梅仕事、梅干しを漬けたりする作業って、世田谷区に住むお金持ちがやったら卓越性ディスプレイになる「自由趣味」だけど、田舎に住む人間がやる場合は生活に密着した「必要趣味」になるんですよね。表向きは同じ梅干しをつける・梅酒をつくるという行為や楽しみでも、誰がやるか、どうやるかによって意味合いはぜんぜん違ってきます。
なお、この話は6月25日に私が書いた「ていねいな暮らしという規範」と、階級・階層の問題」というブログ文章についてはてなブックマークのなかに、梅仕事に言及している人が思いのほかたくさんいたことを意識しながら書きました。
梅干しを漬ける理由は立場によって違う
人はなぜ、梅仕事をするのでしょうか?
その表向きの答えは、「梅酒や梅干しなどを食するため」となるでしょう*1。
私が子どもだった昭和時代の田舎では、6月になるとどこの家庭でも梅干しを漬けたし、梅の収穫を手伝ったりもしました。私は梅干しが苦手だったので積極的には食べませんでしたが、梅干しのための収穫、梅干しをつくるイベントはけっこう楽しみにしていました。でも、大人にとって梅干しを漬ける意味は違ったと思うんです。もちろん、それはそれでささやかな楽しみのひとつではあったでしょう。でも、梅干しを漬ければ梅干しをわざわざ買わなくて済むし、お金を浮かせることもできます。貧乏な家でもアクセス可能なささやかなおかずの足しとして、梅と梅干しというアイテムが望まれていたと理解すべきものでしょうし、それは生活習慣や地域の常識にも根ざしたものでした。同じことは、長野県における野沢菜漬けや山菜採りにも言えます*2。
でも、昨今の「ていねいな暮らし」の一環として梅干しを漬けるのはそうじゃないですよね。
世田谷区や港区に住んでいるお金持ちの人にとって、6月に梅干しを漬けるのはやってもやらなくても本当は構わないことです。本当においしい梅干しが食べたいだけなら、成城石井あたりに行って来ればよろしい。単に梅干しが必要なだけなら、イオンやまいばすけっとに行って来れば済むんですよ。都内の年収の高いご家庭にとって、最も経済的で生産的な選択は、梅仕事をすることではありません。もっとたくさん働いて給与所得や事業所得や配当所得を増やし、そのお金で梅干しを買うことです。
ですから「ていねいな暮らし」としての梅仕事には「やってもやらなくてもいい」がゆえに「能動的・主体的」な部分があります。わざわざそんなことをしなくったって生活に差し支えないし、むしろ、やらないほうが楽でコスパやタイパもいいはずなのに、それをわざわざやっている一面があります。田舎の貧乏な家がささやかなおかずの足しとして梅干しを漬けるのとは、ぜんぜん意味合いが違っていると言わざるを得ません。
ブルデューはそれを、(カントのいう)自由趣味、ひいては支配階級の趣味と呼ぶだろう
生活の必要性に迫られてつくる昭和の田舎者の梅干しと、「ていねいな暮らし」の一環として能動的・主体的につくる令和の都会者の梅干し。
これらは全く意味の異なった行為で、後者はカントの述べる自由趣味や純粋趣味にあたると思います。この分野に詳しい社会学者のブルデューなら、たぶんそう言います。
"必要性にたいする、またそのなかに閉じこめられた人々にたいする客観的な距離は、見せびらかすことによって自由を倍加するような意図的な距離設定をともなう。必要性への客観的な距離が大きくなるにつれて、生活様式はますますウェーバーが「生活の様式化」と呼んでいるもの、すなわちワインなどの製造年代やチーズの選択、田舎の別荘の室内装飾といった、ありとあらゆる慣習行動を方向づけ組織だててゆく一貫した方針の産物に、なってゆくのである。必要性を克服し支配する力の肯定であるこの意味での生活様式は、無償の贅沢やこれ見よがしの浪費に見られるところの、こまごまとしたことがらをこうして軽視する態度を是認できない人々、そしてそれゆえに日常的利害や差し迫った必要に支配されている人々、そんな人々にたいして正当な優越性をもちたいというもくろみ[プレタンシオン]をつねに含んでいる。このような自由趣味goût de la libertéは、必要性から生じたがゆえに美学の次元へと向かおうとする、したがって通俗的なものとして形成された必要趣味goût de nécessitéとの比較において、はじめて自由趣味として現れることができるものなのだ。"
ブルデュー『ディスタンクシオン I』P99 より抜粋
必要性を克服し、支配する力の肯定。
自由趣味としての梅干しに漬けついて言えば、それはイオンやまいばすけっとで購入しなければならない必要性を克服していること、それだけのゆとりがあるという卓越性のディスプレイとして機能します。やってもやらなくても構わないことをやってのけられること、コスパやタイパに汲々とすることなく「ていねいな暮らし」なるものに邁進するってのは確かにひとつの力に違いありません。イオンやまいばすけっとで梅干しを買うしかない人、もう少し背伸びして成城石井で梅干しを買えるぐらいの人の「生活にとらわれている」感をよそに、本当はやってもやらなくても構わないことに心血を注ぎ、「ていねいな暮らし」の一環として梅干しを漬ける。ブルデューの『ディスタンクシオン』においては、こうした趣味生活は支配階級のよくするもの、特に文化貴族がよくするものとみなされていました。そのうえでブルデューは、それがカントが『判断力批判』のなかで自由趣味とか純粋趣味と呼んでいるものと対応していることを指摘しています。
対照的に、私たちの田舎でこの時期に行われた梅干しづくりは、そうしないと梅干しにアクセスできないからだったり、そうすれば梅干し代を節約できることに根差しています。それで、店売りに比べて劣った梅干しを漬けている家もあったりする。信州の野沢菜づくりもそうだと思います。野沢菜漬けは「やってもやらなくてもいい」ことではなく、「やらなきゃ冬が越せない」ようなことでした。これは、カントを引用したブルデューの分類でいえば必要趣味とか野蛮趣味に属するものと指摘されるでしょう。
もちろん、「ていねいな暮らし」を実現すれば成城石井や三越で売られている梅干しよりもずっとおいしい梅干しが入手できると心の底から信じている都会人の場合、梅干しを漬けるという行為にもなんらか必要趣味的な側面があると理論上は強弁できるでしょう。「わたしのつくった世界でいちばんおいしい梅干しを食べるには、わたしみずから梅干しを漬けるしかない」、みたいな。でも、生産性の論理やノウハウの蓄積といったことを踏まえるなら、都会人が「ていねいな暮らし」と称して梅干しを漬け、それで成城石井や三越で売られている梅干しを味やクオリティで凌駕するなんて考えられません。おいしい梅干しを入手したいだけなら、駅前まで出かけたほうがタイパはもちろん、コスパもずっと良いのです。なんなら紀州から特上品をネット通販したって構わないでしょう。
都会人はタイパやコスパに敏感至極な人々ですから、当然そのことをほとんどの人が知っているはず。知ったうえでわざわざやっているってことは、これは自由趣味にあたり、その梅干しをつくるという営みの動機や目的や効果は(必要に迫られて梅干しをつくっていた田舎者のそれとは)異なっていますよね?
ですから、都会に住んでいる人が語る「梅仕事をしていますから」という言葉のなかにはゆとりや能動性・主体性に関する支配階級仕草があるといえます。そういうことを言ったりやったりする人々が正真正銘の支配階級(ブルジョワや文化貴族)と言えるのかはわかりません。なぜならプチブルはいつだって、ブルジョワの真似事が大好きだからです。とはいえ、「ていねいな暮らし」としての梅干し漬けは、ブルデューの時代なら支配階級が悠々とやってのけたことと共通点は大きいし、それがもたらす社会的効果や心理的効果も似たようなものでしょう。*3
卓越性のディスプレイは少なくとも自分自身には着実に効く
なお、こうした支配階級仕草、自由趣味っぽい卓越性のディスプレイを見た時、周囲の人々がそれを卓越性として実際に認めてくれるのか、逆に反発を感じたりなんとも思わなかったりするのかはケースバイケースでしょう。
でも、確実に獲得できるものもあります。それは、「ていねいな暮らし&自由趣味をとおしての卓越性のディスプレイは、他人に対してだけでなく、自分自身に対して有効」ってところです。これはブルデューというよりボードリヤール『消費社会の神話と構造』あたりを思い出しながら言っちゃうことですが……自由趣味的な卓越性のディスプレイに限らず、そのほかの卓越性のディスプレイも含めて、うぬぼれることだけは確実にできるんです。ですから社会的効果が不十分でも心理的効果が得られる目途は立つわけで、「ていねいな暮らし」はけっして無意味でなく、いつも最低限の有意味さを有している、ということはできるでしょう。
ブルデューはカントに気を許していない
あと、これも付け加えておきたいので付け加えておきますが。
ブルデューがカントの『判断力批判』をリファレンスしながら自由趣味という言葉を用いる時、ブルデューはカントにまったく気を許していないし、支配階級の自由趣味、たとえば「ていねいな暮らし」的なものを賛美すべきものとして書いているわけでもありません。彼の文章は全方位・全階級に冷たい目線を向けていて、ときに、読む人すべてに喧嘩を売っているようにみえるかもしれません。
それでも。
それでも ブルデューの『ディスタンクシオン』には、そういう支配階級のありかたや卓越性のディスプレイとしての「ていねいな暮らし」、ひいてはカント的な判断基準に対し、こみあげてくるような怒りが感じられる瞬間が数百ページに一度ぐらいあると、私は感じています。ブルデューは、こうした卓越性のディスプレイにまつわる人間世界の力学やメカニズムを「象徴闘争」という概念でまとめた社会学者ではありますが、そういう力学やメカニズムを手放しで肯定しているようにはまったく思えません。
そうした怒りや思いは私も共有しているつもりです。お金持ちが梅干しを漬けたら自由趣味で卓越していて、貧乏人が梅干しを漬けたら必要趣味で野蛮趣味ってのは、構図としては理解できても釈然としないものがあります。でも、どうやら人間社会の文化的側面はそんな風にまわっているみたいなので、私としてはまず勉強を重ねて、もっと理解を深めたいと願っています。田舎からは、以上です。










