たいして印象に残らなかった本が、再読すると違って見えることがある。
今回私は、『ヤニねこ』や『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』を思い出しながら上掲新書を再読し、前と違う印象を得た。
衛生化や健康化がもたらすのは、衛生や健康だけなのか(否、そうではない)
この『近代の呪い』という本は、そのタイトルどおり近代という時代、近代という体制に対してけっこう手厳しい感じの本だ。近代社会が成立していくことでかえって失われていく個人の自由、前近代の民衆にとって好ましく、お偉いさんのいうことをきかなくても済んだ隙間までもが容赦のない中央集権化や社会契約化によって消えていく様子なども批判的に書いている。国民のひとりひとりが近代人になった行く末として、たとえばナショナリズムに基づいた大戦争が起こった一面もあるじゃないか、みたいなことまで書かれていて、それもそうだろうなと私は思った。
さておき、今回とりわけ刺さったのは以下のフレーズである。
”一方、社会の福祉化、衛生化が進むにつれ、個人はまずます国家あるいは社会の管理を受けいれざるをえなくなります。人権化というのは変な言葉ですが、いわゆるポリティカル・コレクトネスも含めて、差別の徹底的排除の方向のことです。衛生化というのは、禁煙を含め社会環境を徹底的に殺菌・無害化しようとする方向のことです。いずれも厖大な官僚・テクノクラート・専門技術者を必要とします。……このような個人が国家(社会と言い換えてもよろしい)の管理に従属していく様相は、今後強まるばかりでしょう。それはみな、民衆世界の自律性を近代が撃滅した結果なのです。”
渡辺京二『近代の呪い』
人権化・衛生化・健康化が手に手をとりあい、人間をより健康的で生産的な存在に、人間をより人権の守られた存在に、そして社会を衛生的で防疫的に変えていく。そのうち衛生や健康は、自然科学領域と一般にみなされるテクノロジーである医学が司っているが、そのテクノロジーが国民全体に適用された時に起こる社会的変化は自然科学領域だけでは説明できない。人権化も含め、いちれんの「人間を大切にするためのはずの変化や改善」は、個人が社会に従属・依存する度合いを不可避的に高めていき、それは、社会システムが個人の統治を深めていく事態と不可分のものだ。
だが、表の看板としてはエビデンシャルで自然科学の装いを持った衛生化や健康化が、人文社会科学的に見過ごすことのできない統治上の効果をもたらす点について、その推進者たちはどこまで自覚できていただろうか? たとえばコロナ禍に際して、医療従事者のほとんどはそうではなかったと思う。医療従事者たちは、自分たちのやっていることを自然科学的な活動とみなし、専ら自然科学的にそれを説明した。もちろん、彼らが嘘をついていたわけではない。しかしそれは社会に強烈に作用する活動でもあり、コロナウイルスを封じ込めるという意図そのものは自然科学的でも、封じ込める過程で医療従事者が権力をふるいその権力が社会の中枢から末端にまで影響するというプロセスじたいは人文社会科学的、あるいは政治的だった。その強烈な人文社会科学的政治作用は、日本国民にマスクをさせ、行動を自粛させ、サービス産業がダメージを受ける政治決定を正当化させたり、逆に観光業や飲食産業を生き残らせるための政治決定をも正当化させた。
コロナ禍における出来事は、こうしたことのわかりやすい一例でしかない。また、統治や政治の表の看板として選ばれるのは医学だけでもない。
人間をより安全にするため、人間をより健康にするため、人間をより生産的にするための諸技術は、ショッピングモールの空間設計のような人間工学の顔つきをしたもの、法曹的な問題や倫理的な問題といった人文科学のような顔つきをしたものまで、色々とある。それらの総合として、ミシェル・フーコーがバイオポリティクス(生政治)と呼んだような、やさしい統治と権力が現代社会を覆いつくしている。そうした権力は、不健康な生活習慣を持っている者を直接罰したりはしない。システムによって誘導し、囲い込み、不健康に対して後ろめたい気持ちを──それこそギルティな気持ちを──沸き起こさせるような搦め手を用いて人々を健康や安全や生産性へと導く。力づくで健康や人権が執行されることはめったにない。だからこそ逃れがたいし、自発的にウェルビーイングに取り組まなければならない気持ちにもなる。たとえば私たちは、飲酒や喫煙のような健康リスクを伴う行動を選択するにあたって、官憲からの罰によって制御されるよりも、内面から湧いてくる罪悪感やうしろめたさによって制御される。罪悪感やうしろめたさで人を統治する諸技術が、何重にもこの国を、私たちを覆っている。
統治権力が健康を押し付けるほど、不健康は政治的プロテストになる
さきほど書いたように、バイオポリティクスによる統治はダイレクトな罰を全面に押し立てた統治よりもわかりにくく、避けにくいものだった。だが、ものには限度というものがある。令和の日本社会のように、ありとあらゆるところにバイオポリティクス的な「配慮」や「啓発」が配置され、それらに私たちが小突き回され、角がとれていくよう期待される漂白過程においては、さすがにそれも自覚される。なかには令和の日本社会への親和性が高いために「配慮」や「啓発」に小突き回されているとは感じない人、自分は自由に生活していると心底思える人もいるだろう。しかしバイオポリティクスによる統治が深化すればするほど、「配慮」や「啓発」に強いられて(自分自身の)不健康や不衛生や獣性を取り払わなければならないと感じる人、(自分自身の)不健康や不衛生や獣性に後ろめたい思いをしなければならない人の割合は増えてくるだろう。
現代社会の生きづらさにはさまざまな種類があり、それを言語化する理路もひとつではない。
だが、現代社会の生きづらさのひとつとして相当に有力で、多くの人にも共有されつつあるのは、おそらくこの「配慮」や「啓発」によって私たちをより善く生きるように統治する権力の存在と、それが張り巡らされた政治-権力的-空間的布置だ。ちなみに、バイオポリティクスの手管のほとんどは、エビデンシャルな自然科学的装いにせよ、人倫に訴えかけるものにせよ、しばしば脱ー政治化されていて中心的人物もよくわからない。「エビデンシャルな自然科学なのだから、これは政治的な問題ではなく施行して当然の問題だ」とか、「人倫にかかわるのだから、これも政治的な問題ではなく施行して当然の問題だ」とか、だいたいそういう顔付きをして社会に配置され、不特定多数のアクターやエージェントによって遂行されている。だが、いかに脱ー政治化の装いを備えていたところで、それらが私たちに影響を与え、行動を制限したり、内面にうしろめたさを埋め込み行動を改変させようとする力を備えている限り、やはり政治の問題・権力の問題であることを免れない。そしてバイオポリティクスによる私たちの生の統御は20世紀に比べて21世紀において格段に進歩しているのだから、不健康や不衛生や獣性を自分自身のうちに抱えている人にとって、令和日本社会、少なくともその本家本流とでもいうべき中核は、漂白され過ぎたもの・清潔すぎるものとしてうつるだろう。
そうした街じゅうにあふれた「配慮」や「啓発」にどうしても馴致されきれない人は、(『ヤニねこ』の登場人物でいえば妹子のように)自分自身の内面にあるそうしたものを抑圧しながら生きるか、(ヤニねこのように)社会の周縁で生きることを余儀なくされるしかない。
さて、そうまでして人権化・衛生化・健康化が推し進められ、マジョリティも熱烈にそれを支持するようになると、おかしなことが起こり始めると思う。バイオポリティクス的な施政の実施者たち自身の思いとは別に、それによって漂白されきれずに自分自身を抑圧するしかない者やはみ出してしまって社会の周縁で生きることを余儀なくされる者にとって、脱ー人権化や脱ー衛生化や脱ー健康化がある種の政治的プロテストとしての意味合いを帯びてくる。それらは一般に、国家や官公庁や大企業や産業によって推し進めるものだから、ここでいう政治的プロテストはアナーキズムの色彩を帯びずにはいられない。
たとえば喫煙の政治的含意。
本来、喫煙の政治的含意だなんて馬鹿げているし、まずは健康を害するマイナス面や依存性について意識されるべきだろう。だが統治権力が健康を押し付ければ押し付けるほど、喫煙という行為は統治権力に対するプロテストという意味合いを、あるいは統治権力から距離を置いている自分をディスプレイする意味合いを帯び始める。喫煙をしたからといってバイオポリティクスに覆われた社会が変えられるわけではない。それでも喫煙をしているその瞬間、喫煙者はバイオポリティクスのあぎとから脱して文字通り一服することができる。
これは、喫煙男性がマジョリティだった時代にはナンセンスなことだった。マジョリティが喫煙をしている時に喫煙してみたところで、統治権力に対するプロテストとはなり得ない。だが、統治権力によって喫煙が制限されれば制限されるほど、喫煙という行為は統治権力の望みどおりに振る舞っていないという含意を、あるいはバイオポリティクスによる統治に対する不服従としての含意を強めていく。
同じことは飲酒やドカ食いといった、他の不健康にもある程度まで言えるだろう。それらの行動について「身体によくありません」「控えましょう」と統治権力が押せば押すほど、飲酒やドカ食いは統治権力に対するプロテストとしての意味合いを、あるいは社会的政治的制限をかいくぐって自由を満喫する悦びを帯び始める。喫煙や飲酒やドカ食いをしたからといって、それで統治権力がひっくり返るわけではないし、それらが身体に悪いことは強調されなければならない。しかし、健康的であれ・衛生的であれ・生産的であれといった今日的要請が強まれば強まるほど、その政治的圧力を圧力として自覚する人の数は増えるだろうし、それらに囚われていない時間は蠱惑的となるだろう。
「ギルティ消費」という言葉を耳にする頻度は次第に増えている。そういう文物が社会の水面に浮かび上がってくるのは、要するに、バイオポリティクスによる統治の圧力がますます強くなり、その圧力に従うことに疲れている人も増えているからこそ、ではないかと思う。
[関連]:なぜ僕たちは『ちいかわ』の過酷な地獄に救われるのか?――『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』と新自由主義の漂白社会|ペトロニウス|物語三昧
自由の宛先が自分自身の身体ぐらいしかない悲哀
バイオポリティクスによる統治が猖獗をきわめる2020年代の令和日本社会にうんざりしている人は、喫煙や飲酒やドカ食いをすべきだろうか?
正直、私はそうは思わない。
そんなことをしたからといって、本当の意味で社会に対するプロテストとはならないからだ。
「大文字の政治運動」としての意味合いは期待できない。
たとえば誰も観ていない場所で喫煙や飲酒やドカ食いをしたからといって、それで社会的になんの意味がある?
問題なのは、そうした政治運動としての不健康行為をやったとしても、徹頭徹尾、個人的なものでしかない点だ。
たとえば私が喫煙したからといって、それがバイオポリティクスをなしている統治勢力に対する実効的な抵抗運動になるとはまったく思えない。飲酒やドカ食いにしても同様だ。それが意味合いを帯びるのは、せいぜい自分自身に対してでしかない。社会や他者に対する政治的効果が見込めないプロテストなど、社会的にみればプロテストとしてのていをなさない独りよがりだ。そんなことのために自分自身を傷つけたり健康リスクを吸い込んだりする値打ちがあるとも思えない。
近い未来に、もっと多くの人がギルティ消費に魅力を感じるようになり、ひそやかな不健康に耽りたくなったとしても、それがひそやかな個人的行為にとどまる限り、この「配慮」や「啓発」をまとわりつかせる社会とその体制を改変する力はまったく宿らない。対照的に、バイオポリティクスを駆使する統治勢力は、容赦のない組織戦を続けるだろう。たとえばアニメ『ヤニねこ』が放映されるのと軌を一にして、街でやたらと禁煙キャンペーンを見かけるようになったが、統治勢力はそのように組織の力を用いて「配慮」や「啓発」を推し進めていくから、独りよがりなプロテストよりもはるかに強力な影響力を発揮し続ける。それが統治というものだと思う。
まとめると、健康や衛生や生産性にまつわるバイオポリティクスが進行すればするほど、そのネガとしてのギルティ消費は一服としての主観的効果、統治に対するプロテストとしての主観的効果を強めていくだろう。しかし、それが個人的なもの・ひそやかなものに留まる限り、実効性のある政治運動、まとまりのあるプロテストとはならないから、独りよがり以上の意味合いを持ちえない。だから良いとか悪いとか、そういったことを私は言いたいわけではないし、団体運動をやりなさいと言いたいわけでもない。ただ、こういう濃密なバイオポリティクスによる統治が存在すれば、その外部を呼吸したい人も増えるだろうし、事実増えているんじゃないかと疑う筋がチラチラ見えるようになったことを、ここでは指摘するにとどめておきたい。
ほかにも、『ヤニねこ』『ドカ食い』『みいちゃん』らへんについては言いたいことが色々とあるし、カウンターカルチャーとギルティ消費の関係についても一席ぶちたいけれども、今日は時間切れなのでここまでにします。
※なお、この文章はしばらく下書きのまま放置されていましたが、よしきさんのブログを読み、催促された気持ちになったので今朝、急いで書き上げました。
※この話は、昨今、界隈を騒がせているコンテンツや消費行動について述べたい全体の一部分でしかなく、他にもまとめたいことが山積しています。たとえばカウンターカルチャーとしてのそれらはどうなのか、たとえばそこに登場するキャラクターについて精神疾患の病名をあてがうことの[一般の人における/専門家における]是非はどうなのか、とか。ひとつひとつの作品についても振り返ってみたいですね。でも、それらは別件とすべきと判断しました。




