シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ハサウェイは何と戦っている?──『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケ―の魔女』(ネタバレ有)

 
※この文章は、途中から機動戦士ガンダム閃光のハサウェイキルケ―の魔女のネタバレに変わります。ネタバレしたくない人は、途中で警告しますので引き返してください
 
 

 
 
『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケ―の魔女』を観てきました。
 
前日譚にあたる『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』や原作小説から継承した諸々を踏まえつつ、2020年代のガンダムのひとつとして何かを表現している・描いていると伝わってくるガンダムだった。もちろん、こうした野心的なトライアルに賛否が生じるのは避けられない。さまざまな世代のさまざまなガンダムファン、ひいてはアニメファンがいるなかで、すべての視聴者が満足し、納得するガンダムをつくることなどできない。そのうえで、どんなガンダムを表現するのかが作り手に課された課題であり、どんなガンダムができあがったのかを確認するのがファンの楽しみだと思うので、さっそく私は映画館に向かい、堪能した。
 
 
とても良いガンダムだと思う。
こういう味のするガンダムかー、とか思った。
 
 

ネタバレなしエリア

 
今回私が出かけたのは公開から最初の土曜日、地方都市の一般的な映画館だった。お客さんの入りはまずまずで、男女比は極端に男性に寄っていた。アニメを映画館に観に行って、ここまで会場内が男性ばかりだったのは久しぶりだったので、ちょっと驚いた。ガンダムというIPがけっこう広いファン層に広がっているといえども、『閃光のハサウェイ』は男性の割合が圧倒的多数なのだと知った。
 
話が始まる前に、ごく簡単に前回のあらすじが示される。これはありがたかった。前作を観ていない人へのささやかな配慮のように見えるが、実際には、前作を観た人でも復習しておくに値する内容だったと思う。作品世界に飛び込むスターターとして良い配慮だった。
 
今回の話も、日本よりずっと南の、熱帯~亜熱帯のエリアから始まる。あいかわらずリゾートめいていて、しかし、そのリゾートの成り立ちについての描写は手厳しい。昼と夜のコントラスト、静と動のコントラストの見事さも前回同様だ。見せたいものを見せつつ、見せる必要のないものを見せない気遣いが随所に利いていて、それは、きっと制作サイドの意図に沿ったものだろうから、私は作品に心を預けてゆったりと視聴することができた。「これは書きそびれじゃないか?」とか「これは手抜かりの一種じゃないか?」とか疑心暗鬼にならずに済むのはありがたいことだ。いやいや、今日のよくできたアニメとは、皆、そういうものかもしれないが。
 
それにしても景色の美しい作品である。これも、今日のよくできたアニメとは、皆、そういうものかもしれないが、南方の海岸線に打ち寄せる波、輝く太陽、水中、それらひとつひとつが私を出迎えてくれた。スペースコロニーの何気ない描写にしてもそうだ。と同時に、たとえば登場する猫の一匹は非常に簡単に描かれていたが、これもかえって良かった。あの猫は、あのぐらいがちょうど良いのだと思う。なんでもかんでも偏執的に描けばいいってもんじゃない。本作に登場するさまざまな描写のうち、相対的に簡素に記されているパートは、そのようなものとして視聴すべきものとみなし、そのようなものとして視聴した。
 
人間模様について。
好ましいと思う。別に、アニメという媒体でこれをやらなくてもいいじゃーんと思う瞬間もあったが、後から思い出すと、それもガンダムでこそ描かれて欲しい部分を補強する材料になっていて、ここでも無駄のない表現を観た気がした。人間の業、人間の限界、ニュータイプという概念、そしてハサウェイ自身の問題。そうした諸々を映し出す万華鏡のように、本作品はさまざまな人間とその営みを描き出している。ひとつひとつの場面描写が、本作品の、というより『閃光のハサウェイ』シリーズ全体の通奏低音と推定されるものとよく結合していて、いちいち見ごたえがあった。
 
前作でいえば、ハサウェイとしゃべったタクシーの運転手の歯が抜けていたり、タクシーのインテリアがああだった必然性と同様に、今作におけるさまざまな描写に登場するさまざまな人間のアクションのいちいちが作品の趣旨に沿っているよう思われた。単なる作り込みの問題だけで実現できるとは思えない。制作陣内部において、首尾一貫性を保てるような意思疎通の努力があったのかなぁ……などと想像したりもした。
 
ガンプラは売れるだろうか?
ガンダムという作品が背負うもうひとつのミッション、「ガンプラを売る」ことについては、前作よりは前向きかもしれない。それだけに、ややガンダム歌舞伎している部分もあったかもしれない。しかし、全体としては戦場が暗く、爆発や斬り合いも短時間なので、昔のガンダムほどガンダム歌舞伎している雰囲気ではない。「ダサくて古めかしいガンダム歌舞伎に堕することなくいかにガンプラを売るか」という命題に対し、前作よりも意識的に取り組んでいると思えるふしはあったと思う。
 
ネタバレなしパートはここまで。
前作の雰囲気が好ましく思えた人には文句なしにおすすめできる作品だ。特に昔ながらのガンダムっぽさの苦手な人には『機動戦士ガンダムジークアクス』よりずっと勧めやすい作品だと思う。なにより、これは宇宙世紀モノのガンダムでありながらもはっきりと新機軸なガンダムであって、ガンダムという看板を背負いながら独自の表現をやろうと努力しているガンダムのひとつと思われるので、そういうものとして観るなら抜群だと思う。前作から筋のブレていない作品なので、次回(最終回?)も楽しみだ。ハサウェイは、過去とどう向き合っていくのだろうか?
 
 
【ネタバレなしパートはここまでです。以下、ネタバレパートになりますので、読みたくない人は引き返してください!】
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ネタバレありパート(嫌ならすぐに引き返して!)

 
 
さあ、ここからはネタバレありで、私が思ったことを思ったとおりに書く。
 
本作は、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の時代にハサウェイがやってしまったこと・経験してしまったことを引きずる物語としてつくられている。私は大昔に原作小説を読んだが、ここまで過去の記憶や執着にハサウェイが振り回されているとは感じなかった。もしかしたら、そのように描かれていたのかもしれないが、少なくとも当時の私の記憶には残らなかった。だから、本作のハサウェイの記憶や執着の問題は、2020年代の新しい劇場版ガンダムとしてつくられた、「この、『閃光のハサウェイ』」の趣向として私は受け取ることにした。前作もある程度までそのように受け取ったが、今作をとおして、それが確信に変わった。
 
「これは、ハサウェイの記憶や執着の物語であると同時に、ニュータイプの、人の革新の、人間社会の、物語なのかぁ、」と。
 
SNSにおいては、本作におけるハサウェイについて肉欲だ肉欲だと強調している人がいたが、そんなに肉欲しているかぁ? と私は疑問に思った。まあ、肉欲もあるっちゃあるだろう。でも、ハサウェイの苦悩はそれほど単純ではない。もし、本作品が肉欲にフォーカスしているなら、こんな作品として創らないという信頼が私にはある。仮にそう創るとしたら、ケリアとハサウェイの描写、ハサウェイがギギを思い出す描写は、もっと艶めかしく描かれただろう。ギギがプールで泳ぐシーンなどもだ。だけど本作はそのように描いていないので、そこまで肉欲にフォーカスしているわけではなく、彼はもっとブロードバンドに苦悩している。
 
作中で示されているように、ハサウェイの苦悩は動物としての人間の限界、肉体に縛られた者の限界としての懊悩でもある。同じテーマが、ギギとケネスとのやりとりのなかでも反芻される。ただしケネスは自らがオールドタイプだと言いながらも、そうした自分自身の性質に、ある種の折り合いや諦めをつけている。伯爵もそうかもしれない。彼らはオールドタイプでありつつ、オールドタイプであることを受け入れている。あるいは諦めている。
 
ところがハサウェイは自分自身のそうした動物的で肉体に縛られた者としての性質に本気で悩んでいる。そりゃあ薬も飲みたくなろう(しかし、そのような悩みに例えば抗うつ薬が奏功するだろうか?)。のみならず、ハサウェイは人間の世界がそうであることまで悩んでしまっている。そりゃあ世界を革新したくものなるよね! でも、その悩みはハサウェイ自身においては動物としての自分自身に対する反逆に、世界全体においてはテロリズムにならざるを得ない。なるほど、ハサウェイは、人間と人間世界における危険分子だ。ハサウェイにニュータイプの素養があるのは間違いない。だが、これではニュータイプのなりそこないではないか! そう言うのが言い過ぎだとしても、ハサウェイがみずからのニュータイプとしての素養や感性と、人間である自分自身や人間世界との折り合いをつけられないままでいるのは間違いない──少なくとも現時点ではそうだ。
 
宇宙世紀シリーズのガンダムにおいて、ニュータイプは、人類の革新などといわれながらも、人間世界のなかで自分自身をうまく位置付けることに失敗しがちで、たとえばアムロ・レイは軍隊の隅っこにいることぐらいしかできないし、カミーユ・ビダンは精神が壊れてしまった。シャア・アズナブルも、けっきょく政治家にはなりきれず、挙句の果てに小惑星アクシズを地球に落とそうとする暴挙の末、阻止された。ハサウェイも、そのような悩めるニュータイプの一人なのかもしれない。というかそうだろう。彼の悩みには、クェス・パラヤに端を発する過去の過ちの記憶が茨のように絡みついている。ハサウェイは、人間だったのだ。今でも人間である。
 
そうした、人間の人間ゆえの過ち、パプテマス・シロッコやザビーネ・シャルだったら顔を歪ませるような生の感情を出した過ちが、作中では無限に積み重ねられていく。復讐に塗り固められた戦場も、ケネスの女事情も、ケリアとハサウェイの間で起こっていることもそうだった。そうしたうえで、マフティ―組織内の人物描写は、特に今回、嫌味なほどフィジカルだった。肉体を忌み嫌っていても、肉体からは逃げられず、肉体によって生かされ助けられているさまが描かれていた。ブライト・ノアとミライ・ヤシマの現在もそうだろう。
 
もし、ニュータイプの極致が肉体に縛られていないことだとしたら──たぶんそうなのだが──本作で描かれている身体性は、たいへん嫌味である。ハサウェイは、肉体に包囲されている。それは肉欲という狭いものではない。もっと大きな、身体性に依った社会全体や世間全体のなかで、彼は独り相撲を続けているようなものだ。
 
そうした独り相撲のきわめつけが、終盤の、アムロとの邂逅である。実際、あれはアムロとの邂逅でもあるのかもしれないが、まずはハサウェイの独り相撲である。結局ハサウェイは、その独り相撲のなかでシャア・アズナブルのようなことを口走っている。ここから逆に、シャア・アズナブルという人物が社会全体のなかでどうだったのか、ニュータイプのなりそこないの先輩格としてどうだったのかを想像するのも楽しい。そのシャア・アズナブルがララァ・スンの件でハサウェイと同様に紐付けられていたのは、言うまでもないことだ。
 
宇宙世紀モノのガンダムシリーズにおけるニュータイプ概念のなかでは、「わかりあう」に比べて「肉体からの解放」が前に出てくる頻度は、やや低かったように思う。後者が出てくるのは、だいたい、死人の魂が化けて出るような場面(たとえば『Zガンダム』でカミーユが亡霊たちを引き連れてシロッコを倒す時のような)だ。しかし、確かに肉体からの解放もニュータイプ概念は含んでいたはずで、そこに重きを置いてぶちあげてきたのが、今回の『キルケ―の魔女』だった。そのうえで、肉体の束縛から人間の動物性へと矛先を変え、その問題や限界、それがために生じる執着にまでフォーカスするのは本作らしさだと思う。
 
してみれば、本作のハサウェイは人間の執着と戦っている聖者のようでもあり、アムロとの邂逅も、聖者が聖者になる前の苦悩のようだとも連想したくなる。いや、こういうことを連想するのは、けっきょく小説版の顛末が頭のどこかでちらついているからかもしれない。どだい無理なものと戦っているのがハサウェイである。彼は自分自身を救おうとしながら人類すべてを救おうとしている。まあ、ニュータイプが人類の革新であるとするなら、そんな無理だって乗り越えられるのやもしれない。しかし、その当のハサウェイは、こうも口を滑らせているのである──「だったら今すぐ、愚民に知恵を授けてみせろ」──と。それは死亡フラグではないか?
 
ハサウェイの苦悩は、ハサウェイ自身においては発狂の瀬戸際へと彼を追い詰める。でも、それだけでない。その苦悩が世界に向かって投影されれば、それは人間許すまじ、人間亡ぶべし、となりかねない。そして宇宙世紀ガンダムの世界には、そのようなヤバい人がしばしば登場している。
 
ハサウェイは、これからどうなってしまうのだろうか? 私のなかには、それを一種の悲劇として眺めたい気持ちに加えて、一種の喜劇として、いわば「『Fate/zero』の愉悦部として」眺めてみたい意地悪な気持ちも少しだけあったりする。なぜならハサウェイは執着を抱え、それに振り回されていて、自分の救済と人間全体の救済の区別が不明瞭だからである。そこは衛宮切嗣的だ。こういう人間が踊り狂う物語は、ギルガメッシュや言峰綺礼でなくても面白かろう。
 
そのうえ私はオールドタイプであり、動物であり、ハサウェイよりもケネスに近しさを感じる俗物である。前作でもうっすらと感じていた、ハサウェイに対するかすかな反発が、動物であり俗物でもある私のなかでくっきりと像を結んだのがこの『キルケ―の魔女』だった。ハサウェイは、テロリストである。それはマフティーだからというのでなく、人間の性質に対する反逆、オールドタイプの性質に対する反逆でもあるからだ。そのようなハサウェイのありように反発を感じる私のこの性質も、オールドタイプ的なものと言えるだろう。そうした諸々を踏まえるにつけても、本作は見ごたえのある作品だったし、続編は必ず観に行かなければならない。人の業をまるごと背負ってよろよろと歩くハサウェイの顛末を、見届けるのである。
 

2月1日追記:ツッコミたいがネタバレになる。映画の中の情報と真逆の事実誤認があるとだけ伝えておく。 - ahomakotom のブックマーク / はてなブックマーク なにか、大きい見間違いがあるらしい。それは有り得ると自分でも思う。忙しく視聴していたから。ただ、今の時点ではそれを確認できないし、指摘してもらうわけにもいかないので、各自補正してください。
 
 

小さな戦争準備

 
数年前に、ある人から防災グッズをプレゼントしていただき、我が家も防災について考えるようになった。
 

 
防災グッズといっても、このアイリスオーヤマのものほど完璧にパッケージされた品ではない。けれども、これに近いものがすぐ取り出せる体制にたどり着いた。防災グッズのプレゼントは効果てきめんだ! まだ持っていない人にはプレゼントのしがいがあるかもしれない。ただし、既に用意している人も多かろうから、贈る前に要確認だが。
 
災いが絶対にないと言い切れるなら、防災グッズなんて無用の長物だ。けれども巨大地震などでライフラインが不通になった時、それがあるのとないのでは生命や健康の維持可能性は大きく変わる。じきにライフラインが回復するとしても、回復するまでの何時間~何日間かを乗り切れる準備は、軽視できるものではない。
 
 

戦争に備える、とは

 
で、災害について考える延長線上として、戦争について考える頻度が2025年から私のなかでは増え続けている。
コロナ禍が起こるまでは、自分たちの生活空間が戦争と結びつくかもしれないと考える場面はほとんどなかったが、2025年以降、自分たちの生活空間に戦争の火の粉が飛んでくる可能性について考え始めるようになった。ただ断っておくが、これからの戦争はわかりやすく戦争の顔をしていないだろう。そもそもインターネット空間で今起こっていることなどは、後世から振り返って既に戦争の範疇に含まれるかもしれない。その場合、私たちは既に戦争の渦中にあって実は火の粉を浴びていることになる。
 
それ以上の事態、実際に武器が発砲される事態が生活空間に闖入し、日本人の生命や健康、財産などが脅かされる可能性も、少なくとも山や海で落雷で命を落とす可能性よりはあるような気がしてきた。
 
戦争が生活空間を侵すと言っても、ピンからキリまである。一番ひどいのは、熱核兵器で生きながら焼かれることだろう。衝撃波で死傷することだってある。冷戦を経て終末思想の流行した80~90年代に物心ついた者の一人として、私は全面核戦争が起こる可能性を否定できずにいる。そうでなくても、たまたま日本に飛んできた熱核兵器がたまたま自分の頭上で炸裂する可能性だってゼロじゃなかろう。
 
他方で私は、核抑止論ある程度あてにする人間でもあった。キューバ危機を切り抜けたソ連とアメリカのような国については、核抑止論はそれなり当てはまるだろうと期待していた。しかし、核抑止論は、核兵器がその管理と行使に関して冷静で合理的な意思と能力のもとに置かれ、衝動的にならない意思決定プロセスが機能している状態を前提としているだろうから、2026年において核抑止論は以前ほどあてにならないと疑っている。人類が死滅するほどの核戦争がいきなり起こる可能性は依然として低かろうが、まず、いつかどこかで「ちょっと」熱核兵器が炸裂してしまう可能性はあると疑ってしまう。その「ちょっと」が、自分の頭上だったらおしまいだ。市井の人間にはこれに備える方法はない。
 
通常兵器による被害も、市井の人間にはこれに備える方法はない。せいぜい疎開だろうか。しかし疎開が必要な局面とは、すでに色々と終わっている局面だし、そうは言っても関東平野に敵対勢力の大部隊が上陸してくるとか、日本のどこかに殺人ドローンが何百機も投入されるなんてことはさすがにあまり考えられない。
 
こういった、一番最悪な戦争被害については一番備えようがなく、そのかわり一番確率の低い被害でもあるだろう。地震や災害と同じく戦争も、一番ヘビーなやつが一番近いところで炸裂した場合には、どんな備えも通用しそうになく、容赦なく人は死ぬだろう。けれども、そこまでひどい貧乏くじを引く可能性もそこまで高くあるまい。(これは地域による差異を含んだ話で、たとえば一部の離島と東京を同列に論じることはできない部分はある)
 
それよりずっとあり得るのは、ライフラインやインフラが破壊されて生活に支障をきたすこと、手に入れるべきものがしばらく手に入らなくなることだ。サイバー攻撃の場合、社会の麻痺というかたちでそれが現れるかもしれない。
 
そうした水準の戦争被害に関しては、防災グッズならぬ戦争グッズが役に立つかもしれない。……というより、そのとき必要とされるものは災害グッズとある程度重複しているだろう。帰宅難民も戦争被害の一部として容易に想像される。そうやって考えた場合、人が撃たれるより前に、建物が破壊されるより前に、戦争が生活を脅かすカタチはいろいろ思いつく。
 
だから、災害に備えていれば、少なくともある程度までは戦争に備えることにもなる。最もあり得て、最も対処可能で、最も起こりそうな低脅威の戦争への対策はやっておいたほうがよかろうし、皆がそれを心がければ、いわば民間防衛に近い何かになるだろう。
 
この国での生活、この国での生存は、国土防衛とかそういう話の手前の段階として高度なインフラとサプライチェーンによって成り立っているのだから、そこが一時的に寸断される事態に備えることが、とりあえずの戦争準備として手堅い。しかも、この国は災害が多く地球温暖化の影響も深甚なので、よしんば平和裏にすべてが進んでも無用の長物として腐りにくい。日持ちのする食料品、飲料水、簡易トイレ、医薬品が必要な人は一定期間持久できる程度の医薬品、等々については常日頃から意識しておかなければならないなと最近は思う。
 
(いつものように、有料パートには益体もない話しか書かれていません)
 

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「才覚」が求められる時代への不安について(返信として)

 
ブログを使って誰かに返信を書く時、私は自他の違いを意識し、自分の輪郭がいつもよりくっきり見えるような気持ちになります。今回、小島アジコさんから返信をいただいたので、返信がてら、「才覚」が求められる時代に対する私の不安を可視化してみたくなりました。
 
 

1.お手紙ありがとうございます! どんな時代にも頼れるのは「才覚」っすね!

 
orangestar.hatenadiary.jp
 
こんばんは、アジコさん。私の最後に頼れるのは才覚ぐらいしか思いつかない - シロクマの屑籠に返信くださりありがとうございました。おっしゃるとおり、最初っから最後まで、人間、頼れるのは「才覚」しかないっすね!
 
アジコさんがご指摘されたとおり、今回私が言っている「才覚」は広義のもので、才覚、能力、長所、できること、が含まれます。アジコさんが丁寧に補足してらっしゃるように、先天的なものから後天的なものまで、生物学的なものから社会的なものまで、ハビトゥスのような文化資本から資格や学歴といった制度化された文化資本まで、含めて考えるべきものと思います。
 
今回の話の文脈で述べるなら、人間は生まれた時から死ぬまで「才覚」によって生き、その不足に関連して不適応に陥るので、「人が生きていくのに最初から最後まで才覚が必要」ってのは本当にそのとおりです。たとえば赤ちゃんが生まれてきて、やがておぎゃあと泣くのだって「才覚」ですよね。少し前までの社会では、おぎゃあと泣けない赤ちゃんはいきなり社会不適応に陥った、そして高確率で死に至ったでしょう。なんなら母親の胎内にいる時から「才覚」は問われていると言えるかもしれない。生きるってことを、その人の「才覚」を行使していると表現するのは可能だと思います。その「才覚」には、学歴や資格といった制度的なものも含まれます。日本国民やアメリカ国民であることも制度化された「才覚」としてカウント可能で、パレスチナで苦しんでいる人からみれば、それらは実に大きな制度化された「才覚」とうつるでしょう。
 
もうひとつ、アジコさんは時代によって必要とされる「才覚」が変わってくる、とおっしゃいました。これも全く同意です。中世では英雄になれた人が、現代社会では刑務所に入るしかないとか、精神障害に相当すると判定されるとか、そうしたことは大いにあり得そうです。歴史学者のノルベルト・エリアスが述べるところによれば、感情表出が乏しい人間は、中世においては修道院に入らなければならなかったそうですね。
 

 
でも、たぶん今は逆で感情表出が激しすぎる人間、泣いたり怒ったりが激情的である人間は、修道院……には入らなくて構わないかもしれませんが、精神医学の対象とみなされるかもしれません。そのわかりやすい現れとして感情障害や気分障害といったカテゴリーが広まっている現代は、これまで人間の「才覚」として重要だった感情表出の一部がナーフされ、感情表出の穏やかさがむしろ「才覚」としてクローズアップされている時代なのかもしれません。
 
……とはいうものの、私はある部分では、感情表出はまだまだ「才覚」として強いカードだと思っています。激情的な感情表出は徹底的にナーフされていますが、制御された感情表出、戦略的に行使可能な感情表出はコミュニケーション能力をエンハンスするものとして相当強いのではないでしょうか。感情労働への適性にもかかわってくる「才覚」でしょうし。これに限らず、生物学的にできあがっている「才覚」は、全体的に思うほどナーフされていない気がします。たとえばガタイの大きな男性のガタイの大きさは、今でもさまざまな場面で男性の身を助けるでしょう。
 
総体として時代により必要な「才覚」が変わってきているのはそうだと思います。暗記にまつわる「才覚」は情報記憶媒体の増大によって重要性を減じていますし、エネルギー代謝にまつわる「才覚」は、飢餓の多い時代と飽食の時代では正反対に働きがちです──飢餓の多い時代・社会で育った人がいきなり飽食の時代・社会で生活すると、なにかと大変なことになるのは南太平洋諸国の健康問題などを見るとよくわかります。また社会契約が浸透し、暴力が国家に独占されるようになってからは、他人を腕ずくで従わせる「才覚」の出番も少なくなったでしょう。
 
ですから、アジコさんのお話のこの部分までは、私と考えていることはたいして違わないだろうな、と思います。
 
 

それでも「平和な日本社会」は、「才覚」にかかわらず人が生きていけるよう進んできた

 
ここから、私とアジコさんの考えの違ってそうなところを言語化してみたいです。
 
アジコさんのご返信の力点は、「いつの時代にも『才覚』が必要」なのに対して、私の文章の力点は「これからますます『才覚』に頼るほかなくなる」でした。私はアジコさんより、これからの日本社会では今までよりも峻厳に「才覚」が問われる、ぼんやりと生きていられなくなる、と言いたいみたいです。それは、アジコさんがそれとなくご指摘されているように、私自身の不安を反映しているとも想定されます。
 
そう、私は不安なのです。
私が国際情勢や日本社会について書く最近のラクガキの少なからぬ部分は、私が不安であること、その不安を防衛するために言語化すると同時に、自分自身の舵取りを調整するためにやっていることに依っていると思います。もちろんそれだけでもありません。それらに基づいて未来を占い、これからの人間社会や日本社会について自分の問題として捉えるのはモノカキとして有意義で面白い活動です。
 
私は、不登校のダメージから立ち直ってから数年間は自分ごとに精一杯でしたが、研修医になった頃から周囲を見渡し、今後、自分の生存を脅かしそうな要素はなんなのか考えるようになりました。アジコさんは私と付き合いが長いから、私が最初に目をつけたのがコミュニケーション能力だったことはご存知でしょう。汎用性の高い「才覚」群としてのコミュニケーション能力はどんな時代・どんな状況にも有用です。それを「才覚」の筆頭格にしていくのか、それとも「才覚」のぎりぎり合格程度の履修にするのかは人によって異なるでしょうけど、コミュニケーション能力を養って無駄ってことは基本ないでしょう。
 
私は冷戦のさなかに生まれて、大人たちが述べる核戦争の話や、世紀末終末思想などに触れても育ったので、社会は、いずれ悪くなる可能性が高い、日本社会はいずれはもっと苦境に陥り世界は戦争くさくなるだろう、とも漠然と思っていました。少なくとも「平和」が唐突に終わることは不登校になったいきさつでよくわかったのです。そうした漠然とした「平和の終わり」が「いつ」起こるのか、「どう」起こるのかを特定できなかったので、結局なんにも役にも立ちませんでしたが。それでもコロナ禍が起こり、その後に日本と世界で起こったことは社会が悪くなる可能性を示唆してやみません。この社会とこの世界、難しくなっていませんか。
 
「生き馬の目を抜く」という言葉があります。
これから、生き馬の目を抜かなければ生きていけない社会が到来するとしたら、それって「才覚」が今まで以上に必要な社会ですよね? ちょっと極端な比喩をするなら、今、戦火に晒されている国や地域はそうでない地域に比べて死亡率が高い、「生き馬の目を抜く」国や地域になっていると思います。そこまで極端なことに日本社会はならないとはどこかで思っていますが、今より「生き馬の目を抜く」必要性の高い状況になりやしないかと、私は不安をおぼえます。そうなっちゃったら、私自身も、私の知っている人たちも、生きるか死ぬか、伸るか反るか、危ない橋を渡っていかなければならず、そのとき"「才覚」の持ち物検査"に引っかかったら命取りになってしまうかもしれません。それは、怖い未来です。
 
他方で、日本社会はそうした"「才覚」の持ち物検査"になるべくならずに済むような方向に長いこと進歩し続けてきました。
 

 
上掲の本では、私は現代社会をどちらかといえば批判的な目線で論じていますが、それでも今までの日本は、多産多死の時代に比べてより少ない"「才覚」の持ち物検査"で済む社会になってきたのだと思います。20世紀前半などと比較して明らかに「才覚」がなくても生きていける最もそれらしい証拠は、各年齢の死亡率と人口ピラミッドのかたちだと、私は思いますよ。生きているか・死んでいるかというのは大ざっぱな指標ですが、これほど手堅く雄弁な指標もないでしょう。『窓際のトットちゃん』の時代を思い出してください。ある程度裕福な家庭の子女でさえ、色々な「才覚」がなければ生きていけない時代でした:子どもたちは公園で遊ぶ、裏庭で遊ぶ、学校に通学する、そのたびに「才覚」を試されたでしょう。時代がまだ進んでいなかったから可視化されていなかった"「才覚」の持ち物検査"もたくさんあったんじゃないでしょうか。たとえば「いじめ」というマターは20世紀には日本でもアメリカでも「あるのが当たり前」で「子ども時代の試練」で「それをとおして子どもが成長していく」ものでさえありました。そんな時代には「いじめ」によって本当は命を落としていたけれども、それが意識されなかったり表沙汰にならなかったりした例はたくさんあったでしょう。
 
その「いじめ」対策にしても、メンタルヘルスの諸問題にしても、古い家庭の食器棚に埋もれている血と汗と涙にしても、不可視化されてきただけでなく"「才覚」の持ち物検査"として人間を振るい落としてきたわけです。
 
ですが、日本社会の先人たちは、そうした"「才覚」の持ち物検査"によって人が振るい落とされない社会を、「才覚」の多寡にかかわらずできるだけ大勢の人が生きられる、生きやすい社会を目指してきました。昭和20年代に「才覚」の不足で生きられなかった人も昭和60年でなら生きられる、そういう状況があったのではないでしょうか。あるいは昭和60年では忍の一文字しかなかった人が、令和元年にはもう少し大手を振って生きていられる、そういう状況もあったのではないでしょうか。
 
私は進歩主義な人間ではなく、どちらかといえば保守的な人間ではありますが、それでも、日本社会をここまで進歩させてきた人たちの志、「才覚」の多寡にかかわらず人としての権利や尊厳が守られ、実際的な生活状況をも改善させてきたムーブメントは偉大だと思います。戦後、高度経済成長期を経て日本社会は豊かになってきたと言われますが、それは経済的発展だけでなく、人倫にかかわる領域や命にかかわる領域においてもそうだったのだと思いますよ。ひいては「才覚」の多寡をそこまで直視しなくても構わない社会が不完全にせよ一時的にせよ実現した。それはとても豊かなことで「平和」なことだと思います。
 
就職氷河期はそうではなかったとおっしゃる人がいるのが想像されます。それもある程度はそうです。だけど終戦前後の日本や現在のパレスチナに比べれば"「才覚」の持ち物検査"の峻厳ではなかったと私は想像していますし、就職氷河期を抜けてからしばらくの日本社会はだいぶ状況が改善していたと思います。絶対的に考えるなら、そりゃあどんな社会の個人も「才覚」を問われないわけにはいかないし、差異が資本として生産される東京という街ではなおさら強く意識されるものかもしれない。それでも、"「才覚」の持ち物検査"で命を落としてしまうリスクが減り、みんなが相対的に長生きしている昨今の日本は、そうでなかった頃の日本より「才覚」が峻厳には問われていない、「平和」な社会じゃないの? って思わないわけにはいきません。私が今ことさらそう思うのは、未来の雲行きがとてもまずくて、日本政府に限らず、いろいろな国々で今までの暮らしの持続を(いったん、かもしれませんが)諦めている動きがみられるからです。
 
娑婆の風が冷たくなれば、多くの人が斃れるのは歴史の常でした。で、私が生きてきてこのかた、こんなに娑婆の風が冷たくなっているのを観測したことがありません。ですから、生存や社会適応に絶対確実という言葉はなくても、できるだけ「才覚」を大事にしていきたい、願わくは、社会変化を少し先取りするかたちで「才覚」のスキルセットについて考えたいと思っているわけです。そんな個人の「才覚」など一瞬で粉みじんにしてしまう、巨大な歯車の音が聞こえるとしても、です。
 
 

加齢と「才覚」

 
最後に、私の「才覚」の衰えについて。
アジコさんは、私が年を取って「才覚」が枯れてきたとおっしゃいますが、それはそうだけど、そうでもないとも思います。
確かに年を取りました。体力も目減りしているし、新しいことを吸収する力も衰えてきているし。技術上のことは吸収できなくもないけど、感性的な部分で若い衆のそれをうまく消化できていないと感じます。若い衆の感性を消化できないのも、「才覚」の衰えと言えそうですね。
 
ただ、中年が、若い衆の真似しようとしてもいいことなんてないじゃないですか。若い衆の評価尺度で今の自分自身を劣化したと嘆いても面白いことはありません。代わりに、中年にならなきゃわからなかったことがわかり、中年にならなきゃできなかったことができるようになったことをどう活かすのか、に今は集中しなければなりません。
 
私の場合、「本が前より読めるようになった」のは凄いことなのです。私は今、自分がやりたいことの材料として本が読めるんです。最近は月5冊ぐらいならぺろりと読んでしまうし、難読書と呼ばれる本にも挑戦しやすくなりました。私はもう歳ですけど、結晶性知能はあと何年かは伸び続けるでしょうし、伸びが止まっても数年程度、それを行使できるでしょう。この、今までの人生のなかで一番「本が前よりも読めるようになり」「社会についての知見をいちばんよく覚えていて、それらを頭のなかでシナプス結合させている」状態を生かしたいのです。というか、生かそうとしています。2026年現在、そのトライアルはあまりうまくいっていませんが、焦ってもしようがないし、できることをやっていくだけです。で、結晶性知能がだいぶ弱ってきた時に私に問われるのは今とも別の「才覚」でしょう。
 
これって本当は中年期や老年期に限った話じゃないですよね。小学生の時に問われる「才覚」と中高生の頃に問われる「才覚」も異なるし、就職間もない新社会人と、そろそろ結婚とか考えようかって年齢の社会人に問われる「才覚」も異なるのも同じことです。個人の発達心理学的な見地に立つなら、あらゆる「才覚」が衰え果てた後にもなお、新しい課題が生じ、新しい「才覚」が問われるのだと思います。まあ、そうやってがっかりしたり、有頂天になったりしながら私は頑張ってみます。たとえ失うものが多くても、「才覚」の最後の一滴にすがりつくような気持ちで私は生きていけたらなと願っています。では、また。
 
 

最後に頼れるのは才覚ぐらいしか思いつかない

 
togetter.com
 
togetterに、「最後に頼れるのは制度か、それとも血縁か」という話に関して、核家族の耐用年数切れといった話が記されていた。以前から私は個人主義や核家族システムの隘路について考え、書き記すのが割と好きなほうで、たとえば十年前には「人は一人では生きられない。もう一度群れるしかない。」という文章を書いている。私と同じように考える人が増えているならば、今はそういう趨勢にあるのだろう。
 
 

一人暮らし、核家族、個人主義の前提条件を振り返る

 
一応断っておくと、独り暮らしや核家族を貫き、独り身の気楽さ、しがらみからの自由を満喫する方法はこれからもある。ずっと未来においてさえそうかもしれない。しかし、それなら先立つものについて考えなければならない。独り暮らしや核家族を成立させるに足りる金銭や収入、あるいは財産といったものだ。
 
個人主義というイデオロギーをベースとした、独り暮らしや核家族はそりゃあいい。しがらみによるストレスがなく、誰かを助ける必要も、誰かと社会関係を維持する必要も最小限で済む。なんなら、無、で済むかもしれない。そうしたコストは契約社会に丸投げだ。
 
コストがないとは、もちろん嘘である。実際に個人主義を支えるためには、飲食物を手に入れるにせよ、洗濯をしたりトイレを利用したりするにせよ、コストがかかる。それらは有償だ。また一人暮らしは、自由であるかわりに自己責任、すべての労務や雑用を自分でやらなければならない点も高コスト体質で、本来的に高い能力や才覚を要求するものである。一人暮らしで部屋が散らかってしまう人、カード破産してしまう人、生活リズムが乱れてしまう人などは、一人暮らしと表裏一体な自己責任に基づいて生活が維持できない人、自己責任を前提とする生活に能力や才覚がついていけない人という部分が少なからずある。
 
独り暮らしでは誰も自分の能力の弱いところを補ってはくれない。核家族においても、父や母として欠格である部分を祖父母など他の親族が補ってくれることなく、家庭の病理は余さず子どもに転写される。もし片付けが得意な人と同居していたら、もし財布のひもをしっかりと握ってくれる人がいたら、もし父や母として欠格である部分を補ってくれる人がいたら避けられたはずのトラブルが、片付けができない人はゴミ屋敷というかたちで、金銭のだらしない人はカード破産といったかたちで、親ができない人は子どもの育成の問題というかたちで顕在化してしまう。
 
一人暮らしがインフラと法治に支えられている点も見逃せない。1970年代から増え始め、1980~90年代には時代の雛型として賛美されてきた核家族や一人暮らしは、それを可能とする都市の発展やインフラの整備、サービス業の発達と表裏一体のものだった。なにかと便利な『別冊 宝島 80年代の正体!』では、80年代のライフスタイルとしてコンビニを紹介されているが、コンビニが登場する以前の一人暮らしはかなり難しかった。
 

 
コンビニの手前には百貨店とスーパーマーケットもあった。いずれも流通に関連したインフラとサービス業の発展の賜物である。
 
それから家電製品。80~90年代には、独り暮らしを始める大学生はテレビから冷蔵庫洗濯機まで一切合切を買って一人暮らしを始めたものだが、それってお金のかかることで、日本が豊かだったからこそ20世紀の段階で誰もができるように思われたことだった。日本のデフレ経済が続いていたうちは、そうした家電製品をまるっと購入して独り暮らしをするやりかたは、中国製品をもってすればまだまだ可能だった。しかし日本の、というより日本国民の経済的与件が変わってきている今は、同じことをやってのけるためにはそれなりの経済力が必要になる。
 
それとは少し文脈が異なるものの、00年代にはシェアハウスというアイデアが(例えば)phaの提言などとともに広められていった。シェアハウスは、もはや独り暮らしではない。独り暮らしの経済的デメリットを減らしてくれるが、若干にせよ、集団生活のしがらみや相互賦役的な性格を受け入れなければならない部分もある。
 
そしてそのpha自身が『パーティーが終わって、中年が始まる (幻冬舎単行本)』でも触れたように、比較的少ない経済的負担感で独り暮らしのメリットを享受できた背景には、日本がデフレだったこと、究極的には日本が経済的に豊かな国だったことや日本円が信用に足りる価値ある通貨だったことがあった。コンビニやファミレスで、調理済みの、比較的安価でそこそこおいしいものを買ってそこそこ楽しく・健康的に暮らす、というライフスタイルが私たちに成立可能だった究極要因は、日本国の経済的繁栄である。
 
経済大国としての日本は凋落すればするほど、本当は有料で、本当は高価だったはずのそれらサービス業の値段の高さが意識されてくる。そして、私たちが20世紀からありがたがり、少なくともある世代より年上の「トレンディな人々」には常識的に思われていた核家族や独り暮らしの高コスト体質が肌感覚としてもわかりやすくなる。
 
それから治安と法治。
日本は治安が世界有数の水準にあり、盗難や強盗や殺人などに遭遇する確率も世界的にみて低い。それは、自由な個人主義社会を成立させる与件としても重要だ。平和な街だからこそ、独り暮らしで深夜で街を出歩くこと、ひいては酔っぱらった状態で自宅に帰ることが可能になる。また、ここでいう「法治」とは、犯罪が少ないだけでなく、社会契約の論理に基づいた取引や契約があてになること、比較的分け隔てなく対価に見合ったサービスや商品を受け取れることも含む。
 
社会契約の不行き届きな社会はこの限りではない。共同体で顔が利くこと、一族郎党や一門のメンバーであることが対価に見合ったサービスや商品を受け取るにもモノを言った。しかし社会契約の論理が生き届いていて、治安も良い環境ではそうした集団権力をバックグラウンドにしなければならない必要性はほとんどなくなる。
 
医療へのアクセスも、ここで言及して良いかもしれない。2026年現在、日本は誰でも救急車を呼べ、三次救急までフルアクセスできる医療体制を維持しているが、これも、少人数での生活を成立させている縁の下の力持ちだ。医療体制が劣化してくれば、次第にそれもあてにできなくなるだろう。
 
戦前から戦後、21世紀に入ってからも日本社会は治安を向上させ、法治の徹底を推し進め、個人主義的に生きたい人が生きられる社会を実現してきたから、2030年代も2040年代もそうであれかしと思う。しかし、治安と法治が守られるということも、その前提条件が問われなければならない。どれだけ立派なことが法令や憲法に書かれていても、その国の治安や法治の実態、社会契約の論理が遵守される度合いは国によって異なる。たとえばギャングが暗躍する中南米の国々で日本と同じ治安や法治の実態は望むべくもない。アメリカにおいてもたぶん同様だろう。もし、これから治安や法治があてにならなくなっていった場合、私たちは再び共同体で顔が利くことや、一族郎党や一門の一員であること、等々に頼らなければならなくなる。
 
治安も法治も一応維持されるが、それが強者を贔屓にしたかたちで進行していく可能性もある。たとえば社会契約に基づいた法治が強者にとって有利な条件に変わり続けたら、信用スコアが一定以下の人間からはモノを買わない、モノを売らない、といった社会が到来するかもしれない。そのとき、気楽に独り暮らしをやってのけられるのは社会的信用をすでに獲得していて、かつ、経済的にある程度以上恵まれている者である。
 
もし、日本国が治安と法治を今までどおりではなく、信用を司るものを持つ者に便益をはかり、そうでない者に便益をはからない方向に変え始めたら、持たざる者の一人暮らしは今よりずっと面倒になるだろうし、なんとなくそういう方向に日本社会は向かっているようにみえる。と同時に、独り暮らしや核家族が経済的にデメリットが大きいことをある種の圧力として、80-90年代とは正反対に、集団生活への親和性が好もしく語られる可能性はこれから高まっていくんじゃないだろうか。その嚆矢は00年代のシェアハウス論だったかもしれない。どうあれ、これから「おひとりさま」なるものが流行るとはまったく思えない。
 
 

集団生活に馴染めるのも才覚のうち

 
さてそうなると、集団生活ができるか、できないかが個人の社会適応にとって再び重要になってくる。それはひとつの才覚と言っていいレベルのものだ。死命を制するような才覚と言えてしまうかもしれない。
 
来日して働き続ける外国人のうちに、手狭な住まいに複数名が同居している人をみることがある。私が見聞している限りでは、そうした同居生活は色々な国の人もやっていることのようだ。
 
そうした手狭な同居はプライバシーすらうっちゃって低コストをきわめたシェアハウス的なものであり、その経済的なメリットは計り知れない。しかし、プライバシー感覚を自明としている人にとって、そのような集団生活はストレスが多すぎてなかなか耐えられないものだろう。
 
プライバシー感覚とストレスの問題は、だからどういう環境で生活可能か、どういう環境までなら耐えられるかを左右する。集団生活に適したライフスタイルか否かや、集団生活にまつわるストレス耐性の高低が、生活に要する経済的コストに直結する。独り暮らしや核家族が社会の当たり前だった時代には、そうした集団生活適性はせいぜい職場でしか問われないものだったかもしれず、たとえばフリーターのような生き方が実際に可能だった時代には集団生活適性を無視しても蔑視しても構わなかった。
 
だが、経済的に下降していくこれからの日本社会では、集団生活適性が問われる場面が増えてくるよう思われる。経済的/社会的なクレジットが乏しければ乏しいほどそうだろうし、東京のような、土地代や家賃の高いエリアに暮らしているほどそうだろう。先立つものがなければ、プライベートが維持できる空間を借りたり買ったりすることはできない。クレジットが乏しければ、シェアハウスか、もっとプライバシー空間の乏しい生活空間で生活しなければならないかもしれない。そうなった時、集団生活適性が再び重要になる。見ず知らずの者と集団生活をする、ということは、素養であると同時にハビトゥスや文化資本でもある。それに恵まれていたから助かる人、それが乏しかったからトラブったという人は今まで以上に出てくるだろう。*1 
 
 

才覚が無くても生きていけた時代を、平和と呼ぶ

 
「集団生活適性は才覚だ、それが問われる場面が増えてきた」と書いたが、もちろん才覚はそれひとつではないので、別の才覚が優れていれば、なんなら独り暮らしを続けることも核家族をやっていくこともできよう。一番わかりやすいのは経済的に豊かであることだ。何千万円、何億円とお金が入り続ける人なら、独り暮らしも核家族もどうってことはない。
 
誰とでも仲良くなれる才覚、誰かの心を穏やかにできる才覚、誰かを喜ばせる才覚などもきっと頼りになるに違いない。学力も、今までと同じぐらいには重要だろう。
 
なんであれ、資本主義社会では、その社会に適合したかたちで才覚を示すことができれば理論上は経済的成功を手に入れられる。治安が極度に悪化しても護衛など雇えるかもしれないし、というより、治安の良い場所に転居できるだろう。クレジットを山ほど所有し、いつでもどこでも着の身着のまま生きられるのは個人主義者の夢を体現したご身分だが、それをやってのけられる人間はゼロにはならない。ただし、その難易度は上がっていくだろうし、そもそも、それほどまでにクレジットを手に入れられた人間が核家族、さらには独り暮らしを続けるのかといったら、さてどうだろう、という気もする。
 
そこまでの経済的成功を達成しなくても、才覚がなんらか社会と噛み合えばそれは生きやすさに繋がる。集団生活適性も、そうした渡世の才覚の一つに過ぎない。たとえ今後、その重要性が漸増し、群れて生きる価値やライフスタイルが見直されるとしても、過大評価するあまり、それを社会適応の必要条件や十分条件とまでみなしてしまうのは早とちりだろう。
 
しかし、これだけは言える。
どういうものであれ、これからを生きるには才覚が必要だ、と。
そして才覚がなくてもぼーっと生きられた時代を「平和」と呼ぶのだ、とも思う。
 
これは、東浩紀『平和と愚かさ』を読んでいる最中だから連想されたこと……というより、似たことが『銀河英雄伝説』にも書かれていたように記憶している*2。それで言えば、日本社会は「平和」でない方向に着実に向かっている。2026年現在、日本とその周辺がわかりやすい戦火にさらされているわけではないが、それでさえ、ここでいう「平和」は脅かされているし、まさにその「平和」が脅かされているさまを意識しながら東浩紀は新著を書いたんだろうな、などと想像したりもする。
 
そして、『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリー風に言えば、その「平和」がたかだか数十年続いただけでも尊いものだったし、そのたかだか数十年を作り上げてくれた先人たちには足を向けて寝られない感じだ*3
 
しかし歳月は流れ、そのたかだか数十年の「平和」も命数を使い果たしたようにみえてならない、日本においても、グローバル資本主義社会ぜんたいにおいても。社会構造や社会体制が激変する際には、天災や疫病や戦乱が起こるだけでなく、起こらなくても、才覚が問われることになる。最後に頼れるのは才覚ぐらいしか私には思いつかない。ただし、ここでいう才覚のうち何が活きやすく、何が死にやすいのかはまだ明らかではない。見当つけて、爪を磨いていくしかあるまい。
 
 

*1:日本は少子化に向かい、家屋が余ってくるとも言われているが、余ってくる家屋のうち、十分にメンテナンスがされ、居住可能であり続けるものが何割ぐらいか、ひいてはそのようにメンテナンスが行われ続けた物件がどれぐらいの費用で贖われなければならないものかを、考える必要がある。古くて不便な物件が現在より手頃感が出るぐらいのことはあるかもしれないが、それにも限界はあるだろう。

*2:追記:調べたところ、「平和というのはな、キルヒアイス。無能が最大の悪徳とされないような幸福な時代を指して言うのだ。貴族どもを見ろ」でした。

*3:たぶんだが、次のたかだか数十年の平和を作り上げられるのか、準備できるのかが、これから私たちに問われるのだろうとも思う

「内容のないコミュニケーション」を、「面目行為」理論で深く理解する

 
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2017年5月にブログに書き、今年、books&apps用にリライトした「内容のないコミュニケーションを馬鹿にしている人は何も知らない」。
 
上掲リンク先では、「コミュニケーションには報連相的に正確な情報を伝える機能のほかに、不審を取り除き、親しさを確認しあう挨拶みたいな機能もある」さまを紹介した。そうしたコミュニケーションが得意なことは立派な長所だし、それを疎かにすると人間関係に支障をきたす。
 
それから歳月が流れ、私なりにコミュニケーションについて色々な文献から学んだ。この「内容のないコミュニケーション」について、学問的にもっとうまく表現している人はいないかと探し回ったりもした。去年、かなり近いことをまとめている社会学者を発見したので、その人の論説に基づいて「内容のない会話」について再考してみたい。
 
 

社会学者は、それを「面目行為」と呼んだ

 
しょうもないことしか話していないにもかかわらず、「内容のないコミュニケーション」がこれほど広く行われ、重宝されているのはなぜなのか? 人間は合理的な生物だから、本当に意味も役割もなかったなら、そんなことにわざわざ時間やエネルギーを費やさないに違いない。だから必ず、内容のないコミュニケーションもなんらかの意味や役割や機能を担っているはずだ。そういう風に考えながら、進化生物学や社会学の書籍を探し求めると、それらしい答えがそれなり見つかる。たとえば進化生物学に関連して考える場合、「毛づくろいコミュニケーション」という言葉をスタート地点に色々な知見が見つけられるだろう。
 
社会学に関連して考える場合、これから紹介するゴッフマンという人の論説が非常に面白く、参考にする価値があると私は感じている。
 

 
ゴッフマンは社会学領域では有名人で、スティグマという概念についての論説をはじめ、かなり凄いことを幾つもやってのけた社会学者だ。世間一般であまり知られていないのは、ひとつには彼の著作物が日本語でも英語でも相当に読みにくいせい、もうひとつは、世間一般の人が疑問にすら思わないことをクドクドと論述していて興味を惹きにくいせいだと思う。
  
しかし、ゴッフマン『儀礼としての相互行為』は私には非常にエキサイティングな本だった! (確かにものすごく読みづらかったが)
ゴッフマンは述べる、私たちはあらゆるコミュニケーションをとおして、おたがいの面子や面目、体面、信用といったものを守り合っている。そして社会のなかで行われるコミュニケーションには、そうしてお互いに面子や信用を守り合うような構造が含まれている、と。
 
ゴッフマンは、そうしてお互いの面子や面目、信用や体面を守りあうための行動を「面目行為」や「(社会的)相互行為」と呼び、それらが人間同士が無事平穏に共存・協力していくうえでたいへん重要なさまをつまびらかにする。挨拶や天気の話題、下校中の女子高生同士のサイダーのような会話といった、報連相的な情報伝達の意義が乏しいやりとり、いわゆる「内容のないコミュニケーション」を、ゴッフマンなら「面目行為」や「相互行為」の典型例とみるだろう(以下、「面目行為」に表記を統一する)
 
ご近所さんとたまたまバス停で出会った時や、それほど仲の良いわけではない会社同僚と旅先の待合室で出会った時、私たちはまず挨拶をかわし、益体も無い会話をかわしたりもする。そういう時に報連相的な情報伝達が重視されることはまずない。重要なのは、会話をかわすこと、その会話が無事平穏に進行していくことだ。
 
ではその、無事平穏に進行すればなんでも構わない会話にはいったいどんな機能があるのか? そうした会話が果たしているのは、たまたま出会った者同士の人間関係に波風が立たないようにする機能、お互いの人間関係を今までどおりに保つ機能だ。その機能さえ果たせるなら、会話の内容はなんだってもいい。だからこそ、天気の話題のような本当にどうでもいいことを話したり、わざわざ質問するまでもないことや、相手が簡単に答えられることを質問したりもする。そうした会話でとりわけ意識されるのは、お互いが気分良くコミュニケーションをやってのけ、無事に終えること、それで人間関係の平穏な状態が保たれ、後腐れや争いや不信の種を残さないことだ。実際問題、それでいいのだ。そんな場所でディベートやマウンティング合戦をしなければならない道理はない。
 
後でも触れるが、実際には人間のコミュニケーションの大半にこうした「面目行為」の機能が含まれているし、報連相的な情報伝達が肝心なコミュニケーションにおいてすら、コミュニケーションに練達した人は手抜かりなく「面目行為」を(報連相的な情報伝達と並行して)やってのけるものである。しかし、「面目行為」の機能について一番意識しやすいシチュエーションは、なんといっても「内容のないコミュニケーション」だろう。なぜなら、「内容のないコミュニケーション」においては「面目行為」がコミュニケーションの副次的な目的でなく、完全にメインの目的となって意識されるからだ。
 
当たり障りのない会話が求められる時、ほとんどの人は、会話内容よりもどのように無難に会話するのか、どのように人間関係に差し障らないかたちで会話をゴールまで持っていけるのかに意識を向ける。そのときに重要になるのは、情報を正確に伝達することでも自分の卓越性を誇示することでもなく、相手の面目や面子を損ねないこと、それから自分の面目や面子をも損ねないことだ。お互いの面目や面子が損なわれず、今までどおりぐらいにお互いが信用を保持できていれば、その会話は成功である。お互いのことをいくらか見知った者同士の「面目行為」ならば、そこからさらに進んで、お互いの仲や信用が向上することまで期待される場合もあるかもしれない。
 
だからこそ、「何を話したのか」よりも「どう話したのか」が重要である。お互いの顔が立てられ、お互いの面目や面子が守られるなら、何を話したって構わない。と同時に、お互いの顔が立って、お互いの面目や面子さえ守られれば、それで成功なのだ。どうすればそれが可能になるのか? その第一が、挨拶をかわすことであり、第二が、礼儀作法にもとづいてお互いの面目や面子が守られるようなコミュニケーションをやってのけることだ。
 
 

面目行為補足1:「会話しない」ことが最善の面目行為になる場合がある

 
では、挨拶や天気の話をいつでもどこでも必ずやるのが「面目行為」の極意なのか?
 
ゴッフマンは、そうではない、と述べる。彼は、むしろ会話をしないこと、無視しあうことさえ「面目行為」に該当することさまを記している。あるいは、お互いの面目や面子が守られその場の平穏さが保たれるためにはお互いにアテンションをそらしあうことが最善である場合も記している。
 
たとえば人間は、お互いに挨拶をするのが気まずい時には挨拶を避けあい、気づかぬふりをしたり出会わなかったことにしたりする場合がある。お互いの面目や面子や信用を守る最善の選択がそれである場合は、それこそがその場で最善の「面目行為」ってことになる。また、エレベーターのなかでお互いがお互いのことをじろじろ見ないで、天井や壁を見合っていることはよくあるが、これも「面目行為」に相当する。エレベーターのなかで視線をそらせ合う行為は、見知らぬ者同士が下手にコミュニケーションを始めないこと、お互いを不要に詮索しないことで、お互いの面目や面子を守りあう行為として機能する。こうした振る舞いは敵意や不信の念をもっていないことを示し合わせるうえでも重要だ。
  
関連して、「儀礼的無関心」という言葉もある。
 

 
「儀礼的無関心」とは、同じくゴッフマンの著書『集まりの構造』に登場するキーワードの一つだ。都会の人は、見知らぬ人をむやみにジロジロと見たり、唐突に話しかけたりせず、お互いに無関心を装うことでお互いのプライバシーや個人空間を守りあう。これも、「面目行為」の一種とみることができよう。親しくあるべき人と親しく会話すること、挨拶をかわすべき人と挨拶をかわすこと、それらが「面目行為」として重要で、お互いの面目や面子を守り、敵意や不信が炸裂しないように機能するだけでなく、見ず知らずの人と見ず知らずの間柄を保つこと、無関心であるべき人と無関心の間柄を保つことも「面目行為」として重要で、お互いの面目や面子を守り、敵意や不信が炸裂しないように機能している点を明らかにしている点で、ゴッフマンの「面目行為」概念は「内容のないコミュニケーション」概念よりも広範囲のコミュニケーション行動をカバーしている。
 
ここから考えたくなることはたくさんある:
たとえば「挨拶や天気の話をしたほうが良い」は必ず正解とは言えず、「挨拶や天気の話をかわすべき時に、かわすべき相手とそれをやるのが良い」が正解であることが想定されよう。見知らぬ相手にいきなり挨拶や天気の話を持ち掛けるのは不自然で、かえって不信の念を生み出しかねない。飲み屋において、お互い見ず知らずの一人客同士が少しずつコミュニケーションを始める場合も、唐突に挨拶や天気の話から入るのでなく、はじめは「儀礼的無関心」に近いところから、少しずつ間合いを近づけていくだろう。たとえば飲み屋のマスターとの会話などをきっかけとして話題が少しずつ重なって会話が始まるような工夫をしたりして、どうあれ、「面目行為」の基本的なルールに反さないよう工夫をこらすものだ。
 
それから、報連相的な情報伝達が第一に求められる場面でも、「挨拶や天気の話をしたほうが良い」と考えるべきではなかろう。絶対に連絡間違いがあってはいけない分野の定式化された業務連絡──たとえば自衛隊のような──においては、いかにも「面目行為」じみたコミュニケーションはやるべきではない。というより、そのような定式化された業務連絡においては、定式化された業務連絡をきっちりやってのけることこそが「『面目行為』としても最善」になる。業務、部署、場所、メンバー、状況などによって、コミュニケーションにおける報連相的な情報伝達の重要性の割合は上下動するが、「面目行為」がよくできている人は、そうした上下動にあわせて、TPOに即した、最適な「面目行為」をアウトプットするだろう。*1
 
あるいはここから、東京のようなメガロポリスに住んでいる人が、いったいどれだけ「面目行為」をやらされているのかに思いを馳せるのも良いかもしれない。
東京での生活では、家庭・学校・職場での「面目行為」に加えて、通勤通学中に数えきれないほどの人とすれ違っていて、そのたびにいちいち反応していたらきりがない。ちょっとぶつかりそうになっても因縁をつけあわず、ちょっと気になる人を見かけたとしてもジロジロと眺めて詮索することなく、「儀礼的無関心」という「面目行為」をキープしている。じろじろ見てしまったら何か援助せずにはいられない雰囲気の人に気づかぬふりをして通り過ぎるのも「面目行為」の一種にあたろう。援助せずにいられない雰囲気の人を援助しない状況は、少なくとも自分自身の面目や面子にかかわる状況ではある。しかし、気づかぬふりをして通り過ぎることができるなら、自分自身の面目や面子は汚されない*2
 
 

面目行為補足2:自分の面目をつぶすと、相手の面目もつぶれる(逆も然り)

 
ゴッフマンの「面目行為」について考えるうえで、もうひとつ重要で、アイデアとしても面白い点を補足したい。
それは、彼が「面目や面子とは、お互いに保ちあうもので、つぶれる時には双方つぶれるものだ」と考えていたことだ。
 
挨拶をきちんと行い、天気の話題などもうまくやってお互いの「面目行為」がうまくいっている時には、お互いの面目や面子は特に傷つくことなく、信用も守られ、敵意や不信が芽生えることもないだろう。では、どちらかが挨拶をしなかったり、どちらかが非常にそっけない反応しか返さなかったりした場合、どちらの面目や面子が傷つくだろうか? 
 
挨拶をしてもらわなかった人の面子や面目が潰れるのはなんとなく想像がつくだろうが、ゴッフマンはそれだけとは考えなかった。挨拶をしなかった側も面子や面目をみずから潰しているのである。挨拶に限らず、「面目行為」には礼儀作法に基づいてコミュニケーションを遂行し、それでもって相互-面目-アライアンスとでもいうべき間柄を確認しあう機能があるわけだが、どちらかがそれを破り、なおかつ後からフォローもしなかった場合には、面目は双方において丸つぶれになる。だから、「内容のないコミュニケーション」ひいては「面目行為」を軽視している人は、加害者でもあり被害者でもあるような感じになる。「面目行為」をちゃんとやらなかったことが、相手に敵意や不信を生み出すリスクとなるだけでなく、相手の面目や面子まで損ねてしまっているのである。と同時に、そうすることで自分自身の面目や面子も保たれず、信用されにくく敵意を持たれやすくなってもいるのである。*3
 
だから、上掲リンク先を読んで「挨拶や内容のないコミュニケーションをできるだけ避けるのは誰にも迷惑をかけない、自己責任・自己選択の問題だ」と考えた人は、考えが足りていないと言える。挨拶をはじめとする「面目行為」をおざなりにするとは、自分自身の面目や面子をおざなりにするだけでなく、家庭や学校や職場や趣味のスペースで一緒に過ごす人々の面目や面子までおざなりにしているのである。言い換えると、人と人がお互いのことを信用しあい、無用の敵意や不信を回避しあうためには、人間関係の潤滑油としての「面目行為」が必要不可欠である、ということだ。それは夫婦や親子といった、最も親しいと考えられる間柄から、都会の雑踏ですれ違う人々といった最も疎遠と考えられる間柄にまで言えることである。適切な「面目行為」をやっていないこと、または、できないことは、必ず自分の面目や面子を潰し、と同時に、周囲の人の面目や面子をも潰してしまう。だから信用もされにくくなるし、無用の敵意や不信を回避しづらくもなる。夫婦の場合も、「面目行為」を意識的にやっているのと、マトモにやっていないのでは離婚可能性は天と地ほど違うだろう。
 
 

「面目は双方で保つ/双方で潰れる」という示唆から得るものは多い

 
結論は明白である。「面目行為」ができていない人は、自分の面目を保つことができず、他人の面目を保つこともできない。よって、信用を損ねやすく、不信を回避するのも難しくなる。ひいては社会適応も難しくなるだろう。
 
今回の文章で強調したかったのは「面目や面子、信用、敵意の回避といったものは『面目行為』という協同作業によって保たれるのであって、一方がおざなりにすれば両方が社会的ダメージを受ける」という点だ。職場や学校や趣味のスペースの社会的平和が保たれるためには、お互いの面目や面子が傷つかないコミュニケーションができていなければならず、それをなおざりにする人物が一人でも混じっていれば、その人物自身だけでなく、その周囲の人物も面目や面子をつぶされる可能性があり、そのスペースの平和も破られることになるだろう。なお、「面目行為」はスペースごとに要求水準が異なっていて、たとえば理系の学生向けシェアハウスで要求される「面目行為」の水準と、ホワイト企業の総合職オフィスで要求される「面目行為」の水準は異なっている。これは、自分にふさわしい社会適応のスペースについて考える際に、是非とも考えておくべき変数のひとつになる。
 
こんな風に、「面目はお互いに保ちあうもので、面目が潰れる際には一方だけが潰れるのでなく、双方で潰れる」というゴッフマンのアイデアは、コミュニケーションの儀礼的機能やコミュニケーションの構造主義的な構造について考える際に非常に役に立つ。人が嫌われていく過程を振り返る際にも、どんな人が疎まれやすいのかを考える際にも役立つだろう。
 
人間社会は「面目行為」の効能ぬきは成り立たないものだし、人間という種には「面目行為」が必要不可欠なのだろう。少なくとも、そう考えることで見えてくること、理解できることはたくさんあるし、社会適応を有利に運ぶヒントにもできるだろう。
 
 

*1:なぜ、そんな細やかに「面目行為」をわざわざやってのけるかって? それは、そうしたほうがよりお互いの面目や面子が守られ、より敵意や不信を遠ざけられるからである。それをうまくやってのければのけるほど、その場において信用を得やすくなり、それを拙劣にやってしまえばしまうほど、その場において信用を得にくくなるからだ。だから「面目行為」の巧拙はそのまま、その場における影響力や政治力の高低にも影響を及ぼす、とみるべきだ。この「面目行為」がよくできて精神的負担も少ない個人は、コミュニケーションに関するアドバンテージを獲得するだろう

*2:援助せずにいられない雰囲気の人がわざと街角に存在している時、たとえば物乞いをする時などは、この面目行為の性質を逆用して、通りすがりの人から援助行動を引き出すことができる。たとえば物乞いがみすぼらしい恰好をして、お金を恵んでくださいとジェスチャーし実際に恵んでもらう行為は、物乞い自身の面目や面子や体面を保つには最悪で、そもそもそういうことをしている段階で、面目や面子はすでにゼロと言っていいほど落ち切っている。だから物乞いは自分自身の面目や面子が失われることを気にすることなく、通りすがりの人が面子や面目を守るべくコインを投げ込んでくれるのを待つことができる。しかし都会に住んでいる人は「儀礼的無関心」という「面目行為」の一種に長けているため、そう簡単には物乞いのこうした戦術には乗せられない。してみれば、物乞いが存在する街角では、「面目行為」をベースルールとした戦いが行われている、とも言える

*3:ついでに言うと、第三者がその場に居合わせた場合、第三者の面目や面子まで損ねてしまうことになろう。目の前で「面目行為」が失敗しているのを見た第三者は、自分が間を取り持つべきか否かを判断しなければならなくなり、無視するにせよ、取り持つにせよ、ばつの悪い思いをする。かりに第三者がフォローを入れると決断し、それがうまくいき、全員の面目や面子がある程度まで保たれたとしても、その出来事自体が、第三者も含めた全員の面目や面子に多少の上下動をもたらすだろうし、心証の変化をもたらすのは避けられず、その場で構築されてきた相互-面目-アライアンスを動揺させてしまうからだ