シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

認知症と、自己選択の彼岸について

 
「わが家の介護」と「あの家の介護」は違って当たり前 精神科医の視点で見る高齢者介護|tayorini by LIFULL介護
 
 
 リンク先では、認知症介護についての一般的な話をしたつもりです。認知症にはアルツハイマー型や脳血管性認知症といったさまざまなタイプがあるだけでなく、同じ病名でも目立つ症状は人それぞれで、たとえ症状が同じでも認知症の当人を巡る文脈や環境はそれぞれ、ゆえにベストの介護もそれぞれ……といった話を書いたつもりです。
 
 認知症になった人を診ていて考えさせられることはいろいろありますが、ここでは「自己選択・自己責任の向こう側としての認知症」について、少しばかり思うところを書きます。
 
 認知症が進行するにつれて、その人の自己選択能力は低下していきます。それに伴って、たとえば自動車運転免許返納のように、社会活動にも制限が及ぶことになります。もっとも顕著なのは、成年後見制度(昔でいう禁治産者)という、自己選択の法的な制限でしょう。
 
 人は、赤ちゃん~子どもという、自己選択が能力的にも法的にもできない状態で生まれてきて、やがて認知症になれば再び自己選択が能力的にも法的にもできない状態へと還っていきます。現代社会において人間を語る際、その自己選択能力と、それに伴う責任の問題はしごく当たり前のものとみなされていますが、子どもや認知症の人と向き合う時、それが必ずしも普遍的ではないこと、十全の能力を前提とした発想であることを私はいつも意識します。
 
 赤ちゃん~子どもの「自己選択ができない状態」は、どんな親のもとに生まれたのかをはじめ、境遇は完全に運次第です。もし、インド哲学の輪廻転生の発想で考えるなら、赤ちゃん~子どもがどういう親のもとに生まれ出てくるのかは、前世のカルマ(因縁・縁起)による、ということになるでしょう。輪廻転生の発想を禁じ手とするなら、その由来・その必然性はどのように呼びならえばいいのでしょうか。偶然、と呼ぶしかありませんかね。それとも、そういったことを考えるのは禁忌なのでしょうか。
 
 ですが、認知症、とりわけ高齢者の認知症における「自己選択ができない状態」はそうではありません。赤ちゃんや子どもの場合とは違って、認知症に至るまでに積み重ねてきた自己選択によって、そのときの境遇はかなり左右されます。そのような過去の積み重ねも偶然に左右されるのは言うまでもありません。とはいえ、認知症に至るまでの自己選択によって境遇が左右され得る、という点は赤ちゃんとは決定的に異なっています。
 
 赤ちゃん~子どもの境遇と違い、高齢者の認知症になったときの境遇からは、発病前の本人が積み重ねてきたカルマの脈絡が読み取れる、と言い換えることもできるかもしれません。
 
 認知症症状のなかには、発病前の本人の積み重ねてきたカルマをたちまちひっくり返してしまうような恐ろしいものもなくはありません。ですが全体としては、認知症介護を巡る状況に病前のカルマが多かれ少なかれ反映される、とは言えるように思います。
 
 

自己選択によらず、過去のカルマによって生きるという境遇

 
 このことをもって、「認知症になった後のことを考えて善行を心がけなさい」などと説教したいわけではありません。
 
 そうではなく、私は少し不思議な気持ちになるのです。 
 
 
 現代人全般が自己選択を尊いものとみなし、そうやって生きていくのを自明のこととみなしているというのに、認知症になった高齢者は、自己選択によって生きるのと同等以上に、過去の積み重ねにもとづいて生きています。というより、過去の積み重ねにもとづいて生かされている感じが、認知症介護の風景には漂っているように私には見受けられます。
 
 なかには、「自己選択ができなくなったら、もう生きているとは言えないから私は認知症になったら速やかに死ぬ」と鼻息の荒いことを言う人もいるかもしれません。
 
 自己選択=生とみなす世界観の明確な人が、そう主張することは自然なことではあります。が、実際に「自己選択ができなくなっていても実際に生きている人間」としての認知症の人が、家族や福祉と連なるかたちで社会の一部として生きているのを目のあたりにすると、自己選択の彼岸にあっても人間は確かに生きているじゃないか、という事実を突きつけられるのです。そのときの自己選択によってではなく、過去の積み重ねや文脈に引っ張られて生きている(あるいは生かされている)人間という存在の別の側面に、はたと気付かされるのです。
 
 「人は自己選択のみによって生きるにあらず」──介護する人と介護される人の営みをみていると、人は一人で選択して一人で生きているだけでなく、生かし・生かされながら家族や社会システムの一部として存在しているのだということを改めて実感させられます。そもそも、そうでなければ認知症の進んだ人という存在は存在し続けられません。
 
 認知症という疾患は、自己選択という、現代人にとってきわめて重要であるはずの要素を蝕みます。それだけに、自己選択以外の外側で生の輪郭をかたちづくっているものを想起させるところがあるように、私は感じています。
 
 
 
 
 
 この話をこの方向で進めると、いよいよ地に足のつかない、俗世離れした仏教っぽい話になってしまいそうですし、少し風邪気味で頭が熱くなってきたので、今日はこれでおわりにします。
 
 

習慣や規律をインストールする街・東京

 
  

blog.tinect.jp
 
 
人間の意志というものは基本脆弱なものと思っておいた方が間違いなく、「〇〇しようと決意する」というのは基本無意味です。
(中略)
決意しただけで習慣を根付かせられる人というのは、存在しないとまでは言いませんが、まあ稀有でしょう。
 
恐らく「習慣を根付かせる方法」として最強なのは、「自然に動くと、勝手にそれをやっていることになる」という導線とインフラの整備なのではないかなあ、と。

 
 リンク先の話に限らず、「自然に動くと、勝手にそれをやっていることになる」ような導線やインフラは、習慣や規律を身に付けていくにあたって重要だと思う。
 
 たとえば精神科病院などもそうで、病室、ホールの間取り、テレビやテーブルの位置関係次第で患者さんはかなり変わる。
 
 ホールでコミュニケーションをおのずと取りたくなるような病院もあれば、病室に閉じこもっていたくなる病院もある。患者さんが1人でいたい時に1人でいられて、それでいてコミュニケーションしたい時にはコミュニケーションが自然に生まれるような病院空間なら、休息と社会性の回復を両立させやすかろう。
 
 ほとんどの精神科医は、こういった導線やインフラの重要性をよく弁えているから、病院を建て替える際には空間のデザインに細心の注意をはらう。
 
 精神科病院では、医師や看護師のクオリティだけでなく、病院内の導線や空間のクオリティ──患者さんの回復を後押しし、コミュニケーションを促進し、なおかつ安全なインフラとしてのクオリティ──が問われると言っても言い過ぎではないだろう。
 
 
 こういった空間の設計は、もちろん一般企業にも見受けられる。
 
 
 [関連]:場所が変われば、アウトプットも変わる。たかが空間、されど空間。 | Books&Apps
 [関連]:私にはイオンが眩しすぎる - シロクマの屑籠
 
 
 クリエイティブな企業がオフィスに工夫を凝らすのも、ショッピングモールが明るく曲線的な空間づくりに腐心するのも、内部の人間に「自然に動くと、勝手にそれをやっていることになる」を促すためのものだ。いまどきの洗練されたオフィスやショッピングモールは、社員の生産性を高めたいとか顧客の行動を制御したいとか、そういった意図をあからさまにはしない。それでも、間取りから空間設計の意図を逆算する余地ぐらいは残っている。
 
 
 

「東京」というインフラについて考える

 
 このことを、もっと広い範囲で考えてみよう。
 
 東京。
 
 田舎育ちの私には、東京というメトロポリス全体が、行動や習慣を身に付けさせる巨大なインフラにみえてならない。
 
 と同時に、東京に住まう人々は、その東京という巨大なインフラによってすっかり習慣づけられ、規律づけられているとも感じる。
 
 

 
 
 たとえば東京人は、むやみに道路を横切らない。
 
 彼らは横断歩道や歩道橋を使って、定められたとおりに道路を横断する。車の往来が激しい場所はもちろん、車のほとんど通らない住宅地でさえ、横断歩道のない車道を斜めに走り抜けようとはしない。
 
 そして横断歩道でも、赤信号なら律儀に止まる。
 
 自動車がいなくても律儀に赤信号を守り、青になるまで待っている人が、田舎よりもずっと多い。稀に、うらぶれた雰囲気の中年男女や外国人が信号無視するのを見かけなくもないが、そうでない東京人、とりわけ子どもが、信号を無視したり横断歩道の無い場所で車道を横断しようとしたりするのをほとんど見かけない。
 
 これらは東京の平成世代には当たり前かもしれないが、田舎の昭和世代である私からみると、その習慣と規律の徹底ぶりに感動すら覚える。田舎育ちの昭和世代は、横断歩道の無い車道を平気で横断するし、東京の人々ほど(歩行者用の)赤信号を律儀に守ったりはしない。
 
 そして東京人は絶対に立小便をしない! 立小便は、田舎で生まれの昭和世代には珍しくなかったが、東京で立小便を見かけるのはほとんど不可能だ。私は都内の住宅地や周辺郊外を訪れるたび、立小便している男児や男性がいないかチェックしてまわっているが、いまだ、立小便には出会ったことはない。もちろん田舎でも立小便は少なくなっているが、東京に比べればまだまだ見かける。
 
 どうして東京人は、これほどしっかりとした習慣・規律を身に付けているのか?
 
 この疑問の答えを見つけるべく、私は数年間にわたって東京じゅうを徘徊してまわり、人の動きや街のつくりをつぶさに観察して回った。
 
 そうしているうちに、私は気がついた。
 
 「東京という街は、人々に好き勝手な行動をとらせず、おのずと習慣や規律をインストールしていくようなインフラにほとんど覆い尽くされている」。
 
 

 
 
 たとえばこの写真。
 
 都内では珍しくないものだが、この道路には歩行者に歩道を歩かせるためのガードレールが敷かれていて、歩車分離が物理的に徹底されている。
 
 交通量の多い場所はもちろん、交通量の比較的少ない場所でも、都内の道路は歩車分離のためのガードレールが敷かれていることが多い。田舎者の私が横断歩道や歩道橋のない場所で車道を斜めに渡ろうとすると、ガードレールに遮られ、鬱陶しいと感じたりする。
 
 だが、都内に住み続けていて、ガードレールによる歩車分離に慣れ親しんでいる東京の人々は、私ほどガードレールを鬱陶しがったりしないのではないだろうか。
 
 なぜなら、ガードレールや歩道橋や歩行者専用レーンといったインフラに囲まれて暮らしていれば、意識するまでもなく、ごく自然に「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣が身に付くだろうからだ。
 
 私は田舎で生まれ育ったから、「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣があまり身に付いていない。地方の道路にも歩車分離をほのめかす白線はひかれているし、道路交通法は、全国共通ではある。しかし歩行者に歩道を歩かせるための物理的なインフラや導線は都内に比べれば貧弱で、歩行者はいつでも車道にはみ出すことができる。
 
 歩車分離の徹底していない田舎で「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣を身に付けるためには、かなり意識的な努力を積み重ねなければならない。そもそも、中核都市の駅前大通りやバイパス沿いを例外として、そのような習慣は意味をなさない。
 
 ガードレールのほかにも東京には、習慣や規律を守らせ、人々に好き勝手に行動させないようなインフラや決め事がたくさん存在している。決まりきった時刻にやって来る電車を、決まりきったホームの決まりきったレーンで待つこと。標識やガイダンスに従って、立体交差する通路を定められたとおりに歩くこと。自動改札を必ず通過すること、etc...。
 
 東京で暮らす人々は、そういった導線の内側でつねに行動しているし、また行動しなければならない。インフラが提供する導線の内側で動くよう、絶えず訓練させられている、とも言えるだろう。その度合いは地方中核都市の郊外などと比べても顕著だし、まして、地方の町村部とはまったく比較にならない。
 
 と同時に、そのようなインフラと決め事のおかげで東京の人々の流れや行動はコントロールされ、このメトロポリスの秩序が維持されている。
 
 東京は、全国的にみても高い人口密度と、多様な価値観を内包したメトロポリスだが、このメトロポリスが秩序整然とした状態を維持できている背景には、東京の精巧なインフラや導線が人の流れをコントロールしているだけでなく、人々が意識するまでもなく習慣や規律をインストールし、訓練づけられるよう機能しているという側面もあるのではないだろうか。

 
 だとしたら、歩車分離のガードレールも、標識どおりに歩けば目的地に着くようになっている地下通路も、自動改札も、定刻どおりに運行されてホームの停車位置どおりに停車する電車や地下鉄のたぐいも、単に東京を整然とさせているだけでなく、そこで暮らす人々に習慣や規律をインストールし、たえず訓練するための社会装置としても役立っている、ということになる。
 
 
 

施策者の意図にかかわらず、インフラは人の行動や習慣を変える

 
 
 断っておくが、だからといって東京のインフラを作った人々が東京人に習慣や規律をインストールしてやろうと企んでいたとは、あまり考えにくい。
 
 たとえば歩車分離のガードレールの設置目的については第10次東京都交通安全計画に以下のように記されている。
 

(2) 防護柵の整備
歩行者の横断歩道以外の場所での車道横断の抑止と、車両の路外等への逸脱防止を図ることにより、歩行者の安全を確保するとともに、乗員の傷害や車両の損傷を最小限にとどめるため、防護柵を整備します。
(関東地方整備局、都建設局)

 
 ガードレール以外の整備についても、その目的は安全のためや流通の維持のためとされていて、習慣や規律をインストールするといった意図は見受けられない。*1
 
 鉄道会社やメトロがつくりあげた通路網にしても、規則正しい交通機関にしても、本来はトラフィックを維持するためのものであって、地域住民に習慣や規律を埋め込んでやろうなどという意図はおそらく無いだろう。
 
 しかし施策者に意図があろうがなかろうが、インフラや導線は、人を習慣づけて、人に規律を与えて、決め事を守ることが当たり前になった人間をつくりあげていく。交通安全やトラフィック維持のためにつくられたインフラが、結果として習慣や規律にも影響していくのを批判する筋合いはないが、さしあたり、その影響は意識されるべきだろうし、見定められるべきだろう。
 
 東京の諸インフラが、そこに住まう人々に習慣や規律をたえずインストールし、たえず訓練し続けるシステムとして機能して(しまって)いると考えるようになってから、私は東京の街並みが面白くてたまらなくなった。東京のインフラ、導線、決め事が人々に影響を与え続けているということは、ある種、東京は習慣や規律を人々にインストールする超巨大メディアである、と言い換えることもできよう。この、東京というメディアは、なんと面白いのだろう!
 
 さらにここから遡って考えると、「ある時代・ある地域において優勢な習慣や規範意識は、その社会環境のインフラや導線によって少なからず左右される」という一般論を想定したくなる。
 
 どのような思想が流行してどのようなメンタリティが一般的となるのか、ひいては、どのような精神疾患がトレンドとなるのかは、都市のインフラ構造によってかなり左右されるのではないだろうか?
 
 

監獄の誕生 ― 監視と処罰

監獄の誕生 ― 監視と処罰

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

 
 
 この現象のヒントは、もちろんミシェル・フーコーがあれこれ書き残しているし、都市全体をメディアとして捉えるなら、マクルーハンとその弟子筋からもヒントが得られそうではある。とはいえ、「インフラ・導線・決まり事によって、ある地域・ある時代の習慣や社会病理やメンタリティがどのような影響を受けるのか」をテーマにした有力な書籍を、私はまだ知らない。
 
 もし、これをお読みになった人でご存じの方がいらっしゃったら、教えていただけるとありがたい。もし誰もやっていない場合は……できる範囲で調べてみようと思う。
 
 
 

田舎者のほうが考えやすい

 
 
 今の私には、東京のインフラに含まれている導線や決め事と、そこに住まう人々の挙動や意識は、かなり一致しているようにみえるし、おそろしく秩序だってみえる。だから興味が沸くし、そのメカニズムがちょっと恐ろしくもある。
 
 とはいえ、東京に長く暮らしている人には、この感覚はなかなか共有してもらえないかもしれない。
 
 東京というインフラの内側で暮らし続けている人々が、意識するまでもなく身に付けた習慣や規律を省みるのは大変だろう。なぜならこれは、東京というインフラのなかで生活しているだけで、無意識のうちにインストールされるたぐいのものだからだ。
 
 だからこの現象は、東京の人々ではなく、私のように東京を外側から見つめている田舎者が語るのがお似合いではないかと思う。私はこれからも東京のあちこちを巡って、東京というインフラについて、田舎者ならではの視点を書き連ねていきたいと思う。
 
 

*1:交通にかんする習慣や規律については、別個に啓発活動が行われている。

「ガチャを回せば自由になれる」

 
 
ガチャよくわからん - 「隠居」
 
 
 こんにちは、隠居さん。ブログ記事を拝見しました。「ガチャよくわからん」というタイトルに沿った内容でしたね。
 
 最初に、私が重要だと感じたキーセンテンスを切り抜きしておきます。
 
 

にしても、俺はガチャに限らず、この手の「射幸性をあおる」ものと非常に相性が悪い。ギャンブルはパチンコくらいしかやったことがないが、疲れるので飽きる。仮に儲かったとしても、なんか「俺がなにをしたというので儲かったのだろう」みたいなことをぼんやりと考えてるうちにアホらしくなってくる。しかしやるからには儲からないと意味がないわけで、そうすると「儲かるか儲からないか」を気にしている自分というものにいらいらしてくる。俺はなんのために金を出してこんな状態を買ったんだ。不快になるためか。意味がわからん。そうなる。

 

俺にとってコンテンツとは「買う」ものである。自分の商売のせいもあるだろうが、俺はとにかく「買う」ということに異常なこだわりがある。買うという行為は「金払ったかわりに、なんか自分にいいことがある」というのがその原風景である。で、そう考えると俺にとって単位のひとつとなるのが文庫本である。

 

というわけで、ガチャにお金を払う人は、おそらく俺がよく知らない、あるいは拒絶しているものに金を払っていることになる。この頑迷さによって俺が得られないものはたぶんけっこうあるのだが、幸いなことにコンテンツの供給はまだまだ豊富である。物語を得るために、そういう課金のしかたが必要不可欠になってきたら話はまた別だろうが、そうなったときには、たぶんもう新しいものを見る必要はない、と開き直って青空文庫を端から端まで読んでると思う。

 
 これらを下敷きにしたうえで、隠居さん個人にお返事を試みてみます。
 
 

私も「ガチャ」や「ギャンブル」がよくわからなかった

 
 実は私もガチャというやつがわからなかったんですよ。ガチャやギャンブルといった射幸性のある娯楽に夢中になる人々の気持ちがわかりませんでした。
 
 私はギャンブルとは縁の遠い人生を歩んできました。
 
 パチンコや宝くじは「得られる報酬の期待値が100%を必ず下回っている」ので、お金を期待できるものではないと考えていました。お金以外の何かを期待するならわからなくはないですが、かといってコンテンツとみなした時、アニメやゲームに比べてパチンコや宝くじがアドバンテージをもっているとはどうしても思えなかった。パチンコパチスロは21世紀になってコンテンツ性を強化しているとはいえ、任天堂やベセスダがつくるゲームに比べて魅力的とも思えませんでした。 競馬? 地方のロードサイドには競馬を楽しむという文化が無かったので、競馬についてはよくわかりません。
 
 コンテンツを「買う」という視点で見た時、ギャンブルは単回での費用対効果が読めません。対価を支払って商品を買うという「売買」の視点で見るなら、ギャンブルは売買としてあまりにも不条理で気まぐれです。そのうえ報酬の期待値が100%を必ず下回っていることだけは判明しています。だったらその金でゲームを買ったほうがいいだろ……と私は考えていました。これは、隠居さんのお考えとそれほど違わないものだと推察します。
 
 ガチャについても同じで、単に期待値が低いだけでなく、対価を支払って商品を買うという「売買」の視点にそぐわない、不条理で気まぐれなものと私は考えていました。いや、今でもある程度はそのように考えています。
  
 1%の確率でSSRカードが引けると銘打たれていても、100回ガチャを回せば確実にそれが手に入るかといったら、そういうわけではない──「出現確率1%」とは、あくまで1回ガチャを回した時の確率を示すものでしかなく、そのSSRカードが実際に出るのは、1回目かもしれないし、100回目かもしれないし、1000回目かもしれません。つまりガチャというシステムは「売買」の基礎原理から逸脱しています。ガチャには、対価を支払って商品を買うという、資本主義社会のロジックが適用できません。
 
 「売買」というロジックが適用できないからこそガチャはやりたくなかったし、そんなものにのめり込むのはロクなもんじゃない、と私は思い続けてきました。
 
 そのうえ、精神医学というフィールドには行動嗜癖というジャンルが存在し、そこにギャンブル嗜癖も含まれているわけですから、なおさら「触らぬガチャに祟りなし」といった気持ちでソーシャルゲーム界隈の様子を眺めていました。
 
 

ガチャはお手軽だが人を組み敷く

 
 ところが『FGO (正式名はFate Grand Order)』が流行ってしまいました。私はTYPE-MOONの作風がいけるクチで、口コミ情報からもFateファンなら鉄板のコンテンツであることは明らかだったので、これには困り果ててしまいました。
 
 で、実際にやってみるとストーリーもキャラクターも私のストライクゾーンど真ん中で、ガチャもいっぱい回して課金したわけですが、なるほど、お金を払う人がいるってことには納得がいきました。
 
 「ガチャは(そしておそらく他のギャンブルも)、比較的簡単に神経伝達物質が出まくった状態をつくりだすコンテンツである」
 
 精神医学の教科書を読んでいる私は、そういうことを知識として知っていました。でも、世の中には当事者側になってみて腑に落ちることもあるわけで、『FGO』に出会ってはじめて「なるほど、これは瞳孔が開くやつだな」と得心がいきました。──「当たっても当たらなくても興奮するし、当たれば馬鹿みたいに快楽が出る。手間もかからない。特別な技術も要らない。お金さえ突っ込めばいいつくりになっている。」
 
 ガチャやギャンブルによる快楽は、お金さえかければ体験できます。人間一般が幸福になるためのややこしい世間知やハビトゥスを身に付けている必要はないし、研究や商売についてまわる困難を克服する必要もない。異性の心を射止める必要もない。そういったことが何もできない人にも、ギャンブルやガチャは等しく神経伝達物質の出まくった状態を提供する。常識からあえて外れた視点で考えると、ガチャやギャンブルには人を選ばない平等性のようなものがあります。まあだから性質が悪いとも言えるのですけどね。
 
 私は小学生時代からゲームオタク専攻として生きてきたので、ゲームに関してはノウハウの蓄積があるつもりです。面白いゲームを探し出す嗅覚も、そのゲームを楽しむための作法行儀も、研鑽し続けてきました。だから私は、ゲームというフィールドで自分の瞳孔を開きっぱなしにするのはそれほど難しいことではありません。ガチャなどに頼らなくても。
 
 

 
 
 これは『斑鳩』のプレイ画面ですが、『斑鳩』なんて3面~最終面まで瞳孔開きっぱなしです。私はガチャやギャンブルに頼るまでもなく、ゲーム、とりわけシューティングゲームではしょっちゅう瞳孔開きっぱなし状態になっているわけです。
 
 しかし、ゲームにせよ、たとえば音楽演奏のたぐいにせよ、エキサイトな体験を得るためには相応の知識や下積みや意志が必要です。知識・技能・習慣・意志力。そういったものを伴っていなければ、『斑鳩』のようなゲームにエキサイトすることは難しいでしょう。仕事でエキサイトする瞬間を得るのも同様です。仕事の場合、より一層、知識や下積みや意志が求められます。そしてエキサイトできる瞬間は少なめで、もっと退屈だったり苦痛だったりする時間を乗り越えなければなりません。
 
 ところがガチャはそうではないんですね。ビギナーもベテランも等しく神経伝達物質が出る。出ちゃう。どびゅー。「射幸心」というものが、これほどストレートに人を魅了するものだとは。そしてコントロールを失いかけた「射幸心」は人を簡単に組み敷き、思考力と尊厳を奪ってしまうのだとも知りました。シューティングゲームや音楽演奏に法悦の瞬間を求める人が、ゲームや演奏によって思考力や尊厳を奪われるかといったら、そういうことはあまり無いように思うのですが、ガチャは、思考力や尊厳を奪いかねません。
 
 
 ガチャと対面している時、人がガチャを支配しているのでなくガチャが人を支配している。
 不条理で気まぐれな神として、ガチャは眼前に君臨する。
 あたかも人間が無力だった頃の森羅万象のように。
 
 
 私はガチャを回している時には迷信にすがっていました。不条理も気まぐれも最小化された現代の都市空間には神は必要ありませんが、不条理と気まぐれの権化であるガチャには神が、祈りが必要とされるのです*1
 
 こうした経験を経て私は、初心者でも神経伝達物質が脳内でドバドバ出せ、不条理と気まぐれで人を組み敷くガチャとは、なかなかに難しい娯楽だと知りました。
 間口は広いし、誰でもすぐエキサイトできるけれど、ガチャに手綱を握られたら大変なことになってしまう。きっと、ギャンブルもそうなのでしょう。
 
 

「ガチャ」を回している瞬間、私はロジックの埒外にいた

 
 このように、ガチャとは神経伝達物質を対価としてプレイヤーを組み敷き、理不尽に晒す(そしてお金を使わせる)娯楽です。「圧制者」と言っても良いかもしれません*2。ガチャを前にしたプレイヤーは、ガチャという不自由に晒されているのです。
 
 ただし、それだけとも言い切れません。
 私には、ガチャを回している時に自由を感じる側面もあったのでした。
  
 ガチャは不条理で気まぐれですが、まさにその点において、現代社会の条理性や規則性の通用しない何者かです。
 
 この文章のはじめに、私は隠居さんのセンテンスを幾つか引用しましたが、いずれのセンテンスも対価を支払って商品を買うという「売買」のロジックに根差していました。現代人のならいとして、私も「売買」というロジックはそれなり内面化しているつもりですが、おそらく隠居さんは私以上に「売買」を内面化しておられるのでしょう。
 
 で、この「売買」というロジックは、21世紀の日本人には今までにないほど内面化されていると思うんですよね。
 
 コンビニやメルカリで商品を売買する時だけじゃなく、ネットで人間関係を築いたり余暇を過ごしたりする時さえ、対価を支払って商品を買うというロジックが浸透しているように思われるんですよ。ちょっと前から、ネットでは「コスパ」という言葉をやたらと見かけます。なかには人生なんて大問題をも「コスパ」で論じようとする人もいます。「いいね」や「フォロワー」の数をバリューとみなし、そういったものまで換金化されていく社会とは、資本主義的なロジックが人間関係にまで染み込んでいる社会です。
 
 モノを考えるロジックが資本主義化すればするほど、その人は買い物をする時だけでなく、それ以外の諸々にも「コスパ」や「売買」といった考え方を導入していく。私達は、どうやらホモ・エコノミクスの極致に向かって突き進んでいるらしい。もし、現代の社会病理について考えるなら、この人間のホモ・エコノミクス化、「コスパ」「売買」のロジックの内面化の問題は絶対に避けて通れないものだと私は考えています。一見、お金にガツガツしていない人でも、別の何かを対価として計算している人はごまんといる。
 
 ところがガチャには「コスパ」や「売買」のロジックが通用しない。ガチャを回している刹那、人間は、資本主義化した現代社会のロジックの埒外にはみ出すのです。
 
 現代社会を覆い尽くしている「コスパ」や「売買」のロジックからはみ出したその瞬間は、ガチャに組み敷かれている不自由も含めて、私にとって新鮮な体験でした。と同時に、日常生活のなかでどれほど私がホモ・エコノミクス化しているのかを逆照射する体験でもありました。「ああ、私はこんなに普段は合理主義的・資本主義的に考え、行動していたのだな」と。
 
 昔の人々は、「売買」というロジックを現代人ほどには内面化していませんでした。
 
 

賭博・暴力・社交―遊びからみる中世ヨーロッパ (講談社選書メチエ)

賭博・暴力・社交―遊びからみる中世ヨーロッパ (講談社選書メチエ)

 
 
 例えば上掲書を読む限りでは、中世ヨーロッパの人々は現代人よりもずっと野蛮で、ずっと賭博に親しんでいたようです。昭和時代の人々も、現代人に比べれば野蛮や賭博に近かったように思います。資本主義のロジックではナンセンスとしか言いようの無いものが、数十年前の日本には今よりもずっと溢れていたはずです。
 
 まあだから資本主義のロジックが悪いと言いたいわけではありません。私のような人間の場合、社会が資本主義のロジックに傾くほど自分が得をすることを自覚してもいますから、趨勢がこのままでも私自身は別に困りません。隠居さんにおかれても、そうした「売買」の前衛に位置しておられるでしょうから、定めし、ガチャのような「売買」のロジックにそぐわないものは性に合わないことでしょう。
 
 それでも私は、ガチャを回している時に自分が確かにエキサイトしているのを発見しました。
 それは「コスパ」や「売買」といったロジックで覆われ抑圧されていた私の内面の叫びではなかったか?
  
 だからといって、他人にガチャを勧めるつもりはありませんけどね。意志の弱い人はたちまち餌食にされてしまうだろうし、そうでなくても、自分の内面を発掘するなんて、いまどき流行らないでしょうから。
 
 
 隠居さんへのお手紙は、以上です。
 

*1:ガチャというシステムをマクロにみる場合、ガチャは統計的な問題としてシンプルにみることができます。しかし、プレイヤー個人にとって、統計的な数値はそれほどの意味を持ちません。ガチャを1000回回しても出現確率1%のカードが出て来なくて腹を立てているプレイヤーにとって、統計的な数字がどんな意義を持ち得るでしょうか? ちなみにこの問題は、統計学的なエビデンスを積み重ねた疾病予防と実際に疾病になってしまった人にもいくらか敷衍できるものですが、脱線し過ぎるのでここでは省きます

*2:『FGO』プレイヤーなら、ここで圧制者と戦うサーヴァント、スパルタクスを思い浮かべることでしょう。でもってスパルタクスは★1のサーヴァント、つまり彼はガチャという圧制から自由です。スパルタクスはこんなところでも圧制と戦っている!

映画館でエロゲを観た!──『劇場版 Fate/stay night heaven's feel』

 
 
 映画館で、エロゲを観てきました。
 
 
www.youtube.com
 
 
 
 『劇場版 Fate/stay night heaven's feel』について、私はまっとうな感想をまとめることなんてできない。ましてや批評など論外だ。なぜなら、この作品について冷静に語ることなど不可能のように思えるからだ。
 
 だが、叫ぶことならできる。
 これは映画館で上映しているエロゲだった、と。
 
 
 

映画館の状況について

 
 公開から二週間ほど経ち、また朝早い時間だったけれども、その割にはお客さんがいた。私はアニメ映画をみる時には必ず客層を確認するが、洒落た格好のお兄さん、ヤンキーみたいな恰好のお兄さん、パッと見てオタオタしさが感じられないお姉さんなどを確認した。
 
 その一方で、古式ゆかしいオタクがマシンガントークを繰り広げている姿も見かけてホッとした。50代とおぼしき古参オタクの姿もあった。
 
 外国人が結構いたことにも驚いた。日本で最新のアニメ映画を観るという状況に、彼らはかなり高揚している様子だった。
 
 「Fateシリーズはいろいろな人に愛される作品になった」と、しみじみ感じ入る客層だった。
 
 
 

エロゲ映画ではなく映画エロゲだ!

 
 で、エロゲである。
 
 私は『Fate/stay night』で一番好きなサーヴァントはメデューサだ。で、このheaven's feelは、そのメデューサと、そのマスターの桜が活躍する作品なので楽しみにしていたが、いち早く視聴したtwitterユーザーが「今回の劇場版Fateは、エロゲに寄せてきた」「処女が云々というのは00年代前半のエロゲ的文脈で~」などとざわめいていて、一体何だろうと気にしていた。
 
 はたして、百聞は一見にしかず。
 
 キャラクターの輪郭はさすがに2010年風にリニュアルされていて、90年代の面影を上手に残しつつも、うまく現代化させてあった。
 
 戦闘シーンも、2010年代の日本アニメならではの、少し漫画に寄せたようなデフォルメをふんだんに使った、強調すべき線を余すところなく強調した、思い切りの良いものだった。「黒セイバー」がまさに00年代に語られた頃の黒セイバー風というか、FGO風のセイバー・オルタではない感じがするのも好感が持てた。
 
 それと、映像化されているだけあって、エロゲではテキストと立ち絵に頼っていた凛やイリヤの表情がわかりやすくなっていた。言峰綺礼の、歌舞伎のような芝居がかった台詞と愉悦表情も似つかわしいものだった。
 
 映画というメディアの強みを生かし、『Fate/stay night heaven's feel』を美しくリファインした作品だったと思う。
 
 だがこういった御託はどうでもいい。「エロゲが映画館で上映されていた」、という事実が私にはどうにもたまらなかったのである。
 
 エロゲは90年代~00年代にかけて、界隈をリードしたジャンルだった。『Fate/stay night』もまた、そうしたジャンルのそうした状況の最中にリリースされている。
 
 この映画は、その2004年のエロゲの面影をきっちりと残したまま2019年に公開されていた。
 
 映画らしい映画だったのかは、私にはわからない。
 エロゲを映画化した作品だったかといわれると……いや、違うと思う。
 これは、映画というメディアを用いてリファインされまくった、エロゲである。
 
 というのも、衛宮士郎の逡巡も、桜の「体当たり演技」も、凛やイリヤのヒロインっぷりも、すべてエロゲの時代に魅力とみなされていたものを余すところなく表現していて、あえて、エロゲ回帰しているように見受けられたからだ。
 
 素晴らしい戦闘シーンも、素晴らしい背景も、声優さんの素晴らしい声も、素晴らしい映画をつくるためではなく、素晴らしいFateをつくるためのもの。素晴らしいFateとは、ここでは、すばらしいエロゲのことだ。
 
 『FGO』をはじめとするコンテンツをとおして収集したカネと情熱とテクノロジーが、今、たわわに実ったエロゲとして、映画館に顕現したのである。
 
 視聴している最中、私は興奮しっぱなしだった。
 
 最初のうちは、黒セイバーとヘラクレスの迫力ある戦闘とか、そういったものに気が向いていたが、中途からは桜のエロゲ所作に打ちのめされた。
 
 桜は、ただエロいわけではない。
 
 桜のエロさは、エロゲヒロインのエロさであり、桜の可愛らしさもエロゲヒロインの可愛らしさだった。
 


 
 ヒロインの処女性──懐かしくも時代錯誤なネタ――を、堂々とシネマスクリーンに映し出す heaven's feel マジでエロゲ。
 
 今では覚えている人も少なくなったかもしれないが、エロゲの最盛期において、ヒロインが処女かどうかは大変な問題とみなされ、これによってヒロインの人気、ひいては作品そのものの人気が左右されることがしばしばあった。
 
 [関連]:はじめてのおるすばん「騒動」を回想する - シロクマの屑籠
 
 この処女云々の件に限らず、あえて古いエロゲ的雰囲気を除去することなく、間桐桜、エロゲヒロインとして体当たりの演技! ちゃんとエロゲ的にかわいく、ちゃんとエロゲ的にエロく、ちゃんとエロゲ的に悪い人していて、満額回答である。
 
 中盤以降の、雨が降りしきるあたりからの桜のエロゲヒロインっぷりに、私の脳内では「エ・ロ・ゲ! エ・ロ・ゲ!」という謎の祭囃子が鳴りやまなかった。もし、私の手元に打楽器があったら、打ち鳴らしていたかもしれない。
 
 キャンディを舐める桜の姿を眺める頃には、「Fateが時代に追い付いたんじゃない。時代がFateに追い付いたんだ。これで勝てる(何に?)! 違う、もう勝ったんだ(誰に?)!」という、熱病めいた快哉が頭をよぎることもあった。映画館の暖房が効いてきたせいか、それとも私以外のみんなも熱病めいてきたのか、館内がやけに暑く感じられた。
 
 

エロゲの熱にうかされた二時間

 
 繰り返すが、この作品が、映画としてどのように評価されるのかは私にはわからない。
 
 だが、スクリーンシネマとして上映されたエロゲとして考えるなら、これは極上コンテンツであり、一見の値打ちがあるものだと思う。

 Fateシリーズのどれかに愛着のある人なら、迷うことはない、カネと情熱とテクノロジーによって磨き上げられたこの映画を目に焼きつけてくるのがいいと思う。大丈夫、この作品は「Fateを愛してきた人々に応えるためにリソースを全振りしている」から、期待を裏切られることはないはずだ。
 
 「これからFateシリーズを知りたい」という人に勧められるかといったら……正直、この作品だけを見てもわかりにくい気はする。前作や、他のプラットフォームの『Fate/stay night』に触れるか、他のFateシリーズでキャラクターを知ってからのほうが無難かもしれない。
 
 だとしても、2004年にエロゲというプラットフォームで生まれたFateがどういう作風を志向していたのか、あの当時のエロゲというプラットフォーム周辺でどんなキャラクターや情念や属性が重視されていたのかを知りたい人には、これは、またとない入門用テクストとなるのではないだろうか。
 
 『劇場版 Fate/stay night heaven's feel』は、エロゲ時代のミームの貴重な生存者であり、と同時に、カネと情熱とテクノロジーを吸い集めて生み出された映画化されたエロゲである。
 
 そのような作品が、女性のお客さんや外国のお客さんも含めてたくさんの人に楽しまれていたことも含め、私のような00年代からのファンとしては、今回の映画自体が聖杯──Fateの作中では願望を満たす器とみなされている──そのものとうつった。
 
 いや、聖杯以上の何かか。
 2004年の段階では、まさかFateが15年の歳月に耐えるとは思ってもいなかったし、裾野の広いファンを獲得して映画化されるなど思いもよらぬことだった。まして、ただの映画化ではなく「映画化されたエロゲ」ときたもんだ。奇跡としか言いようがない。
 
 00年代のエロゲ、00年代のFateを思い出させてくれる、どうにもエロゲな作品だった。
 もちろん最終章は見届けなければならない。来年の春が待ち遠しい。
 
 
 [関連]:十年越しのエロゲ『Fate/staynight』 - シロクマの屑籠
 
 

劇場版「Fate/stay night [Heaven's Feel] I.presage flower」 [Blu-ray]

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追記:

はてなブックマーク - Dragoonridersのブックマーク / 2019年1月29日
興奮しすぎ。その辺の適当なフランス映画引っ張ってきて比較しても、HFなんてお子様向けの性描写ですよ。

 エロいかどうかが問題ではないんです。ただエロいだけの作品なら、もっとエロいものなどいくらでもありましょう。しかし、エロさが00年代当時のエロゲの構文にかなっていて、ヒロインがエロゲヒロイン然とした魅力を放っているものはあまり無いのではないでしょうか。
 
 処女がどうこうも含め、Fateのエロにはある種のお子様向け感があり、そのお子様向け感は、当時のエロゲ周辺の雰囲気とは無関係ではなかったと思います。だから私は「あの当時のエロゲというプラットフォーム周辺でどんなキャラクターや情念や属性が重視されていたのかを知りたい人には、これは、またとない入門用テクスト」と書きました。本作は、00年代のFateとその周辺を今に伝える、貴重な語り部だと捉えています。
 
 Fateがここまで裾野の広いコンテンツになったにも関わらず、最新作の劇場版がエロゲ然とした佇まいなのは、おじさん的には瞠目するしかありません。ああ、こうやって追記している間にも太鼓を叩きたくなってきました。文化財ですよ、あれは。
 

もし「リスクは回避」が「リスクは不道徳」になるとしたら

news.livedoor.com
 
 先日、「医薬に依存しない健康」を教義に含んだ宗教団体から麻疹(はしか)の集団感染があったというニュースが流れ、「ああ、これはネットでバッシングされるだろうな」という気持ちで眺めていたが、案の定、痛烈な批判や非難がネットにこだましていた。
 
 これに関連して、はてな匿名ダイアリーに
 
anond.hatelabo.jp
 
 という短文が投稿されると、「感染症対策をするのは当然のモラル」という声をはじめ、信仰を持つのは構わないが衛生学的に望ましい措置はとるべき、といった指摘がはてなブックマークに集まった
 
 私には、この一連のできごとが現代社会の常識を再確認するチャンスのようにみえたので、頭の整理をしてみようと思う。
 
 

「信仰の自由」vs「リスクをもたらす信仰は駄目」

 
 宗教は、しばしば科学やエビデンスに則った常識から外れたことを信徒に要求する。
 
 たとえば20世紀後半のローマ教皇庁は、人工衛星が飛ぶようになってもかなり長い間、地動説を否定していた。進化論や医学も含め、今日の科学的知見が宗教教義とぶつかり合うことは、現在でも珍しくはない。
 
 とはいえ、その宗教自体も世俗化するにつれて時代に順応していくし、信徒の多くもそうである。
 
 教皇庁が地動説を認めたのはその一例だし、私の知る多くのお坊さんがたも科学やエビデンスといったものに喧嘩を売ってはいなかった。現代のお坊さんがたの大半は、現代社会に即したかたちで御仏の教えを説いているし、それは、日本国内の他の多くの宗教宗派でも同じだろう。
 
 信者サイドにしてもそうで、教義を厳格には実行していない人も多い。宗教を信仰している人の多くは、信仰の内容や教義と、科学的知見や生活との折り合いをどこかでつけている。
 
 反面、もっと真剣に・信仰どおりに生活しようとする人がいるのも事実だし、それは新興宗教に限定された話でもない。
 
 科学と宗教との間には、相いれない部分もある。科学は、人間の主観にかかわらずに事実や方法論を編み出していく手法なのに対し、そもそも宗教は、人間の主観にかかわる問題にもアプローチするものであり、もっと言うと科学が科学になるために捨ててしまったものを後生大事に持ち続けている*1。輪廻転生や最後の審判のたぐいも科学との食い合わせが悪い。
 
 また、宗教には合理主義に反する部分も少なくない。現代の合理主義者からみて非合理的な行動が、宗教教義にはしばしば含まれてもいる。
 
 今回の一件は、「医薬に依存しない健康」という宗教教義によって麻疹の集団感染という公衆衛生上の問題が発生したため、非常にわかりやすいかたちでひんしゅくを買った。
 
 だが本件に限らず、宗教とその思想体系のなかには、ほかにも科学的・合理的とは言えない部分がある。今回は、ワクチンと集団感染という出来事によってそれが人目に晒されたけれども、科学やエビデンスや合理主義といった現代的な考え方に合致しないものが、宗教のなかにはまだまだ埋もれている。
 
 先進国には、信仰の自由があるという。
 
 信仰の自由があるからといって法律を侵してはならない、ということはよく知られているし、宗教を信奉する人々もそのことは理解しているだろう。
 
 では、法律を侵してはいないけれども、教義にもとづいて科学や衛生学や合理主義に逆らった行動を行うのはどうかといったら、原則として禁じられてはいない、はずだ。
 
 「科学や衛生学や合理主義に従って行動しなければ罰せられる」といった主旨の法律は、私は寡聞にして知らない。
 
 だから、予防接種を受けなかったことで麻疹をひき起こした件に関しては、意図的にパンデミックを起こしたとかでなければ、[法的に]罰せられるようなものではないと思う。
 
 しかし、今回の件が象徴しているように、[法的]には罰せられなくても、感染を起こしたこと自体は[ひんしゅく]を買っていた*2し、「リスクをもたらす信仰はけしからん」という声が多数あがってもいた。くだんのはてなブックマークには「社会に害のないように」という表現が散見されるが、ここでいう害とは、ダイレクトな害悪ではなくリスクのことである。
 
 法律的には信仰の自由が認められているとしても、人々の道徳感覚としては、衛生学の見地からリスクを拡げる信仰はひんしゅくの対象であり、つまり道徳的にはアウトであるらしいのだ。
 
 法律により、意図的に他人に害を加える行為が禁じられているだけでなく、世間の道徳感覚の次元でも、図らずも他人に健康リスクをもたらす可能性がひんしゅくの対象になるという現況は、噛みしめて考えると、きわめて現代的だと私は思う。
 
 

「リスクは迷惑」→「リスクは不道徳」ではないか

 
 そもそも、リスクというセンスが昔からあったわけではない。
 
 去年書いたタバコの話にしてもそうだが、昭和時代以前の人間のほとんどは、健康リスクという観念自体をあまり持っていなかった。
 
 [関連]:「喫煙者は不道徳な人間」極論ヘイトはなぜ先鋭化するのか
 [関連]:どんどん清潔になっていく東京と、タバコ・不健康・不道徳の話 - シロクマの屑籠
 
 
 タバコは直接人を殺さない。
 
 この点では、タバコを拳銃やサリンなどと同列に論じるわけにはいかない。
 
 しかし統計学的にみれば、タバコが癌やCOPDなどの罹患率を高くしてしまうことが、現在では広く知られている。
 
 統計学という手法でリスクを評価できるようになってはじめて、タバコは毒物も同然の扱いを受けるようになった。
 
 発癌物質。塩分過多。メタボリック。そういったリスク概念をみんなが知るようになったのは比較的最近のことで、それは、タバコが本格的に害悪とみなされるようになった時期ともだいたい一致している。
 
 そして21世紀を迎えると、都市のあちこちにジムが建てられ、非常に多くの人が健康増進に気を付けるようになった。ジャンクフードや運動不足は、直接人を殺すことはないが、病気の罹患率を高くするリスクがあると知られている。だから範疇的な現代人はせっせとジムに通い、健康的な食生活を心がけている。
 
 こうした変化を「公衆衛生の啓蒙の勝利」とみることもできよう。
 が、思想上のパラダイムとしてみるなら「リスクという考え方の浸透」のあらわれとみることもできる。
 統計学にもとづいた評価と、それを背景としたリスク管理という発想は、必ずしも公衆衛生領域の独壇場というわけではなく、その裾野は広い。公害問題や原発問題にも、リスクという考え方を色濃くみることができる。
 
 

リスク化される身体 現代医学と統治のテクノロジー

リスク化される身体 現代医学と統治のテクノロジー

 
 
 この問題について私が気にしているのは、誰もがリスクを気にする社会が立ち上がってきたことで、「リスクは不道徳」という意識も強まっているのではないか、ということだ。
 
 高コレステロールや高血糖は、リスクとして数値化される目に見えない統計上のリスクである。それらはいきなり(あるいは必ず)人を殺したりはしないが、統計的にみれば疾病可能性が高くなる、そういったタイプのリスクである。そういう透明だが数値化できるリスクを避けることが自明視される社会のなかで、私達はリスクとみなされる他者をも一層敬遠するようになり、リスクとみなされる言動をとる他者を、不道徳とみなしたがるようになってはいないだろうか。
 

 
 少し前に、カナダで「移民は受け容れるが独身男性は除く」という報道があった。これを告げたニューズウィークの文面にも、リスクという言葉が登場している。
 

www.newsweekjapan.jp
 
CBC(カナダ国営放送)ニュースは以前、カナダは家族連れと独身女性、子供しか受け入れないことになるという匿名の情報を引き合いに、難民擁護派の懸念を伝えていた。独身男性は安全保障上のリスクが高すぎるという考えによる選別だ。

 
 独身男性は安全保障上のリスクが高すぎるから移民させないのは、個々の男性ごとに判断しているのではなく、独身男性を統計学的にみてハイリスク群とみなして判断しているわけで、これも統計学にもとづいた典型的なリスク回避の発想である。この人はダメとか、あの人なら大丈夫とか、ではなく、ローリスク群、ハイリスク群という統計的なモノの考え方にもとづいて政策決定することは、現代社会のジャスティスに適ったことなのだろう。あの先進国の優等生であるカナダ政府がそうしているというなら、なおさらである。
 
 このことが象徴しているように、リスク回避は私達が他者を選別する大義名分として通用し得るものとなっている。健康リスクを回避するために不健康をもたらすハイリスク群を批判・非難することと、治安リスクを回避するために独身男性の移民を敬遠することとは、異なる毛色はあるにせよ、リスク回避し、リスクを管理する時代ならではの理路という点では土台が共通している。
 
 もし、このようなリスクに対する理路が、私達に深く浸透し、内面化しているとしたら。
 何が選別の対象となり、何がブロックの対象となり、何が非難の対象となるだろうか?
 これまでは?
 そしてこれからは?
 
 こういったリスクに対する理路によって、私達は多大な便益をもたらされているわけだから、現状を非難すればそれで良い、というものではない。長寿社会も、現代人の快適で安全・安心な生活というものも、このリスクに対する理路に多くのことを依っている。
 
 とはいえ、リスクを遠ざけることに誰もが自覚的になった時代ならではの道徳感覚とはどういうものか、あるいはリスク回避と道徳感覚との相互関係はどういうものなのか、ときどき振り返って点検しておく必要があるのではないだろうか。
 
 とにかくリスクを回避し、リスクは不道徳とみなしていくうちに、あれも不道徳、これもやっちゃ駄目、ああいう人は避けなきゃいけない、といった選別が自他をどんどん窮屈にしていくような未来は、私はあまり見たくない。なので、「リスクは回避」と、リスクについて言及する人々の道徳感覚の動きについては、これからも見つめ続けていこうと思う。
 
 

*1:そしてイスラム教や仏教などは、今日の科学に直接連なる思想体系を生まなかった

*2:行政上の問題として、指導が入ったことは付記しておく