シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「政治運動としての喫煙・ギルティ消費」を考える

 

 
たいして印象に残らなかった本が、再読すると違って見えることがある。
今回私は、『ヤニねこ』や『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』を思い出しながら上掲新書を再読し、前と違う印象を得た。
 
 

衛生化や健康化がもたらすのは、衛生や健康だけなのか(否、そうではない)

 
この『近代の呪い』という本は、そのタイトルどおり近代という時代、近代という体制に対してけっこう手厳しい感じの本だ。近代社会が成立していくことでかえって失われていく個人の自由、前近代の民衆にとって好ましく、お偉いさんのいうことをきかなくても済んだ隙間までもが容赦のない中央集権化や社会契約化によって消えていく様子なども批判的に書いている。国民のひとりひとりが近代人になった行く末として、たとえばナショナリズムに基づいた大戦争が起こった一面もあるじゃないか、みたいなことまで書かれていて、それもそうだろうなと私は思った。
 
さておき、今回とりわけ刺さったのは以下のフレーズである。
 

”一方、社会の福祉化、衛生化が進むにつれ、個人はまずます国家あるいは社会の管理を受けいれざるをえなくなります。人権化というのは変な言葉ですが、いわゆるポリティカル・コレクトネスも含めて、差別の徹底的排除の方向のことです。衛生化というのは、禁煙を含め社会環境を徹底的に殺菌・無害化しようとする方向のことです。いずれも厖大な官僚・テクノクラート・専門技術者を必要とします。……このような個人が国家(社会と言い換えてもよろしい)の管理に従属していく様相は、今後強まるばかりでしょう。それはみな、民衆世界の自律性を近代が撃滅した結果なのです。” 
渡辺京二『近代の呪い』 

 
人権化・衛生化・健康化が手に手をとりあい、人間をより健康的で生産的な存在に、人間をより人権の守られた存在に、そして社会を衛生的で防疫的に変えていく。そのうち衛生や健康は、自然科学領域と一般にみなされるテクノロジーである医学が司っているが、そのテクノロジーが国民全体に適用された時に起こる社会的変化は自然科学領域だけでは説明できない。人権化も含め、いちれんの「人間を大切にするためのはずの変化や改善」は、個人が社会に従属・依存する度合いを不可避的に高めていき、それは、社会システムが個人の統治を深めていく事態と不可分のものだ。
 
だが、表の看板としてはエビデンシャルで自然科学の装いを持った衛生化や健康化が、人文社会科学的に見過ごすことのできない統治上の効果をもたらす点について、その推進者たちはどこまで自覚できていただろうか? たとえばコロナ禍に際して、医療従事者のほとんどはそうではなかったと思う。医療従事者たちは、自分たちのやっていることを自然科学的な活動とみなし、専ら自然科学的にそれを説明した。もちろん、彼らが嘘をついていたわけではない。しかしそれは社会に強烈に作用する活動でもあり、コロナウイルスを封じ込めるという意図そのものは自然科学的でも、封じ込める過程で医療従事者が権力をふるいその権力が社会の中枢から末端にまで影響するというプロセスじたいは人文社会科学的、あるいは政治的だった。その強烈な人文社会科学的政治作用は、日本国民にマスクをさせ、行動を自粛させ、サービス産業がダメージを受ける政治決定を正当化させたり、逆に観光業や飲食産業を生き残らせるための政治決定をも正当化させた。
 
コロナ禍における出来事は、こうしたことのわかりやすい一例でしかない。また、統治や政治の表の看板として選ばれるのは医学だけでもない。
 
人間をより安全にするため、人間をより健康にするため、人間をより生産的にするための諸技術は、ショッピングモールの空間設計のような人間工学の顔つきをしたもの、法曹的な問題や倫理的な問題といった人文科学のような顔つきをしたものまで、色々とある。それらの総合として、ミシェル・フーコーがバイオポリティクス(生政治)と呼んだような、やさしい統治と権力が現代社会を覆いつくしている。そうした権力は、不健康な生活習慣を持っている者を直接罰したりはしない。システムによって誘導し、囲い込み、不健康に対して後ろめたい気持ちを──それこそギルティな気持ちを──沸き起こさせるような搦め手を用いて人々を健康や安全や生産性へと導く。力づくで健康や人権が執行されることはめったにない。だからこそ逃れがたいし、自発的にウェルビーイングに取り組まなければならない気持ちにもなる。たとえば私たちは、飲酒や喫煙のような健康リスクを伴う行動を選択するにあたって、官憲からの罰によって制御されるよりも、内面から湧いてくる罪悪感やうしろめたさによって制御される。罪悪感やうしろめたさで人を統治する諸技術が、何重にもこの国を、私たちを覆っている。
 
 

統治権力が健康を押し付けるほど、不健康は政治的プロテストになる

 
さきほど書いたように、バイオポリティクスによる統治はダイレクトな罰を全面に押し立てた統治よりもわかりにくく、避けにくいものだった。だが、ものには限度というものがある。令和の日本社会のように、ありとあらゆるところにバイオポリティクス的な「配慮」や「啓発」が配置され、それらに私たちが小突き回され、角がとれていくよう期待される漂白過程においては、さすがにそれも自覚される。なかには令和の日本社会への親和性が高いために「配慮」や「啓発」に小突き回されているとは感じない人、自分は自由に生活していると心底思える人もいるだろう。しかしバイオポリティクスによる統治が深化すればするほど、「配慮」や「啓発」に強いられて(自分自身の)不健康や不衛生や獣性を取り払わなければならないと感じる人、(自分自身の)不健康や不衛生や獣性に後ろめたい思いをしなければならない人の割合は増えてくるだろう。
 
現代社会の生きづらさにはさまざまな種類があり、それを言語化する理路もひとつではない。
だが、現代社会の生きづらさのひとつとして相当に有力で、多くの人にも共有されつつあるのは、おそらくこの「配慮」や「啓発」によって私たちをより善く生きるように統治する権力の存在と、それが張り巡らされた政治-権力的-空間的布置だ。ちなみに、バイオポリティクスの手管のほとんどは、エビデンシャルな自然科学的装いにせよ、人倫に訴えかけるものにせよ、しばしば脱ー政治化されていて中心的人物もよくわからない。「エビデンシャルな自然科学なのだから、これは政治的な問題ではなく施行して当然の問題だ」とか、「人倫にかかわるのだから、これも政治的な問題ではなく施行して当然の問題だ」とか、だいたいそういう顔付きをして社会に配置され、不特定多数のアクターやエージェントによって遂行されている。だが、いかに脱ー政治化の装いを備えていたところで、それらが私たちに影響を与え、行動を制限したり、内面にうしろめたさを埋め込み行動を改変させようとする力を備えている限り、やはり政治の問題・権力の問題であることを免れない。そしてバイオポリティクスによる私たちの生の統御は20世紀に比べて21世紀において格段に進歩しているのだから、不健康や不衛生や獣性を自分自身のうちに抱えている人にとって、令和日本社会、少なくともその本家本流とでもいうべき中核は、漂白され過ぎたもの・清潔すぎるものとしてうつるだろう。
 
そうした街じゅうにあふれた「配慮」や「啓発」にどうしても馴致されきれない人は、(『ヤニねこ』の登場人物でいえば妹子のように)自分自身の内面にあるそうしたものを抑圧しながら生きるか、(ヤニねこのように)社会の周縁で生きることを余儀なくされるしかない。
 
さて、そうまでして人権化・衛生化・健康化が推し進められ、マジョリティも熱烈にそれを支持するようになると、おかしなことが起こり始めると思う。バイオポリティクス的な施政の実施者たち自身の思いとは別に、それによって漂白されきれずに自分自身を抑圧するしかない者やはみ出してしまって社会の周縁で生きることを余儀なくされる者にとって、脱ー人権化や脱ー衛生化や脱ー健康化がある種の政治的プロテストとしての意味合いを帯びてくる。それらは一般に、国家や官公庁や大企業や産業によって推し進めるものだから、ここでいう政治的プロテストはアナーキズムの色彩を帯びずにはいられない。
 
たとえば喫煙の政治的含意。
本来、喫煙の政治的含意だなんて馬鹿げているし、まずは健康を害するマイナス面や依存性について意識されるべきだろう。だが統治権力が健康を押し付ければ押し付けるほど、喫煙という行為は統治権力に対するプロテストという意味合いを、あるいは統治権力から距離を置いている自分をディスプレイする意味合いを帯び始める。喫煙をしたからといってバイオポリティクスに覆われた社会が変えられるわけではない。それでも喫煙をしているその瞬間、喫煙者はバイオポリティクスのあぎとから脱して文字通り一服することができる。
 
これは、喫煙男性がマジョリティだった時代にはナンセンスなことだった。マジョリティが喫煙をしている時に喫煙してみたところで、統治権力に対するプロテストとはなり得ない。だが、統治権力によって喫煙が制限されれば制限されるほど、喫煙という行為は統治権力の望みどおりに振る舞っていないという含意を、あるいはバイオポリティクスによる統治に対する不服従としての含意を強めていく。
 
同じことは飲酒やドカ食いといった、他の不健康にもある程度まで言えるだろう。それらの行動について「身体によくありません」「控えましょう」と統治権力が押せば押すほど、飲酒やドカ食いは統治権力に対するプロテストとしての意味合いを、あるいは社会的政治的制限をかいくぐって自由を満喫する悦びを帯び始める。喫煙や飲酒やドカ食いをしたからといって、それで統治権力がひっくり返るわけではないし、それらが身体に悪いことは強調されなければならない。しかし、健康的であれ・衛生的であれ・生産的であれといった今日的要請が強まれば強まるほど、その政治的圧力を圧力として自覚する人の数は増えるだろうし、それらに囚われていない時間は蠱惑的となるだろう。
 
「ギルティ消費」という言葉を耳にする頻度は次第に増えている。そういう文物が社会の水面に浮かび上がってくるのは、要するに、バイオポリティクスによる統治の圧力がますます強くなり、その圧力に従うことに疲れている人も増えているからこそ、ではないかと思う。
 
[関連]:なぜ僕たちは『ちいかわ』の過酷な地獄に救われるのか?――『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』と新自由主義の漂白社会|ペトロニウス|物語三昧
 
 

自由の宛先が自分自身の身体ぐらいしかない悲哀

 
バイオポリティクスによる統治が猖獗をきわめる2020年代の令和日本社会にうんざりしている人は、喫煙や飲酒やドカ食いをすべきだろうか?
 
正直、私はそうは思わない。
そんなことをしたからといって、本当の意味で社会に対するプロテストとはならないからだ。
「大文字の政治運動」としての意味合いは期待できない。
 
たとえば誰も観ていない場所で喫煙や飲酒やドカ食いをしたからといって、それで社会的になんの意味がある?
 
問題なのは、そうした政治運動としての不健康行為をやったとしても、徹頭徹尾、個人的なものでしかない点だ。
たとえば私が喫煙したからといって、それがバイオポリティクスをなしている統治勢力に対する実効的な抵抗運動になるとはまったく思えない。飲酒やドカ食いにしても同様だ。それが意味合いを帯びるのは、せいぜい自分自身に対してでしかない。社会や他者に対する政治的効果が見込めないプロテストなど、社会的にみればプロテストとしてのていをなさない独りよがりだ。そんなことのために自分自身を傷つけたり健康リスクを吸い込んだりする値打ちがあるとも思えない。
 
近い未来に、もっと多くの人がギルティ消費に魅力を感じるようになり、ひそやかな不健康に耽りたくなったとしても、それがひそやかな個人的行為にとどまる限り、この「配慮」や「啓発」をまとわりつかせる社会とその体制を改変する力はまったく宿らない。対照的に、バイオポリティクスを駆使する統治勢力は、容赦のない組織戦を続けるだろう。たとえばアニメ『ヤニねこ』が放映されるのと軌を一にして、街でやたらと禁煙キャンペーンを見かけるようになったが、統治勢力はそのように組織の力を用いて「配慮」や「啓発」を推し進めていくから、独りよがりなプロテストよりもはるかに強力な影響力を発揮し続ける。それが統治というものだと思う。
 
まとめると、健康や衛生や生産性にまつわるバイオポリティクスが進行すればするほど、そのネガとしてのギルティ消費は一服としての主観的効果、統治に対するプロテストとしての主観的効果を強めていくだろう。しかし、それが個人的なもの・ひそやかなものに留まる限り、実効性のある政治運動、まとまりのあるプロテストとはならないから、独りよがり以上の意味合いを持ちえない。だから良いとか悪いとか、そういったことを私は言いたいわけではないし、団体運動をやりなさいと言いたいわけでもない。ただ、こういう濃密なバイオポリティクスによる統治が存在すれば、その外部を呼吸したい人も増えるだろうし、事実増えているんじゃないかと疑う筋がチラチラ見えるようになったことを、ここでは指摘するにとどめておきたい。
 
ほかにも、『ヤニねこ』『ドカ食い』『みいちゃん』らへんについては言いたいことが色々とあるし、カウンターカルチャーとギルティ消費の関係についても一席ぶちたいけれども、今日は時間切れなのでここまでにします。
 
※なお、この文章はしばらく下書きのまま放置されていましたが、よしきさんのブログを読み、催促された気持ちになったので今朝、急いで書き上げました。
※この話は、昨今、界隈を騒がせているコンテンツや消費行動について述べたい全体の一部分でしかなく、他にもまとめたいことが山積しています。たとえばカウンターカルチャーとしてのそれらはどうなのか、たとえばそこに登場するキャラクターについて精神疾患の病名をあてがうことの[一般の人における/専門家における]是非はどうなのか、とか。ひとつひとつの作品についても振り返ってみたいですね。でも、それらは別件とすべきと判断しました。
 
 

「あのひと」の旅行体力がわからない

 
Xには旅行クラスタとでもいうべき人々がいて、毎週のように旅行やお出かけをしていて驚かされる。そのなかで私にとっても最も親しみがあり、最もお手本として参考にさせていただいているのが、
 

 
id:zaikabouさんである。
 
 

「あのひと」ことzaikabouさんの華麗な旅行道楽(+α)

 
今となっては紹介が必要だろう。
zaikabouさんは、旧はてなダイアリー(現・はてなブログ)時代からはてなのブログで食道楽や旅行記などを書き綴ってきた、はてなユーザーでも有数の旅人にしてフーディーの一人だ*1。さまざまな国のお茶碗、エレガンスなホテル、現代美術などにも造詣が深く、美術館や美術展の訪問記録もたくさん残している。そのメインブログ「日毎に敵と懶惰に戦う」の更新頻度は残念ながら低くなってしまったが、Xのアカウントは今も健在だ。
 
もちろんXという大海にはたくさんのフーディーや旅行者のアカウントが存在し、zaikabouさんのアカウントはそのなかのひとつでしかない。しかしフーディーや旅行者のアカウントというのも意外に代替のきかないものだ。なぜならそれぞれに関心の違いや得意な領域の違いがあり、食に対するポリシー、旅行に求めるものも違っているからだ。豪奢でこれ見よがしなアカウントも、お金をかけないビジネスホテル専のアカウントも、それはそれで良いものである。そうした違いを踏まえて zaikabou さんのアカウントをひとことにまとめるとしたら「カルチャー」だろうか。
 
はてなブログのコミュニティがもっとお互いに顔が見える距離関係だった頃、zaikabouさんを「はてな村の文化貴族」と呼んだ人がいたと記憶しているけれども、言い得て妙だと思う。しかしここでいう文化貴族とは、旧態依然とした文化的権威主義に沿った昔の文化貴族ではなく、多文化主義的かつ平等主義的な21世紀のフーディーや文化愛好家、いわば21世紀型にアップデートされた文化貴族といった意味だ。zaikabouさんの食指の宛先は多岐にわたるが、そこにはいつも一本筋の通った説得力が感じられ、良いものを分け隔てなく愛顧しつつもzaikabouさんならではの選好やご縁を大切にしていくスタイルが感じられる。
 
そうしたことから、我が家ではzaikabouさんのアカウントは家族みんなから「あのひと」と呼んで親しまれるようになり、旅行先や訪問先をみんなでチェックするに至った。「『あのひと』、また台湾に出かけているみたいだよ!」といった感じである。
 
 

「あのひと」の旅行体力はバケモノ(にみえる)

 
ところで、特に夏場になって痛感するのは、「あのひと」ことzaikabouさんの旅行体力がバケモノじみている、少なくとも私などにはそんな風にみえることだ。
 
黙ってみていると、すごい勢いで旅行している。先週はつくばにお出かけだったみたいですね。
 
 


 
 
つい、こないだまで長野県の別所温泉に滞在していたかと思えば、次の週には中国本土、それから翌週は奈良京都……といった具合だ。旅行と呼べる旅行に出ない週でも、首都圏の美術館や美術展をハシゴしていたりする。最近は劇場版『ちいかわ』もご覧になっているご様子だった。
 
だから「『あのひと』はいったいつ休んでいるの?」とは、我が家では定番の疑問文だ。実際、本当にわからない。そんなに旅行してどうして身体がバラバラになっちゃったりしないんだろうか?
 
「それは旅行で回復しているからだ」とか「旅行を楽しんでいるからだ」などと言い始める人もいるだろう。私はそういうコメントをあまり信じていない。確かに旅行は楽しいものだし、ときどきやるぶんには精神衛生にもすこぶる良いだろう。しかし、どんなに楽しいことでも体力は消費するし、ましてや高度に文化的な事柄を賞味するとなれば尚更である。繊細なものを繊細なまま賞味するとは、体力や気力を使わない行為ではない。旅行やおいしい食事が歓びの神経伝達物質を脳内にもたらすとしても、疲労の管理はそれとは別の問題だ。しかしzaikabouさんをみる限り、疲れている様子はあまり感じない。いや、これはzaikabouさんに限らずXの旅行クラスタの他のアカウントの人々もそうである。あれだけ旅行して、なんでそんなにへっちゃらなの?
 
 
理由のひとつは、もちろん旅行ノウハウの集積、旅行知識の集積によるだろう。上掲ツイートのような知識は、真夏のお出かけに際しての消耗を最小化してくれるに違いない。同じく、見知らぬ街の繁華街でハズレの店を引かない選球眼も消耗を最小化してくれているに違いない。旅の出で立ちも含め、zaikabouさんのお出かけが最適化を経ているのは想像しやすいことだ。
 
それからzaikabouさんの場合、なんらか、職業的にも旅行やお出かけに親和性がある部分があるのかもしれない。だがしかし、職業的に出張などが多い人が私生活においても旅行やお出かけを繰り返すというのは、うまくやらなければ諸刃の剣ではないか? と思うこともある。ところがzaikabouさんの場合は職業的出張と私生活における旅行やお出かけがコンフリクトを起こしている様子は感じられない。本当はオンラインに書けないような苦労もあるのかもしれないが、少なくともオンラインにそうした苦労がにじみ出てくることはない。そのあたりもzaikabouさんのアカウントの魅力のひとつ、アカウントにエレガンスを与えている部分だと思う。
 
こうした点も含めて、旅行アカウントやお出かけアカウントの人々には私のようなたまに旅行する程度の人間には真似のできない、「どうしてそれが成立しているの?」と感じさせる凄みがいろいろとある。もちろんそれは知識やノウハウや体力の問題だけでなく、意欲や関心にも支えられているのだろう。だとしても、それでちゃんと生活が回っていること、体力的に続いていてキチンと楽しんできていること、なんらかのポリシーの片鱗が感じられることはすごいことだと思う。
 
久しぶりに小旅行に出かけてヘトヘトになった後にzaikabouさんのアカウントを見たら、私よりもずっと飛び回っているのを見かけて「やっぱすげーな……」と思ったので、これを書きました。これからも旅行やお出かけのノウハウをわけてくださるとうれしいです>zaikabouさん、および旅行アカウントのみなさん
 
 

*1:フーディー、という語彙がzaikabouさんを説明するのに最適かと言われたら、正直自信は無い。しかし、食通やグルメといった語彙よりは、フーディーという、比較的現代的な語彙のほうが似合っているようには思うので、ここではフーディーという語彙を選択することにした。

「蒜蓉堅果脆辣醤」を国内で商っているお店を知りませんか?

 
困った時におすがりしてきた最強の調味料がなくなってしまいました。日本で入手可能なお店を知っている人、いらっしゃいませんか?
 
 

 
調味料の名前は「蒜蓉堅果脆辣醤」。ご覧のように、にんにくを刻んだものに加えて、いろいろな植物の種、唐辛子、等々がたっぷり混じっている中華系の調味料です。私がこれを購入したのは台南で日本人の方が営業しているワインショップ「ありおりワインショップ(ARIORI Wine & Food)」さんで、ここで台南のガチョウ料理にあわせるワインをリコメンドしていただいた*1ついでに「これ、すごくおいしいからおみやげにどうですか」と勧められ、買ってみたら大当たりだった次第です。
 
後で調べたところ、この「蒜蓉堅果脆辣醤」が(台湾の)新竹市にあるレトロ風百貨店「或者新州屋」に売られていることまでは判明しているのです。
 
crea.bunshun.jp 
 
この、片山真理さんの台湾土産の記事のなかに、そのものズバリ、蒜蓉堅果脆辣醬が登場していて、製造元のメーカーが「或者安醤」というシリーズを作っていることが判明しています。新竹でつくられている食料品が台南で買えたこと自体も僥倖というほかないのですが、できればこれを日本で手に入れたいっ……!!
 
我が家に買われてきた蒜蓉堅果脆辣醬は、それはそれは素晴らしいものでした。
スパイシーでにんにくの旨味がきいているのは当然として、さまざまな植物の種が替えの効かない旨味をつくりだしていて、どう頑張っても再現できません。上野や池袋の、大陸系の中華食材店に売られている大蒜入りのジャンだのペーストだのに比べると、サラサラ・ザラザラとした食感が好ましく、発酵食品的な臭みもないため、適当な炒め物やイタリアンの素材として利用するのに最高に適していました。もちろん、中華風の鍋料理などを創る際にはこいつは勿体ない……というより不向きだと思うので、この品は、触感や香りの少なさが活きる場面で登板させると良いように思われました。「真面目に料理する時間も体力もないんだけど、ここ一番、元気の出る野菜炒めを作りたい」みたいな時には蒜蓉堅果脆辣醬は最高です。適当にキャベツを切って豚肉と炒めて、最後にこいつをささっとまぶして塩で味を調えると、5分ぐらいでご馳走の完成です。
 
我が家では、そういう「忙しいんだけどうまいものをかきこみたい時」のとっておきとして大事に使ってきたのですが、さすがに食べ尽くしてしまい、代替品があるようで見つからないのでインターネットの博学でフーディーな方々にお尋ねしてみるしかないと思い立った次第です。
 
この台湾産の「蒜蓉堅果脆辣醤」を国内で商っているお店をご存知のかた、またはこれに限りなく近い性質の商品をご存知のかた、もしいらっしゃったら教えてください。これを食べたことがあるって人の感想も聞いてみたいものです。今日は、以上です。
 
 

*1:ちなみに、リコメンドしていただいたワインはイタリアはヴェネツィア=ジューリア州のオレンジワインと、マルセル・ラピエールの系譜のクリュ・ボジョレーでした。後者を選びましたがガチョウ料理を相手に一歩もひかず、素晴らしいマリアージュだったのは言うまでもありません

身のほどを弁えてしまったワイン飲みの良さと悪さ

 

 
私が「ワインをはじめて」十年以上の歳月が流れ、一応、ひととおりのことはわかるようになったと思う。自分の身の丈に合い、自分の嗅覚や味覚にもフィットし、家庭料理やテイクアウト料理に合わせてもうまく付き合ってくれるワインたちが、「私のワイン趣味」とか「私のワインの選び方」として浮かび上がってきた。それって良いことでもあると思うし、悪いことでもあると思う。
 
 

「しみったれたワインを選ぶようになっった」自分自身を省みる

 
ところで誰もが知っているとおり、ワインはお金をかけはじめたら本当に天井が知れないほどお金がかかってしまう趣味ジャンルだ。本当の本当にワイン沼にのめり込んでしまった人のなかには、ワインを寝かすための地下洞窟を購入したりワイナリーやワイン店舗を経営しはじめたりする強者もいるかもしれない。そのもう少し手前には、「地下室を掘る」「蔵を立てる」ぐらいの強者もあろう。
 
「ワインを呑む」、という行為じたいにも色々ある。とにかく高価なワインを、とにかくゴージャスに呑む人々がいる。そうしたゴージャス呑みの人たちも仔細に観察すれば色々だ。いかにも飲み頃のボルドーやブルゴーニュに的を絞っている人もいれば、びっくりするほど高価なシャンパンを若いうちから飲んでいく人もいる。今をときめく新しい作り手を貪欲に探し求める人もいれば、相対的にマイナーな産地のワインを次々に発掘し、買い抜ける人もいる。
 
嗜好はさまざまだし、その是非善悪については色々な意見もあろう。
今日の私は、「みんなちがってみんないい」という言葉を選んでおきたい。
 
じゃあ、私自身は?
 
SNSで気炎をあげるワイン愛好家たちを眩しく眺めながら、しみったれたワインの飲み方をしている。もちろん、各産地のちょっと良いワインを申し訳程度には寝かせている。けれどもそんなのはごく一部、ワインセラーの船首像みたいなものでしかない。
 
気が付けば私は怠惰で臆病なワイン飲みになっていた。値段も世評も急上昇の、流行のワインたちを買ってみる甲斐性がほとんどなくなってしまった。「定番」と言っていいような古臭いワインを毎年決まった数だけ買い、古いほうから順番に飲んで交代させていく。
 
そうした私の「定番」ワインたちは、ワインをやっていない人からすれば高価にみえるかもしれないが、事情のわかっている人からすれば安価にみえるような、そういう品々だ。たとえば一本10万円を超えるようなワインたちに伍する品ではない。私には、もっと安くてクラシックなワインで十分なのだとわかってしまった。そういうほどほどのワインを、2015年、2016年、2017年とヴィンテージごとに購入して「今年は当たりだったね」とか「今年は水っぽいかわりに繊細なあやが伝わってきたね」とかブツブツしゃべっているのが私が落着したワイン趣味、ひいてはワインとの付き合いだとわかってしまった。
 
こうした保守的で地味なワインとの付き合い方の背景には、円安やインフレの影響などもある。先立つものがなければワインは購入できない。生活費がじりじりと値上がっていく情勢のなかで、これまた値上がっていくワインたちを豪気に買ってまわるだけの無分別さを私は持ち合わせていなかった。そうした無分別さは、趣味を趣味たらしめるうえで大切なものだと思う。でも、なんだろうなあ、中年期たけなわになってホルモンが弱くなっているためもあってか、エイヤの一押しでたっかいワインが買えなくなってしまったんですよ。世の中には、もっと新しくて、もっと面白くて、もっと新機軸なワインがどっさり存在しているのに、なんでこんな風になっちまったんだろうなあ。
 
 

これからのこと

 
これからどうしたものだろう? 別に、今までどおりワインを飲めばいいじゃん、と思う部分はある。それなりの歳月をかけて自分の好きなワインを知ってしまった後だから、自分の舌に合うワインを選ぶだけなら困らない。既知の、200種類ぐらいのワインたちでローテーションを組めば飽きるって心配もあるまい。
 
同じメーカーのワインの年ごとのヴィンテージを古い順から飲んでいくのも、それはそれで面白い。ときどき、同じヴィンテージ・同じメーカーで畑の名前が違うものを飲み比べれば趣向はいっそう高まる。同じメーカーのワインを買い続ける習慣は、ワインが天候に左右される農産物であること、天の恵みの結晶であることを理解するには向いている。自分と一緒に年を取っていくワイン、ひいてはワイナリーを見つけられたのは、そんなに悪いことではあるまい。
 
でも、既知のワインだけ飲んでまわるって、趣味としては怠惰きわまりないようにも思う。
 
200種類ぐらいのワインをぐるぐる回転させているだけでは、たぶん、趣味としてのワインはだんだん閉じていくことになる。「それならもっと開拓すればいいじゃないか」となるのだが、なんだろう、さっき書いたエイヤの力が足りないせいで、ちょっと目に留まったワインやレストランで遭遇して良かったワインを買う段になったら踏ん切りがつかなくなってしまったのだ。
 
なんでこんなことになっちまったんだ、などと思いながら、すっかり飲み慣れ、どこか飲み飽きてすらいるルイ・ラトゥールのお買い得なシャルドネを飲んでいる。やっぱり北のシャルドネはうめえなあ。だけど瞳孔が開くようなアメージングはここには無い。あるのは……安堵感か。
 
安堵感?
 
ああ、私はワインというジャンルのなかで冒険をやめてしまったんだなと書いている最中に気付いた。リスクを冒してでも、ワインガチャを回して超絶大当たりを引くために頑張る気持ちが萎えていることに気付いた。もう、そんなものはなくてもいいから「いつものあれ」が欲しいってわけだ。暮らしにワインが溶け込んだ、とは言えるかもしれないが、こんなのは趣味というには停滞しすぎだ。こんな状態が続いているあいだは、「ワインに興味があります」とは他人に向かって言えないな、とも思った。これではただの飲兵衛でしかない。仕切り直しをしなければと思った。