シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

AIより人間がプレイしたほうがゲームは面白く、面白くあるべきでは?(実況も含め)

 
www.sbbit.jp
 
AIがゲームをプレイし、それを人間が眺める(そして楽しむ)。そんなことがこれから起こるのだろうか?
そういう予感を持ったうえで上掲リンク先を眺めてみると、なるほど、初手で「採掘」「交易」「海賊行為」といった大まかな指示を出す以外は指示が出せないゲーム、らしい。
 
こういうのを見ると、『シヴィライゼーション』のようなシミュレーションゲームで、特定の文明や地形を設定・配置し成り行きを眺める、そんな遊びを連想する。そういう遊びをしたい日もあるし、LLMが操作することで従来のAIとは違ったプレイが目撃できる可能性もあるかもしれない。
 
ただ、本当にそれが今日のゲームプレイに取って代わるほど面白いかって言ったら、そうじゃないと思う。AIが勝手に戦うのを眺めるのは、試験管やペトリ皿のなかで菌がどう増殖していくのかを眺めるのに似た楽しみがあるが、それがゲームプレイの主流、ひいてはゲームの楽しさの主流になるかと言われたら、とてもそう思えない。
  
なぜならAI同士の戦いはたまに眺めるぐらいがちょうど良く、なんなら一晩PCを動かしっぱなしにして、翌朝に結果を眺めるぐらいでも構わない程度のものだからだ。それよりもずっとあり得て、有意義に思えるのは、もっと凝ったAIが導入されることで既存のゲームの楽しさがもっと磨かれたり、もうちょっと違ったゲームプレイが楽しめるようになる近未来だ。
 
なんとなく、そのあたりについて書きたくなったので書いてみる。
 
 

LLMがAIとして活躍してくれそうなゲームを想像する

 
2020年代に広く知られるようになったLLM。そのLLMが従来型のAIに取って代わることで、既存のゲームをもっと面白く、遊びやすくしてくれる可能性はあるか? あると思う。さまざまな可能性がただちに連想される。
 
例が古くて恐縮だが、たとえば『ガンパレードマーチ』のような複数のNPCがAIによって動かされるゲームの場合、今までよりも柔軟で行動に幅のあるAIが採用されたら、今までよりリアリスティックだったり、プレイヤーの意表を突いてくれるゲームになるかもしれない。オープンワールドRPGの場合は、敵や味方の動きにバリエーションが生まれよう。『艦これ』型のゲームや『アイマス』型のゲーム、凝った恋愛シミュレーションゲームでも、精度の高いAIがうまく噛み合ったら面白いことが起こりそうだ。
  
ただ、NPCのロールを引き受けるのはともかく、プレイヤーキャラクターの挙動やプレイヤーの采配や選択をAIが肩代わりし過ぎると、プレイヤーがゲームに介在する余地が乏しくなり、ゲームとしての面白さを毀損する結果になるかもしれない。
 
このあたりで思い出すのは、ソーシャルゲームの自動育成や自動戦闘だ。ソーシャルゲームには、プレイヤーの可処分時間や可処分注意力を軽くするために、自動育成や自動戦闘をAIに任せられる仕組みがしばしば実装されている。だが、それらは能力的制限をかけられ、人間自身のプレイに比べて「下手」であることが多い。そうする理由はわかる。もし、AIが「本気で」育成や戦闘を代行してしまったら、人間がプレイするのと同等以上のプレイができてしまうからだ。
 
もし、自動育成や自動戦闘が人間よりずっと上手くなってしまったら、そのゲームはもう自動でしか遊ばれなくなる。そんなことをしたら、そのゲームのゲームとしての面白さのほとんど吹き飛んでしまう。面白くなければプレイされないし選ばれない。
 
「人間よりずっと上手いAIのプレイ」が面白くないさまを実感しやすいのは、対戦格闘ゲームやシューティングゲームでAIが操っている敵キャラクターが、超反応しているさまに出会った時だ。
 
対戦格闘ゲームやシューティングゲームの場合、コマンド入力も敵の攻撃の回避も、AIのほうが人間よりずっと素早く・正確にこなしてみせる。20世紀のゲームに搭載されていたお粗末なAIをもってしても、人間のプレイを凌駕するのは難しくなかった。これも古い喩えで恐縮だが、たとえば対戦シューティングゲーム『ティンクルスタースプライツ』の対戦相手の動きには、AIにはできても人間には不可能な超反応がたくさん含まれていて、たとえAIに対戦で勝てたとしても、手加減されている感覚、納得できない感覚がついてまわった。『ティンクルスタースプライツ』が人間と対戦したほうがずっと面白く、興奮するゲームなのは言うまでもない。
 
 

人間がプレイする面白さに勝てるのか、人間を眺める楽しさに勝てるのか

 
AI「が」ゲームをプレイし、それを人間が眺めるようなゲームが登場すると考える場合には、以下の二点が問われなければならないと、私は思う。
 
ひとつ。
それは本当にAIに任せて面白いゲームなのか。
 
『スイカゲーム』にせよ『ストリートファイター6』にせよ『テラリア』にせよ、人間がプレイするから面白い部分は小さくない。それらをAIの超反応に任せたってちっとも面白くないだろう。このタイプのゲームにおいて、ある程度ドジをふむAIをわざわざ作ったとしても、『ティンクルスタースプライツ』のAIの場合と同様、「はいはい、本当はもっとお上手なのにドジを踏むよう手加減してつくられているんですね」とならざるを得ない。『ヴァロラント』のようなFPSの場合はもっと顕著だろう。こうしたゲームの人間同士のプレイに超反応のAIやAIサポートが関与すれば「チート」と言われるしかないが、じゃあ、人間同士でなくAI同士の超反応対戦を見て面白いかと言ったら……たぶん面白くないと思う。人間同士で対戦したほうが楽しい。
 
というより、こういうタイプの従来型ゲームは、AI(同士)のプレイを眺めて楽しくなるようなデザインになっていない。
 
逆に言うと、ゲームのジャンルやデザインがちゃんと違っていれば、話は違ってくるかもしれない。
 
たとえば『艦これ』のようなゲームの場合、AIに戦闘などのかなりの部分を委任しつつ、一番おいしいところに人間の意思決定の余地を残しておけば、眺めて面白くなる余地はあるかもしれない。プレイヤーにどのような采配の余地を残すのか? プレイヤーの采配のどのような面白さを強調するのか? そこはゲーム制作者側の腕のみせどころだろう。
 
たとえば『Hearts of Iron4』において戦闘をAIにある程度任せてしまう、ああいうフィーチャーの延長線として、一番おいしいところだけプレイヤーが采配をふるうようなゲームの面白さができあがるかもしれない。その際、LLMをとおして人間っぽく創られたNPCの精度が高ければ、司令官ごっこがもっと楽しくなるかもしれない。このあたりは、AIを眺めていて楽しいか否かというより、AIをいかに楽しさに貢献させるのかの話だと思うので、いかようにも工夫の余地があるように思える。
 
ふたつ。 
プレイヤーが一切介入しないでゲームが進行すると仮定した場合、「それで本当にAIのプレイを眺めたほうが、人間のプレイを眺めるよりも面白いのか」。
 
ゲームセンターで、対戦格闘ゲームや『ティンクルスタースプライツ』のデモプレイとして流れるAI同士の戦闘を見ても、正直あまり楽しくなかった。自分でプレイしたり、人間同士の対戦を眺めたりするほうがずっと楽しい。シミュレーションゲームのプレイをAIに委任し放っておくのも、たまに見るのは良いとしてもプレイする楽しさには劣っていた。まあそもそも、AIがプレイするのを見て楽しいとなると、もうそれはゲームではなく、何か異なった娯楽と言わざるを得ない。いや、この場合はそれでも構わないのかもしれないけれども。
 
しかし、そうしてゲームとは異なる娯楽が爆誕したとしても、人間がプレイするのを眺めるよりも面白い……なんてことはどれぐらいあるんだろうか?
 
たとえば将棋や囲碁は、AIのほうが強くなって久しい。けれども実際に観戦されているプレイはほとんどが人間同士の対戦で、AI対AIの対戦を観戦して喜んでいる人はあまりいない。それと同じことがゲームでも、特にゲーム実況の領域でも起こるんじゃないだろうか。
 
人間のプレイを眺めるのは楽しい。
人間ならではのミスがあったり、人間ならではの戸惑い、ためらい、勢いといったものがある。人間のプレイにはドラマ性があり、見ていてハラハラする。AIのプレイを観戦して楽しいと思う際には、これらが再現されなければならない、と思う。でも、それをAIでわざわざ再現するぐらいなら、人間が今までどおりプレイしたほうが面白くね? という印象は否めない。 
 
そのうえ、人間のプレイヤーには固有の文脈がある。甲子園の高校野球選手やオリンピックの選手などがそうだ。私たちは選手たちのプレイ「だけ」を見ているのでなく、その選手、そのプレイヤーについてまわる「文脈」をも楽しんでいる。「文脈」と言ってわかりにくければ「ストーリー」と言ってもいいかもしれない。
 
なお、「文脈」は人間だけが持つとは限らない。競走馬などは、人間ではなくてもこうした「文脈」を持っている。つまり「文脈」には人間や競走馬の有限性や一回性が少なからず関与している。AIにそれに類似する性質を与えることは不可能ではないが、人間ははじめから「文脈」を背負っている。3年しかない高校生活、最後のオリンピック、引退直前のレースなどに匹敵する「文脈」をAIにを持たせ、観る者に感動を与えるのは難しいと思う。AIが機械仕掛けで、複製可能で、不老不死である限り、ここでいう「文脈」はたいして期待できない。 
 
 

ゲーム実況は「人間が面白い」

 
そこに、「ゲーム実況者の面白さ」という問題も加わる。
 
ゲーム実況動画においては、実況者のリアクションも楽しみの一部だ。少し話が戻るが、ゲーム実況でも「文脈」は無視できない。どのような条件でゲームがプレイされているのか、たとえば、その実況者が初見でプレイしているか否かは、ゲーム実況の楽しみを左右する。
 
「文脈」の話はやめにしよう。
それはさておき、人間の実況者がプレイしている時、人間ならではの戸惑いがあったり、ミスがあったりもする。そのプレイの揺らぎも面白さに貢献する。逆に考えると、AIが同じくらい揺らいだプレイをしてくれるなら、いくらか面白くなる……のかもしれない。その場合、良い意味でAIはポンコツである必要があるように思う。しかし、そんなポンコツAIをわざわざ準備するまでもなく、人間の実況者は不完全で、揺らぐ存在だ。調子の良し悪しがあったり、変なことをしたり、勘違いをしたり、まぐれあたりに狂喜したりする。
 
それから人間のエモーショナルな反応。
ゲーム実況者はエモーショナルなメッセージの発信にも長けていることが多い。ある程度までは演技でも、ある程度からは実況者自身の感情を乗せるのがうまかったりする。それが役者というものだ。
 
ゲーム実況の少なくない割合はゲーム実況者のエモーショナルなメッセージやリアクションの巧さに支えられていて、且つ、ゲーム実況者がそのようにリアクションがとれるゲームが重宝する、という一面もある。ゲーム実況者が面白いリアクションを打てる状況の多いゲームは、おそらく、プレイヤーがプレイしている時にも「うわぁ」とか「やったー!」と声をあげたくなるような状況であるはずだ。そういうゲームとプレイヤーのインタラクションが起こりやすいゲームは、実況者が面白いリアクションを打つにも適したゲームであるはずで、そういう特質もゲームとしての面白さとしてちゃんと数え上げるべきだろう。そういうものもゲームをゲームたらしめている旨味成分の一部だと言える。
 
たとえば『スーパーマリオブラザーズ』シリーズで意外な場所に隠しブロックがあって、びっくりさせられるショートカットが使えたり逆に理不尽にミスしたりする場面などは、実況者が面白いリアクションを打ちやすい状況であると同時に、プレイヤーが声をあげたくなる状況でもあり、ゲームをゲームたらしめている大事な一部だ。ゲーム実況者はそういう状況に際してプレイヤーを代弁するようにエモーショナルなリアクションを打ってくれる。そうした面白さは、わざわざAIに再現させるよりも“天然の人間”の実況者がやったほうが面白く、自然なはずだ。そこにも人間固有の揺らぎが宿る。
 
いつか、AIもそうした揺らぎやエモーショナルなリアクションを模倣できるようになるかもしれないが、わざわざそうしたところで、プレイヤー自身の生の体験や、優れたゲーム実況者によってアウトプットされるエモーショナルなリアクションに匹敵するとは、私にはなかなか信じられない。
 
そもそも、そういうエモーションが動くような体験こそ、自分自身でプレイするにせよ実況者のプレイを眺めるにせよ一番面白いところ・ゲームらしい旨味が詰まっているところだから、そんな面白いところをAIに食わせてしまうのはもったいないし、それじゃあなんのためのゲームかわからない。
 
 

まとめ

 
まとめると、人間に代わってAIがゲームをプレイするとしたら、AIにゲームの面白さを食われるかたちは厳禁だろうし、人間ならではの面白さ(人間の有限性も含めた文脈、揺らぎ、エモーショナルなリアクション)を奪うかたちも厳禁だろう:そう現在の私には思える。そもそも、それらの面白さを潰してしまったりAIに食わせてしまったりしたら、ゲームのゲームたる部分、ゲームにあって他のエンタメには無い面白さの相当部分が削げ落ちてしまう気がする。
 
そのことを踏まえたうえで、たとえばAIが巧みにNPCを操作することで従来は期待できなかったゲーム体験が実現したり、ゲームの長所を殺すことなく新しい快適さを提供できるゲームが出てきたりしたら、それは楽しみなことだと思う。その場合も、ゲームがゲームである以上、なんらかプレイヤーがプレイヤーとしてゲーム体験に関わり、キャラクターや状況にもコミットする──それも、楽しくコミットできる体験を期待したい。
 
将来、LLMをAIとして上手に使ったヒットゲームはなんらか出てくると思う。でも、人間こそが最善最適のプレイヤーである、という点を外してしまったら、それはゲームという娯楽以外の何かになってしまうと思うので、ゲームというからには、これからも人間とインタラクションすることに最適化され続けて、とどのつまり人間のための顔を失わないんじゃないかな、と私は予想する。おわり。
 
 

作品にベタ・メタに向き合うことと、「いわゆる上等な作品鑑賞態度」について

 
最近、エヴァンゲリオン30周年のことがあったりして、アニメに対する視聴態度とか、アニメに対する批評的態度について思い出す機会が重なった。私がどうアニメを観るようになったのか、それが私自身を形成するうえでどう大事だったのかを思い出す機会になった。批評家の藤田先生からいただいた以下のポストが特に良いトリガーになったので、少し考えを広げてみたい。
 


 
 

「余所見をしないでベタベタに観る」

 
「現実に帰れ」。
 
とても懐かしい響きだ。
それから2026年から見れば無邪気な言葉にもみえる。私の理解をざっくり言えば、2026年における現実はアニメのようで、アニメもまた現実のようだ。物理的現実、自然科学的現実が厳にあること、それ自体は否定されるべくもない。では社会的現実はどうだろう? 現実を想像と思い込みと願望が分厚く覆い、その覆いを加速する通信技術が人類社会を包囲している2026年において、たとえば『Fate/strange Fake』や『呪術廻戦』などは現実そのものではないが現実に先行している。あるいはそれらでさえ、社会的現実に関連するフェ…フィクションとしてそこに存在している。
 
そうした情況下での「現実」、とりわけ社会的現実の在り処を巡って、私たちは右往左往している。が、ここでは既存秩序に従い、「大手メディアとオーソリティの言う通りにしていれば社会的現実に帰ることができます」と復唱しておくことにしよう。
 
けれども1997年において、「現実に帰れ」はもう少しシリアスな突き放しだったと言える。少なくとも突き放しと受け止める人もいたのだろうなぁと思い出す。それからエヴァンゲリオンの時代に流通していた「アニメの言葉」を思い出さずにいられないフレーズでもある。
  
『新世紀エヴァンゲリオン』に対するオタクたち、ひいては視聴者たちの態度はさまざまだった。TV版がヒートアップしていき、26話で爆発し、それから旧劇場版『シト新生』『Air/まごころを、君に』がつくられ、作品が外へ外へ広がっていった頃、キャラクターや物語に自分自身を重ねる視聴者がいると同時に、冷静で客観的にみえる言葉で作品を論評する人々がいた。両方、という人だっていただろう。たとえば大塚英志のエヴァンゲリオン評に耳を傾け、「TV版の26話は自己啓発セミナーだ」とうそぶいているその当人が、碇シンジや葛城ミサトといったキャラクターに前のめりな態度をとっていることなど、珍しくもなかっただろう。『パラノ・エヴァンゲリオン』とか『スキゾ・エヴァンゲリオン』とかを買い求め、いわば楽屋裏から作品に言及するファンもいたように思う。
 

 
制作者サイドのステートメントやコンテキストを視野に入れながらエヴァンゲリオンについて語る・考える人たちがいたのは事実だったはずで、そうした態度は藤田さんのおっしゃる(作品に対する)メタな意識、に通じるものだろう。作中描写に基づいて作品を愛顧することをベタとみるなら、楽屋裏の事情を踏まえて作品を論評するのはメタレイヤーの楽しみ方とみることができる。時代や社会とエヴァンゲリオン"現象"を関連づけてしゃべってみるのもそのうちかもしれない。
 
そういった態度がカッコ良いという雰囲気は、現在よりも1990年代において強かったと思う。それが作品に対する上等な態度であり、ベタ一辺倒は下等だ、という意見もたぶんあったように思う。正確を期して言い直すなら、そういう意見が存在するように学生時代の私には見えていた。
 
地方在住の私の耳にも、こうしたメタレイヤーを踏まえたエヴァンゲリオン評はある程度までは聞こえていた。その劣化コピーかもしれないが、エヴァンゲリオンの「謎本」なるものを買って読むファンの姿もあった。エヴァンゲリオンを楽しむファンにもいろいろあったし、一人のファンがいろいろな態度やレイヤーで作品と向き合う・作品を切り取ることはあっておかしくないことだった。ベタからもメタからも、なんならネタからも作品を楽しむ──それは珍しくないだけでなく、上等なファンやオタクを自負する人々には可能であるべき姿勢だったのだとも思う。
 
その後、私はエヴァンゲリオンとベタレイヤーに著しく偏ったかたちで向き合うことになった。だから私が『スキゾ・エヴァンゲリオン』や『パラノ・エヴァンゲリオン』を実際に読んだのは新劇場版が完結してからのことである。そういったものは私には必要無かったし、場外のノイズでしかないと感じられたからだ。TV版の25-26話や『まごころを、君に』のなかにメタく受け取りたくなる表現が埋め込まれていたとしてもである。
 
ビデオテープを何十回もリピート再生し、楽屋裏の事情など無視して作中描写に集中・埋没する。作中描写と自分自身との相互作用をどこまでも追求する。万巻のコンテンツを渉猟できる都会のオタク・エリートではなく、たとえば『Zガンダム』や『ガンダムZZ』の再放送を録画し何度も再生するしか能のない田舎のファンだった私にとって、それは難しくない向き合い方だった。
 
さきに触れたように、当時の私の推測では、ベタに徹してメタレイヤーを見ない、そして批評的な態度を取れないファンは(それが可能なファンから)下にみられる存在と思われた。そうした推測は現在も消えてはいない。むしろ文化資本について学ぶにつれ、そのことを確信すらしている。
 
しかし、そんなのは私には関係のないことだったし、作品やキャラクターに対して零距離になってみなければわからないこともある。エヴァンゲリオンは、たとえばTV版の後半パートは、零距離になるのに適したつくりでもあった。ATフィールドというフィーチャーも、『死に至る病、そして』や『人のかたち、心のかたち』のような話も、作品やキャラクターとの距離感を見失わせる、否、みずから放棄するにはなかなか都合が良い。自己啓発セミナーと呼ばれたTV版25-26話にしてもそうだ。 
 
歳月が流れ、年を取り、作品やキャラクターに対して零距離になる、なんてことは私にはできなくなった。メタレイヤーを意識しながらアニメを眺めることにもあまり抵抗がない。というより、何かに言及する際には、いくらかメタレイヤーを意識しながらまとめたほうがうまくいくとさえ思っている。
 
けれども、あの時、エヴァンゲリオンにベタベタに向き合ったことは良かったと思っているし、その経験は『シュタインズ・ゲート』や『まどか☆マギカ』や『PSYCHO-PASS』や『葬送のフリーレン』を世間のなかの作品でなく自分にとっての作品として受け取る際の態度として今も生きている。『機動戦士ガンダムジークアクス』のような、世間にウインクしまくった興業を眺めている時でさえ、その態度は尾てい骨のように残っていた。
 
私は、好きな作品が社会において(または制作陣にとって)どのような作品なのかよりも、私自身に何をもたらしたのか、ひいては私にとってどういう作品なのかを重視する態度──そういう態度は、「推し活」の時代にあっても注目されず、上等とはみなされないようにみえる──を大事にする。推し活と、90年代のアニメ批評的な感性は対照的な部分をもちろん含んでいるが、私自身にとってどういう作品なのかを重視する主観的人間からみれば、推し活もアニメ批評的感性も、第三者性に開かれ過ぎていて*1、他者の目や耳や口を意識しすぎている点では共通しているようにみえる。繰り返すが、推し活とアニメ批評的感性の間に大きな相違点が横たわっているとしてもだ。
 
だから私は、推し活についても、それが他者の目や耳や口を気にし過ぎていたり第三者の評価に心奪われていたりするなら、私が大切にしているものとは相いれないな、と感じるだろう。ちょっと昔のネットスラング的な言い回しになるが、それが過ぎれば「キョロ充的」に過ぎるし、ともすれば、他人が欲しいものを欲しがる人間の顔つきになってしまうかもしれないからだ。
 
世の中には他人が欲しいものを欲しがることしかできない人や、そういう欲しがりかたをするのが人間として正統であるとみる人も、かなりいるようである。というより、私みたいに自分自身にとってどうなのかばかり意識する人間は、社会や世間のなかにおいて取るに足らないもの、資本主義に貢献しにくいもの、なにより政治のできないものとみなされるだろう。そういうのは90年代にも20年代にもファンとしては取るに足らないもの、キモいとみなされるものではないか?
 
うーん、偏屈な方向に流されてしまったぞ。これこそ、今日の社会や世間のなかでキモいとみなされる態度だな。当初、私は藤田さんと自分との対照をとおして、私がいかに動物的であるか、藤田さんがいかに人間的であるのか、を書いてみたかったのだった。そのうえで、範疇的な態度として動物に対する人間の優越を認めたうえで、私のなかではそれが逆転していること、その逆転を促した契機としての新世紀エヴァンゲリオンとの付き合いを書いてみたかったのだった。でも実際に書いてみると、そういう対照をスマートに提示出来ていない、なんだかみっともない文字列が生じてしまった。これは、藤田さんとの言葉のやりとりをとおした議論として失敗の範疇に入ると思うのだけど、この失敗を後日の私に委ねるためにも、ブログに残しておくことにしました。 
 
(※本文はここまでです。以下の有料記事パートにはたいしたことは書いてありません)
 

*1:客観性、と言ってしまうと言い過ぎのようなので敢えて第三者性、と書いた

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「写経」と「要約」で文章力をディープラーニングする

 
SNSで一緒に遊んでいただいている領域で、「文筆業のプロや小説家になるにはどうすればいいのか」といった話が延々と続いていた。
 
この話題はSNS上で……というよりインターネット開闢から繰り返されてきたものだし、世の中には「小説家になるための本」や「文章術の指南書」もたくさん存在している。
 
今回、はじめに私の目に飛び込んできたのは、前島賢さんのメンションだった。
 


 
前島賢さんは、体系化されたトレーニングは今のところ確立されていないとおっしゃる。小説のことはあまりわからないが、「とにかく書くしかない」ってのはわかる気がする。なんにも書かなきゃうまくなりようがない。
 
と同時に、努力すれば開花する素養・素質が全員にあるとも思えない。ものすごい時間と労力を費やして、なんの成果も得られない小説家志望者もあれば、少ない試行回数でもデビューしてしまう人もあるという。
 
これは、ライター業やノンフィクション分野もそうだと思う。書いている量はすごいし、当人も努力している自覚があるのに、あまり上達しない人がいる。かと思えば、はっきりと人を惹きつける文章をオンラインで書き始め、たちまち頭角をあらわしていく書き手もいる。文章づくりに、はっきりとした才能差・能力差があるのは明らかだ。だから誰でも再現可能とは私にも信じられない。
  
 
江波光則さんのこれらのメンションは、文章づくりはもちろん、色々なことに当てはまると思う。人間は、なりたいものにはなれない。なれるものになるしかないなかで、せいぜい、自分の願望をなれるものに寄せていったり、なれるもののなかで自分がなりたいものに近い領野を拡張していくしかない。どうやってもなれないものに執着しすぎるのは不器用で、危険な行為ですらある。だから、「なりたいものになるための努力」だけでなく、「なれるものになりたくなる努力」や「なれるものとなりたいものを近づける努力」、「なれるものとなりたいものを関連づける努力」も意識したほうがいい。本当はどれも、世渡りの技術として切実なのだが、「なりたいものになるための努力」ばかり注目され、他はあまり顧みられているとは言えない。
 
話が逸れた。
しかし、わりと誰でも文章力を底上げできそうな方法は、あると思う。それが、これから挙げる「写経」と「要約」だ。この二つは、望ましい文章を出力するためのプラクティスとしていけているし、実際、私以外でも少なくない人がこれらをやっていると聞いている。私自身は今でもあてにしていて、基礎練習のように続けている。
 
 

写経、楽しんでますか?

 
まず写経について。
ここでも江波光則さんのメンションを紹介したい。
 


 
私は一冊丸ごと写経したことはないが、一章単位での写経は昔からやっていて、今でもダイジェスト版をXやブルースカイなどに放流している。写経をやっていると、文章のペース、句読点のタイミング、話の展開、いろいろなことを考えさせられる。黙読しているだけでは気づかなかったが、写経をとおして気づき得ることは多い。
 
音読が面白いこともある。音読という行動は黙読とはなにか違うらしく、気に入っている本を音読してみるのはためになることだ。とりわけ小説の音読は面白いと思う。気に入った箇所を音読し、その調子を味わってみて、そのテンポ感や言葉遣いを噛み締めたい。それが、自分自身が書く力にも繋がると私は勝手に思っている。自分で書いた文章もときどき音読してみたほうがいい。音読して違和感があるなら、とりあえず「要推敲」の付箋を貼りつけておきたい。
 
写経の対象は何が好ましいのか?
 
最初は、自分が写経したいものを写経すればいいのだと思う。
私がはじめて写経したのは、以下だった。
 

 
メガドライブで発売された名シミュレーションゲーム『アドバンスド大戦略』の取扱説明書の後半には、登場する第二次世界大戦の兵器についての解説がついている。私はこれをワープロでひたすら写経していた。
 

 
たとえばこのページにはイギリスの歩兵戦車、マチルダIIやチャーチルについて解説が書かれている。中学3年生の頃の私は、ワープロの漢字変換や記号変換に慣れるついでに、これらを片っ端から写経していた。
 
その次に写経の対象になったのは、アーケードゲーム誌『ゲーメスト』だ。ゲーメストの攻略記事のなかでお気に入りのものを写経し、それをテンプレートとして真似しながら自分バージョンのゲーム攻略文章を作っていた。というのも、『ゲーメスト』の攻略記事の公開スピードは自分で攻略するスピードとたいてい一致しておらず、自分自身のニーズや技量にぴったり当てはまる内容でもなかったからだ。*1。学生時代のわたしは、『アドバンスド大戦略』の取扱説明書や『ゲーメスト』の文章を写経してディープラーニングしていたのだと思う。
 
あと私は、翻訳された書籍の文章もよく写経する。
 

父親になることでテストステロン濃度が変化するが、それは文化や子どもと接する時間の長さによっても大きく影響を受ける。たとえば、タンザニアの遊牧民族ハザ族の父親は、頻繁に赤ん坊を抱きかかえ、食事を与え、一緒に遊んだりしている。一方で近隣の定住牧畜民俗ダトガ族の父親は、子どもを母親やその他の養育者に任せっぱなしにする傾向がある。どちらの父親のテストステロン濃度が低いか、読者のあなたなら容易に想像できるだろう。もちろん、ハザ族の父親である。ハザ族の父親のテストステロン濃度は、子どものいないハザ族の男性よりも50%近く低かった。一方でダトガ族の父親のテストステロン濃度は、子どもがいないダトガ族の男性と違わなかったのである。『テストステロン』

こういう生物学系の文章でも、翻訳者の語彙のチョイスは参考になる。と同時に、写経とは自分の魂に文章を刻み付け、そこにある文章を自分の魂の一部に引き込もうとする作業でもある。覚えたい知識、真似たいセンテンス、そういったものを自分自身に刻み付けるにあたって、写経は非効率のようにみえて効率的なことだと私は信じている。
 
してみれば、私は誰かから知識や文章力を拝借したい時、身体性を重視しているのだと思う。写経の対象がリスペクトの対象であればなお良い。拙著『「推し」で心はみたされる?』でも書いたことだが、リスペクトに基づいた修練は技能習得がはかどる。リスペクトしたくなる書籍や文章は、好ましい写経対象だ。バンバン写経して、文章力も知識も吸い取ってしまえば良い。
 
 

要約というプラクティス

 
あともうひとつ、「要約」もすごく練習になると思う。
 


 
ここで82さんがおっしゃっているように、要約はひとつの技術だと思う。要約の技術=小説や論説文を書く力とまでは言えないが、要約が文章表現の基礎技術のひとつであるのは否めない。同じ内容を2000字で表現するのと800字で表現するのでは、後者のほうが難しい。この点でいえば、X(twitter)の140字、はてなブックマークの100字といった制約も役に立つ。俳句や短歌も同様だ。
 
少ない文字数のなかでいかに多くの事柄を正確にモノが言えるのかは、その人の技量、ひいては面白さやフォロワー数にも直結する。Xやはてなブックマークの文字数制約のなかで努力するのも、文章表現の練習として馬鹿にしたものじゃないと思う。
 
実際、学生向けの国語の課題にも「要約」に相当する課題がしばしば登場する。小中学生に出される国語のテストには、本文の内容を(実質的に)要約させるタイプの設問がしばしば出てくる。問われている箇所を正確に特定し、それを要約する訓練が正真正銘の国語のトレーニングにも含まれているのだから、「要約」には練習に値する意義があるのだろう。
 
あと私の場合、新聞や雑誌とその作り手の人々から随分と教えていただいた。
 
新聞書評や雑誌書評では、400字や800字といった文字数の制約下でできるだけ多くの情報を正確に伝えなければならない。すごく単純化して言えば、その本の特徴を400字のなかで6つ挙げられる書評と8つ挙げられる書評なら、後者のほうが優れていると思う。できれば平易な文章で、なるべく面白く、リズム良く読める文章が最高だ。
 
これって、本当は活字に限ったことではないはずだ。
テレビ番組のなかでアナウンサーや芸能人のしゃべっていることも、本当はすごく情報が圧縮されていて、なおかつ、正確性がいつも問われていると思う。芸能人の場合、そこにエモーションの伝達や笑いの伝達といった課題も伴う。限られた時間で、なおかつ一発勝負の生放送でもそうした「要約」の必要性や正確性を見失わないアナウンサーや芸能人は、口語表現分野における「要約」の達人でもあると思う。ここでも「要約」だけが彼らの仕事を成り立たせているわけではないが、彼らの無駄の無さから教わることは少なくない。
 
話を戻すと、短歌や俳句でもXでもはてなブックマークでもブログでもnoteでもいいが、自分が見たもの・知ったもの・考えたものについて要約を作るのは、文章力を鍛えるトレーニングとしてすごくアリだと思う。冗長にならず、正確性もできるだけ犠牲にせず、不特定多数に読んでもらいやすいよう意識して文章づくりをして得られるものは少なくない。仕事の業務連絡でも「要約」はものすごく役に立つので、そういう意味でもやっておく値打ちはある。
 

まとめ

 
前島賢さんや江波光則さんがおっしゃるように、誰でも絶対に文章のプロやセミプロになれる銀の弾丸はないと思う。けれども文章の基礎練習として、「写経」と「要約」を繰り返して身体と頭にディープラーニングさせる方法はある程度まで有効で、私以外にもやっている人が多い。おすすめ。
 
 

*1:特に『エアーコンバット22』は自分向けの攻略記事を作らなかったらドッグファイトモード全機機銃撃破は達成できなかったと思う。ゲーメスト所収の記事は、まっすぐ飛ぶことすら困難な状態からのスタートには役に立ったが、ところどころ初級者~中級者の事情にそぐわない内容があるうえ、ドッグファイトモードに登場する敵のこまかな難易についてまでは教えてくれなかった

インフルエンザになったらカップヌードルを食べる

 
歳をとると、自分の身体の短所だけでなく長所もわかってきて、そのおかげで助かること・アドバンテージになることがある。私の場合、インフルエンザなどにかかった時にカップヌードルを食べるのもそのひとつだ。
 
 

ネットで検索すると、インフルの時にはカップ麺を食べるな、という助言が見つかる

 
インフルエンザにかかった時にはどんなものを口にしたらいいのか? 一般には、食べやすいものや消化しやすいもの、口当たりの良いものだろう。オンライン診療のクリニックさんのページを見ても、だいたい、そうした食べ物がすすめられている。そうした助言のなかに、「コンビニで買える食べ物」についてのセンテンスがあったので紹介する。
 

消化がよいおかゆやうどん、スープ類、ゼリー飲料、ヨーグルトなどは、食欲がないときでも取り入れやすく、コンビニやスーパーでも手に入ります。
おかゆや雑炊はパウチタイプの商品もあり、保存しやすく手軽に利用できるため、ストックしておくのもおすすめです。
ホットスナックなどの揚げ物や、カップ麺などの胃腸に負担がかかる食品は避けたほうがよいでしょう。

https://www.clinicfor.life/telemedicine/flu/about/wi-031/

このように、消化に良さそうな食品がおすすめされていると同時に、ホットスナックなどの揚げ物やカップ麺が胃腸に負担のかかる食品として「避けたほうが良い」と記されている。不特定多数の人に対する助言としてまっとうだと思うし、とりあえずで選ぶならこのとおりにやるのが良いように思う。
 
 

ところがこの身体はインフルの時にカップ麺を欲してやまない

 
しかし人体には個人差があり、人にはそれぞれ、機能が強い部分も弱い部分もある。頭痛が起こりやすい人、便秘になりやすい人、吐き気に悩まされやすい人、皮膚が弱い人、等々があると同時に、頭痛が起こりにくい人、便秘になりにくい人、吐き気に悩まされにくい人、皮膚が強い人がいる。個人の身体機能をつぶさに眺めると、平均から外れた個人差や例外的な性質を見かけることが稀ならずある。
 
私の場合、病気の時の胃腸の消化能力が異様に高いことがそれだと思う。
子どもの頃の私は消化器系のトラブルが絶えず、嘔吐や下痢が起こりやすかった。私も大変だったが、いちいち病院に連れていかなければならない親も大変だったと思う。ところが年を取るにつれてそうしたトラブルが起こりにくくなり、中年になって気が付いてみると、たいていの人よりも嘔吐や下痢が起こりにくく、特にインフルエンザやコロナウイルスなどに罹患している時にも食が太いままであることがわかってきた。
 
そうしたことを反映してか、40代のある時期から、私は「風邪をひいたらカップヌードルを食べる」という習慣を身に付けるに至った。
 

 
私のお気に入りは、なんといってもカップヌードルのトムヤムクン味だ。インフルエンザやコロナにかかってもこいつがむしょうに食べたくなる。初めてコロナウイルスに罹患した時はさすがにちょっとしんどさを感じたが、それでも完食したし嘔吐することもなかった。簡単に作れ、簡単に食べられ、風邪っぽくても味がちゃんとわかり、身体が暖まり、塩分がたっぷり入っているのが素晴らしい。
 
インフルエンザなどにかかっている時に食べるカップヌードルのことを、私は「食べる点滴」と呼んでもいる。昔は熱が出て開業医にかかるとやたら点滴をされたものだった。自分自身も医師のはしくれになってみると、別に点滴じゃなくてもいいし経口補水液が買えるし……などと思ったりする。しかし点滴であれ経口補水液であれ、水と塩分を補ったほうが好ましい場面というのはある。発熱している時や発汗が絶えない時、水と塩分は普段より身体から失われやすくなる。腎機能や心機能に問題がないなら、ある程度水と塩分を補い続けながら余った水分や塩分は腎臓をとおして排泄しておけば、脱水を避けつつ、汗もいくらでもかける状態を維持しながら発熱が終わるのを待てる。
 
そこで輝くのがカップヌードルだ。
食べやすさや消化吸収の問題さえクリアできるなら、カップヌードルはある程度まで理想に近い「食べる点滴」になる。水分の補給と塩分の補給の両方ができる。それだけでは少し水分が足りない気がするので私は白湯もいくらか用意し、スープは最後まで飲んでしまう。身体が暖まり、汗がどっと出る。あわせてアセトアミノフェンなども内服し、汗をどうにかしてからひと眠りすると、休めた感じがして良い。
 
無味乾燥な点滴やおいしくない経口補水液と違って、栄養を身体に入れたぞという手ごたえもあり、空腹感が改善するのも良い。ああそう、ほとんどどんな時でも空腹を感じるのも、私の身体の強みだと思う。具合が悪い時にもちゃんと腹が減り、食べたいものを食べられるのは本当は軽視できないことのはず。そうしたうえで「食べる点滴」として水分と塩分を補給できるのだから、ありがたい限りだ。実際はサムゲタンやミネストローネスープ等でも構わないし、他のカップ麺でも構わないのだろうけど、私はカップヌードルのトムヤムクン味が食べやすいようなので、備蓄は欠かせない。
 
私によく似た胃腸の機能を持っていて、私と同じぐらい空腹になりやすい人で、心臓や腎臓や糖代謝などに特別な障害を持っているわけではない人なら、たぶんこの手は使える(と思う)。その際は、もちろん他のカップ麺でも構わないし、もっとお行儀良くやるなら暖かいそうめんとか、スープのたぐいが好ましかろう。とにかく、自分の身体が受け付けられる範囲内で好んで食べられるものを選ぶよう、意識したい。
 
 

食べられない人は食べられないし、食べられない局面ももちろんあるので悪しからず

 
繰り返しになるけれども大事なことなのでもう一度断っておく:「インフルエンザなどにかかったらカップヌードル」というやり方は、全ての人におすすめできるものではない。私と同じような体質を持った人で、インフルエンザやコロナにかかっても腹が減り、嘔吐や下痢が起こらず、食べたいものを食べたいと感じられる人にしか適用できない。そうでない人におすすめすべきは、もっと食べやすく、消化に良く、刺激の少ない飲食物だと思う。循環器などに問題をかかえている人も、別の手段が必要になるので、あしからず。
 
あと、私と同じ体質のはずなのに嘔吐や下痢が出現していて食べ物を受け付けない時は、それはそれで大事だ。早めに医療機関にかかったほうが良いように思われる。
 
 
[追記]:はてなブックマークの人から、『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』の最新話(19話)がまさに風邪の時の食事の話だと教えてもらった。もちづきさんでも風邪の時は食欲が落ちるようだけど、でも結論は相変わらずのようで。油そばは水分補給に向いておらず、カップヌードルに比べると「食べる点滴」としての有利をとりにくい気はします。でも治った後ならいいのか。ましてや、油なんて……
 
 

日本が翻訳者がたくさんいる国で良かった

 
おとといの続き。
 
おととい、「日本が好き」な理由なんてなんでもいいじゃないですか、と書いた。そうした後に、私にとって日本が好きな理由、日本で好きなもの、日本で助かっていることを色々と思い出してみた。
 
振り返ると、日本が好き・日本で良かった理由はたくさん思いつく。文学やサブカルチャーはもちろん、食生活、風土、制度、個別の要素はいくらでも挙がる。他国と比べて劣っている部分、不便な部分がないとは言えないけれども、「住めば都」とはよく言ったものだ。
 
 

私は日本の翻訳者にめちゃ助けられています

 
ところで、私の「日本が好き」のひとつに、優れた翻訳者がたくさんいて、海外の読み物を母国語で読めることを挙げたい。以下、幾つか例を挙げてみます
 

 
私が若かった頃にめちゃくちゃな影響を受けたフランスの社会学者・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』を訳したのは、ご自身も哲学者である今村仁司だ。この先生の翻訳のおかげで、私は社会学などの本に挑戦する勇気をもらったようなものだ。ここから今村先生の本にも関心が向かい、たとえば『近代の労働観』を読んだりもした(次に繋がる読書になりました!)。
  
今、調べてみたら、2024年には『資本論』を翻訳しているともいう。『資本論』はできれば近づきたくない本だけど、読むなら今村先生のこれで行くと思う。「難しい本でも、この翻訳者なら挑戦できるかもしれない」と思える翻訳者がいるのは、大変幸福なことだと思う。ありがたいです。
 
 
で、そういうのは学術方面ばかりでもない。
  
この、『イタリアワインがわかる』はマット・クレイマーというアメリカのワインライターの人が書いた本だけど、このマット・クレイマーの書籍を訳しているのは阿部秀司という翻訳者だ。ワインの翻訳本はアタリハズレがあるけれど、この先生が翻訳しているなら安心できる。
 
 
もっとカジュアルな文体の本も、翻訳者の人がすごく良い仕事をしていることがある。去年から再び話題になっているSF小説『プロジェクトヘイルメアリー』も、そういう本だ。
  
私は日本語版の『プロジェクトヘイルメアリー』を発売直後に購入したが、その決心がついたのは同じ作者の先行作品『火星の人』を、まったく同じ翻訳者・小野田和子が担当していると知っていたからだ。『火星の人』の翻訳は臨場感溢れる、良い意味でweb小説っぽい雰囲気のもので、これがすごく良かった。『プロジェクトヘイルメアリー』も親しみの持てる、肩に力の入ることのない文体で訳されていて嬉しい。「SFは格調高い翻訳でなければだめだ」なんて人には敬遠されるかもしれないけど、私はこの二作はこの翻訳こそが似合っていると思う。
 
 
カジュアルな文体の翻訳に助けられた! で思い出すのはこの翻訳者。
  
山形浩生という人は、いろんな本の書評を書いたりいきなり翻訳を作ったりする凄いインターネットの人というイメージだったけど、実は翻訳者だったのでした。山形先生の翻訳、ひらがなの使い方や段落から段落に移動する際の繋ぎとかめちゃくちゃうまくないです? ピケティの『21世紀の資本』をちゃんと最後まで読めたのは、山形先生のおかげだと思う。 
  
 

自国語でこんなに本がたくさん読める国ばかりではない

 
挙げていったらきりがない。
日本は翻訳者がたくさんいて、翻訳が盛んにされる国だ。日本に住んでいると当たり前のように感じられるけど、本当はそうではない。自国語にあまり翻訳が行われず、原著にあたるか英語訳をあたるしかない国も珍しくない。それは、専門家以外が外国書籍を読むにあたって敷居の高いことだ。
 
それと翻訳本のいいところは、頭を自国語のフォーマットにしたまま外国書籍が読めることだ。「翻訳者の力量に身を任せる限りにおいて」という条件付きではあるけれども、日本語に訳された本を読む際には、日本語でたやすく考えることができる。そのうえで、原著のニュアンスを伝えるために逐一元の単語や文章を併記してある翻訳書*1もあり、それはそれで大変に助かる。そうした気配りは、部分的とはいえ、原著のニュアンスについて想像する助けになる。今だったら、AIの助言を得ながら読む際のキーワード補助にもなるだろう。
 
雑食動物のように外国書籍を読む私のような人間にとって、日本に翻訳者がたくさんいるのは本当にありがたいことで、必要不可欠だった。私はある時期から外国語にリソースを割くのを割と諦めて、翻訳者の仕事に完全に身を委ねる代わりにできるだけ広く・できるだけ自分の身に引き寄せて外国書籍を読もうと決心してきた。そんな私にとって、信頼できる翻訳者との出会いは優れた著者に出会うのと同じぐらい値打ちのあることだ。私は、そういう翻訳者の力を借りられる国であることも、自分が「日本が好き」と言える理由のひとつだと思っている。
 
 

*1:例えばブルデュー『ディスタンクシオン』やコジェーヴ『ヘーゲル読解入門』の訳書には、そこらじゅうにフランス語やドイツ語のセンテンスや単語が併記されていて、これが原著の雰囲気を想像するうえでとても助けになった