参議院選挙が近くなり、インターネットに選挙のにおいが充満している。そういう雰囲気に感化されたくないと思い、期日前投票を済ませることにした。例年以上にインターネットじゅうが選挙めいていて、政治めいていて、プロパガンダめいているからだ。
普段はアニメやゲームの話ばかりしている人々まで、選挙や政治の話をしている。今日ではアニメやゲームとて政治の標的、選挙の論点なわけだから、そうした人々が話題を変えるのはおかしなことではない。
そうでなくても誰にだって生活があり、その生活を政治が左右する。食い扶持だって左右するだろう。選挙直前にSNS等で政治の話が増えるのはデモクラシーのありかたとして自然だ。
ただ、10年ほど前のインターネットでは、選挙前でもここまで政治の話は目立っていなかったように思う。この10年間に、SNSなどで政治や候補者について言及する人の割合と頻度は着実に増えた。そうしたひとつひとつの言葉の意味も変わった。2ちゃんねる時代の場末のスレッドで政治家や政党に言及するのと、今のSNSで同じことをやるのは「意味」も「受け止め方」も「言葉の流通過程」も、違っていると思う。2ちゃんねる時代の場末のスレッドに書かれた言葉は、どうあれ便所の落書き「でしかなかった」。でも、今のSNS等に書かれた言葉は便所の落書き「であると同時に」不特定多数とつながりあって影響を及ぼし得る言葉、インターネットメディアに流通しぶつかりあい、政治的帰趨を左右する言葉として存在している。
ひとつひとつの言葉じたいは稚拙で影響力が乏しくとも、イワシの大群のように集まった言葉は大きな影響力を獲得する。それが政党や候補者に紐付けられるなら尚更だ。2025年の日本でSNS等に政治の言葉を書きこんでいる人は、そのことに自覚的だろう。
今、私たちがSNSに政治の言葉を書く時、その言葉が他の言葉たちとつながりあい、大群をかたちづくることを知らないわけがない。そのバックグラウンドにある動機が個人的な「いいね」欲しさなのか、もっと戦略的なプロパガンダなのかは問わない。どちらにしても、自分が書いた政治の言葉が拡散していくよう望む限り、その言葉は同じような言葉たちと一緒に影響力のクラウドを形成する。
そして、同じ過程で生じた正反対の政治的立場のクラウドと衝突する。衝突は「バーチャルリアリティだ」などと笑って済ませられるものではない。場末のスレッドからほとんど言葉が溢れ出ることがなく、便所の落書き「でしかない」とされていた2ちゃんねる時代の政治談議とはそこが違っている。誰が・どのように政治の言葉を書きこんだとしても、それが他の言葉たちと合流し、巨大な群れやクラウドを形成して(本物の)政治的帰趨に影響するのが今日のインターネットだとしたら。ひいては、今日のインターネットユーザーであるとしたら。
すべての言葉がプロパガンダなら、全員が扇動者だ
煮詰め過ぎた鍋料理のようにそうしたことを考えていると、にわかに、SNSの一切がプロパガンダのようにみえてきて、かつ、そこで政治の言葉を書きこむすべての人が扇動者のように思えてくる。こういう風に考えはじめると、SNS以外のオンライン空間を眺めても同じ思いは避けられない。SNS等で言葉と言葉が合流しあって影響力の大きな塊をかたちづくる、そんなネットメディアの構造ができあがってしまった後の世界で、非オープンのオンライン空間だからという理由で無条件に例外扱いしてしまうのは呑気な態度だと思う。
何が言いたいかというと:誰もが繋がりあって誰もが政治の言葉を拡散できる空間ができあがり、なおかつ周知されたことによって、SNSが完璧に政治的な空間になってプロパガンダの溢れる空間になった「だけではなく」、そうなったことによってすべてのオンライン空間までもが*1政治的な空間に変貌し、すべての人がプロパガンダを流す人、ひいては扇動者になったのではないか、と私は言いたいのだと思う。
おかしなことを言うやつだな、と思う人もいるに違いない。
実際私も、おかしなことを書いているなと思っている。
おかしいついでに、もう少し書き加えてみたい。
こうなってしまった後の世界では、SNS等で何も言わない態度すら、政治的なメンションの範疇として数えられてしまう。たとえば私は2025年7月10日まで特定の政党や候補者について良し悪しを表明するのをSNS上でできるだけ避けてきた。しかし、避けてきたということ自体、プロパガンダが溢れる空間となったSNSのなかではかえって浮かび上がる。誰もが政治的・政党的なメンションを戦わせているなかで、メンションを行っていないのはそれはそれで特異だ。そして上下左右さまざまな陣営の熱心な支持者からみれば「どうして“おれら”を翼賛しないのか」「どうして“あいつら”を批判しないのか」といった風にみえるだろう。
表現を変えるなら、「すべての人が繋がりあい、すべての言葉が合流して政治的クラウドを形成し得る空間に、政治的ではない言葉なんて存在するの?」と私は問いたいのだと思う。
2ちゃんねるの場末のスレッドは外界とはほとんど繋がっていなかったから、どれほど政治的なメンションを頑張ってもプロパガンダたり得なかった。それこそが正真正銘の便所の落書きというものだ。対照的に、2010年代以降のSNS、とりわけ2020年代以降のSNSにおいては、人と言葉は本当に繋がりあうから、どんなにしようもない政党批判/政党翼賛でも、それらは並び合い、繋がりあい、政治的帰趨をかたちづくる水滴の一粒になり得る。だから、すべての言葉はなんらかプロパガンダ的な意味を帯びずにいられないし、すべての参加者は扇動者的な立場を帯びずにいられない。政党や候補者について言及しないよう努めていてもだ。
中立など存在しない。さきほど書いたように、どんなにノンポリを気取ったところで上下左右さまざまな陣営の熱心な支持者からみれば「どうして“おれら”を翼賛しないのか」「どうして“あいつら”を批判しないのか」といった風にみえるのだから、そうした人々からすればノンポリ気取りとは、改悛させるべき政治的ターゲットに他ならない。そもそも振り返って、この積乱雲の渦中のような政治的衝突のなかで、自分は中立的だ、ノンポリだとうそぶくのは度胸の要ることでもある。
こうして考えると、SNSってすごい政治装置だなと思う。極端なことを言えば、SNSでは息をしているだけで私たちはプロパガンダであり扇動者であるし、他のプロパガンダや扇動者のターゲットでもある。「万人の万人に対する政治」があるという前提で眺めてみたSNSの景色。
「個人の発言の狙いが何か」「個人が実際に扇動的かどうか」など知ったことではない。そういうことにかかわらず、あらゆる個人のメンションがすべて政治的に有意味で、結果的にすべての個人が扇動者的性質を帯びてしまう、そんな磁場が全世界を覆っている、と考えてみた時の世界の景色。
磁場の中心地はもちろんSNSだが、磁場はSNSの外部にも流れ出て、ある程度までは他のオンライン空間に、なんならオフライン空間にも波及しているだろう。
その、すべてを政治に巻き込んでしまう磁場の、2025年における強度は、2010年頃とは比較にならないほど強い。これは、個々人の問題である以上に、今、SNSというメディアが帯びている磁場の問題、そしてメディアとしての性質の問題であるように思う。
こうなってしまった今、ひとりひとりにプロパガンダをやるのかやらないのかと問うことに意味があるとは思えない。オンライン空間全体が政治的磁場に覆われた結果、そこにいるすべての人間が扇動者的で、すべてのメンションがプロパガンダ的である、という認識だけが有意味に思えてしまう。そうなってしまった後の世界は、どうなるのだろう?
*1:ひょっとしたらオフライン空間も?