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最近、「45歳狂う説」なる言説をSNSで見かける。
曰く、45歳まで独身だと狂ってしまう、いやいや、既婚でも狂ってしまう、等々。
だいたい「45歳で」「狂う」ってなんだ? って話ではある。「狂う」とは世間の言葉で、精神医療のテクニカルタームではない。だから野放しにしておいて構わないよう思われるし、だからバズワードとして盛り上がっているようにも見えた。しかし、その盛り上がっている当人たちはいったいどんな内容の「狂う」を想定しているのだろう? 最近、そんなことを考えさせられる場面が増えてきた。
そこで、SNSで語られる「45歳狂う説」について、実際、私が精神医療の内側と外側でみてきたことを踏まえた文章を書いてみる。その際、キーワードとしてホメオスタシスという言葉を用いたい。ホメオスタシスとは、ここでは「身体的・社会的・心理的に安定した状態を維持する機能や維持している状態」を指していると解釈してやってください。
1.彼らは「45歳で狂う」というけれど
ひとことで「45歳で狂う」と言っても、その内容・程度・類型はさまざまだろう。最も重篤なケースでは精神疾患の不可逆な重症化、次いで重いものとしてはうつ病への罹患などがあるだろうか。生物学的加齢の影響、たとえば更年期障害のことも忘れてはならない。もっと社会的側面が強いものとして、立場や役割の変化、アイデンティティや心理的充足の布置の変化、等々もホメオスタシスを乱す要因たりえるし、それらが精神疾患の増悪因子や引き金になることも十分あり得る。
今年、あちこちのメディアで私は「中年期は人生のコーナリングの季節だ」と話した。実際、40~50歳ぐらいは身体的にも社会的にもさまざまなものが変化する。思春期が子ども→成人へのターニングポイントなのに対して、40~50代にかけては大人→高齢者へのターニングポイントとなる。昨今は高齢化が進みリタイアの時期も遅くなっているから、還暦を迎えても自分自身のことを老人と認識しない人が増えている。しかし身体の老化は自己認識よりも早く内蔵や内分泌系に起こり始めるし、出世や仕事の面でも夢の終わりがみえてくる。人生の終わりも意識されるかもしれない。身体的・心理的・社会的に無理のある社会適応を強引に続けてきた人が、中年期にその限界に至り、破綻してしまうことは珍しくない。
「中年がホメオスタシスを維持できなくなった」状態について、カタストロフの程度別に、いくつか挙げてみよう。
精神科医として最もカタストロフの程度が大きい、と感じるのは、統合失調症や双極性障害といった明確な精神疾患に該当している人が、今まではどうにか仕事や社会活動に参加できていたものが、この時期の再発や再燃によって病状が一気に悪化し、残遺性人格変化が進行したり、幻覚や妄想や気分変動がきわめて重くなってしまったものを連想する。
精神医療の充実のおかげで、若いうちから重症・難治性になってしまう統合失調症や双極性障害の患者さんは減ったように思う。しかし、種々の社会資源を利用しながら40代あたりまで生活できていた(それらの疾患の)患者さんが、この時期の再発や再燃が最後の一押しになって、慢性かつ重症の病態に陥ってしまうことはまだそれなりにある。
そうなってしまう要因は何か。熱心に面倒をみていた親が早逝したり病気になったりして援助が弱くなったせいかもだし、若さを失い異性からの援助や承認を獲得しづらくなったせいかもだし、もっとシンプルに、寛解と再発を繰り返すうちに中枢神経系にダメージが蓄積していたせいかもしれない。特に女性の場合、エストロゲンの分泌量が低下し、その神経保護効果が失われてしまうことで病状が悪化する一面もあるかもしれない。
こうした、もともと精神疾患を持っていた人が中年期に一気に増悪するケースは全体のごく一部だろうし、SNSにはなかなか現れないものだが、精神医療の領域ではひとつの類型ではある。
そこまで重篤ではないにせよ、うつ病などに罹患する人ならもっと多い。
中年期に初めてうつ病にかかる人も、その背景は多彩でひとつのテンプレートにはまとまらない。仕事・家庭・子育て・地域・介護といった色々な負担やストレスが重なった結果としてうつ病などにかかる人は、この世代にも多い。「自分だけでなく家族全体を支えなければならない」という責任感は、ある時点までは心の支えになるが、いったんうつ病に陥ってしまうと治療の重荷になることもある。子どもの巣立ち、親の介護の始まり、キャリア上の行き詰まり、そういったひとつひとつには耐えられる人も、全部同時に起こればたいていメンタルをやられてしまう。だから本当は、それらが同時にやって来ないような見通しと計画があったほうが良い……のだが、そんなことは学校でも習わず、親もたいていは教えてくれない。またどれほど用心深く見通しと計画を立てたとしても、偶然や不運が重なればどうしようもないことはままある。
そうそう、自宅の購入もリスクであることを書き添えておこう。マンションであれマイホームであれ、自宅の購入は大きな経済的プレッシャーをもたらすと同時に転居やライフスタイルの改変をも強いる。うつ病のリスクファクターが3つ同時にやって来るようなものだ。だから自宅の購入はお金の心配だけでなくメンタルの心配もしたほうがよくて、できるだけ他のストレス因の少ない時期に決行するのが(本当は)望ましい。
そうした社会的変化に加え、身体的変化も重要だ。たとえば生来健康で活発だった人が生まれて初めて大病をし、その大病をきっかけに精神のホメオスタシスまで崩れてしまうパターンは定番だ(もちろん、60~70代になってこのパターンを呈する人もいる)。そういう人は病気慣れしておらず、健康で活発な自分自身を当たり前だと思っているので、大病の経験は、今までの自己イメージやアイデンティティに動揺をもたらす。と同時に、今まで見て見ぬふりをして構わなかった身体的加齢をいきなり突きつけられ、「自分は老いていて、やがて死ぬ」という事実にもびっくりしてしまう。
いわゆる「初老期うつ病」の一類型でもある。抑うつ気分や不眠などに加え、身体症状や焦燥感を伴うことが多く、重症度が高くなりがちで、三環系抗うつ薬や少量の抗精神病薬を用いなければならない場合も珍しくない。それでも治療がある程度奏功した後、これからの新しい見通しを見いだせると比較的きっちり治ることの多い類型だ、と私は感じている。
もっと身体的な次元でホメオスタシスが崩壊してしまう人も見かける。
人間は意外と頑丈にできているので、身体を顧みない生活を続けていてもある程度の年齢までは一応ピンピンしていられる。だが身体のホメオスタシスを維持する力は年齢とともに衰える。身体に無理をかけ続けている人の場合は、それが顕著で、40代あたりから高血圧、高コレステロール血症、高血糖といった異常が顕在化してくる。不摂生のきわみにあるなら肝機能や腎機能の障害も起こるだろうし、脳出血や脳梗塞や心筋梗塞に見舞われる人もいる。脳がダメージを受けた場合、認知機能の低下や性格変化をきたすことだってあるかもしれない。
身体的なホメオスタシスの崩壊はもちろん40代からのものではなく、不摂生が著しかったり、なんらか先天的な疾病を伴っていたりすればより早い年齢から起こる可能性もある。ともあれ、不摂生の請求書は中年期に唐突に突き付けられることが多い。
不摂生とは、心理・社会的なものでもある。不摂生なライフスタイルは、仕事上の理由や心理的な理由によって、やむにやまれず続けられていることが多い。若いうちは、それでも身体が許してくれた。ところが歳を取ってくるとそうはいかない。不摂生をやめ、心理・社会的に帳尻のあう新しいホメオスタシスの均衡点を探すか、それとも身体が破壊されるまで同じ生活を続けるのか。身体はメンタルの土台なので、身体の破壊はメンタルの破壊に繋がっている。そうでなくても、痛みや身体的不調はメンタルに負担をかけ続ける。こうして身体の側からホメオスタシスが崩れていく人は年齢とともに増加する。
こうした、医療に直結したホメオスタシスの崩壊よりも軽いものも数多みられ、それらも「45歳狂う」説には含まれているのだろう。ではその、医療未満の色々はなんなのか?
2.医療未満の「45歳狂う」はホメオスタシスの破綻か、再生か
40代になって「人生終わった」と感じたり、「このままではいけない」と焦ったり、「夢や希望がわからなくなった、なんのために生きているのか」わからないと感じる人は少なくない。そもそも人は、しばしばそのような気持ちを抱くものである。ただ確かに、40代にはそうした気持ちを抱きやすい瞬間は数多い。子育てのこと、家庭のこと、仕事や業績のこと、趣味生活のこと、そのそれぞれが一瞬「無」になる隙間時間があり、そういう時は上掲のような気持ちになりやすい。また、身体的な衰えを感じた瞬間や若い世代に追い抜かれたと感じた瞬間に、メランコリックな気持ちになる人もあるだろう。
しかし大抵の人はそうした気持ちを乗り越えていく。新しい社会関係や楽しみを見つけ、これからの生活や仕事や身体に馴染もうとする。その際、ある程度のトライアンドエラーや社会適応の揺らぎはあろうし、それが第三者から「あの人は45歳でおかしくなってしまった」と観測されることもあるだろう。ライフスタイルを変更する以上、当人としてはうまくやったつもりでも、周囲を驚かせることは少なくない。この場合、他人がどう見ようとも、当人自身にとっては中年期以降に適合したライフスタイルへの刷新であり、ホメオスタシスの破綻というより再生というべきものだ。
ただし、全員が全員、そうしたライフスタイルの路線変更を穏当にこなしてみせるわけでもない。思春期もそうだが、ある年齢の自己イメージやアイデンティティを、別の年齢の自己イメージやアイデンティティに切り替えるのは簡単とは限らない。発達心理学の古典であるエリクソンの『幼児期と社会』などを思い出すと、そうした切り替えの難易度は、それまでの心理的な課題がどれだけこなせていたのかに左右されるよう思われる。だから、ライフスタイルの路線変更がうまくいかずに社会適応が行き詰まってしまう人もそれなりいるし、そうした人々は「45歳狂う」説に回収されやすいだろう
ライフスタイルの路線変更の失敗はどのようなものか? 離婚や家庭崩壊、趣味やアンチエイジングで身上を潰す、重たい精神疾患や身体疾患への罹患、などがわかりやすく思える。が、もっと地味にうまくいってない場合もままあるよう思われる。現実に迎合すること・仕方なく生きること・味気なく生きること、そして「自分のために生きるしかなくなる」こと。
「自分のために生きるしかなくなる」とは、個人主義社会において問題ないよう思われるかもしれないが、人は案外と社会的な動物だ。生きがいやアイデンティティは人間関係や社会関係のなかで形作られるし、ベタな言い換えをすると、友情や愛情や信頼や恩義のなかで人は心理的に生きている。だから、そうしたものが欠乏して「自分のために生きるしかなくなる」のは、個人主義者にとっても簡単とは限らない。
そして「自分のために生きるしかなくなる」状態は、既婚でも未婚でも起こり得る。たとえば表向きは立派な会社に勤め、子育てをしているけれども、主観的には「自分のために生きるしかなくなる」に陥っている人は案外いる。表向きは恵まれているがために、共感や理解を得ることは難しい。だから、「自分のために生きるしかなくなる」に陥るリスクを、未婚か既婚か、子持ちか否かで推し量り過ぎるのも考えものだ。それよりも、その人が「自分のために生きるしかなくなる」ではない状態を維持している、その安定性や可塑性をしっかり評価したほうが見誤らないんじゃないだろうか。
45歳独身狂う説、あれは個人だけの幸福追求の寿命なんだと思う。隣に多少なりとも不快な隣人を置いて共同生活を営み、ある程度の他人との共同生活の練習をした人間だけが、45歳以降にスムーズにコミュニタリアンをやれる的な要素がたぶんある。会社で嫌な同僚や上司と働くメリットも、この辺りにある。
— 高須賀とき (@takasuka_toki) 2024年12月2日
高須賀さんのこの投稿も、私はだいたいそんな具合に解釈した。人間の大半にとって、完全に自己中心な生き方はそれはそれで難しい。
3.友情や愛情や信頼や恩義のなかで生きる道はいろいろある
「自分のために生きるしかなくなる」を回避する方法は、案外と色々ある。子育てがそうだという人もいれば、子育てが終わった後、地域共同体に貢献することがそうだという人もいる。仕事がそうだという人も、趣味の付き合いがそうだという人もいる。友情や愛情や信頼や恩義の手ごたえを感じる時、「自分のために生きるしかなくなる」は回避できるし、ある程度器用な人はだいたいなんとかやってのけるものだ。
その一方で、友情や愛情や信頼や恩義の手ごたえが感じにくい、空白の時間がしばらく生じてしまうことも、だいたいの人には起こることだ。そうした時、空白の程度を軽くしてくれる居場所や社会関係を持っていると、人生の変わり目である中年期をサバイブする大きな助けになるように思う。たとえば良心的な飲食店や居酒屋や趣味の店などは、空白の時間の止まり木として機能する。他方で、そうした空白の時間が生じた人間を狙い撃ちにしようとする人や組織もある。そうした人や組織の餌食になってしまった中年も、「45歳狂う」という言説に回収されてしまうだろう。
長くなってしまったので、強引ですがまとめます。
中年期は思春期と同じぐらい心理・社会・身体的に変化が訪れ、それにあわせてライフスタイルを変えていく必要に迫られる。友情や愛情や信頼や恩義の手ごたえを感じるための居場所や活動内容も変わるだろう。変化にあわせて変わろうとする努力じたいが「おかしい」とみえることもあろうし、変わっていこうとしてトラブってしまった場合や変化を避け続けてホメオスタシスが破綻した場合も「おかしい」とみえるだろう。だから「45歳狂う説」のなかには、最も重篤なホメオスタシスの破綻からライフスタイルの変更に伴うちょっとした揺らぎまで、さまざまなものが含まれ得るように思える。事例によって、かなり内実は違うんじゃないだろうか。
どうあれ中年期は変化の季節なので、皆様、どうかご安全に。