
今年は21世紀にしては涼しいせいか、蝉の声に勢いがある。ふと、見上げた木の上で一生懸命に鳴いているミンミンゼミを見かけた。短い命を賭けて蝉たちは一生懸命に鳴き、繁殖し、死んでいく。その生は私たち人間に比べてアルゴリズム的で、快も苦も単純なシグナルから成っているだろう。
そうした蝉たちを見つめる私自身は人間で、アルゴリズムとしてはもっと複雑な感情や記憶の複合体で動いている。地面に落ち、ばらばらに解体されアリの巣に運ばれていく蝉の死骸を見つめている時の私は、蝉自身には感得できない哀愁におそわれている。
夏に別れを、秋に別れを、それから……
世の中では「中年危機」について色々な人が色々なことを言っている。私も10年ほど前はよく言っていたし、数年前にはphaさんが、今年は東畑先生がそうしたことを書籍に書いていた。自分が若者の限界点をこえてしまうこと、自分の命が翳りゆくことももちろん大きな問題だし、そんなに簡単に割り切れるわけではない。夏が過ぎれば秋が来ることを人は受け入れなければならないし、ほとんどの人は受け入れていく。
しかし蝉たちの生きざまと死にざまを見ているうちに、ふと思った。
試練はそれだけじゃないなと。
なるほど私は中年になり、若者に比べて夢や可能性がなく体力も容姿も衰えてしまった。まさに生物として秋を迎えてしまった状況だ。しかし私は本当に大切なものを失ってしまったわけではない。人間関係だったり、仕事上の事柄だったり、趣味だったり、家族だったりとお別れさせられているわけではない。カラっと揚げられた唐揚げも、立体的なワインも、最高のアニメやゲームも、アクセスしようと思えばまだアクセスできる。身体が衰えたからといってお別れをさせられている度合いはまだ低い。「お別れするか否か」という観点でみれば私はまだそうしたものとお別れする羽目には至っていない。
しかし蝉の死骸を眺めながら思うに、私にはお別れが迫ってくるだろう。自分自身が死んでしまえば一挙にお別れだろうし、親しい人をひとり失えばひとりぶん、お別れが起こってしまう。振り返ってみれば、今までにもいろいろな人と私はお別れをしてきて、そのたび自分の何%かを切り取られるような気持ちになってきた。それでも割と持ちこたえられたのは、私自身の歴史が浅くて思慮も足りなかったから、それからお別れする以上の速度で出会いがあったからだと思う。
「お別れする以上の速度で出会いがあった」──これも若者の特権ではなかっただろうか。
中年期以降も人に会うことはできるし、また会わなければならない。しかし利害を超えた繋がりや不可逆的な縁は、若かった頃に比べればつくりにくくなったように思う。利害に沿った協同プロジェクトならいくらでもあるが、その範疇を超えた、魂と魂が繋がるような出会いは意識してつくっていかなければできそうにない。しかも、つくっていこうと努めたからといってできるかどうかは怪しい。だから、これからの私がお別れする速度以上に出会いに恵まれる可能性はたぶん低いだろう。
自分が老いること、自分が墓場に近づいていくことももちろん問題だが、お別れすること、お別れが迫ってくることも私にとって大きな問題だと、さっき気づいた。私は、お別れするという問題に対して備えを持っていない。最近の私は古い知己に会う機会があったらなるべく会っておこうと努めるようになったが、それとて今生の別れを告げる覚悟のうえではなく、お別れしたくないからそういうことをしているのでしかない。
そう遠くない将来、もっと老いさらばえた身体を引きずった私が、親しい人、親しい遊び、親しい居場所、そういったものからお別れしなければならない・引きはがされなければならないとしたら、それに耐えられるだろうか? そのたび私は自分の何%か、ひょっとしたら十数%かを切り取られるような気持ちになって、ダブルトリプルと度重なったらうつ病になってしまうだろう。私は執着の強い人間だから、そのときに陥るうつ病は執着うつ病のど真ん中をいく気がする。
もっと卑近なところに意識を向けると、カラッとした唐揚げとお別れをするとか私にはまだ想像できない。私はよく、「人生の生きる意味」などと質問されたら「唐揚げを食べること、唐揚げを食べた個数こそが人生の意味じゃないですか?」などと答えるが、これは質問者をはぐらかしているわけではなく、実際、唐揚げを食べてうまかった体験が度重なること、そういう体験が日常のなかにあることが、人生の生きる意味、ひいては人が生きているということを少なからず支えていると思っているからだ。books&appsに寄稿した「ささやかな幸福のシード」もそうだ。週に一度は食べにいく食堂の「いつものやつ」や、月末の楽しみにしている「いつものやつ」は、生きる意味という言葉を当てはめるに値するものだと思う。だが、そうしたものとて、永遠に賞味できるわけではない。身体を損ねてしまったら、それらとお別れしなければならない。ノー唐揚げ、ノーライフ*1。そんな状況に耐えられる気がしない。
人によっては、そうしたお別れ、喪失といったことに慣れていたり、案外大丈夫だったりするのだろう。「何を大袈裟な」とおっしゃる人もいるに違いない。けれども現在の私には近親者や唐揚げのなくなった世界は直視するに耐えられないものだ。だから普段は意識にのぼらないように私の精神はできているのだけど、蝉の死骸やススキの穂、秋の風といったものにまみえると闇からそれが這い出てきて、私を怯えさせてならない。
虫の居所も悪かったのだろう、今日はたいへんにそれが悲しく、私は恐怖した。
*1:唐揚げのところは任意の好きな食べ物を入れてください



