シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「あいつらの梅仕事は自由趣味、おれらの梅仕事は必要趣味」

 
 
梅仕事、梅干しを漬けたりする作業って、世田谷区に住むお金持ちがやったら卓越性ディスプレイになる「自由趣味」だけど、田舎に住む人間がやる場合は生活に密着した「必要趣味」になるんですよね。表向きは同じ梅干しをつける・梅酒をつくるという行為や楽しみでも、誰がやるか、どうやるかによって意味合いはぜんぜん違ってきます。
 
なお、この話は6月25日に私が書いた「ていねいな暮らしという規範」と、階級・階層の問題」というブログ文章についてはてなブックマークのなかに、梅仕事に言及している人が思いのほかたくさんいたことを意識しながら書きました。
 
 

梅干しを漬ける理由は立場によって違う

 
人はなぜ、梅仕事をするのでしょうか?
その表向きの答えは、「梅酒や梅干しなどを食するため」となるでしょう*1
 
私が子どもだった昭和時代の田舎では、6月になるとどこの家庭でも梅干しを漬けたし、梅の収穫を手伝ったりもしました。私は梅干しが苦手だったので積極的には食べませんでしたが、梅干しのための収穫、梅干しをつくるイベントはけっこう楽しみにしていました。でも、大人にとって梅干しを漬ける意味は違ったと思うんです。もちろん、それはそれでささやかな楽しみのひとつではあったでしょう。でも、梅干しを漬ければ梅干しをわざわざ買わなくて済むし、お金を浮かせることもできます。貧乏な家でもアクセス可能なささやかなおかずの足しとして、梅と梅干しというアイテムが望まれていたと理解すべきものでしょうし、それは生活習慣や地域の常識にも根ざしたものでした。同じことは、長野県における野沢菜漬けや山菜採りにも言えます*2
 
でも、昨今の「ていねいな暮らし」の一環として梅干しを漬けるのはそうじゃないですよね。
世田谷区や港区に住んでいるお金持ちの人にとって、6月に梅干しを漬けるのはやってもやらなくても本当は構わないことです。本当においしい梅干しが食べたいだけなら、成城石井あたりに行って来ればよろしい。単に梅干しが必要なだけなら、イオンやまいばすけっとに行って来れば済むんですよ。都内の年収の高いご家庭にとって、最も経済的で生産的な選択は、梅仕事をすることではありません。もっとたくさん働いて給与所得や事業所得や配当所得を増やし、そのお金で梅干しを買うことです。
 
ですから「ていねいな暮らし」としての梅仕事には「やってもやらなくてもいい」がゆえに「能動的・主体的」な部分があります。わざわざそんなことをしなくったって生活に差し支えないし、むしろ、やらないほうが楽でコスパやタイパもいいはずなのに、それをわざわざやっている一面があります。田舎の貧乏な家がささやかなおかずの足しとして梅干しを漬けるのとは、ぜんぜん意味合いが違っていると言わざるを得ません。
 
 

ブルデューはそれを、(カントのいう)自由趣味、ひいては支配階級の趣味と呼ぶだろう

 

生活の必要性に迫られてつくる昭和の田舎者の梅干しと、「ていねいな暮らし」の一環として能動的・主体的につくる令和の都会者の梅干し。
 
これらは全く意味の異なった行為で、後者はカントの述べる自由趣味や純粋趣味にあたると思います。この分野に詳しい社会学者のブルデューなら、たぶんそう言います。
 

 
"必要性にたいする、またそのなかに閉じこめられた人々にたいする客観的な距離は、見せびらかすことによって自由を倍加するような意図的な距離設定をともなう。必要性への客観的な距離が大きくなるにつれて、生活様式はますますウェーバーが「生活の様式化」と呼んでいるもの、すなわちワインなどの製造年代やチーズの選択、田舎の別荘の室内装飾といった、ありとあらゆる慣習行動を方向づけ組織だててゆく一貫した方針の産物に、なってゆくのである。必要性を克服し支配する力の肯定であるこの意味での生活様式は、無償の贅沢やこれ見よがしの浪費に見られるところの、こまごまとしたことがらをこうして軽視する態度を是認できない人々、そしてそれゆえに日常的利害や差し迫った必要に支配されている人々、そんな人々にたいして正当な優越性をもちたいというもくろみ[プレタンシオン]をつねに含んでいる。このような自由趣味goût de la libertéは、必要性から生じたがゆえに美学の次元へと向かおうとする、したがって通俗的なものとして形成された必要趣味goût de nécessitéとの比較において、はじめて自由趣味として現れることができるものなのだ。"
ブルデュー『ディスタンクシオン I』P99 より抜粋

必要性を克服し、支配する力の肯定。
 
 
自由趣味としての梅干しに漬けついて言えば、それはイオンやまいばすけっとで購入しなければならない必要性を克服していること、それだけのゆとりがあるという卓越性のディスプレイとして機能します。やってもやらなくても構わないことをやってのけられること、コスパやタイパに汲々とすることなく「ていねいな暮らし」なるものに邁進するってのは確かにひとつの力に違いありません。イオンやまいばすけっとで梅干しを買うしかない人、もう少し背伸びして成城石井で梅干しを買えるぐらいの人の「生活にとらわれている」感をよそに、本当はやってもやらなくても構わないことに心血を注ぎ、「ていねいな暮らし」の一環として梅干しを漬ける。ブルデューの『ディスタンクシオン』においては、こうした趣味生活は支配階級のよくするもの、特に文化貴族がよくするものとみなされていました。そのうえでブルデューは、それがカントが『判断力批判』のなかで自由趣味とか純粋趣味と呼んでいるものと対応していることを指摘しています。
 
対照的に、私たちの田舎でこの時期に行われた梅干しづくりは、そうしないと梅干しにアクセスできないからだったり、そうすれば梅干し代を節約できることに根差しています。それで、店売りに比べて劣った梅干しを漬けている家もあったりする。信州の野沢菜づくりもそうだと思います。野沢菜漬けは「やってもやらなくてもいい」ことではなく、「やらなきゃ冬が越せない」ようなことでした。これは、カントを引用したブルデューの分類でいえば必要趣味とか野蛮趣味に属するものと指摘されるでしょう。
 
もちろん、「ていねいな暮らし」を実現すれば成城石井や三越で売られている梅干しよりもずっとおいしい梅干しが入手できると心の底から信じている都会人の場合、梅干しを漬けるという行為にもなんらか必要趣味的な側面があると理論上は強弁できるでしょう。「わたしのつくった世界でいちばんおいしい梅干しを食べるには、わたしみずから梅干しを漬けるしかない」、みたいな。でも、生産性の論理やノウハウの蓄積といったことを踏まえるなら、都会人が「ていねいな暮らし」と称して梅干しを漬け、それで成城石井や三越で売られている梅干しを味やクオリティで凌駕するなんて考えられません。おいしい梅干しを入手したいだけなら、駅前まで出かけたほうがタイパはもちろん、コスパもずっと良いのです。なんなら紀州から特上品をネット通販したって構わないでしょう。
 
都会人はタイパやコスパに敏感至極な人々ですから、当然そのことをほとんどの人が知っているはず。知ったうえでわざわざやっているってことは、これは自由趣味にあたり、その梅干しをつくるという営みの動機や目的や効果は(必要に迫られて梅干しをつくっていた田舎者のそれとは)異なっていますよね?
 
ですから、都会に住んでいる人が語る「梅仕事をしていますから」という言葉のなかにはゆとりや能動性・主体性に関する支配階級仕草があるといえます。そういうことを言ったりやったりする人々が正真正銘の支配階級(ブルジョワや文化貴族)と言えるのかはわかりません。なぜならプチブルはいつだって、ブルジョワの真似事が大好きだからです。とはいえ、「ていねいな暮らし」としての梅干し漬けは、ブルデューの時代なら支配階級が悠々とやってのけたことと共通点は大きいし、それがもたらす社会的効果や心理的効果も似たようなものでしょう。*3
 
 

卓越性のディスプレイは少なくとも自分自身には着実に効く

 
なお、こうした支配階級仕草、自由趣味っぽい卓越性のディスプレイを見た時、周囲の人々がそれを卓越性として実際に認めてくれるのか、逆に反発を感じたりなんとも思わなかったりするのかはケースバイケースでしょう。
 
でも、確実に獲得できるものもあります。それは、「ていねいな暮らし&自由趣味をとおしての卓越性のディスプレイは、他人に対してだけでなく、自分自身に対して有効」ってところです。これはブルデューというよりボードリヤール『消費社会の神話と構造』あたりを思い出しながら言っちゃうことですが……自由趣味的な卓越性のディスプレイに限らず、そのほかの卓越性のディスプレイも含めて、うぬぼれることだけは確実にできるんです。ですから社会的効果が不十分でも心理的効果が得られる目途は立つわけで、「ていねいな暮らし」はけっして無意味でなく、いつも最低限の有意味さを有している、ということはできるでしょう。
  
 

ブルデューはカントに気を許していない

 
あと、これも付け加えておきたいので付け加えておきますが。
 
ブルデューがカントの『判断力批判』をリファレンスしながら自由趣味という言葉を用いる時、ブルデューはカントにまったく気を許していないし、支配階級の自由趣味、たとえば「ていねいな暮らし」的なものを賛美すべきものとして書いているわけでもありません。彼の文章は全方位・全階級に冷たい目線を向けていて、ときに、読む人すべてに喧嘩を売っているようにみえるかもしれません。
 
それでも。
 
それでも ブルデューの『ディスタンクシオン』には、そういう支配階級のありかたや卓越性のディスプレイとしての「ていねいな暮らし」、ひいてはカント的な判断基準に対し、こみあげてくるような怒りが感じられる瞬間が数百ページに一度ぐらいあると、私は感じています。ブルデューは、こうした卓越性のディスプレイにまつわる人間世界の力学やメカニズムを「象徴闘争」という概念でまとめた社会学者ではありますが、そういう力学やメカニズムを手放しで肯定しているようにはまったく思えません。
 
そうした怒りや思いは私も共有しているつもりです。お金持ちが梅干しを漬けたら自由趣味で卓越していて、貧乏人が梅干しを漬けたら必要趣味で野蛮趣味ってのは、構図としては理解できても釈然としないものがあります。でも、どうやら人間社会の文化的側面はそんな風にまわっているみたいなので、私としてはまず勉強を重ねて、もっと理解を深めたいと願っています。田舎からは、以上です。
 
 

*1:ここからは、話を短くまとめるために特に梅干しを漬ける行為を中心にしゃべっていきますね

*2:山菜は「自分の山に生えているんだから、もったいないから取る」って感じです。キノコや自然薯もそう

*3:こうしたブルデューの分析を思い出しながら私が6月25日に書いた「「ていねいな暮らし」には階級・階層の問題がある」という文章につけられた「私は梅仕事を楽しんでいます」的なコメントを読み返すと、まあその、降参するしかありませんね。

「ていねいな暮らしという規範」と、階級・階層の問題

 
 
 
「ていねいな暮らしをしなさい」という社会からの求めがどれぐらいのハードルの高さになるのか、どの程度の重荷になるのかって、ジェンダーの男女差だけでなく、階級・階層によってもかなり違ってくると思うんですよね。
 
 

大昔、「ていねいな暮らし」は誰のもので、誰によってそれは成り立っていたのか

 
以下の話は、おとといブログに書いた話の続きで、さきほどanmin7さんからいただいたご返信への連歌でもあります。たまたま昨夜、関連しそうな書籍を再読していたので、それらを思い出しながら一筆書きしてみます。
 
anmin7さんがおっしゃるように、「ていねいな暮らし」という語彙は手垢がついているし、バズワードめいているし、取り扱いが難しいものではあります。とはいえ、この語彙の対義語や、この語彙にあたらない状態は想起しやすいんですよね。それは「粗雑な暮らし」だったり「無頓着=男らしい」だったり「トキシックマスキュリニシティ」だったりするでしょう。少なくともそれらの生活態度やハビトゥスは「ていねいな暮らし」にはあたりません。
 
ここに「無頓着=男らしい」という言葉が混じっているように、粗雑な暮らしには男性ジェンダーを連想しやすい部分もあります。そこに注目したのがおとといのブログ文章、「
「ていねいな暮らしという規範」に従う以外に道はない - シロクマの屑籠
」でした。とはいえ、実際には昭和時代においてさえ、ていねいな暮らしを享受している男性は存在していました。anmin7さんがご指摘されているように、それは女性や使用人によって支えられたものだったかもしれませんが、少なくともていねいな暮らしを享受している男性、(たぶん)誰かから搾取している男性は前々からいたはずなんです。
 
どんな男性が前々からていねいな暮らしを享受していたのか?
それはブルジョワ階級や文化貴族たち、要は身分の高い連中ですよね。
上~中流階級はかなり早い段階から、それこそデジデリウス・エラスムスが書いた礼儀作法書を読んでいたぐらいの時代から、相対的にていねいな暮らしをし、ていねいな暮らしをリードしてきました。もちろん、ていねいな暮らしの起源をどことみなすのかは議論の対象になるでしょう。それでも、粗雑さや野蛮さを否定し、もっとていねいに・もっと洗練されたどこかへ向かっていち早く離陸し、最初に実践したのは身分の高い連中でした。
 

 
そうした身分の高い連中が、シャツをしっかり着替えたり、香水を使ったり、先んじて入浴の習慣に馴染んだりした時、誰がそのていねいな暮らしを支えていたでしょうか。使用人たちです。ていねいな暮らし、ひいてはブルジョワ的な暮らしとは、当人自身が必死になって実践するものではありませんでした。そういうことは使用人にやらせればよろしい。
 
なんだか古代ギリシア時代に似ていますよね。生活に必要な細々とした技術は奴隷のやるようなことで、市民(当時、市民といえばもちろん男性です)はもっと高邁なことに時間を費やすのがよろしい、みたいな。おっと、話が逸れそうなので古代ギリシアの話はやめにします。
 
ていねいな暮らしの相当部分は、そうしたわけで、わざわざブルジョワ男性がみずからやらなくても良かったんですよね。たぶん、その配偶者もやらなくて良かったでしょう。しかしブルジョワの妻にはていねいな暮らしの実践に該当するような要素がまた別にありました。それは私室です。自分自身の装いを自分自身で整える空間。これもブルジョワ的ですね!
  
『<子供>の誕生』の記載がいちばん馴染みなのでそこを思い出しながら書きますが、私室を持つこと、それ自体がブルジョワたちが先行して実践したことで、私室を持つこと自体もていねいな暮らしに属する事柄だと思います*1。そしてブルジョワ女性たちはいち早く自分自身の装いを自分自身で整える空間にアクセスして、あれこれ始めるわけです。プライバシーの感覚が生まれ、暮らしのうちに使用人たちを立ち入らせない領域が生まれていく。このあたりに関しては、プライバシーの概念も含めて身分の高い女性が先行しやすかったのではないかと思います。
 
 

ていねいではない暮らしを続けていたのは誰だったのか

 
では、ていねいな暮らしを享受できなかった・搾取できなかったのは誰だったでしょうか。
 
使用人を使役できない人々までもがプチブルとなり、夫のていねいな暮らしを妻が支える……みたいな一時代がありました。そういう一時代のなかで、妻が搾取されがちだったり、妻がそれをできなければ文句を言われ、夫がそれをできなくてもたいして文句を言われないみたいな不平等がクローズアップされていく余地は大きかったかと思います。妻の側がていねいな暮らしを夫に提供できても、できなくても、性別による不平等が存在していたわけですから。
 
でも、本当にていねいな暮らしをしていなくて、したいとさえ思っていなかったのは、労働者階級ではないでしょうか。
 

 
昨晩、私は10年ぶりぐらいに『ハマータウンの野郎ども』と『読み書き能力の効用』を読んでいました。どちらもイギリス社会学の名著だと思います。そこに記されている労働者階級の生活は、まさに「ていねいな暮らし」の正反対です。「ていねいな暮らし」を馬鹿にしてすらいる。そうして酒を飲み、タバコをふかし、今この瞬間を思いっきり享受し、先のことは考えず、健康にも無頓着で、早く結婚し、たくさん子どもをもうけ、早く老けていく。ていねいな暮らしとは正反対の生活態度や生活意識のオンパレードです。
 
じゃあ、そのていねいな暮らしの正反対が彼らにとって悪いことづくめかって言ったら、決してそうじゃなかったんですよね。ブルジョワやプチブルとは異なる暮らしぶり、異なるしゃべりかた、異なる意識のおかげで、彼らは彼らの矜持を持つことができたし、彼らの身の丈からはみ出ない幸福を追いかけることもできた。もし、ブルジョワやプチブルの価値観をそっくりそのまま受け入れ、身も心も子分になってしまえば、彼らは単なる下層ということになり、彼ら独自のものを失ってしまったでしょう。
 
でも彼らはブルジョワやプチブルの価値観を生きているわけでなく、彼ら自身の価値観を生きていた。『ハマータウンの野郎ども』や『読み書き能力の効用』からは、そう読み取れます。支配的な階級の目線でみれば、それは「不健康で」「粗雑で」「刹那的な」生き方なのでしょうし、それを馬鹿にする人だっていたでしょう。またブルデューが言っているように、彼らが矜持を持って生きたとて、経済資本や学歴といったものによってつくられた社会のヒエラルキーを全否定することは結局できないのです。彼らはブルジョワやプチブルの価値観を拒否できても、ブルジョワやプチブルによる体制を否定することはできません。
 
また、労働者階級の粗雑な暮らしのなかには、男性ジェンダーの問題も紛れ込んでいます。ここは、おとといの話と接続するところですね。中流階級出身の男の子に比べて、労働者階級出身の男の子は喧嘩に開かれていなければならず、荒事ができなければなりません。そうでなければ、労働者階級出身の男の子の間では(いや、大人同士の間でもですが)矜持や面目を保てないからです。『ハマータウンの野郎ども』には<野郎ども>と<耳穴っ子>という言葉が出てきますが、労働者階級出身の男の子として矜持や面目を保つには<野郎ども>にふさわしい振る舞いが必要で、教師に従順な<耳穴っ子>は軽蔑の対象です。そして<野郎ども>とは男尊女卑的で保守的で旧来の男性ジェンダーにしがみついているような人間、そして甚だ粗雑な暮らしの人間です。
 
じゃあ、そういう人間がモテないかっていったら、たぶんそうじゃないんですよ。労働者階級の男の子のあいだで女性経験に開かれているのは断然<野郎ども>です。断じて<耳穴っ子>ではない。してみれば、労働者階級においては女の子の側も男尊女卑的で保守的な構図を支持、または、加担しているようにみえます。労働者階級の母親たちもそうかもしれません。「なぜ、労働者階級は進歩主義的な考えに開かれていないのか」を考えるうえで、これらの本はヒントをくれるかもしれません。20世紀のイギリスの話ではありますが、20世紀の日本にも相当通じる部分のある内容だと、私はいつも感じています。
 
 

「ていねいな暮らし」のなかで旧労働者階級はどこへ?

 
ところがそんな20世紀は終わってしまいました。
 
2020年代の日本社会で暮らしている人々、特にこのブログを読んでいる人々の大半は、『ハマータウンの野郎ども』などに書いてある労働者階級のハビトゥスや意識を容認できなかったり、「それは価値観の問題でなく不衛生、不健康の問題だ」と正面切って否定したりするのではないかと思います。粗雑な暮らし、ひいては旧来の労働者階級的な価値観や暮らし、矜持といった諸々が支持される領域は狭くなりました。1980年頃の日本社会ではそこそこ容認されていただろう暮らしは、今日では容認されなくなっているし、そうですね、社会はそれほどまでに「アップデート」されたのですよね。
 
社会の「アップデート」に伴い、労働者階級という言葉も時代遅れっぽくなりました。関連して、私は"一億総中流"という懐かしいフレーズを思い出します。"一億総中流"という言葉は、出てきた当時の段階では、経済的な中流意識、あるいはプチブル的上昇志向の意識が日本じゅうに浸透したといった意味だったと思います。でもていねいな暮らしの意識に関しては、"一億総中流"の意識が本当に人口に膾炙したのは21世紀に入ってからだと思うんですよ。たとえば1990年代にはまだ、駅のプラットホームで地べたに座っている若者の姿を頻繁に見かけました。当時のプラットホームは今よりももっと汚かったはずなのに、当時の若者たちはしばしばそのプラットホームに座っていたんです。日本の若者たちがプラットホームに座らなくなったのは(そして座っている外国人を不潔そうに眺めるようになったのは)21世紀に入ってからのことではないでしょうか。
 
昭和時代と比較すれば、だから令和の日本人はずっと清潔でずっとていねいに暮らしていると思われるのです。というより、昭和時代において先行してていねいな暮らしをしていた人々の水準に向かって全体の平均がだいぶシフトした、と言い換えるべきでしょうか。そして旧来の労働者階級の粗雑な暮らしは、労働者階級という言葉ともども忘れられようとしています。
 
階級意識がなくなったっていうと良いことのように思えますが、実際には経済資本や学歴の格差が厳然と残っていて、なんならアンダークラスと呼ばれる新しい問題まで生まれてきている今、それを手放しで喜ぶことは避けたほうが良いと私は思っています。そのうえで、労働者階級という言葉と一緒に労働者階級としての生き方や矜持や面目までもが葬り去られ、代わりに全員がブルジョワやプチブルの価値観を内面化して生きなければならなくなり、ていねいな暮らしまで要求されていることの生きづらい面・不平等な面を思い出さなければならないのではないか、とも思ったりします。
 
だって、ブルジョワやプチブルがていねいな暮らしをするために利用可能なリソースと、つい半世紀前だったら粗雑に生きるしかなかったし粗雑に生きて構わなかった境遇の人々が利用可能なリソースって不平等じゃないですか。経済資本や学歴資本や文化資本などの格差がそのまま温存されているか、むしろ拡大すらしているのに、ブルジョワやプチブルと同じ社会規範を同じように実践するよう求められるって、それって一体誰にとって喜ばしいことなんですか。
 
なるほど、ブルジョワやプチブルと同じぐらいていねいな暮らしを実践したほうが健康的だろうし、衛生的だろうし、「豊か」なのかもしれません。長生きだってできるかもしれませんね。だけど、そうしたていねいな暮らしを実践するのに十分な経済資本や文化資本をあらかじめ持っている人にとってのそれらと、不十分にしか持っていない人のそれらは、負担感がぜんぜん違うと思うのです。健康とか長生きの意味だって違うかもしれない。しかも、ライフスタイルがブルジョワ的・プチブル的なものに同一化すればするほど、もはや対抗文化的なライフスタイルも矜持も面目も持てなくなります。というより、既にほとんど持てなくなっているんじゃないでしょうか。
 
今、わたしたちが「ていねいな暮らし」という大枠でくくっている諸物のなかには、かつてブルジョワやプチブルたちが主導し、なんなら卓越性の誇示のために利用してきたような要素が数多く含まれています。清潔や健康も例外ではありません。整理整頓、疲労のとれやすい寝室にしたってそうです。そりゃあできていたほうがていねいな暮らしと言えるだろうしし生産性も向上するでしょう(資本主義の神様もニッコリ!)。ブルジョワやプチブルとして生まれながらに育てられてきた人は、そうした事々に疑問すら感じないし、そうした事々からの逸脱を見咎めたくなるかもしれない。
 
でも、これってやっぱり「ていねいな暮らしという規範」だと私なら思いますよ。"上"の階級から"下"の階級へと押し付けられ、強制され、できていなければ眉をひそめられて当然とする規範が、またひとつ押し付けられた兆候だと、私は感じています。
 
そういえば先日、あまりていねいに暮らせていない友人が、「もっと清潔に暮らしなさい」とか「もっと自分自身を大事にしなさい」といった目線について「慈悲深い軽蔑」と評していました。軽蔑は言い過ぎだとしても、その慈悲深さのようなもの・その思いやりのようなものの向こう側に私は社会圧を見る思いがしますし、それはどこかが不平等なゲームだなと思います。だって、これって個人の能力とか特性の問題だけじゃなく、性別の問題だけでもなく、所有している資本の問題、ひいてはていねいな暮らしを実践するために一体どれだけ他人を利用できるのか(なんなら搾取できるのか)を巡る不平等をそのまま前提にして進行している「アップデート」じゃないですか。で、ある限り、「ていねいな暮らし」という一事にも規範の問題、社会圧の問題としての側面があると私なら考えます。少なくともそういう一面があることを、今夜は鮮明に思い出したので文章にしてみました。
 
 

*1:同書によれば、その前は男女同衾はもちろん、使用人や子どももみんな同衾みたいな状態だったそうですし。

「ていねいな暮らしという規範」に従う以外に道はない

 
「おれら」って、なんだか雑に生きてきたんですよね。
 
anmin7.hatenadiary.jp
 
上記リンク先の文章を読んで、そういえば、「おれら」って雑に生きてきたなって思い出した。ちなみに上記リンク先は、「男は暮らしに興味がないのか」というはてな匿名ダイアリーの短文を受けてのものだったりする。
 
ここでいう「おれら」とは、だいたい昭和生まれぐらいの男性を意識している。「おれら」は女性の目線で見れば雑に生きてきた。たぶん、平成以後に生まれた世代の男性から見ても雑に生きてきたと思う。リンク先の筆者であるanmin7さんは、男性向けのていねいな暮らしの情報が少ないと述べたうえで、そういうものがあったらいいなと付け加える。それがリンク先の文章のメインテーマなのだと思う。
 
それより私は、もともと男性って粗雑に生きてきたし、粗雑であることが好ましいとされてきたよね、といったことを思い出したくなった。
 
今日の女性はもちろん、昭和時代の女性もていねいな暮らしであるよう求められ、訓練されてきた一面はあったように思う。昭和時代前半の花嫁修業とかあのあたりもたぶんそうだ。ていねいな暮らしに属する生活スキル群は、女性のジェンダー、女性の役割とされてきたものと相当関係が深かったよう記憶している。
 
ていねいな暮らしの生活スキル群が女性のジェンダーに関連しているってことは、それとは正反対の粗雑な暮らしの生活スキル群は男性のジェンダーに関連していたってことだ。
 
「男が汚し、女が洗う」。
 
今すぐ引用元を特定できないのだけど、確か、アナール学派の書籍には、そんな感じのことが書いてあったと思う。男性とは汗や精液でたいてい汚す生き物で、女性はそうじゃない、みたいな話である。そうでなくても男性は子ども時代から泥んこ遊びに興じるもの、チャンバラごっこや草野球で汚れやすいものだった。第二次性徴を過ぎればテストステロン濃度も高まり、統計的にみる限り、男性は喧嘩っ早くなる。「シュツルム・ウント・ドランク」なんて言葉もあったっけ? そういったものは男性の特権でもあり、男性らしさで、女性がそうであることは決してほめられたことではない、少なくとも規範的なこととはみなされなかった。
 
でもって、そういったことと関連して、今日でいうていねいな暮らしに相当する色々は昭和時代においては「女々しい」とされていたと記憶している。「女々しい」という語彙は死語であると同時に、いかにもジェンダー的にインコレクトな響きがあって昭和らしさが漂う。しかし、リンク先でanmin7さんがおっしゃっているように、
 

どういうんだろう、ごく微小なセルフネグレクトをずっと続けている状態に男性はいて、ともするとそれは「無頓着=男らしい」の文化によるものではあって、それこそ持っていくところにもっていけば「トキシックマスキュリニシティ」として唾棄してもらえる。

 
昭和時代に「女々しい」にあたらず、「男らしい」とされていた暮らしは、今日では、微小なセルフネグレクトやトキシックマスキュリニシティと呼ばれるだろう。たとえば「転んで擦りむいたぐらいで大騒ぎするのは男としてどうなんだ」と考えるのが昭和時代の男性として正しく、規範に沿っていただろうが、今日では女性はもちろん、男性もそう考えるほうがたぶん間違っていて、規範から逸脱している。
 
 

ジェンダー的に正しくニュートラルな暮らしとは、どうやら女性ジェンダー寄りらしい

 
そうした昭和時代が終わってから、もうじき40年になろうとしている。今日では老若男女を問わずていねいな暮らしが推奨され、かつての男性ジェンダー的な無頓着さ、汚れてダメージをほったらかしにする感覚は好ましくないもの、ひいては正しくないものになった。
 
逆に言うと、今日において好ましい暮らし、ひいては規範的な暮らしとは、旧来だったら女性ジェンダーと関連付けられていたような、そのような暮らしであるようだ。ジェンダー的束縛からの解放が謳われ、「女らしさ」「男らしさ」が親の仇のように忌み嫌われた行き先は、旧来だったら女性ジェンダーに近いとみなされるであろう暮らし、そして昭和時代の男性がやっていたら「女々しい」と言われていたと推定される暮らしだった。
 
これは面白い現象だと私は思う。男性ジェンダーと女性ジェンダーの打破が試みられた結果、少なくとも暮らしの次元においては女性がこれまで営んできた暮らしに近いものが推奨されているようなのだ。げんに今日の若い男性を眺めていると、少なくとも「おれら」に比べれば随分とていねいな暮らしを身に付けている人が多いようにみえる。スキンケアとかそういう次元でもね。
 

 
こういった、『父と息子のスキンケア』みたいな着想は、それこそ昭和時代の男性のあいだでは異端視されるものだったし、これは女性のよくするものだった。けれどもこのハヤカワ新書の書籍が象徴しているように、いまどきは男性でもスキンケアするほうが多数派になってきているように思う。紫外線対策、にきび対策などもそうだ。今日の若年男性は、そのあたりがかなり念入りに行われているとみえるし、できていなさすぎるなら──たとえばにきびをひどい状態で放置していたら──それこそセルフネグレクト、または保護者のネグレクトの所産とみなされるのではないだろうか。
 
そうして若年男性たちがこぞって(昭和時代の基準でいえば)女性ジェンダー側の暮らしへ、いや、令和的にニュートラルで規範的な暮らしへ移動したことによって、「おれら」は取り残された。私やanmin7さんよりいくらか年上の男性たちのほうが、状況は深刻だったかもしれない。たとえば団塊世代男性なども、彼らなりに「新しい暮らしの正しさ」への適応を迫られ、頑張ってきたと私は記憶している。適応できなかった者は、熟年離婚ほか、たいてい不幸な転帰を辿ったんじゃないかと思う。暮らしにおける正しさを理解できず、履行できない人間は排除されるべきだと、大勢の人が考えているんじゃないだろうか。「ていねいに暮らせない人間が不利益をこうむるなら、それは自己責任である。」──令和の皆さんなら、そう考えるでしょう?
 
そんなことはわかりきっているから、「おれら」とてそうした女性ジェンダー的な暮らしへの矯正を、いや、令和的にニュートラルで規範的な暮らしへの矯正を果たしている、つもりでいる。しかし暮らしの振舞いやハビトゥスはそんなに簡単に矯正できない──ハビトゥスとはそういうものだ。へどもどしながら規範的な暮らしに適応しようとしても、ぼろが出るし、うまくいかないし、ときには「それでていねいに暮らしているつもりか!」なんて声が聞こえてくる気がする。
 

追記:単純に女性に頭を下げて教えを乞え、それはそうの話。細かい生活のtipsはいつもそうしろと配偶者に怒られてる。着替えるのとか。

 
まさにこれだ。
時代遅れの「おれら」がいくらていねいな暮らしを心がけても、劣等生の位置を免れることができない。ちょっとでも手抜かりすれば微小なセルフネグレクトとかトキシックマスキュリニシティとか呼ばれるかもしれず、それらは令和の暮らしとしてあってはならないものだろう。こうした正しさを、健康や清潔といった概念、ときには生産性や功利主義といった概念が後押ししている*1。ウェルビーイングという概念も、きっと正しさを後押しする側だろう。
 
「おれら」はどう暮らせばいいのか。冒頭リンク先のanmin7さんは正しくも、さらなるていねいな暮らしの追求を希求している。私は……ええと……さらなるていねいな暮らしを希求しています。雑に生きることが正しさだったはずの「おれら」が、そうではないどこかへ導かれていこうとしている。それができない男性の運命はどのようなものか? わかるだろう? 規範から逸脱した人間に対する世の風当たりは、いつも厳しい。
 
 

(旧来の)男性のように働き、女性のようにていねいであれ

 
ということは、現代人は私生活の次元では旧来の女性ジェンダーに近い振舞いが、仕事の次元では旧来の男性ジェンダーに近い振舞いが期待されていると言えるかもしれない。
  
それをジェンダーの否定とみるべきか、別の何かの否定とみるべきかはわからない。それとも肯定だろうか? なんにせよ、今日のあるべき暮らしの姿、働き方の姿、ひいては人間の姿は旧来の性役割でみればキメラのような何かで、ひょっとしたら生物学的な性別という観点からみてもキメラのような何かかもしれない──なぜならかつての男性のように喧嘩っ早くあってはいけないし、かつての女性のように妊娠や出産にかかずらわってはいけない……というのが(少子化がここまで進んでいてもなお)実質的な社会規範の正体、ひいては今日の思想が私たちに強いてやまない社会圧の正体であるよう思われるからだ。
 
そこで求められているのは、たぶん20世紀以前の性役割に沿った男性像や女性像ではなく、もちろん生物学的な男性の仕様や女性の仕様でもなく、今日の思想に沿って研磨された、そのような人間像だと思う。そのような人間の研磨の一環として、「おれら」にもていねいな暮らしが期待されている。規範から逸脱した人間に対する世の風当たりはいつも厳しいから、「おれら」はもっと努力しなければならないでしょう。
 
 

*1:こうしたことに功利主義概念を持ち出すのは、少なくともスチュアート・ミルやベンサムらがそれを言い出した頃にはなかった新機軸、または、行き過ぎであるような気が私にはするのだけど

権力論として読む『エレガンス入門』

 

 
『エレガンス入門』という本から私がもらったインスピレーションを、今日はブログに書いてみたい。
 
はじめに、この『エレガンス入門』について短く紹介してみる。
この本は、その名のとおりエレガンスとは何かを解説・解読していく本だ。エレガンスとかエレガントって、ちょっとわかりにくい言葉だと思う。ゴージャスなら「豪華」って言葉が当てはまるだろうしノーブルだったら「高貴」って言葉が当てはまるだろう。でもエレガンスってそれらとはちょっと異なるニュアンスだけど、ちょうど良い日本語がなかなか思い浮かばない。
 
本書は、エレガンスが引き算の美学であること、ちょうど良い居心地や間合いをつくるものであること、時間と実践の積み重ねに裏付けられた深みがあること等々をエレガンスの要素として紹介し、さらに幽玄やわびさびといった日本の美意識にも言及している。エレガンスというちょっとわかりにくい言葉と、その実践について学びたい人には、それらの紹介や解説がきっと役に立つ。タイトルに偽りなし、といったところだ。
 
 

権力のあらわれ、または権力の一変数としてのエレガンス

 
そうやってエレガンスとは何かを読み取るのが本書のメインテーマなのだろうけど、もうひとつ、この本はほとんど一貫してエレガンスについてまわる権力の問題についても物語っている。私自身、人間のコミュニケーションについてまわる権力の授受を学んでいる最中だから、本書が記す、エレガンスをとおして権力を獲得・行使する人や、エレガンスが多数派や体制に動員されるいきさつはとても勉強になった。
 
ここでいう権力とは、大統領や国会議員の権力のような、おおきな権力ではない。人間同士のコミュニケーションにほんの少しプラスの影響をもたらしたり、"まあでも、この人のお話なら聞いてみようかな"って思わせたり、クールだなとか、かっこいいなとか思わせたりする小さな権力だ。影響力、と読み替えていただいても構わないと思う。
 
現代人のコミュニケーションにおいては、誰が誰のいうことに耳を傾けるのか、誰が誰よりも好印象に見えるのかは、狭義の暴力によって決まるわけではない。そうした小さな権力は(見た目も含めた)言動によって大きく左右される。その、言動の様態の最たるものがエレガンスだ。エレガンスの実践は簡単ではないが、やってのけられるなら好印象を生み出したり、ポリシー・哲学・佇まいを明示したりする一助になる。
 
つまりコミュニケーションに資するという観点でみるなら、エレガンスは現代人にとっての武器のひとつたりえる。良い武器を所持すること、良い武器をうまく振り回せること、良い武器をしかるべき場所で行使できることは人間社会において心強いことだ。
 
本書にもあるように、エレガントであろうとするにはさまざまなコストがかかる。ふさわしい衣服を揃えるにはお金も手間暇もかかるし、引き算の演出には認知的コスト、雑な言い換えをすればセンスの良さが求められるだろう。エレガントな空間をつくりだしているホテルのロビーのように、時間の重みが必要な部分もある。それだけに、エレガントを実践し他人に示すことができるとは、「私はそれだけのコストを支払える人間です」という見間違えようのない証拠となる。
 
進化生物学のアナロジーで言えば、エレガンスには、雄クジャクの羽のような効果がある。エレガントであるとは、少なくともそのエレガンスを支えることが可能なぐらいには卓越した人間である、動かぬ証拠になるからだ。
 
しかも、そうしたエレガントによる卓越は(豊臣秀吉の金の茶室などと違って)、誰にでも読み取れる証拠ではない。エレガンスはエレガンスを理解する人間だけを引き寄せつつ、エレガンスを理解できない無粋な人間を近づけさせない斥力のような効果もある。エレガントな人間やエレガントな空間が必ず選別を行っているわけではないが、エレガンスには選別を可能とする機能が含まれている。
 
そうした機能が含まれているものだから、エレガンスは権力に関連したさまざまな事柄とリンクしてきた。この本のなかでも、そうしたエレガンスと国家権力や権力者との結びつきは古代ギリシア時代までさかのぼって紹介されている。私の場合、古代ローマにおけるエレガンスの一例を紹介するくだりがいちばん気に入った。
 

ローマ上級社会では「グラヴィタス(重厚さ)」と「ウルバニタス(都会的洗練)」が理想的人格を形づくりました。兵士としては苛烈な暴力を行使し得る人物が、トーガをまとい、サロンでは節度と機知を示すことによって、「暴力を直接見せなくても、その潜在性が権力の一部を支える」という二重構造が成立します。
(『エレガンス入門』P57から)

エレガンスそのものは、狭義の暴力そのものではない。しかしエレガンスをとおして、その人間がなにほどのものなのか、その人間の背景にどの程度の潜在的なパワーがあるのかがそれとなく(それこそエレガントに!)示される。エレガンスの最も身もふたもない効果は、雄クジャクの羽と同様、その人間とやりあった時にどれぐらいの戦闘力や報復力があるのかを予感・予告させることだ。決闘が禁じられた現代でも、それは大筋として変わらないと思う。狭義の暴力が禁じられたのは確かだが、経済力や認知能力や持久力が高いと想定される相手を軽んじるのは現代社会においても危険であり、迂闊である。俗っぽく言えば、「エレガンス」には、ある種の「相手をなめさせない」力があり、それは力の潜在性によって支えられている。
 
こうした性質を持っているものだから、当然、エレガンスはときの権力者や上流階級のよくするものとなる。暴力が次第に禁じられていく近世以降のヨーロッパ宮廷社会や上流社会では尚更だ。本書のなかでは、私のお気に入り書籍、ノルベルト・エリアス『文明化の過程』もリファレンスされている。
 

 
宮廷でさまざまな身分や立場の人同士が協力しあう作法としての礼儀作法は、国家による暴力の独占が進むなか、ますます洗練されたかたちで貴族やブルジョワ階級が身に付けられていく。その礼儀作法は年を追うごとにアップデートされていくから、その時代最新の礼儀作法を身に付けていることは、卓越性のディスプレイとしても有用だ。とはいえ、さきに挙げたようにエレガンスの実践には経済的コスト、認知的コスト(センスの良さ)、時間的コストが必要だから、それをやってのけるコストを支払える人間にしか実践はできない。ゆえにこそ、エレガンスはまぎれもない卓越性の体現たりえる。
  
わざわざ私がここで卓越性という言葉を使ったのは、もちろん、ブルデューを意識してのことだ。本書もブルデューの『ディスタンクシオン』を参照していて、エレガンスがブルデューの議論でいえば「支配階級のハビトゥス=身体化された文化資本」であること、エレガンスを学び実践することが既存の階級秩序を補強する一面を持っていることに触れている。だからたとえばちょっと昔に流行した、
  
『育ちの良い人だけが知っていること』のような本は、実のところ、「育ちの良さ」を知りたい人がそれをマスターすることに役立つだけでなく、現代の階級秩序を強化すること、すでにこの本に書いてあることがハビトゥスとして身に付いている人をますます利するように働く本なのだろう。そしてヨーロッパ宮廷社会の時代からそうだが、正真正銘、育ちが良い人々はさらにアップデートされた礼儀作法を既にマスターしているものだったりする。そうやってエレガンスは、支配体制に執事のようにかしずくことになる。
 
もちろん、そうでないエレガンスの発露があり得ることを『エレガンス入門』は記している。その代表例がダンディだ。しかしダンディその人がエレガンスをなしえたこと、つまりダンディズムを体現できたのはダンディもまた(少なくともある程度までは)強者側の人間の一人だったからにほかならない。そして現代の資本主義社会において、ある程度強く、ある程度までエレガンスを体現できるような諸力を持った人間がどれだけダンディのように体制に歯向かうことができるのか、これが私にはわからない。
 
私の歪みきったXのタイムラインを思い出せば、現代社会において体制に歯向かうポーズをとるためにエレガンスを体現している人はいなくもない。しかしポーズではなく、本当に体制に歯向かうべくエレガンスを体現する人、それこそダンディやガンジーのように闘争する人を見かけることは少ないように思われる。20世紀初頭の段階では、中央集権国家やグローバル資本主義の拘束力はまだそれほどでもなく、社会には隙間がたっぷりあったから、そうした反抗も可能で有意味だっただろう。だが、2020年代の日本でそれがどのていど可能で有意味なのかも私にはよくわからない。
 
念のため繰り返すが、「体制に歯向かうポーズをとるためにエレガンスを体現する」までならまずまず可能だと思うのだが、そこまでが関の山ではないか? と私は疑っているわけだ。そのような反体制ポーズとしてのエレガンスとて、けっきょく、ぐるりと回って体制にかしずくエレガンス、執事のエレガンスに帰着するのではないだろうか?
 
人はエレガンスに惹かれる。少なくともエレガンスをエレガンスと感じ取れる選別を通過できた人においてはそうだ。だが、そのエレガンスはこうして権力の変数としていつもコミュニケーションのあいだで作用するし、それはしばしば強者が卓越性を示したり、体制や支配階級のツールとして動員されるものでもある。エレガンスは確かに「制御された力」であり「引き算や節制の力」でもあるのだけど、逆に言えば、それは力が存在したうえで、なおかつそれを制御したり引き算したりする知恵があることに支えられているのだから、やはり力こそパワーと私は思ってしまった。コミュニケーションを権力闘争のアリーナと捉えるかぎりにおいて、エレガンスもまた、ひとつの力の体現であろう、と。
 
 

『エレガンス入門』そのものはもっとバランスのとれた本です

 
以上は、私が本書を読んで私の脳内でエコーさせまくったエレガンスと権力についての感想であって、本書の内容とはちょっと違う部分を含んでいるかもしれないことをお断りしておきます。この本は第一に、エレガントに憧れる人やエレガンスという言葉を深堀りしたい人におすすめでしょう。あと、私のようにコミュニケーションのなかでどんな風に権力や影響力が流通するのか興味しんしんの人も、是非、私みたいに脳内でエレガンスと権力についてエコーさせまくってください。思索が深まること請け合いです。
 
 

愛別離苦な悲しい夢を見た

 
最近、命を削って原稿を書き続けているせいか、あまりうまく眠れない。昨日はひどくて午前1時と3時と5時に目が醒めて具合の悪い午前勤務になってしまった。こんなことが続いて日中活動に支障をきたすなら、もはや不眠症だろう。
 
そのせいか、最近はやたらと夢をよく見る。午前1時に目覚めた時の夢は『ヨーロッパユニバーサリス』の新作に取り組んでいる夢で、海南島のあたりに上陸作戦をしようとか夢のなかで考えていた。
 
もうひとつの夢は悲しい夢だった。私がみる夢には、ときどき伴奏のように悲しいや恐怖の感情が伴うことがある。こちらの夢もはじめから悲しさが伴奏として伴っていて、それはもう悲しかった。
 
夢のテーマは「時間の流れ」だと私にはわかっていた。
暗い部屋、目の前には還暦をとっくに過ぎた私の母が背中を丸めて座っていて、私はその肩をなでていた。そうしながら、鬼籍に入って久しい父方/母方それぞれの祖父母の顔を思い出していた。時間は人を容赦なく老化させていき、やがて命は失われ、二度と会えなくなる。母の肩をなでながら祖父母の死を思い出し、やがて、母とも会えない日が来るのだろうと思った瞬間、暗かった部屋の照度がさらに下がった。悲しさの感情的伴奏は、ますます高まっていく。
 
夢のなかで誰かが泣いているような気がした。それは母ではなく、私でもなく、小さな子どもの泣き声だった。やがて暗闇のなかから、私が4歳の時に撮ってもらった写真が登場し、そうか、この泣き声は4歳の時の自分自身で、悲しいのも自分自身なのかと理解した。ところが直後、その写真から別の誰かが飛び出してきた。それは幼児期の頃の私の子どもだった。実は泣いていたのは私の子どもで、それは悲しみによるものとも限らなかったのだ。飛び出してきた幼児期の私の子どもは、しっかりと子どものにおいがして、身体、特に頭がとてもあたたかかった。そうだった、子どもは頭があたたかくなるものだったよな、と覚醒の直前に私はうれしくなったけれども、いざ目が覚めてみれば、残ったのはいつか来る別れの予感と、決して戻れない過去への哀惜ばかりで、いたたまれない気持ちは覆されなかった。
 
私たちはただ真っすぐに年を取り、今、夢中になっていることごともたちまち過去に属していく。生前の祖父母も、幼児期の頃の私の子どもの頭のあたたかさも、夢のなかでしか会えない記憶となってしまった。やがては現在の母も、現在の私自身さえもそうなってしまうのだろう。私は仏教をとおして定命のさだめを自分自身に言い聞かせているつもりだけど、実際にはまったくだめで、こうして喪失と無常を思い出すたびに涙ぐむ。
 
それは執着にほかならない。それも、追いかけても仕方のないタイプの愛別離苦のたぐいだ。頭では理解している。しかし私たちは容赦なく年を取り、別離のブラックホールへと着実に吸い込まれていき、私の悲しみと喪失へのおそれは糊塗しきれない。私たちは人の間で生きなければならないのに、人と別れなければならないようにできている。そのことが、今朝の私にはただただ悲しかった。