「ていねいな暮らしをしなさい」という社会からの求めがどれぐらいのハードルの高さになるのか、どの程度の重荷になるのかって、ジェンダーの男女差だけでなく、階級・階層によってもかなり違ってくると思うんですよね。
大昔、「ていねいな暮らし」は誰のもので、誰によってそれは成り立っていたのか
以下の話は、おとといブログに書いた話の続きで、さきほどanmin7さんからいただいたご返信への連歌でもあります。たまたま昨夜、関連しそうな書籍を再読していたので、それらを思い出しながら一筆書きしてみます。
anmin7さんがおっしゃるように、「ていねいな暮らし」という語彙は手垢がついているし、バズワードめいているし、取り扱いが難しいものではあります。とはいえ、この語彙の対義語や、この語彙にあたらない状態は想起しやすいんですよね。それは「粗雑な暮らし」だったり「無頓着=男らしい」だったり「トキシックマスキュリニシティ」だったりするでしょう。少なくともそれらの生活態度やハビトゥスは「ていねいな暮らし」にはあたりません。
ここに「無頓着=男らしい」という言葉が混じっているように、粗雑な暮らしには男性ジェンダーを連想しやすい部分もあります。そこに注目したのがおとといのブログ文章、「
「ていねいな暮らしという規範」に従う以外に道はない - シロクマの屑籠
」でした。とはいえ、実際には昭和時代においてさえ、ていねいな暮らしを享受している男性は存在していました。anmin7さんがご指摘されているように、それは女性や使用人によって支えられたものだったかもしれませんが、少なくともていねいな暮らしを享受している男性、(たぶん)誰かから搾取している男性は前々からいたはずなんです。
どんな男性が前々からていねいな暮らしを享受していたのか?
それはブルジョワ階級や文化貴族たち、要は身分の高い連中ですよね。
上~中流階級はかなり早い段階から、それこそデジデリウス・エラスムスが書いた礼儀作法書を読んでいたぐらいの時代から、相対的にていねいな暮らしをし、ていねいな暮らしをリードしてきました。もちろん、ていねいな暮らしの起源をどことみなすのかは議論の対象になるでしょう。それでも、粗雑さや野蛮さを否定し、もっとていねいに・もっと洗練されたどこかへ向かっていち早く離陸し、最初に実践したのは身分の高い連中でした。
そうした身分の高い連中が、シャツをしっかり着替えたり、香水を使ったり、先んじて入浴の習慣に馴染んだりした時、誰がそのていねいな暮らしを支えていたでしょうか。使用人たちです。ていねいな暮らし、ひいてはブルジョワ的な暮らしとは、当人自身が必死になって実践するものではありませんでした。そういうことは使用人にやらせればよろしい。
なんだか古代ギリシア時代に似ていますよね。生活に必要な細々とした技術は奴隷のやるようなことで、市民(当時、市民といえばもちろん男性です)はもっと高邁なことに時間を費やすのがよろしい、みたいな。おっと、話が逸れそうなので古代ギリシアの話はやめにします。
ていねいな暮らしの相当部分は、そうしたわけで、わざわざブルジョワ男性がみずからやらなくても良かったんですよね。たぶん、その配偶者もやらなくて良かったでしょう。しかしブルジョワの妻にはていねいな暮らしの実践に該当するような要素がまた別にありました。それは私室です。自分自身の装いを自分自身で整える空間。これもブルジョワ的ですね!
『<子供>の誕生』の記載がいちばん馴染みなのでそこを思い出しながら書きますが、私室を持つこと、それ自体がブルジョワたちが先行して実践したことで、私室を持つこと自体もていねいな暮らしに属する事柄だと思います*1。そしてブルジョワ女性たちはいち早く自分自身の装いを自分自身で整える空間にアクセスして、あれこれ始めるわけです。プライバシーの感覚が生まれ、暮らしのうちに使用人たちを立ち入らせない領域が生まれていく。このあたりに関しては、プライバシーの概念も含めて身分の高い女性が先行しやすかったのではないかと思います。
ていねいではない暮らしを続けていたのは誰だったのか
では、ていねいな暮らしを享受できなかった・搾取できなかったのは誰だったでしょうか。
使用人を使役できない人々までもがプチブルとなり、夫のていねいな暮らしを妻が支える……みたいな一時代がありました。そういう一時代のなかで、妻が搾取されがちだったり、妻がそれをできなければ文句を言われ、夫がそれをできなくてもたいして文句を言われないみたいな不平等がクローズアップされていく余地は大きかったかと思います。妻の側がていねいな暮らしを夫に提供できても、できなくても、性別による不平等が存在していたわけですから。
でも、本当にていねいな暮らしをしていなくて、したいとさえ思っていなかったのは、労働者階級ではないでしょうか。
昨晩、私は10年ぶりぐらいに『ハマータウンの野郎ども』と『読み書き能力の効用』を読んでいました。どちらもイギリス社会学の名著だと思います。そこに記されている労働者階級の生活は、まさに「ていねいな暮らし」の正反対です。「ていねいな暮らし」を馬鹿にしてすらいる。そうして酒を飲み、タバコをふかし、今この瞬間を思いっきり享受し、先のことは考えず、健康にも無頓着で、早く結婚し、たくさん子どもをもうけ、早く老けていく。ていねいな暮らしとは正反対の生活態度や生活意識のオンパレードです。
じゃあ、そのていねいな暮らしの正反対が彼らにとって悪いことづくめかって言ったら、決してそうじゃなかったんですよね。ブルジョワやプチブルとは異なる暮らしぶり、異なるしゃべりかた、異なる意識のおかげで、彼らは彼らの矜持を持つことができたし、彼らの身の丈からはみ出ない幸福を追いかけることもできた。もし、ブルジョワやプチブルの価値観をそっくりそのまま受け入れ、身も心も子分になってしまえば、彼らは単なる下層ということになり、彼ら独自のものを失ってしまったでしょう。
でも彼らはブルジョワやプチブルの価値観を生きているわけでなく、彼ら自身の価値観を生きていた。『ハマータウンの野郎ども』や『読み書き能力の効用』からは、そう読み取れます。支配的な階級の目線でみれば、それは「不健康で」「粗雑で」「刹那的な」生き方なのでしょうし、それを馬鹿にする人だっていたでしょう。またブルデューが言っているように、彼らが矜持を持って生きたとて、経済資本や学歴といったものによってつくられた社会のヒエラルキーを全否定することは結局できないのです。彼らはブルジョワやプチブルの価値観を拒否できても、ブルジョワやプチブルによる体制を否定することはできません。
また、労働者階級の粗雑な暮らしのなかには、男性ジェンダーの問題も紛れ込んでいます。ここは、おとといの話と接続するところですね。中流階級出身の男の子に比べて、労働者階級出身の男の子は喧嘩に開かれていなければならず、荒事ができなければなりません。そうでなければ、労働者階級出身の男の子の間では(いや、大人同士の間でもですが)矜持や面目を保てないからです。『ハマータウンの野郎ども』には<野郎ども>と<耳穴っ子>という言葉が出てきますが、労働者階級出身の男の子として矜持や面目を保つには<野郎ども>にふさわしい振る舞いが必要で、教師に従順な<耳穴っ子>は軽蔑の対象です。そして<野郎ども>とは男尊女卑的で保守的で旧来の男性ジェンダーにしがみついているような人間、そして甚だ粗雑な暮らしの人間です。
じゃあ、そういう人間がモテないかっていったら、たぶんそうじゃないんですよ。労働者階級の男の子のあいだで女性経験に開かれているのは断然<野郎ども>です。断じて<耳穴っ子>ではない。してみれば、労働者階級においては女の子の側も男尊女卑的で保守的な構図を支持、または、加担しているようにみえます。労働者階級の母親たちもそうかもしれません。「なぜ、労働者階級は進歩主義的な考えに開かれていないのか」を考えるうえで、これらの本はヒントをくれるかもしれません。20世紀のイギリスの話ではありますが、20世紀の日本にも相当通じる部分のある内容だと、私はいつも感じています。
「ていねいな暮らし」のなかで旧労働者階級はどこへ?
ところがそんな20世紀は終わってしまいました。
2020年代の日本社会で暮らしている人々、特にこのブログを読んでいる人々の大半は、『ハマータウンの野郎ども』などに書いてある労働者階級のハビトゥスや意識を容認できなかったり、「それは価値観の問題でなく不衛生、不健康の問題だ」と正面切って否定したりするのではないかと思います。粗雑な暮らし、ひいては旧来の労働者階級的な価値観や暮らし、矜持といった諸々が支持される領域は狭くなりました。1980年頃の日本社会ではそこそこ容認されていただろう暮らしは、今日では容認されなくなっているし、そうですね、社会はそれほどまでに「アップデート」されたのですよね。
社会の「アップデート」に伴い、労働者階級という言葉も時代遅れっぽくなりました。関連して、私は"一億総中流"という懐かしいフレーズを思い出します。"一億総中流"という言葉は、出てきた当時の段階では、経済的な中流意識、あるいはプチブル的上昇志向の意識が日本じゅうに浸透したといった意味だったと思います。でもていねいな暮らしの意識に関しては、"一億総中流"の意識が本当に人口に膾炙したのは21世紀に入ってからだと思うんですよ。たとえば1990年代にはまだ、駅のプラットホームで地べたに座っている若者の姿を頻繁に見かけました。当時のプラットホームは今よりももっと汚かったはずなのに、当時の若者たちはしばしばそのプラットホームに座っていたんです。日本の若者たちがプラットホームに座らなくなったのは(そして座っている外国人を不潔そうに眺めるようになったのは)21世紀に入ってからのことではないでしょうか。
昭和時代と比較すれば、だから令和の日本人はずっと清潔でずっとていねいに暮らしていると思われるのです。というより、昭和時代において先行してていねいな暮らしをしていた人々の水準に向かって全体の平均がだいぶシフトした、と言い換えるべきでしょうか。そして旧来の労働者階級の粗雑な暮らしは、労働者階級という言葉ともども忘れられようとしています。
階級意識がなくなったっていうと良いことのように思えますが、実際には経済資本や学歴の格差が厳然と残っていて、なんならアンダークラスと呼ばれる新しい問題まで生まれてきている今、それを手放しで喜ぶことは避けたほうが良いと私は思っています。そのうえで、労働者階級という言葉と一緒に労働者階級としての生き方や矜持や面目までもが葬り去られ、代わりに全員がブルジョワやプチブルの価値観を内面化して生きなければならなくなり、ていねいな暮らしまで要求されていることの生きづらい面・不平等な面を思い出さなければならないのではないか、とも思ったりします。
だって、ブルジョワやプチブルがていねいな暮らしをするために利用可能なリソースと、つい半世紀前だったら粗雑に生きるしかなかったし粗雑に生きて構わなかった境遇の人々が利用可能なリソースって不平等じゃないですか。経済資本や学歴資本や文化資本などの格差がそのまま温存されているか、むしろ拡大すらしているのに、ブルジョワやプチブルと同じ社会規範を同じように実践するよう求められるって、それって一体誰にとって喜ばしいことなんですか。
なるほど、ブルジョワやプチブルと同じぐらいていねいな暮らしを実践したほうが健康的だろうし、衛生的だろうし、「豊か」なのかもしれません。長生きだってできるかもしれませんね。だけど、そうしたていねいな暮らしを実践するのに十分な経済資本や文化資本をあらかじめ持っている人にとってのそれらと、不十分にしか持っていない人のそれらは、負担感がぜんぜん違うと思うのです。健康とか長生きの意味だって違うかもしれない。しかも、ライフスタイルがブルジョワ的・プチブル的なものに同一化すればするほど、もはや対抗文化的なライフスタイルも矜持も面目も持てなくなります。というより、既にほとんど持てなくなっているんじゃないでしょうか。
今、わたしたちが「ていねいな暮らし」という大枠でくくっている諸物のなかには、かつてブルジョワやプチブルたちが主導し、なんなら卓越性の誇示のために利用してきたような要素が数多く含まれています。清潔や健康も例外ではありません。整理整頓、疲労のとれやすい寝室にしたってそうです。そりゃあできていたほうがていねいな暮らしと言えるだろうしし生産性も向上するでしょう(資本主義の神様もニッコリ!)。ブルジョワやプチブルとして生まれながらに育てられてきた人は、そうした事々に疑問すら感じないし、そうした事々からの逸脱を見咎めたくなるかもしれない。
でも、これってやっぱり「ていねいな暮らしという規範」だと私なら思いますよ。"上"の階級から"下"の階級へと押し付けられ、強制され、できていなければ眉をひそめられて当然とする規範が、またひとつ押し付けられた兆候だと、私は感じています。
そういえば先日、あまりていねいに暮らせていない友人が、「もっと清潔に暮らしなさい」とか「もっと自分自身を大事にしなさい」といった目線について「慈悲深い軽蔑」と評していました。軽蔑は言い過ぎだとしても、その慈悲深さのようなもの・その思いやりのようなものの向こう側に私は社会圧を見る思いがしますし、それはどこかが不平等なゲームだなと思います。だって、これって個人の能力とか特性の問題だけじゃなく、性別の問題だけでもなく、所有している資本の問題、ひいてはていねいな暮らしを実践するために一体どれだけ他人を利用できるのか(なんなら搾取できるのか)を巡る不平等をそのまま前提にして進行している「アップデート」じゃないですか。で、ある限り、「ていねいな暮らし」という一事にも規範の問題、社会圧の問題としての側面があると私なら考えます。少なくともそういう一面があることを、今夜は鮮明に思い出したので文章にしてみました。
*1:同書によれば、その前は男女同衾はもちろん、使用人や子どももみんな同衾みたいな状態だったそうですし。










