シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

雨ばかりで憂鬱だったので『言の葉の庭』を観た

 

言の葉の庭

言の葉の庭

【Amazon.co.jp限定】天気の子【特典:CDサイズカード「風たちの声」ver.付】

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 ここ一カ月ほど雨ばかりのせいか、それとも原稿や仕事で追い詰められていたせいか、テンションが低くてかなわない。緑がまぶしく、紫陽花の美しい6~7月は季節としては好きだが気分のコントロールがいまいち難しい。仕事やタスクはたまる一方の時には、勇気を出して休息しなければならない。が、それが簡単ではない性分に生まれついてしまったので、ついAmazonプライムなど眺めてしまった。
 
 すると新海誠『言の葉の庭』がプライム会員特典として公開されているじゃないか!
 
 そういえば数日後には新作の『天気の子』が公開されるという。じゃあ、予習がてら観てみるか……と思って観たら、梅雨の新海誠というか、雨の新宿御苑というタイムリーな舞台で、やはりというか、ひたすら美しく雨模様が描かれていた。東京の空を舞う鳥、雨があがった青空の飛行機雲、水面に浮かぶアメンボ、風に揺れる水の流れ、どれも美しく描くもんだと感心した。でも、この美しさは『秒速5センチメートル』よりも幾らか『君の名は。』寄りだとも感じた。前者で感じた、カット一枚一枚のナルシーな過剰さが『言の葉の庭』ではそこまで露骨ではない。どれもこれも美しく、新宿御苑での再会場面での雷と嵐などは、これぞ心象風景!といった感じは受けるけれども、『秒速』の種子島の夜空のような、美しさに歪んだ図像にはなっていない。
 
 この作品は年齢制限がなさそうだけれど、雰囲気がややエロチックだった。雪野先生の足をこっそりスケッチブックに描くタカオも、雪野先生の足のサイズを実際に測るタカオも、自宅で靴をつくるタカオも、上級生に喧嘩を売りに行くのも、すべてえっちだな、と感じた。そういう印象を受けるのも、タカオと雪野先生が会うシーンでは決まって雨が降っていたからかもしれない。晴れた新宿御苑では、こうはなるまい。
 
 雨に濡れ、雪野先生の家で服を乾かし、二人でオムライスを食べるシーンもやたらしっとりしていた。アイロンの蒸気、マグカップからの湯気、窓の外の雨、どれも抜群の雰囲気だ。そうした雰囲気のなかで雪野先生は動揺を隠せなかったから、眺めている私も動揺した。この二人の(またはどちらかの)運命がどれほど残酷に描かれるのかわかったものではないと覚悟し、固唾を飲んで見守っていたが、雪野先生はよろめきながらもタカオのところに辿り着き、言葉を交わしたので私は安堵した。二人を分かつ運命の残酷は『言の葉の庭』にはなかった。自分の気持ちを言葉や行動にできるって、幾ばくかの野蛮さは伴っていても、かけがえのないものですね。
 
 『言の葉の庭』は新宿御苑とその周辺にコンパクトにまとまっていて、宇宙や地域を感じさせないせいか、大仰な作品という感じがしない。それだけに、事情を抱えながらまあなんとか生きているタカオと雪野先生の雨宿りをじっとり眺めるには適していて、たぶんこういうのは『天気の子』には望みようがなさそうだから、いいタイミングでいいものを観た、と思った。
 
 とはいえ、今日もまた雨日和。やっぱり気分があがらない。『天気の子』の公開とともに梅雨がパーッと開けてくれればいいのだけれども。
 

「おっさん」は強ければ叩いて構わず、弱ければ忌避される

 
なぜ「おっさん差別」だけが、この社会で喝采を浴びるのか(御田寺 圭) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
 
 リンク先は「おっさん差別」に関する文章だ。
 
 リンク先でテラケイさんは、「差別が許されない社会のなかで、差別主義者だと後ろ指をさされることなくバッシングできる対象属性」としておっさんを挙げている。弱者と認定されている属性やマイノリティとみなされている属性をバッシングすれば即座に差別主義者とされる現代社会でも、おっさん(という属性)へのバッシングは社会的に認められている、といった話だ。
 
 この文章を読み、私が最初に思い出したのは、歴史的にみて強者だった成人男性と、いまや強者とは言い切れない現代日本の成人男性だ。
 
 法のもとの平等が行き届かなかった長い歴史のなかで、権力を握る者・暴力をふるう者は専ら男性だった。もちろん、個別の男女の力関係のなかには、女性が強者だった例もあるだろうけれども、社会全体の制度や慣習は男性を強い立場とするようつくられていた*1
 
 そのうえ体格差を生かし、男性は女性を腕づくで服従させることもできた。法治よりも腕づくで物事が決まる社会では、ごつい体格の荒ぶる男性が、華奢な女性より優位に立ちやすい。
 
 だから人類史を振り返るなら、成人男性全般が強者とみなされ、女性や子どもの抑圧者とみなされるのはわかりやすいし、例えば20世紀前半の欧米社会でさえ、その見立ては現実に即していただろう。
 
 しかし21世紀の日本ではどうだろう。
 
 現代の日本は、今までのどの時代と比べても法治が行き届いている。男性が女性を腕づくで服従させることは、昭和時代まではあり得たが、令和時代には大幅に減った。「暴力は犯罪」という理念じたいは昭和時代にもあったが、その理念どおりに人々が行動するようになった度合い、その理念を人々が内面化した度合い、その理念から逸脱した時に社会的制裁を受けなければならない度合いが、今までと比較にならないほど高まった。
 
 街には監視カメラが溢れ、家庭内で男性が女性を腕づくで服従させればDVという犯罪とみなされ、交際相手の女性に男性が強引に迫ればストーカーという犯罪とみなされるようになった。単なる理念上の話ではなく、「腕づくの問題解決」がここまで実際的に法律やアーキテクチャに制限されるようになったのは有史以来初めてだろう。
 
 女性の社会進出や高学歴化がすすんだことで、知の領域でも、男性の優位性は揺らいでいる。日本は女性の社会進出に問題があるとよく言われるが、昭和以前と比較すれば女性の立場は強くなった。これからも強くなるだろう。
 
 ユースカルチャーの水準でも、成人男性、とりわけ中年男性が見下され、女性、とりわけ若い女性が持て囃された。戦後民主主義のうちに父権性を失っていた父親は、汚れた時代遅れの存在とみなされ、かわいく、流行に敏感な女性を持ち上げる風潮が80~90年代にはあった。
 
 「朝シャン」に象徴されるような、臭いに敏感になりゆく社会の変化も成人男性の立場を弱くしたように思う。なぜなら成人男性、特に中年以降の男性は臭うものだからだ。
 
 女性の立場がそうやって(相対的に)向上している間に、男性の立場は(相対的に)低下していった。少なくとも昭和時代に比べ、経済的・社会的に弱い立場に甘んじる男性は増えたと言っていいように思う。自己責任という言葉が人口に膾炙するような個人主義社会は、経済的・社会的に弱い立場の成人男性に冷たい。かといって「腕づくの問題解決」が封じられている以上、そうした弱い立場の男性が、「腕づくの問題解決」を試みることも困難だ。
 
 成人男性は、長らく強者の地位を占め、「腕づくの問題解決」を振るってきたのだから、今日の正しさの勾配のなかでバッシング可能な強者とみなす人がいても不思議ではない。実際、成人男性、特に中年の成人男性を見下すようなことを言っても構わないという意識は、成人女性や未成年だけでなく、当の成人男性自身にも根深く内面化されている。
 
 他方で、21世紀の日本の成人男性が必ず強者だなんてことは、もうあり得ないのだ。権力やカネを集めた成人男性が強者なのは疑いないとしても、実際には権力やカネから見放され、「腕づくの問題解決」も封じられた弱き成人男性がたくさんいる。また、そうした弱き男性はえてしてコミュニケーション能力にも恵まれていないから、第三次産業がメインで流動性の高い社会についていくことも難しい。
 
 21世紀の成人男性は、もう「おっさん」として一律に叩ける属性ではなくなっている、とみるべきだろう。
 
 
 

強い「おっさん」は叩ける。弱い「おっさん」は忌避される

 
 それより、私にとっての本題に入ろう。
 
 私は、現代社会では中年男性に限らず、「おっさん」というカテゴリに入り得る人は皆、叩かれやすい……というより忌避されやすいのではないかと思う。
 
 「おっさん」といえば「キモくて金のないおっさん」が第一に連想されるかもしれないが、男性でなくても、たとえばキモくて金のない中年女性も「おっさん」というカテゴリに入り得るようなものだ。だから冒頭のテラケイさんがどのような意図で「おっさん」という語彙を用いているのかはさておき、少なくとも以下の話では、「おっさん」というカテゴリのなかに中年女性、ときにはもっと若い男女も含まれるかもしれないことを断っておく。
 
 権力やカネを持った男性が強者とみなされ、ゆえに、今日の正しさに照らしてバッシング可能な存在とみなされるのはわかる話だが、権力やカネを持たない、立場としては弱い「キモくて金のないおっさん」が「おっさん」カテゴリのもとでバッシングされるのは、いったいどうしてなのだろうか。
 
 現代の正しさの基準になぞらえて正しいか否かは別にして、現代社会において「おっさん」はバッシングされやすく、そこまでいかなくても忌避されやすい理由や背景は相応にあるように思う。
 
 まず、「おっさん」は臭い。
 
 現代社会において、臭うという事態はエチケット違反であり、他人に迷惑をかけることに他ならない。もともと人類は体臭をそれほど気にしない生活をしていたが、体臭は歴史が下るにつれて嫌われるようになり、石鹸や香水や上水道の普及とともに駆逐されていった。
 

自由・平等・清潔―入浴の社会史

自由・平等・清潔―入浴の社会史

 
 日本の場合、戦前から石鹸が流通しはじめていたとはいえ、臭いに対する敏感さが大きく高まったのは1980年代の「デオドラント革命」以降だ。若い女性が牽引するかたちで「朝シャン」が広まり、制汗スプレーなどの売上も大きく伸びた。1970年代以前に比べると、90年代以降の日本人はより多く入浴するようになり、より臭わなくなった。
 
 [関連リンク]:NHK|ニッポンのポ >> 俗語辞典 >> 「朝シャン」ブームの影の主役は…
 
 「デオドラント革命」以降の、誰もが体臭に敏感になった社会では、体臭を臭わせている人はただそれだけで他人を刺激し不快にする存在だ。「キモくて金のないおっさん」は、キモくて金がないのだから、おそらく体臭のメンテナンスも疎かになりがちだろうけれども、そのような男性は、たとえ暴力を振るわなくとも、たとえ他人を威圧しなくとも、存在するだけで無臭の秩序から浮き上がってしまう。
 
 日本の街と日本の人々は臭いを減らすことに熱心で、実際、街も人々も臭わなくなったのだけど、それだけに、体臭を放つ者は迷惑がられやすく、迷惑がられるがゆえに、叩いて構わない正当性があるかどうかはともかく忌避されやすい。
 
 
 そのうえ「おっさん」はただ存在するだけで不安感や威圧感を与えかねない。
 
 子どもや女性に比べて体格の大きな男性は、ともすれば周囲に威圧感を与える。ここに、貧相な服装や不審な挙動などが加われば不安感や警戒感をもたらすこともあるだろう。
 
 日本の街は単に治安が良いだけでなく、誰もが安心して歩ける、それこそ女性が夜に一人歩きできる程度には安心できる街になっている。人々の安全や安心に対する要求水準はきわめて高い。
 
 そのような安心社会・安全社会のなかでは、体格の大きな男性、とりわけ貧相な服装や不審な挙動をみせる男性は、例外的に不安感や威圧感をもたらし得る存在だ。あまり言語化されていないかもしれないが、実のところ、安心社会・安全社会において、そのような存在は迷惑がられやすく、叩いて構わない正当性があるかどうかはともかく、忌避されやすいのではないか。──たとえばそのような男性が公園で子どもに声をかけた時、どのようなリアクションが起こるかを考えてみていただきたい。
 
 
 現代の日本社会の秩序と美しい街並みは、お互いに迷惑をかけず、お互いの権利を侵害せずに自由かつ快適に生活できるよう最適化されている。しかし、お互いに迷惑をかけないこと、お互いが自由に快適に暮らすことがあまりに徹底された結果、この美しい街並みのなかでは、臭う者・不安感を与える者・威圧感を与える者は、ただそれだけで他人の自由で快適な暮らしに迷惑をかける、侵襲的な存在として浮き上がってしまう。
 
 これは、欧米社会が想定するような功利主義どおりの秩序だとは私には思えない。日本に入ってくる思想は、仏教でも民主主義でも日本風に変形するものだが、ここでも「他人に迷惑をかけてはいけない」という土着の考えや日本人の無臭性・治安の良さによって何かが変質してしまっているのだろう。そして今日の正しさに照らして考えた時、臭うから・不安感を与えるから・威圧感をもたらすからといった理由で他人を忌避して良いのか、ましてやバッシングして構わないのか、甚だ怪しいものである。
  
 しかし、これほど美しい街のなかで、これほどお互いに迷惑をかけず、安全・安心して暮らせる社会ができあがってしまった以上、人々が他人の体臭や体格や挙動に敏感になってしまうこと・昔は迷惑とも思っていなかったことまで迷惑と感じること自体は、よくわかるのだ。
 
 ここでも私は、デュルケームの僧院の喩えを思い出さずにはいられない。
 

 それが完璧に模範的な僧院だとする。いわゆる犯罪[もしくは逸脱]というものはそこでは起こらないであろう。しかし、俗人にとっては何のことはないさまざまな過ちが、普通の法律違反が俗世界の意識に呼び起こすようなスキャンダルと同じように解釈されて、そこでは生じることになるだろう。したがって、もし、その社会が裁判と処罰の権力を持っているならば、それらの行為は犯罪[もしくは逸脱]的とされ、そのようなものとして扱われるに違いない
 デュルケーム『社会学的方法の規準 (講談社学術文庫)

 無臭を徹底させ、安全・安心を徹底させた街のなかでは、昭和以前には許容の範囲だった臭いや体格や挙動までもが迷惑として、あるいは不安感を威圧感をもたらすものとして忌避されることになる。幸い、臭いから・体格が威圧的だから・挙動不審だからといった理由で犯罪扱いされる制度は無いけれども、それでも職務質問はされやすくなってしまうし、他人に迷惑がられたり敬遠されたりするおそれはある。
 
 この、臭いや体格や挙動の問題は、人口密度がきわめて高く、相対的に臭いやすく、誰がいても構わないとみなされているターミナル駅周辺や繁華街ではあまり問題にはならないけれども、閑静な住宅街や子どもの遊ぶ公園ではくっきりとした問題になる。「キモくて金のないおっさん」の居場所は、閑静な住宅街や子どもの遊ぶ公園には無い。なぜなら迷惑がったり不安感や威圧感を覚えたりするからだ。そうした通念は子どもや女性だけでなく、当の「キモくて金のないおっさん」自身も抱いているのだから、これまた根が深い。
 
 

忌避されずに街を歩けるのは誰か

 
 では無臭を徹底させ、安全・安心を徹底させた街を誰なら気兼ねなく歩けるのか。
 
 体臭が臭わず、体格や挙動によって他人に不安感や威圧感を与えてしまわない人々こそが気兼ねなく街を歩けるわけで、この場合の「強者」といえる。
 
 たとえば「かわいい」女性。それと「かわいい」男性。
 
 臭わず、体格で他人を威圧することもなく、安心できる挙動をとる人々こそが、一番迷惑がられず、一番忌避されない。気兼ねしないでどこへだって行ける。
 
 [関連]:『かわいいは正義!』とは、暴力が禁じられた社会の、新しい影響力闘争のこと。 | Books&Apps
 
 まだ法治が徹底されておらず、屈強な男性が華奢な女性を腕づくで征服できた時代には、「かわいい」が強者など絶対にあり得なかっただろう。
 
 だが法治が徹底され、お互いに迷惑をかけない慣習が信じられない水準に到達した21世紀の日本の街では、「かわいい」人々こそが模範であり、模範どおりだから忌避されない。今後、監視カメラが増え、DVや虐待への家庭介入が進むにつれて、ますます「腕づくの問題解決」は摘発されるようになるだろう。その際、「かわいい」の模範性は高まることはあっても低下することはない。
 
 現代社会の「かわいい」は、既に相当強い属性だが、「かわいい」ゆえか、これを新時代の強属性だと名指しする人はあまりいない。ゆえに、「かわいい」が猛威をふるったからといって、それを暴力や抑圧とみなす人もほとんどいない。
 
 
 もうひとつ、「かわいい」に準じる存在がある。
 
 それは無臭を徹底させ、不安感や威圧感を与えないよう身だしなみや挙動をトレーニングした、洗練された現代しぐさの男性や女性たちである。
 
 中年男性も、きちんと入浴する習慣を身に付け、安心感を与える身なりを整え、落ち着いた挙動をしていれば不安感や威圧感を与えることはなくなる。そのような中年男性ならば、閑静な住宅街や子どもの遊ぶ公園にいても迷惑がられないだろう。中年女性は言わずもがな。つまり、無臭を徹底させ、安全・安心を徹底させた街に溶け込むようなハビトゥスを身に付け、実践していればバッシングされることも忌避されることもなくなる
 
 「だからきちんと入浴し、きちんとした身なりを整え、落ち着いた挙動をしなさい」というアドバイスが一応の処方箋になるわけだが、これは希望と言えるだろうか?
 
 

強者には簡単でも、弱者には困難

 
 私にはそう思えない。
 
 無臭で、不安感や威圧感を与えないようなハビトゥスとその実践は、いわゆる強者には簡単でも、経済的・社会的弱者には簡単ではないからだ。
 
 経済資本や文化資本に恵まれた成人男女は、そうしたハビトゥスを比較的短期間で身に付けられる。というより子ども時代のうちにある程度身に付けている。デオドラントや身だしなみにお金や時間を費やすことだってできる。結局、強者は大して努力するまでもなく、無臭で無害な存在になって街を闊歩できる。
 
 しかし、経済資本や文化資本に恵まれない成人男女はこの限りではない。現代社会にふさわしいハビトゥスを子ども時代に身に付けられなかった人もいるし、デオドラントや身だしなみにお金や時間を費やす余裕が無い人も多い。だから「キモくて金のないおっさん」が無臭で無害な存在として街を闊歩するためには、強者よりずっと努力しなければならず、到底それがかなわないことだってあるだろう。
 
 もちろんこれは「キモくて金のない"成人男性"」だけの話ではない。悪臭ぷんぷんたる女性、不安感や威圧感を与える外観や挙動の女性は、女性でも「キモくて金のないおっさん」のようなものだろう。そのような女性が、この清潔で無臭で安心・安全な社会のなかで浮き上がらないわけがないし、現代の通念のなかで忌避されないわけもない。
 
 そういえば「かわいい」もまた、ある程度まで先天的素養だが、ある程度からはハビトゥスだと言える。というのも、顔貌が多少かわいらしかろうが、臭くて、身なりが整わなくて、不審な挙動や粗暴な挙動があれば、その人物は現代の秩序から浮き上がってしまうからだ。
 
 

だが、弱者といえども秩序のトリクルダウンは享受している。

 
 バッシングして構わないかどうか、差別かどうかといった話から少しズレた話になってしまった。
 まあ、そのあたりは冒頭リンク先のテラケイさん達にお任せするとして。

 さしあたり、この文章で私が一番言いたかったのは、この無臭で安全・安心な社会では、臭う者・不安感を与える者・威圧感を与える者は浮き上がってしまい、それをどうにかするための処方箋は経済資本や文化資本に恵まれない成人男女には容易ではない、ということだ。
 
 しかし、現代社会の快適な暮らしはこうした通念と社会状況によって成立しており、その恩恵は強者はもちろん、弱者も享受しているから簡単には否定できない。強者のほうがより多く恩恵を受けているだろうけれど、いわば秩序のトリクルダウンというか、弱者だってある程度は都市生活の快適さを受け取っていることを私は否定できない。
 
 それに、これほどの人口集中と高温多湿な環境にもかかわらず、東京のようなメガロポリスが未曾有の快適さを誇り、安全と安心を維持できているのも、このような通念と、このような通念を支えるインフラのおかげだということも忘れてはならない。昭和時代の通念のままの東京は、もっと臭く、もっと喧騒や怒号にみちていて、法治はこれほど行き届かなかった。そのような社会に後戻りしたいと考える人は、「キモくて金のないおっさん」のなかにさえ、少なかろう。
  
 無臭で安全・安心な秩序の恩恵を受けとるためには、それにふさわしい無臭さ、外観や挙動の人間にならなければならない──そのためのコストには個人差があり、たとえば、キモくてカネのない中年男性にはハイコストであることを、これからの正しさはどこまで照らし出せるだろうか。
 
 

*1:たとえば女性が政治に参加できるようになったのがずっと後の時代だったように

「疲れ」に気付き、「疲れ」と向き合う難しさ

 
フェミニストであることに疲れた。 - トイアンナのぐだぐだ
 
 そうですか、疲れてしまわれたのですね、トイアンナさん。
 
 私はトイアンナさんがどこまでどうフェミニストなのかを詳しくは知りません。ただ、トイアンナさんが男女に関連した領域で活動を続けておられることは知っています。そうした活動の最中、過激な発言をする人たちが視界に入ってきて疲れる神経を遣うというのは理解できる話です。
 
 まあしかし、事態はフェミニストとその周辺に限った問題でもないように、私には感じられるのですよ。そうですね、例えば私がtwitterやはてなブログで感じている疲れと、トイアンナさんが感じていらっしゃる疲れは、イコールではないとしても、地続きな部分があろうといいますか。
 
 たとえば政治的な話題についても、見ていると、私は「うげー」と思うことがよくあります。
 
 政治でいえば、今の自民党はどうなのか。
 あるいは安倍首相、あるいは東京オリンピック。
 これらについて、強い言葉を連発している人々がいます。
 
 子育ての方面でも、びっくりするほど強い言葉を吐き出しているアカウントを目撃してしまい「うげー」となることがしばしばあります。
 
 アニメやゲームの世界でもそれは同じ。強い言葉を使って、強い言葉ゆえに目立っている人というのはどこのジャンルにもいますね。
 
 どこのジャンルでも、大多数はモノの言い方に気を付けながら発言している一方で、強い言葉を振り回す少数の人がやたら目に付いてしまうように、今のネットはできているように私にはみえます。強い言葉で目立っている人を視界に入れない、というのはなかなか難しそうで、ましてやフロントラインで議論をしていると強い言葉に絡まれることすらあります。
 
 ざっくばらんに言って、現在のネットって疲れるものじゃないでしょうか。
 
 まして、トイアンナさんは盛んに活動をしておられます。最前線、と言ってもいいのではないでしょうか。オンラインでもオフラインでも、盛んに活動するということは、ネットの風・世間の風にそれだけ吹かれるということですから、かなり疲れやすいようお見受けします。そしてトイアンナさんの疲れは私にとって他人事とは思われないし、たぶん、インターネット上でなんらか活動している・活動したいと思っている人々にも他人事ではないと思われるのです。
 
 

「疲れた」と感じること自体は良いこと

 
 とはいえ「疲れた」と感じられること自体は大事なことですよね。
 
 「疲れた」と感じて休息したり、活動のテンポを緩めたりするのは、心身のホメオスタシスを保つうえでとても大事なことだと私は思います。
 
 「痛み」が身体の異常を自分自身に教え、活動を自粛させて患部をいたわるよう促すのと同じで、「疲れ」は疲労の蓄積を自分自身に教え、活動を自粛させて心労や疲労を回避させようとしてくれます。
 
 逆に、疲れを知らないようにネットをやるとか、正気の沙汰とは思えません。
 
 ネットには、疲れを知らずに強い言葉をブンブン振り回し続けるアカウントもまま見かけますが、ああいった、興奮はすれど気の休まることのないネットライフを朝に夕に続けている人は、いったいどうなってしまうのでしょうか。
 
 強い言葉が飛び交っていることに疲労を感じる人は、その場から離れようとするか、その場にアクセスする頻度や程度を下げようとするからまだマシで。
 
 いつまでも強い言葉の飛び交う戦場に仁王立ちして、自分自身も強い言葉を投げかけて、それをほぼ一年じゅう続けているアカウントは、ずっと神経が昂進したインターネットをやっているわけですよ。あるいは、強い言葉を振り回して承認欲求や所属欲求を充たしているのかもしれず、それで心理的には気持ち良いのかもしれない。でも、あれは「疲れ」ますよ。神経を遣ってますよ。長く続けていたら、変な影響が蓄積するかもしれませんよ。そのことに気付かないまま、強い言葉の世界に留まり続けて、本当に大丈夫なものなのでしょうか。
 
 「疲れを知らない」活動と「疲れ」を知っている活動、どちらのほうが心身のホメオスタシスを保ちやすいかといったら、後者でしょう。
 
 2ちゃんねるの「回線切って寝ろ」は現在にも通用するウィズダムだと私は思います。まあスマホ時代は回線を切れないので、「スマホの電源落として玉手箱に封印しろ」ぐらいやらなきゃダメでしょうけど。
 
 

「疲れていても活動を減らせない」が怖い

 
 それと「疲れていても活動を減らせない」ってやつも怖いですね。
 
 ネットの活動にお金を頼っていたり、心理的欲求や実存を賭けていたりすると、身体が「疲れ」を自覚していても頭がそれを否定して頑張り続けてしまう、ということがしばしばあります。オフラインだったらよくある「付き合いでどうしても降りられない」みたいなことがネットでも起こったりするかもしれません。経済的ニーズ、心理的ニーズ、社会的ニーズに人はたやすく丸め込まれてしまう。
 
 
 「『疲れ』を感じたら休みましょう。それか活動をちょっと変えましょう」
 
 
 ああ、原則はこんなにシンプルなのに、疲れを感じて休むというのはなんと難しいのだろう。
 
 この文章はトイアンナさんの「疲れた」という文章を受けて書き始めたのだけど、ここまで書くとはっきりわかる。私は、私の問題としてトイアンナさんの「疲れ」の話を読んでいたのだ。疲れているのは私だ。そして活動を減らせないのも私で、その状況を怖がっているのも私自身であろう。いつの間にか、文体も「ですます調」から「である調」に変わっているのもたぶんそのためだ。
 
 このブログの常連読者の人なら気付いているかもしれないが、私も一応、自分の「疲れ」にあわせて最近はブログの更新頻度を下げている。本当はもっと書きたいことがあるけれども、全部書いてしまってはいけないフェーズが来ている、ような気がする。
 
 だが、ブログの更新頻度を下げただけ本当に大丈夫なのか?
 
 わからない。わからないから不安でもある。
 
 私は「疲れ」と向き合いきれているのだろうか。
 
 ネットの各方面で活躍し続けている人や、朝も夕もネットにメンションを垂れ流している人も、こういうことを懸念したりするものなのだろうか。
 

「金がなくても楽しい老後」は始まっている。ああでも生きていられるだろうか。

 
 
老後に金がなくても楽しく暮らすために今から準備しておくべきこと|ふろむだ@分裂勘違い君劇場|note
 
 
 ふろむださんが、楽しい老後についてnoteで記事を書いていて、主旨には同意するのだけど、私の思考はそこからどんどん離れていき、変な着地点にたどり着いたので書き残すことにした。
 
 
 

「金がなくても楽しい老後老後」は、もうここにある

 
 
 まず私は、ふろむださんが書いている内容は、大きくわけて二つの意味でもう実現している、と思った。
 
 
1.ひとつめは、いまどきの高齢者たち。
 
 図書館に行くと、いつも高齢者がたくさんいて、本や新聞をを読んでいる。ふろむださんが述べたような、教養ある読書をしている人も混じっているだろう。本が読める老後というのは、きっと良いものに違いない。
 
 子どもとハイキングに登るような山にも、高齢者の姿が多い。どんどん山を登り、景色を写真に撮ったりしている。山に登れて写真が撮れる老後というのは、きっと良いものに違いない。
 
 で、『ブラタモリ』。これを楽しみにしている高齢者も多い。同じNHKでも『鶴瓶の家族に乾杯』よりも人を選ぶのかもしれないが、それでもファンは多く、最近は、ブラタモリ的な小旅行が企画されることだってある。そういった地誌に興味が持てる老後というのは、きっと良いものに違いない。
 
 だから、ふろむださんが勧めている「金がなくても楽しい老後」は、現在の高齢者の老後といくらか重なり合っているように思う。
 
 
2.もうひとつは、小説家になろうの一部コンテンツを眺めていて。
 
 私のサーチ範囲に入ってくるweb小説のなかには、なんというか、晩年、という印象を受けるものが少なくない。今を生きるより創作の世界を生きている、ちょっと世捨て人が入ったフレーバーを隠そうともしない作品というか。
 
 web小説のいいところ(悪いところでもある)は、筆者自身のフレーバーを脱臭しないで文章をアップロードしてくる人が少なくないことだ。いや、私がたまたまそういう筆者自身のフレーバーの強いweb小説に当たるだけなのかもしれない。ちなみにカクヨムでは、筆者自身のフレーバーがかなり脱臭された、作家じみた文章に出会うことがしばしばある。対して小説家になろうでは、ときに、はてな匿名ダイアリーより筆者のフレーバーが濃厚で、のけぞってしまうこともある。念のため繰り返すが、私はそのことを悪いと思っているのでなく、web小説の良いところでもあり、つまり特質なのだろうと思って楽しんでいる。
 
 で、そういう目線でweb小説を読んでいると、「この筆者は、もう老後を生きているんじゃないか」といった書き手に遭遇する。
 
 ここでいう老後とは、年齢的なものではない。言い回しやネットスラングから40±10歳ぐらいとおぼしき年齢だけど、厭世的だったり、社会との距離感を漂わせていたりするような、それでいて豊富な知識を駆使して異世界の物語を書き綴るような、そういう佇まいのことだ。
 
 私は、冒頭のふろむださんの文章を読んでいるうちに、そういった、厭世観や社会との距離、あるいは窓際族的なフレーバーを思い出していた。そうしたweb小説の書き手の実年齢は、老後というにはまだ若いだろう。しかし心の佇まいとしては晩年であり、いわば、「金がなくても楽しい老後」を一足早く始めているのではないだろうか。
 
 
 

高齢者がコンテンツ生産者/消費者となったインターネット

 
 
 数年前、○○出版社の編集者の方から「最近、村上春樹にかぶれた団塊世代の持ち込み小説が増えている。文体は村上春樹風だけど、肝心の中身は似たり寄ったり」という話を聞いたことがある。しかし現在は、小説をわざわざ出版社に持ち込まなければならない道理はない。web小説として公開してしまえば、そこには書き手だけでなく読み手もいる。
 
 今、web小説を書いている人の多くは30代~40代ではないかと思う。おそらく読み手も同世代だ。20代、50代もいるだろうけれども、さしあたり、web小説の書き手と読み手に壮年期のボリュームゾーンがあるのは間違いないだろう。
 
 そんな彼らも、あと20年もすれば50代~60代になる。
 
 いや、web小説に限った話ではない。ブログだってそうだ。そうやって、インターネットの色々なコンテンツの前線にいる人々が歳を取っていく。20年後には、彼らも(そして私も)還暦前後だ。そうなれば、インターネットは「金はなくても楽しい老後」を担う場になっていくのではないか。
 
 まなめはうす風に言うなら、『良いインターネットで、良い老後を』といったところだろうか。私は、これはそこそこ期待できる筋だと思うので、ネットに特別な思い入れのある往年のネット古参兵は、健康に気を配りながらネットライフを楽しんでいれば、それでOKなのかもしれない。
 
 
 

なぜ、老後を、楽しく、生きなければならないのか

 
 それにしても、どうして私たちは老後なるものを想定しなければならないのだろうか。
 
 ふろむださんの文章にいちいち頷きつつ、私は、老後をこうやって見据え、楽しく過ごすために戦略的に生きるのは、奇妙な風習ではないか、という思いも捨てきれずにいる。
 
 人は生まれながらに苦を抱え、苦楽とともに生きるものだが、やがて痩せ犬のように死んでいくものではなかったか。
 
 臨終までの時間がきわめて長くなり、健康寿命もおそらく長くなり、老後という、ちょっとおかしいぐらい健康な例外にだけ与えられたボーナスステージを誰もが享受するようになった。ところが半分以上が80代を迎える時代になってみると、人は簡単に死ななくなり、死ねないがゆえに、長い人生を楽しむ──いや違うな、長い人生を楽しまなければならなくなった。
 
 長い人生に苦しかないのは文字どおりの苦行なので、私たちはなんとか楽しく、いやせめて苦楽が共にあるぐらいにしなければならない。だから私たちは老後について考える。その老後に到達するための壮年期を考える。その壮年期をよりよく生きるために思春期に備え、とうとう小学生のうちから受験に追われる者もいる。
 
 それらすべてが、ふと奇妙な風習にみえる瞬間がある。
 
 なぜ、老後を見据えて生きなければならないと、私たちは思い込んでいるのだろうか?
 
 老後も健康でなければならない。
 老後も楽しくあらねばならない。
 
 そういったニーズを理解できる自分がいる一方で、そうはいっても生きるとは苦であり、その苦に楽を織り交ぜるための努力も苦となりかねず、いや苦を増やすために楽しみを見つけろとはふろむださんも言っていないとは理解しつつも、どうしてそんなに巧く生きなければならないのか? と疑問に思うこともある。
 
 どれほど楽しみを知り、教養のある人でも、死ぬときは結局死ぬし、認知症になれば認知機能が奪われる。あるいは老人ホームでアパシーの底に沈むのか、それとも習慣の残骸を繰り返すようになるのかはわからない。ともあれ、いつか必ず人は死ぬ。その日が来るのが65歳なのか、75歳なのか、85歳なのか、それはわからない。わからないが、とにかく終末の時はやってくる。
 
 いやいや。
 
 案外、少子高齢化や地球温暖化や争乱によって、もっと早くに、もっと無情に、私たちはバサリと死ぬのかもしれない。
 
 結局私は何が言いたいのだろう?
 
 現在の延長線上として老後がやって来るのは基本的にはめでたいことだが、老後を戦略的に見据え、ましてや老後の愉しみを見据えて生きるのは、私が奇妙な風習と感じるものの典型のように思える。そこに引っかかりを覚えるものだから、私はこうして駄々をこねているのだろう。
  
 
 「あるがままに歳を取っていく、で、良いではないか。」
 
 
 たぶん私は、老後があるという前提で物事を考えていくことに、抵抗感を覚えている。
 
 老後は迎えて当然と思っている人のほうが現代社会では多いし、平均寿命を見る限り、そのとおりになる人の割合が高いだろう。
 
 だが本当に、私にも老後はやって来るのか?
 
 もし私にも老後があるとしたら、それほどまで長く生きた、それほどまで命を使ったということで、たとい苦によって命が締めくくられようとも、基本的にはありがたいことではないかと思う。
 
 私は、自分が60代、70代まで生きていられる自信があまり無い。生きていたい。いや生きていたら御の字だと思う。這ってでも生きてみたいが、本当に私は、そこまで生きていられるのだろうか。
 
 
 ひょっとしたら、老後を見据えたふろむださんの人生観に、私は嫉妬しているのかもしれない。
 
 私だってどうにか生き続けて、2040年産のワインが飲んでみたい。まずは、生き延びなければ。
 
 

「恋愛も結婚もしなくなった日本は未曾有の先進国」

 
 
未婚の理由「めぐり合わない」 一方で「探していない」も | NHKニュース
 
 先日、内閣府が少子化社会対策白書(2019)を発表した内容をNHKが報道しているのを見かけた(pdf版はこちら)。
 
 日本では、結婚しなければ子育てはほとんど始まらない。だから少子化社会対策白書に未婚男女の意識について記されているのは当然なのだが、白書によれば、結婚を希望している未婚男女の多くが「出会わない」だけでなく「相手を探してもいない」という。
 
 挙児は一人ではできない。少なくとも一般的にはそうである。
 
 にも関わらず、未婚の男女が「出会わなくて」「相手を探してもいない」のだから、結婚は増えないし、子どもの数も増えない。たとえ婚外子を許容する文化風土ができあがったとしても、そもそも、男女が出会わなければ子どもは生まれてこないのである。
 
 少子高齢化という視点で考えるなら、このままでは国力は下がり、税制は混乱し、やがて、人心も荒廃していくだろう。
 
 だが、敢えて視点をズラして考えると、これは日本社会が文明化の最先端をいっている徴候、ある領域においてブッチギリの先進国である徴候ではないだろうか。
 
 
 

恋愛市場主義の浸透、という意味の「一億総中流」

 
 
 欧米に出掛けると私は、いつも男性が男性らしく、女性が女性らしく立ち振る舞っていると感じる。少し前の日本で流行したような「かわいい」立ち振る舞いのかわりに、大人の男性、大人の女性としての立ち振る舞いが洗練されている、と感じる。社会のなかでナメられない男・ナメられない女であることをディスプレイするために、彼らは日本人より高いコストを支払い、緊張しているようにもみえる。
 
 カップル文化、デート文化の圧力も感じる。結婚しているか否か、同性愛か異性愛かは、以前に比べて問題ではないのかもしれないが、カップルでいられない人・デートできない人は、日本社会よりも肩身が狭いのではないか。たとえば「フランスではひきこもりもデートする」というけれども、ならば、フランス社会とは、ひきこもりすらデートしなければならない社会ではないのか。
 
 対照的に、日本ではカップル文化やデート文化は希薄だ。
 
 いや、日本が欧米の模倣にいちばん熱心だった1980-90年代には、資本主義のロジックにもとづいてカップル文化やデート文化をなぞる流行が起こり、たとえばクリスマスをカップルで過ごすことが社会現象にもなった。しかしこれはうまく定着しなかった。
 
 それでどうなったのか?
 
 日本では、恋愛という体裁をとりつつ、実質的には資本主義のロジックにもとづいて男女が結びつくことになる。欧米のような、文化的因習にもとづいて誰もがデート・セックスするような社会に寄り道することなく、まっすぐ資本主義的に男女がデートしたりセックスしたり、ひいては結婚・生殖をする社会ができあがった。共同体やイエのロジックにもとづいて男女を強制的に結びつけるそれまでの社会圧を、恋愛市場主義によって打ち倒したとしても、欧米のような文化的因習が無いのだから、欧米人と同じようにデートやセックスや結婚や生殖をする社会にはならない。
 
 資本主義的に自他を値踏みしあう社会が到来したことによって、恋愛は、バリューを持った男性や女性*1が自由意志にもとづいて行うことはあっても、そうでない男性や女性が背伸びしてまで行うものではなくなった。欧米のように、デートやセックスをしなければならない(旧態依然とした)社会圧は存在しないのだから、背伸びをしなければならない道理も無い。
 
 だから現在の日本、あるいは韓国や中国では、経済的与件が比較的ピュアに男女交際を、ひいては結婚や子育てをも決定づける。少なくとも、自他を資本主義的に値踏みする作法行儀を身に付け、なにごとも資本主義的にコスパやリスクを考える人々においては、そうだといえる。
 
 この点において、東京で生活している未婚男女の大半は「模範的」である。
 
 自分自身が恋愛可能かどうか、ひいては子育て可能かどうかを、模範的な未婚男女はしっかり考える。経済合理性にもとづいてよく考え、可能なら、恋愛や結婚を選択肢のひとつとみなす。もちろん東京のような都市空間では子育ては難しいから、東京の未婚男女はしばしば結婚を諦めるし、ときには恋愛をしようという気持ちすら起こさない。少子高齢化という視点でみればゆゆしき事態だが、経済合理性の透徹という意味では、きわめて洗練された身振りだ。
 
 企業や土地を所有する大ブルジョワや高級ホワイトカラーのような中ブルジョワだけでなく、ほとんどの東京の未婚男女が恋愛や結婚を経済合理性にもとづいて見据え、行動しているのだから、たいしたものである。資本主義のメンタリティの浸透、という意味では「一億総中流」という言葉は死語ではなく、むしろ現代にこそ当てはまるのではないだろうか。
 
 
 もちろん現代の日本にも、本能のままに恋愛をはじめる人や、勢いでセックスする人、あまり考えずに子育てを始めてしまう人はいる。不勉強と言わざるを得ない。この場合、本能が勃起して恋愛や結婚を始めてしまう人は「資本主義のロジックを十分に内面化していない、不勉強で粗暴な人々」と評することができる。
 
 日本の合計特殊出生率のある部分は、そうした不勉強で粗暴な人々によって担われているのだろう。しかし、どこまでも資本主義のメンタリティが浸透してゆく日本社会において、そのような不勉強や粗暴さは時代遅れだし、進歩的な人々ほど、そのような蛮行に走ることはない。
 
 東京とその周辺の低い合計特殊出生率を見ていると、現代の未婚男女が、欧米的な文化的因習やイエや共同体の文化的因習からは自由で、恋愛や結婚に対して経済合理性にかなった判断を行っている、とみることもできる。少なくとも本能や勢いのままに男女がまぐわっていれば、こうはなるまい。
 
 現代日本では、いや、韓国や中国などでも「お金が無いから恋愛/結婚できない」という考え方はそれほど珍しくない。だが、この考え方じたいがきわめて資本主義的な、経済合理性に根ざしている。そしてそのように考えるのが当たり前で、勢いのままに恋愛や結婚や生殖に向かうのはおかしいと、大半の人が思っている。
 
 
 

一人でも生きていける社会では結婚しなくても構わない

 
 
 かつて結婚には経済合理性があった。
 いや、地域共同体にしてもそうだ。
 
 人間が集団をかたちづくって生きるのは、協同し、分業しなければ生きていけないからで、これは狩猟採集社会にも農耕社会にも当てはまった。一人では世話できない水田も集団でなら世話できるし、一人では防げない外敵も集団でなら防げる。20世紀に入ってさえ一人で生活するのはなかなか大変で、使用人を雇えるような身分でもない限り、家族や地域共同体との繋がりは必須だった。
 
 ところが20世紀の後半、とりわけ日本では、家電製品が普及し(コンビニやワンルームマンションなどといった)一人暮らしに適したサービスが進歩・普及したため、一人暮らしの難易度は大幅に下がった。
 
 家族で助け合わなくても、使用人を雇わなくても、ごく簡単に一人暮らしができる。そのうえ一人暮らしは、完全にプライベートな個人主義的生活を実現してくれる───80年代にはそうしたライフスタイルが流行したため、一人暮らしに格好悪さがついてまわることも無かった。
 
 そして仕事はといえば、家族や地域共同体から無縁になって久しい。資本家はもちろん、工場やオフィスで働く人々も、賃金労働をとおして簡単に独立できる。個人が経済的に独立しやすい素地ができていたからこそ、一人暮らしと、それに伴うプライベートな個人主義的生活が80年代に流行した、とも言えるかもしれない。
 
 いずれにせよ人々は経済的に独立し、集団で生きなければならない経済合理性は大幅に低下した。個人単位でお金を稼ぎ、たいがいのことは家電製品や出来合いのサービスに任せておけば済んでしまう社会では、結婚すること・家族をつくることにさほどの経済合理性は無い。むしろ、結婚や家族にはリスクがついてまわる。子育てを始めればお金がかかるし、離婚で失うものは決して小さくない。そうでなくても同居にはストレスやしがらみが生じる。こうしたことを、模範的な未婚男女はよく心得ている。
 
 結婚や家族は、むしろお金がかかり、リスクがある──それでも結婚するに足りるほどの相手がいれば、現代の模範的な未婚男女とて結婚するだろう。しかし、そうでなければ結婚は経済合理性にみあった選択ではないし、そのように不経済な結婚を、わざわざ手間暇かけて探し求めるのは、酔狂な、あるいは趣味的なことでしかない。
 
 結婚の是非が経済合理性にもとづいて判断されるようになり、そのうえ一人でも生きていける……というより一人のほうが生きやすい社会ができあがった以上、結婚がペイしないと判断した未婚男女は結婚しないし、するわけがない。
 
 
 

「『出会い』はノイズ」

 
 
 そのうえ、現代社会では「男女はそう簡単には出会わない」。
 
 冒頭リンク先の記事には、結婚に至らない理由のひとつとして「出会いの少なさ」が挙げられている。では、「出会い」とは一体何か。
 
 現代社会の生活を振り返ってみれば、男性と女性が顔をあわせる頻度はけっして少なくはない。いや、むしろ信じられないほど多い。たとえば電車に乗って出勤し、職場で働き、買い物をして帰宅するまでの間に、未婚男性はいったい何人の未婚女性と顔をあわせるだろうか。あるいは会話するだろうか。
 
 そう、自宅に引きこもっているのでない限り、未婚の異性に顔をあわせる頻度じたいは、現代社会ではものすごく高まっているのだ。仕事中や買い物の最中も、なんらか会話しているはずである。
 
 にも関わらず、日本の未婚男女は「出会い」が無いという。
 
 もちろん。街で未婚の異性といくらすれ違っても「出会い」にはならないし、レジで未婚の異性といくら会話しても「出会い」にはならない。職場に「出会い」を求めることも容易ではない。うかつなことをすれば、セクハラとみなされるだろう。
 
 現代社会のコミュニケーション、特に大人同士のコミュニケーションは、契約社会のロジックに従っていて、そこからはみ出すことはほとんど無い。コンビニでのやりとりは売買に最適化しているし、職場では仕事についてやりとりするべきなのであって、私生活に立ち入るようなやりとりは避けられる。「出会い」という名のノイズは、売買に最適化されたやりとり、仕事に最適化されたやりとりが当たり前になっている社会では発生しなくなる。いや、発生しなくなるというと言い過ぎかもしれないが、発生しにくくなる。
 
 街や職場で、やりとりのノイズとして「出会い」が混入することが減ってしまった以上、「出会う」ためには「出会い」に特化した場、たとえば合コンや婚活といった「出会い」を目的としたコミュニケーションの場に赴かなければならない。少なくとも、社会契約のロジックに忠実な未婚男女ならばそうだ。売買の場や仕事の場に「出会い」というノイズを持ち込むのは、合目的で効率的なコミュニケーションを旨とする契約社会のロジックからの逸脱であり、不心得なことである。
 
 現代の未婚男女は、目的にみあった合理的で効率的なコミュニケーションを是とし、そうでないコミュニケーションを不心得とする社会に生きている。このような社会では、売買に際しては売買のやりとりしかしないし、すべきでもない。仕事に際しても仕事のやりとりしかしないし、すべきでもない。そのおかげで売買も仕事も効率的に進むようになり、セクハラに遭遇したり私生活に首を突っ込まれたりする面倒も減ったわけだが、裏を返せば、男女の「出会い」というノイズも追放してしまった。
 
 学習のための場、仕事のための場、売買のための場それぞれでコミュニケーションが合目的かつ効率的であるためには、ノイズは消去しなければならないし、実際、ノイズは消去されている。現代の模範的な未婚男女は、「出会い」というノイズを学校や会社やコンビニに持ち込まない程度には、契約社会のロジックをよく内面化している。このような社会ができあがったにもかかわらず「出会い」をあちこちに見出してしまう未婚男女のほうが、どこかおかしいのではないか。
 
 現代の結婚は、見合いによらず、もっぱら恋愛によると言われている。ところが、合理的で効率的なコミュニケーションを旨とする現代社会では、男女はそう簡単には「出会わない」し、出会うべきでもない。なぜなら「出会い」は、たとえばセクハラとみなされかねないノイズだからである。だとしたら、恋愛結婚の少なくない割合は、契約社会のロジックからの逸脱の産物に依っている、ということになる。
 
 もし、このまま契約社会のロジックがますます徹底していくとしたら、恋愛という名の逸脱の産物もますます減ってゆくだろう。オフィスラブなど、洗練された契約社会にはふさわしくない。
 
 
 

資本主義・社会契約・個人主義が徹底した行先としての少子化

 
 恋愛も結婚も挙児もしない社会ができあがった背景にはさまざまな要因があるだろうし、さまざまな対策が講じられるだろう。それはそれとして、資本主義・社会契約・個人主義のロジックをみんながここまで内面化し、それを阻害するような文化的因習からも自由になった現代日本を振り返ると、どうしてわざわざ結婚し、子どもを育てようなどという動機が生まれるのか、よくわからなくなる。
 
 この、資本主義と社会契約と個人主義のイデオロギーが徹底した社会では、不用意に「出会い」を求めようとしない男女、資本主義的な自他の評価を逸脱してまで「出会い」に向かおうとしない男女のほうが模範的だ。恋愛は、最終的には合コンや婚活といった、合理的かつ効率的なシステムへと吸収されていくのかもしれない。すでに恋愛資本主義の意識はじゅうぶんに浸透しているのだから、リクルートのような企業の草刈り場になる余地はじゅうぶんある*2。もちろん一人でも生きていける現代社会だから、一人で生きていくほうが経済合理性にかなうなら、わざわざ結婚しなければならない道理はない。
 
 私のみるところ、今日のイデオロギーは、分不相応な恋愛願望や結婚願望を是としてはいないし、脈絡もないところに「出会い」を見出すような未婚男女を是ともしていない。
 
 資本主義や社会契約や個人主義が徹底して、「出会い」というノイズが減っていくのは、少子高齢化という視点でみればおそらく危機だろう。しかし、資本主義・社会契約・個人主義の進展、civilizationという視点でみれば未曾有の達成であり、社会制度や慣習が人間の生殖本能を制圧した記念碑的状況といえるのではないだろうか。
 
 資本主義や社会契約や個人主義を司る人々は、この現状を嘆くべきではなく、賛美すべきではないかと私は思う。
 「自分たちの思想は成った」、と。
 
 

*1:ここでいう経済的与件には、年収だけでなく、たとえば女性の年齢や肌ツヤのようなものも含まれる。よって恋愛市場におけるバリューは年齢や社会的地位によって変化する。

*2:というより、『ゼクシィ』が象徴しているとおり、すでに草刈り場となっている