シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

フォートナイトで子どもに完敗し、将来のゲームライフについて考えさせられた

 

 
去年から今年にかけて、趣味の世界で子どもが"先を行っている"と感じることが増えた。
 
漫画では『Dr.STONE』や『鬼滅の刃』を子どもから教わり、よくできた少年漫画として楽しんだ。子どもがみずからのアンテナで漫画を見つけ、教えてくれるのは大変うれしいことだった。
 
だけどゲームの分野ではそこまでシンプルに受け止めきれず、もうちょっと重たく受け止めている。
 
2020年から我が家では『フォートナイト』が流行っている。これも、子どもが我が家にもたらした作品で、三人称視点で飛び道具を撃ち合う、TPSというジャンルのゲームだ。同じTPSでは、我が家では『スプラトゥーン2』が流行っていたため、ごく自然な流れで家族全員で遊ぶようになった。
 
『スプラトゥーン2』の時点では、私は総合力で子どもに勝っていた。射撃の精度では劣っていても、陣地構築や立ち回りの巧さはこちらのほうが上だったからだ。ところが『フォートナイト』では、建築物の構築も立ち回りも子どものほうがプレイが柔軟で、対応力に優れている。アイテムが出現する宝箱の位置も、子どものほうがしっかり暗記している。
 
『フォートナイト』は飛び道具を撃ち合うだけのゲームではなく、建築物の構築、アイテムの探索、そのほかたくさんの状況判断を必要とする複雑なゲームだ。頭の素早い切り替えも必要になる。その複雑なゲームで、腕前が完全に逆転するとは想像していなかったら、うろたえてしまっている*1
 
一人の父親として、これはすごく嬉しいことだ。
三十余年にわたってゲームを趣味にしてきた父親を、とうとう子どもが追い抜いたのだから。
 
ただ、一人のゲームオタクとしては自分の未来が見えてしまった気がした。
 
五十代、六十代になってもゲームは遊べるし、自分がプレイできなくなってもゲーム実況は楽しめる。それでも年を取っていくにつれて、新しいゲームに馴染むのにかかる時間は長くなり、新しいゲームを上達するための労力は大きくなるだろう。たくさんのゲームを同時攻略することも、ひとつのゲームで一定水準の腕前にたどり着くことも難しくなり、上達の限界点もだんだん下がっていくだろう。
 
ゲームは私の友達であり、アイデンティティであり、鍛錬の場でもあった。
だからやめるつもりはない。
けれども、今までどおりのスタイルでゲームを楽しむことはきっと難しくなる。
 
今後はいわば、シニアなゲームライフに変わっていったほうが良いのだろう。しかしシニアなゲームライフがどんなものなのか今はまだわからないし、誰をどう参考にすれば良いのかも知らない。「eスポーツの選手じゃないんだから、好きにすれば?」という人もいるだろうし、その指摘自体は間違っていない。だが、少しずつゲームを上手く遊べなくなっていく自分の身体と折り合いをつけながらゲームを好きに遊ぶとは、いったいどういう境地なのか? こうした境地について、年下のプレイヤーはほとんど教えてくれない。
 
私はこれからもプレイヤーとして現役でいたいし、シニアなプレイヤーへと歩みを進めていきたい。その際に求められるのは、がむしゃらにゲームを上達したがっていた頃のクンフーとは異質なクンフーのような気がする。
 
……またゴチャゴチャと余計なことを考えてしまったかもしれない。
が、こうしたゴチャゴチャも私のゲームライフの一部だから、自分なりに消化していくしかない。次々とライバルプレイヤーにヘッドショットを決めていく子どもの姿を見ながら、今夜はそんなことを考えた。
 
 

*1:ちなみに総プレイ時間はほとんど同じ

『時間とテクノロジー』雑感、それと自由のゆくえ

 

時間とテクノロジー

時間とテクノロジー

  • 作者:佐々木俊尚
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/12/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 週末、佐々木俊尚さんの近著『時間とテクノロジー』を読んだ。自動車運転やVRも含めた情報通信テクノロジーに私たちが完全に包まれて、お膳立てされ、環境そのものが知能を持つようになった近未来について考えさせてくれる本だ。
 
 近未来が、この本に書いてあるとおりになるかはわからない。それでも、「テクノロジーの進歩によって人間の世界の捉え方が変わる」というテーマの大筋は間違っていないだろうし、いくつかの具体例には説得力を感じた。
 
 たとえばレコードを買っていた時代からストリーミング配信の時代に変わったことで音楽の受け止め方が変わり、「古い時代の曲も新しい時代の曲も懐かさを伴わなくなる」というのはわかる話だ。また、デジタル録画が鮮明になればなるほど、鮮明すぎる過去の録画から郷愁を感じとることは難しくなる。
 
 過去のコンテンツも未来のコンテンツも等しいクオリティで体験できる時代では、どの音楽やコンテンツが古くて新しいのかはっきりしない。
 
 これに近いことを、私はコンピュータゲームの分野で感じる。
 
 たとえば私は『ドラゴンクエスト3』や『ディアブロ2』を懐かしいゲームと感じる。ところが配信サービスやアーカイブをとおして新旧のゲームにアクセスする私の子どもは、switch版の『ドラゴンクエストビルダーズ』と同時にファミコン版の『ドラゴンクエスト3』を知るから、後者に古さを実感していない。『ディアブロ2』にしてもそうで、2019年サービス開始の『ラグナロクマスターズ』を遊んだ後に『ディアブロ2』に触れているから、むしろ『ディアブロ2』に新しさすら感じている。
 
 「古いハードウェアのゲームBGM=古い」という感覚も子どもには無い。ファミコンの音源で奏でられる『ドラゴンクエスト3』のアレフガルドのBGMは、古いものでも懐かしいものでもない。新しいものですら……ないのかもしれない。とにかく、新旧のコンテンツに対する感性が私と子どもではかなり違っている。
 
 佐々木さんは、こうした変化がコンテンツだけに留まらないと指摘する。たとえばVRや自動運転がすっかり当たり前になり、それこそ『PSYCHOーPASS』で描かれる世界のように服装*1や部屋のインテリアまでもがAIにリコメンドされ、体験される時代になったら、体験の真贋や体験の新旧はますますわからなくなり、そういったことに拘る世界観はなくなっていくだろう。
 
PSYCHO-PASSサイコパス 新編集版 Blu-ray BOX Smart Edition

PSYCHO-PASSサイコパス 新編集版 Blu-ray BOX Smart Edition

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • 発売日: 2019/04/17
  • メディア: Blu-ray
 
 この手の、「コンテンツ、というよりメディアが変わると人々の感性が変わり、ひいては文化が変わり、しまいに知性のありかた自体が変わる」といった話は、文字が登場した時にも、活版印刷が出現した時にも、ラジオやテレビが登場した時にも適用できるものだった。
 
グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成

グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成

 
 では、メディアがテレビやPCやスマホから飛び出し、VRやARや自動運転の発展によって私たちの五感を覆いつくすようになった時、いったい何が起こるだろう? そういうことを考えたくなるのがこの本だ。 
 
 
 

『時間とテクノロジー』から、政治と権力について考える

 
 ところで『時間とテクノロジー』には、政治の話、言い換えると権力の話があまり登場しない。
 
 テクノロジーやメディアが変わると、感性や文化や知性が変わるだけでなく、政治や権力も変わるはずだ。というか、活版印刷があったから宗教改革が起こり、SNSがあったからアラブの春が起こったわけだから、佐々木さんの議論に付け足すかたちで、近未来の政治や権力について考えたい気持ちが高まってきた。
 
 すでに私たちは、テクノロジーやメディアの変化によって政治や権力が変わっていく最前線を生きている。
 
 そのはなはだしい例はアラブの春やアメリカ大統領選挙だが、さいきんの映画の大ヒットやタピオカミルクティーについてもそうだといえる。20世紀は雑誌やテレビといったマスメディアが流行を主導していて、主導していたからこそ、マスメディアは流行の分野にかんして強い政治力と権力を握っていた。ところがスマホやSNSが普及し、政治や権力の新しいフィールドになったことでマスメディアは流行の主導権を削がれてしまった。
 
 狭義の政治に囚われない限りにおいて、スマホやSNSの普及はへたな革命よりもよほど政治的で、よほど権力を動揺させる出来事だったのではないか?
 
 してみればtwitterやフェイスブックやgoogleは、情報産業の旗手であると同時に、ほんとうは、政治や権力を変えていく革新者でもあったのではないだろうか。
 

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

 
 『時間とテクノロジー』で引用されているローレンス・レッシグや、ミシェル・フーコーなどは、アーキテクチャ(空間設計)と政治・権力の関係に敏感だった。こんにちのプラットフォーマーの設計者たちが、レッシグやフーコーを知っていたかはわからない。が、知る知らないに関わらず、アーキテクチャの設計す者は政治や権力を水路づける者である側面を免れない。
 
 これまで、アーキテクチャの設計を政治・権力の問題として議論する人は限られていた。まあ実際、インターネットの片隅で産声をあげたばかりのプラットフォームの政治・権力など、深刻ぶって論じるものではなかっただろう。
 
 しかし、『時間とテクノロジー』に記されているような未来、それこそスマホやPCを覗いている時だけでなく、VRやARや自動運転をとおしてありとあらゆる行為や時間がアーキテクチャに包囲されるようになった、いわば「テクノロジーとメディアが遍在するようになった」未来において、それらの設計にかんする政治や権力の問題はスルーできるものだろうか。また、スルーして構わないものだろうか。
 
 自動車運転も家庭生活もプラットフォームに包囲され、パーソナライゼーションにさらされ、その影響下に置かれるようになると、私たちが自分で選ぶまでもなく、最適な移動ルート、最適なBGM、最適な食事がプラットフォームからリコメンドされるようになるだろう。『PSYCHO-PASS』のように、最適な人間関係や最適な仕事までプラットフォームが見繕ってくれるようになるかもしれない。というか、そうなるだろう。
 


『PSYCHO-PASS』の世界では、個人の選択の多くをシビュラシステムがリコメンドしてくれる。と同時に、シビュラシステムに逆らって生きることはきわめて難しい。

 
 そうやって色々なことが人間の自由選択ではなくなり、プラットフォームのお任せになっていくとしたら、政治の主体としての私たち、権力の主体としての私たちはどうなるのだろうか? そしてプラットフォームが握る権力は、どこまで大きくなるのだろう? 
 
 アーキテクチャがたくさん選択してくれるようになり、私たちが自由をアーキテクチャに委ねれば委ねるほど、依存すれば依存するほど、レッシグやフーコーが論じたタイプの権力の影響を、私たちはアーキテクチャから受けることになる。そのぶん私たちはアーキテクチャに権力を委ねるようになる、と言い換えることもできるだろう。
 
 そのほうが効率的で、快適で、正確な場面は増えていくに違いない。そのような委任生活は、少なくとも百年かそこらは悪いものではないかもしれない。
 
 だが、そうやってごく一握りの優れたアーキテクチャ設計者やAIがますます権力を委任されるようになり、一般大衆が彼らに委ね続けていれば、一般大衆は政治の主体でも権力の主体でもなくなってしまうだろう。一般大衆が主体であるという意識や、デモクラティックな思想までなくなってしまうかもしれない。
 
 そうなってしまった人間は、良く言えばお金持ちの家のペルシャ猫のようなもの、悪く言えば養鶏場のブロイラーのようなものではないかと私は心配になる。
 
 私たちが政治の主体や権力の主体としての"主権"を失った後、ペルシャ猫として愛玩されるのか、それともブロイラーとして何らかの目的のために生産され処分されるのかは、(そのときの主権者にとっては)たいした問題ではなくなる。
 
 ものすごく長い目でみれば──それこそ弥勒菩薩のスケールでみれば──人間が養鶏場のブロイラーになったとしても、それはそれで大した問題ではないのかもしれない。優れたAIがゆっくりと人間を飼い殺し、やがて緩慢に滅ぼしていったとしても、やはりたいした問題ではないのかもしれない。
 
 人間が滅んでも地球は回り続けるし、AIは自律し続けられる。いやAIが存続しようが停止しようが、それもたいした問題ではないのかもしれない。
 
 けれども今世紀に絞って考えるなら、アーキテクチャに私たちが包囲されていくにあたって、私たちの自由と表裏一体の政治や権力のゆくえが議論されなければならないと私は思うし、私たちの生活全体を覆っていくものの政治性や権力性に気を許してはいけないとも思う。
 
 さしあたり現在は、そうしたテクノロジーやアーキテクチャは私たちをますます快適で効率的な生活へと導いてくれるだろうし、そんなに神経質に構えなくていいよという人のほうが多いだろう。でも私は『時間とテクノロジー』を読んで神経質な気持ちになったので、これを書き留めておくことにした。
 
 他にもいろいろなインスピレーションを受け取ったけれども、それはまた後日ということで。
 
 

*1:というより、この場合、アバターと言うべきかもしれない

十代や二十代は段取りができなくて、向こう見ずなものだったのでは?

 


 
 
デートに出かける前に相手の嗜好や都合をあらかじめ知っておく必要性は、社会人ならたいてい知っていると思う。
 
私は既婚者なので知らない相手とデートに行くことはないが、オフ会で見知らぬ人と飯を食ったり、新たに編集者さんと知り合ったりすることはよくあるので、十分にできている自信はないにせよ、相手の苦手や禁忌や地雷を避ける必要性はわかる。まったくもって「相手にアレルギーでもあったらどうすんだ」である。
 
しかし、これは社会経験を積み、社会性を身に付けた人間の発想だと思う。それか、もともと計画的に構える性格の人間の発想か。
 
二十代の頃の私は、こうしたことの重要性がまだ十分にわかっていなかった。事前のすり合わせをキチンとせず、思いつきで動いている部分が多かった。その結果、デートにせよ他の色々にせよ、不器用な失敗に終わることがいろいろあったけれども、そうやって痛い目をみなければ私の社会性は向上しなかった。
 
今にして思えば、二十代のうちからデート慣れしている人々は事前のすり合わせや事前の聞き取りがしっかりしていて、それでいて、自然な感じだったのではないかと思う。相手の都合や好みを事前に知るのは大切だが、ストレートにそれを出せば野暮くなる。かといって知らないままでゴーするのも危なっかしい。二十代あたりでモテる人には、その両立をやってのける器用さがあるのだろう。
 
でもって私の観測範囲には、こうした段取りがあまりできていない男性や女性が確かにいる。十代~二十代の社会経験が少なめの人々で、万事段取りができていなくて、向こう見ずで、不確実なことを、良かれと思ってやってしまう。
 
そういった危なっかしさを目撃してしまった時、年上としては「うわっ!危なっ!」と思ってしまうのだけど、その危なっかしさ、向こう見ずさは過去の自分自身もそうだったことを思えば、生まれながらに身に付けられるものとは思えない。
 
たとえば子ども同士が遊びに出かける約束をする際にも、段取りのきかなさ・向こう見ずさが垣間見えることがよくある。ということはだ、段取りをつけたり事前に相手の嗜好などを把握したりするのは、大抵の場合、訓練のたまものだったり一種のハビトゥスだったりするのではないかと私は思う。
 
 

段取りのきかなさ、向こう見ずさはどこまで許されるのか

 
そうしたことを踏まえ、考え込んでしまう。
 
子どもに対して、あるいは若者に対して、どこまで段取りのできなさ、向こう見ずさを許容できるだろう?
 
リスクを避けるにもベネフィットを得るにも、計画性の高さや用心深さ、事前聞き取りの巧みさがあったほうが良いのは間違いない。
 
ただ先にも触れたように、それは先天的に身に付くものではなく、失敗を繰り返して身に付けていくものだから、ある程度の失敗体験を積まなければ身に付けづらいだろう。
 
だとしたら、少なくとも若いうちのどこかまでは、段取りのできなさ、向こう見ずさに「OK」と言えなければならないのではないだろうか。
 
放課後に集まろうとする子ども、デートで向こう見ずなサプライズを計画してしまう若者は、ある程度まで、段取りのできなさや向こう見ずさに開かれていているべきだと思う。それは未来の社会性を育てるプロセスだと思われるからだ。
 
他方で私たちは、子どもや若者をリスク管理の目線や安全性の確保といった目線で眺めないわけにはいかない。十代~二十代のデートも段取りが良く、安全なものでなければならない、と思いたくなってしまう。少なくとも自分の子どもに対し、段取りができなくて危なっかしいデートをしてもらって構わないと思える親は少ないだろう。子ども自身にとっても、デートのお相手の人にも、それは危なっかしいから、段取り良く、相手の嗜好やアレルギーにも配慮したデートであって欲しいと願わずにられない。
 
さきほど私は、こうしたことは訓練のたまもの・ハビトゥスであると述べた。家庭でこういったことが早くから身に付く子どももいれば、家庭ではこういったことがなかなか身に付けられない子どももいるだろう。もちろん個人の適性もあるに違いない。不平等が、こんなところにも顔を覗かせている。
 
こうした諸々を踏まえると、本来私たちは段取りのきかなさ、向こう見ずさに対しておおらかでなければならないし、失敗をとおして学ぶ「あそび」を尊重しなければならないと思う。ところが、他方でリスク管理や安全・安心を求める気持ちがNoと言いたがっていて、一貫した態度がとりづらく、ダブルスタンダードに陥ってしまいそうだ。この相矛盾する課題とうまく折り合って、プロセスとして巧みに体験してもらうのが子育ての精髄(のひとつ)だろうけれど、なかなかに難しい。
 
 

歯止めのかからないゲームシステムや人を放置できる局面ではないと思う

 
『「みんなが課金しないところに課金してしまうプレイヤー」問題』が酷い - 空白雑記
 
 言及ありがとうございます。ブログ記事をとおして問題点を指摘し、意見を述べてくださるのは嬉しいことです。私が元記事を書いて、上掲リンク先のブログ記事があって、そこにまた返信記事を連ねる──そういう文章の応酬が第三者にも閲覧できるかたちで残されるのが、ブログにおける議論というものではないかと、私は考えています。
 
 まず、パズドラの最近の動向については、ほかの方からもご指摘があったように、私の知識不足はそのとおりです。ここは突っ込む人はいるだろうなと思いつつ、文章の大意として構わないだろうと考えパズドラに言及しました。惨たらしい課金に最近遭遇し、考えさせられたゲームがパズドラだったというのもあります。
 
 この点に関する反駁に身構えてもいたのですが「気持ち良くガチャが回せる」(概要)といった内容だったので、これをどう受け取るべきか当惑している部分はあります。とはいえパズドラが狙い撃ち型の課金ブラックホールが顕著ではなく、FGOのようにたくさんのプレイヤーにガチャ欲求を惹起する作品だとしたら、確かに、私の仮定でパズドラを挙げたのは拙かったと反省します。
 
 ご論の後半には、FGOの★5サーヴァントの宝具5について記されています。私は、高額を投じて宝具5にする人たちが下手くそとは思っていません。あれはファン表現の一種*1だったり、衝動だったり、フレンドシステムに関連した承認欲求の発露だったり、さまざまなものを反映した現象だ思っています。
 
 ただ、お金持ちのプレイヤーがポケットマネーの一部でガチャを回して宝具5を実践するのと、金銭的猶予の少ない人が「欲しい」という気持ちに引きずられるままそれを実践するのでは、同じ宝具5でもその意味合いは違います。本来ならきっちり金額制限を守るべき未成年までもが「欲しい」に負け、歯止めがきかなくなって親のクレカを使ってしまうような事例もまた違うでしょう。
 
 ランキング制度とその周辺の課金フィーチャーについても同様で、資産家のプレイヤーがポケットマネーを用いてランカーになれるシステムが、歯止めのきかない人が廃課金に陥り生活を破綻させやすいシステムでもあるとしたら、あるいは判断力に制約のある人や未成年にまで悪影響を及ぼすとしたら、そんな遊び方ができてしまうシステム、そういうプレイスタイルが許容される状況じたいも、ゲーム規制やゲーム障害周辺の議論の対象になってしまうのではないでしょうか。
 
 「幅広いプレイスタイルが守られること」自体は私も望ましいと思っています。ですがまさにその「幅広いプレイスタイル」が可能なシステムによって無視できない数のプレイヤーの生活や健康に悪影響を及ぼしていると判明してきた時、そのようなゲームデザインはいつまで・どこまで許されるものなのか?
 
 言い換えると、そのようなゲームデザインがまかり通り、そのようなゲームデザインが雛型たりえるようなゲームシーンを、ゲームシーンの外側の人々、たとえば消費者庁や厚労省や政治家といった制度や行政にかかわる人々が黙って眺めているものでしょうか。
 
 本日2月6日、厚労省はゲーム依存症対策関係者連絡会議を開催します。以前からゲーム障害・ゲーム依存関連については議論が進められてきましたが、ICD-11にゲーム障害が記載されて以降、関係機関の動きがとみに活発になっていると私は感じています。ICD-11に記載された診断基準をみる限り、ゲーム障害を適正に診断すれば臨床的に価値のある枠組みになるだろうと期待している一方、診断が一種のブームとなって過剰診断を招いたり、ゲームに関する世論を紛糾させたりする事態は回避していただきたい、とも願っています。
 
 ゲーム障害という診断基準が日本でも用いられるとしたら、長期間にわたって社会生活に悪影響を及ぼし、歯止めやコントロールがきかなくなっている事例をピックアップできるような運用と研究をお願いしたい、と私は望んでいます。ですが医療の側が出張るだけでは片手落ちで、そのような歯止めやコントロールがきかなくなっている事例が発生しにくいゲームデザインになるよう、業界の方は工夫する責を負っていると私は思います。
 
 kuuhaku2さんは、

 金の使い方は自由だ。高級時計に1000万出すことも、バーキンと呼ばれるカバンに200万使うことも、宝具を5にすることも、俺には等しくバカに思えるし、それを咎めるつもりはない。バカだなあと言うこともあるかもしれないが、「それを売ってるやつは悪徳企業」とは絶対に言わない。買いたいやつが買ってる以上詐欺ではないからだ。

 とおっしゃいます。しかし私は、そのような取引が買い手の歯止めやコントロールが難しい状態下で行われているとしたら、とりわけ行動経済学的手法を組み合わせて歯止めやコントロールを困難にしているゲームデザインシステムのもとで行われているとしたら、「現行制度ではセーフ」だとしても「褒められたものではない」と思わずにいられません。私がFGOに一番やられていた時期には、ガチャを回している時にむしろガチャに回されていると感じていたので、自由意志の建前を守りながらあの手この手でプレイヤーを動機づける現行のゲームデザインの威力には警戒の目を向けています。
 
 それと健康への悪影響が懸念される状況・状態も、詐欺か否かでは論じきれません。自由に金を使って良いとはいえ、健康に悪影響の出るゲームユースを長期間続けている事例がそれなり発生しているなら、健康を司る立場の人々が着眼し、対応を図るのは自然な流れです。たとえば、FGOのギルガメッシュやエレシュキガルの宝具を5にすること、それ自体にはなんの問題もありませんが、宝具を5にするプロセス(や、そのほかの様々なフィーチャー)が歯止めやコントロールを困難にして、その結果としてプレイヤーの行動や振る舞い、社会生活や社会適応に悪影響が出ている事例が次々に明るみになるようなら、ゲーム障害という医療のフレームワークにたいする社会的要請は高まっていくことでしょう。
 
 私は一人のゲーム愛好家として、ときにはプレイヤーは一心に自分の好きなゲームに打ち込む瞬間があるはずだし、あって良いとも思っています。とはいえ、そのような無我夢中のゲームライフの最中でさえ、社会生活や社会適応をだめにしてしまうところまで行ってしまってはいけないし、歯止めやコントロールが失われれば結局、愛好家としての幸福は長く続かず、ゲーム体験を豊かにすることも難しくなりましょう。
 
 歯止めやコントロールがきかないゲームユースが未成年者も含めて論点となり、厚労省が本腰を入れ始めている局面において、ゲームシステムもゲームスタイルも自由という一言で押し通すのは難しいのでは、と私は考えています。もちろん、そんなことはないと考える人もいらっしゃるでしょうし、それもひとつの見解です。いずれにせよ、これからディスカッションの季節が始まります。
 
 この問題にかんする私の問題意識や懸念をもう一度文章化でき、良かったです。 
 重ねて御礼申し上げるとともに、豊かなゲームカルチャーが守られ、ゲーム障害という新しいフレームワークがうまく機能するような未来を祈念し、本文の結びといたします。
 
 

*1:私はオタク界隈の"お布施"という風習が好きでしたし、そういった風習が宝具5に込められていることもあるとも思っています。他方、そういう"お布施"という風習をハックしてお金をもうける仕組みもあるだろうとも思っています。とりわけ据え置き機時代の"お布施"に比べ、色々と洗練されているご時世ですから。

「みんなが課金しないところに課金してしまうプレイヤー」問題

 
 
 
  
“ファミ通モバイルゲーム白書2020”最新市場動向が発表。国内年間課金売上トップは『FGO』。もっとも遊ばれたのは『ポケモンGO』 - ファミ通.com
 
 リンク先では、『ファミ通モバイルゲーム白書2020』にもとづいた2019年モバイルゲーム課金ランキング、それと総プレイ時間ランキングが紹介されている。ソーシャルゲームに費やされている金額と時間のスケールに気が遠くなりそうだ。
 
 ランキングを眺めると、興味深いことにも気づく。『Fate/Grand Order』は、総プレイ時間では6位だが課金売り上げでは1位となっている。他のゲームに比べて『Fate/Grand Order』はプレイ時間のわりに高額課金なゲーム、ということになろう。
 
 正反対に『ポケモンGO』や『ディズニーツムツム』はプレイヤーを長時間拘束するわりには課金額は少な目で済んでいる、ようにみえる。尤も、『ポケモンGO』のような位置情報ゲームの場合、交通費や飲食費、ときには被服費などもかさむので、ゲームそのものへの課金額だけでは計り知れない部分もあるが。
 
 『パズル&ドラゴンズ』(『パズドラ』)の課金売り上げが3位と善戦しているのも興味深かった。パズドラの近年の売り上げについては、以下のリンク先が参考になる。
 
FGO 711億円、モンスト 709億円、パズドラ 522億円、荒野行動 424億円、スマホゲーム課金売上ランキング(2019 日本国内)|アプリマーケティング研究所|note
 
 パズドラの2019年の課金売上は、522億円だという。2018年には487億円、2019年には473億円だったということは、ここに来て課金売上が増えているわけだ。
 
 パズドラはリリースから7年経っていて、このジャンルでは古株だ。ゲームが好きな人間なら、もうひととおり遊んでしまっているだろう。
 
 ではパズドラは、プレイヤーに課金させてやまないゲームなのか?
 
 私や私の周囲のパズドラプレイヤーをみる限りでは、そうとは思えない。
 
 序盤に課金をするメリットはあったと思う。神をはじめ、レア度の高いキャラクターを幾人か持っておけば中盤までの展開が楽になる。パズドラを遊び始めてまもないプレイヤーが許容範囲の課金をするのは、だから理解しやすいことだ。
 
 しかし中盤以降、レア度の高いキャラクターを課金してまで取りに行く必要性は下がったはずだ。パズドラの運営は、ガチャを回すためのアイテムはそれなり配ってくれるし、レベルを上げたり攻略したりしているうちにおのずと手駒が揃った、と記憶している。無課金系のキャラクターも十分役に立った。そもそも、レア度の高いキャラクターをやみくもに入手しても育成が追い付かない。育成スピードとレアキャラクターの入手率が釣り合ってきて、あまり困らなくなり、やがて私はプレイするのをやめた。
 
 周囲のプレイ状況をみても、ネット上の攻略情報をみても、パズドラは良心的なゲームではなかったのか? いずれ飽きそうなゲームデザインでもあり、手ごわい課金システムのゲームに比べれば与しやすいと思っていた。
 
 ところが2019年になってもパズドラで課金する人は絶えない。
 
 その後、私や私の周囲の基準でみれば信じられないパズドラの遊び方をする人、ゲームリテラシーや課金リテラシーが信じられない人が世の中に存在することを、私はオンラインとオフラインから知った。
  
 パズドラに限らず、ソーシャルゲームには「ほとんどの人が課金しない時に課金する人」や「ほとんどの人が課金しない対象・目的に課金する人」が一定数いる。課金する理由は、コレクション欲であることもあれば、ランキング欲によることもあれば、ゲーム内のリソースが管理できないこともある。が、とにかく大抵のプレイヤーが課金しないで済ませるところでも課金してしまう、ブレーキのきいていないプレイヤーが存在している。
 
 してみれば、この、「たいていのプレイヤーが課金しないところに課金してしまうプレイヤー」がソーシャルゲームの"上客"、ということになりそうだ。詐欺の世界では、詐欺に引っかかった人の人名リストが高値で取引されているという噂があるけれども、それなら「たいていのプレイヤーが課金しないで済ませるところでも課金してしまうプレイヤー」のリストも高値で取引されるのではないだろうか。
 
 ところがあまたのプレイヤーのうち、こうした"上客"はごく一部だから、"普通に"遊んでいるほとんどのプレイヤーは「このゲームは良心的」「このゲームはそれほど課金しなくて大丈夫」と判断する。
 
 ソーシャルゲームには、"普通に"遊んでいればたいした問題にならないけれども、"上客"からは徹底的にお金を搾り取るフィーチャーがちりばめられている(たとえばランキング制度など)。多くのソーシャルゲームのビジネス戦略には、"普通に"遊んでいるプレイヤーには良心的なイメージを植え付け、良心的という評判を維持しながら"上客"からはお金を搾り取る、そんな側面があったりするのではないだろうか。
 
 もし、ほとんどのプレイヤーには無害な課金フィーチャーが、ごく一部のプレイヤーにだけ凶暴な牙をむくとしたら……。
 
 この仮定に基づくなら、ソーシャルゲーム批判をする際に「"普通"に遊ぶプレイヤーがどれだけ課金しやすいか」、あるいは「"普通"のプレイヤーがどれだけ魅了されやすいか」といった視点で批判するだけでは足りない。たいていのプレイヤーは、より新しく、より面白いゲームに課金する傾向があり、その金額も身の丈をはみ出さない。そのようなプレイヤーの課金やプレイスタイルは、問題としては大きくない。
 
 本当に批判しなければならないのは、ほとんどのプレイヤーには無害だが"上客"からは徹底的に搾り取る、それでいて良心的なゲームという評判を維持できるような、そういった一連のカラクリのほうだったりしないだろうか。
 
 と同時に、そのような"上客"に相当する人々、ほとんどのプレイヤーが素通りするところで課金し、ほとんどのプレイヤーが自制するところでも自制できないプレイヤーの事情や病理性がリサーチされなければならないだろう。そうしたリサーチに際しては、たとえばゲーム障害のような医療的なフレームワークが功を奏して、大半のプレイヤーの遊び方から乖離した、いわばgame addiction(ゲーム依存)というよりgame abuse(ゲーム乱用)とでもいうべき状態の輪郭がとらえられるのでは、と期待している。
 
 ほとんどのプレイヤーが無事息災に遊んでいるゲームを、歯止めのきかない遊び方で遊んでしまう極一部のプレイヤーが存在し*1、そのことまで織り込み済みでゲームがデザインされているとしたら、そこは批判されてしかるべきだろうし、そのようになってしまう特異なプレイヤーや状況についてリサーチされなければならないだろう。
 
 私はゲーム愛好家なのでゲーム障害が過剰診断される未来は望んでいない。とはいえ、あまりにも不健全で歯止めのきかない、乱用という言葉がよく似合うゲームプレイが現実にあって、その不健全なゲームプレイを狙い撃ち、あてにするようなゲームデザインが野放しになっているとしたらまずいと思う。
 
 冒頭のとんでもない金額の課金ランキングのうち、「みんなが課金しないところに課金してしまうプレイヤー」が占めている割合はいったいどれぐらいだろうか?
 
 
 
 [関連]:「FGOガチャ売上4000億円突破 1DL辺り課金額は5万円」に震えが止まらないマスター達 - Togetter

*1:または、歯止めのきかない遊び方になってしまう事情や状態が存在し