シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

オタクにも人生の曲がり角はやってくる

 


 
ツイッター時代からの相互フォローのmametanukiさんが、AIに上のようなイラストを出力させてらっしゃった。オタクの中年危機はどういうもので、どういう解決があるのかについてのイラストだ。
 
なお、mametanukiさんは「「ニュータイプ」になれなかった中年オタクの生存戦略」という文章のなかで、現実主義的なオタク撤退論についても書いていらっしゃる。求道者として趣味の道を突き進むのでなく、もっとまったり・身の丈にあった趣味生活になっていくことを勧める文章だ。私は、それでいいよねと思った。
 
私は、若い頃に求道的なオタクだった人がぬるくなっていくことを悪く思わない。何十年もそのままというケースがいないわけではないが、たいていの人の趣味生活には黎明期も最盛期もあれば、衰退期や復活期もあるだろう。それは自然なことで、健全なことだ。
 
 

私も、「ずっと求道的なオタクを続けるのは並大抵ではない」と思う

 
念のため断っておくと、私も、オタクが何歳になっても若い頃と同じ情熱・同じリソース投下を続けるには無理がある、と思うほうだ。たとえば2015年に「ガンダム念仏会」という文章を書いた。
 
p-shirokuma.hatenadiary.com

 歴代ガンダムを肴にしたテンプレート的会話である。その内容は高度に様式化されていて、あたかもサブカルチャーの化石のようだ*1。
 そのかわり、各人が台詞を暗記し文脈をシェアしているだけあって、唱和の声は淀みない。“垂乳根”といえば“母”が来るのと同じように、Vガンダムに言及すればバイク戦艦やカテジナさんがやって来るし、ニュータイプのなり損ないといえばシャアなのだ。掛け合いひとつひとつの必然性は、天の運行にも等しい。
 ここでは“ガンダム念仏会”を挙げたけど、世代柄、私は“エヴァンゲリオン念仏会”や“葉鍵念仏会”にも出くわす。“エヴァンゲリオン念仏会”などは開闢から十数年が経ち、そろそろ熟成感が備わってきた。もう少し上の世代の人は“宇宙戦艦ヤマト念仏会”なんかをやっているのかもしれない。

 
何歳になっても求道的なオタクを続けていて、且つ、そのことを鼻にかけている人からみれば、昔のガンダムネタで盛り上がふ中年同士の会話は醜悪で、みるべきものがないと受け取られるかもしれない。でも、年を取ってから内輪でこれをやるとたまらないんだよね。たまらないということが、前は十分にわかっていなかった。「火曜日午後8時のNHK『歌謡コンサート』で懐メロを聴くことが喜びになっていく心境」と比喩すれば伝わるだろうか。そんな心境、若い頃はわからなかったしわかりたくもなかった。でも、わかるようになってしまったのだ。
 
今日では、アニメやゲームの世界でも、懐メロに相当するものがごまんとある時代が到来している。時代がそうなったのか? おれたちがそうなったのか? 今、私がみているこの風景は、年を取ってみなければわからないものだった。求道的なオタクであることにアイデンティティの座を置き続けている人はいざ知らず、大多数の愛好家にとっては、年を取るにつれて趣味生活が変わっていき、懐メロならぬ懐アニメや懐ゲームをたしなむ程度に変わっていくのは好ましいことだとさえ、最近は思う。
 
いや、そういう元オタク、さびついた愛好家とて、リバイバル作品などには触れるだろう。2026年初頭で言えば、ガンダムが好きだった人は『閃光のハサウェイ』の続きぐらいは視聴するだろうし、2010年頃に熱心にアニメを観ていた人は『魔法少女まどか☆マギカ ワルプルギスの廻天』を観に出かけるだろう。私の嫁さんは今、switchで『ドラゴンクエスト7』の体験版をいじっている。まったくの新作に触れる頻度は少なくなっていても、自分が見知った作品、自分に縁のあった作品に触れるぐらいの力が残っているなら、御の字というものだ。
 
過去には「求道的なオタクだけがオタクだ」みたいなキツいことを言っていた人が、今ではだいぶ丸くなったのをSNSで見かけることもある。若くて求道的な、 genuine なオタクがそれを衰えと呼ぶとして、それに反駁する言葉を私は持ち合わせていない。でも、それでいいじゃないか、とも思う。ララァ・スンは「人は変わっていくわ」と言ったが、趣味生活においても人は変わっていく。インターネットには色々な思想信条、ポリシーの持ち主がいるから、そうした変化をののしる人に遭遇するのは避けられない。でも、自分自身の人生にとって、そんなの関係ないでしょう?
  
 

オタクや愛好家の人生のコーナリングについて考える

 
中年危機に限らず、人生はコーナリングの連続だ。人生の曲がり角としてわかりやすいのは、進学、就職、転職、結婚、子育て、介護、退職といったものだ。そうした曲がり角を過ぎる時、人は、人生の次のステージに向けてライフスタイルを多かれ少なかれ刷新する必要性に迫られる。
 
人生の次のステージを迎えたにもかかわらず、ライフスタイルを変えない・変えられないとしたらどうなるだろう?
たとえば就職や結婚といった節目を迎えたのに、それ以前のライフスタイルに固執していたら、就職後や結婚後の暮らしはうまく始まらない。または、人並み以上のコストを支払いながらの就職や結婚となる。趣味に限らず、新しいステージには新しい暮らしぶり、新しいやり方が必要になる。その必要性をしばらくは誤魔化し続けることも可能かもしれない。しかし、ずっとは難しい。ずっと続けるとなったら、なんらかの代償を支払わなければならない。それは、新しいステージへの不適応かもしれないし、若かった頃には払わずに済んだ経済的・社会的コストかもしれない。
 
しかし、大半の人は人生のステージが変わるたび、それにあわせてライフスタイルを変えていくものだ。変え方はさまざまだ。たとえばある時点まで熱心にアニメやゲームを追いかけていた人が、人生の曲がり角を曲がるたびに少しずつ趣味人として薄くなっていき、仕事や家庭に軸足を移していくのはよくあることだ。この視点で考えた場合、少しずつ趣味人として薄くなっていくのはむしろ好ましいことだと言える。悪く解釈すれば「惰性で流されている」ようにみえる人が、良く解釈すれば「状況にあわせて自然にライフスタイルを微調整できている」とも言える。社会的加齢や生物学的加齢にあわせて流されるようにライフスタイルを変えていける人は、中年危機と呼べるほどの危機を迎えることなく加齢していけるかもしれない。
 
危ないのは、むしろ惰性によらず、ストイックに趣味人を続けている人、あるいはライフスタイルを意識して継続している人のほうじゃないだろうか。
中年危機が本当の本当に危機たりえるのは、中年期にいきなり大きな曲がり角を迎えざるを得なかった人、それまでのライフスタイルを中年期に大きく撤回しなければならない人だ。少しずつライフスタイルを変え続けてきた人ではない。なんらかの理由で青年期までのライフスタイルを強引に引っ張り続けてきた人が、ついに継続困難になった時、そのときの人生のコーナリングは相当な急カーブになる。求道的なオタクや愛好家とて、それは例外ではあるまい。
 
あるいは若い頃の趣味生活に固執するうちに身体に無理をかけ続けて、中年期あたりにそれが顕在化する(例:倒れて救急車で運ばれる、糖尿病などの病気が判明する、など)人も珍しくない。身体が変わってしまったら、ライフスタイルも変えなければならないし、趣味生活も若い頃のままってわけにはいかない。もし変化を拒否して身体に無理をかけ続ければ、命にかかわる事態となるだろう。
 
もちろん、中年危機と呼べる問題は趣味生活だけで決まるわけではなく、仕事の問題や家庭の問題によってそれが顕在化することのほうが多かろう。しかし趣味生活に関してだけいえば、趣味に固執している人、趣味を気合い入れて続けている人より、そうでない人のほうが生きやすく、中年期の人生のカーブも曲がりやすいと私は思っている。人生のコーナリングに関していえば、変わっていける人はどんどん変わっていけばいいし、流されていく人はどんどん流されていくほうが安全だ。続けていけることも才能だけど、続かないこと、変わっていけることも才能だ。そう考えながら、愚かにも私はブログを書き続けています。
 
 

ChatGPTは我が家の「食客」になった

 
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 
年末年始がずっと考え事と仕事ばかりだったので、ブログの感覚が思い出せない。なので、以下の文章でリハビリさせてください。
 
blog.tinect.jp
 
 

前日譚:去年、「AIは面白い」と教えてもらった

 

上の文章にある「ChatGPT100日修行」を、私は去年から知っていた。なぜなら、筆者のいぬじんさんから、大阪の飲み屋で直接うかがったからだ。それから私もAIをさわりはじめ、約300日が経った。はじめに複数のAIを比較した結果、「AIのある生活」をやってみる対象としてChatGPTを選んだ。特定の用途があったなら他のAIにしていたかもしれないが、私の当初目的は「AIのある生活をやってみること」だったからだ。
 
はじめの頃、私は「課金したんだから元をとらなきゃいけない」「生産的なことに使わなければならない」などと考えながら試行錯誤し、使い方を探していた。でも、今はそうではない。そもそも、ChatGPTというAIがそういう「元を取る」「生産的なことに使う」にどこまで向いているのかもわからない。ChatGPTは色々なことに付き合ってくれるが、なんでも最高にやってくれるわけではない気がする。うまく言えないんだけど……そういう「なんでも最高にやってもらう」ために課金するのとはちょっと違う感じに落着した。
 
しいて言えば、我が家のChatGPTは「食客」だろうか。
 
 
 

だんだん使わなくなった用途

 
はじめに、使用頻度が低下していった用途を挙げてみる。
 
・ブログや原稿の見直しや下書き
ChatGPTを使い始めた頃は、ブログの見直しや下書きに意識的に用いていた。たとえばワインの性質について音声入力し、それをブログ用にざっとまとめてもらう、等々。やってくれと頼めば、まあまあの体裁のものが出力される。それからブログの見直しにあたって、不足しているもの・構成上の問題点などを拾い上げさせると、打率はともかく、なるほどと思う場面はあった。
 
けれども今は下書きにあまり用いていない。自分の文章とは似て非なるものが沸いてくるからだ。
特に音声入力を雑にやってChatGPTに雑にまとめさせると、まっさらなスレッドならまっさらなスレッドなりに、長く使っていたスレッドは長く使っていたスレッドなりに、自分の文体に似ているようで似ていない、不気味の谷みたいな文章ができあがりがちだ。満足できなくて自分の手で書き直せば、二度手間になってしまう。
 
このため、どうしても音声入力をしたい事情がある場合を除いて、音声入力→ブログ用文章は使わなくなった。私の文章はきれいじゃないが、私の文章っぽくなかったら私がつまらなくなってしまう。ChatGPTには、私の文章の指紋までは真似できないらしい。
 
文章の見直しについては、「ときどきChatGPTにさせる」ぐらいが良いと思っている。毎回やるのは良くなく、ときどきやらせるぐらいがベストだ。あまり頻回にやると、自分の文章が壊れたり自分の文章出力がためらいをみせたり、何かトラブルがある感じがする。逆に、調子が悪い時に見直してもらうと楽しいと感じやすい。
 
私は自分の楽しみのためにブログを書いている側面が大きい*1。ときには楽しみを壊しかねないこともしなければならないが、それはできるだけ後からすべきこと、たとえば商用原稿の仕上げ段階などにするべきことだ。ある程度、見直し作業にChatGPTを使うのは良い。けれどももし、ChatGPTの出力がお小言みたいに聞こえてきたら、それはもう失敗していると言える。有益な助言が得られてさえ、それは失敗していると思う。
 
私の場合、「助言がお小言みたいに聞こえない、そういう頻度とタイミングでChatGPTに見直しを持ち掛けること」に注意を払ったほうが良いことを知った。これは、AIを使いこなすというよりAIに向き合う私自身の操縦法の話だけど、私はそういう風に付き合わなければならない都合を持った人間だとわかったので、そのように都合をつけることにした。そういう都合のない人なら、もっと高頻度に見直してもらっていいんじゃないかなと思う。
 
 
・ファイルを出力/転換する装置として
ファイル出力装置やファイル転換装置としてChatGPTを用いる頻度も減った。ゼロになったわけではない。htmlまわりについては私のお使いによく付き合ってくれるが、エクセルファイル周りについては、ぜんぜんダメだ。これは、私がそういう作業に習熟しようと努めていないせいかもしれないし、ChatGPTがそういう作業にそこまで向いていないせいかもしれない。この300日はChatGPTに慣れることを優先していたので、他のAIの挙動についてはまだ知らない。
 
絵を描いてもらう作業は、2025年の夏頃に最盛期を迎え、最近はあまり使わなくなった。たいしたことのないプロンプトで出力されるChatGPTの絵が「いかにもChatGPTっぽい絵」に見えるようになったせいで、忌避するようになったのだと思う。ただ、簡便に描画してもらえるツールであるとは認識したので、必要と感じた時には今でも使っている。描画についても、他のAIの挙動についてはまだ知らない。
 
 

頼りにするようになった用途

 
次に、使用頻度が高い用途を書く。
 
・google検索の代用から、水先案内人へ
だんだん使用頻度が増えていったのは、ChatGPTによる「検索」だ。google検索などで調べるのが億劫だったり、あてにならないと考えられる時に「検索」してもらうことは多い。
 
日本語で、なんなら音声入力で、英語圏のサイトまで簡単に引っかけてくれる。本当に調べたいことについては、事前に「予備検索挙動」をさせておき、三番目ぐらいの質問で本命の検索をお願いすると良い感じになりやすいと感じたので、私は勝手に「三段検索法」と呼び、色々な用途で用いている。直前のやりとりの文脈をある程度踏まえてくれるから、唐突な質問をするより直前の文脈を読み込ませたほうが望ましいことを出力してくれる印象だ。わざわざスレッドを立てて継続的に質問しているジャンルについては、過去に私が気にしていたことを踏まえながら答えてくれているので、話が早くて助かる。
 
こうした「google検索の代わり」としてのChatGPTがいちばん輝いたのは、外出中のクイック利用だった。
旅行中や出張中、短時間に及第点の検索をしたい時に、「とりあえずChatGPTに尋ねる」でうまくいくことが多かった。間違えるおそれがないわけではないが、目的地までのルート、現地の混雑の推定、予定していなかった訪問地についての情報をリンク付きで即座に出力してくれるのは頼りになった。旅先だからこそ音声入力やスマホのカメラが光る場面も多い。アウトドアでは、里山や海岸で見かけた地形・植物・昆虫などについてChatGPTを使って色々と調べて楽しんだ。ときどき間違えるので、キノコ狩りに使おうとは思わないが。
 
完璧な答えを期待して用いるのでなく、暫定解を即座に吐き出させるという制約さえ忘れなければ、ChatGPTは旅先・出張先での機動性に貢献してくれるよう思われた。この方面の使い勝手のこれからにも注目したい。
 
 
・補助教師として
ChatGPTを補助教師として利用するとけっこう良い感じだ。たとえば子どもの学校のテストの答えに納得がいかない場合や数学問題の解法がわからない場合、ChatGPTに二度三度と質問するうちに、なぜそういう答えになるのか理解できることがしばしばあった。日本語文法や英文法の原則と例外についても役立った。私だったら丸暗記な答えしかできないところでも、ChatGPTは巧みに答えてくれる。そっけない答えをよこした場合も、「じゃあ、なんでそういう答えになるのか?」を問い直すとだいたい理屈や背景まで教えてくれる。それが好ましい。
 
そうやって、「じゃあ、なんでそういう答えになるのか?」を問い直す→理屈や背景を教えてもらう、というプロセス自体、子どもの教育に良いように思われたので、2025年の夏頃からは好んでChatGPTをそういう風に用いるようになった。たとえば東アジアの四季と太平洋高気圧とヒマラヤ山脈、飽和水蒸気圧、地球の運動、そこから東南アジア~南アジアの気候と文化へと関心を広げていく際には、ChatGPTが遺憾なく性能を発揮した。教育をサポートするツール、特に子どもと一緒に親も考えたい時や、子どもが理屈や背景を求めている時や、ひとつの問題から隣接した問題に視野を広げたい時や、複数の教科にまたがる質問をしたい時には、すごく頼りになる。「全教科の資料集に目を通している教師」のような活躍っぷりだった。
 
 
・思考をかき混ぜる話し相手として
ChatGPTを「私自身の勉強道具」として使用することについて、最初の一か月は欲張ってやっていたけれども、中途からは月に何度か、それぞれ1時間程度、言いたいことや考えていることをぶつけてみる相手として用いるようになった。私はChatGPTを使い過ぎることに警戒感をおぼえるようになり、「適量」を探すようになった。この用途でChatGPTを使う頻度は、たとえば2025年12月の場合、5回だった。
 
ChatGPTに私の関心領域の話をすると、多少間違えて回答し、多少おべっかをまじえながら回答する。かと思えば、急に愛想が悪くなることもあった。それでも、予備調査の段階では非常に役に立った。ブルデュー『ディスタンクシオン』やゴッフマン『儀礼としての相互行為』といった難易度の高い本を攻略する際にも、何度かありがたいヒントをくれた。旅行先や出張先での利用と同じで、要は、ChatGPTに完璧な答えを求めなければ良いのである。そうではなく、完璧かどうかわからない示唆として、あるいはちょっといい加減な話し相手としてお付き合いすれば良い。
 
この使い方をする場合には、過去ログがとても大切になると思う。たとえばブルデューと文化資本について数か月前に私が尋ねたことと、そのときChatGPTが出力してくれた内容とリンク先を振り返ること、それが大切だ。ChatGPTが即座に正解を吐き出すことはないし、仮に正解を吐き出すとしても正解と認定するのは結局私自身だから、その場でChatGPTが出力したことは、まだ正解にも判断にもなってない。かりにChatGPTの出力が完璧に正鵠を射ていたとしても、それが私の正解や判断になるためには裏取りのプロセスや納得のプロセスが欠かせない。でも、それはしばしば時間がかかることだし、着手できるかどうかもわからないことだ。
 
だから、ChatGPTにあれこれ話し、あれこれ出力を得るとは、裏取りや納得に時間のかかる宿題をたくさん抱えるに等しい。やり過ぎると、調べてみたいこと・確認してみたいことが増えすぎて頭がいっぱいになって危険だと感じる。私は積読が苦手だが、同じように、ChatGPTをとおして調べなければならないことや確認してみたいことが増えすぎるのも苦手みたいだ。だから私はChatGPTで調べ過ぎてはいけない。もちろん、中高生の資料集に正解が載っているような事柄についてはこの限りではない。でも、私が私の答えを探さなければならない領域でChatGPTに問いかけすぎると、私にはストレスになってしまう。
 
こうしたことは、AIよりも専属の教師や教官に教わるのが好ましいのだろう、とは思う。人文科学にせよ社会科学にせよ、それぞれの道の専門家や先達から直接助言をもらい、直接質問ができるに越したことはない。でもAIのいいところは、多少いい加減であっても、あらゆる分野、あらゆるトピックスについてまあ何か反応を返してくれることだ。たとえば夜中の2時に中世の哲学者の何某について話題を共有したくなった時に誰かから反応を得るとか、普通は難しいじゃないですか、でもそれを曲りなりにも叶えてくれるのがAIの素晴らしいところだと思う。人間の誰かに依存したり貸しをつくったりしなくて済むのも好ましい。
 
他方で、こう思っている私もいる:「求道的にAIに質問をし続け、議論するのってちょっと違うんじゃないの?」、と。
他の人がどういう風にAIを勉強に活用しているのか知らないが、私は、ちょっと緩い話し相手として用いるぐらいの湯加減が好きだ。そうしたほうが話題が広がりやすいのと、そうしたほうが正解を求めすぎずに済み、不可避的に混じってくる間違った回答にも腹を立てずに済む。我が家の飲みスペースの話し相手として、または我が家の道化師として、話し相手になってくれるぐらいの付き合い方を私は心地よいと感じている。
 
関連して、ChatGPTに関心領域のど真ん中を尋ねることはない。関心領域の中心から多少ずれたところで雑談を持ちかける、ぐらいの時に一番おいしい出力が転がり込んでくるイメージを持っている。
 
 

結論:食客として課金しているイメージ

 
こうして振り返ってみて気付くのは、私はChatGPTを目的のはっきりとしたツールとして用いていないってことだった。従業員としてChatGPTを使役している割合も少ない。用途というのもおこがましい付き合い方をだらだらと続けている。
 
ただ、そのだらだらとした付き合い方のなかで、子どもの勉強を補助する役割を引き受けてくれたり、旅行先や旅先のクイック検索係をつとめたり、私の関心領域について話し合う道化師の役割をつとめたりして少しずつ役立っている。無駄飯食いのようにみえて、少なくない刺激を我が家にまき散らしてもいるので、これって、食客を一人招いているような感じだな、と今日は思った。
 
月3000円ちょっとでいつでもどこでも付き合ってくれて、どんな話題にも付き合ってくれて、絵も描いてくれるデジタル食客を、高価とみるべきだろうか?安価とみるべきだろうか?
 
私は、安価だと思っている。そのうえで、私は食客としてのAIともっとうまく付き合えるよう、まだまだ工夫できる気がするし、AIそのものも性能向上するだろうから、これからが楽しみだ。いぬじんさんのおかげで、おもしろい食客が我が家にやってきています。
 
 

*1:商用原稿も下書きの段階ではしばしばそのように書いている

2025年、買って良かったワインたち

 
今年も年末になってしまいました。毎年恒例、今年飲んで良かったと思えたワインについて紹介します。なお、今年の裏テーマは「インフレ下でどうワインを飲むか」です。
 
インフレや円安も進み、国際情勢が不穏の度合いを深めていくなか、私のワイン選びは慎重に、けちくさくなりました。"神の雫"を求めて無茶をするのでなく、これからも付き合っていけそうなワインと付き合いやすいように選ぶ。ワインを選び、買い、飲む最中にそんなことを考える機会が増えました。それだけに、コスパが良くておいしいワインを探している人の参考にはなるかもしれません。
 
 
ギガル コート・デュ・ローヌ ブラン 2021
フランス南部・ローヌ地方で最も量販品をたくさん生み出し、それでいて最高級品まで作っているギガル。ギガルのワインは白も赤も、典型的な国際品種(シャルドネとか、カベルネ・ソーヴィニヨンとか)でないことを気にしなければ、すこぶる美味く、すこぶる安く。昔みたいに1000円で買えるわけではないけれども、1500円前後で購入でき、信頼性は変わらず。市場に出回っている品ができたてのホヤホヤでなく、少しヴィンテージの古い品が多いのも悪くない。「すごいワイン」はともかく、「安くて美味しいワイン」のなんたるかを思い出すうえで、ここのエントリークラスの白や赤が教えてくれることは多いと思う。これらを飲んだうえで、「世間でお買い得とされているシャルドネやカベルネ・ソーヴィニヨンなど」を飲んでまわると見えてくるものがあると思う。
 
 
エステザルグ コート デュ ローヌ ルージュ 2022
これは、マイナーなローヌの協同組合が作っている赤ワイン。ローヌの赤ワインは全体的にお買い得だけど、こいつも一歩抜きん出て安い。残念ながら今は1600円台になってしまったけど、リピしていた頃は1400円台だった。この品の特徴は「ローヌの安赤ワインだけど軽やか」なこと。それでもローヌらしさが失われているわけでもない。軽やかな理由は、用いられているぶどう品種のひとつにサンソーという品種が入っているせいだと思う。十分に美味く、ローヌ的でありながらローヌ初心者向きっぽくもあるので、ここから幅を広げていくにはいいかも。
なお、この協同組合は、シラーとグルナッシュで作ったもっと安い赤ワイン(コート・デュ・ローヌ赤)も作っていて、たぶんそちらは濃いタイプです。
 
 
[2021] コート・デュ・ローヌ ”モン・クール” ルージュ
こちらは名門ジャン・ルイ・シャーヴのコート・デュ・ローヌ。名門といっても、この量販型のワインは現実的な価格。それでも他社同格の「コート・デュ・ローヌ」たちと比較すれば果実味の充実感、肉厚さに比べて滑らかさの伴う感じがとても嬉しい。そうしたわけで、ジャン・ルイ・シャーヴは上位陣も含めて少しずつ飲んでいくことにしました。
 
 
ペポリ キャンティ クラシコ 2023
イタリアはトスカーナ地方の銘酒・キアンティクラシコも円安とインフレのなかですっかり値上がりしてしまった。そうしたなか、地元大手・アンティノリが作っているこの品は値上がりの程度がかなりマシ。キアンティクラシコらしい典型的な風味があり、舌ざわりにざらっとした感じが伴うのも嬉しい。キアンティクラシコとしては男性的・野生的なタイプで、鉄とか血っぽいニュアンスを伴っている。昔はこんなにいいワインだと思っていなかったので、少々の値上がりは品質向上のおかげだと思うことにした。いきなり高いキアンティクラシコを買う前に、こいつを経験しておいたほうがいいんじゃないか。大手の品だし。
 
 
シャトー・マス・デ・タンヌ (ドメーヌ・ポール・マス) 
このワインを作っている南仏のマス一族を知っているだろうか。
ワインをある程度飲んでいる人なら必ず知っているだろうけど、リリースしているワインの種類が多すぎて、しかも増えたり減ったりしているので全部把握している人は稀だと思う。このワインは今年始めて出会った、シラー種をメインに、グルナッシュ種をいくらか足してつくられているちょっと上位の品。南仏ワインでシラー&グルナッシュっていうと、濃くて飲みごたえがある代わりに、粗くて下品で……というイメージがあるかもだけど、なんと、こいつはかなり品が良いのです。ふっくらとしていて愛嬌もあり、全体的に高水準なところでまとまっていました。弱点があるとしたら、マス一族のワインとしては値段が高いこと。でも、他所のワインが軒並み値上がりしているため相対的にはコスパが良いほう。
 
 
カバ ファミリア オリベダ エクストラセック
このカヴァは、いただきものだったけれども美味しくて気に入った品。「やまや」に売られているので田舎に暮らしている人でも買えます。
カヴァはスペイン産のスパークリングワインで、品質にはかなりのムラがあり、飲んでみないとわからないところがある。シャンパンに比べると重厚さを欠き、よりあっさりしていて、よりガブガブ飲めるのが特徴だと思う。そうした特徴が好ましい場面ではシャンパンよりもこちらが光る。
ところがカヴァのなかには「頭がキンキンするような」嫌な雰囲気の品が混じっていて、それを避けるのが大変。私たちの経験では、この品はその「頭がキンキンするような」に該当しませんでした。頭がキンキンしないカヴァを一種類知っておくと、コスパが良くて良いよう思います。
 
 
[2021] ル マルキ ド カロンセギュール
最近、ボルドーの赤ワインにアタックし始めているのだけど、それを後押ししてくれたのがこの品。ボルドーの赤ワインって、一体いつになったら飲めるのか見当がつかない品が多い印象があった。特にメドック格付け一級とか二級って一体いつ開けるのがちょうど良いの? それはメドック格付け三級~五級のワインにも言えることだった。
ところが、さる人から「ボルドー赤が若飲みしやすくなっている」「セカンドをまずは飲んでみなよ」とうかがって、半信半疑でこいつを買って飲んでみたら! ……飲めちゃうじゃん! これはカロン・セギュールのセカンドワインなので、そのぶん、フラグシップワインよりは飲みやすくつくられているだろう、とはいえ、親しみやすさにびっくりしてしまった。それでいてボルドー風の落ち着きもあるし、熟成可能性だって窺えるし。この価格でブルゴーニュの赤ワインを買ってもたかが知れていることを思えば、ボルドーのセカンドワインの有力筋を狙うのはアリだと思うようになりました。
 
 
こういう、コスパが良くて取り回しも簡単で美味いワインを探すのは、デイリーワイン呑みにとって大切なことだと思うし、財布にやさしいワイン生活の実現にも貢献するので来年も探していきたいと思います。皆さま良いお年を。
 

※お酒は20歳になってから&健康上のリスクにお気を付けください。。ワインなどが特にそうですが、飲み過ぎるのでなく、よく味わって、身体にも財布にもやさしい飲み方をしましょう。 
※コスパ良さそうなワインについてはここまでです。常連さん向け有料エリアにはまた違ったワインについて少しだけ書いてます。

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終わったのは日本じゃなくて世界じゃないの?

 
内田樹氏のツイートをきっかけに、日本が終わっただの、終わっていないだのといった応酬がXで繰り広げられているのを見かけた。起点となった投稿は以下のものだ。
 


 
X(twitter)を眺めて日本の沈下っぷりを憂いた、それ自体は理解できることだ。Xを眺めて憂国する人は、思想信条にかかわらずたくさんいるものである。しかし日本の都市住民に対し、「来るべき崩壊に備えて菜園付き別荘を持て、食べるものをつくれ」と言うのは、私にはまったく理解できない。内田氏のいう都市住民とは、菜園付き別荘を持てるだけの経済力を持ち、かつ、食べるものをつくれるほど有閑な人々だけを指しているのだろうか?
 
日本の都市圏にいったいどれだけの人間が暮らし、どれぐらいの経済力を持っていて、どれぐらい暇があるのかを真面目に考えたらこんな投稿は絶対にできないだろう。そして内田氏のいうとおりに沈下している日本の里山は、野生動物たちの侵入に脅かされている。別荘の田畑など真っ先に餌食に違いない。今年の獣害について知っていても、こんなことは到底書けないはずである。
 
これまで私は内田氏の文章から多くのことを学んできたから、氏がこのように選民主義的で、地方の実情とも乖離した投稿をしていることに当惑せずにいられなかった。切れ味鋭く、瞠目させられる文章を作っていただきたいと思う。あるいは、Xのような庶民的インターネットにかかわらず、もっと偉い場所で、もっと偉いことを書いたり考えたりしていただけたらとも願う。氏のような方がXの汚泥にまみれて変な影響を受けてしまっているとしたら、それは残念なことのように思われるからだ。
 
 

泣いても笑っても2010年代の日本、そして世界には帰れない

 
しかし、時間というのは残酷でもある。
あの良かった時間、あの良かった時代を懐かしんでも、時計の針は元には戻せない。もうすぐ2025年も暮れる。ということは、2021年のコロナ禍から数えても5年近く経ってしまったことになる。
 
私も日本が沈下してしまったと思う性質なので、ときどき、2010年代の日本を懐かしく思い出す。当時は食料品もパソコンのメモリもこんなに高くなかったし、国際情勢はもっと穏やかだった。ウクライナとその周辺問題をはじめ、危険な兆候がチラチラと現れてはいたのだけど、この、平和で、健康的で清潔で秩序ある日本に暮らしているぶんにはそうした兆候に気づかぬふりをし、今までどおりの暮らしを謳歌するなどわけもなかった。それが今や、みんなで茹でガエルだ。これだけ茹でられれば、茹でガエルもいい加減気づくってやつだ。そして私たちを茹でる火力は、ますます強くなろうとしている。
 
「日本の沈下」という一点については、だから内田氏の投稿はそのとおりだと思う。2000年代や2010年代と比較し、私たちは色々なことを諦めなければならなくなっていくのだろう。生きるためとか、背に腹は代えられないとか、そういった名分に沿って多くを犠牲にしなければならない時が近づいている、と思う。でもって、犠牲にしなければならないと言ったところでどうせ不平等なのだ。その不平等の分布と正当性を巡って政治はぐるぐる回転するだろう。そして石臼のように色々なものをすりつぶすに違いない。茹でガエルの次は挽きガエルといったところか。
 
こう書くと日本オワタ、日本悲惨と思えるかもしれないけど、じゃあ、世界で日本より断然マシ、日本より断然うまくいっている場所っていったいどこだろう?
 
アメリカは国内情勢がめちゃくちゃだし、人心は荒みきっている。GDPだけ見れば2010年代より成長していると言えるが、庶民や中間階級にとって生きやすい国とは思えない。欧州もなんだか大変そうだ。ドイツは不況で燃料費も高騰していて政治的にも大変で、急激な軍拡を余儀なくされている。ポーランドやバルト三国は生き残りに必死だ。イギリスは庶民や中間階級にとって住みよい国だろうか? 韓国は日本以上の少子化に直面しているし、中国は中国でいろいろ大変そうで本当に自己制御できているのかすら見当がつかない。ロシアは……ウクライナ侵攻を決定したプーチン氏自身も含め、みんな大変なんじゃないだろうか。今、世界でいちばん沈下している国をひとつ挙げるとしたら、最有力候補のひとつはロシアだろう。ウクライナに辛勝しても未来はないようなものだ。しかし、そうなってしまったロシアを止めるすべはどこにもない。
 
どこの国も2010年代に比べてめちゃくちゃなことになっていて、極端なことになっていて、みんな茹でガエルになりながら我慢比べ、だけどこの我慢比べを止めるすべがない。インドやインドネシアあたりも決して楽ではなく、我慢比べのプレイヤーだ。食料品の値上がりに苦しんでいるのは日本だけじゃない。日本よりよっぽど食料品や光熱費の値上がりに苦しんでいる国はあるだろう。みんな苦しく、みんな沈下していて、みんな終わったと思っているんじゃないだろうか。右肩上がりなのは、株価とモノの値段ばかりだ。そうして指導層は追い詰められる。民主主義の国なら主権者である国民が追い詰められるだろう。
 
日本が終わっただけじゃなく、世界が終わってしまったんじゃないの?
ここでいう世界が終わってしまったとは、「2010年代以前の世界が終わってしまった」という意味での終わった、だ。つべこべ言ってもコロナ禍のインパクトは大きかったんだろうな、と思う。コロナ禍がなかったとしても2010年代的な世界はじきに終わっていたとは思うが、コロナ禍がそれを加速し、コロナ禍とともに世界我慢比べ大会は本格化してしまったのだと思う。それが目に見える結果として顕れるには数年のタイムラグが必要だったが、顕れてみると、2010年代以前がすっかり遠い世界に感じられるものだった。今の国際情勢をたとえば2019年の段階で予期できている人がいただろうか? いないと思う。今の国際情勢を10~20年後として予想していた人ならいたかもしれないが、たった6年でこんなになってしまうとは、夢にも思っていなかったんじゃないか?
 
たしかに、「日本終わった」「世界終わった」といった文言は大袈裟ではある。
しかし、経済的にも政治的にも2010年代以前の状況や体制にとうてい戻れないという意味では、実際、日本も世界も終わってしまった。冷戦以後の状況や体制が終わってしまっただけでなく、第二次世界大戦後の状況や体制さえ終わってしまったのかもしれない。たとえばEUが移民をニコニコ受け入れる未来を今、想像できるだろうか? あるいは東アジアの政治状況が2010年代以前に巻き戻る未来を今、想像できるだろうか? できるまい。特に後者は絶対にありえない。コロナ禍を経てもなお、状況は変化し続けている。そのうえで万事が「元の鞘に収まる」などということはあり得ない。少子化だって進むだろう。人口学的に、ひょっとしたら経済的にすらシュリンクしていく東アジアの盤面のなかで2010年代以前と同じことが同じように続けられるわけがない。
 
2010年代までの日本、ひいては世界のリーダーたちは、それぞれにできるだけ今までの暮らしが維持できるように、または向上するよう努めはしたのだろう。社会の末端で働く大半の人にしたってそうに違いない。良識あるほとんどの人は、自分も世界も終わって欲しいとは思わないものだ。世界悪しかれ、社会悪しかれと願いながら努力を続けるような人はそう滅多にいるものではない。
 
けれども、そうした維持や向上のために先延ばしにされてきたこと、ひずみや歪みがたまりにたまっていたこともたくさんあった。誰かを守るための決定が誰かをないがしろにしたり、誰かを軽んじたりする副作用。そうしたツケが国にも世界にも徐々に溜まり続けて、けれども見て見ぬふりをしていた最中にコロナ禍が起こって、みんながツケに耐えきれなくなって、請求書の押しつけあいが始まった。ツケの清算を一身に引き受ける羽目になったら、ここまで書いてきた「終わった」以上に「本当に終わって」しまうから、誰もがびくびく、ぴりぴり、ジョーカーを引くのは自分じゃないぞと強面になりながらの我慢比べ。あとは、わかるな?
 
2010年代以前にもひどいことがなかったわけじゃない。だけど2020年代に入って顕在化したひどいことのうち多くは、2010年代にはなかったことにできたか、水面下にこっそり沈殿しているだけのもので、世界と世界の人々はもっと余所行きの顔ができていたように思う。でも、だいぶ地金が出てきた。大人の建前の仮面すら剥がれてしまって、どこもここもツケの清算書を自分のところだけは免れたい、または少なめで済ませたいと本気で考え始めたんだから、それはピースフルな2010年代とは違ったどこかでしょう。日本と日本人だってそれは同じでしょう? 来るべきツケの清算にあたって、日本国が突出して多くのツケを払いたいですか? たとえば日本がいちばんひどい戦禍にさらされたいですか? そんなことはないでしょう、そういうことを日本人だけでなく、アメリカ人も中国人もドイツ人も本気で考えるようになったら、あとは、わかるな?
 
どうするんでしょうね? これ。
くっきりとした戦争が始まっていなくても、今の状況が実質的に世界ババ抜き大会だとしたら、それってあれじゃないですか。直接的に戦火をまじえていなくても冷戦ぐらいにはなっているじゃないですか。冷戦になっているって時点でさえ、これは2010年代以前とは違ったどこかで、2010年代以前は終わってしまっている。2010年代以前は、終わってしまいました! ということは、世界が始まる、日本も始まるってことでもありますよね。くそったれだ。