シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

リングフィットアドベンチャー無しでは保てない身体になっている

 
例年、本格的な夏の頃には体重が落ちてくるのだけど、今年はなかなか落ちてこない。なぜだろう? と思って生活を振り返ったら、リングフィットアドベンチャーをやっていなかったことに気が付いた。
 

 
私は怠惰なので、リングフィットアドベンチャーをやるといっても、せいぜい週2回、カロリー数にして合計80kcalぐらいのものだ。あとは散歩やジョギングをいくらか。フィットネスジムに通って毎週200も300もカロリーを使ってくる人々の、あの勤勉さは不可能だと私はあきらめていた。
 
そうしたなか、リングフィットアドベンチャーは怠惰な私にも定着したほうだった。ゲームとして遊んでいたのは過去のことで、今では体調を整えるための手段として、カスタムモードのオリジナルメニューを定期でこなすだけになっている。普段、なかなか動かせない筋肉を動かすと気持ちが良い。身体という機械の動作確認をやっている感覚もある。
 
それが、学会などで生活リズムが乱れて以来、三週間ほどほったらかしになっていたのだった。なんとなく肩が重い・足が重い・調子悪いな……と思っていたものが、リングフィットアドベンチャーを再開したらだんだん解消された。気分もなんだか良い。
 
 

筋トレは一度始めたらやめられないのではないか

 
筋トレは、身体の調子を整えてくれ、過度でなければメンタルにもたぶんプラスになる。気晴らしにだってなるかもしれない。
けれども怠惰な私からみた筋トレは、どこか悪魔の契約じみている。
 
筋トレをとおして健康な身体をつくったりカロリーを消費したりすれば、健康な身体をつくることができる。それは事実だ。しかるべき場所でしかるべきトレーニングをしている人なら、私よりもっともっと健康な身体を手に入れられるに違いない。
 
けれどもリングフィットアドベンチャーを三週間ほど止めて痛感したことがある──これって、やっぱり永遠にやめられないんじゃないか?
 
筋肉をつけ、代謝を促進し、関節の動きも含めた運動機能を保つ。そういったことに種々のトレーニングが有用なのはわかる。でも、やめたらとたんにその恩恵は失われてしまう。のみならず、食生活と代謝のバランスの問題などから、太ってしまう人だっているかもしれない。私のように、リングフィットアドベンチャーを少々やる程度の人ならともかく、がっつり筋トレをやっている人がある日それをやめてしまったら、反動で、加速度的にメタボリックになってしまうのではないか?
 
筋トレの神、フィットネスジムの神、リングフィットアドベンチャーの神はおそろしい。ひとたび契約すれば身体の動きが向上し、代謝が促進され、マッチョなボディやすらりとした身体が手に入るのかもしれない。けれども契約は本当は永遠のもので、やめればたちまち体型が乱れ、代謝が悪化し、ぶよぶよの身体になってしまう。
 
現代人のライフスタイルでは、使う筋肉が限定されやすいので、ダイエットや筋肉美を抜きにしても、普段使わない筋肉に血肉を通わせることには意味があると思う。五十肩などを防ぐうえでも有用に違いない。それでも、筋トレの、やめたらやめる前よりもひどいことになるかもしれないからやめられない性質には恐ろしさを感じる。それは単にめんどくさい・疲れる以上のものだ。継続する意志のない人にどこまでお勧めしていいものやら、ちょっと考えてしまう。
 
 

健康促進という名の未来への投資、その前提

 
健康のために空腹でもドーナツを食べるのを我慢する。
身体を定期的に動かし、カロリーも消費する。
平均余命が延び、70歳どころか80歳まで働かなければならない現代人にとって、健康促進は好ましいとみなされている。そして健康リスクをかわさないこと、寿命や健康寿命を短縮させる選択は、悪とか愚とみなされがちだ。
 
社会常識を度外視して素になって考えてみれば、不思議なことでもある。
明日には死んでいるかもしれないのに、今日のドーナツを我慢し、ふかふかのソファに身を埋めてコーラを飲みながらAmazonPrimeを視聴するのを我慢し、明後日の、いや、数十年後の未来のために健康リスクを回避し健康を積み立てていくのである。
 
子どもの賢さや自制心を評価するテストとして、マシュマロを我慢できるかどうかのテストをやる、あれも、本当は不思議である。まあ、マシュマロテストを子どもに試行する場合、テスト後に死んでしまってマシュマロが手に入らない心配なんて度外視してもいいのかもしれない。けれども、たとえば内戦中のアフリカで育った子どもの場合、マシュマロテストで自制する子よりも自制しない子のほうが賢くて生存率が高いかもしれないと私などは思う。
 
してみれば、マシュマロテストとは厳密には子どもの賢さや自制心を評価するテストではなく、マシュマロを我慢することが生存率の高さに寄与するような社会環境において子どもの賢さや自制心とみなされがちな傾向を推定するテスト、と言い直したほうが適切なのだと思う*1
 
そのマシュマロテストと比べても、数十年後の健康のために健康リスクを回避し健康を積み立てる態度は、その社会環境にすごく依拠したものだ。すなわち、数十年後まで自分が生きていること、数十年後まで社会がおおむね同じ状態を保っていること、そういったことに未来志向な健康増進は依拠している。
 
1999年にノストラダムスの予言を期待していた人が裏切られた教訓が示すように*2、未来にカタストロフを期待するのは愚かなことではある。しかし同様に、たとえば2100年までの道のりが第二次世界大戦後の先進国と同じものであると自明視するのも、本当は利口ではないように思える。2050年まで自分の人生が無事平穏であると自明視するのもだ。たとえ平均寿命が伸びても、自分の人生はわからない。だから我慢すべきドーナツがあるのと同じぐらい、我慢すべきでないドーナツがあるはずだと私は思う。しかし今日の健康増進の姿勢は、まさにそのような自明視を大前提とし、それに支えられていやしないだろうか。
  
いつまでも続く平和と、いつまでも続く「体制」。それらを自明視したうえで、私たちは果てどない健康増進に注意と時間を費やし、タバコをやめ、ドーナツを我慢し、未来においても生産年齢人口の一翼たれるよう、社会からの要請に応えられるよう、精進を重ねる。そして自分が死ぬまでの収入や支出を注意深く検討する。だとしたら、今日の健康増進と健康リスク回避の態度は、さまざまな次元で資本主義のいまどきの仕組みと切っても切れない態度であり、いつまでもビジネスができる・いつまでもビジネスしなければならないブルジョワの夢と結合したディシプリンであるようにも思う。でもって、そうしたディシプリンは今や旧来からの経営者や起業家だけに期待されるものではなく、万民に期待されるものとなっている──。
 
さる本のなかで、健康は活力資産の一翼とみなされていた。もちろんそうだろう。容姿や礼儀作法や人間関係までもが資本としてカウントされる社会で、健康が資本としてカウントされないほうがおかしい。労働者は労働して賃金を得るものだから、80歳まで生きるつもりの労働者は健康に敏感でなければならない。常識的にみて、その敏感さは身を助けるもののように思える。
 
でもその常識的な見方は、今の平和と「体制」がずっと続くという前提に依拠していることは、特に今年のような年回りには思い出しておいていいのだと思う。まあ、思い出すだけではあるし、だからといって路線変更はしがたいのだけど。
 
私はもう、リングフィットアドベンチャー無しでは保てない身体になってしまっている。これを読んだ人達だって、大同小異だろう。明後日の健康のためにトレーニングを。数十年後の健康のためにタバコやアルコールを控え、ドーナツを我慢しよう。均整の取れた身体。生涯現役の精神。終わりなきトレーニング。
 
 

*1:そうでなくても、マシュマロテストにはいろいろ批判もあり、詳しくは、事情を知っていそうな人に聞いてください

*2:ノストラダムスの大予言を本気で信じていた人は少なかったように思う。でも、信じてはいなくても期待していた人は往時にあってもまあまあいたのではないか。

日本人にかかる性淘汰圧と、その行方を想像する

 
はてな匿名ダイアリーと一部のtwitter界隈で、「現代の恋愛は、告白すれば告ハラ扱いされ、付き合う前に口説こうとすればセクハラやストーカー扱いされる」、という文章が注目されていた。関連して、「ぬいぐるみペニス(略してぬいペニ)」というネットスラングについても、はてなブックマークやnoteで目にした。

現代の恋愛ってぶっちゃけ平民には無理ゲーじゃない?
[B! 増田] 現代の恋愛ってぶっちゃけ平民には無理ゲーじゃない?
「ぬいペニ」問題について|しの。|note
 
 

現状認識:交際までの曖昧なプロセスは難しくなっている

 
これらに対する反応はさまざまだった。恋愛や結婚の経験のある人々は「恋愛を理解していない」「告ハラなんて言われたところで無視すればいいしセクハラほどの誘い方なんてするほうが変」「まずは異性の友達作れ」などと書いていた。
 
1990年代的だと思うし、だからといって間違いだとも言いづらい。実際、マッチングアプリ等を使わず、既存の社会関係のなかで異性と巡り合いたいと思うのなら、ゆっくりと関係性を積み上げて、だんだんに親しくなっていくしかないだろうからだ。
 
しかし冒頭の増田に同意している人々は、まさにその、異性と関係性を積み上げていくためのハードルが高くなり、足切り基準も厳しくなっていることを指摘している。
 

『現代の恋愛ってぶっちゃけ平民には無理ゲーじゃない?』へのコメント

いきなり告白はありえない→時間をかけた友達からのアプローチはぬいペニなので無理、というのはハメ技っぽい。/はてなの人々、恋愛・結婚というイシューだと途端にネオリベ万歳のマッチョ自己責任論者になるのは何

2022/06/15 12:27
b.hatena.ne.jp
 
上掲はてなブックマークを私なりに読み取ると。
 
いきなりの告白は告ハラであり、論外である。だからといって少しずつ関係性を積み上げていくアプローチの場合、たとえば食事に誘ったとか、たとえば映画に誘ったとかいった段階で「ぬいぐるみペニス」だと思われてしまう。つまり無害でニュートラルな男性だから許容されていたものが、好意を持っていると知られた段階で気持ち悪いと思われ、嫌悪されてしまう。なら、どちらを選んでも結局駄目で詰んでいる。
 
そうした状況への疑念や苛立ちが、はてなブックマークのあちこちから立ち上っているよう、私には感じられた。
 
こう書けば、「でも、今の世の中でも学校や職場で恋愛している男女はいる。特に学校はまだできるほうだ」とコメントする人もいるだろう。まあ確かに。男女が手を繋いで登下校する様子は、令和でもそこまで珍しくはない。
 
しかしそれは、学校という今でも関係性の枠組みが曖昧な空間のおかげだったり、学生がまだ未熟で社会に出る途上だからできること、ではないかとも思う。社会に出て、利害や役割に基づいた振る舞いを期待されるようになった男女が、いまどきオフィスラブをどこまでやって良いのか・やれるのか。
 
オフィスラブ、普通に昔よりハレンチでインモラルとみなされるリスクが高くなってないだろうか。
 
今はまだ、オフィスラブだって不可能ではない。けれども職場の利害や役割を逸脱したコミュニケーションをトラブルなくやってのけるのは至難のわざだ。少なくともセクハラという概念が浸透した今、男女関係を誘う兆候に不快感や嫌悪感を感じた側はそれをクレームすることができる。誘いたいと思う側は、セクハラというイエローカードを警戒しながらことを進めなければならない。
 
リスク管理に敏感な若者なら、そのようなリスクは是非とも避けたいところだろう。
 
統計上はどうなっているだろうか。
 
株式会社パートナーエージェントによる「幼馴染み婚・同級生婚」に関するアンケート調査によれば、既婚者が出会った場所が職場であるパーセンテージは、かつての35%以上から2010年代には20%まで低下している。そのぶん、婚活やインターネットでの出会いや、学生時代の付き合いがそのまま結婚する割合が高まっている(グラフ・表)。
 

この調査は7年前のものだ。ここ3年はコロナ禍によって出会いの場としての職場機能は弱くなったから、グラフや表の傾向は加速しているだろう。昭和~平成時代の感覚で職場の出会いを考えている人は、こうしたトレンド変化を過小評価していると思う。
 
逆に、こうした逆境下でも職場で出会いを獲得できる人は、いったいどんな人なのか。
 
少し前のインターネットスラングに「ただし、イケメンに限る(略してただイケ)」というのがあった。ここでいうイケメンとは、容姿や身のこなし、話術、関係性の調節能力、経済力などを総合的に評価して、「この人になら誘いがあっても悪い感じがしない」と女性が思いやすい男性のことを指していると思われる。
 
同時代に「壁ドン」というネットスラングもあった*1。「壁ドン」とは、令和から思い出すとどうあれセクハラかパワハラではないかと思われるのだけれど、平成後半になってもまだ「壁ドン」がポジティブワードとして流通するぐらいには、男女の間柄は委縮していないかったし、NGとみなされるラインに違いがあった。
 
こうした「ただイケ」や「壁ドン」といった一世代前のネットスラングが教えてくれるのは、当時、
 
・女性が好むような男性には、学校や職場で特権的なアプローチが許容される余地があり、
・女性のなかにも、そのような男性に限れば特権的なアプローチを期待している向きがあり、
・社会風潮はまだ、令和に比べればそうしたアプローチを許容していて、
・もちろん女性が嫌悪するような男性には、そうしたアプローチは許容されるものではなかった
 
といったことだ。もちろん個人差はあるだろうが、それでも10年ぐらい前は現在よりそうしたアプローチが許される余地があったのだろう。
 
今日のコミュニケーションは、職場であれ趣味の集まりであれ、目的志向で、効率重視で、その必然としてノイズや遠回りや腐れ縁を避けたがるものになっている。21世紀だけを眺めるならそう思わないかもしれないが、20世紀と比較すればその傾向は明瞭である。
 
たとえば平成はじめまでの飲みニケーションや社員旅行のたぐいは、仕事以外のさまざまな接点を与えるものであると同時に、目的志向的ではなく、曖昧で、腐れ縁的で、なんとなればノイズやハラスメントのようなコミュニケーションだった。そういったものを避けることがスマートとみなされ、正しいとみなされ、効率的とみなされ、健康だとさえみなされていく大きな流れのなかで、いい歳した大人が職場や趣味の場で男女の間柄を構築しようと思ったら、まさに、特権的存在でなければ難しく、甚だ危険でもあるだろう。
 
こうした変化の影絵として、婚活、ひいてはマッチングアプリが台頭してきている。
 
職場で出会えないし出会うべきでないなら、婚活やマッチングアプリをとおして、効率的に出会うしかない。
 
よく、婚活やマッチングアプリは新自由主義的だ、資本主義的だ、疎外だ、といった声を聴く。なるほど私もそう思う。しかしだ、そういった不平の声をあげる当人だって、案外、目的志向的ではないコミュニケーションや非効率なコミュニケーションを嫌悪し、ノイズやハラスメントのようなコミュニケーションを排除してきたのではなかっただろうか?
 
学校でも職場でも趣味の場でさえも、目的志向的で効率的なコミュニケーションを求め、ノイズやハラスメントを嫌悪してきた人が、こと、男女の間柄に限ってその精髄ともいえる婚活やマッチングアプリを忌避するのは、ダブルスタンダードではないだろうか。いや、私は古い人間だからダブルスタンダードだと言いたくない気持ちにシンパシーを覚えるのだけど。
 
しかし、経済的にも社会関係的にもコスパを求めて当然という顔をしている人、商取引のようなコミュニケーションを当たり前にしすぎている人が、マッチングアプリをとおして自分自身に値札が貼られていると気付く段になって鼻白むのは、ちょっとおかしいというか、効率主義的資本主義社会の尖兵としての自覚が足りない。そういう人は、粛々と神の見えざる手に自分自身を委ねるのがお似合いであるよう思われるのだ。
 
 

では、日本人はどのように選別され、どのように変わってゆくのか

 
こうしたことを踏まえて、これからの日本人の性淘汰(生殖できるかできないかによって、後世に残る遺伝形質がふるいにかけられ、ひいては進化が進んでゆくプロセス)について考えてみたい。
 
もちろん性淘汰を介した進化は、たかだか数十年、たかだか数世代ではそこまで進みそうにない。だからこれは放談漫談のたぐいで、事実を述べようと努めているものではないことはここで断っておく。
 
これから生殖し、子孫を残す第一のタイプは、高校や大学で恋愛できるか、社会人になってからのリスキーな環境下でもなお恋愛ができるか、どちらかの人々だ。 
 
第一のタイプの人は、容姿や性格も含めたコミュニケーション能力が高い人で、「ただしイケメンに限る」的な人々だ。女性も事情はそう変わらない。年上のおっさんに金や承認を求めて接近するならともかく、同級生婚に結び付くような恋愛を高校・大学在学中にやってのけ、続けてみせるのは簡単ではないからだ。
 
よりリスキーになったオフィスラブなどをやってのける人も同様である。学生時代とはまた異なったかたちで、容姿、そつのなさ、性格のうまさなどが問われるだろう。
 
第二のタイプは、婚活やマッチングアプリといった、男女に値札をつけて互いを選別する仕組みのなかで勝ち抜き、選ばれるタイプだ。この場合も、容姿やコミュニケーション能力といった、誰に対しても魅力として働く素養が有利となり、特に男性の場合は、高い経済力、とそれを支える認知機能等々が選好されやすいだろう。
 
この二つのタイプが子孫を残す確率が高く、そうでない人が子孫を残す確率が低いと考えるなら、将来の日本人は、
 
・容姿は、ますます好まれる方向に変わり続ける。第一のタイプ第二のタイプ双方において、男女を問わず容姿が期待されるのだから、性淘汰の選別因子として、容姿は今後も猛威をふるう。
 
・容姿以外のコミュニケーション能力、そのさまざまな構成要素も求められるが、学校で恋愛し長続きする学生に求められるものと、マッチングアプリ経由で出会う社会人に求められるものはそれなりに違う。
 とはいえ、両者には共通するTPOもある。TPOは後天的に身に付けられるが、その習得コストや精度には個人差があるため、身に付けにくい人、身に付けられない人はそのぶん子孫を残す確率が低くなってしまう。
 
・第二のタイプでは経済力が問題となるので、その経済力を獲得するのに適した資質、たとえば学力を得やすい素質も後世に残りやすいかもしれない。しかし容姿や汎用性の高いコミュニケーション能力に比べると、どのような能力が未来社会で高く評価されるのかが想像しにくい。
 
 
ざっくりまとめると、日本人は、このような性淘汰を経て、ますます容姿に優れコミュニケーションにそつのない、そういう集団になっていくと想像される。20世紀後半からの傾向とあまり変わらないといえば変わらないが、世代から世代へと続く性淘汰競争を経て、日本人の平均的な容姿、コミュニケーション能力、TPOの卓越性はますますハイレベルとなり、その高い基準に基づいて次世代の競争が行われるだろう。
 
こうした趨勢は、はてなブックマークで何人かが指摘しているとおり、直接的には障碍者を排除しないが、個人の自由な選別と選択の結果として、おのずとそれに近い結果を招くと思われる。
 
では、平均がハイレベルになった未来の日本社会から、今日でいう発達障碍のような位置付けになる人々がいなくなるかといったら、たぶん、そうではないと思う。平均が高まったぶん、人々に求められる能力や素養も高くなる。TPOも、認知機能も、容姿もだ。そうしたなかで、生きづらさとは、障碍とは、非モテとは……といったことが云々されるのだろう。
 
そうやって、外見も機能も内面も高度な資本主義社会に適応した人間が彫琢されていく。
 
 
なお、ここまでの放談はこれまでの日本社会が(緩やかに衰退しながらも)持続した場合を想定した話なので、戦乱や内乱などによって国家がひっくり返ったらこの限りではないので悪しからず。
 
でもって世の中の雰囲気をみるに、そうなってしまう可能性がゼロとは思えない。娑婆はいつも諸行無常なので。
 

*1:ただし、ここから書く「壁ドン」の定義は、本来のマイナー意味が失われ、現在でもよく知られているメジャーな意味に塗り替えられたいきさつがある。が、略する。

いま、精神分析に意味があるとしたらそれは何か

 

 
同業の人が学会に集まろうとしている季節に、「いま、精神分析に意味があるとしたらそれは何か」などというお題をネットのopenな領域に投げるのは蛮勇すぎるのですが、ある集まりで「今、精神分析に意味はあるの?」という問いをいただき、持ち時間100分ぐらいで今の自分が何を思いつくのか書いてみたくなったので、えいっ! と随筆してみる。
 
なお、これは私に問いを与えてくれた人に応えるという体裁でやっていることだとエクスキューズさせてください。各方面の精神分析に造詣のある人は、ある程度これに同意してくださるかもしれないけれども、全面的に同意してくださるとは思えない。また、私がなんやかや言っても(精神医療の実地において)標準的治療と治療ガイドラインと精神行動科学的な研究をリスペクトしていることにも引っ張られている部分があると思う。そのあたりを気にしない人が読んでくれると想像しながら、以下を記す。
 
 

本題に入る前に (本題に入りたい人は読み飛ばしてください)

 
でもその前に、精神分析だの無意識だの、ひいては「こころ」だのを云々してどうすんのよ? ほかにすることはないのですか? 的なビジョンもをあえて挙げてみたい。読みたくない人は、次の見出しまで飛ばしていただいても構わない。
 

「人の心という曖昧なものに頼っているから、ネルフは先のような暴走を許すんですよ。」
『新世紀エヴァンゲリオン 第七話 人のつくりしもの』より

 
精神分析が心 psyche*1に焦点を向け、自我超自我イドをはじめ、さまざまに心をモデリングして議論するものである限り、心という直接観測できない曖昧なブラックボックスを取り扱っている、という感はどうしてもぬぐえない。
 
精神分析に意味はあるのでしょうか、という問いはあと少しの変奏で「こころを云々することに意味はあるのでしょうか」という問いに化ける。直接観測不可能なブラックボックスを云々するより、第三者にも観測可能で、エビデンスを集積できるものを取り扱い、操作や管理の対象にしたほうが科学的知見が集積しやすく、再現性のある治療技法が生み出せるんじゃないだろうか?
 
そこで、「こころ」より「行動」ですよ!
 
行動なら、第三者にも観測できるし大規模に記録することだってできる。精神分析というプロセスを介して心をうんたらかんたらするより、行動のほうがずっと観測・記録を集積させやすい。エビデンスが集まりやすい、ってわけよ。心そのものはわからないままでも、(症状も含めた)人間の行動を統計的に分析し、確率的に管理できるなら、その行動にまつわるリスクは管理できる。治療者側にとってはそれでもう十分有意味なのだ。
 
少なくともなんらかの行動上の障害や症状を管理する点では、クライアントの心をうんたらかんたらするより、行動に注目して操作や管理を試みたほうがエビデンスベースドなことができるはずだし、それは時代の要請にも適っている。
 
でもって、最近の大学精神医学教室のなかには「精神行動科学」を名乗っている教室が結構あって、私は潔いと感じている。こころという曖昧なものではなく、精神行動を研究している、という実直さが感じられて。
 
問題点がないわけではないとしても、こうした行動を科学する向きは今日の精神医学、精神医療の主流をなしているし、私はそれが妥当だと思っている。20世紀中頃、アメリカでは精神分析的精神医学が栄え、日本でも精神分析のプレゼンスは20世紀末ぐらいまでかなり大きかったけれども、効率性の面でも再現性の面でもエビデンスに基づいた精神医学、認知や行動を対象とする精神医学にとってかわられた。
 
私は精神分析には今でも意味や意義があると思っているけれども、今日日の精神医学の主流派がやっていることも好きだ。実臨床では後者のお世話になっている度合いが高い。だからどっちも大事に思っていることは断っておく。
 
 

今、精神分析を学ぶ意味1 リベラルアーツ、教養として

 
ここから本題。
勘違いがあるかもだけど、書いてみる。
 
今、精神分析を学ぶ意味のひとつに、人文科学領域の広範囲を理解する補助線になるよ、というのがある。芸術や社会科学領域を理解する補助線としてもまあまあ現役じゃないだろうか。
 
フロイトが発見・提唱・拡散した無意識という概念は、近代社会における特異点のような何かで、影響はさまざまな分野に及んだ。いろいろな分野の人がフロイトから影響を受けたし、そうでなくてもフロイトと同じ時代を生き、同じ思想の渦のなかで考えた。だから20世紀の人文科学~芸術~社会科学には、フロイトとその後継の精神分析諸派の考え方があっちこっちに登場する。そして、当時の読者に向かって書いているからか、しばしば、無意識とその構造──超自我、自我、イドといったような──をある程度は知っているという前提で記されていたりする。
 

 
千葉雅也さんが書いた、哲学入門の本としてはすごく売れている『現代思想入門』にも、フロイトやラカンの説明が登場している。というのも、ポスト構造主義(や構造主義)を理解するにあたって、フロイトやラカンとの接点が無視できないからだ。もちろん千葉雅也さんは21世紀の哲学者なので、この入門書を読むにあたってフロイトやラカンを諳んじている必要はない。けれども「入門」の書籍にもそれらが登場してざっくり説明されている程度には、ポスト構造主義や構造主義を理解する補助線として精神分析は無視できない。
 
あるいは、アドラーやマズローといった、いまどきの経営者と労働者のモチベーションにゆかりの深い人たちの書籍と向かい合う際にも、精神分析を知らないよりは知っていたほうが面白い。彼らは精神分析の正統後継者ではないかもしれないが、精神分析の分家か傍流だ。ユングも分家で、人文科学領域では思い出したように登場する。そして面白いことに、進化生物学や進化心理学の書籍にも、フロイトをはじめとする精神分析諸派の考え方がさまざまに登場したりもする。
 
こんな風に、精神分析とその言葉はかなり広い領域で流通しているので、知っておくとそのかなり広い領域の書籍の読みやすさが向上する。20世紀に書かれた書籍では特にそうだし、21世紀に書かれた書籍ですら、ときにはそうだ。精神分析はリベラルアーツだと言われていた時期があった(今でもいわれている?)が、実際、かなり広い領域の本を理解しやすくしてくれるという意味では、確かにリベラルアーツであり、教養として機能する。
 
なお、徒手空拳でいきなりフロイトやラカンを読もうとしてもしんどいだけで得るものは少ないんじゃないだろうか。私はフロイトやラカンをいきなり読むより、まず、自分が出会った書籍のなかでなるべくわかろうとしてみてみるか、自分が出会った領域の書籍の解説書や入門書に書いてあるフロイト理解なりラカン理解なりを読んでみるのがいいと思う。かくいう私もラカンは今でもあまりわからないし、インストール済みの進化生物学と戦争状態が続いている。フロイトにしても、面白い・スゲーと思うようになったのはフロイト以外がフロイトについてあれこれ言っているのを読んでから。特別に講義してくれる先生と抄読会を組むのでない限り、いきなりフロイトを最初から読もうとするのは難しいんじゃないかな、と私は思う。
 
 

今、精神分析を学ぶ意味2 DSM以前の疾患概念や精神医学史、パーソナリティ障害を理解する補助線として

 
次の項目は精神科医とその周辺が今、精神分析を学ぶ意味について。
これも自信ないけど書いてみる。
それと精神科医以外はここは飛ばしていいかも。
わかりにくいし、わかってもらおうって配慮があまりできなかった。
 
精神分析というからには、精神医学とその周辺を理解する際にも、一定程度は役に立つ。というか、知っていないと疾患概念がわかりにくかったり、カンファレンスの時に年配の先生がしゃべっていることが呪文みたいに聞こえる事態が発生するかもしれない。
 
たとえば病態水準とか原始防衛機制とか、そういった言葉には精神分析の考え方のフレーバーが宿っている。ロールシャッハテストやバウムテストといった投影法の心理テストの読み筋にもだ。
 
神経症、という疾患概念については特にそうだと言える。DSM*2の時代になり、そういった言葉は影が薄くなっているし、DSMからは神経症という言葉そのものが消えた。けれども「ストレスを被った時に、人がどのように反応するのか(または、どのように症状を呈するのか)」の原因と結果の関係を考える際や、「その人の生い立ちや生物学的要因によって、ほぼ同じストレスを被っても反応や症状が大きく違うのはなぜか」を考える際のツールとして、これらが引っ張り出されてくることはまだある。DSMが栄えているのに、なぜこれらが引っ張り出されてくるのか?
 
それはたぶん、DSMやそれに連なる現代精神医学が、「その人の生い立ちや生物学的要因によって、ほぼ同じストレスを被っても反応や症状が大きく違うのはなぜか」について神経症の完全上位互換といえる理解の道筋を提供しているわけじゃないからだと思う。DSMらは、神経症に代わる理解の道筋を提供するのでなく、理解の道筋を、放棄した。もちろん統計的傾向についてはDSMらはさまざまなことを教えてくれる。統合失調症や躁うつ病になりやすい統計的傾向とか、ほぼ同じ症状の人でも治療がうまくいきやすい人といきにくい人はどう違うのかの統計的傾向とか、そういうものはたくさん提供してくれている。だけどそれは神経症の完全上位互換ではない。目の付けどころや研究の姿勢が違っているのだ。
 
しぶとく繰り返すが、現代精神医学は良いものだ。けれども目のつけどころや研究の姿勢が違っているからこそ、神経症との互換性にかなりの問題がある。そして今でも日米の精神医学のテキストブックや学会のお題から精神分析や神経症といった言葉が消えきっていないことが暗に示しているように、時々、昔の考えや昔の疾患概念を思い出して考えたくなる場面はある。
 
あとはパーソナリティ障害か。
パーソナリティ障害は、DSM-5ではかろうじて残ったけれども臨床的にはそれほど診断されなくなっている(発達障害圏のスペクトラムや双極性障害圏のスペクトラムでしゃべったほうが今風な場合が多いと思う)。
けれども、いざ、境界性パーソナリティー障害を理解しようと思ったら、やっぱり精神分析の弟子筋であるカーンバーグは避けられない。
 
いまどきはもう、カーンバーグを一生懸命に勉強しようって精神科医は少ないのかもしれないが、それでも境界性パーソナリティー障害を学ぶこと自体がカーンバーグを追想するようなところがある。ひょっとしたら境界性パーソナリティー障害を学ぶこと自体、今後はあまり意味を持たなくなるのかもしれないし、実際、DSMと双璧をなすICD(国際疾病分類)の新版ではパーソナリティーはディメンジョナルな分類へ分解されると聞いている。けれども、そのディメンジョナルな分類じたいも境界性パーソナリティー障害から議論を継承している部分があるので、ただ運用するだけでなく、もっと詳しく知りたいと思ったらたちまち、20世紀以前の議論を思い出さなければならなくなる。
 
だから、ここでも精神分析はリベラルアーツや教養的な意味合いとして生きている。ある診断や疾患概念について議論を遡ると、しばしば精神分析的なものにひょっこり出会う。それは、精神分析がアメリカ大陸の精神医学にすごく大きな影響を及ぼしていた一時代があったからでもあり、ドイツやイギリスやフランス、ひいては日本においても精神分析が精神医学に影響を及ぼしてきたからでもある。ある診断や疾患概念について、今この瞬間だけでなく、過去から現在、そして未来へ至る流れのようなものを知る一助として、精神分析とそのプロダクツを知ることには意味があると思う。こうした場合、カーンバーグやコフート、アンナフロイト、ウィニコットやメラニー・クラインといった人々が遭遇しやすい出会いと思うけれどもいかがでしょうか。
 
 

今、精神分析を学ぶ意味3 自分自身の盲点やこだわりを知る一助になる(かもしれない)

 
ここからますます怪しくなる。
ちょっと恥ずかしいかもだけど、えい、書ききってしまおう。
 
精神分析は、クライアントのこころについて知ったり治したりするものって思われているかもしれないし、精神分析の治療者の仕事はそうなのかもしれない。ちなみに私はそうではない。精神科医だが精神分析を精神分析として患者さんに実行することはない。それは正規の教育分析を経た精神分析のひとがやることだろう。
 
とはいえ私も精神分析に関心があったし、お互いの病理を指摘しあい、防衛機制について云々する空間でキャリアの最初期を過ごす幸運を得た。ほんのさわりながら、スーパーバイズの機会まで頂戴した。そうした自分自身の見聞と先輩がたの言葉から、精神分析には、クライアントのこころをどうこうする前段階として自分自身のこころについて考えさせられる部分がきわめて大きい、と私は感じ取った。
 
もし精神分析的にクライアントとかかわる際に、治療者が自分自身のこころの性質や自分自身の盲点について自覚的でなかったら、精神分析のことばのひとつひとつは、クライアントのこころについてそのまま反映したものではなく、治療者自身のこころの性質や盲点の色彩を帯びているのに気づかないものになりはしないだろうか。だから精神分析でクライアントのこころについてあーだこーだする(または考える)前に、そのクライアントのこころについてあーだこーだしたり考えたりする自分自身の性質についてできるだけ知って、その治療者自身に由来するバイアスについてできるだけ知っておかないとまずいはずだ。
 
私が好きな精神分析の一派である、コフートの自己心理学という派では、「治療者自身に由来するバイアスを真っ白にするってちょっとあり得ない。バイアス込みでやっていくしかないよね」的で、治療者自身を真っ白漂白しろ、みたいなことは言わない。でもって、他派は治療者自身を真っ白漂白するべきって言いすぎじゃね? みたいなことも言っていた。この、治療者自身を真っ白に漂白すべきかどうかという問題はここでは於いておこう。しかし、コフートの自己心理学でもそうじゃない精神分析の諸々でも、治療者とクライアントのやりとりに際し、治療者自身の性質や盲点について知っておかなければならないし、教育分析がそれを知るための過程でもある点は共通している。
 
だから精神分析は、他人のこころをズバリ考えるためのものである前に、自分自身のこころについて考えたり、突っ込まれたり、ウヘエって思ったりするものなのだと私は思う。そして精神分析的に他人のこころについてあーだこーだと考えるとは、他人のこころと自分のこころの相互関係について(真っ白漂白か、そうでないかはさておき)考え続けることに他ならないと思う。そういう相互関係について考えなきゃいけないと直観させてくれる、力動精神医学とか精神力動論といった言葉が私は好きだ。精神分析、という言葉に比べたら世間に知られていないけれども。
 

(※うちにあるのはこれより版の古いやつ)
 
ところで、精神分析を学べば、かならず自分自身の盲点やこだわりはわかるものだろうか?
 
私は、わかることもあればわからないこともあるのが本当じゃないかと思っている。
わかるよう努めるのが精神分析の治療者のあるべき姿だし、そこまでいかなくても、精神分析が好きなら自分自身をいつも顧み、他人のこころと自分のこころの相互関係について考え続けるってものだろう。
でも、努めることとできることはイコールじゃない。
なかにはぜんぜんできない人もいるだろう。
いや、いる。
っていうか、できるできないのバラツキが大きいから、結局精神分析って廃れたんじゃなかったっけ?
 
教育分析という、時間もお金もめちゃかかる過程を潜り抜けたら全員スーパー精神分析治療者になれるなら、きっと精神分析はもっと栄えているはずだ。でも、実際はそうなっていない。なぜか。それは時間もお金もめっちゃかかる過程なのに、全員がスーパー精神分析治療者になれるわけじゃない、からではないだろうか。
 
その点、DSMは優れている。エビデンスに裏打ちされた診断体系と治療ガイドラインさえきちんと守っていれば、精神科医の卵だってエビデンスにあるとおりの治療成績を出すことができる。できる人、できない人のバラツキも最小化できる。将来的には、生身の精神科医である必要すらなくなってくるかもしれない。アメリカにおいて、DSMが精神分析から主導権を奪えたいきさつは書き始めると長くなるけれども、誰が治療者でもアウトプットが安定している点、再現性が高い点は重要なポイントのひとつだった。
 
自分自身の盲点やこだわりを知る一助になる(かもしれない)と、わざわざ書いたのは、そういうところがあるからだ。精神分析に触れて自分のことがわかるかどうか、わかるとしたらどの程度わかるのかは、人によるとしかここでは言えない。
 
 

今、精神分析を学ぶ意味4 他人のこころを推測する一助になる(かもしれない)

 
……ということはだ、精神分析をとおしてクライアントの、ひいては他人全般の行動を推測するとは、どの程度できると言えるものだろうか?
 
精神分析なんて知らない人にも、他人のこころが読める・丸見えだと思わずにいられない場面はある。
 
たとえば自分自身のコンプレックスをモチベーションとして、異様にがんばっちゃっている人が、周囲の人からは「あの人は、自分のコンプレックスがモチベーションになってあんなに躍起になっている」と読み取られることは、よくあることだ。でもって、当人はそのことに無自覚で、そうだと指摘されても躍起になって否定することもよくあることだ。当人にとって完全な盲点になっているような防衛機制は、だいたい他人にはおそろしいほど丸見えである。
 
でも、そういう極端な場合を除けば、精神分析をよく学んだからといって他人のこころが読める・他人のモチベーションの源が読める、ものだろうか。あるいは、たまたま他人のこころがわかった・読めたと思ったそれが精神分析を学んだおかげだと言い切れるものだろうか。
 
そういうこともあるかもしれない。だけど慎み深く考える場合、「自分は精神分析をマスターしたから他人のこころがわかるようになった」とはなかなか言えまい。まあそもそも精神分析がクライアントに提供するのは、きっとそういうことじゃないのだと思う。こころのwikipediaを読み上げ、「うん、わかった」「理解した」と言って終わらせるようなものではないはずなのだ。
 
……精神分析を学ぶ意味について書いていたはずが、他人のこころを推測するって段になったら私はちょっとしり込みしている。
それは私が不勉強を恥じているからかもしれないし、他人のこころをわかる、という表現や状況を安易に使ってはいけないと感じているからかもしれない。
 
だからここまでを読んで「なあんだ、精神分析を学んだって一流のメンタリストになれそうにないな」なんて思った人もいるかもしれない。そうかもしれない。けれどもここまでこうして書いてきたのは、私のなかに精神分析に触れる機会があって本当に良かったという思いと、それでも精神分析を学ぶこと・知ることには意義があるという思いを捨てきれないからだったはずなのだ。
 
長い文章になってしまった。
長い文章であること、それ自体は精神分析を学ぶ意味の大きさを必ずしも示さない。
ただ、この長い文章をとおして、私は自分自身が精神分析をとおして何を得たのか、それとどんな姿勢を獲得したのかを振り返ったような気がした。
「今、精神分析に意味はあるの?」という問いをはじめに与えてくれた人への直接回答になっていないけれども、私個人の精神分析観をこのように振り返った。
 

*1:精神分析における精神、とも訳されるけれども、ハインツ・コフートの自己心理学ではpsycheに心と宛て字してあるのでここではそれに倣う

*2:アメリカ精神医学医学会の診断のマニュアル。統計的なエビデンスが圧倒的で、精神疾患の診断と治療を統計的にまとめあげ、分類した大部のものだ。このDSMの大きなマニュアルじたいが読み物として優れていて、ときどき読むと勉強になるし精神科医はしばしば面白いとも思うはずだ。なお、ここでいう大きなマニュアルとは、ポケットサイズのあいつのことではない。殴って人が殺せそうな青色の分厚いやつのことだ。精神分析とはだいぶ遠いけれども、あれは、いいものだ。

「点の成功」と「線の成功」の話

  
人生のある時点で最高・最強だからといって、長い人生が最高・最強とは限らない。
 
多くの場合、人生のある時点で最高・最強だった人は、その前は劣悪な環境でもがいていたり、精彩を欠いていたりする。一時代に栄華をきわめた人のかなりの割合も、一時代に栄華をきわめていた、まさにそのことによって、干支が1~2周した後に衰微や破滅を招くことも多い。例外がいないわけではないとしても、一時代に栄華をきわめ過ぎた人物は、その栄華によってしばしば足を掬われる。
 
「塞翁が馬」とはよく言うけれども、人間の栄枯盛衰は本当にわからない。
 個人それぞれの未来は読みきれない。
 
だから「勝って兜の緒を締めよ」というのはその通りだし、停滞しているからといって人生を諦めてしまうと思い込むのも、人生にネタバレがあると思い込んでしまうことも、厳に慎まなければならないのだろう。
 
 

「点の成功」と「線の成功」

 
そうしたわけで、人生の成否をある時点の成功や失敗だけをもってつべこべ言うのは巧くない。。「人生のなかの"点"を成功の基準にしてはいけない」と言い換えるべきか。
 
大学入試。
就職。
結婚。
 
これらは「点の成功」の最たるもので、それらの達成目標にし、それらを栄華の現れとするような生き方はたぶん危ない。大学に入ってから、就職してから、結婚してからの果てしなく長い時間がむしろ重要で、スタートやピリオドといった節目はそこに様式を与えるようなものに過ぎない。長い時間という「"線"の成功」を意識も前提もしない「点の成功」にはたいした意味は無いし、成功の持続力も乏しい。様式にとらわれている人は、ここのところが往々にしてわかっていない。
 
 さきに述べたように、人間はいつ死んだり病んだりするかわからないから、持続力のある成功を意識しても実を結ぶとは限らない。というか、どれほど恵まれた人生でさえ、泥濘を這う時期もあれば、アクシデントによる中断も起こるだろう。それでも人は「点の成功」だけでは生きていけない。もっと長いスパンでみた、浮き沈みや悲喜こもごもを大前提とした目線でなければ見えないものがたくさんある。でもってその見えないものが見えないと、人生は形骸化・形式化してしまうようにも思える。
 
 無数無限の「点の成功」の集まりによって人生を成り立たせれば良い、という人もいるかもしれない。もちろんその考え方でも構わないと思う。ただし、無限無数の「点の成功」を連ねるような生き方とは、結局のところ毎日のひとつひとつの出来事を大切にし、丁寧に生きるような、結果として「線の成功」を意識している人とあまり変わらないものになるようには思う。
 
 毎日をできるだけ丁寧に。
 うれしいことがあっても悲しいことがあっても為すべきことをして生きる。
 
 こうしたことは簡単のようで簡単ではないから、無限無数の「点の成功」を連ねる生き方、または「線の成功」に忠実な生き方をやってのける人はそれほど多くはない。また、すべての人生がこうであるべきと強弁するつもりもない。「点の成功」を目指し、そこで燃え尽きるという考え方も、本来尊重されるべきだろう。
 
 ところが現代社会は人にさんざん「点の成功」を煽っておきながら、産卵後の鮭や初夏のカゲロウのように人が燃え尽きることを許してはくれない。それなら、表向きは「点の成功」を目指しつつも脳裏には「線の成功」を思い描けたほうが現実的、ということになりそうだ。
 
 この話のすぐ先には「面の成功」とでもいうべき、他人の線の成功との繋がりあいや折り合いの話があるのだけど、あまりブログを書いている暇がないので今日はこのへんで。
 
 

努力しているか否かでなく、努力でアタリを引ける確率・努力できる回数が問題ではなかったか

 
blog.tinect.jp
 
恵まれているか、恵まれていないか。
命がけといえるほど努力しているか、努力していないか。
努力するポテンシャルがあるか、努力するポテンシャルがないのか。
 
これらは相対的で、総論的すぎて、細やかさを欠いた比較ではある。
 
とはいえ親の年収や文化資本の多寡、心理的サポートや社会的サポートの有利不利の総合として、恵まれた環境で育ったと言える人・恵まれない環境で育ったと言える人はいるだろうし、その差異、その競争上の不平等を巡って不満や苛立ちの声があがるのも自然なことだと思う。
 
 

恵まれた環境で育った人が努力してないと思っている人は、そんなに多くないのでは

 
上掲リンク先によれば、スタンフォード大学に入り、かつ書籍を出版した人に関して、(今は消去されている)Amazonのコメントがトリガーとなってブーイングがネットに木霊したという。
 
そうしたブーイングのなかにも「努力しているとは言えない」という声があったかもしれない。
しかし多数派だっただろうか?
違うだろう。
 
とにかくもスタンフォード大学への切符を手に入れた人間が努力していないとは、なかなか思えないものである。でもって実際、くだんの人は人一倍努力をして切符を手にしたのだろう。ブーイングの声の多くも「努力していない」ではなく「逆境を克服してスタンフォード大学に入ったようで、実はそうじゃなかった」的な向きが多かったようにみえた。
 
つまり、恵まれた環境で育って切符を手に入れたのか、恵まれていない環境で育って切符を手に入れたのか、が焦点になっていたようにもみえた。
 
で、くだんの徳島スタンフォードの人は確かな社会的地位のある親元で育ち、周囲からの支援も受けながら切符を手に入れていたのだった(にもかかわらず、自分は逆境にあったと表明してもいたのだった。)。スタンフォード大学の入学生のなかでは、くだんの人とて逆境の部類だったのかもしれない。しかし日本全体の水準でみれば恵まれた環境で育ったように見えただろうし、そのせいで逆境と騙ったと思われやすかっただろう。
 
逆境を超えて難関大学に合格したと言った時、ほとんどの日本人が想像するのは、たとえば貧困家庭で育ったとか、まったく文化資本の乏しい家庭で育ったとか、DVや虐待の絶えない家庭で育ったとか、そういった環境ではなかっただろうか。
 
 

みんな努力している。じゃ、恵まれた環境であることは何が問題なのか。

 
冒頭リンク先で強調されているとおり、恵まれた環境に生まれ育った人だって努力をしている。稀に、そうでない人がいるのかもしれないがおそらく努力をしている人が大半だし、死線をさまようような努力などザラだろう。現代の能力主義社会に疑問を投げかけたマイケル・サンデル『実力も運のうち』にも、以下のようなくだりが登場する。
 

 能力の戦場で勝利を収める者は、勝ち誇ってはいるものの、傷だらけだ。それは私の教え子たちにも言える。まるでサーカスの輪くぐりのように、目の前の目標に必死で挑む習性は、なかなか変えられない。多くの学生がいまだに競争に駆り立てられていると感じている。そのせいで、自分が何者であるか、大切にする価値があるのは何かについて思索し、探求し、批判的に考察する時間として学生時代を利用する気になれない。心の健康に問題を抱えている学生の多さは、危機感を覚えるほどだ。
マイケル・サンデル『実力も運のうち』

これを読み、高学歴に邁進するサラブレッドたちが努力していないと思う人はあまりいないはずだ。こうした努力をさせてもらえること自体が恵まれていると思う人でさえ、いまどきの英才教育が努力を不要にしていると思う人は稀だろう。このあたり、上掲リンク先で高須賀さんが強調している話には迫真みが宿っている。
 
だから、努力しているかどうかは(本当は)たいした問題ではないのだ。まあみんな、だいたい努力している。その結果として一定割合で死線をさまようことにもなる。思うに社会適応とは、そのようなものではないだろうか。野生動物はもちろん、人間たちも基本的には自分の環境で最善を尽くしていて、多かれ少なかれ「のるかそるか」をやっているものである。上昇志向を伴うなら尚更だ。努力できること、それ自体が才能であり環境の所産であるという意見もあるが、ここでは於こう。努力できる人ならば、だいたい人はぎりぎりまで努力している。
 
じゃあ、皆が努力しているなかで、恵まれている人と恵まれていない人は何が違うのか?
 
あえて単純化するなら、恵まれているか否かの違いは、「努力ガチャの質と量の違い」で比喩できるように思う。
 
たとえば10代後半に努力し、結果を求めるトライアル全般を、ガチャを回す行為になぞらえて考えていただきたい。
 
恵まれた環境にいる人が回す努力ガチャには、アタリがふんだんに含まれている。アタリの名前は、そうですね、東京大学入学とかスポーツ選手とか、人脈と言えるような縁を獲得するとか、そういったものをあてがっていただきたい。
 
ひとことで努力と言っても、恵まれた環境にいる人の努力はこのようなものだ:効率的だったり目的に適ったメソッドを伴っていたり、複数の目標にリーチできる多様性や多弾頭性を伴っていたりする。だから努力という名のガチャを回した時、本命のアタリを引く確率が高いばかりだけでなく、アタリの種類も多かったりする。
 
逆に恵まれない環境にいる人が引く努力ガチャには、アタリが少ししか含まれていない。絶無、という場合だってあるだろう。努力をしているのは事実としても、賽の河原に石を積むような努力、シベリアで木の数を数えるような努力、そんなアセスメントのだめな努力をやってしまっている・やらざるを得なくなっている場合も多い。努力家できる素養に恵まれている場合でさえ、アセスメントが弱くて東京大学入学までは難しい・地元国立大学に入るのが精一杯ということも多い。スポーツ選手になるにしても、親がそれを応援できる度合いが低ければアタリを引く確率はどうしても下がってしまう。人脈に関しては、人脈と言えるような縁を獲得する確率が下がるだけでなく、なんなら、腐れ縁に巻き込まれてしまう確率すらあるかもしれない。
 
だから同等クラスの努力をやったといっても、恵まれた環境にいる人とそうでない人では、アタリを引ける確率も、アタリの上限も、だいぶ違っていると言わざるを得ない。そのことは、恵まれない環境にいる人ほど自覚しているように思う。
 
 
そのうえ、努力ガチャを引ける数自体、環境の良し悪しによって変わってくる。
 
恵まれた環境にいる人にとって、努力という名のガチャ、なかでもアタリの混じっているガチャを回すチャンスは親元を離れるまで全般だ。
 
努力はしているだろう。苦労もしているだろう。しかし恵まれた環境にいればいるほど、その努力・その苦労は未来に資するような、アタリ含みのガチャと言えるような、そういう性質を帯びやすい。中学受験。高校受験。大学受験。そして大学受験に落ちれば当然のように大学受験浪人を「させてもらえる」。
 
大学受験浪人とは嫌なものかもしれない。が、浪人させてもらう猶予の無い環境で育った者からみれば、それは「努力ガチャの敗者復活戦」であり、「自分には絶対回せない二回目の努力ガチャ」とうつる。尤も、これも相対的な話ではある。大学受験じたいをさせてもらえない環境で生まれ育った者からみれば、一度でも大学を受験させてもらえるだけで、恵まれた環境とうつる。
 
中学時代にどれぐらい勉強やレクリエーションに没頭できたか、大学時代にどれぐらい授業料や家賃のために苦学生をしなければならなかったか、そういった違いによっても努力ガチャの数は実質的に変わる。若いうちに自分自身に資する努力に集中できればできるほど、その人は多くガチャを回していることになる。逆に、自分自身に資する努力に集中する猶予を与えられない人は、たとえ難関大学に入ったとしても、努力ガチャの数は実質的に減ってしまうし、ひょっとしたら、大学卒業以降のアタリを引く確率さえ下がってしまうかもしれない。
 
そして恵まれない環境にいればいるほど、努力ガチャ、なかでもアタリのふんだんに混じっているガチャを引く回数は少なくなる。
 
たとえば大学受験の機会が一度きり、という高校生は、大学受験浪人をさせてもらえる高校生に比べてガチャを回せる挑戦回数が少ない。そして回数が少ないからこそ安全マージンを意識しながら大学受験せざるを得なくなり、そのため、選択肢は狭くなってしまう。
 
のみならず、自分自身に資する努力をする猶予が少ないほど、アタリのふんだんに混じっているガチャを人生のなかで引ける回数が減ってしまうのだ。たとえば若いうちから親の介護を引き受けなければならない人、いわゆるヤングケアラーが問題になっているが、ヤングケアラーなどは、まさにアタリの混じっているガチャを引く機会から遠ざけられている。親の介護に時間や体力をとられてしまっては、自分自身に資する努力ができなくなるか、少なくなってしまうからだ。そうした人が努力をしていない・苦労をしていない・努力不足だなどとどうして言えるだろう? いずれにせよ、そうした若者が恵まれた環境にいる人と対等に競争し、見事にアタリを引いてみせるのは至極困難だ。
 
(もうちょっとソーシャルゲームの好きな人向けに言い直すなら、恵まれた環境にいる人は、目当てのSSRが出る確率が10%、目当てではないSSRが出る確率が20%ぐらいのガチャを人生のなかで10回引けるようなものだ。)
(一方、恵まれない環境にいる人は、目当てのSSRが出る確率も目当てでないSSRが出る確率も、それよりずっと少ないガチャを引かざるを得ない──たとえば目当てのSSRが出る確率が1%で、目当てでないSSRが出る確率が2%であるような。そしてガチャを人生のなかで引ける回数自体も少ない。)
 
 

努力ガチャのアタリの割合と、引ける回数が違っている

 
だから問題にすべきだし、実際、問題とみなされているのは、「努力しているか努力していないか」という問題系ではない。少なくとも私の目にはそのようにみえる。
 
問題とみなされている問題系は、アタリのふんだんに混じったガチャに比喩できるような努力へのアクセシビリティの差である。または、努力をアタリへと導くアセスメントの差でもある。そして今回の騒動の場合、アクセシビリティやアセスメントが相当に優れた環境にいるはずの人が、そうではないと騙った(ように見えた)ことが火種となり、ネット上の大火に発展したのだと思う。
 
しつこく繰り返すが、恵まれた環境か否かとは相対的な問題に過ぎない。それこそ徳島からスタンフォード大学に入り込むのは、針の孔を通すような、恵まれない環境にいる人が東京大学に入学するようなトライアルだったのかもしれない。少なくともアメリカのエスタブリッシュメントの子息がそうしようとするのに比べれば逆境と言えるだろうし、当人が逆境を克服したと胸を張りたくなるのもわかる気がする。
 
とはいえ、そもそもスタンフォード大学に挑むという発想じたい、その環境が質・量ともに最高クラスのものだったことを暗に示している。恵まれない環境で呻吟している若者は、東京大学に挑む努力ガチャまではぎりぎり想像可能かもしれないが、スタンフォード大学に挑む努力ガチャなんて想像すらできないのだから。でもって、実際、国内有数の環境のなかでトライアルがなされたことが後付け的に判明したのだから、そこで「逆境を克服した」と言われても納得できない人が現れるのも、これまたわかる気がする。
 
「努力は身を助ける」というけれども、その努力の質、その努力の試行回数、そのアセスメントのクオリティにはあまりに大きな差がある。これが、「努力は身を助ける」というフレーズに大きな影を落としているさまを、本件はよく炙りだしているよう私には思われたし、そのような社会状況を恵まれない環境から見上げている人が虚無感を持つのは避けられないだろうとも思う。
 
にも関わらず、資本主義が、社会が、家庭が、内面化された規範が、努力せよ、アチーブせよと迫ってくる。恵まれた環境の人だけでなく、恵まれない環境の人にまでもだ。その、努力という名の一見公正にみえるガチャとその強制が、実は、ものすごい格差を孕んでいることを高所大所から告発したのがサンデルの『実力も運のうち』の一面だった、と私は思った。同書の帯に書かれている、”「努力と才能で、人は誰でも成功できる」この考え方に潜む問題が見抜けますか?” という問いは、今日的で切実なものではないだろうか。