シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

駅チカに、効率至上主義なブルジョワの夢を見る

 
 
 
タワーマンションと駅徒歩何分のお話 - novtanの日常
 
 
 リンク先の文章を読んで、駅徒歩数分といった、いわゆる「駅チカ」と呼ばれる住まいの魅力を私はかえって理解したような気がした。駅チカ、都会生活に最適化されている人には非常に魅力的な住まいなんじゃないだろうか。
 
 リンク先のNOV1975さんは、以下のようにおっしゃる。

駅直結のタワーマンションで云々、という広告を見るたびに「へー誰が住むんだろうね」という感想をみんなで漏らしながら、その街の良さはどこだったろうと心を巡らすのだ。
言ってみれば、駅徒歩何分にこだわるということは、都会の忙しさに直結する住まいを選択するということにほかならないのではないか。魂を都会というものに縛られている。

 
 ここでいう「都会の忙しさに直結する住まい」とは、都会の忙しさに最適化した住まい、と言い換えることができる。ここでいう都会の忙しさの正体は、時間とお金のコストパフォーマンスや効率性だ。
 
 「時は金なり。」という言葉が流通しはじめたのは、フランドル地方の商業者の間でだったという。確か、プロテスタントな第三身分(ブルジョワ)だったと記憶している。いち早く時計が普及し、時間を節約し生産性を向上させるブルジョワ的ライフスタイルが生まれた頃に「時は金なり。」という言葉ができあがった。
 
 

技術と文明 (1972年)

技術と文明 (1972年)

 
 
 駅チカとは、「時は金なり。」を地でいく住まいだ。通勤の時間を最小化するための住まい。駅にフィットネスジムやスーパーマーケットが併設されていれば、最小限の時間で、生活のたいていのことが間に合う。駅チカの眼目は「その街の良さ」ではなく、効率性と生産性の向上を採ること、つまりブルジョワ的ライフスタイルの忠実な実行にあるのではないか。
 
 
 また、上掲リンク先に対して、「不動産屋のラノベ読み」のLhankor_Mhyさんは以下のようなブックマークコメントを付けている。
 
タワーマンションと駅徒歩何分のお話 - novtanの日常

居住性以外のものを見てるからだと思う。駅近だとリセールバリューが高く、賃貸相場も高いので、資産価値を考えると駅徒歩は重要視せざるを得ない。30歳で築10年のマンションを買うと、70歳で築50年。どうしても、リセ

2019/10/16 18:56
b.hatena.ne.jp
 
 駅チカの住まいはリセールバリューも高く賃貸相場も高いのだという。
 不動産屋さんがおっしゃっているのだから、そうに違いない。
 
 住まいの資産価値を云々し、機を見て売却するという発想もきわめてブルジョワ的だ。機を見て売却するということは、「その街の良さ」という要素はブルジョワ的な駅チカ族──いや、世間にならって空中族と言うべきか──にはなさそうである。
 
 仕事や生活にかかる時間的コストを効率化し、住まい自体のリセールバリューや賃貸相場に目配りするような人々とは、都会の忙しさに最適化した人々であり、とどのつまり、資本主義に最適化したライフスタイルと感性を持った人々なのだと思う。少なくとも、そのような人々になら駅チカの住まいは魅力的とうつるに違いない。彼らが重視しているのは「その街の魅力や愛着」などではなく「効率性と生産性と資産価値」なのだろうから。
 
 
 

ホモ・エコノミクス的・ブルジョワ的な住まい

 
 
 駅チカな住まいのブルジョワ的な特徴を簡単にまとめてみる。
 
 

  • 単位時間あたりの生産性の高さ。通勤、旅行、買い物、その他暮らしのあらゆるものの時間効率性が高い。時間効率性が高いということは、現代人にとって経済生産性が高いこととほぼ同義。移動時間を省くことで、余剰時間をつくりだし余剰生産性を獲得することができる。

 

  • 物件そのもののリセールバリューや賃貸相場の高さ。住まいそのものに資産としての価値を期待できる。土地への愛着など意に介さないなら売り抜けることさえ可能かもしれない。

 

  • プライベートとセキュリティを重視した住まい。盗みに入られないだけでなく、生活する個々人のプライバシーやプライベートが守られる。詳しいことは別の機会にゆずるが、ブルジョワ的なライフスタイルとプライバシーには密接な関係があり、原則として、ブルジョワ的なライフスタイルを採用する人ほどプライバシーの保たれた生活が必要になる。

 
 駅から遠い旧来の住まいでは、これらの特徴はここまで徹底されていない。逆に、駅チカではこれらの特徴が徹底されている。ブルジョワ的なライフスタイルを徹底させたい人なら、土地への愛着よりもお金や生産性への愛着のほうが深かろうから、駅チカを選び、あわよくば空中族になってやろうと望んだりもするだろう。
 
 これは、街への愛着とは正反対のライフスタイルと生存哲学だ。駅チカに魅力を感じるような人は、すすんで魂を都会に差し出しているのだ、いや、魂を資本主義に差し出していると言ってもいいのかもしれない。ある人にとって最適とは思えない選択が、別の人にとって最適かつ魅力的な選択にみえることがあるのが世の中なので、駅チカでどんどん資本主義的な生活を極めていく人もいれば、駅から距離を取り、住まいへの愛着というちょっとノスタルジックな生活を続けていく人もいるのだろう、と思う。
 
 
 

子どもはホモ・エコノミクスとして生まれてこない。

 
 
 ただ、注意を喚起するに値することはある:たいていの駅チカは、子育てに最適化されているとは思えない点だ。
 

タワーマンションと駅徒歩何分のお話 - novtanの日常

子育て入ると交通量の多い駅近は避けたくなる。公園・小学校・お気に入りのチェーンのスーパーからの近さ重視かな。

2019/10/17 08:48
b.hatena.ne.jp
 
 望ましい駅チカの物件には、フィットネスジムやスーパーが併設されていることもあり、そういった点ではあてになるとしても、子育てに最適化されているかといったら、そうは思えない。子どもは最初からホモ・エコノミクスやブルジョワとして生まれてくるのでなく、現代社会の習慣や通念に曝されて少しずつホモ・エコノミクスやブルジョワとして成長していくのだから、駅チカ最大の利点である「(電車での)移動時間が短い」というメリットを子どもは十分に生かせない。子どもが学校や公園に気軽に行けるような駅チカともなると、それはもう、首都圏中枢からほど遠い、リセールバリューのあまり高くない住まいになってしまいそうだ。
 
 言ってしまえば、空中族などという生き方じたい、成人の生産性や経済合理性に最適化されているのであって、子育てに最適化されているものではない。だから子育てに適していないとしても些末なことなのかもしれない。駅チカの多くはゆっくり子育てするのに向かない住まいだろうけれども、ゆっくり子育てをするという行為じたい、成人の生産性や経済合理性にそもそも適っていない。
 
 いまどきは、猫も杓子もコストパフォーマンスで、生産性といった言葉が金科玉条のようにありがたがれる時代だから、駅チカに夢をみる人は割と少なくないと思う。コストパフォーマンスや生産性を追求することに美意識すら見出すような真性のブルジョワならば尚更だ。まだまだ駅チカはありがたがられ、物件は増えていきそうだ。
 
 

おのぼりさん、タワーマンション、自然災害

 
 まず、下記リンク先の文章を読んでいただきたい。
 

武蔵小杉の浸水被害は叩いてもいいという風潮 - レールを外れてもまだ生きる - コロポンのブログ
 
武蔵小杉は私たちのような共働きおのぼりさん夫婦を受け入れてくれる場所だったということもあり、このエリアに住み始めてもう5年ほど経過。そうこうしてる子どもも生まれて、街に愛着も持つようになりました。

 
 この文章を読み、私はずっと前からモヤモヤしていたタワーマンションに対する気持ちが整理できたので、言葉にしてみたいと思う。
 
 
 

「地方でいう、山を切り拓いて作ったニュータウン」の首都圏版

 
 

 
 タワーマンション。
 
 不動産屋さんのtwitterアカウントがやたらと持ち上げていることも含めて、近寄りがたいなぁとは思っていた。ちょっと昔、耐震偽装問題が世を騒がせたことも記憶に新しい。
 
 それと、タワーマンションの立っている土地は、なんだか水害に弱そうな気がしていた。
 
 武蔵小杉には行ったことがないけれども、湾岸部のタワーマンションは何度も訪れたことがあり、水難を連想させる場所に建っていると感じていた。googleマップで見るより、現地を歩いてみた時にそう感じた。今まで住宅地ではなかった場所を住宅地にし、そこに屹立しているのがタワーマンションだ。
 
 でもって、地方の国道沿いに住んでいる私は、これに近いコンセプトの住宅地を知っている。
 
 それは郊外のニュータウンだ。
 
 最近はそれほどでもなくなったが、団塊世代がマイホームを買い求めた1980~90年代にかけ、地方の郊外には大量のニュータウンが造成された。「今まで住宅地ではなかった場所を住宅地にした」という点ではタワーマンションと出自はよく似ている。
 
 山を切り拓き、湿地をならしてつくられたニュータウンのなかには、できて間もない頃から自然災害に曝されるものもあった。もちろん、最近になって自然災害に曝され始めたものもある。今まで住宅地ではなかった場所で値段も手ごろなニュータウンには、そういう性質の場所がたくさんあった。
 
 もう1000万円、いや2000万円出せるなら、もっと安全な物件に手が届くかもしれない。だがたいてい、その1000万円や2000万円が死活問題になる。「昔からの地勢に気をつけなさい」とはいうけれど、それもまた一種の文化資本のたぐいで、誰もがあらかじめ調べられるものでもなく。
 
 2019年の台風にともなう水害でも、今まで住宅地ではなかった場所、今まで人が住んでいなかった場所で大きな被害が出た。武蔵小杉が話題になりがちだが、武蔵小杉は頑張っているほうだと思う。被災した地域だけが特別に自然災害にやられやすかったわけでもない。そういう郊外、そういうニュータウンが、地方都市にはそこらじゅうにある。
 
 私のなかでは、タワーマンションは地方でいう郊外のニュータウンに相当するような何かだ。現代的な暮らしの象徴とみなされ、豊かさのデコレーションを施された、プライベートを重視した住まい。1000万円や2000万円が死活問題になる人々にも手が届くぎりぎりの価格設定。そして今まで住宅地ではなかった場所を住宅地にしたという地勢。
 
 今回の水害では、それでも多くのタワーマンションが被災を免れた。首都圏のタワーマンションについては、地方の郊外に比べて、まだしも災害に対する防御力は高いのではないかと思ったりもした。それでも、ニュースなどを見ていてふと思う。もし自分が上京したら、きっと、ああいったタワーマンションに居を求めていたのではないだろうかと。私の子どもが上京したとしても、やはりタワーマンションに居を求めざるを得ないのではないかと。
 
 
 

そのリスクが、おのぼりさんには避けづらい

 
 
 泥水でいっぱいになった武蔵小杉の風景に、私は、地方郊外の自然災害を重ね合わせずにはいられなかったのだと思う。
 
 お金や情報をたんまり持っている人が冒さなくても良いリスクを、1000万円や2000万円が死活問題になる者は冒さないわけにはいかない。地方から上京し、新たに家庭をもうけるおのぼりさんには、そうしたリスクを回避するすべはあまり無い。地勢にこだわると、住まいにかかる費用に耐えられなくなるか通勤距離に耐えられなくなってしまう。結局、多少の水害リスクには目をつむり、不動産屋さんや国土交通省を信じてそこに住むしかない。
 
 もちろん独り暮らしを続けるだけなら、タワーマンションを選択する必要はないのかもしれない。しかし子育てをしようと思えば部屋数が必要になり、首都圏に土地を持たないおのぼりさんには、そういう部屋数をあてにできる選択肢が限られている。
 
結婚や子育てを考える“おのぼりさん”に、どうか幸あれ。 - シロクマの屑籠
子ども部屋から少子化を考えてみる - シロクマの屑籠
 
 資産家の御曹司でもない限り、地方からのおのぼりさんは、この方面では素寒貧からスタートせざるを得ない。そして地方の団塊世代にニュータウンを売り捌いた不動産屋さんたちと同じく、現代の東京の不動産屋さんもまた、そこのところを狙いすまして夢を売る。夢を見ないで「人生で一度きりの買い物」をやってのけられる人も、いるにはいるのだろうけれど、私はたぶん、そうではない。だから今回の水害はまったく他人事ではなく、自分が直面していたかもしれない水害を見たような気がした。
 
 
 
 
 

『火星の人』を、無双系web小説として読んだ

 
 働きすぎて元気の出ない日には、砂糖菓子のように甘いweb小説を読みたくなる。
 
 でも今は『小説家になろう』にアクセスする気にはなれない。お目当ての作品を探すのにやたら時間がかかるからだ。
 
 そんな折、さる方面から「『火星の人』は無双系web小説」という素晴らしい情報を耳にした。
 

火星の人

火星の人

 
 
 ネットで検索しなおすと、togetterでも映画版*1に対して「最強なろう作家?」というタイトルのついたまとめを見かける。
 
 
togetter.com


 これ、俺が読むために生まれてきた小説なのでは!?
 
 『火星の人』はハリウッド映画化しているぐらいだから、必ずクオリティの高い作品のはずだ。wikipediaで調べてみると、2011年に自費出版されたのが本作なのだという。どれぐらいweb小説然としているんだろうか。
 
 

異世界ではなく、火星で無双する主人公

 
 『火星の人』の筋書きはこうだ。
 
 探査のため火星に降り立った宇宙飛行士6名。ところが着陸早々、とてつもない砂嵐に襲われて主人公は嵐に吹き飛ばされてしまい、よりにもよってバイオモニターコンピュータをアンテナに貫かれてしまったことで、死亡と判定されてしまった。残り5名が火星を脱出したため、意識が戻った主人公は、単身、火星に置き去りにされたが、ほとんど手つかずのNASAの物資を頼りにサバイバルを開始する……といった感じだ。
 
 筋書きだけ読むと、ハードなSF小説のような印象を受けるかもしれないし、実際、『火星の人』にはサイエンスな話がたくさん登場する。NASAの宇宙船についても、作者がよく知っていることが窺われる。題材だけ見ると、web小説、少なくとも日本のweb小説とはかけ離れた作品のように思えるかもしれない。
 
 ところがどっこい、序盤からweb小説だった! しかも日本のweb小説に意外とよく似ている!
 
 

  • 冒頭、いきなり主人公死亡→復活。実際にはバイオモニターコンピュータが破損してしまったため死んで転生したわけではないが、復活から一人で(火星という)異世界に放り出される筋書き自体は似ている。

 
 

  • 序盤は「まったく最悪だ」と毒づくモノローグ中心の早い展開。登場人物は最小限。話が進んでくるにつれて、他の登場人物がぽちぽち登場し、話の幅が広がっていく。先に進めば進むほど話のテンポがゆっくりになり、過去回想編なども挿入される。こうした展開も日本のweb小説ともよく似ている。web上で読者を意識しながら連載していると、おのずとこうなるのだろうか?

 
 

  • とにかく無双!する。web小説ではありがちなジャガイモ無双、工学無双、植物学無双。異世界とその住人達に無双するのでなく、『火星の人』では、火星の過酷な大地に主人公のテクノロジーとNASAの物資、そしてジャガイモやバクテリアが大活躍する。

 
 

  • 無双と絶望のアップダウン。『火星の人』は、ログ一日ぶんが一話といった形式で綴られているが、一話あたりひとつの無双が記される。テクノロジーやNASAの超絶物資によって困難が克服されるたび、間髪入れずに新しい困難やトラブルが入るのもweb小説っぽい。なんというか、アップダウンのスピードが一般的な小説や少年漫画よりもずっとweb小説じみている。

 
 

  • web小説の主人公たるもの、異世界であれ火星であれ、口では「最悪だ!」「もう死ぬ!」と言いつつ、すぐに頭を切り替え、アイデアを絞って難局を切り抜けなければならない。『火星の人』の主人公・ワトニーはまさにそういう人物で、難局と無双の繰り返しにぴったりだった。

 
 

  • 口語体で語られるすごく柔らかい文章。たとえば以下のような文体があちこちにある。

 

ううむ。破滅的失敗の起こる余地など微塵もない、すばらしいアイディアではないか。
これは皮肉です。念のため。
さあ、いっちょやったるで。

 
 たぶん、原文もこんな雰囲気なのを上手く翻訳してあるんだろう。スラングを使いまくった、読者に語りかけるような文体なんだと思う。SF小説には柔らかい文体のものが時々あるけれども、『火星の人』は自分の知るなかでは一番柔らかいレベル。めちゃくちゃ読みやすい。
 
 

  • 現世ではモテなかった人物像。この作品では、オタクはモテなくて女性とかかわりが乏しいものとして記されている。たぶんネタバレにはならないと思うので、主人公・ワトニーのモノローグの一部を紹介する。

 

ぼくは高校時代、ずいぶんダンジョンズ&ドラゴンズをやった。(この植物学者/メカニカル・エンジニアがちょっとオタクの高校生だったとは思わなかったかもしれないが、じつはそうでした。)キャラクターはクレリックで、使える魔法のなかに"水をつくる"というのがあった。最初からずっとアホくさい魔法だと思っていたから、一度も使わなかった。あーあ、いま現実の人生でそれができるなら、なにをさしだしても惜しくはないのに。

 
 ちょっとオタクの高校生。じつはそうでした。だそうです。このほかにも、作中の色々なところにリアルの充実していないオタクとリアルが充実している非-オタクの微妙な温度差を描いている場面があって、この作品が、そういう読者に訴求力のあるつくりになっていることが窺われる。
 
 

  • 主人公以外の人物像もweb小説っぽい。なんというか、主人公の無双を支えるためにすべての人物・組織が描かれる構造になっていて、主人公の無双とは無関係な人物が描かれていない。登場人物のリアリティという点では、これはリアリティの欠けた構図だけれど、主人公の無双を楽しむための作品として最適化されている、とも言える。こういう思い切りの良さもweb小説っぽい。

 
 
 
 
 こうやって挙げた特徴を別々にみると、どれもエンタメな読み物には珍しくないものだし、「こういうのは小説の王道」だと言う人もいるかもしれない。だけどこれらが全部揃っている小説といえば、やっぱりweb小説じゃないだろうか。文体も、登場人物の造型も、無双と絶望のアップダウンも、ことごとくがweb小説じみている。
 
 web小説として読んだ『火星の人』は100点満点中、100点の作品だった。いや、もっと点数をあげたいくらい。ハリウッドで映画化されただけのことはあって、考証良し、テンポ良し、ストーリー良し、ボキャブラリー良し、とにかく面白くて、途中で読むのを中断するのが大変だった。中国のSF小説『三体』もメチャクチャ面白かったけれども、『火星の人』の面白さはそれとはちょっと方向性が違っていて、web小説に慣れている人にこそ最適なSFだと思う。
 
 宇宙モノに抵抗のないweb小説愛好家なら、一度読んで損をすることはないはず。これだけ良くできたweb小説は、そうザラにあるものじゃない。これに匹敵するほど完成度の高いweb小説発の作品をひとつ挙げろ、と言われたら、とりあえず『ソードアートオンライン』の第一期を挙げたくなる。ただジャンルは全く違うから、両者の優劣を比較することはできない。
 
 それにしても、転生して無双する先が異世界ではなく火星というのがアメリカンというか、火星に新天地を夢見る余地があるのはちょっと羨ましく思った。こういう作品は、これからもアメリカや中国の独壇場なんじゃないだろうか。
 
 
 

サンドボックス型ゲームにも似ている

 
 
 でもって、web小説はしばしばゲームっぽいと言われるけれど、ちょうど『火星の人』によく似たゲームを遊んだことがあった。
  
store.steampowered.com
 
 この『アストロニーア』というゲームは、惑星に一人取り残された宇宙飛行士が、手持ちのツールを使って生存環境を整え、惑星を探検し、最終的には惑星脱出ロケットを打ち上げたりするゲームだ。数年前、アーリーアクセス版だった頃に遊んでいたのだけど、当時のバージョンは(ジャガイモ栽培が無いことを除けば)『火星の人』に雰囲気がよく似ていた。
 
 

 
 現行バージョンで始めてみると、やけに火星っぽくない惑星でスタートしたけれども、これはたまたまかもしれない。酸素供給、電力、テザーといったフィーチャーは健在だ。
 
 『火星の人』は、コツコツと居住空間をつくりあげたり食糧栽培ゾーンをつくったりするので、宇宙版『マインクラフト』といった趣も伴っている。たぶん、こういうところもweb小説っぽいと感じる要因のひとつなんだろう。
 
 SFとかweb小説とかお好きな人には鉄板だと思います。外出したくない、籠っていたい日のエンタメとしてお勧めです。
 

火星の人

火星の人

 

*1:『オデッセイ』

1カ月ほどブログを書かなかったら

 
 この1カ月ほど、実はほとんどブログを書いていなかった。
 
 せいぜいきっちりブログを書いたと言えるのは、劇場版『この素晴らしい世界に祝福を!』の感想ぐらいのもの。ほかは作り置きしていた文章をアップロードするタイミングがやってきたからアップロードしたものか、余所様へ文章を寄稿する際に合わせて下書きしておいた、関連記事だった。昨日、久しぶりにブログを書いてみたけれども上手く書けたとは思えない。ある程度の間隔でブログを書かなかったせいか、知識を引用することと文章として完結させることを噛み合わせられなかった。
 
 8月も、ブログを最小限にしていた。要はこの2カ月、忙しかったということだ。本業も忙しく、プライベートもばたばたしていて、調べなければならないこと・考えをまとめなければならないことが山積していた。この2カ月の間で研修医の頃以来の消耗を経験し、寿命が数カ月ほど縮んだと思う。なすべきことのために命を使うのは、恥ずかしいことではなく誇らしいことなので、ここで命のろうそくを燃やしたことは悔むまい。
 
 私にとってブログを書くことは気休めであり、考えを練り直す場であり、誰かに話しかけてみる場でもあった。このうち、考えを練り直すことについては、この2カ月に一年分ぐらいやったので不足していないけれども、気休めとしてのブログ、誰かに話しかけてみる場としてのブログは楽しめなかった。twitterもロクにやれていなかったと思う。そうしたら、ブログもインターネットもSNSも全部が遠いところの出来事のような気がした。そうか現実が忙しくて、インターネットに足しげく通わなくなった人はこんな気持ちになるんだな、と驚いた。
 
 私は研修医の頃もインターネットだけは頻繁に接続して、どこかの誰かとは喋っていたから、こういう境遇は就職してから初めてだった。ブログに慣れ、忙しい時期のためにブログ記事を作り置きできるようになった結果として、こんな空白期間が生じたのは皮肉なことだ。
 
 こんな風にブログを書いてしまうのなら、いっそグーグルアドセンスでも申し込めばいいのかもしれない、とも思った。「ブログはキャッシュであるとともにフローでもあるから最低限の周期ではアップロードはしておかなければならない」などという発想で「作り置きしたブログ記事」をアップロードすること自体、楽しいブログライフから逸脱しているのではないか? と疑問に感じたからだ。これはメランコリ―なブログライフではないか。
 
 ブログを換金するのが上手な諸先輩とは違って、私はそういうの苦手だから、副収入と言える水準には至らないだろうが、ちゃんとブログを楽しめているとは言えないようなら、そのように処断してしまったほうがいいのかもしれない。
 
 なんだか遠いところまで来てしまった、とも思った。此処は、10年前の私が熱望していた何処かだし、5年前の私が推進した何処かでもある。その結果としてブログを書かない1カ月がやって来るのは、やはり悲しいことではある。私はインターネットのどこで、過去のキャッキャウフフとしたブログライフに相当するものを充当すればいいのだろう? それとも私はそういったものを必要としなくなってしまったのだろうか。
 
 たぶん私は次のフェーズを考え、実行しなければならない時期を迎えているんだと思う。三十代の結果としてのブログライフに別れを告げ、五十代の原因としてのブログライフ、それか現在の後継にあたるインターネットライフを見つけなければならなくなっているのだと思う。だから尚更ためらい、隙間時間にこんなことをブログに書いたりしている。いや、ブログってのは(少なくともはてなダイアリーってものは)こんなことを書く自由があったわけか。そういう事を思い出すのに時間がかかるぐらいには、すれてしまったのだなと思う。
 
 
 
 

子ども部屋から少子化を考えてみる

 
90万人割れ、出生率減少を加速させる「子ども部屋おじさん」:日経ビジネス電子版
 
 日経ビジネスに、随分なタイトルの記事がアップロードされていた。内容はリンク先を読んでいただくとして、さしあたり「子ども部屋おじさん」という語彙が生まれるほどには子ども部屋というのは定着したのか、と改めて思った。
 
 
 子ども部屋は最初から世のご家庭のスタンダードだったわけではない。
  

日本の民俗 5 (5) 家の民俗文化誌

日本の民俗 5 (5) 家の民俗文化誌

 
 昭和以前の農村社会の間取りをみると、そこには子ども部屋というスペースが存在しない。家屋はイエのものではあって夫婦や子どものものではなく、そのうえ座敷や客間は地域と繋がりあっていた。そのような家屋しか無かった時代には「子ども部屋おじさん」という語彙は生まれようがなかっただろう。
 
〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

 
 これは日本に限ったことではなく、子どもや夫婦がそれぞれにプライベートな部屋を持つ習慣はヨーロッパ社会でも比較的最近になって生まれたものだ。近世以前までは、夫婦や子どもはもちろん、使用人までもが同じ部屋で、同じベッドで同衾することが当たり前だった。農民のたぐいだけでなく王侯ですらそうだったというから、「子ども部屋」とは後代の発明品だ。
 
「いえ」と「まち」―住居集合の論理 (SD選書 (190))

「いえ」と「まち」―住居集合の論理 (SD選書 (190))

 
 日本に「子ども部屋」が本格的に浸透していった時期は、戦後になってからのことだ。『「いえ」と「まち」 住居集合の論理』で戦後の集合住宅の間取りを確かめると、戦後も間もない段階では、農家に近い間取りの集合住宅がつくられていたことがみてとれる。3LDKなどの現代的な間取りが定着したのは、高度経済成長期以降のことだ。大都市圏でつくられた真新しい住まいで暮らす若夫婦から生まれた世代からが、子ども部屋に馴染んだ世代、と言ってしまって構わないだろう。東京や大阪のニュータウンで1960年代に生まれ育った人なら、子ども部屋を与えられて育った可能性が高い。
 
 
 試みに、アニメに出て来る部屋の間取りを確認してみよう。
 
 『サザエさん』のカツオやワカメは、二人で子ども部屋を持っている。サザエさんとマスオさんとタラちゃんは三人で一部屋。磯野家には一応子ども部屋はあるが、子ども一人に一部屋ではない。
  
ozappa.com
 
 上掲の不動産屋さんのウェブサイトに行くと、磯野家の間取りを確かめることができる。廊下に電話が据え置かれ、家の隅に便所があり、廊下が軒下で外界と接している磯野家の間取りは、現代のマイホームとはかけ離れている。一応、若夫婦の部屋が別になっていて子ども部屋もあるにはあるが、家庭の、ひいては個人のプライベートに最適化しているとは言えない。
 
 
 『ちびまる子ちゃん』のさくら家も参考になる。
 
www.homes.co.jp
 
 不動産屋さんはこういうのが大好きなのか、さくら家の間取りを熱心に考察しているウェブサイトを見つけた。磯野家と同じで、廊下があって子ども部屋もあるけれども、まる子姉妹が別々に部屋を持つには至っていない。
 
 この不動産屋さんのウェブサイトにも記されているように、磯野家やさくら家には「廊下」が存在していて、この「廊下」によってそれぞれの部屋のプライバシーは一応保たれる格好になっている。こうした間取りは中廊下式住宅といって昭和時代に流行したもので、部屋と部屋が襖でじかに接しているそれ以前の住まいに比べればプライバシーに配慮されたものだった。過渡期の間取りといったところだろうか。
 
 
 ちなみに『妖怪ウォッチ』の天野家はどうかというと、こちらは2LDKとのこと。
 
iemaga.jp

 
 三たび不動産屋さんのウェブサイトを参照すると、ここでは子ども部屋が完全にケイタ君一人のものとして独立している。しかし子ども一人に一部屋だとしたら、この2LDKの住まいではこれ以上子どもを育てることはできないし、実際、ケイタ君は一人っ子だ。子ども部屋を一人に一部屋あてがう計算でいくなら、二人の子どもをもうけるには3LDK以上が、三人の子どもをもうけるには4LDK以上が欲しくなる。
  
 

少子化のボトルネックとしての「子ども部屋」

 
 冒頭リンク先は、少子化に関連した話題として子ども部屋と未婚男性を挙げている。が、子ども部屋と少子化を関連付けて語るなら、「個人のプライベートを重視した子育てでは、子どもが増えれば増えるほど部屋が必要になり、とりわけ大都市圏では子どもの数の上限を決定づける」のほうが筋が良いんじゃないかと私は思っている。
 
 さきほど、『妖怪ウォッチ』のケイタ君の家を挙げたが、子ども一人に一部屋を用意する感覚では、2LDKの間取りでは子どもが一人しか育てられない。ケイタ君が弟や妹が欲しいと言っても、それは家屋の間取りからいって不可能だ。とはいえ天野家のご両親が3LDK以上の家屋を用意しようと思えば、それなりの経済力が必要になる。
 
 2LDKや3LDKといった家屋のサイズは、そのまま家族構成の人数を決めてしまう。少なくとも「子ども一人一人に子ども部屋をあてがうべき」という習慣に沿って子育てしようと思うなら、そうだと言える。「子育てにはカネがかかる」とはしばしば言われることだが、それは教育費だけが問題なのでなく、家屋の間取りにしてもそうだ。現代の習慣に従うなら、小さな家屋では現代的な子育ては不可能だから、子どもをたくさん育てたければ大きな家屋を用意しなければならなくなる。地方に住んでいるならともかく、住まいのスペースに汲々としなければならない大都市圏、とりわけ東京で大きな家屋に住むのは簡単ではない。
 
 教育費の高騰だけでなく、「子ども部屋」にかかる経済的コストもネックになっているから、東京に住まう男女が子どもをたくさん育てるのはいかにも難しい。
 「子ども部屋はあってしかるべき」というプライベートに関する習慣さえなくなれば、この限りではないかもしれないが。
 
 

「プライベートな部屋、プライベートな個人生活」の根は深い

 
 
 「個人のプライベートな生活」についての習慣はしかし根深い。
 
 先にも触れたとおり、それは近代以降の西洋社会に始まって、中~上流階級の家庭から庶民の家庭へと広まっていった。子ども部屋の誕生と個人のプライベートな生活の誕生は、おおむね軌を一にしている。
 
 日本で個人のプライベートな生活が持て囃されるようになったのは1980年代あたりからだ。戦後の新しい家屋で育った、まさに子ども部屋を持った都市部の若者から順を追って、個人の生活はプライベート化していった。その最たるものは、1980年代に登場した「オタク」と「新人類」だ。
 
 少なくとも20世紀の段階では、オタクは子ども部屋がなければできないものだった。なぜならSF小説にせよ漫画にせよアニメのLDにせよ、本気で追いかければ追いかけるほど収納スペースが必要になり、誰にも邪魔されずに観賞できる空間が必要になるからだ。たとえば昔の農家の家の家庭環境では、だからオタクはやりようがない。
 
 それ以前の問題として、時間や空間を一人で占有するというプライベートな感覚が、農家の家では生まれにくい。地域共同体での生活、特に農家の生活は時間や空間を他人と共有するのが当たり前だったから、そういう意味ではオタクを生んだのは子ども部屋と言っても過言ではない*1
 
 新人類もまた、消費個人主義の先端を行く人々だった。ワンルームマンションに住み、朝シャンをして、コンビニでスタンドアロンに用を済ませる当時最先端の消費生活は、とりもなおさず個人のプライベートに根差していた。ある意味、ワンルームマンションは子ども部屋の延長線上に位置付けられるインフラと言っても良いかもしれない。地域共同体からはもちろん家族からもセパレートされた、個人のプライベートの内側だけで生活を完結させるためのインフラが、ワンルームマンションだった。
 
 そして新人類たちはオタクをユースカルチャーのヒエラルキーの底辺に位置付けると同時に、非-消費個人主義的な、昔ながらの地域の若者をもダサいと見下したのだった*2
 
 新人類とオタクは1980年代には新しいライフスタイルの具現者だったが、彼らのスタイルは1990年代以降は希釈化されながらも全国に定着化していった。その全部ではないにせよ一因は、子ども部屋の普及にあると思う。全国の団塊世代が郊外のニュータウンにマイホームを構えはじめた時、その新居には子ども部屋があった。子ども部屋を与えられ、自分だけの時間と空間を過ごす習慣を身に付けた団塊ジュニア世代は、オタクや新人類のフォロワーたりえた。時代のトレンドもまた、そのような個人消費主義を望ましいものとして称え続けてきた。
 
 令和時代の私たちは、そうした習慣やカルチャーの流れの延長線上にいて、個人のプライベートな感覚をしっかりと内面化している。そんな私たちがプライベートな感覚を撤回したライフスタイルをやってのけるのは、おそらく簡単ではない。たとえば2LDKの家屋で子どもを3人育てるのは物理的には不可能ではないが、個人のプライベートを守りながらそれをやってのけるのは、やはり不可能だ。個人のプライベートな意識が確立し、それに見合った機能が家屋に求められる習慣のもとでは、子どもの数だけ部屋も必要になる。
 
 

子ども部屋を撤廃できるものか

 
 戦前から戦後にかけて、私たちの家屋は大きく変わり、個人のプライベートな感覚もすっかり定着した。このことを踏まえて考えると、子ども部屋もまた、これはこれで子どもの数を制約する一要素と考えたくなるし、子ども部屋と少子化を関連づけて考える余地はあるように思う。
 
 では、私たちは子ども部屋やプライベートな個人生活を捨てることができるものだろうか。
 
 子ども部屋は、私たちの個人としてのプライベートな意識や生活を象徴するとともに、それと不可分な関係にある。
 
 個人のプライベート化が近現代の先進国にほぼ共通してみられた流れだけに、それらを本当に捨てられるものなのか、私にはちょっとわからない。
 
 

文明化の過程・上 〈改装版〉: ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

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*1:このことに加えて、たとえば放課後の塾通いのような個人のスケジュール化によっても個人化は促されるが、それはまた別の機会に。

*2:補足すると、子ども部屋がなければオタクも新人類も、サブカルもやれない。他方、1970年代以前の不良や1980年代以降のヤンキーは、子ども部屋がなくてもやれなくはない。