シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

行き詰った時、ときめきやきらめきを

 
 
緩募:「煮詰まった中年男性」の気分転換の方法 - いつか電池がきれるまで
 
うちのブログにリンクが貼られていることに気付き、どうお返事するのが適切だろう? と数日考えました。 fujiponさんにはfujiponさんの、私には私の中年期があるのだから、私が返事を書くことにどれほどの意味があるのかわかりません。が、それは書く側ではなく読む側が判断すればいいと思い、私が思っていること・やっていることをとおして「行き詰った中年男性」の気分転換について書いてみます。
 
 

ときめきやきらめき……をお勧めする前に

 
fujiponさんの文章を読んだうえで私が言ってみたいことをまとめると、「ときめきやきらめきを追いかけようよ」「ドーパミンのある生活をしようよ」になるのですが、その前に、確認していいんじゃないかと思うことがあるので先に書きます。
 
50代を迎えた頃の私の師匠筋が言っていたことがあります。それは「サプリを飲め」と「ナッツを食べろ」でした。
 

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実際、その先生は医局でもナッツをよくかじっていて、特にアーモンドがお好きでした。サプリメントも、亜鉛ーマルチミネラルーマカ系のものをぐるぐる飲んでいたよう記憶しています。中年期になって不足してくるものを補っているんだ、とのことでした。
 
30代の頃の私はそれを「ふーん」と眺めていたのですが、体力の衰えを感じるようになった40代の中頃に思い出し、真似てみるようになりました。健康を害している人の場合はサプリメントではなく薬が必要になるでしょうけれど、そうでなければ、一種のおまじないとして手ごろではないかと思っています。私の場合、これらをローテート的に飲むようになってから睡眠の質が良くなった気がします。
 
あとはヨガでしょうか。一生懸命にやるほどではないですが、あの、筋肉と呼吸が気持ち良くなるあの感じは捨てがたく思います。プリミティブな気持ち良さ。
 
案外、fujiponさんの「何もやる気が起きないのに、何もしていないことに焦りを感じ、煮詰められていくような感情」の解決に一番近いのは、こうした身体領域のモディフィケーションだったりするのかもしれませんが、本当のところはわかりません。
 
これに限らず、中年~老年にとって健康状態って切実ですよね。私は、健康が至上命題になっていくことに警戒感を持っている人間ですが、健康状態が体験や活動を左右するのも事実。逆に考えると、健康状態が体験や活動に反映されやすいような、そういう年取った人間がどしどし増えているから(日本社会では)健康が至上命題っぽくなっているのでしょうね。大多数がピンピンしている若い国の人々は、健康についてあまり意識しないでしょうから。
 
でも我が身を振り返ると、そうはいっても健康状態をキープしたい・元気をあげていきたいって思いを捨てることはできません。何をやるにも健康がベースになるし、若い頃に比べて、その健康を維持するためのコストはじりじり高まってきているのですから。私自身は無理のない範囲で自分の健康を意識しながら、「ときめきやきらめきの追求」「ドーパミンのある生活」を目指しています。
 
 

それでも世の中は驚きや感動に満ちている

 
ここからが本題です。中年男性に限らず、閉塞感のある日常を変えるのは、驚きや感動や好奇心だと思います。ときめきやきらめき、ドーパミンが出るような体験だとも思います。もし、私が閉塞感のある日常に置かれているとしたら、そのような体験を突破口とみなし、それらを求めにかかるでしょうし、今までもそうやって生きてきたつもりです。
 

40代、花譜さんに出会って人生が変わった - orangestarの雑記
 
そして、今年の8月、その花譜さんのライブに行きました。先にも書いた通り、日本武道館でした。初めてのライブでしたが、花譜さんの主なファン層は10代~20代。そういう中に行くなんて…、と逡巡していたのですが、そういう自分を嫁が背中を押してくれました。いい嫁です。ありがとう。そしてライブに行ったのですが、本当に素晴らしかった。人生初の体験でした。

そうはいっても自分はやっぱり魔法にかかりにくい人間なので、おそらく本当にライブを楽しめる人ほど楽しめては無いのですが、作り手や観測者(花譜さんのファンのことをこう言うのです)が頑張って魔法を作ろうとしてるのを感じていたら自分も魔法を使えるようになりました。
構成もすごく良かったです。
始めてライブに行って思ったのは、スクリーンで見るのと違って、そこに生身の肉体があり、そして其れから伝わる圧力というものが凄く重要なのだと思いました。やはり生身の人間がそこにいるというのは強い。
スクリーンに映された絵、だというのは頭ではわかっているのに、でも、確かにいるんですよ。そこに。

 
小島アジコさんがお書きになった突破口もそうですね。感動した、良いものを見た、何かに気付いた、そういった体験をとおして中年期がリブートする。
 
こちらでいぬじんさんが挙げてらっしゃる「おしゃべり」や「違う仕事をする」にも近いニュアンスがあるよう思われます。
 
たぶん、私もそうだと思うのです。
これまでの人生を振り返ってみても、何か行き詰ったと感じた時には違うことをやるようにして、違った場所、違った人、違った活動に手を染めてみるようにしてきました。そうやって、人生の風景の風通しを良くしたり、飽き性な自分の閉塞感を打ち破ったりする。そうしたことのなかには、過去、私たちブロガーやテキストサイトの人間がやってきたことも含まれていたはずだと思います。たとえばブログを初めて書いた時。ツイッターのアカウントを初めて動かした時。
 
若い時って、勢いや好奇心に任せて何か違ったことをして、そこでときめきやきらめきを獲得する(悩みも獲得するのですが……)のはそれほど難しくなく、無意識のうちにやれていたよう記憶しています。でも、年を取ってからはそうもいきません。なかには50代になっても勢いや好奇心に任せて色々挑戦できる人もいるんでしょうけど、私はそうではありませんでした。だから、行き詰ってきたな・袋小路っぽくなってきたなと思ったら、意識的に違った場所、違った人、違った活動に自分を曝してみなければならない、と思っています。
 
生活が一変するようなものである必要はありません。それこそ、髪型を変えるとか今まで着なかった服を買ってみるとかでもいいのかもしれない。ちょっと違った景色・ちょっと違った体験・ちょっと違ったコミュニケーションが得られるものでもいい。とにかく、今までとは違った何かをやる・見る・試すを、どっこいしょとやるようにしないと、私などは、ときめきやきらめきが干からびてしまうように思います。
 
なかには、干からびたって構わない人、それぐらいがちょうど良い人もいるでしょうし、同じ仕事・同じ趣味から一定程度のときめきやきらめきが産まれ続ける場合もあります。また、中年危機の一類型として、若い愛人にお金を貢ぐことにときめきやきらめきを見出し、人生をコースアウトさせてしまう人もいるので、無闇矢鱈にときめきやきらめきを追いかければいいってものでもないのでしょう。
 
私の場合、それが人生の操縦法みたいになっていて、定期的にときめきやきらめきの新スポットを探求することになっているし、なにか行き詰った印象を持った時が探求の時、と思うようになっています。すべての行き詰った人におすすめできるものではありませんが、これで気分一新できる人も、またいることでしょう。
 
 

世界はときめきやきらめきを掘り尽くすにはあまりに広い

 
こうした、ときめきやきらめきを探求する生き方が何歳まで通用するのか、中年期危機のソリューションと言えるのかは、わかりません。また、書いているうちに「これはfujiponさんのお悩みに応えきれていないな」と思い始めてきました。結局ここでも、私はとても個人的なことを回答していますね。
 
それでも、これは言えるんじゃないかと思うことがあります。
「世の中にはまだまだ未見・未知のときめきやきらめきの鍵が眠っている。」
世界にはときめきやきらめきの鍵が満ちていて、それを掘り尽くすには世界はあまりに広く、人の寿命はあまりに短い。
 
人間、別にときめきやきらめきのために生きているわけではないでしょう。でも私はそれらに導かれ、助けられ、時々足元をすくわれながら生きてきた人間のひとりなので、身体が許す限り追いかけてみたいなと思っています。そうですね。まだ行ったことのない台湾の南のほうにも行ってみたいし、長い間会っていない人とも再会してみたいし、2040年につくられたワインも呑んでみたい。
 
そう思うと、もうしばらく生きていたいなとか、もうちょっと健康に気を遣っておくかとか、そういう気持ちも沸いてきます。してみれば、ときめきやきらめきを求める気持ちとは執着なのですね。執着は人を苦しめる源であると同時に、人をどこかに連れていく駆動力でもあります。できることなら、私はときめきやきらめきに執着する人間でい続けたいです。
 
 

上等な百合アニメだった──『リコリスリコイル』、雑感

 
リコリスリコイルを上質な百合アニメだとみなすようになったのは、いつ頃からだっただろうか。
 
「そんなの最初からに決まっている」という人もいるだろう。序盤から千束とたきなの二人はかわいらしく、かしましかった。オープニングテーマの蹴りあうシーンは、何度見ても飽きない。
 
いや、そういうことじゃなくて。
 
「『リコリスリコイル』はとにかく上質な百合アニメとみなして眺めれば良い、それぐらいの目線で見るのがベストだ」と自覚して、視聴態度というか、視聴照度というかを変更したのはいつ頃だったのかな? と振り返ったりした。
 
それは中盤あたりからだったように思う。
 
はじめ、『リコリスリコイル』は、千束とたきなのかしましさや、ガンアクションが目を楽しませてくれる作品である……だけじゃなく、高度に統制された社会を裏側から支えるDA、アラン機関といった組織をも描きそうな気配だった。見栄えのする百合アニメであると同時に、ディストピアめいた近未来社会を描き、そのなかで主人公たちが活躍し、社会にコミットしたり、社会や組織との軋轢に歯ぎしりしたりする作品かもしれなかった。DAに所属するか否かを巡る千束やたきなのストーリーは、そうした作品世界と個々の登場人物について掘り下げていく、導火線のようにも見えた。そんな風に『リコリスリコイル』を眺めていた時期があったはずだった。
 
でも、途中からそういう視聴態度で私は観なくなっていた。
今作は、この高度に統制された社会について、とりわけ千束やたきなの成立与件と社会との関わりあいについて、深くメスを突き立てる作品ではないと感じるようになった。この作品で描かれる世界を、上質な百合アクションに並び立つものとしてではなく、あくまで上質な百合アニメに従属するものとみなすようになった……と言い換えられるかもしれない。
 
もちろんこれは「今期の」「今作の」『リコリスリコイル』についてのものだ。
いまどきの人気アニメにはメディアミックスだ、劇場版だ、二期だのが伴うことが多いので、続編としての『リコリスリコイル』のなかで、高度統制社会について答え合わせが行われる可能性だってあるだろう。
 
そうした続編やスピンオフへの期待も含めるなら、今作で社会についてサラッと流したのも、「社会を描けなかった」とみるより「あえて社会を描かなかった」とみたくもなる。電波塔のことも、延空木のことも、リコリスやリリベルのことも、後半に行けば行くほど曖昧になり、千束とたきなの百合ガンアクションの後景に退いていってしまったが、それは今後のために「とっておいた」のかもしれない。あるいは本作品の眼目は百合ガンアクションであると割り切って、とにかく、かわいい千束とかわいいたきなの物語に視聴者を集中させるべく退かせてしまったのかもしれない。
 
 

かわいかったから、それでいいんだよ

 
そうした百合ガンアクションアニメへの集中は良いことだったのだろうか?
 
人によって受け取り方は違うのだろう。
私ははじめ、社会を描いて欲しいと願ってはいたけれども、この作品がどこに向かうのかわからなかったので、作品の受け取り方を決め打ちせず、どう転がっていっても楽しむぞという姿勢で見守っていた。そうこうするうちにストーリーは進み、相変わらず千束とたきなはかわいく、喫茶リコリコへの親しみも増していった。で、気が付けば、めっちゃかわいい千束とたきなが跳ね回っているのを尻尾を振って眺めていたのだった。
 
……いいじゃないか。
これ、すごく良かったぞ。
 
社会を描くことに対して本作品はだんだん消極的になっていったと否定的にみる人もいようけれど、千束とたきなのかわいい掛け合いとその周辺を描くことに本作品は集中力を高めていった、と私は受け取ることにした。
 
でもって、本作品の千束とたきなは十分に、それはもう、かわいく描かれていた。明るく行動力のある千束と、その千束に引っ張られていくようで良いところで決断力や判断力をみせるたきなのコンビを、眺めているだけで楽しい。下着を巡るやりとり、水族館でのやりとり、そして真島との戦いを巡るやりとり。そういったシーンの積み重ねをとおして、千束とたきなはひたすら魅力的に・ピカピカに磨き上げられた一対の宝石のように輝き続けた。絵の動きや構図が良く、過不足なくイベントが挟まることもあって、終始、気持ち良く眺めることができた。高度統制社会のほうに意識が奪われなくなったぶん、メインの二人組と、それを取り巻く人々に意識を集中させやすくなった。この場合、その割り切りは正解だったんじゃないかとも思った。
 
 

良いアニメにも色々あり、そのひとつのかたちに今作品は着地した

 
良い小説、良い観光地、良いワインにも色々なものがあるのと同じように、良いアニメにだって色々ある。
 
キャラクターが魅力的な作品、その作品世界や作品社会について考えさせられる作品、リアリスティックな作品、なんだかわからない「めまい」や「オーラ」が揺らめく作品……。
 
そうしたなか、今作『リコリスリコイル』は、かわいい(百合)ガンアクションアニメとして申し分のないところに着地したのだと私は受け取った。もちろん、こうでない着地の可能性もあったかもしれないし、社会派な作品に拘る人、リアリスティックな作品に拘る人には物足りなく見えたかもしれない。が、これはこれで秀逸というほかないし、最終回は家族全員で食い入るように鑑賞した。毎週、エンディングテーマを聞くのが楽しみで、あのエンディングテーマもかしましさを楽しむ作品だと割り切る一助になっていたように思う。
 
全方位に詰め込みまくった作品もいいけれども、こうやって、千束とたきなのために捧げられたかのような作品もすごくいいよね。
 
でもって、繰り返しになるけれども、『リコリスリコイル』には余白がまだまだある。いつか、スピンオフや二期や劇場版をとおしてもっと色々な『リコリスリコイル』の世界、千束とたきなのもっと新しい魅力を見せてもらえると期待して待ってみたい。
 

 
 
[追記]:なんか期待の持てるツイートを見つけた! 更新歓迎!
 
 

時代は「自分のアタマで考えるな」だと思う

 
今の世の中、自分のアタマで考えないほうが良いターンになっていると思いませんか。
 
 

犬も歩けばフェイクに当たる

 
 


 
先日、静岡県の水害のフェイク画像がツイッター上に流された。ある者はそれを本物と思って拡散し、別の者はフェイクだと疑って拡散を思いとどまったり、疑問の声をあげたりした。自分のタイムラインではこれに引っかかる人はいなかったように見えたけれど、皆が皆、引っかからずに済んだわけではなかった。
 
のみならず、今のインターネット上には、広告にもタイムラインにもグーグルマップにもフェイクなメッセージが存在していて、その成否を判断するのが難しくなっている。そのうちあるものは(例えば健康法のように)高度な専門性なしに正否を判断するのが難しいものだったり、もし間違っていないとしても、そのメッセージをどこの誰に・どこまで適用していいのかわかりづらかったりする。また別のあるものは、(例えばウクライナでの戦況のように)事実を確認する手段が素人には限られていて、しかも国家規模のプロパガンダが混じっている可能性のあるものだったりする。
 
こんな具合に、今のインターネット上には、正否を、真贋を判断しづらいメッセージが溢れている。自分自身のアタマで考え、それをインフォメーションと呼べる水準にまとめあげるのが大変難しくなっている。
 
 

しかもクソ忙しいご時世じゃないですか。

 
そのうえ、私たちの可処分時間はどんどん少なくなり、と同時に、私たちが正否や真贋を判断しなければならないことは増え続けている。
 
「時は金なり」というけれど、実際、効率性や生産性に重きを置くいまどきの資本主義社会では、可処分時間はたいへん貴重なものだ。仕事だけでなく、キャリアのための勉強・人脈の形成・リラクゼーション・エンタメといったものも可処分時間を必要とする。そうやって現代人は忙しく日々を過ごしている。
 
忙しくなればなるほど、メッセージの正否や真贋を判断するのは難しくなる。誰かの書き込みや画像がフェイクかどうかを判断するにあたって、1時間費やして構わない場合と、10分費やして構わない場合と、10秒しか費やせない場合では、フェイクに乗せられる確率は同じ人でもかなり違う。時間的余裕がなくなるほど、人はフェイクに対して脆弱になる。
 
例えば、ラッシュアワーの埼京線で通勤しているサラリーマンが、くだんの水害フェイク画像をスマホで見た場合、しかも見たタイミングが乗換駅まであと10秒のタイミングだったら、フェイクに乗せられてしまう確率は高くなるだろう。同じサラリーマンでも、ゆとりのある時間にゆとりのある体勢でそれを見かけたなら、乗せられずに済む確率はだいぶ上がる。が、スケジュールに追われれば追われるほど、私たちはフェイクに乗せられやすくなるし、ともすれば、そのフェイクの拡散に手を貸してしまうかもしれない。
  
 

だったら自分のアタマで正否や真贋を考えないほうがいいのでは

 
こんな具合に、インターネットに正否や真贋の定まらないメッセージが溢れていて、しかも私たちに時間的余裕が乏しいとしたら、もう、下手なことは自分のアタマで考えず、誰かに考えてもらうのがいいんじゃないだろうか。この場合の誰かとは、ツイッターのインフルエンサーなどではなく、新聞やNHKニュースなどのことだ。雑誌も含めていいかもしれない。
 
もちろん、そういうマスメディアだって間違えることはあるし、マスメディアがフェイクに乗せられたりプロパガンダに加担したりする可能性もゼロではない。それでも、ツイッターのインフルエンサーなどに比べればその頻度と程度は信頼できるように思う。まして、生兵法にも自分のアタマで考えるよりは信頼できるんじゃないだろうか。
 
かつて、アルファブロガーのちきりんさんは「自分のアタマで考えよう」という本をリリースしたことがあった。
 

 
ちきりんさんのように考える力があり、この本のとおりに思考するメソッドがあり、考える時間もたっぷりあるなら、これでいいのだと思う。2011年のインターネットの状況にも合っていたかもしれない。
 
けれども私たちの大半はちきりんさんと肩を並べるほど考える力があるわけではない。思考するメソッドを磨く暇すらなく、効率性や生産性にこづきまわされ、リラクゼーションとエンタメを天秤にかけながら可処分時間の短さを嘆いているような身の上だ。そして2022年のインターネットは2011年のソレに比べてずっと難しくなった。嘘を嘘と見抜けない人には(インターネットは)難しいというけれども、いや、今のインターネットでフェイクを見抜くのは簡単じゃないでしょう。
 
だとしたらだ。
もう、私たちは自分のアタマで考えるをやめたほうがいいんじゃないだろうか。
 
や、もちろん個々人の専門領域、職業人としての領域では大いに考えなければならない。しかし専門家にしたって専門領域を一歩出てしまえば素人、へたをすれば平均的な素人よりも性質が悪いことだってある。それならネットに氾濫するメッセージについて正否や真贋を判断するのはもうやめてしまって、なんなら隙間時間にスマホを覗くのもやめてしまって、新聞やNHKニュースなどに目を通すだけにしてしまったほうが安全安心確実ってものだ。新聞やNHKニュースでは味気ないって人はワイドショーでもいいかもしれない。「ワイドショーなんてあてにならない」という人がいるだろうし、その気持ちもわからなくはない。でも、私たちが個人としてツイッターやインスタグラムに貼りついてメッセージを授受し、みずから判断するよりは、まだしも打率がいいんじゃないだろうか。
 
人間は、しばしば間違う。
忙しかったり、疲れていたり、余裕がなかったりすれば尚更だ。
そのうえ情報の正否や真贋を判断すること自体、可処分時間や可処分認知を消耗する行為なわけで、それなら(多少、情報の流通タイミングが遅いとしても)新聞社や放送局のフィルタに通した後の、インフォメーションとして加工された後のものをファクトとみなしたほうが間違いが少なかろう。万が一、新聞社や放送局が間違ったのなら、まあその……仕方ないのかなとも思う。
 
繰り返すが、新聞社や放送局だって稀には間違うこともあるし、それこそ戦争中の国のマスメディアなどは、しばしばプロパガンダを流す。いや、戦争していなくてもマスメディアにプロパガンダ的なものはどこかに混じっていると見たほうがいいだろう。理想論として「民主主義国家の個人たるもの、自分のアタマで判断する能力を涵養すべき」ってのもそのとおり。
 
そして10年以上昔は「インターネットにはメディアとは違った真実がある」などとも言われていた。ですが今のインターネットって難しくないですか。これほどまでに正否や真贋のわからない今日のインターネットにおいては、マスメディアの出してきたものを鵜呑みにするほうが、自分のアタマで考えながらインターネットと向き合うよりも、まだしも確実度が高いのではないかと思う。
 
インターネット上で「自分のアタマで考えよう」って言葉が適用できる時代は遠くなった。少なくとも、それは万人に勧められるものではあり得ないし、いまや、ほとんどの人に勧められるものとも思えない。ネットリテラシーなど午睡の夢。ブロガーとしてのちきりんさんのように振舞い、ちきりんさんの勧めるように考えることは、今、とても難しい。 
 
 

ところで

 
ところで、自分自身のブログに「新聞を読め、NHKニュースを見ろ、ネットはあんまり見るな」って書くの、すごく萎える。ブロガーとしてのちきりんさんが活躍していた頃と現在ではインターネットの時勢が違ってきているのだから、それは仕方のないことではあるけれども。
 
 

ゲームで高まるエモーションのかけがえなさ──スプラトゥーン3と思秋期

 

 
9月9日、待ちに待った『スプラトゥーン3』がリリースされて、家族総出でプレイしている。ファミ通によれば、発売から三日間で345万本が売れたのだという。しかも国内に限った数だから怖ろしい。
 
そんなスプラトゥーン3について、はてな匿名ダイアリーでは以下のような投稿がプチバズっていた。
 
旦那のスプラトゥーン3のデータを消した
 
細かいところに粗があるといえばあるが、妊婦である妻の視点で語られているおかげで理解しやすい筋になっている、と私は読んで思った。
 
この場合、家族の大きな負担になっているのだから、夫はスプラトゥーン3のプレイをとおして家庭内に公害を引き起こしているようなものだ。大音量や振動もたいがいだが、エモーショナルな言葉がグサグサ聞こえてくるのもそれはそれで大変だ。家庭内でコンフリクトになるほどなら、なんらか、害をなくす工夫が必要だろう。
 
対戦ゲームをプレイしていて負けると (ときには勝つと) ディスプレイを前に激しい感情をあらわす人、プレイ中に言葉遣いが荒くなる人がいるのはわかる。私だって対戦ゲームをやっている時は多かれ少なかれ言葉遣いが荒っぽくなるし、家族の誰かがプレイ中、一緒にゲームについてしゃべっている時も、勝っていてすら語彙が荒っぽくなる。そういえばゲーム界隈のスラングにも2022年の基準からみて荒っぽいもの・けしからんものがあったし、20世紀のゲームセンターでも、ミスったプレイヤーがゲーム筐体をバンバン叩いたり、より甚だしい場合には蹴ったりしていた*1。で、当時のゲームセンターはそういった振る舞いがぜんぜんあり得る空間で、それはUFOキャッチャーやプリクラが流行った90年代になっても完全には変わりきらなかった。
 
では、そうしたゲームの世界にありがちな荒さがどこにどれだけ持ち込まれて構わないのか?
 
最近、eスポーツ選手の言動やゲーム実況で用いられるスラングが荒々しい……というより暴言が含まれていると批判されることが増えた。90年代、いや80年代の暗いゲームセンターの世界なら、荒々しいスラングや暴言も見て見ぬふりをされるのかもしれないが、2020年代の、全世界配信されるインターネットメディア上で許されるものとは思えない。
 
後で書くように、私はゲームをやっていて興奮してエモーションがたかぶること自体は否定したくないし、許容可能な場所や仲間内では、荒ぶる言動が飛び交ってもいいのだと思いたい人間のひとりだ。ゲームがただの暇つぶしならともかく、ゲーム体験をとおして大事なエモーションを受け取ったり、ゲーム体験に大事な何かが賭けられていたりする限りにおいて、エモーションが揺れるのは当然だし、多少なりともそれが言動にあらわれてしかるべきだろう。
 
といえ、そのエモーションの揺れ動きや言動が社会が許さないものだったとしたら、問題アリ、ということになる。別にそれは(コンピュータ)ゲームに限ったことではなく、スポーツファンが暴徒と化したとしてもそうだろう。
 
よって、ゲームをやるならルールを守って行儀良く。誰にも迷惑をかけるな、危害原理を破るな、害になりそうな振る舞いをするな、ということになる。あるいは自分自身に害が及ぶようなゲームプレイ、たとえば課金をし過ぎるだとか、ゲームで学業や仕事の生産性に影響が出るだとか、そういったことも厳につつしむよう啓蒙しなければならないのだろう。そしてこれらの要件から逸脱したゲームプレイヤーは、逸脱者として、なんとなれば精神疾患として、治療されなければならない──。
 
これは、精神医療がテリトリーを広げているという以上に、社会から治療を要請されているのだろう。
ゲームに際してのエモーションや言動に限らずだが、現代社会においては、個人のエモーションや言動は一定の枠内におさまっていなければならず、枠内におさまることで予測可能な個人、いつも生産的で健康な個人が保たれなければならない。
 
と同時に、技術や法治や制度が個人の感情生活や言動をマネジメントすることを可能にし、マネジメントされなければならない布置をつくりあげたってことでもあるだろう。だから現代社会で模範的な社会適応をやっていくなら、そうしたマネジメントに耐えうるエモーションや言動を維持できなければならない。たとえ、スプラトゥーン3が発売されたばかりであってもだ。
 
 

自分が落ち着いたのか。それともエモーションが禿げてしまったのか。

 
そうした、ゲームとゲームプレイヤーに対する社会からの要請をおぼえておいたうえで、これから私とスプラトゥーン3の場合について書きたい。
 
スプラトゥーン3は、案の定、めちゃくちゃ楽しい。
負けるとひたすら悔しいが、勝っても負けても炎のような時間を過ごさせてくれるゲームだ。私はこのゲームジャンルが主戦場ではないから、スプラトゥーン3にそこまでアイデンティティを賭けて挑んでいるわけではないけれど、それでも、勝利とファインプレーにこだわる瞬間にはエモーションの賭け金が上がっていく。
 
ところが前作『スプラトゥーン2』の時に比べると、負けても感情が落ち込まない。9月12日には信じられないほど大敗を喫したのだけど、私の言動はそこまで大揺れしなかった。それはなぜなんだろうか。
 
前作は販売500万本超え、『スプラトゥーン3』は敗者のメンタルケアまでを徹底した対戦ゲーム | DIAMOND SIGNAL
 
上掲リンク先記事によれば、スプラトゥーン3は、敗者のメンタルケアがよく考えられたゲームなのだという。そうかもしれない。実際、前作のガチバトルの、ぼっきり折れたような負け演出はとても似合っていた半面、グサリと刺さるものがあった。そういう、似合っているけれどもグサリと刺さる演出を、より無害に漂白した演出に置き換えていく改変は、いかにもゲームアーキテクチャによるプレイヤー管理、それも、とにかく安全・安心な方向への管理という、優良企業コンテンツじみた雰囲気がぷんぷんして嬉しいような憎らしいような気持ちになるが、ともかく私自身もそうした管理下に置かれ、前作より憤慨しにくくなっているとは思う。
 
でも、本当にそれだけだろうか?
 
私の子どもを見てみると、案外、ちゃんと憤慨していたりする。
 
負けがこめばイライラが出てくるし、勝てば調子に乗る。ゲーム体験とエモーションや言動がバッチリリンクしている。当然、ときには荒っぽい言葉が出ることもある。子どもを礼儀作法の無菌室で育てるのが最適解だと思っている人々の目線で想像すれば、スプラトゥーン3を巡る我が家の状況は好ましいものではないと思う。
 
しかし、そうやってスプラトゥーンの勝ち負けにむきになっている子どもの姿を見ていると、なんというか、これはこれで貴重な瞬間に見えるし、ひょっとしたら、ゲーム愛好家としての私が失いかけているものではないか、と思えたりもする。
 
何かを経験し、エモーションが揺れ動くことは、そんなにいけないことだろうか。
感情生活の起伏は、悪いものでしかないのだろうか。
 
こちらの記事の中盤に書いたけれども、中世においては、感情の起伏の大きさが人間に求められ、感情の起伏が少ない者が修道院に入らなければならなかった=社会からの逸脱とみなされていた。それから何世紀も経つなかで、社会から期待される感情の起伏の大きさは、小さいほうへ・なだらかなほうへと変化し続けてきた。今日では、感情の起伏が大きいことのほうが社会からの逸脱とみなされやすい。くだんの、ゲームで感情的になりすぎる夫もそうした逸脱者のひとりと(これからの社会では)みなされる一人だろう。
 
しかしゲームは遊戯だ。
単なる暇つぶしではなく、真剣に取り組んでいる人の多い、そういう遊戯のはずである。
ゲームの勝敗はしばしば冷静さによって決まる。しかし必ず冷静さによって決まるわけでなく、瞬間瞬間においてはエモーションによっても導かれ、ことの進行に沿ってエモーションも動いていく。言動だって動くだろう。
 
そうしたことも含めてのゲーム体験、ゲームとのお付き合いではなかったかと私は自分の子どもを見ていて思う。これから大人になっていくにつれて、たとえばゲームで感情的になりすぎる夫のような存在にならないよう、私は注意をうながさなければならない。と思うと同時に、ゲームで悔し涙を流すこと、ゲームで負けて転げまわること、イカを立て続けに4キルして勝ち誇ること、その折々の瞬間をかけがえのないもののように感じる。
 
もちろん節制は必要で、私たちは社会的存在だから、社会の求めにあわせてエモーションと言動をフィルタリングしなければならない。その方法を子どもと一緒に学んでいくのも親のつとめではあるし、ゲームもまた、そうした技法を学んでいく題材のひとつではある。
 
しかし、ゲームをとおして、いやゲームに限らず遊戯やカルチャーと呼ばるものをとおして強いエモーションや言動が現れ出ること自体、貴重な体験であるはずだし、少なからぬゲーム愛好家はしばしばその貴重な体験を期待してゲームを購入する。あるいは、ゲームこそ、自分にとってそうしたエモーションや言動が現れる場所、自分がそれらをあらわにできる場所だと感じている*2
 
子どもがスプラトゥーン3のプレイに一喜一憂しているしているさまを見ていると、「大人になってもこれじゃ大変だな、正さないと」という思いと「今、本当にゲームの渦中にいて、本当にゲームを体験しているな、守らないと」という思いが相半ばする。
 
と同時に、スプラトゥーン3に大揺れしなくなった自分自身を省みて、「落ち着いて遊べている。いまどきのゲームプレイヤーのあるべき姿だ」という思いと「ゲームの渦中にとどまる力が弱くなって、エモーションが禿げてしまっている」という思いが相半ばする。大人になったといえば聞こえはいい。が、これは思秋期の兆候ではないか? そして現代社会にどれほどアジャストしているようにみえても、私は自分のエモーションを小さく折り畳んでしまっているのではないだろうか。
 
2018年から2019年にかけて、私はのめり込むようにソーシャルゲーム『Fate/Grand Order』のガチャを回していた。あれも、いまどきの社会では褒められない、大変にエモーショナルな体験だった。だけど、今にして思えばあれは記念碑的な経験で、当時の私のゲーム体験に、ひいては2018~19年の人生にかけがえないアンダーラインをひいてくれた。スプラトゥーン2もそうだったし、90年代にゲーセンで遊んだゲームたちもそうだった。ゲーム愛好家なら、そういう人生にかけがえのないアンダーラインをひいてくれたゲームを複数挙げられるに違いない。社会がしのごの言おうとも、そのエモーショナルな体験それ自体は、やっぱり貴重な財産であるはずだ。
 
どこまで現代社会で許容されるのか/されないのかの線引きはいつも難しい。そしてゲーム症(ゲーム障害)に該当するような、尋常ならざる状態に陥る人がいるのもまた事実。それでも私は、ゲーム体験をとおしてエモーションや言動が揺れること、それそのものは貴重に思う。そして大人になったのか老いたのかわからない理由で揺れの振幅が小さくなってしまっている自分自身を、寂しく思う。
 
 

*1:ゲーム筐体のほうも、それはそれで頑丈だったが

*2:ゲームに限らず、自分にとってエモーションや言動が現れる場所が単一であることは、依存や嗜癖、耽溺など、コントロールの難しい状態に陥りやすいとは、よく事情を知っている人がしばしば指摘するところではある。だから、単一じゃないようにしなさいよ、依存や嗜癖、耽溺を避けなさいよ、という「アドバイス」も世の中には溢れている。そうだろう。そうでしょうとも。しかしだね……いや、これ自体とても長い話になるから今日はやめよう。

アブラゼミ 蟻がたかって 砂を積み

 

 
今年は八月の中旬ごろからだろうか、真っ青な空や雄大な入道雲を見かけなくなり、秋雨前線と見まがうような低い灰色の雲が垂れ込めるようになった。久しぶりに晴れたかと思ったら、早くもオレンジ色に染まった羊雲が並んでいる。なにが小さい秋見つけただ、ふざけんな、もうしばらく夏を楽しませてくれよ、と思う。
 
道を歩いていても、否応なしに夏の終わりが目に留まる。今年はセミの当たり年だったのか、とりわけたくさんのセミの声を聴き、住宅地の電信柱や鎧戸にまで張り付いているのを見かけたが、そのぶんセミの死骸に出くわすことも多いと感じる。せめて、その短い晴れ舞台が生殖の喜びに満ちたものであって欲しいと願う。ふとジジジッと断末魔のような声を聞いてそちらを見やると、弱ったオスのセミをスズメが突いていて、やがて、くわえてどこかへ行ってしまった。自然界にはいつも元気な生き物しかいない。なぜなら元気のなくなったものは食べられてしまうか分解されてしまうからだ。
 
そうしたなか、先日、いつも通るアスファルトの路上でアブラゼミの死骸を見かけた。
その死骸は新鮮だったのか、無数の蟻がたかっていた。蟻はなんでも食べるけれども、この場合、蟻は生態系でいう分解者の役割を担っているわけか。蝉の死骸が無数の蟻におおわれているさまを見た私は、私は世の無常を思うと同時に、夏の終わりって残酷だなどと思ったりしていた。
 
ところが翌日、同じ場所を通ってみて驚いた。アブラゼミが「埋葬」されていたのである。
 
正確には、アブラゼミの死骸を覆うように、砂利のような、砂のようなパラパラしたものが積み上げられていた。だいたい円錐形のそれは、まるで賽の河原に積まれた石のようにも見えた。
 
よもや、蟻が砂利や砂をよそから運んできたわけではあるまい。そのパラパラしたものはセミを分解する際に生じた破片か何かなのだろう。それにしても、セミが蟻に分解されると、こんなにストレートに土に還るとは知らなかった。そして蟻が分解したセミを覆い隠すようにそれを積み上げるとも知らなかった。夏がこんなに好きで四十余年を生きてきたのに、まだまだ新しい発見があるものだ。
 
日本人になぞらえると、石を積むという行為には、供養する意味合いや、何かを封じる意味合いがあるようにみえる。だから日本人である私には、それがセミを食すると同時に弔う、蟻の菩提心の発露のように見えた。蟻の行動に菩提心だの供養だのを見出すのは私の勝手ではあるのだけど、そんな私からみた蟻は、まるで死んだアブラゼミを餌にしつつも浄土に向かわせる送り手のようにもみえた。実際、生態系における分解者とは送り手にほかならない。
 
この、アブラゼミの弔いを見知って以来、近くの路上や公園にも同じような円錐形の、ぱらぱらしたものがあることに気が付いた。それらもセミのかたちをとどめていないか、かろうじて羽の残骸が埋もれているだけで、以前だったらセミの亡骸とは気づきもしなかっただろう。この街ではこんなにセミが死んでいて、こんなに蟻がそれを葬り、弔っていたのだ。それとも今年がセミの当たり年だからことさらにそれが目につくだけなのだろうか?
 
これまで私は、セミは盛者必衰のことわりを象徴する昆虫だと思い込んでいたのだけれど、少なくとも最後まで生き残り、路上で息絶えた者はこのように蟻が弔ってくれるのだとしたら、なにごとも苛烈な娑婆世界にあって随分と情け深いことだな、などと私は思った。もちろんこれは私の宗教観、死生観に基づいたものの見方でしかない。いやしかし、夏は終わってしまい、盛者の季節は、必衰の季節に移り変わろうとしている。