シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

自由で平和な日本の脱ー社会的作品『お兄ちゃんはおしまい!』

かつて、アニメやゲームは大人のカルチャーではなく子どものカルチャーであり、メジャーではなくマイナーなカルチャーでもあった。
 
それが今や、明るく正しい青少年も楽しむカルチャーとみなされ、「大人のためのアニメ」「大人のためのゲーム」といった言葉も飛び交ったりしている。おめでとう! しかしそのせいか、アニメやゲームはマジョリティの言葉で記され、マジョリティのための内容でなければならないと思う人も増えてきた。残念! しかし捨てる神あれば拾う神あり。思うに、『お兄ちゃんはおしまい!』はそんな作品だ。
 

 
『お兄ちゃんはおしまい!』は、ダメヒッキーニートなお兄ちゃんであるまひろが、妹のみはりが作った怪しい薬によって女体化し、女子中学生として新生活とアイデンティティを獲得していく物語だ。こう書くと、荒唐無稽な設定の主人公が更生していく物語と聞こえるかもしれない。が、全体としてはやはり荒唐無稽なアニメだ。
 
明るすぎ、それでいて慣れてくるとクセになる色彩、性転換にまつわる制度上の仔細を省く作風、等々がこの作品のリアリティの水準があまり高くないことを示唆している。そもそも第一話冒頭のみはりのセリフからして、
 

「お兄ちゃん、ひとつ、いいことを教えてあげる。女の子の快感ってね、男子の百倍すごいんだって。もし、今のお兄ちゃんがそんなの急に体験しちゃったら、ショックで頭がこわれてパーになっちゃうからね。」 『お兄ちゃんはおしまい!』より

といった調子なのだから、リアル路線で眺めるものではあるまい。
 
そうしたわけで、まひろが女の子になった後の「女の子ってこんなに大変なんだぞ」という学びも、生真面目に受け取っていいのか迷うところである。生理の驚き。髪のメンテナンスに膨大な時間がかかる気づき。女子が集まった時の姦しさ。これらは女性について無知な男性視聴者を啓蒙する光だろうか? それとも無知な男性視聴者に空想上の女の子の空想上のリアリティを提供し、作品世界に耽溺するよう促すためのフックだろうか? 私には後者に見えてならない。リアルな女性像を視聴者に啓蒙するものではなく、ボードリヤールが語ったところのシミュラークルやシミュレーションとしての生理・髪のメンテナンス・姦しさ。都合の良いハイパーリアルとしての『お兄ちゃんはおしまい!』。あー女の子も大変なんだなーという enjoyable な把握。女体化したお兄ちゃん、ヤバい妹、ギャル、そういった属性を持ったキャラクターたちから東浩紀『動物化するポストモダン』でいうデータベース消費を思い出す人もなかにはいるかもしれない。
 

 
で、こうした特徴を挙げて私はこの作品を批判したいのか?
 
とんでもない! 逆だ。
 
ここまで書いてきたことはすべて、この作品の長所だと思っている。リアルな問題がとぐろを巻き、現実的な問題が噴出し、何かの役に立つこと・何かに値することが大切だといわれる今の世の中に、この作品は逆行してみせている。原作者やアニメ制作陣の思惑はわからないが、結果としてこの作品は反ー社会的な、いや、脱ー社会的な作品になっていると思う。それだけが取り柄なわけでもない。2023年の優れたアニメ作品としてできあがっていることが素晴らしいし、まひろとみはりの掛け合いをはじめ、会話はしばしば気が利いている。女体化したお兄ちゃん、ヤバい妹、ギャルといった属性は目立つにせよ、その属性に頼り切ったキャラクター造形ではなく、登場人物たちは作り込まれていて丁寧だ。
 
いや本当にいい作品なんだ『お兄ちゃんはおしまい!』は。
これを見て憤慨する人がいるに違いないとしても。
 
 

2023年の世界の都合というものを無視し、中指を立てているかのようだ

 
そもそも「ダメヒッキーニートが女体化する」というモチーフじたい、なんとも古めかしい。主題歌が往年のエロゲソング的である点も含め、本作品のモチーフ自体は2010年代風、いや、2000年代風とさえいえる。
 
ところが本作品は2023年のアニメ制作陣によってつくられている。現代の技術で磨き抜かれた「萌え」アニメがここにある! 本作の美質のひとつはこの点で、単なるアナクロニズムには留まっていない。いにしえのテーマ、いにしえの「萌え」を現代の技術で作り込むとこうなるわけか!
 
そのうえ本作品は案外ギリギリのボールを投げてくる。つまり第二話では生理が登場し、第三話で失禁が登場し、さらに失禁が繰り返される。その筋の人にはたまらないだろう。ちなみにAmazon primeのレーティングはノンレーティングだったり7歳以上だったり13歳以上だったりまちまちだが、これって見る人が見たら絶対に「けしからんアニメ」だよね……。
 
そういったわけで、この作品はたいへんに脱ー社会的で、脱ー規範的である。ここでいう脱ー社会的とは、社会秩序に公然と逆らうものでないが社会からの要請、たとえば男性のジェンダー的規範から退却するさまを楽園風に描くような、そういうものだ。アメリカでつくられたゲームがしばしば反-社会的な内容を含むのに対し、日本でつくられたゲームはしばしば脱ー社会的な内容を含んでいる。その延長線で考えると『お兄ちゃんはおしまい!』はすぐれて脱ー社会的な作品だ。中国当局などはこの作品を絶対に妙齢の男子に見せたがらないだろうし、欧米諸国のマジョリティも、この作品をクソミソにけなすに違いない。たぶん、いかなる社会においても、本作品を一生懸命に視聴する男性オタクは良い風にみられないだろう。でも、そういう男性オタクのための作品がこうして丁寧につくられているのって素晴らしいことだ。ああ、自由な日本社会!
 
2023年現在、世界は再び髭の生えた男たちのパワーゲームの舞台になりつつある。そうしたなか、この、社会的には何の役にも立たず、2023年の世界の都合というものも弁えず、いにしえの男性オタクのプレジャーをまっすぐ求道している『お兄ちゃんはおしまい!』がオンエアーされているのだ。 (社会的には)クソだな! (カルチャーとしては)最高だな! 欧米のポリティカル・コレクトネスの枠組みから考えても、この作品は逸脱や異端とみなされるだろう。こうした作品がちゃんと作られている日本社会の現状と、こうしたアニメをこうしたクオリティでみせてくれる制作陣に感謝したい。
 
『お兄ちゃんはおしまい!』のような作品がこれからも楽しめることを私は望むが、未来がどうなるのかとても心配だ。同じく心配な人は、焚書の対象にならないうちにご視聴を。
 
たぶんだけど、世界の都合は本作品を排斥する言葉をこれから増やしていくと想像され、本作品を弁護する言葉をいよいよ失っていくだろうとも想像される。このような作品がつくられ流通している日本はとても自由で平和な国で、この状況は財産といえるものだったと今の私は思う。してみれば、平和だった日本の守るべき自由な表現とはこのようなものではなかったかとも思うし、2023年現在、その自由は一応保たれている。このような社会が乱世において持続可能とは信じにくいが、戦前の日本文化の豊かさとして、忘れずに記憶しておきたい。
 
 

「遊び」がもたらしてくれる曖昧なものと、それを許さない残り時間と

 
今日は、いぬじんさん(id:inujin さん)への返信という体裁で自分が書きたいことが湧いてきたので書きます。書きなぐりなので、「ですます」調はここだけなのであしからず。
 
最短で最小の労力で確実に最大の成果を得なければいけない時代に、求められていること。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
バカバカしい!!オレはいまあそぶぞ!!! - 犬だって言いたいことがあるのだ。
 
いぬじんさんのおっしゃる「遊び」を私は失おうとしている。
 
「遊び」は後背地だった。「仕事」や「生活」のフロントラインのはるか後方に位置していて、やるかやられるかのドンパチとは無関係に自分何かをもたらしている諸活動。それは、00年代の私においては進化生物学だったりゲームだったり精神分析だったりブログだったりした。うまく言えないんだけど、豊かだったと思うし、それで翌朝眠い目をこする羽目になったりもしたものだった。
 
思うに、「遊び」って私たち人間にとってのディープラーニングな何かだと思う。ゲームやアニメやライトノベルの話でいうと、ストレートに通人ぶろうと思って名作巡りとかしているのは「遊び」っぽくない。「遊び」というからには、そういうゆとりのない、コスパやタイパを意識した営みは違うだろう。「遊び」っていうからには遊びがなければそれっぽくない。
 
実際、ゲーム*1をわかるということ・アニメをわかるということは、大作志向・傑作志向にとどまらない、もっとすそ野の広いところまで寝転びながら楽しむようなものでないと「遊び」っぽくないし、そこから吸収されるエッセンスも偏ってしまうんじゃないかと思う。いまどきは、どんなジャンルでもコンテンツやプロダクツが溢れすぎているため、全部を巡ることは不可能となっているから一定の選別・選好は必要だし、ジャンルの歴史全体を語るのに最適なパースペクティブに愛好家がたどり着くのはとても難しくなっている。だからといって、ジャンル全体を見渡そうとか、通人ぶろうとか、そういう(古い俗語で恐縮だけど)キョロ充的な志向性とコスパ・タイパ志向が結びついた結果として得られるものは、貧困でしかないと思う。「遊び」にその人ならではのオリジナリティ、その人ならではの年輪が反映されきらないとも思う。だめだめ、そんなのは「遊び」とは言えないよね。
 
だから「遊び」たるもの、その人ならではのオリジナリティや来歴がそのままその人のアイデンティティやパーソナリティと接続したものでなきゃ嘘だと私は思う。そういう「遊び」にはディープラーニング性も伴っていて、くっだらないアニメを見ることや三流のゲームを遊んでみることは、傑作アニメの視聴や超一流のゲームのプレイを支えると確信している。
 
ワイン趣味だってそうだ。ワインは、安物をひたすら飲んでいるだけでは高級どころの凄さが理解しにくいジャンルだ。それでも安物や裾物のワインを飲む経験が、高級ワインや一級や特級と名付けられたワインを理解する助けにもなっている。標高何千メートルの高峰の高きをわかるためには、標高数百メートルの間近な山の低さ、気安さをも知らなければならない。
 
で、そうやって趣味のあれこれを知ったり、趣味をとおして色んな人と出会ったりするうちに「遊び」が自分自身に何かをもたらす。何をもたらすかはわからないけれども、とにかく、それが自分の不可欠な一部になって自分というものができあがっていく。いろいろな領域のえらい人が「『遊び』が大事、『遊び』が芸のこやしになるんだよ」という時の「遊び」には、この化学変化が暗に期待されているはずで、でも、暗に期待されてはいても「遊び」である以上、エビデンスに基づいたエクソサイズとは違って「遊び」がもたらす結果には幅があり、センスが問われるところだろう。そして若者は「遊び」をとおして試行錯誤し、どうあれ成長し、とはいえそのなかの1割か2割ぐらいの人は「遊び」をとおして身上を潰したりセンスが壊滅的だったりしたのだろうな、とも思う。
 
そうして振り返ると、いまどきは「遊び」って難しそうだ。
第一に社会全体として。
第二に私自身として。
 
社会全体として難しいとは、「人生のコスパやタイパがまことしやかに語られる今日日において、そんなセンスに左右されやすくエビデンスのない、結果のよくわからないものにリソースを割いていられるのか?」 ということだ。国も個人もカツカツで、思想のうえでも効率至上主義っぽくなっている現代社会において、効果も期待値も定かではない「遊び」なるディープラーニングをやっていられる暇は一体誰に・どこまであるんだろうか。
 
たとえば大学生などを見ていても、いまどきの大学生は忙しくなっているようにみえる。90年代において、大学生は「遊び」をやるに好都合な膨大な時間を持ち、金銭的にも今の大学生より多くの仕送り額をもらって、社会風潮としても大学生とはそういうものだと理解されていた。そんな調子だったから当時の学生は不揃いで、成長も不確かで、現代の学生のほうが粒ぞろいで成長が確かのだと思う。
 
このことが示すように、「遊び」をとおした成長はバラつく。エビデンシャルじゃない。コスパやタイパにも劣り、遠回りだ。いまどきの若い人がいまどきの膨大なコンテンツと選択肢の大海で戦略的に成長しようと思ったら、「遊び」は「遊び」ではいられず、プラクティスになったり履修対象になったりする気がする。シラバス的な「遊び」。ウゲー。そんなわけあるか。今の若者にだって「遊び」をやっている人はいるはずだ。でも「遊び」を成り立たせ、かつ、それを成長と結びつけるための与件は厳しかろうとは思うし、コスパやタイパといった時代精神に抗してそれをやるにはポリシーが必要だろう。
 
まして、その「遊び」をとおして戦略的成長を推し進めるサラブレッドと互角に戦えるものなのか、よくわからない。で、こうした問題の全景が若者にだって可視化されているだろうなという予感も加わって尚更きつい。
 
それと私自身の「遊び」の困難性について。
私が「遊び」が困難になったといった時、その中身はふたつある。ひとつは、過去に私の「遊び」だったものたちが私の仕事や生活のフロントラインの最前線に出張ってきて、「遊び」なのか「仕事」なのか区別がだんだんつきにくくなってきたこと。
 


 
上掲ツイートにもあるように、私は自分自身の活動に「遊び」の内容がフィードバックされていて、いわば芸のこやしになってきたと自覚している。精神医学の知識だけが現在の私を支えているわけでない。2010年代まで私の「遊び」だったブログやゲームやアニメやワインが私の諸活動を支えていると感じているわけだ。一般に、それはめでたいことだと思うけれど、結果として従来「遊び」であったそれらが「仕事」や「生活」寄りの活動になってしまった感も否めない。「遊び」としての命脈を絶たれるほどではないけれども、「遊び」に夾雑物が混じりこんでしまった。まあ私は雑食動物で夾雑物には慣れているので、それでも何とか遊びとおせるとは思うのだけど。
 
もうひとつは私の人生の残り時間が少なくなってきて、コスパやタイパを意識せずにはいられなくなってしまったことだ。私は四十代の後半に差し掛かっていて、これは、自分が心技体がいちばんいい状態でアウトプットができる時期の後半だと思っている。なかには六十代になってから開花する人もいるのだろうけど、私はそういうのは当てにしない。ワインだって飲んでるし、当直業務だってやっているし。
 
だから生物学的にはとっくに盛りを過ぎている私に残された時間は少ないと見積もったほうが無難だろう。中年老いやすく芸成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。じゃ、遊んでいる暇なんてないでしょう? 自分がくずれ落ちていく前にやるしかない。
 
こうして私は、今の手持ち戦力と、その手持ち戦力を支えるためのコスパやタイパを意識したインプットをとおして「仕事」や「生活」をやっている。残り時間が少ないと考えるなら最適かもしれない一方で、「遊び」をとおしたディープラーニングの効果を軽視し、人格や人生の余剰エリアを切り詰めるような選択で、ぶっちゃけ、貧しいことをやってるなと思う。そうは言っても、限られた時間のなかで脳内から出たがっているものを無事に出そうと思った時、あてどなく遊ぶのと目的志向でインプットするの、どちらがニーズを解決する手段として信頼できそうかといったら、後者になってしまう。
 
そうだ「遊び」は可能性で、例えるなら山に伏せてあるカードを引いてくる行為なのだった。対してタイパやコスパを意識した直線的なインプットは、手持ちのカードを強化するような行為だ。向こう5年だけ考えるなら「遊び」を切り詰めたほうがアウトプットの効率は高くなるだが、向こう20年まで考えるなら「遊び」を維持したほうがアウトプットの効率は高くなりそうだ。で、私は20年先、ひょっとしたら10年先には自分がアウトプットできなくなっていると想定しているわけか。悲しいことを書いているな。けれども今は20年先を考えず、今できるすべてのことをやってみたい。
 
これを書き始めた時、私は若い時分に自分を育ててくれた「遊び」の重要性と、それが困難になってしまったわが身を比較して嘆いちゃおうと思っていたのだけど、ここまで書いてみて、いや、私はいいんだ、これでいくんだなという気持ちになってきた。「遊び」のすり減ったアラフィフに私はなっていく。目の前の「仕事」や「生活」をやっていく。それは悲しいことだし自分自身の可能性を毀損している気がしなくもないけれども、今の私は走ってみたい気持ちが勝っているので、走ってみる。もし倒れるなら、前に向かって倒れたいものだ。
 
[追記]:4年前にも、結局似たことをいぬじんさんに返信していたのを思い出した。私は同じ場所をまだぐるぐるしているのかもしれない。
 
それでも私は、「いま」を越えて海王星に辿り着きたい - シロクマの屑籠
 

*1:ここではコンピュータゲームを念頭に置いている。為念。

もうスポーツ選手や動画配信者は"野良犬のヒーロー"ではない

 


 
WBCが開催され、大谷翔平選手が出場していたりする中、上掲のようなツイートを見かけた。いや、本当に。スポーツ選手は品行方正になり、長く活躍する選手はフィジカルやメンタルの管理に余念がなく、「遊び」にうつつを抜かしているようにはみえない。発言、という点でもそうだろう。舌禍は一流選手にあってはならない。「口は悪いが腕は良い」などということが、今日日、どこまであり得るだろうか。
 
過去を振り返ってみれば、スポーツはもっと行儀の悪いもので「遊び」を多々含むものだった。昭和時代にあった、プロ野球選手の賭博問題、それも当時一流とみなされた選手たちによるスキャンダルなど思い出す。平成時代になってからも、一流とみなされたプロ選手が「遊び」で身を持ち崩すようにみえる姿がみられた。それらは選手とチームに悪影響を及ぼし、選手生命にも影響する。
  
アラン・コルバン監修『身体の歴史 II』によれば、特に近代以降、スポーツはより安全に・より行儀良く・よりデータ重視のものに変わってきたという。
 
かつてのスポーツは怪我をしやすい荒っぽいもので、馬上試合などはそのきわみだった。馬上試合に勝てばモテるし声望もあがる。が、競技とはいえ命を落とす可能性もある。馬上試合は早くに廃れたが、近代以前の他のスポーツももっと野蛮で野良臭く、今日のスポーツの定義に一致するものではなかった。今日でもスポーツに事故や死亡が伴うことはあるが、近代以前はその比ではない。
 
そのうえスポーツの周辺には騒動や問題がついてまわった。試合には賭け事や喧嘩、抗争が伴うもので、それが当たり前だった。BBCのニュースで「インドネシアのサッカー場では暴力行為が珍しくない]」と報じるものがあり、現代の私たちからみれば異様だが、過去のスポーツの試合とはそういう騒乱を伴いがちなものだったのだろう。
 
そんな、野蛮で危険で無秩序なスポーツ(の前身)がクリーンかつ安全にになっていく。近代のブルジョワ階級にとってのスポーツは、自己研鑽の過程であり肉体的・精神的卓越の証でもある。フェアネスが重んじられるようになる。「均整のとれた身体こそ美しい」という価値基準が台頭し、スポーツは生産性の高い人間をつくる手段ともなる。計測、という方法論をとおしてスポーツとその選手は科学的にもなった。スポーツ選手は管理されなければならず、作り替えられなければならない。
 
大谷選手やイチロー選手は、そうした、スポーツのクリーン化と科学化、管理化の最も成功した例なのだろうと思う。クリーンで、フェアで、記録や成績に最適化されたかたちで自分自身を作り込んでいく、その身体性と精神性。モニタリングやマネジメントに親和的であること。いまどきのトップスター選手には、そうしたものが必須なのだろう。IoT化をとおしてそうした技術は加速し、選手の身体は、いや、生活や行動までもが管理や自己改造の対象になっていく。
 

……最新のプロスポーツの世界では、AIとデータの世界に最適化しているカラダを改造させるというところまで進んでいる。
『ポスト・スポーツの時代』という本によると、米国のメジャーリーグでは高性能なレーダーで打球や投球、選手の動きなどを追尾して分析するシステムが普及している。これによって「フライボール革命」というものが球界を席巻しているという。
 同書が紹介しているのが、フライを打ち上げることがより高い確率で得点につながる可能性があるというデータによる新しい打撃理論である。その数値も明確になっており、打球速度が時速158km以上で、打球角度が26度から30度の範囲に打ち出されると、8割以上の確率で被っとになるという。……ヒットになるフライを打ち上げるのには、最低でも打球速度が158km必要だという。この速度を実現するためにはスイングの速度が時速約128km必要で、そのスイングのために必要な打者の体格は、脂肪を除いた体重で約65kg。かりに体脂肪率が15%だとすると、体重約75kgでこの打球が可能になる。
『Web3とメタバースは人間を自由にするか』より

未来を論じる『Web3とメタバースは人間を自由にするか』のなかで、佐々木俊尚はこのようにスポーツの未来を紹介したが、実際、今後ますますスポーツ選手はモニタリングやマネジメントをとおして作り替えられていくだろう。それでより強い選手となり、より長く活躍できる選手となり、より長くチームに貢献しより興業に貢献し、当人自身も社会的・経済的に成功する、というわけだ。
 
それらをストイックに突き詰めた時、「遊び」が選手の生活のうちにどれだけ残されるのだろう? そもそも「遊び」を求めたくなる精神性じたいが選手として欠格とみなされる未来がみえてくるし、もう、そうなっているのではないかとも疑う。プロスポーツ選手なるものが、ノイズなく、ぬかりなく、いつも記録や成績を追究しなければならないとしたら、それを可能とする精神性を持った人間こそ、鍛えられるべきサラブレッドだろう。プロスポーツ選手としてチームや世間に応えるうえでも、選手自身が最大の成功をおさめるうえでも、人間はサラブレッド化しなければならず、そのサラブレッド化はエビデンスと科学と資本主義の道理にかなったものでなければならない。
 
荒くれもののスポーツ選手・貧乏からたたき上げたスポーツ選手といった過去のテンプレは、きっと時代遅れだ。実際、スポーツ選手の卵たちを見ていると、えらくお金をかけながらトレーニングしているなと思わずにいられなくなる。
 


 
子どもが草野球や野良サッカーをやっていられる場所は令和の日本社会にはもうない。スポーツ少年たちは小さい頃からお金を払ってトレーニングを受け、モニタリングやマネジメントに馴染んでいく。科学的なエクソサイズによく馴染み、トレーナーによく訓練され、よく改造され得ることも才能のひとつだ。スポーツ選手はもう"野良犬のヒーロー"ではない。トレーナーによく訓練され得る"サラブレッドの星"と比喩すべきヒーローだ。
 
 

動画配信者も私たちも、そうして馴致されていく

 
似たようなことを、動画配信者として成功しているヒカキンにも思う。
 

 
ヒカキンはたくさんの美質を連想させる人物だ。動画づくりにストイックで、動画配信者人生に人生や生活を捧げたかのようにみえる。あちこちの動画配信者やVチューバ―がスキャンダルを起こしているのをよそに、品行方正をおおむね保っている。
 
動画配信者として長く活躍するにあたって、ヒカキンのストイックさは美質で、期待されるものだ。そうした性質はファンを喜ばせる動画を作り続けるだけでなく、取引先などに迷惑をかけないという点でも優れていて、いわばヒカキンの商品価値は高い。
 
逆に、登録者数や再生数の多い動画配信者でも、「遊び」にうつつをぬかしている人はアウトプットの先行きがわからないし、品行方正でない人はスキャンダルをとおして取引先やファンに迷惑をかけるかもしれない。生産性の先行きや信頼性の面で、そういう人は商品価値が低い。
 
プロスポーツ選手でも動画配信者でも小説家でもなんでもいいが、商品価値について考えるなら、まっすぐ商品価値を高めるようつとめられるのが良くて、「遊び」にうつつをぬかさないのが良くて、品行方正で信頼に足りることが良いことになる。SNSでの発言などもきっとそうだろう。プロスポーツ選手や動画配信者がSNSを適切に用いているか、不適切に用いているかは商品価値に直結する。
 
さて、そうしたうえで、もっとありふれた職業に就いている私たち自身を振り返ってみた時、プロスポーツ選手や動画配信者をどこまで他人事とみなせるものだろうか。
 
資本主義社会で労働力を売って賃金を獲得する私たちは、契約し労働力を売るという点においてやはり商品である。日本社会ではそう言い切れるほど労働力の流動性は高まっていない気もするが、とはいえ「労働力はいらんかえー」と売るにあたって私たちはやはり商品だし、履歴書や面接時の振る舞いをとおして、ときには過去のSNSの履歴などをとおして、商品価値が推し量られるのも事実だ。
 
そういう商品価値を問われる社会とは別段新しいものではないし、長く成功する人はストイックな継続能力や品行方正さを伴っているものではある。けれども実態としての労働者はもっと自堕落で、もっと「遊び」を含んでいて、子育てを含め、業務以外のことにも時間や労力をかけながら生きていた。ところが社会の生産性が高まると同時に誰もがクオリティ高く、私たち自身に期待される商品価値も高まっていくにつれて、私たち自身ももっとストイックにならねばならず、もっと「遊び」に流されず、もっと業務に資する生活をしていくよう期待されるようになっている。健康管理などもそうだろう。健康管理は個人の寿命の問題であると同時に、資本財としての私たちの商品価値にかかわる問題でもある。
 
そうした意識や実践の向上をみた時、私は、私たちの生がいわば大谷選手化、ヒカキン化しているとも感じる。私たちは商品価値を向上させ、あるいは維持させるためのモニタリングやマネジメントやトレーニングに馴致されなければならない。そうして誰もが馴致されるのが当たり前になれば、馴致されないことが問題点となり、逸脱となり、障害となるだろう。社会が進歩し、スポーツも発展し、私たちがいよいよ隅から隅まで商品化され科学化されデータ化されていく一連の流れのなかで、人間らしく生きるとは、人間らしく活躍するとはどういうことなのか立ち止まって考えてみる。私は「それって人間かよ、まるで生産されるサラブレッドみたいじゃないか」という思いがする。その比喩でいうなら、大谷選手やヒカキンは最高に活躍したサラブレッドだ。
 
幾分の皮肉を込めて言えば、私たちにはサラブレッドと違っている部分もある。活躍しなかったサラブレッドは食肉になるというが、今のところ私たちは食肉になることはないからだ。もうひとつ、サラブレッドと違っている部分がある──私たちには勤勉の倫理や資本主義的な価値観を内面化していくという、人間らしい機能もある。人間には意志や超自我があって凄いですね。大谷選手やヒカキンのストイシズムは、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に記された新教徒のストイシズムにも似ている。新教からキリスト教くささを取り除いた、キリスト教的というより資本主義的な倫理や価値観への信仰をも問われている点でも、私たちはサラブレッドたちとは違っている。
 
そうしてずっと働いて、ずっと管理されて訓練されて、ずっと活躍していれば、天国に辿りつけるのだろうか? しかして資本主義は、その問いに答えてはくれそうにない。
  
 

自分の物語でなく、東京という物語を生きることの功罪

 
「東京をやっていこうとしている」人たちの一喜一憂 | Books&Apps
 
昨日、books&appsさんに「東京をやっていこうとしている」人たちについての文章を寄稿した。「東京をやっていく」という表現は不自然かもだが、東京のイメージに沿って生きようとしている人、東京からイメージされるライフスタイルを追いかける人ってのは実際存在している。そうした人たちを「東京をやっていこうとしている」人たちと呼ぶのはそんなに的外れでもないだろう。
 
と同時に、「東京をやっていこうとしている」こと自体は悪いことではない、はずだ。
 
リンク先でも書いたように、東京をやっていこうとしていること自体はプラスにもマイナスにも働き得る。ツイッターでぶんぶん唸り声をあげているタワマン文学的・東京カレンダー的文章に感化されると、つい、それが執着無間地獄への片道切符のようにみえるかもしれないが、タワマンに住む人が皆そうなるわけでも、上京する人が皆そうなるわけでもない。東京をやっていこうとしていて、まんざらでもない人生を歩む人もそれなりいる。
 
ただ、そういう人はツイッターでぶんぶん唸り声をあげているような、いわばタワマンの上層階を見上げて首が痛くなってしまうようなライフスタイルと自意識を持っていないだけのことだ。
 
もちろん東京という街は、住まいもファッションもホビーもなにもかもヒエラルキーづける・差異化づけられる街で、ぎょろぎょろと見ている人は見ているだろう。しかしこれだって程度問題だ。タワマンの上層階を見上げて心が頚椎症のようになってしまう人もいれば、ときどき意識して、ほんのり羨ましいと思って、でもその程度で済んでしまう人もいる。羨ましいと意識にのぼることがほとんどない人だっているだろう。
 
ファッションや趣味についてもそうだ。東京では、ヒエラルキーや差異化の視点でみるなら、上を見ても下を見てもきりがない。そうしたなか、首がもげそうなほど他人を見上げたり見下したりしていれば、どうあれ、まともな精神でいられるとは思えない。
 
実のところ、本当に肝心なのは「東京をやっていこうとしている」か否かではない。その、上を見ても下を見てもきりがない環境のなかで、タワマンの上層を見上げたり下層を見下げたりして心の頚椎症になってしまうようなメンタリティ、あるいはそれに関連した自分自身のありようこそ、肝心なのだろう。
 
 

自分の物語が見えてこない状態

 
では、心の頚椎症になってしまうメンタリティと、それに関連した自分自身のありようとはどういったものか。
 
一言にまとめるなら、「自分の人生を生きているのでなく、『東京』という物語を生きている人」という表現になるだろうか。もとより、これで言い切れたわけではない。けれども「東京をやっていこうとしている」人が執着無間地獄に落ちてしまうストーリーに触れる時、自分の人生を生きているというより、東京という物語を生きようとしていたり、東京という物語に生かされようとしていたりするさまを連想せずにいられなくなる。
 
ここでもう一度、『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』から引用してみよう。
 

 

 多少お金があると、人は文化と子育てにお金を使うようになるんです。僕にはそれがセットで来ました。お絵描き教室に通わされたり、市民ホールで興味のない歌舞伎を観させられたり、わざわざ車を出して隣の県の美術館に連れて行かれたり。特に母は、僕が美大にでも進むことを期待しているようでした。
 うつくしいものを注がれ、うつくしくないものは取り去られました。けろけろけろっぴのマグカップ。みんなと同じイオンのランドセル。仮面ライダーの変身ベルト。欲しかったけど買ってもらえなかったものたち。母は僕の持ち物だけでなく、まだ子どもで、友達と同じものばかり欲しがる僕の感性も完全にコントロールしようとしていました。
『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』所収、「うつくしい家」より

 
この短編集の短編それぞれの主人公たちは、「東京をやっていこうとしている」という言葉があてはまるだけではない。彼/彼女らは東京という物語を生きようとし、それが上手くいっていない。そして自分の物語を生きているという感覚がどこか薄い。
 
引用の人物などは、当人の人生に親の願いが覆いかぶさり、それが人生に染みついていてとれなくなっている。しかし同短編集で描かれているのは親の願いばかりではない。生まれた土地や継承した遺伝的形質、そういったものも自分の人生を生きることを困難にしているようにみえる。それとも、自分にはないものを持った他者を羨むあの目線。誰かをロールモデルとし、そのロールモデルに沿った価値観を内面化すること自体は構わない。しかし自分が幸福になれっこないような誰かをロールモデルとし、そのロールモデルを羨望したり嫉視したりして生きるのはいったい誰のための人生なのだろう。
 
そうしたわけで『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』には、自分の物語を生きている主人公がいないようにもみえる。主人公たちは、他人のことをよく見ていて、他人を見上げたり見下したりしている。自分自身のことも冷ややかに見ている……ようにみえるが、実際のところ、この登場人物たちは自分自身が本当に欲しいものがなんなのか、目星がつけられていないようにもみえる。「東京」をやっていく能力や背景が足りなかったのが表向きの躓きにみえて、実のところ、自分の物語、自分の執着についてこの人たちは把握できていないのではないだろうか。その結果として、東京という物語に人生を乗っ取られたマリオネットのように欲しがり、行動してしまう。
 
他人をじろじろ見るばかりで、「東京」という物語に人生を乗っ取られたかのような人物は、現実にも案外存在する。もちろん『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』の登場人物たちほど甚だしいことは稀だが、自分の物語がみえなくなって東京という物語に乗っ取られたような、それか東京という物語に依存しているような状況は珍しくない。そうした人々のすがる東京という物語にもさまざまなバリエーションがある。港区だけがその舞台なわけでもない。中央線沿線、小田急沿線でもそれは起こり得る。
 
 

自分の物語をどうやって確保すればいいのか

 
人間は社会的生物だから、ある程度までは社会や世間の物語を、他人の物語を生きてみたってかまわない、と私は思う。タワマンに夢を託したり、東京ならではの活動にアイデンティティの置きどころを見出したりするのも人生だ。それで自分の人生の物語を上手につくっている人などごまんといる。
 
しかし自分の物語ががらんどうのまま、東京という大きすぎる物語を生きる時、人という器は壊れてしまいやすいのだろうとも私は思う。人によっては「人という器が先に壊れていたのでしかない」と指摘するだろうし、そういう事例もあるだろうけど、皆が皆、そうというわけでもあるまい。なぜなら大学進学や就職あたりまでの時期は、自分の物語が自分でもわからなくなりやすく、社会や世間や他人の物語をレンタルせずにいられない時期でもあるからだ。
 
もし、そうした多感で曖昧な時期を東京で過ごすとして、東京の物語のマリオネットにならないためには何が必要なのだろう?
 
強いエゴパワーがあればいいのかもしれない。自分がどう生きたいのか見えていたらいいのかもしれない。もっと間近で尊敬に値する人生のロールモデルとの縁があればいいのかもしれない。それとも友達関係こそ、東京という物語を直視しすぎないために必要な秘訣だろうか。
 
わからない。
しかし間違いなく言えるのは、東京というあまりにも大きい街の、あまりにも大きすぎる物語に真正面から対峙するのはなかなか大変だということだ。東京という物語に過剰適応し、自分という物語を見失ってはならない。東京という物語に飲み込まれないまま東京に住んでいる人たちにとって、それは呼吸するのと同じぐらい簡単なことと思えるかもしれない。が、そうでない人にはまったく難しいことなのだろう。
 

命を管理する社会の行きつく先として『PLAN75』を見た

 
疲れ切った身体でブログを書こうとしている。約17年前、ブログを書き始めた頃には何時間でもキーボードを打てたが、当時の私はもういない。午後9時には休みたいと主張するこの身体には老の影が忍び寄っている。しかし70代80代ともなればこんなものではないはずだ。それでも生きている高齢者は実はとてもすごいと思う。現在の私より疲れやすい身体と神経で生きているのもすごいし、現在の私より疲れにくい身体と神経で生きているのもすごい。長く生き、老いても生きることの途方も無さ。そうしたことを思っている折、映画『PLAN75』がアマゾンプライムに来ているのを発見して見てしまった──。
 
 
 

PLAN75

PLAN75

  • 倍賞千恵子
Amazon
 
『PLAN75』は、75歳を迎えた高齢者が自分で生死を決定できる制度が国会で可決された近未来? を描いた作品だ。作品世界では"プラン75"という高齢者が自主的に安楽死を選べる制度を巡って、いくつかの物語が展開される。ドキュメンタリーっぽいというべきか、上品な作品というべきか、登場人物たちが露骨な感情を示したり、劇的な展開が待っていたりはしない。くっきりとした結末が示されることも、ゴリゴリと主義主張が押し付けられることもない。題材から言って当然かもだが、エンタメとしてこの作品を観ようとしても大きな成果は得られないだろう。
 
また、SFというわけでもない。日本で高齢者の安楽死が制度化されるとしたら今から10年以上先、そうですね、就職氷河期世代に自主的安楽死を勧める20年ほど先ではないかと私なら推測する。その間に技術がそれなり進むはずで、それは自動運転車のかたちをとったりIoT化した高齢者介護のかたちをとったりしていそうである。また、その頃の日本には外国人就労者や移民はめっきり減っているかもしれない。このような制度ができあがり、運用され続けているほどの未来なら、高齢者に対する若年世代の態度も、道徳も、死生観も、現代のソレとは必ずズレているはずで、現代の視聴者がドン引きするようなことや、非常識と思うような考えが定着しているはずである。たとえば現代社会に比べて、人はもっと長生きしようとあくせくしてなくて、今日では長寿の邪魔になるとして忌避されがちな諸々をもっと楽しんでいそうなものである。死というものに対する感性だって変わっているのではないか? そうしたわけで、『PLAN75』をSFとして視聴するのもたぶんあまり面白くない。
 
では、どう見れば面白いのか。逆にこれは、現代社会の価値観のもとで高齢者安楽死が起こったらというifを覗き見る作品で、その覗き見をとおして現代社会を振り返り、私たちの心のなかに根を広げようとしている『PLAN75』的な着想をかえりみる、そういう作品じゃないかと思った。
 
あるいは、生き届いた医療と福祉の制度がほんのちょっとだけ発展したら、案外、人の死はこのように変わっていくかもしれませんよと心配しておくのに良い作品なのかもしれない。
 
『PLAN75』の世界では、高齢者は不安や失業の心配を抱え、生にしがみついているという肩身の狭さを感じながら生きているよう描かれている。さしあたり働ける高齢者・自立した高齢者はなおも生き続けられるのだろう。けれども高齢者の健診の会場には"プラン75"ののぼり旗が並び、待合室では"プラン75"を勧める映像が流され続けている。高齢者のなかには制度に反抗する者もいるが、反抗は個別の小さな怒りの発露に過ぎず、デモやストライキや暴動を起こすようなものではない。現代の日本人と同じく、おそらくデモやストライキや暴動は本作品の世界の高齢者たちは起こしようがなくなっているのだろう。登場人物のなかには自殺する高齢者の姿もあった。"プラン75"によらない自殺である以上、本作品世界でも自殺は制度からの逸脱なのだろう。が、死にゆく人にとってそれはどれぐらい重要なことなのか。
 
"プラン75"は高齢者の自主性に基づいた安楽死制度ということになっているし、その説明をする職員たちは丁寧で、手続きも正当なものとして描かれている。しかし制度が正当なものとはいえ、その制度が高齢者に自死を勧めているようにみえるし、この世界の高齢者たちはどうにも肩身の狭い思いをしている。"プラン75"関連の仕事をしている役人たちの真横では、人が横たわれないよう、ベンチを改造している様子も映されていた。『PLAN75』の世界(と私たちの社会)において環境管理型権力や(ミシェル・フーコーでいう)生権力が働いているさまの直喩だと思いたくなる。"プラン75"が高齢者の自由意志を尊重しているとはいっても、高齢者たちの自由意志はアーキテクチャや制度によって囲い込まれていて、それらの強い影響下に晒され、マイルドで優しげではあってもコントロールの対象になっていると私は連想した。と同時に、そのマイルドで優しげなコントロールは独裁者の強権によるのでない。民意を反映した、ボトムアップな出自を持ったコントロールなのだろう。ここにはわかりやすい悪役の独裁者はいない。
 
しいて悪役っぽいかもと思えたのは、"プラン75"を進めている役場の、課長か部長とおぼしき人だ。この人自身、高齢者なのに高齢者に安楽死をすすめる制度を仕切っているさまは、高齢者に自主的な安楽死をすすめる制度ができあがるとしたら、それらを仕切るのも高齢者だろうということを私に連想させた。が、この人はこの人で制度の蚊帳の内側の小市民的役人に過ぎない。もちろん、この小市民的役人をも凡庸な悪と言ってしまうことは可能だ。
 
高齢者に"プラン75"を提供する若者たちも、到底、これを悪役ということはできない。少なくとも本作品において、若い世代が悪役然として描かれている感じはしない。準主人公のようにみえる若い男性やコールセンターの女性も、"プラン75"に直面した時には大きく動揺していた。自主的な死とはいえ、人をその方向に導くこと・付き合うことは簡単ではない。もちろん、自主的な死がスプレッドシート上の数字でしかないなら人間はいくらでも酷薄になれるだろう。しかし自主的な死に向かっていく高齢者と知り合い、知り合ったうえでプラン75のような安楽死制度に付き添っていくならそうはいかない。コールセンターの女性のやっていることは重労働だった。感情労働というべきか、良心労働というべきか。あのような仕事を長く続けるとしたら、心を堅く閉ざすか、心を鬼にするか、どうあれ素のままではいられない。
 
制度によって正当化されているといっても、人を死へと導くのはとても苦しく、容易なことではないと本作品は示している。実際、そうなのだろうとも思う。しかし制度ができあがる時にはできあがるものだし、その制度も含め、社会というのは顕名の悪役不在で変わっていくことも多い。現場も変わっていく。そして変わっていく社会や現場の前では、個別の人間のひとつひとつの思いはいつも木端微塵だ。
 
 

十分ありえる社会だし、正しく現代社会の向こう側ではないか

 
人間世界では、自ら死ぬことを自殺と呼び、これを忌避してきた。人間は、もともと自ら死ねるようにはできていないし、産卵後の鮭のように特定の年齢で速やかに死んでいくようにもできていない。人間が生きたいと願い生きようとしてきた従来のありようは生物としては自然だったし、人間を取り巻く環境はよくも悪くも人間を中途で殺してきた。
 
私たちは忘れてしまっている──生きるとは、いつでもどこでも死の可能性と背中合わせだったはずだ。今日では出産のリスクが突出して大きくみえるが、かつては子ども時代だってリスクだったし、青年時代だってリスクだったし、職場で働くのも、盛り場で飲むのもリスクだった。そういった大抵のリスクが管理の対象となった結果、出産のリスクが飛びぬけて大きくみえるようになったに過ぎない。長寿は、祝われるに値するほどめでたい出来事だった。人は、長寿がめでたいぐらいにはよく死ぬ存在で、死と隣り合わせに生きていたはずだった。
 
ところが、そうしたリスクの大半が管理の対象となり、命が長くなった結果として人は自動的に長寿にたどり着くようになった。なかには長寿に辿りつかない人もいるが、そのような人は異常だとか、早死にだとか、不幸だとかみなされるようになっている。これは人類史のなかは特異な現象だが、ともかく、命を管理してやまない現代社会とその制度や行政機構が、その命の管理の行きつく先として死=命のゴールにまで管理の手を伸ばしてくるという未来予想は、私にはとても想像しやすい。その道徳的な是非はさておいて、命を管理する、命をより良くあるようにサポートしようとするシステムが、どうしてその命のピリオドだけをほったらかしにしておくものだろうか? もちろん2023年を生きている私には、命のピリオドを社会や制度や行政機構が管理するのはいかがなものか、と思えてならない。だが、命を管理し、命をより良くあるようサポートしてきた機構の向かう先が命のピリオドであることは、自然な帰結であるようにうつる。
 
少なくとも命のスタートを管理するぐらいの社会や制度や行政機構なら、命のピリオドを管理しても不思議ではないはずである。今、そうした事態を防いでいるのは既存の道徳や倫理なのかもしれない。だが道徳や倫理とは川底の砂のように流れていくものである。川底の砂が、一分一秒では何も変わっていないようにみえても、長い目でみれば砂が流れ、川底の地形も変わっていくのと同じく、道徳や倫理は変わっていくものだ。そうこうするうちに私たちの社会だって"プラン75"を忌避しない、というより"プラン75"こそが道徳的で倫理的であるとみなす社会に変質している可能性もあるやもしれない。
 
こうした、社会や制度や行政機構が(あるいは民意が)命の管理を推し進めた結果としてついに命のピリオドにまで管理の手を伸ばしていく未来を想像するには、『PLAN75』は良い作品だと思う。是非視聴してみて、自分ならどんな事を感じ、どう考えるのか試してみて欲しい。そういう視聴態度で向き合う場合、本作品の押しつけがましくなく控えめな作風は好都合だ。きっとこの作品を作った人たちは、本作品をとおして何かを主張する以上に、本作品をとおして視聴者が考えたり感じたりする便宜をはかってくれているのだろう、と私は思うことにした。長生きが難しくて必死に生きなければならなかった生物から、自動的に長生きする生物に変わった私たちの未来について、いろいろ考えさせてくれる作品だと思う。興味を抱いた人は是非視聴を。
 
※ところで、現実に比べて本作品には明確にやさしいところがある。これからも膨らみ続ける社会保障費といったカネの問題、やがて1000万人を突破しようとしている認知症老人の将来推計の問題といった灰色の数字は、この作品ではそこまでクローズアップされていない。もし、灰色の数字を前面に打ち立てていたとしたら、本作品は2023年の私たちには耐えられない作風になってしまっていたかもしれない。