シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

だけど、叱られない社会をみんなが望んだ。

 


 
 上掲ツイートは他人事ではないと感じる。
 
 10代や20代の頃、間違いをやらかしている時や危なっかしい時には先生や先輩が叱ってくれた。ときには「お前、何やっているんだ!」的な、まず怒りが飛んでくるみたいな場面もあったし、理不尽を感じる場面もあったが、ともかく、自分のやっていることをまずいと思っている人がいると肌で感じられる場面があり、それが私の行動を軌道修正してくれた。
 
 しかし30代になり、さらに40代にもなるとそういう機会は減った。今、私のことを叱ってくれるのは、若い頃から私のことを知ってくれている先輩や友人ぐらいのものだ。
 
 私だけが叱られにくくなっているわけではない。中年の人々が、たとえば冒頭のツイートのような言動をやらかしたとしても、放っておかれるのをしばしば見かける。私も、他人の言動にやらかしを感じたとしても叱ったりしない。親切心のつもりが逆恨みされても仕方ないわけで、そこでコストやリスクをわざわざ支払う理由が思い浮かばない。他の人々も、そうだろう。
 
 「これをやったら損をする」「これをやったら迷惑をかける」「これをやったらコミュニケーションの失敗確率があがる」──そういう他人の言動が放置されているということは、私自身がそういう言動をやっていたとしても、やはり放置されていると想定される。自覚できない限り、私はまずい言動をずっと繰り返すだろう。
 
 もし、「自覚しない限り、まずい言動を繰り返す」という袋小路を避けたいなら、叱ってくれるような人間関係をつくって中年期に臨むか、同世代や年下からも叱ってもらいやすい自分自身になっておくか必要がある。
 
 そしてもし、本当の本当に誰も叱ってくれなくなってしまったら、よほど自覚する力が強いのでない限り、まずい言動を繰り返す中年が爆誕することになる。
 
 いやむしろ、まずい言動はエスカレートするかもしれない。誰も叱ってくれず、自覚する力も乏しい人は、自分の言動はどれもセーフだと思い続けるだろうから、どれだけ迷惑をかけていようが、どれほど人心を失い続けようが、その行動を改めることができない。自覚する力が乏しければ乏しいほど、事態が深刻になるまで気付きようもないので、その自覚力の乏しさに応じた破局や騒動が起こってようやく気付く(ことがある)。
 
 

相互不干渉の社会で「叱る」「叱られる」難しさ

 
 そもそもの話として、「叱る」は、現代社会では歓迎されていないのではないか。
 
 「叱る」とは、他人に対するかなり強い干渉だ。親が子を叱ったり、指導医がレジデントを叱ったりするのは、強い干渉を行ってもおかしくない立場や役割があるからで、逆に言えば、そういった立場や役割も無いのに「叱る」というアクションが許容されることはまず無い。
 
 だから赤の他人を「叱る」のは難しい。
 なぜ、赤の他人にそのような強い干渉をするのか・して構わないのか?
 これに答えられる状況でない限り、不当な干渉とみなされかねない。
 
 逆に赤の他人に「叱られる」のも同じぐらい難しい。
 なぜ、赤の他人に強い干渉をされなければならないのか?
 これが理解できる状況でない限り、私たちは「叱られる」を不当な干渉と解釈する。
 その結果、憤ったり、傷ついたりすることもある。
 
 相互不干渉は、現代社会ではひとつの通念として浸透している。
 
 かつての日本では、相互干渉は日常茶飯事だった。親が子を叱ったり、指導医がインターンを叱ったりするのは当然のこととして、近所の人に口出しされる・姑が嫁にお小言を言う・上司の家まで飲みに行く、といったかたちで無数の干渉がまかり通っていた。しがらみが無数にあった、とも言えるだろう。「叱る」は、そういった無数の干渉のひとつとして、いろいろなコンテキストのなかで発生し得るものだった。
 
 団塊世代以降の人々は、そうした無数の干渉を嫌って、しがらみを避けて、相互不干渉な社会を建設してきた。新興住宅地での生活によって、地域社会的な濃密な干渉は希釈された。物理的にも精神的にも核家族化が進んで、嫁姑のコンフリクトも緩和された。90年代以降は会社の上司と部下の飲みニケーションも減少し、少なくとも昭和時代に比べれば上司から部下への干渉は減った。
 
 現在は職場でのセクハラやパワハラが問題視されているが、これは、上司から部下に対する干渉についての私たちの意識が変わったからでもある。相互不干渉の通念がいよいよ徹底し、干渉に対して私たちはどんどんデリケートになったから、昭和時代には許容されていた干渉、我慢の対象だった干渉が、令和時代にはハラスメントとして告発されることになる。部下の側だけが嫌がるのでなく、大半の同僚や上司もそれをハラスメントとみなし、許さないだろう。
 
 相互不干渉の浸透した社会のなかで他人に干渉することはますます難しく、勇気の必要な、リスクを孕んだものになっているわけだから、私たちはおいそれとは他人を叱れないし、他人に叱られにくくもなった。ここでいう「他人に叱られにくくなった」とは、他人に叱られる頻度が低下したという意味だけでなく、他人に叱られ慣れなくなった、という意味も含んでいる。
 
 「叱られる」というルートで他人から何かを学び、自分自身の言動を省みるのは非常に難しくなっているのではないだろうか*1
 
 

高い自覚力と自立性を身に付けられるものか

 
 誰も叱ってくれない社会では、自分の言動のまずい部分を自覚できないまま、ますますまずい中年になってしまうのやもしれない。他方で戦後の日本人がそのような社会を望み、相互不干渉という果実を手に入れ、好き勝手に生きられるようになったのだとしたら……その功罪はどう考えるべきなのか。
 
 どうあれ、「中年になったら誰も叱ってくれない」社会、いや、「若いうちから相互干渉に非常にセンシティブな社会」では、私たちは相互干渉が当たり前だった頃に比べてずっと高い自覚力と自律性を求められるのだろう。しかし、現代の40代以降を見ればわかるように、それは誰もがやってのけられることではないし、完璧にやってのけられることでもない。私も自信は全く無い。ここらへんで「そんじゃーね。」と言って匙を投げたくなってしまう。
 

*1:もちろんインターネットで誰かに叱られる場合も、叱られるのが不当な干渉ではないと判断するに足りるだけの文脈が必要になる。そのような文脈をインターネットの繋がりだけを経由して作るためには、相応の期間と信頼関係が必要で、これも簡単なことではない

リスクやコストで人生をはかる人に「子育ての意味」は届くのだろうか

  
子どもがいることの幸せや嬉しさを、ロジックで説明することは出来ない: 不倒城
 
 リンク先でしんざきさんが書いておられる文章は私にもよく「わかる」。なぜなら私も、子育てをとおして得られる意味や価値が、リスクやコストといった現代風の考え方にそぐわないと感じているからだ。
 
 でも、このしんざきさんの文章を15年前の私が見たとして、同じように「わかった」だろうか。
 
 たぶん無理だろう。当時の私は子育てをしていなかったし、子育てなんてあり得ないと思っていた。自分のために使う時間やお金が無くなってしまうといった、リスクやコストのことが頭を占めていたように思う。
 
 だから、現在の子育てをしていない20~30代の人々にも、冒頭の文章は届きにくいのではなかろうか。
 
 

リスクやコストを考えずに子育てを始めるほうが「おかしい」

 
 いまどきは、コスパという言葉がよく使われて、なかには自分の人生までもコストパフォーマンスになぞらえて考えようとする人もいる。
 
子供は人生で一番高い買い物だと思う
 
 上記リンク先の文章には、「リスク」「リターン」「コントロール」「コストパフォーマンス」といった言葉が並んでいる。リスクやリターンやコントロールのことを考えると、確かに子育ては費用対効果が悪い。このはてな匿名ダイアリーの文章は、リスクやコストにもとづいて子育てを考察したがる、子育て未経験者の考え方として、ひとつのステロタイプではないかと思う。
 
 と同時に、子育てを「リスク」「リターン」「コントロール」「コストパフォーマンス」といった考え方で眺める限りにおいて、リンク先のステロタイプが間違っているとも思えない。時間的にも金銭的にも子育ては「リスク」にみあった「リターン」が保証されるものではないし、期待するものでもあるまい。昔だったら、子どもをイエのために売り飛ばしたり、イエの発展のためにスパルタ教育したりすることがまかり通っていたし、これらは経済合理性にかなっているけれども、21世紀の日本では無理筋である。
 
 それぐらいなら、子育てに時間や金銭を差し向けるより、仕事を頑張ってお金を多く稼いだり、自分自身のスキルアップに時間をかけたりしたほうが「リスク」が少なく「リターン」が見込めると考えるのは、筋道が通っている。
 
 いまどきの日本の若者には、こういう「リスク」や「リターン」についての考え方がしっかりインストールされている。少なくとも昭和以前の若者に比べれば、そういうことを考えている。
 
 コスパなんて言葉が流行るということ自体、資本主義的・合理主義的な考え方が昔より浸透している証拠だろう。なんでも最近は、中高生のうちにファイナンシャルプランナーの資格を取ろうとする人もいるのだとか。
 
 そうやって資本主義的・合理主義的なモノの考え方をしっかり内面化している若者たちが、子育てについて資本主義的・合理主義的に考え、判断をくだすのはきわめて自然なことだ。
 
 むしろ、子育てについて資本主義的・合理主義的に考えないほうが「おかしい」のではないか。
 
 誰もが資本主義的・合理主義的にモノを考えるよう促され、訓練されてもいるこのご時世に、後先も考えずに生殖し、なし崩し的に子育てしてしまっている人々は、資本主義的・合理主義的なモノの考え方が足りていないというか、勉強不足というか、訓練不足ではないだろうか。
 
 一億総活躍社会というシュプレヒコールのもと、誰もがお金を稼いで自立できることが望ましいとみなされ、若いうちからNISA積み立てだのインデックスファンドだのを始める人が後を絶たず、日経平均だのダウ平均だのを気にしながら勤勉に働く現代社会において、リスクやコストにもとづいて物事を判断し、決定する能力は社会から必要とされているものだし、おそらく、個人の人生にも必須である。
 
 そのような社会からの要請があるのに、後先を考えずに生殖してうっかり子育てしてしまっている人というのは、一体なんなのか。
 
 リスクやコストにもとづいてあらゆる物事を考える現代社会においては、コストパフォーマンスを考え、子どもを作らない選択をする人が出て来るのが、社会からの要請に適っている。だってそうだろう? 資本主義的・合理主義的主体であることが、一生懸命に教えられ、語られ、勧められているのだから、子育てに対してもそういう考え方で望むのが現代人ってやつだろう。
 
 都内の人々が極端に子どもをつくらないのは、ある部分では、都内では子育てのリスクやコストが高く見積もられるからだろうし、また都内の若い人は田舎の若い人にくらべて資本主義的・合理主義的なモノの考え方がしっかりインストールされているからでもあろう。
 
 東京の、あの出生率の低さは、当該年齢の男女が資本主義的・合理主義的に行動選択している結果なのだと思う。おそらく台北やソウルの出生率の低さもそうである。東アジアの大都市圏のクレバーな若者たちは、リスクやコストをよく考え、それこそファイナンシャルプランニングのノリで人生もプラニングしているのだろう。
 
 対照的に、地方の比較的高い出生率は、地方では子育てのリスクやコストを低く見積もれるからでもあろうし、地方の人々がリスクやコストにもとづいて物事を考えきれていないから、でもあるだろう。
 
 資本主義的・合理主義的ではなさそうな子育ての一指標として、「できちゃった結婚」についての都道府県比較を確かめてみると、予想にたがわず、東京近辺のランキングが低く、九州地方や東北地方のランキングが高い。
 
todo-ran.com
 
 上掲リンク先によれば、
 

相関ランキングを見ると、女子出産年齢や第一子出生時年齢(男性)、男性初婚年齢、女性初婚年齢と負の相関がある。つまり若くして結婚・出産する地域はデキ婚率が高い。

その他、高校生求職率や農業就業人口と正の相関があり、最低賃金と負の相関がある。農業がさかんで最低賃金が低く、高卒で就職する若者が多いところでデキ婚が多いことを意味しており、地方でデキ婚が多く、都市部で少ないと言えそうだ。

 と書かれている。資本主義や合理主義の辺境地域では「できちゃった婚」が多い、と考えてもあながち大きな間違いではなさそうだ。
 
 

「コスパ時代」の合理主義者は子育ての夢を見るか

 
 さてそうなると、「コスパ」時代の若者は、子育ての夢なんてみられるのだろうか?
 
 資本主義と合理主義は、どちらも現代では支配的な通念であり、イデオロギーでもある。若い人ほどこのイデオロギーを強固にインストールしているとしたら、それに逆らって、あえてリスクやコストを勘案せず、エイヤと生殖して子育てになだれ込むのは、イデオロギーに対する背信になる*1
 
 よく内面化されたイデオロギーに背を向けてまで、エイヤと生殖して子育てに身を投じるとしたら……その人は乱心しているということにならないか。
 
 もちろん私は、こうした疑問をなかば皮肉として書いている。すでに子育てを経験し、何かしら手応えを感じている人は、こうしたコストやリスクに基づいた子育て観が片手落ちであることを知っている。子育てには、資本主義と合理主義では語りきれないエッセンスが間違いなく含まれていて、そこを視野に入れないままコストやリスクを云々するのはナンセンスも甚だしい。
 
 だが、資本主義と合理主義には馴染まないエッセンスがあるということを、資本主義と合理主義に骨の髄まで浸かった若者にどうやって伝えれば良いのか? 資本主義と合理主義の申し子たちは、世界は、資本主義と合理主義でできていると捉えている。いや、もうちょっと丁寧な言い方をするなら「資本主義や合理主義にもとづいて世界を把握し、それらのロジックにもとづいて行動している」。そのようなイデオロギー・そのような視界を持っている人々に、それらが適用できない外側の価値とか意味とかを語って聞かせたところで、わかってもらえる気がしない。
 
 
 
 冒頭のしんざきさんは、たとえばbooks&appsに資本主義や合理主義にもとづいた教育論を書いておられるから、そういったイデオロギーをそれなり身に付け、子どもにも授けようとしているように思う。それはおかしなことではないし、私だってそうである──いまどき、資本主義や合理主義にもとづいた行動選択をできないようでは、渡世は覚束ない。
 
 だが、人間が意味や価値を見出すのは、資本主義や合理主義の内側だけとは限らないし、しんざきさんも私も、資本主義や合理主義の外側に相当する何かを実感しているからこそ、子育てや子どもに意味や価値を見出してもいるのだろう。
 
 子育てをやっていると、楽しいこともある。苦しいこともある。でも、子育てという時間のなかで親も子も歴史を重ねていく、その一連のプロセスには一種独特の意味づけが宿り、それが私には最も貴重なものと感じられる。子育て=幸福とは限らないけれども、子育てのプロセスのうちにできあがっていくこの歴史っぽい意味づけは、六本木や銀座でも売っていないし、ディズニーランドや大英博物館に行っても経験できない。
 
 もし、ここのところに価値が見出せるなら、子育ては、やはり素晴らしいものだと思う。
 
 だとしても、誰もがそこに意味を見出せるとも思えない。骨の髄まで資本主義や合理主義の考え方に漬かっている人が、みずからのイデオロギー体系では説明できず、可視化することもできない体験に、時間やお金や体力を費やすとは思えない。どうやったらわかってもらえるのだろうか。そもそもわかりたいと彼らは思っているのだろうか。
 
 以前私は「人生のコスパを語りたいなら、まず人生のベネフィットを語ってみせろ」というブログ記事を書いたことがあるが、最近は、人生のコスパを語る人は、本当にコスパでしか世界が捉えられなくなっているのでないか、と思うこともある。交換可能・換金可能な価値しか価値と認めていない……というより価値の認識方法がわからない人というのも、案外いるものではないか。
 
 リスクやコストで人生をはかる人に、「子育ての意味」は届くものだろうか。
 

*1:もし、余ったお金で趣味として子育てを始める場合は、子育てはイデオロギーに対する背信にはならない。あるいは平成初期の毒親みたく、子どもを次世代において資本を拡大再生産するための道具とみなす場合も、子育てはイデオロギーにたいする背信にはならない。前者はそれだけの余裕を持つ人が少なく、後者は現在の流行ではないし、個人主義の浸透した現代社会では批判されうるものだろう

今年は本気出す。薬理学的に。

 
 2019年度が始まり、令和元年も始まった。
 
 この、節目の年、私は信じられないぐらい忙しい毎日を過ごしている。連休中の空き時間も、ソーシャルゲーム……ではなく文章の作成と資料の読み込みに時間を費やした。
 
 というのも、ちょっとチャンスじゃないかと思う案件に携わっているからだ。今、書いている原稿は、社会適応についての how to 本ではない。現代日本社会を成り立たせる社会の秩序の仕組みと、それによって現代人が享けている恩恵と疎外をまとめた出版企画に、とりあえずのゴーサインが出たから力の限りを尽くしている。
 
 今の世の中には、たくさんの人が便利かつ快適に暮らせるような制度や慣習や空間設計物がたくさん存在している。そういったものによって社会がかたちづくられ、現代人の心もかたちづくられているさまを、過去の文献もまじえながら全身全霊をかけてまとめてみたい──この願いに私は自分の40代を賭けることにした。どんな困難が待っていても、私はこの願いに向かって歩むだろう。
 
 また、最近は色々な方面から色々なお誘いをいただくので、それらに対応するにも時間やエネルギーがかかる。で、言うまでもなく本業は今までどおりに続けていかなければならないし、続けていくべきなので、てんてこ舞いになっているのだ。
 
 

今年だけは本気出す

 
 そこで、私は決断した。 
 今年だけは本気を出す。
 それも、薬理学的にだ。
 
 私は、ある病弱な弱点を抱えた人間なので、自分自身の身体と神経に負荷がかかりすぎると活動できなくなってしまうおそれがある。だから私の信条は「ミッションの可否は補給と休息で決まる」だ。ちゃんと休んで、ちゃんと遊んで、それでやっと仕事がちゃんとできるのが私という人間だと思っている。
 
 そんな私にも、通常をこえたパワーを発揮できる反則アイテムがある。
 

 
 
 コーヒー。
 私はコーヒーがハチャメチャに効く体質なのである。
 
 自分にコーヒーがどれぐらい効くのか、確かめてみたこともある。2017年に行った、コーヒーによって『スプラトゥーン2』の対戦成績がどれぐらい変わるのかを試した実験では、コーヒーを飲んだ時の私はオーバーパワーな戦果を叩き出していた。編集者さんとの打ち合わせの時も、コーヒーを飲むと大変なことになってしまう。思考が猛烈に回転し、テンションも高くなってしまうのだ。ひょっとしたらオーバーパワーがご迷惑なのではないかと思い、最近の打ち合わせの際にはノンカフェインのものを選ぶこともある。
 
 コーヒーを飲んだ時の私は、どう考えてもオーバーパワーで、身体と神経にヘンな負荷がかかっているような気がするので、私はコーヒーの摂取を制限してきた。通常、一週間に2杯以上のコーヒーを飲むことはまず無い。等価交換の考え方で考えるなら、コーヒーで得るものがあるということは、失うものもあるはずである。病弱な私には、それが怖い。
 
 しかし、今年は本気を出さなければならないので、私はコーヒーを飲むことに決めた。
 私にとってコーヒーはドーピング薬物であり、オーバーパワーを呼ぶ反則アイテムだ。
 その危険なコーヒーの使用制限を週4回までとし、コーヒーで原稿を書くのである。
 
 この、コーヒーを使った薬理学的本気によって、私の思考力はクロックアップされ、着想に柔軟性が与えられ、集中力に粘りが生まれる。そのかわり、週末は泥のように眠ることが増えるだろうし、この一年間を終えた後、私は神経と身体を休息モードにしなければならないだろう。
 
 だからこれは、一年限りのドーピングである。コーヒーの力で原稿を書き、コーヒーで都内の打ち合わせ会場を駆けるだろう。
 今年は亥年。私は、コーヒー使って薬理学的に突進することにする。
 

平成30年間の私の適応、みんなの適応、そして進歩

 
 今日、2019年4月30日をもって平成時代が終わる。
 
 前回の昭和64年とちがって時間的猶予のある幕切れであり、今の私にはブログがある。節目の時期に気持ちを書き留めておくなんて、31年前には思いもよらなかったことだ。
 
 なので今日は、平成時代の私自身の社会適応と、社会ぜんたいの社会適応を振り返って、そこから今後のゆくえに思いを馳せてみようと思う。
 
 

「私の社会適応」にとっての平成

 
 平成は、バブル景気の賑やかさのうちに始まったから、今後、多くの人が「日本の失われた30年」の代名詞として平成という元号を思い出すのだろう。実際、平成のはじめに諸外国を札束で殴っていた繁栄は、平成生まれの記憶には無い。
 
 日本人が諸外国にお金をばらまくのでなく、諸外国の人々が来日してお金をばらまくことをあてにするようになった。日本人が外国での買い物を割安と感じることが減り、外国人が日本での買い物を割安と感じるようになったとは、つまり、そういうことなのだろう。
 
 しかし、それは社会の、それも経済の話で、私自身にとっての平成は"適応の高度成長期"だった。
 
 平成元年の私は不登校が終わって間もなく、薬を飲みながら登校していた。保健室では木を描く心理テストを促され、書いた木は輪郭のはっきりとしない、今にして思えば元気の無い木だったと思う。自分が生きていく力を持たない人間であること、社会に適応するには不十分な人間であること、他人の言うことを不承不承聞かなければ生きていけない人間であることを強く自覚していた。平成3年頃に『銀河英雄伝説』を初めて読んだ時には、「ああ、自分も、言うことを聞きたくない奴の言うことをきかなくても良い人間になりたいなぁ」と強く願った。
 
 中学から高校へ、高校から大学へと進学するなかで、[自分が溶け込める場所/溶け込めない場所]があること、[自分に合った人/自分に合わない人]があると私は気付いた。中学時代とは違って、今度は場所や付き合う相手を選ぶ自由が私にはあった。
 
 自分が所属する場所を変えれば、人は、意外とうまく適応していられる。
 
 世の中には趣味を共有し、考え方やライフスタイルもそれほど隔たっていない人々と出会える場所が存在する──その気持ちに従って生きるうちに、私はオタクの度を深めていったけれども、それは必要なプロセスだったし、それはそれで世界が広がった。あの時間を共有してくれた人々には感謝の念しかない。
 
 
 平成10~20年代は、まだまだインターネットが黎明期だった。私はそこらじゅうのオフ会に首を突っ込んで、本当にいろいろな人々に出会い、いろいろな考え方やライフスタイルに出会った。それに加え、社会人として働き始めたということもあって、もっと広い付き合いと、その広い付き合いを支えるためのコミュニケーション能力が欲しいと強く願った。その強い願いはウェブサイトというかたちで具現化し、まず、脱オタクファッションという文脈で私は"インターネットのひと"となった。
 
 当時、いろいろな人から*1批判されたとおり、この頃の私は、個人の社会適応のことしかほとんど考えていなかった。社会適応が社会全体のなかでどのように変化しているのか、社会の変化によって現代人が何を迫られているのか、といった視点で考えることが苦手だった。
 
 結局あのころはまだ、私は自分自身と、それに近しいオタクの社会適応のことに忙しかったのだろう。
 
 
 それで平成20~30年代になってようやく、私は自分自身の社会適応にいくらか自信がついてきて、周りのことに目を向けられるようになってきた。子育てをはじめたから、というのもあるかもしれない。ブログに書く内容も「個人にとって」から「社会全体にとって」にウエイトが移っていった。
 
 

「みんなの社会適応」にとっての平成

 
 自分自身のことがある程度片付いて、周りのことに目を向けるようになって、ふと気付いた。
 
 社会全体でみたら、この30年間、社会適応の難易度はひたすら高くなり続けているのではないか?
 
 「当たり前に生きる」ということ自体、ハードルの高い話になっているのではないか?
 
 私がひたすら自分自身の社会適応を追求している間に、社会に適応する、ということ自体が難しくなっていることに遅まきながら関心を寄せるようになった。
  
 
 「社会適応が難しくなる」といえば、もちろん経済的な難しさもそこには含まれる。
 
 たとえば昭和時代の終わりにサラリーマンであるということと、平成時代の終わりにサラリーマンであるということは、どれぐらい異なっているのか。
 
 昭和時代のサラリーマンは、もっと多様な存在ではなかったか。多様というとボカし過ぎかもしれない。もっとボンクラなサラリーマン、もっと生産性の低いサラリーマンが社内のあちこちに吹きだまっていなかったか。言い換えると、サラリーマンはもっと水準にムラのある存在として存在可能ではなかったか。
 
 すっかり死語になった言葉に、「窓際族」というものがある。
 
 かつては、左遷されて閑職に追いやられたサラリーマンは「窓際族」と呼ばれた。この「窓際族」が悲しげに描かれることも、喜劇風に描かれることもあったのが1980年代だ。逆に言えばボンクラなサラリーマンも生産性の低いサラリーマンも「窓際族」でいられたのが昭和時代、ひいては平成時代のはじめのほうだったとも言える。
 
 バブル景気が終わってからは、「窓際族」という言葉は次第に使われなくなり、代わって「追い出し部屋」という言葉を見かけるようになった。ボンクラなサラリーマンや生産性の低いサラリーマンを閑職に配置して正社員としての給与を与え続けるという慣習は失われ、使えない正社員、ことに勤続年数の長い使えない正社員はリストラされてもおかしくない、という風潮に変わってきている。
 
 どうやらサラリーマンは、いつまでも生産性があり、鋭敏でなければならなくなったらしい。
 
 
 だが、こういった経済的な厳しさだけが社会適応を難しくしているわけでもない。
 
 平成の30年間に、結婚は誰もがするものではなくなった。結婚は、してもしなくても構わないものになった。そこの部分では自由になったとは言えるかもしれない。けれども結婚に際して男女がお互いに求める水準はインフレーションし、「夫(妻)に求める要求水準」なるものは高くなることはあっても低くなることはなかった。
 
 子育ても、してもしなくても構わないものになった。そこの部分では自由になったと言えるだろう。そのかわり、子どもに対して期待するもの・課さなければならない水準は高くなったのではないか。と同時に、親に対して期待される水準・課される水準も高くなったのではないか。
 
 結婚も子育ても、自由化に伴って、望まれないかたち・不幸なかたちで進行する度合いは減ったのかもしれない。いいや、せっかく自由化された以上、不幸な結婚や子育てが減っていなければ嘘だろう。平成の終わりに結婚・挙児している人は、平成のはじめに結婚・挙児している人より望ましい状態であって然るべきだろう。
 
 だが、離婚のパーセンテージがそれほど減っていないこと、なにより、児童虐待の事例数が増加の一途をたどっていることが証明しているように、望ましくない結婚や子育てはおそらく減っていない。児童虐待の件数を読み上げる限りでは、むしろ、不幸な子育てと呼べそうな子育ては増えている印象すらある。
 
 結婚にしろ、子育てにしろ、平成の30年あまりで水準が下がったのか? そうではあるまい。結婚や子育てをする当事者自身にとっても、それをまなざす社会の側にとっても、結婚や子育てに期待される水準は高くなった。当世風の結婚、当世風の子育てとして求められる水準が高くなったからこそ、離婚というかたちや、児童相談所の介入というかたちが採られなければならなくなった。
 
 結局、仕事にせよプライベートにせよ、私たちは平成の30年あまりの間にあまりにも進歩して、あまりにも水準を高く求めるようになって、その結果、その水準についていくために必死になるか、諦めなければならなくなっているように、平成の終わりから眺めている私にはみえる。
 
 
 インターネットやSNS、スマホの普及も、私たちを便利にするとともに、私たち自身に期待される水準・課さなければならない水準を高くした……ように私にはみえる。
 
インターネットやSNSは物理的距離を飛び越え、コミュニケーションやビジネスのチャンスを与えてくれる。実際、私自身にとって、インターネットやSNSは間違いなく社会適応を後押ししてくれるツールだった。
 
 反面、インターネットやSNSに振り回されて色々なものを失う人や、誰かの扇動にハックされ、劣化コピーに成り下がる人も珍しくなくなった。インターネットやSNSは、利便性をもたらすだけでなく、それを使いこなせるリテラシーを要求してやまない。私たちは、それらによって利便性を与えられると同時に、それらによってリテラシーを試されてもいる。
 
 

それでも進歩についていくしかない

 
 現在の私には、現代の社会適応の潮流が、おおよそこんな風にみえる。
 
 平成時代をとおして、私たちはより生産的になって、よりボンクラではなくなって、より自由になって、より便利になった。ついでに言えば、より健康になって、より清潔になって、より行儀良くなったとも言えるだろう。
 
 そのかわり、私たちはより生産的でなければならず、ボンクラであってはならず、自由や利便性を使いこなせなければならなくなった。昭和時代に比べてより健康でなければならず、より清潔でなければならず、より行儀良くならなければならなくなった。
 
 経済的には「失われた30年」と言われる平成時代だけれど、その30年の間に私たちはより生産的で、より自由で、より便利になった。このことは、進歩という言葉でまとめて構わないだろう。
 
 そういう意味では、平成の30年間は間違いなく進歩の30年だった
 
 けれども、その30年の進歩のなかで、私たちの社会適応に課せられる条件や水準が大きく変わってしまった。昭和時代のサラリーマンに要求される水準と令和時代のサラリーマンに要求される水準は違う。昭和時代の精神科医に要求される水準と令和時代の精神科医に要求される水準もおそらく違う。でもって、この論法は結婚志望の男女にとっても、子育てを始めようとする父や母にとっても、これからバイトを始めようと思っている人にも当てはまることだ。30年間の進歩のぶんだけ、私たちは自他に対してたくさんの水準を要求しなければならない。
 
 だからといって、この進歩を否定することは私たちにはもうできない。
 
 この進歩を否定し、平成時代のはじめの頃の野蛮性と非生産性と不自由に戻りたいと本気で言える人がいったいどれぐらいいよう? いや、ほとんどいないに違いあるまい。この30年間に手に入れた進歩を手放せなくて、経済的にはジリ貧になっていてもなおも進歩にしがみつき、しがみつかざるを得なくて、結果として少しずつふるい落とされていく──令和時代は、そんな具合にスタートしていくだろう。
 
 令和になっても社会の進歩はまだ続くに違いない。
 もっと便利になると同時に、人々に課せられる水準は厳しくなるだろう。
 それが進歩というものだから。
 
 進歩に伴って、人々の社会適応のカタチはきっと飴細工のごとく変形していき、ほとんどの人々はそのことすら忘れてしまうだろう。でも私は、そのことをよく記憶しておき、昭和-平成-令和それぞれの時代の違いを比べて、これまでとこれからに考えを巡らせてみたい。そういうチャレンジに、向こう10年ぐらい費やせたらいいなと思う。
 
 まあそんなこんなで、令和元年以降の『シロクマの屑籠』とp_shirokumaも、どうかよろしくお願いいたします。
 
 
 
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「45歳以上はリストラしたい」+「高技能の若者が欲しい」=「子どもが増えない」 - シロクマの屑籠(2019)
 
 
 

*1:特にはてなの非モテ論壇周辺の人々から

「45歳以上はリストラしたい」+「高技能の若者が欲しい」=「子どもが増えない」

 
 
kabumatome.doorblog.jp
 
 先月、富士通グループが45歳以上の社員をリストラするという話を見かけた。
 
 大企業の45歳以上の社員といえば、それなりの人生プランにもとづいて暮らし、年齢的にも住宅ローンや子どもの学資がきつい頃だろう。古い人生プランだと言われてしまえばそれまでだが、「一家の大黒柱」として期待されている人も多かろうし、大企業だからとあてにしていた部分もあろうし、大企業だからつぶしがきかない人もいそうではある。
 
 とはいえ、富士通が特別に邪悪なリストラをやったのかといったら、そういうわけでもない。いまどき、40~50代のリストラなんて珍しくもなんともないし、割り増し給付金が付いているだけマシといえばマシだ。
 
www.businessinsider.jp
 
 「50歳過ぎた社員は新しい価値を生まない」というこの記事も、各企業のリストラを報じたもののひとつだ。優秀なベテランは手許に残したいが、そうでない40~50代の社員はリストラしたい ── 企業の新陳代謝のためにも、若い世代を養うためにも、リストラが必要なのは理解はできる。
 


 
 だが、それは企業の都合であって働く側の都合ではない。「安定した雇用を求めて」わざわざ大企業に就職したと感じている側にはたまったものではないだろう。
 
 優秀な人材を自認する人は、しばしば「リストラを怖れなくても良い優秀な人材になれ」と言う。だが、すべての社会人が優秀な人材になれるとは到底思えない。控えめに言っても、社会人の半数以上がリストラを怖れなくて構わないほど優秀になるなんてことはあり得ないのではないか。
 
 結婚して家庭を持ち、いちばん稼いでこなければならない時期にリストラの対象になるかもしれないのは大変なリスクだ。いまどきの社会人は、そういうリスクを念頭に置きながら人生設計しなければならないらしい。
 
 その一方で、高い技能を持った若者が求められているという。
 
 人手不足のこのご時世、高い技能の若者は引く手あまたなのは理解できるが、そのような若者をつくるにはそれ相応の時間とカネがかかる。若者という「資源」は子どもという「原材料」を加工(養育)しなければできあがらず、21世紀現在、その困難な加工プロセスは親に任されている。
 
 いまどきの企業が欲しくて仕方がない若者という「資源」は、いまどきの企業がリストラしたくて仕方がない40~50代の社員の家庭で、子どもという「原材料」からつくりあげられている。
 
 

「優秀でなければ子どもをつくるな」という圧力がかかっているに等しい

 
 ①企業は優秀でない40~50代をリストラしたがっている
 ②子どもをいまどきの若者に育てるには時間とカネがかかる
 
 この二つを、現代社会の大前提として真正面から受け取ると、「よほど優秀な人材になれる見込みがない限り、子育てなんて始めるものじゃない」という結論に辿り着く。
 
 世の中には、リストラがぜんぜん怖くない社会があると聞いたことがある。たとえば私が風のうわさで聞いたアメリカ合衆国は、リストラは日常茶飯事だが再就職も日常茶飯事なので問題ないのだという。もし、この伝聞のとおりだとしたら、アメリカ合衆国という国はとんでもない国だ。子どもを大学にやるための費用は日本以上に高額そうではあるけれども。
 
 とはいえ、それはよその国の、それも噂話でしかなく、現在の日本社会で40~50代にリストラされるのはやはり大きなリスクになる。子どもを、いまどきの優秀な若者へと育て上げるためには、そのリスクを冒すか、そのリスクをはねのけられるほどの強さが必要になる。
 
 40~50代のリストラを怖がらなくて済むためにはどうすれば良いか?
 
 リストラされても怖くないほど優秀か、リストラされる心配が無いほど優秀であればとりあえず大丈夫だ(ろう)。しかし、そこまで自分に自信が持てる人間は多くあるまい。ならば、とびぬけて優秀というわけではない大多数は、子育てを回避するのがリスクマネジメントとして妥当であり、控えめに言っても、子育てをためらうのは致し方のないところだろう。
 
 


 
 
 子どもを若者に育てるためには膨大な時間とカネがかかるとわかっているにも関わらず、企業が優秀でない40~50代をリストラしたがっている社会情況を見据えるなら、平凡な人間が子育てを回避しようと思うのはきわめて合理的、かつリスクマネジメントに秀でた判断といわざるを得ない。
 
 むしろ、このような社会情況のなかで、自信も無いのに子育てを始めるほうがどうかしているのではないだろうか? ───少なくとも、合理主義的・資本主義的に人生を考え、リスクマネジメントの精神で人生設計をするような人ならば、自信も無いのに子育てを始めたりはしないのではないか。40~50代で安定した収入を維持できる見込みもないのに、時間とカネがすさまじくかかり、そのうえ親としての責任を問われてやまない子育てをスタートするのは狂気の沙汰である。生物としてはきわめて自然な繁殖ではあっても、合理主義的・資本主義的主体として考えるなら、ナンセンスとみなさざるを得ない。
 
 してみれば、現代社会の少子化とは、生物としては不自然な現象でも、合理主義的・資本主義的社会の行き着く先としては理にかなった現象のようにみえる。日本よりも凄まじい勢いで少子化が進んでいる台湾や韓国の若者は、より一層合理主義的・資本主義的に考えて、将来の年収と諸リスクをしっかり勘案して人生設計しているのではないか。
 
 頑張って大企業に就職してさえ、子どもを育てる盛りの時期にいきなりリストラされて再起不能になりかねない社会とは、「優秀でなければ子どもをつくるな」という圧力がかかっている社会にも等しい。そのうえ、子どもを放任しておけばそれはそれで虐待だと言われてしまう社会なのだから、産みっぱなしというわけにもいかない。よほど自信があるか、よほど子育てしたくてウズウズしているのでない限り、こんな社会情況でホイホイと子どもをつくって育てにかかるほうが、どうかしている。
 
 ……どうかしていると思いませんか。
 
 

「優秀な人」を基準にした社会では子どもは増えない

 
 もちろん、こうした問題は優秀な人には関係あるまい。
 
 優秀になれば大丈夫だよ。
 ↓
 優秀になりなさい。
 ↓
 優秀でないあなたが悪い。
 
 こうした考え方を良しとする人々にとって、リストラが心配だから恋愛・結婚・子育てを回避するのは負け犬仕草とうつるだろうし、実際、そのような論調をメディアでは稀ならず見かける。
 
 しかし、優秀な人を基準にした社会は、全体としてはけっして子どもは増えない。
 増えるわけがない。
 優秀な人は、その定義からいって少数派だ。
 少数派だけが子育てしたくなる社会なんて終わっている。
 
 もし、社会全体として少子化を解消していくとしたら、優秀な人だけが子育てを選べるような、優秀な人ベースの社会はどうにかしなければならない。平凡な人が子育てを選ぶ気がなくなる社会は持続不可能だし、あまり巷間では語られていないけれども、とんでもなく人間を疎外している社会ではないかとも思う。
 
 合理主義的思考と資本主義的イデオロギーが日本・韓国・台湾並みに浸透していて、それでもなお、優秀な人もそうでない人も恋愛・結婚・子育てに向かえるような社会はあり得るのだろうか。あったとして、それは東アジアでも真似できるようなものなのだろうか。
 
 大企業の40~50代がリストラされるニュースは、該当世代だけでなく、若者だって眺めているだろう。いまどきの、合理主義的思考や資本主義的イデオロギーをしっかり身に付けた若者たちは、ああいったニュースをどう眺めて、何を思うのだろうか。