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こんばんは、小島アジコさん。シロクマです。
次々にブログサービスがなくなり、綺羅星のようだったウェブサイトまで消えていくのは悲しいものですね。
リンク先でアジコさんが書いてらっしゃるように、 (株)はてな がネットメディアの金剛組のようになって、数百年後もブログサービスを保守してくれたらすごくいいなと私も思います。とはいえ、(株)はてな も営利企業のひとつではあるので、依存してばかりってわけにもいきません。
私は広告を消すためにはてなブログに課金をしています。インターネットに広告が溢れてしまっていること、単に広告があるのでなく、00年代などと比較しても苛烈な広告にさらされていることもインターネットという場の変質に関わっていることでしょう。ただし、広告を消してもプロパガンダは消えません。そしてインターネットはプロパガンダの場、動員の場でもあります。
話が逸れかけているのでやめましょう。
それより、個人がインターネットに書き記した電子データの喪失について。
ご指摘にあるように、00年代前半に個人によって書かれたブログやウェブサイトは、既にその多くが消えました。日常の記録、アマチュア地誌、生活の知恵、ユースカルチャーのイベント感想、等々はなかったことになってしまいました。ブログやウェブサイトが「消える」だけでなく、「検索しても引っかからなくなる」のもなかったことになってしまう一端ですよね。00年代から20年代にかけて、ワールドワイドウェブには加速度的にテキストやサイトが増殖し、アーカイブも増殖し、ビジネスサイトやプロフェッショナルサイトに価値があるとみなされ、アマチュアが書いたあれこれはプレゼンスを失っていきました。個人のブログやウェブサイトが消えてしまうことに加えて、個人のブログやウェブサイトのワールドワイドウェブのなかにおける位置づけが低下してしまったこともここでは問題です。
今後、AIの支援を受けてますます多くのテキストやサイトが生産された時、ビジネスでもプロフェッショナルでもない個人のサイト、アマチュアが書いたテキストやサイトは希釈され、本当に誰の目にも触れなくなっていくかもしれません。そうなってもなお、意味や意義のあるアマチュアのテキストやサイトはどこでどうあるべきでしょうか? discordのようなクローズドの環境は答えのひとつではあるでしょう。もうひとつは、2000年前後にあった「リンク集」的なものだったりしませんかね? そうなると、ぐるっと回って「おとなりブログ」的な機能が大切になるかもしれません。確か、noteにもそれに近い機能がありませんでしたっけ? アマチュアのテキストやサイトの接続手段として機械検索がますます頼りにならなくなるなら、近い意識や関心を持ったアマチュア同士を繋げる導線がクローズアップされる気がします。
歴史資料は残ります、研究者もいるし、記録媒体もあるからです
とはいえ、アジコさんのおっしゃる「21世紀は歴史資料がない時代になる」は大袈裟だと思います。
なぜなら、歴史資料という名に値する文献のたぐいは、たとえば大学などの研究機関で現在も生産され続けているからです。
研究機関における文献や資料の生産速度はあまり高くない、とおっしゃる人もいるかもしれませんが、それでもPCやプリンタやクラウドといった文明の利器によって、20世紀初頭に比べれば研究者の作業効率は相当高まっていると思われます。AIの普及がそうした作業効率をさらに向上させる、とみるべきでしょう。研究論文、研究資料、フォーマルな文献といったものの生産速度は20世紀や19世紀と比較し、十分なものがあるはずです。それらはしばしば紙媒体だったり、比較的堅固なメディアに記されていたり、国会図書館に所蔵されていたりします。正真正銘の資料というレベルでは、現在の歴史資料が20世紀や19世紀のそれに比べて劣るとは、私には思えません。
それから書籍や雑誌、新聞のたぐいがあります。フォーマルな文献のフォーマットに比較し、それらは学術的に不十分かもしれませんが、過去を振り返る未来人には十分に利用可能なものです。今日の出版点数が示しているように、このレベルでも未来人には多くの資料が遺されるでしょう。焚書や禁書のような問題もあるので万全ではありませんが、それでも、写本文化の時代に比べればアーカイブがどこかに残る可能性は高いと言えますし、少なくとも平時の場合、国会図書館に所蔵されればそれでオーケーです。
それらと同等のものとしてテレビフィルムや映画といった映像媒体も遺されるでしょう。「電子データ化したそれらが、適切なかたちで保存できるのか」は確かに問題です。でも、なにかしら残るのではないでしょうか。エンタメ作品のアーカイブもそうですね。今の日本で繁栄している漫画・アニメ・ゲームの繁栄っぷりがまるごと歴史から消えてミッシングリンクになる、とはちょっと考えられません。日本にめちゃくちゃヤバい体制が爆誕し、焚書や坑儒をきわめたとしても、世界のあちこちにアーカイブが残るでしょう。細かな作品のひとつひとつが残るか残らないかって言ったら、そりゃあ残らないと思いますが、それは20世紀も19世紀も18世紀も同じだったはず。
たとえばバッハとその楽曲は今日では有名ですが、バッハの時代に流行した作曲家の楽曲は(残存はしているにせよ)有名ではなく、だとしたらバッハの時代に売れなかった作曲家の楽曲の多くは散逸してしまったとみるべきでしょう。それは仕方のないことです。
そうしたわけで、歴史資料のことは、そんなに心配しなくても大丈夫なんじゃないですかね、と私は申してみます。そういう資料をつくるプロたちがどこかで頑張っているはずだし、複製技術がとても優れているから少なくとも代表的なもののアーカイブは地球上のどこかに残るはずだから、きっと大丈夫ですよ。
「おれらのラクガキが消えてしまう」という問題
……とかゴチャゴチャ書いてみましたが、アジコさんがおっしゃりたいことって、こういうことじゃないですよね?
gooブログやライブドアブログにみんなが書いていたことが散逸すること、ウェブサイトに個人が書き綴っていたアーカイブが消えてしまうこと、が、ここでは問題でしょう。ブロガーやウェブマスターのひとりひとりが、素人的ではあっても個人的に書き残したものが散逸してしまうのは残念なことです。それらは生きた証言です。情念の痕跡でもあります。失われていくことに哀惜の念をおぼえるのは私も同じです。
個人のブログやウェブサイトにしか書いてないこと、ありましたからね。
例えば平成××年〇月△日の秋葉原のどこそこでこんなものを見た、あんなことがあったという記録。同じく秋葉原のとあるPCショップでメモリの何某が幾らだったとか、新入荷はこういう商品だったとか、そういった細々とした記録は学術の人たちではフォローしきれないものがあります。SNS以前の小さなイベントの記録情報、地方レベルの小さな集まりの活動情報などもそうですね。フォーマルな文献をフォーマルにパブリッシュしている人たちの視界にすら入らない細々としたことが、電子の藻屑になろうとしています。
歴史に残る写真は保存されるだろうけれども、市民生活を伝える資料というものは、殆ど失われてしまうだろう。
まさに、アジコさんがお書きになったとおりですね。
また、フォーマルな文献には残りにくい、個人の情念や心情もあります。ビジュアルノベル全盛期において、それぞれの作品に当時の愛好家がどんな感想を持ったのか。どのエロゲやエロマンガのどんなところが良かったのか。そういった一瞬の気持ちが一番残されているメディアはSNS以前においてウェブサイトやブログの日記でした。アマチュアの日記にこそ、そういった一瞬の気持ちが記されていたし、そういう場所でなければ記されようのないものだったとも言えます。『魔法少女まどか☆マギカ』のリアルタイム視聴の感想ならtwitter(現X)の奥底に残っているかもしれませんが、『けいおん!』あたりからは記録は少なくなります。そういえば、2ch(5ch)の過去ログって、ちゃんと残っていていつでも閲覧可能なんでしたっけ? まとめて残っているなら、あれはあれで学術の研究対象として案外大事な気もしますが……。
フォーマルな文献に比べて風化しやすいそれらを曲りなりにも記録していたのが、往時のウェブサイトやブログの日記だったと思います。それらをチラシの裏のラクガキと言ってしまえばそれまでです。それでも貴重な証言だったり、そこにしか書いてないことが含まれていました。なにより、そこには情念が宿っていて、血の通った営みの痕跡が遺されていたのです。
いわば「おれらのラクガキ」が消えていってしまうわけですね。
案外、そういうものも記録として面白いかもしれないのに。
また、同時代人にとって回想するに値するかもしれないのに。
そうしたアーカイブが失われることを危惧したり、寂しく思ったりするのなら、私も同感です。
「おまえが語り部になるんだよ!」
では、私たちはどうすれば良いでしょうか。
個人にもできることが色々あると私は思っています。
はてなブログで書いている私たちにできることの第一は、はてなブログをもっと使うこと、はてなブログを読んでくれる人や書いてくれる人が一人でも多くなるよう努めることだと思います。(株)はてな が1年でも、いや1か月でもはてなブログをサービスとして長く維持できるよう、ユーザーとしての私は努めます。アジコさんをはじめ、はてなブログのユーザーであれば多かれ少なかれそのためにできることがあるでしょう。小さな努力と言われればそれまでですが、でも、何もしないよりはいいし、ブログサービスが少しでも先まで保たれていることには意義があると思います。
はてなブックマークも、案外貴重だと思いますよ?
本文が消えてしまっても、はてなブックマークユーザーが遺した書き込みは残る。はてなブックマークコメントはまさに「おれらのラクガキ」なわけですが、この「おれらのラクガキ」が長く残っているのは凄いことだと私は思います。たとえば00年代のウェブサイトの記事のはてなブックマークとか、まだ残っているじゃないですか。20年ぐらい前のはてなブックマークのコメントって、まさに歴史の証言ですよ。なので、日本一のソーシャルブックマークサービスでもあるはてなブックマークを、私はしぶとく・大切に使い続けていきたいものです。
それから、これが私たちの目が黒いうちは一番大事だと思うのですが、
みなさん自身が「語り部」になりましょうよ。
00年代、10年代に書かれたことが失われていくことは避けられません。それはもう、どうにもならない。でも、私たちの記憶のなかにはまだ00年代や10年代が残っています。もちろん20年代だって。それらを書くこと。語ること。配信すること。誰かの目や耳に届けること。それが、私たちにできる一番強い手段だと思います。ユースカルチャーの領域の、細々としたことはどんどん忘れられ、フォーマルな文献だけがピカピカと残って、そのピカピカの周囲に嘘や誇張がはびこるかもしれません。ファクトとトゥルースのわかりづらい今の時代にあって頼りないことですが、それでも、憶えている人間が憶えていることを語らなくて誰が語るんですか。
もちろんこれは20年代にも当てはまります。2020年代の最前線を語るのは、私やアジコさんのような中年より、もっと若い世代が似つかわしいでしょう。「語り部」は老人だけのつとめではありません。今の風景を今の気分で切り取るのは、きっと10~30代の方に似合うはず。ドシドシやっていただきたいです。
もっと凝ったアーカイブにする手もある(かもしれない)
ときには、そうした「おれらのラクガキ」がひとまとまりになるチャンスも巡ってくるかもしれません。
上掲は、フォーマルな文献に残りそうにない私の体験をそのまま書いたものです(こんな出版企画が成った幸運を感謝するほかありません)。でも、こういう本ってそんなに珍しくないし、色んな人が色々と書いておられます。こうしたことを書き残せる状況の人には、それをやっていただきたいものです。
アジコさんは、
10年代に、10年代のブロゴスフィアの片隅をまるっと作品化する記念碑的事業を残されました。これは、ハイコンテキストで当時の事情を知らない人が読んでもわかりにくい作品ですが、10年代の、あの時代にしか生まれ得なかった何かです。フォーマルな文献に絶対に残らない、「おれらのラクガキ」の典型と言えるでしょう。
「おれらのラクガキ」をひとまとまりにするには馬力が必要です。チャンスや巡り合いも必要かもしれません。でも、やれる人はやったらいいんじゃないかと思うし、私は、そういうことにも値打ちがあると思いたいです。だって、私たちは生きていて、何事かをいつも考えていて、経験したことはみんな本当にあったことなんですから。忘れたくないし、残したくもありますよ。じゃ、残しましょうよ? 少なくともできることはしておきたいと、私はいつも思っています。アジコさんにおかれてもきっとそうでしょう。お互い、生きているうちはがんばって「語り部」やりましょうね。ではまた。
(※本文はここまでです。有料記事パートには、ほとんどの人にはあまり関係のないことしか書いてありません)









