私は年を取るという出来事に執着のある人間なので、年の取り方について書かれた本には手が伸びる。で、心理学者の東畑先生が『ミドル・エイジ・ビギンズ』という本を出してらっしゃるのを見つけて、読んでみることにした。
東畑先生とは職業も年齢もライフスタイルも違うので、『ミドル・エイジ・ビギンズ』は私自身の参考にはならない。しかし、書籍のタイトルにあるように、これから中年を迎える人、私とは異なる境遇にある人には有益で、面白い本だと感じた。まずはそこを紹介したい。
そのうえで、私自身が『ミドル・エイジ・ビギンズ』を読んで考えたり感じたりしたことも後半に付け加える。
東畑先生の魅力全開の中年ビギンズ本
『ミドル・エイジ・ビギンズ』は、東畑先生が講談社現代新書から『カウンセリングとは何か 変化するということ (講談社現代新書)』 を出版された後に感じた中年の気配や行き詰まり的感覚が企画化された書籍、だと思う。内容のかなりの部分はインタビューによって占められ、これが例に漏れず面白い。東畑先生としては、多様であろう中年期の様相を掬い上げるような意識のもとでスタートしたインタビューとあるが、落着点は必ずしもそうではない恰好になっている。そのこと自体もひとつの読みどころだと思うので、これから読んでみる人はそこに目を向けて読んでみても楽しいかもしれない。
2026年現在、東畑先生は四十代前半で、臨床心理士(公認心理師でもある)かつ心理学者だ。河合隼雄の系譜を継ぎ、ユング派精神分析がご専門だったと私は記憶している。いっぽう私は五十代の精神科医で、E.エリクソンのライフサイクル論にかぶれている*1から、中年危機とか中年という事態に対する見方もどこか違っているだろう。
その期待どおり、本書にはユングや河合隼雄に関する事柄も登場する。その一節一節を私は噛みしめるように読んだ。
……強みを生かすことは楽しくても、弱みと向き合うのはしんどい。それでも、そのようにして影だった自分を開拓し、生き方に取り入れていくことは人生を豊かにしてくれると、ユングは考えます。「なりたい自分になる」のではなく、「なりたくなかった自分も含めて引き受ける」のが、ユング的な「自己実現」です。
暗いものに直面することで豊かになる。「影を生きる物語」のこの逆説を、ユング派分析家である河合隼雄は次のように記しています。
"中年とは壮年だ。そんな暗い話はまったく話にならない、という人もあるだろう。それも結構だが、せっかくこの世に生まれてきて春だけ楽しむのも、もったいない話である。春夏秋冬をすべて味わうほうが面白いのではなかろうか。"
人生の前半に価値をもたなかったものが、後半には価値をもってくる。春の喜びや夏の暑さだけで人生はできていなくて、秋の悲しさや冬の寒さにもまた人生の価値がある。「影を生きる物語」はまさに夕暮れの心理学です。心は光だけではなく、闇も十分に生きることを求めているということです。
東畑開人『ミドル・エイジ・ビギンズ』より
こことか、めちゃくちゃいいよね……。
なりたくなかった自分・否定してきた自分を受け入れ、自分自身の生き方にちゃんと取り入れていくのは簡単じゃない。自分の人生のなかで置き去りにされた側面や影を見て見ぬふりをしたまま三十代や四十代まで生きる人はそこらじゅうにいるだろう。中年危機について詳しいダニエル・レビンソンという心理学者は、「ある年頃の課題をスルーしてもとりあえず先に進むことはできる。けれども、そうするともっと先の年頃における課題の難易度が高くなる」みたいなことを著書*2で書いている。中年期まで課題を後回しにし、はたと直面すれば、それは高難易度の課題に、いかにも危機という言葉がふさわしい中年危機になり得るだろう。
たとえば若さをアイデンティティの一部としてきた人が、年とともに訪れる老化をごまかし、20代と同じように生き続けることは30代のうちはそんなに難しくないかもしれない。が、40代になればそうするためのコストは高くつくようになるし、他人に対しても自分自身に対しても老化を糊塗するのは難しくなる。30代のうちに老化と折り合うならソフトランディングはそう難しくないが、40代まで自分自身の老化を見て見ぬふりをし、はたと直面するならギャップもショックも大きくなる。そうした場合、傍目には「どうしてこの人はいきなり自分の年齢にショックを受けたのかわけがわからない」けれども当人自身にとっては中年危機ど真ん中……みたいなことが、稀によくあったりする。
しかし、歳月の進行をそう悲観ばかりするものでもないと思う。河合隼雄&東畑先生がおっしゃるように、人生には秋や冬もあるし、暗いもの、なりたくなかったものを引き受けることで豊かになれる一面もある。思春期青年期と比べて中年期は喪失や翳りが視界に入ってくる時期だから、こうしたユング的な考え方を前向きにとらえていくことには重要な価値があると私も思う。そしてこういう価値を論じるにあたり、私が愛顧してやまないE.エリクソンはそこまでたくさんの言葉を持ってはいない気もする。
東畑先生もおっしゃっているように、E.エリクソンのライフサイクル論には「発達課題がこなせなければ停滞するゾ」みたいなきつい部分&ワンパターン的な部分があるのは否めない。これから中年期に入っていく人にはともかく、中年危機の渦中にある人が読んでも嬉しくないように思う。また、多様なライフコースのなかで中年期という事態に悩みや惑いがある人にも、たぶん、東畑先生の言葉のほうが染み入るのではないかと思う。
そうしたうえで、この本は読み心地が良い。
読み心地が良い理由は、東畑先生の文章に色気があるからだろう、と私は思っている。
鷲田:やっぱり僕、文章には色気がないといけないと思ってて。どんなハードなことを書こうが、色気のある文章って、人間の生き方とか存在そのものを伝えてくるじゃないですか。人の心をざわざわさせたり、あるいはしっとりと触れてくるところがある。そういう文章を書きたいなとは思うけど。なかなか最後まで、それはできないと思う。
東畑開人『ミドル・エイジ・ビギンズ』より
世の中には、色気のある文章とない文章がある。同じ内容が書いてあっても前者のほうが多くの人の胸に刺さり、または人の懐にスッと忍び込む。東畑先生におかれては、学者であり臨床家でもありつつ色気のある文章まで書けるのは反則級だと思うが、とにかく、『ミドル・エイジ・ビギンズ』においてもその文章の色気は健在だ。そういう刺さりやすさや読みやすさも長所だと思うので、書店で手に取ってみて、いいなと思ったら買ってみるって判断でもいいと思う。
私の感想1:「まだまだこれからじゃないですか?」
そのうえで、私個人の感想を書いてみたい。
私が本書を手に取った理由の第一は、さきほど挙げたユング派的な中年危機の受け取り方を知りたかったためだ。その願いは果たせられたと思う。それからもうひとつは、東畑先生の中年危機の(2026年現在の)受け止め方や眺め方と、自分自身のそれとを見比べてみたかったためだ。
ちょうど私も、東畑先生ぐらいの年齢の時にエイジングについて一冊の本を出している。
タイトルもサブタイトルもE.エリクソン派っぽいし、なおかつ、すごく私っぽい本だなーと思う。こちらの本は中年危機を気にしている人向けではなく、これから上手に年を取っていきたい人・若者と呼ばれる年頃の次のステージを覗いてみたい人向けに書いた本だ。というより、この本の正体は自分より年下の編集者の方に「若者のネクストステージには、こんないいことがあるんだよ」みたいなことをおしゃべりする感覚で書かれた本で、中年危機にフォーカスしているものではない。
43歳当時の私は、中年という年頃が後戻りややり直しができない季節であることは意識していたけれども、そこで発見した若者時代には無かった面白さや強みに魅了され、どうやってそれをこの局面を生かしていくのかを考えるのに忙しかった。ブロガーや作家として自分が本当に追いかけるべき目標も、この段階ではまだ視界には入っていない。しいて言えば、この頃は講談社現代新書から出版していただいたのに『ミドル・エイジ・ビギンズ』よりずっと小さなセールスに終わってしまった『「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)』の雪辱戦をやりたい、ぐらいの意識しか持ち合わせていなかった。
私がようやく「もしかしたら中年危機かも?」と思い始めたのは2020年代、40代後半になってからだった。この頃の私は「これ以上、本気で本を作ることはできない」と感じていたし、自分自身の身体的衰えに愕然としていた。筋トレやランニングなどで筋力は向上しているくらいなのに、隠しきれない衰えがあると感じていた。それはきっと内分泌学的な出来事なのだろう。更年期という言葉があるが、いよいよ自分の身体が老人のそれに変わりつつあるさまを、肌から、内臓から、神経から自覚していた。
でも、そこから何かが一皮むけて、私は2024年に三冊の本を同時に出していただいた。だから私は、
この本を書き終えてみたら案外「もう終わったな」みたいな気持ちになっているんです。二十年考えていると、それが正しいかどうかは別にして、僕なりの答えが出る。すると、考えたいことって、無限にあるわけではないのだなと最近思っていました。
東畑開人『ミドル・エイジ・ビギンズ』より
と東畑先生が書いてらっしゃる箇所に、「東畑先生は、あと五年以内にまた波動砲を撃つよ」とラクガキをした。どういう形かはわからないけれども、東畑先生はきっとまた波動砲を撃つ。そうに決まっていると思う。もちろんそれは四十代前半の頃とは違った何かだろう。でも、きっと何かが溜まってきて、きっと何かが起こるに違いない。『ミドル・エイジ・ビギンズ』を読み終わっても、その感想は変わらなかった。だって、東畑先生の中年期はまだまだこれからですもの。
私の感想2:「いつごろ、『中年』をやめて『老人』を始めるか」
そのうえで五十代になってしまった現在の我が身を振り返る。時間がない。それは仕方のないことだ。生物学的にはっきりと衰えはじめた自分自身を、知識の蓄積や社会的状況によってカバーできる年数はあとどれぐらいだろうか?
自分自身の継戦能力の見積もり方は、人によってまちまちだろう。私はせっかちで臆病なので、残り時間はあと数年程度と思ってかかることにしている。今ぐらいのペースであと数年、自分のすべきことに取り組んだら自分自身に見切りをつけ、働き方も生き方も書き方も変えていかなければならない:そんなことを去年からずっと考えている。そのかわり、今は今しかできないことを精一杯やって、悔いの残らないように努めたい。
私には、ずっと青年期を続ける境遇、いくらかアンソニー・ギデンズっぽい言い方を言えば「再帰的青年期」とでもいうべき境遇が生物としてのことわりに反しているようにしか思えない。同じく、バウマンのいう「リキッドライフ」なんてくそくらえだとも思う*3。生涯現役でなければならない。青年期のように生きなければならない──そうした社会からの要請は理解できるけれども、私の顔貌、私の身体機能、私の精神や価値観はどう見ても青年期のそれではない。こんな私も、いや、私より年上の人々すらも青年期的な境遇に引き寄せて離さない社会・時代がここにあるとしたら、それは、批判されなければならないと今は思う。
と同時に、私はせっかちで臆病な人間だから、河合先生のいう秋の悲しさや冬の寒さに、尻込みしながら引きずり込まれるより、前を向いて突撃したほうが好ましいんじゃないか、みたいな計算を始めてもいる。かつての『「若者」をやめて「大人」を始める』の時と同じように、今度は『「中年」をやめて「老人」を始める』感じだ。
レビンソンの言うことには、老年期への過渡期は60~65歳頃だという。私はそれより幾分若いけれども、時機が訪れたらスパッと老人になる算段を立てたいし、今のうちから周到に(ゲーム用語でいうなら)フラグを立てて回っておきたい。こうした立ち回りをわざわざ選ぶのも、要は、私が老いを怖れていることに由来するのだろうけれども、どうせ防衛機制するなら歯切れよく防衛して、還暦にちゃんちゃんこなど着て手順どおりに老けたい。昔の人が残してくれた社会慣習にも頼りながら、人生の秋から冬に向かってガイドビーコンを焚いていくのが私の次の作戦だという思いを、今日は新たにしました。









