シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「プロパガンダしかなく、扇動者しかいなくなった世界」

 
 

 
 
参議院選挙が近くなり、インターネットに選挙のにおいが充満している。そういう雰囲気に感化されたくないと思い、期日前投票を済ませることにした。例年以上にインターネットじゅうが選挙めいていて、政治めいていて、プロパガンダめいているからだ。
 
普段はアニメやゲームの話ばかりしている人々まで、選挙や政治の話をしている。今日ではアニメやゲームとて政治の標的、選挙の論点なわけだから、そうした人々が話題を変えるのはおかしなことではない。
 
そうでなくても誰にだって生活があり、その生活を政治が左右する。食い扶持だって左右するだろう。選挙直前にSNS等で政治の話が増えるのはデモクラシーのありかたとして自然だ。
 
ただ、10年ほど前のインターネットでは、選挙前でもここまで政治の話は目立っていなかったように思う。この10年間に、SNSなどで政治や候補者について言及する人の割合と頻度は着実に増えた。そうしたひとつひとつの言葉の意味も変わった。2ちゃんねる時代の場末のスレッドで政治家や政党に言及するのと、今のSNSで同じことをやるのは「意味」も「受け止め方」も「言葉の流通過程」も、違っていると思う。2ちゃんねる時代の場末のスレッドに書かれた言葉は、どうあれ便所の落書き「でしかなかった」。でも、今のSNS等に書かれた言葉は便所の落書き「であると同時に」不特定多数とつながりあって影響を及ぼし得る言葉、インターネットメディアに流通しぶつかりあい、政治的帰趨を左右する言葉として存在している。
 
ひとつひとつの言葉じたいは稚拙で影響力が乏しくとも、イワシの大群のように集まった言葉は大きな影響力を獲得する。それが政党や候補者に紐付けられるなら尚更だ。2025年の日本でSNS等に政治の言葉を書きこんでいる人は、そのことに自覚的だろう。
 
今、私たちがSNSに政治の言葉を書く時、その言葉が他の言葉たちとつながりあい、大群をかたちづくることを知らないわけがない。そのバックグラウンドにある動機が個人的な「いいね」欲しさなのか、もっと戦略的なプロパガンダなのかは問わない。どちらにしても、自分が書いた政治の言葉が拡散していくよう望む限り、その言葉は同じような言葉たちと一緒に影響力のクラウドを形成する。
 
そして、同じ過程で生じた正反対の政治的立場のクラウドと衝突する。衝突は「バーチャルリアリティだ」などと笑って済ませられるものではない。場末のスレッドからほとんど言葉が溢れ出ることがなく、便所の落書き「でしかない」とされていた2ちゃんねる時代の政治談議とはそこが違っている。誰が・どのように政治の言葉を書きこんだとしても、それが他の言葉たちと合流し、巨大な群れやクラウドを形成して(本物の)政治的帰趨に影響するのが今日のインターネットだとしたら。ひいては、今日のインターネットユーザーであるとしたら。
 
 

すべての言葉がプロパガンダなら、全員が扇動者だ

 
煮詰め過ぎた鍋料理のようにそうしたことを考えていると、にわかに、SNSの一切がプロパガンダのようにみえてきて、かつ、そこで政治の言葉を書きこむすべての人が扇動者のように思えてくる。こういう風に考えはじめると、SNS以外のオンライン空間を眺めても同じ思いは避けられない。SNS等で言葉と言葉が合流しあって影響力の大きな塊をかたちづくる、そんなネットメディアの構造ができあがってしまった後の世界で、非オープンのオンライン空間だからという理由で無条件に例外扱いしてしまうのは呑気な態度だと思う。
 
何が言いたいかというと:誰もが繋がりあって誰もが政治の言葉を拡散できる空間ができあがり、なおかつ周知されたことによって、SNSが完璧に政治的な空間になってプロパガンダの溢れる空間になった「だけではなく」、そうなったことによってすべてのオンライン空間までもが*1政治的な空間に変貌し、すべての人がプロパガンダを流す人、ひいては扇動者になったのではないか、と私は言いたいのだと思う。
 
おかしなことを言うやつだな、と思う人もいるに違いない。
実際私も、おかしなことを書いているなと思っている。
おかしいついでに、もう少し書き加えてみたい。
 
こうなってしまった後の世界では、SNS等で何も言わない態度すら、政治的なメンションの範疇として数えられてしまう。たとえば私は2025年7月10日まで特定の政党や候補者について良し悪しを表明するのをSNS上でできるだけ避けてきた。しかし、避けてきたということ自体、プロパガンダが溢れる空間となったSNSのなかではかえって浮かび上がる。誰もが政治的・政党的なメンションを戦わせているなかで、メンションを行っていないのはそれはそれで特異だ。そして上下左右さまざまな陣営の熱心な支持者からみれば「どうして“おれら”を翼賛しないのか」「どうして“あいつら”を批判しないのか」といった風にみえるだろう。
 
表現を変えるなら、「すべての人が繋がりあい、すべての言葉が合流して政治的クラウドを形成し得る空間に、政治的ではない言葉なんて存在するの?」と私は問いたいのだと思う。
 
2ちゃんねるの場末のスレッドは外界とはほとんど繋がっていなかったから、どれほど政治的なメンションを頑張ってもプロパガンダたり得なかった。それこそが正真正銘の便所の落書きというものだ。対照的に、2010年代以降のSNS、とりわけ2020年代以降のSNSにおいては、人と言葉は本当に繋がりあうから、どんなにしようもない政党批判/政党翼賛でも、それらは並び合い、繋がりあい、政治的帰趨をかたちづくる水滴の一粒になり得る。だから、すべての言葉はなんらかプロパガンダ的な意味を帯びずにいられないし、すべての参加者は扇動者的な立場を帯びずにいられない。政党や候補者について言及しないよう努めていてもだ。
 
中立など存在しない。さきほど書いたように、どんなにノンポリを気取ったところで上下左右さまざまな陣営の熱心な支持者からみれば「どうして“おれら”を翼賛しないのか」「どうして“あいつら”を批判しないのか」といった風にみえるのだから、そうした人々からすればノンポリ気取りとは、改悛させるべき政治的ターゲットに他ならない。そもそも振り返って、この積乱雲の渦中のような政治的衝突のなかで、自分は中立的だ、ノンポリだとうそぶくのは度胸の要ることでもある。
 
こうして考えると、SNSってすごい政治装置だなと思う。極端なことを言えば、SNSでは息をしているだけで私たちはプロパガンダであり扇動者であるし、他のプロパガンダや扇動者のターゲットでもある。「万人の万人に対する政治」があるという前提で眺めてみたSNSの景色。
 
「個人の発言の狙いが何か」「個人が実際に扇動的かどうか」など知ったことではない。そういうことにかかわらず、あらゆる個人のメンションがすべて政治的に有意味で、結果的にすべての個人が扇動者的性質を帯びてしまう、そんな磁場が全世界を覆っている、と考えてみた時の世界の景色。
 
磁場の中心地はもちろんSNSだが、磁場はSNSの外部にも流れ出て、ある程度までは他のオンライン空間に、なんならオフライン空間にも波及しているだろう。

その、すべてを政治に巻き込んでしまう磁場の、2025年における強度は、2010年頃とは比較にならないほど強い。これは、個々人の問題である以上に、今、SNSというメディアが帯びている磁場の問題、そしてメディアとしての性質の問題であるように思う。
 
こうなってしまった今、ひとりひとりにプロパガンダをやるのかやらないのかと問うことに意味があるとは思えない。オンライン空間全体が政治的磁場に覆われた結果、そこにいるすべての人間が扇動者的で、すべてのメンションがプロパガンダ的である、という認識だけが有意味に思えてしまう。そうなってしまった後の世界は、どうなるのだろう? 
 
 

*1:ひょっとしたらオフライン空間も?

2025年春の読書振り返り(個人的備忘録)

 

 
2025年も半分が過ぎた。この半年間は、とにかく色々なところでおしゃべりやプレゼンテーションをした。そういうことには幾らか慣れたのは良かったが、長い目で見れば「もっと勉強をしなければ」という思いが膨らんだ半年だったと思う。
 
この文章は、この2025年の4~6月に読んだ本、読もうとしている本についてダラダラ書いたものだ。半分ぐらい公開し、半分ぐらいを課金エリアに安置しておきたい。
 
 
【豆の歴史】

 
前々から、ホモ・サピエンスの農業についての話のなかで豆の重要性がどうなのか、もっと突っ込んだ内容を読んでみたいと思っていた。で、たまたまこの本とご縁があって読むことに。ところが記述内容は人文社会科学系に寄っている感じで、生物学系については論拠が少し古い感じがした。豆とホモ・サピエンスというテーマで考える際には、ちょっと遅れているかもしれない……という警戒ランプが灯った。
 
この本で面白いのは、なんといっても世界各地の豆、および豆に関連する文化が知れることだ。人類にとって豆がどんなに重要なのか、どう重要なのかを知るには良かったし、お料理の話が豊富で楽しかった。それから原書房さんがこの手の○○の歴史をシリーズ化していること、この『豆の歴史』はその一冊に過ぎないことが知れたのも良かった。シリーズのなかには読んでみたいものが色々ある。全部買うのはきついので、図書館で試し読みしてみるのがよさそう。
 
 
【はじめての子ども論】
 
フィリップ・アリエス『<子供>の誕生』はアナール学派の名著にして、子ども史の草分けなんだけど、当然、その内容や論拠には批判もある。アリエスの本は面白いし、批判を集めているという点では古典でもあるけれど、それゆえ賛否もあるし、そこから発展した議論もある。そういうのを専門の人がまとめた本。この本も、有斐閣が出している「はじめての○○」シリーズの一冊のひとつで、他にも色々と気になる品がある。
 
中盤以降は日本における展開、日本における児童保護や行政の挙動、障碍児や外国人の子どもの問題なども記されていて、ああ、専門家の本だぁという読み応えがある。講義が本になっているためか、あちこちに学生向け(そして読者向けの)クエスチョンがあるのも良かった。『<子供>の誕生』を読んで関心を持った人が次にステップアップする解説書としてはこれがいいように思えた。
 
 
【リキッド・ライフ】
 
ポーランド人の社会学者、バウマンの本。後期近代(現代社会)を論じる「リキッド・モダニティ」という視点は前々から知っていたけれども、この『リキッド・ライフ』はなかでもアイデンティティ形成に関連した本で、後期近代においてアイデンティティ形成がどうであるのかを、社会学者の視点から記述している。イギリスの社会学者であるアンソニー・ギデンズが著書で書いていることとの互換性は高いように感じられた。後期近代の論者って感じがぷんぷんする。
 
心理発達の一環としてアイデンティティ論を読みがちな私みたいな読者からみると、バウマンのアイデンティティ論とそこに登場する人間像は、流動化した社会の現状にあまりに素直に適合させられ過ぎている、と感じる。リキッド・モダニティだから、人はひとところに留まってはいられないし、親密圏においても労働者としても消費者としてもアイデンティティの構成要素は流動的でなければならないし、また、そうだって話は理解できる。だけど生の人間、生物学的与件に制約された人間は、そんな簡単に流動化した社会に適応できるわけがない、いや、控えめにいっても好条件に恵まれなければ無理でしょ、って思う一面もある。
 
ただしバウマンはそこもわかっていて、そういう流動化した社会に置いていかれる人間、本書のなかで頻繁に出てくる言葉を借りるなら「廃棄物」になってしまう人間についても色々と書いてはいる。リキッド・モダニティが、ある種の疎外を含んでいることなんて百も承知だろう。それから子ども。子どもが後期近代のなかでどういう位置づけなのかを読むのは、とても参考になった。ちょうど『はじめての子ども論』を読んだ少し後に触れたこともあって、良い意味で社会学者らしい目線で後期近代の子どもの立場と、その子どもの立場をでっちあげている大人たちについて復習できた気がした。
 
心理発達という観点から読むとちょっと物足りないけれども、後期近代における人々の課題を知るうえではいけていると思います。いい本なんじゃないでしょうか。
 
 
【法治の獣】
 
自分が読みたいSFは、こういうSFです! 私の好物がぎゅうぎゅう詰めになったSF。サイエンスフィクションであるだけでなく、ソーシャルフィクションめいた一面もあり、それでいて未来、それでいて星系探査モノめいたところがある。ゲーム『stellaris』の序盤パートが好きな人にも向いていると思うし、ここでとりあげられているSF成分のほとんどは、『stellaris』でいえば社会科学分野研究が該当する。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が好きな人にもお勧めかもだけど、文体は違う感じ。私はすごく気に入ったので、他の作品もまとめて買いました。時間ができたら読むつもりです。
 
こんな感じで、忙しいなりに色んな分野の色んな本を読んでまわっています。
 
※記事としてはここまでです。
 以下は、常連さん向けのメッセージとなります。

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90~00年代にアキバを闊歩していたオタクはどこへ行った?

 


ドラマ『電車男』に登場したような、かつてのオタクの典型像に相当するオタクたちはどこへ行ってしまったのか? これについて、私がこの30年ほど観察を続けてきた結果についてしゃべってみる。
 
 

そもそも、当時のような服を買って着るのが一苦労

 
本題に入る前に、かつてのオタクの典型的服装を再現する難しさについて書いてみたい。
 

 
当時のオタクの典型的服装としてイメージされるのは、よれたTシャツ、見栄えのしないチェック柄のシャツ、安物のジーンズ、などだったように思われる。TVドラマ『電車男』に登場するオタクたちは当時を非常によく再現しているので、思い出すには良いように思う。
 
問題は、そうした服が今、どこにどれだけ売っているかだ。
今でも頑張れば手に入る。でも少し頑張らなければ手に入らない。いまどきはユニクロやGUなどが幅をきかせ、そこで手に入る服にはユニクロやGUの雰囲気がついている。ユニクロやGUで一番買い求められる服を買っても、20年前の再現とはいかない。たぶん2020年代らしい、ちょっと控えめな服に落ち着いてしまうんじゃないかなと思う。
 
00年代までだったら、郊外の国道沿いの量販店に出かければオタク然としたアイテムはまだまだ揃えやすかった。けれども20年もの歳月が経つと、郊外の国道沿いの量販店のラインナップもさすがに現代風になってしまうわけで、かなり意識して買い求めなければ昔のオタクの恰好そのものにはまとまらない。そもそも外見に頓着しないオタクは意識して自分の服を買い求めたりはしない。2020年代になっても外見を気にしない中年~老年オタクがいたとして、彼/彼女がめんどくさそうに服を選んだり、親に買ってきてもらったりした場合には、もっといまどきの恰好になってしまうだろう。
 
衣服の調達という視点から考えても、20年前のアキバで典型的だった服装を続けるのはそれなり難しい。だからもし、20年後の今も彼らがオタクを続けていたとしても、同じ格好をしているとは考えないほうがいいと思う。
 
 

20~30歳でオタクをやっていた人らが40~50歳でオタクを続けていられるか問題

 
うちのブログでは繰り返しの話題になるけど、ライフスタイルとしてのオタク、つまりオタク然とした活動は自然に続けられるものじゃない。オタクを自称する愛好家たちはしばしば、「オタクってのは自然になるものなんだ」みたいなことを言うし、確かにオタクになるまでは自然経過かもしれない。でも「オタクを続ける」ってのは自然なことじゃない。少なくとも私が観察している限りでは、オタクは、オタクになるのは自然でも継続するには人為的な努力が必要になる。特にユースカルチャー領域のオタクはそうだ。
 
その努力は、はじめのうちは不要かもしれない。しかし歳月を積み重ねるにつれて必要になり、やがて必須になる。
 


 
私は今年で50歳になるが、30年以上アニメやゲームを楽しんできたなかで、いろいろな愛好家やオタクに出会い、別れてきた。その全員の現在を知っているわけではないけれども、幾人かは現在でも消息がわかるし、オタクを続けられなくなってフェードアウトしていった時までは消息がわかる人もいる。昔はあんなに自然に・熱心にゲーオタやアニオタをやっていた人でも、40歳時点、50歳時点ではゲーオタでもアニオタでもなくなっている人は珍しくない。
 
そうした人たちが完全にゲームやアニメと切れているとは限らないことは断っておく。たとえば先月までの『機動戦士ガンダムジークアクス』のオンエアー中は、昔はガンダムにうるさかった人が一時的に帰ってくる現象があった。でも、「かつては毎クールごとに複数本のアニメを観ていたはずの人も、今ではたまにしかアニメを観ない」なんてよくあることだ。昔のアニメのことはよく思い出せても、2020年代につくられたアニメのタイトルはほとんど知らない、なんてこともよくあることだ。
 
これは私自身の話になるけれども、今の私はゲームやアニメと付き合うにあたって相当な努力が必要になってしまっている。妥協やあきらめもだ。
 

 
たとえば私は『艦これ』はどうにか第一線で遊ばせてもらっているが、これは他の幾つかのゲームとトレードオフの関係にある。アニメやゲームに限ったことではないが、エンタメと向き合うには時間と体力が必要で、忙しい中年の今、そのための時間や体力を捻出するのは楽なことじゃない。
 
それから登場人物たちの年齢。
アニメやゲームはユースカルチャーとして発展してきたもので、基本的に中年の顔をしていない。中年向けの作品も最近は増えてきたが、すべての作品がそう創られているわけではない。
 
昨今はマスボリュームの大きな私たちの世代を狙ってのリメイク作品なども作られているが、リメイクされた作品に登場する主要キャラクターも基本的には若者だ。「登場人物に感情移入するばかりが作品の鑑賞スタイルではない」のは確かにそのとおりだし、私も、感情移入に依存しない鑑賞態度の割合は次第に大きくなってきた。とはいえ、ティーンエージャーのキャラクターたちがワチャワチャやっているのを眺める際の姿勢は20年前と同じではない。
 
でもって、私の観測範囲では、そこまでしてアニメやゲームに食らいつくのをやめてしまった人がかなりいる。やめた時期はさまざまだ。35歳前後でやめた人、40歳前後でやめた人、45歳前後でやめた人。コミケや現地イベントに行っていた人が、ある時から行かなくなる。毎シーズンアニメを10本ぐらい見ていた人が3本ぐらいしか見なくなり、1本しか見なくなり、見ないシーズンのほうが多いぐらいになる。
 
ゲームについても、人気タイトルの最前線でプレイしなくなったり、新しいタイトルでは遊ばなくなったり、steamの積みゲーの数を誇るばかりになったり。ゲームの場合は、動体視力の低下やかすみ目、老眼といった問題もついてまわる。ゲームは中年の顔をしていない。経験を生かせば戦えないことはないけれども、十代や二十代の頃のような身体性にまかせたプレイはもうできない。腰痛も怖いし、長時間座りっぱなしによる血液循環の問題も怖い。中年~老年のプレイヤーは、若年のプレイヤーよりもエコノミークラス症候群などの危険な状態に陥りやすいことは、中年以降のゲームプレイヤーは全員知っておくべきだと思うし、それを防ぐための小休止や水分補給などに自覚的であって欲しいと思う。
 
オタクだから人間であることを免れるわけではない。
オタクだからフリーレンのように生きられるわけでもない。
年を取ればオタクだって身体の加齢に直面するし、集中力やバイタリティを維持するのも大変になってくる。社会的加齢も問題だ。中年はしばしば忙しい。子育てをしている人は子育てにリソースを割くことになるし、職場で責任ある立場を引き受けている割合も高くなる。そういう身上で20年前と同じようにオタクをするのは苦労なことだ。20年前にアキバを歩き回っていたオタクのなかにも、子育てや仕事に本腰を入れるなかでアニメやゲームなどに触れていられなくなる人、オタクというにはすっかり薄くなってしまう人はいると思う。
 
それがその人の選択なら、決して悪いことじゃない。
 
 

20年以上活躍している人には、プロかセミプロっぽい人が多い

 
それとは別に、20年前とほとんど変わらずにオタクらしく活躍している人もいる。私の観測範囲では、そういう人の数は無視できるほど少なくはない。ただ、そういう人の多くはコンテンツを作る側に回っている。プロと言って構わない立場だったり、セミプロと言いたくなるような立場だったり。
 
つまり、なんらか商業出版に携わっていたり、同人誌を定期的に作っていたりする人たちだ。インフルエンサーやキュレーターとして活躍している人もいる。こうした人たちは、現在も20年前とあまり変わらず、作品を盛んに摂取し、作品についてたくさんおしゃべりをしている。ただ、そうした人たちは趣味という水準をはみ出している気配もあり、オタクと仕事、オタクと収入、オタクと人生の境目が消費者としてのオタクたちに比べて曖昧にみえる。こう言ってはなんだが、オタクを続けることができるだけでなくオタクを続けなければならない立場にあるようにも見える。金銭が絡んでいる場合、それはもう仕方のないことではある。
 
だけど、こうしたプロやセミプロっぽい人たちを見ていても、「タフだなぁ」という思いは禁じ得ない。なかには健康を損ねかけながら続けているようにみえる人もいるが、そうは言っても根性やガッツや強い意志がなければ続けられないことを続けているのも事実。彼らが何の工夫も努力も制約もなしに活動を続けているとはまったく思えない。
 
同世代の人がそうやって現役でアニメやゲームを追究しているのを見るのは嬉しいことだし、あやかりたいと私は思う。だけど、そうして現役を続けている人々の陰には努力や運や才能の恩寵があり、ひょっとしたら人脈やコミュニケーション能力の恩寵もあるだろうってことは忘れないでおきたい。思春期から遠く離れてもしっかりオタクを続けるってのは、本来そんなに簡単なことではなく、たぶん、自然なことでもないと私は思うからだ。
 
 
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『信州自遊塾』さんにて、ネット社会の人間への影響についてお話します

 

 
2024年に続いて、今年も松本市でおしゃべりをすることとなりました。今回のお題は「ネット社会は人間の精神にどう影響する? ~スマホ、ゲーム、SNS、AI、etc~」となっています。
 
 
日時:2024年7月6日(日) 14:00-16:30(開場13:30)
松本市中央公民館 一般500円 (※信州自遊塾会員・大学生以下は無料)

長野県、特に中信地方の方で、加速する情報技術やAIといったものの未来についてご関心がある方がいらっしゃったら、来場いただけたら嬉しいです。なお、今回は第二部で芥川賞作家の伊藤たかみさんとフリーディスカッションがあります。伊藤たかみさんは1971年生まれ、私よりもちょっと年上の世代にあたります。私が1975年生まれですから4年の違いですが、インターネットの黎明期~普及期において、この差は小さくないと私は想像しています。世代の違い、活動領域の違い、大学生時代に経験したことの違い*1がインターネットの体験にも反映されているでしょう。どうあれ、ざっくばらんにインターネットの話をさせていただきたく思います。
 
第一部は、私が「講演」することになっていますが、そんなに格式ばったものではないと自認しています。ただし、インターネット、SNS,ゲーム、AIについての見通しについて手抜かりなく、遠慮なく、忌憚なくお話する予定です。たとえばAIは、いわゆるシンギュラリティやAGIといったものが到来すれば大変なことになりますが、到来しなくても大変なことになる、否、もうなりつつある、というのが私の意見です。今、AIを積極的に使っているのは、いわゆるイノベーター理論でいうところのイノベーター~アーリーアダプターで、ようやくアーリーマジョリティが触りはじめたところ……といった状況かと思いますが、たとえば現在のSNSやスマホのように、レイトマジョリティやラガードにまで普及する段階になれば、AIの使われ方も、AIの影響も違った風になるでしょう。
 
AIをはじめとする情報技術は、そうしたハイテクを縦横無尽に使い尽くす意志と能力を持った人に影響するだけではありません。そうしたハイテクをそこまで使いこなせない人、むしろそれらに振り回される人までもが使い始めざるを得なくなることで顕在化していく影響もあるよう思います。情報技術は、その技術の純粋な技術的可能性だけでなく、普及過程や社会での受け取られ方によっても未来を変えてきました。これからもそうでしょう。そういうこともお話しできたらと思います。
 
なお、インターネット依存やゲーム症といったものについてもある程度は触れるつもりですが、それらの社会的位置づけじたいも情報技術の普及過程のなかで位置づけられてきたものなので、それらの診断や治療の話よりも、そうしたものが顕在化してきたこれまでと、もっと情報技術が進んだこれからでどうなるのかに重きを置いてしゃべりたいと思ってます。
 
今回の話のある部分は
 

 
拙著『ないものとされた世代のわたしたち』の第五章の内容に沿っています。ご来場いただけないけれども内容の雰囲気を知りたいって方は、こちらを読んでみるのもアリかもしれません。
 
前回同様、目線をあくまで未来に向けながらおしゃべりできたらと思います。
 

*1:私は大学生時代を長野の信州大学で、伊藤さんは東京の早稲田大学で過ごしています

最高のMADムービーみたい『ガンダムジークアクス』感想

 
  
『機動戦士ガンダムジークアクス』最終話を夜中に起きて視聴した。いつものように早朝に見るつもりが午前1時半に目が覚めてしまい、ええいままよと視聴したら、いろんな気持ちが渦巻いて結局明け方まで眠れなかった。最終回にふさわしい、一段と眠たい水曜日になってしまった。私は『ジークアクス』を「今まででいちばん眠たいガンダム」として記憶するだろう。
 
ストーリーの展開として私がいちばん期待していたのは、マチュとニャアンの物語が描かれることだったから、結末は満足がいく感じだった。内田弘樹さんが、


 
「エンディングのマチュとニャアンの家にララァの服があるから、ララァとの繋がりは残っていて、幸せにやっている」、と解釈しているのを私も採用することにした。そう解釈できるエンディングを用意してくれたことを嬉しく思う。
 
もっと言えば、私はマチュとニャアン、特にマチュがすごく好きだったのだと思う。主人公、なおかつ私が本作で一番好きなキャラクターでもあるマチュがなかなか登場しないことにヤキモキした時期もあった。もし、そのマチュ(とニャアン)が最終話でもっと描かれなかったら、そしてマチュが軟着陸した場所がこうでなかったら、きっとフラストレーションだっただろうなと思う。
 
 

MADムービーとしての『ジークアクス』

 
マチュとニャアンの物語としての魅力や構造はさておいて、『ジークアクス』はガンダムネタやアニメネタが高密度に詰まった、なんともオタク然とした作品だったと思う。
 


 
この「ものすごい公式同人誌を見た」は同感だ。私なら「ものすごい公式MADムービーを見た」と表現したい。どちらにしても、ものすごいクオリティの二次創作のような作品だった*1
 
『ジークアクス』には、過去につくられたさまざまな作品の引用、インスパイア、変奏といったものがちりばめられていた。ガンダム世界における「原典」である『機動戦士ガンダム』『機動戦士Zガンダム』『機動戦士ガンダム逆襲のシャア』はもちろん、ゲーム『ギレンの野望』、エヴァンゲリオンなどのカラー(またはガイナックス)の過去作品、ほかにもセーラームーンやらクトゥルフ神話やら、あれこれの作品の引用がぎっちり詰まっている。
 
その道の神様のようなひとたちが作った作品なのだから、すべての引用やインスパイアやオマージュを正確に指摘できる人なんて限られているだろう。
 
でも、よくできたMADムービーとはそういうものだと思う。大量の過去作品から引用やインスパイアをしているからといって、すべての過去作品を知り尽くしていなければ楽しめないわけではない。知っていれば知っているほど楽しめるのはもちろんだが、ある程度までは知らなくても、なんならほとんど知らなくても楽しめるのが優れたMADムービー(またはMADムービー的な作品)だと思う。
 
 
たとえば「こんなんエヴァじゃん」としか言えない中学生でも楽しめるぐらいには、『ジークアクス』はよくできたMADムービー(的な作品)だった。

でもって、よくできたMADムービーはファンを知らない引用先やインスパイア先へといざなう。『ジークアクス』は、たぶん、少なくないファンを過去の作品に誘導した。ガンダムというIPの新陳代謝に果たした貢献ははかりしれない。でも、この貢献も『ジークアクス』がよくできたMADムービー的作品であること、引用元やインスパイア元を十分に知らなくても視聴可能で、なおかつ引用元やインスパイア元にいざなう力を持っていればこそ成立したものだ。制作する側が膨大な過去作品を知っていて、それを作中に巧みに組み込める技量を持っていることに支えられている点もよくできたMADムービーっぽい。
 
過去、ニコニコ動画などで最高に盛り上がったMADムービーがそうだったように、『ジークアクス』も視聴者同士が言葉を交わし合うことで引用元やインスパイア元を探り合い、教え合う現象が起こった。毎夜の放送直後からたくさんのコメントがSNSのタイムラインを席巻し、自分の知らない引用やインスパイアを知る機会や、過去の作品に関心を持つ機会として機能した。『ジークアクス』の視聴者のコメントがSNSのタイムラインを席巻していく過程を生み出したのも、『ジークアクス』がよくできたMADムービー的で、元ネタを知っている人が思わず語りたくなるネタやメタが詰まっていればこそだと、私は眺めていて思った。
 
結局それが、『ジークアクス』が(古い言葉で恐縮だが)“覇権アニメ”として君臨する大きな材料になった。現代の深夜アニメにおいてSNSのタイムラインを席巻するとは、現代の戦場において制空権や航空優勢を確保するのに等しいアドバンテージだ。
 
『ジークアクス』はそれを完璧にやってのけ、たとえばXのタイムラインの大きな割合を占拠した。その背景として、膨大かつ高密度なネタの群れ果たした役割はきっと大きい。
 
 

新作ガンダムとして、ミッションを完遂したのでは

 
まだ眠たい頭でこの3か月に起こったこと、それから劇場版のセールスのことを思うと、『ジークアクス』はその作風、そのネタ密度、その映像をとおしてSNSを完全に抑えて、いまどきのガンダムという作品が果たさなければならないミッションをほとんど完遂したのではないかと思う。
 
ここでいうミッションとは、

・話題になること
・知名度を稼ぐこと
・ガンプラを売ること
・旧来のファンを喜ばせること
・ご新規のファンを開拓すること
・ご新規のファンを過去のガンダム作品にもいざなうこと

 
あたりだが、歴代のガンダム系作品で、これらすべてを成し遂げた作品はあまりない。たとえば『ガンダムW』や『水星の魔女』はご新規のファンを開拓したが、過去のガンダム作品へとご新規さんをいざなう作品ではなかった。しかし『ジークアクス』はたぶんこれらすべてを達成したか、達成に近いところまでやってのけた。それは凄いアチーブメントだ。
 
本作が単体のアニメ作品としてどのぐらいよくできていると言えるのかは、これから振り返ってよく確認しなければならない、と思う。本作の楽しさはタイムラインのにぎわい、リアルタイムな祝祭性にも依拠していて、それを成立させるカラクリとしてMADムービー的な性質は大いに役立った。制作陣&運営陣のタイムラインのコントロールが素晴らしかったのも意識しないわけにはいかない。彼らはさまざまなネタや関係者コメントを効果的なタイミングで投入していた。そうした支援効果が全部剥がれ落ちた後に『ジークアクス』がどんな風に見えるのかは、この祝祭に包まれた眠たい頭ではうまく想像できない。
 
個人的には、もっとマチュとニャアンの物語に時間的リソースを振り分けて欲しかった。1クール12話の、極端に高い情報密度の作品だったから、マチュとニャアンの物語……というよりそれぞれの登場頻度は作中で飛び石のように点在していた*2。他の登場人物たちの話にしても、もっと見てみたかったという気持ちはぬぐえなかった。してみれば、私はこの作品のキャラクターたちのことが好きになっていたのだと思う。好きになったキャラクターたちの活躍をこんなに断片的にしか見れないこと、こんなに短い時間しか見れないことに私は寂しさを感じているように自覚した。
 
でも、それは仕方ないことだ。1クール12話のなかにMADムービー的な面白さを超高密度でぶっこんだ作品である以上、個々のキャラクターの出番はトレードオフ的に小さくなる。キャラクターそれぞれの物語や言動のわかりやすさについても同様だ。本作はキャラクターの言動についても最小限の時間で最大限の情報を提示するようにつくられていたから、その情報密度の高さゆえに、情報の冗長性はかなり低いように感じられた。
 
実際、放送直後のSNSで「わかりにくい」「わかりづらかった」といった声をときどき見かけたように思うし、私自身、自分がどこまで正確に話の筋を読解できているのか、自分のアニメリテラシーが心配だった(今でも心配だ)。ぼんやりと一回きり見ただけでは見落としてしまう情報密度だったのは、MADムービー的な各種のネタだけでなく、キャラクターそれぞれの振る舞いについても同様だった。
 
それほどまでに視聴者を信頼しきった作風だったと言えるかもしれない。賛否あるだろう。でも、この作品はそういう作風にすると決めたうえでつくられた作品だろうし、タイムラインを占拠した経緯からいって、そういう作風で大成功をおさめた作品として記憶されるだろう。
 
ともあれだ。
『ジークアクス』は賛否も含めてガンダム内外のファンに3か月間(1月から数えるなら約半年間)のカーニバルを提供し、興行として完璧に成功したわけだから、そのリアルタイムの盛り上がり、このお祭り的性格を抜きにして作品を云々するのはやっぱり変だと思う。実際、私はまだお祭りの熱気のなかにいる。だから眠い目をこすりながらこうしてアニメ感想文を書いている。
 
私が体験したのはタイムラインの賑わいも含めた、ほんのひとときの体験型エンタメとしての『ジークアクス』だった。だからこれは、「事件」や「出来事」だったのだと思う。
  
1クール12話であらゆる人を完璧に満足させ、あらゆる人の好みに適った作品にすることなどできない。そうした制約のなかで、プロが作った最高のガンダム二次創作的作品、最高のガンダムMADムービーとして『ジークアクス』を世に送り出し、こんなに驚きと熱気と期待に満ちた時間をシェアする機会をつくってくれたひとたちには感謝しかない。ありがとう、楽しかったです。もうしばらく、この熱気のなかでゆらゆらしていたいです。
 
 

 

*1:もちろんこれは「きれいなMAD」「公式MAD」とでも言うべきものだが

*2:途中からマチュとニャアンが別行動になっていたのも、この飛び石感を助長していたように思う