!
 
塩気の多い食べ物、甘い食べ物などもそうだ。どれもおいしいし、それらはまさにパワーの源になる。虎屋のようかんは、私の身体にとってカーレースゲームに出てくる「ニトロ」も同然だ。
 

 
でも、自分の身体をターボ過給するということは血管や臓器に負荷をかけ、瞬間的な出力を稼いでいるということでもあるから、長期的な健康を考えるなら、やはり控えるべきだろう。
 
世の中には、健康的ではない食生活をしている中年や高齢者がいることを私は知っている。でも、その理由を私は知識不足のせいだと思っていたが、こうして白米がおいしくなり、ラーメンや甘味がターボ過給のように効くと感じてからは「ひょっとして中年や高齢者のなかには、このチャージの効果が欲しくて、やめられない人もいるんじゃないか」と思うようになった。知識や啓蒙の問題だけでなく、それらのおいしさに魅了されてやっている人もいるんじゃないか。
 
なかには、そうした不健康な食事をしてでも自分自身をターボ過給し働かなければならない人もいるかもしれない。年齢に比して激しい労働をこなすために、やむなくパワーランチで自分の身体をターボ過給し続けるのは、自分自身の血管や臓器に負担をかけながら働いているようなものだ。しかし、そのような労働、そのような現場が日本社会からなくなったようには見えない。
 
 

ジレンマに直面しながら、それでも生きていく

 
そうしたわけで、年を取っても不健康な食事を摂る人、摂らざるを得ない人は後を絶たない。以前よりもおいしくなった白米を我慢するのはジレンマもいいところだし、健康を気にしなければならない年齢になればなるほど食べ物がおいしくなり、塩分過多や糖質過多が「効く」ようになっていくとしたら、人間をつくった造物主は意地悪なものだな、と思わずにいられない。
 
いやいや、これはこれで造物主は人間をうまくつくったつもりなのかもしれない。七つの大罪のひとつである「暴食」を犯す者は、そのせいで健康を害してしまい、寿命も短くなる。「暴食」を司る悪魔はベブゼブブだったか。ベブゼブブにやられたくなければ、ちゃんと節制しなさいよというわけですね。でも、ここぞという時の不健康な食事には(この身体にとって)悪魔的な魅力がある。普段は節制しておいて、月に二、三度ぐらいは楽しめる状態を維持しておきたい。
 
 

「一か月名医」「一年名医」「十年名医」

※この文章は「シロクマの屑籠有料記事」に当てはまります。※
 
 
名医、とはなんでしょうか。また、not 名医とはなんでしょうか。
 
いろんな定義や答え方があるでしょう。「後医は名医」という言葉もあります。「後医は名医」とは、誰かが既に診た患者さんを後から別の医者が診た場合、後攻の医者のほうが情報量が多いため、治療がうまくいきやすいさまを指した言葉です。この「後医は名医」をはじめ、名医の定義は状況によってかなり左右されます。定義を左右する重要な要素のひとつが、医者が患者さんを診る期間、いわゆる治療期間です。
 
たとえば「一日だけ名医として振舞う」ことを想像してみてください。
 
患者さんを診るのが一回きりで、後のことは一切考えなくても良いとするなら、発熱で悩んでいる患者さんには消炎鎮痛剤を、せきで困っている患者さんには鎮咳薬を処方すれば、感謝されるでしょう。さらに、患者さんからリクエストされた薬を言いなりに処方すると、大層喜ばれるかもしれません。
 
「一日だけ名医」をやるだけなら、症状の背景にどんな病気が潜んでいるのか、体内でどんなことが起こっているのか、考えなくても済みます。もっともっと無責任なことだってできちゃうかもしれません。もちろん、まともな医者なら後々になって患者さんが困るようなことは控えると思いますが。
 
続いて「一週間名医」を想像してみましょう。ただ熱を下げる、鎮咳薬を処方するだけではそろそろダメです。血液検査所見などをとおして細菌感染症も含めた原因疾患をちゃんと考えなければならないでしょう。テキトーに抗生物質を処方するのもまずいと言えます。病態把握のための検査、内服薬や点滴の適切な管理*1、まともな治療ガイドラインに基づいたまともな診療、等々が欠如していては一週間誤魔化すのも難しいのではないでしょうか。
 
こんな具合に、一か月、一年、十年と治療期間を長くみていくと、うまくやれるための条件が変わるよう思われるのです。医師免許を持った人なら、「名医とは、まともな治療ガイドラインを履行する者のことである」で言い切った気持ちになれるかもしれませんが、さて、患者さんの側からみたら、本当にそれだけでしょうか。また、治療期間が一か月や一年ではなく、年余にわたる疾患を診るにあたって、治療ガイドラインの外側に名医たる要件があったりするでしょうか。
 
少なくとも精神科医をやっている私としては、精神科においてうまくやっていくために努めなければならないことは治療ガイドラインの文言の外にもある、としばしば思うのです。精神科は、命に直結した身体疾患を扱う科に比べて患者さんと長い付き合いになりやすく、それだけに「短期的にうまくやる」のと「長期的にうまくやる」のでは色々と違いがある科ではないか、と思ったりします。そしてベンゾジアゼピン系抗不安薬のような、少なくとも短期的には非常に広い範囲の症状を緩和する薬が存在する点、中井久夫のおっしゃった「飲み心地の悪い薬」が少なくない点も特徴かもしれません。以下、需要はあまりないでしょうけど、精神科における「一週間名医」「一年名医」「十年名医」についてゴチャゴチャ書いてみました。
 
 

*1:全身管理の技能も含む

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井芹仁菜と後藤ひとりという"野生動物"

 


 
X(旧twitter)のタイムラインを眺めていて、バンドをやっててロックというキーワードの出てくる二人の主人公についてあれこれ言っているのが聞こえて、思ったことを30分一本勝負にて。
 
「ロックとは何か」というややこしそうな話題はさておき、『ガールズバンドクライ』の井芹仁菜と『ぼっち・ざ・ろっく!』の後藤ひとりはどちらも、なんだかヒリヒリしていて、社会適応が上手とは言えない主人公なのは共通していますよね。
  
その姿をみていると、私みたいな人間は、「ああ、二人とも現代社会に馴致されづらい、なんだか野生動物みたいな主人公だなぁ」と思ってしまうのです。
 
ホモ・サピエンス、とりわけ現代社会を生きるホモ・サピエンスにとって重要な脳内物質はセロトニンです。セロトニンの作用があれば、より穏やかでより協力的で、より落ち着いた生活が可能になります。ストレスを軽減させる・不安や抑うつを改善させる点でも、セロトニンの作用は重要です。ホモ・サピエンスは、自己家畜化と呼ばれる進化の過程をとおしてこのセロトニンが増え、より穏やかで協力的で落ち着いた性質に変わっていったと考えられており、これがなかったら現代の都市生活に耐えられなかったでしょう。
 
でも、それはホモ・サピエンスという種全体の話。当然、個人差があります。現代社会にもセロトニンの作用が不十分な人、足りてない人がいるわけです。『ガールズバンドクライ』と『ぼっち・ざ・ろっく!』の主人公は、どちらもその足りてない人っぽさがあるのです。
 
たとえば後藤ひとりは、以前にも書いたように社交不安症によく似た性質を持っていました。あの性質を見ていると、「後藤ひとりにSSRI(セロトニンの作用を増す抗うつ薬の一種)を飲んでもらったら色々改善するんじゃないか」などとつい想像してしまいます。
 
同じく井芹仁菜も、セロトニンが少なそうですね。なんだか攻撃的で、協調性に欠けていて、イライラしていて、激しやすい。じゃじゃ馬、という言葉がありましたが、彼女もじゃじゃ馬ではないでしょうか。自己家畜化のロジックに基づいて考えても、作中描写から考えても、彼女はセロトニンの作用が足りなそうであると同時に、副腎から分泌されるアドレナリンやコルチゾールといったストレスホルモンが多いんじゃないでしょうか。芯の強いところがある一方で、案外、うつ病になりやすい傾向もあるかもしれません。
 
だから二人の共通点を(進化生物学の)自己家畜化のロジックで眺めると、「二人ともセロトニンの作用が弱そう」「二人ともストレスホルモンが多そう」になり、「二人ともストレスを司る体内の調節軸*1が家畜っぽくない。野生みがある」といった風に想像したくなるのですよ。
 
そうかあ、ロックな世界で活躍するキャラクターって、現代社会に馴致されやすい家畜みのある人間でなく、じゃじゃ馬めいた野生動物みのある人間なのかぁ、という思いがします。ロックとはセロトニンの不足なり?……いやいや。
 
ここに書いたことは、『ガールズバンドクライ』や『ぼっち・ざ・ろっく!』を楽しむ際に必要な着眼点だとは思いません。が、『人間はどこまで家畜か』という書籍を書いている私には、そんな風にあの二人のことを考えてしまう瞬間があるのですよ。
 
 

でも、二人は同じってわけでもない

 
それでいて、あの二人って対照的でもありますよね。
 
後藤ひとりの尖り具合って、承認欲求モンスターで、コツコツとギターの練習をし続けることができるあたりにありそうですが、井芹仁菜の尖り具合は(今のところ)そんな風に描かれてはいません。「内向きに爆発する後藤ひとりと外向きに爆発する井芹仁菜」、みたいなことも思いつきます。
 
家族、という視点で見ても違います。後藤ひとり、ひいては結束バンドのメンバーには家族とぶつかっている様子・家族に対する抵抗としてバンドをやっている感じがなくて、むしろ家族がバンドを応援しているまであります。ところがトゲトゲはそうじゃなく、特に井芹仁菜は家庭とバンドがぶつかっていて、その葛藤がバンドの活動や彼女自身の尖り具合に結びついている感じがあるじゃないですか。
 
だからセロトニンが足りないっぽい点は共通していても、それぞれを囲む環境も、それぞれの尖り方も違っていて、違っているから見比べると面白いですね。
 
『ガールズバンドクライ』は単体でもまったく楽しめる作品で、毎週、どんなことになるのかハラハラしながら視聴していますが、似て非なる作品として『ぼっち・ざ・ろっく!』も思い出しておくと、色々と気付きがあって面白いかなぁと思っています。
 
 

*1:HPA系、HPA軸とも