シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

私の世界を守るためにニセモノの人生と戦ってみる

 
ニセモノの人生 - Qana’s diary
 
 一カ月ほど前にリンク先のブログ記事を読んだ時、「あっ!このニセモノ人生観は、自分の肌にあわないやつだ」と直感したので、何か反論めいたことをブログに書いてみたいと思っていた。けれども反論の根拠を文章にできる自信もなく、途中で風邪をひいたりもしたので伸び伸びになってしまっていた。
 
 しかし、何か書かないと足の裏にくっついたごはんつぶが取れない気持ちになったので、とりあえずも書いてしまうことにした。リンク先のブロガーさんへの返答という体裁のもと、内心を整理してみたい。
 
 
 1.もし、舞台裏のカラクリが見てとれるような、仕組まれた体験・仕組まれた経験がニセモノの人生の証拠だとしたら、ニセモノではない人生は、どこにあるだろうか。
 
 流行の衣装やアクセサリー、ゲームやテレビのコンテンツ、雑誌で紹介されている観光地の景色のたぐいは、わかりやすい仕組まれた経験であり、それを理由にニセモノと呼ぶならまさにニセモノの代表格だろう。人間関係にしても、学生時代、会社員時代それぞれにふさわしいテンプレートどおりにやっていくのは仕組まれた体験と言えるかもしれない。
 
 そうやって誰かが準備したアイテム・コンテンツ・体験・人間関係をひたすらなぞり続ける人間は、通俗的にみえやすかろうし、仕組まれた経験=ニセモノという観点を補強づけるにはちょうど良いモデルケースになりそうだ。で、そういう人は確かに存在している。
 
 でも、この考え方を延長させていくと、ニセモノの判定がどんどん広がっていく危険性がある。○○大学に入ったのも仕組まれたことと言えるかもしれない。○○大学の××研究室に入って、△△先生の指導のもと■■についての修論を完成させるのも、それが仕組まれていないことと本当に言えるのか?
 
 それらは、CMどおりにコンテンツを買ってなぞるよりは表層的ではないかもしれない。だが、表層的でないからといって、それらが仕組まれていない、自由意志によって人生を大航海している証拠だと考えることに、私は躊躇いをおぼえる。
 
 ○○大学に入るという選択だって、本当に自分の意志によると言ってしまえるのか?
 
 △△先生の指導のもと■■について書いた修論も、もちろんオリジナリティはあるとしても、それはどこまで自分の意志によるもので、どこまで△△先生の意志によるもの、どこまでその研究室の伝統によるものなのか?
 
 ここからもう少し見方を進めてみる。
 
 自分で考えて進んだとおぼしき冒険や研究のたぐいを、私達はどこまで自分自身の、ホンモノのオリジナリティの発露とみなして構わないのだろうか。個人主義的な社会制度の内側では、しばしば、ひとつの発明やひとつのサクセスストーリーは個人の功績に帰せられる。しかし、ワットの蒸気機関の発明にせよ、ジョブズのアップルの躍進にせよ、それらは一人の偉人が独力でなしえたものではなく、先行する研究や開発、並行する競争相手や時代背景があればこそ脚光を浴びるに至ったものであって、ワットやジョブズが独りでアチーブメントを為し得たわけではない。確かに知名度を獲得したのは彼らだとしても、彼らが独自でアチーブメントに到達できたと考えるのは、個人主義社会の習慣に溺れたモノの見方に過ぎないのではないか、と私には思える。
 
 私は仏教愛好家なので、「世界のものごとは、縁起・因縁の連なりのなかで起こっている」と考えたがる。
 
 あるひとつの出来事が起こる背景には、それをひき起こす原因や要因が無数に存在している。何が要因となって何が結果となるのかの因果関係(ただし、この表現は仏教的には不適切で、因縁関係とか縁起関係と表現したほうが穏当)を、すべて読み取るのは人間には不可能だ。仏教の場合は「如来という形而上の存在にはそれが読み取れる」という設定になっている。
 
 このような世界観で人生のイベントや個々人の選択を考えると、個人の意志の発生も含め、なにごとも、出来事の連なりのなかで起こっていることと理解されることになり、自分の意志による選択とは、あるといえばあるし、ないといえばないということになる。
 
 私がこうやって仏教的にものを考えて書いているのも、私の意志によるものと言えなくもない反面、私が今までに出会ってきた仏教的なテクストや指導者が私のかわりに考えて、私の身体をハックして勝手に書かせている、とも言えるだろう。冒頭リンク先のメンションに即して考えると、他人が考えてくれた仏説を参考にした世界観を開陳しているこの私も、ニセモノのハリボテということになる。
 
 人間は、前人が拓いた知識や概念を受け継いでいく存在だから、いわゆる一流の思想家や哲学者ですら、ある面ではニセモノのハリボテと言えなくもない。もちろん、その人がその時代・その環境に揉まれたことによる新規性はあろう。だがそれとて、その人自身の内側から純粋に沸いてきたというわけではあるまい。プラトンやヘーゲルやニーチェだって、彼らが呼吸してきた時代や環境に多くを因っている。それを、事後に読む私達は「ここらは彼が独自の境地をひらいた部分」と解釈することもできようけれども、だからといって、彼らの歩みが大海原の自由航海だとは私には考えられない。
 
 最も偉大な人々の営みですら、もっと地べたを這いずっているような気がするんですよ。
 
 
 2.さてそうなると、ホンモノの人生とニセモノの人生の違いとは、どこにあるのだろう。
 
 ここでまず思いつくのは、ホンモノとニセモノを「程度問題」の違いとみなし、どこか適当なところに分水嶺をもうけて人間を捉えることだ。
 
 「テレビCMの流行を追いかけているからニセモノ。インスタグラムのインフルエンサーに憧れているからニセモノ。毎朝最新の論文に目を通しているからホンモノ。食べログなど見向きもしないで、いつも知らない飲食店に突撃しているからホンモノ。」
 
 この手の分水嶺をつくってしまえば、とてもわかりやすいホンモノ/ニセモノの世界ができあがる。
 
 ただ、問題が無いわけではない。わかりやすいホンモノとニセモノの分水嶺をつくってしまうと、その基準でホンモノとみなされるものを効率的に収集し、そこにあぐらをかいて堕落していくことがままある。
 
 最新の研究を追いかけていること・難読な哲学書を読んでいること・複雑なアートを理解していることなどは、こうした分水嶺をつくってしまった人にとってホンモノに相違ないが、ホンモノを選んでいるという自負に依存した挙句、問うてみれば空虚な内実を露わにする「ホンモノだけどスカスカな人」というのもいる。
 
 逆に、世間ではニセモノと言われがちな、流行の尻を追いかけているようで、その追いかける航跡が美しい人、束の間の娯楽を見事に楽しみきってみせる人もいるわけで、そういうのは「ニセモノだけど充実した人」ということになってしまう。
 
 付け加えておくと、一段メタな問題として、分水嶺をもうけるということ自体、つくりものの、ニセモノの、借り物の分類手段、といえなくもない。
 
 借り物の分類手段でホンモノとニセモノの分類をするのはいけない……ことではあるまい。MKS単位系でもヤード・ポンド法でもポリティカルコレクトネスでもいいが、人間は、どこかから尺度を借りて来なければ測量も判断もできない生き物だから。ただ、そうやって馴染んだ分類手段じたいも借り物であるということに、自戒や自嘲の余地はあってもいいのではないか、と、私は思う。
 
 思考や行動の隅々にまで人類の遺産・先人の敷いたレールが敷き詰められたそのうえで、ああだこうだということをやっている私達は、人類史という名の仏陀の掌の上の猿のようなものではないだろうか。
 
 
 3.もうひとつ、尺度を挙げてみるなら「夢中の具合」だろうか。
 
 主観のレベルの話に移ると、人は、夢中のことはホンモノと感じやすく、醒めたことはニセモノと感じやすい。
 
 控えめに言っても、醒めていること・関心の乏しいこと・つまらないと思っていることをホンモノの営みだと感じる人間はごく少ない。逆に、夢中になっていること・関心の強いこと・面白いと思っていることをホンモノと感じる人間は多い。
 
 この尺度の良いところは、仕組まれた体験をなんでもニセモノと呼んでしまうリスクを回避できるところだ。ディズニーランドは虚構の国だが、そこでファンが獲得する主観的体験は、ニセモノというには真剣で、しばしば記憶に深く刻み込まれる。コミケに初参加したオタクの喜びなどもそうだろう。子ども時代に感動して泣いたアニメの記憶、灼熱の日に見知らぬ人からもらった清涼飲料水の美味さ、などなどを掬い取るうえで、主観的体験は良いモノサシとなる。
 
 ただ、主観ゆえに、後から記憶が改ざんされて判定が覆ることもあり得る。たとえば、片思いの相手と一緒に食事をした記憶が、ある時点まではホンモノと感じられ、振られた後は空虚だとかニセモノだとか、そういう風に思い出す人は多い。主観的な体験は、ある意味では最もあてになるが、ある意味では最もあてにならない。
 
 「だから主観的な尺度は駄目だ」と言いたいわけではない。
 
 主観とはそういうものだと割り切って、ホンモノ-ニセモノ尺度の揺らぎを自覚しながら生きていくのも良いのではないだろうか。いや、主観のあてにならなさを自覚すらしないで、主観的体験に盲目的に従う人生を生きたって、別に構わないのではないだろうか。そうやって生きている人はたくさんいる。
 
 もっというと、主観の有無すら曖昧な次元を生きる、動物、さらに昆虫や植物の生は果たしてニセモノだろうか?
 
 そうは見えない。
 
 私は日本人なので、昆虫にもホンモノ-ニセモノという意識をしばしば向けたくなる。
 
 夏の終わりの蝉の声や、秋の終わりのキリギリスの声を聞く時、私はそこにホンモノの生を想定せずにいられない。真っ直ぐに生きて真っ直ぐに死ぬ。ある意味、人間よりも彼らのほうがホンモノの生と言いやすい。文化やメディアによる修飾が無いし、そもそも、ニセモノの生を生きる蝉、ニセモノの生を生きるコオロギというものを想定することができない。
 
 と同時に、蝉やコオロギは、自分の一生の真偽について云々したりはしないだろう。
 
 
 4.こうやって一巡りして改めて私が感じたのは「しいて考えるなら、ニセモノを定義・検出するのは難しいのではないか」だった。
 
 ものごとの成り立ちの無限のつらなりは、ある意味、すべてホンモノという側面を備えている。浅薄なコンテンツを通りすがりに楽しむ人を、ニセモノと呼んで良いものか。もし、ニセモノだとして、それはなぜ、ニセモノという風に言えるのか。浅薄なコンテンツが現れ出ること、それを消費する人がいること、いずれもものごとの成り立ちの無限のつらなりのなかの、実相のひとつではないか。と同時に、その人にとってそのコンテンツが夢中と呼ぶにふさわしい主観的体験を伴っているとしたら、それをニセモノと呼ぶことは難しいのではないか。
 
 とはいえ、諸々をホンモノと呼んで殊更にありがたがるのも妙な話だし、私がこうやって考えている思考のフレームワークも仏教の借り物でしかないわけで、そこが私の思考の限界となる。私にとっての世界は胎蔵界曼荼羅のようなもので、あらゆるものに位置づけがあり、あらゆるものの実相があらわれ、ホンモノとみなされがちなものの実在をニセモノとみなされがちなものが支えているような関連性の連なりこそが世界なので、もし、私のフレームワークでホンモノとニセモノの弁別をしようとし過ぎると、世界が割れてしまいかねない。
 
 たぶん、リンク先の「ニセモノの人生」というブログ記事を読んだ時に、本能的に私は、私と私の世界を守るために、この長ったらしい文章を書いて防衛機制を働かせる必要性に迫られたのではないだろう。この、ものごとの成り立ちの無限の連なりのなかで、たとえ何かがニセモノとみなされがちだとしても、それもそれで世界の一部であり、ホンモノとみなされがちなものの成立と地続きであることを確認する儀式が、私には必要になったのだと思う。
 
 ここまで読んだ人が何人ぐらいいるのかわからないけれども、私の思考を守るための町内一周トレッキングにお付き合いくださりありがとうございました。
 
 

再考・『涼宮ハルヒの憂鬱』のどこが新しかったのか

 
 
はてなブックマーク - ハルヒ革命と保守・新自由主義化するハルヒ世代 - 美少女と僕らのセカイ
涼宮ハルヒ美顔革命論について各方面の反応 - Togetter
 
 先日、「ハルヒ革命と保守・新自由主義化するハルヒ世代」というタイトルのブログ記事が書かれ、たくさんの人から批判や嘲笑を集めた後、消えてしまった。「エヴァ以降、ハルヒ以前のキャラクターにみられなかったのは『顔の良さ』」という持論からはじまって、「保守・新自由主義化するハルヒ世代」という世代論的な話にうつっていったが、やけに難しい言葉遣いだった。
 
 書き手は1995年生まれを名乗っていて、『涼宮ハルヒの憂鬱』に関するの過去の議論についてあまり知らない様子だった。『ハルヒ』について語りたい意気込みは伝わってくるものの、それを伝えるための文章力も知識もデリカシーも足りておらず、批判や嘲笑を集めるのもやむなし、といったところではあった。
 
 だが、20代前半の若者が大上段にアニメを語るとはそういうものではなかっただろうか。
 
 インターネットが普及していなかった頃のローカルなオタクコミュニティでは、世間を知らず、知識も乏しい若いオタクが、要領を得ない作品論をぶちあげることは珍しくなかった。そういう、意気込みの空回りした作品論がオープンなインターネットに晒されるようになった時、批判や嘲笑を集めるのは理解できることではあるけれども、せっせと作られた若者の作品論が一蹴され、消えてしまうのは悲しいと私は思った。
 
 それでも熱量にほだされ、私も「ハルヒのどこが新しかったのか」を再考したくなった。似たようなことは4年前にもやっているけれども、好きな作品の話は、何度やったって悪いものじゃない。
 
 

「女の子たちが歌って踊ってライブする作品群」の先駆けとしての『ハルヒ』

 
 

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 私は、『涼宮ハルヒの憂鬱』がそれ単体で"革命"を起こしたとは考えていない。
 
 それでも、アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』が流行が変わっていく時期の人気作品なのは間違いなかろうし、同時代の幾つかのコンテンツやプラットフォームとともに記憶されるべきだとは思う。
 
 まず、ライトノベル版『涼宮ハルヒの憂鬱』がよくできていたことを断っておく。SF的要素や(90年代後半~00年代に流行した)心理主義的要素をちりばめ、キョンの独特な語り口を特徴とするライトノベル版は、同時代の愛好家の需要に応えていたと思う。
 
 ただし、それだけの作品ではなかった。
  
 たぶん、アニメ史のなかで重要だと思われるのは、「女の子たちが歌って踊ってライブする作品群」の先駆けのひとつが、アニメというジャンルでは『涼宮ハルヒの憂鬱』だったということだ。
 
 『涼宮ハルヒの憂鬱』は、「ハルヒの顔が良い」という曖昧な理由によって特別だったわけではない。絵やストーリーでいえば、ほかにも優れた作品はそれなりあった。たとえば『エウレカセブン』や『アイドルマスター(アイマス)』あたりと比較して、『涼宮ハルヒの憂鬱』が突出して2010年代寄りのデザインだったとは思えない。今、『涼宮ハルヒの憂鬱』を観ると、その絵柄は2010年代よりも90年代後半に近いとすら感じる。
 
 だが、「女の子たちが歌って踊ってライブした」00年代のアニメとしては『ハルヒ』が早かった。エンディングテーマ『ハレ晴レユカイ』もそうだし、文化祭でハルヒが熱唱するシーンもそうだった。現代アニメではもはやテンプレートとなっている「女の子たちが歌って踊ってライブする」センスを、アニメというジャンルで最初に開花させたのは『涼宮ハルヒの憂鬱』ではなかったろうか。
 
 この時期には「女の子たちが歌って踊ってライブする」コンテンツが立ち上がってくる機運があった。Xbox360版の『アイドルマスター』がリリースされたのが2005年だし、AKB48が始動したのも2005年。『ハルヒ』だけが特別だったわけではない。ゲーム・アイドル・アニメという複数のジャンルで同時多発的にそれは起こり、燎原の大火のように広がっていった。
 
 ハルヒダンスの生みの親である山本寛さんは、2018年6月の公式ブログで、ハルヒダンスの流行への戸惑いと嫌悪感を表明しておられる。
 

当時は戸惑ったものだ。
なんでこんなに受けるの?
 
嬉しいというよりは、変な感じだった。
幸いにして「朝比奈ミクルの冒険」や「サムデイ イン ザ レイン」など、しっかり仕掛けて作った部分も充分に評価されたので、まだ違和感は薄かった。
 
しかし「ハルヒダンス」、なんでこんなに受けたんだろう?
作画スタッフに罪はない、あくまで演出上の問題だが、この程度で??
 
僕にとっては「刺身のツマ」がえらく評判になったようなものだ。
そこを褒められてもなぁ、という。

 

もうウンザリだ。
死ぬまで踊ってろサルども。
 
結局「一番解りやすいもの」が受けるのだ。
『エヴァ』での庵野さんの悩みも、そういうところだったのかなぁと、想像してしまう。

 
 「ハルヒダンス」は山本寛さんにとって「刺身のツマ」だったという。だが振り返ってみれば、まさにその「『刺身のツマ』がなぜ流行ったのか」が問題であり、00年代前半に流行ることのなかった何かが流行り始める先駆けを、たまたま山本寛さんが掴みかけていたと推察される。
 
 「ハルヒダンス」が流行した後には、『らき☆すた』や『けいおん!』が続き、もっと後発の『ラブライブ!』も大ヒットした。『アイマス』も今日まで太い命脈を保ち続けている。AKB48の台頭と発展は言うまでもない。そうしたプロが仕立てたコンテンツたちの裾野には、アマチュアたちが投稿した無数の「歌ってみた」「踊ってみた」系の投稿作品、『アイマス』や『初音ミク』などを使った投稿作品が広がっている。
 
 

『マクロス』や『サクラ大戦』とは位置づけが違う

 
 『ハルヒ』以前にも「女の子が歌う」「女の子たちが踊る」コンテンツが無かったわけではない。twitterでやりとりしていて思い出させてもらったが*1、たとえば『マクロス』や『サクラ大戦』はそれに近いようにもみえる。
 

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檄!帝国華撃団

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 しかし、『マクロス』や『サクラ大戦』がヒットしたからといって、似たようなコンセプトで女の子が歌う・踊るコンテンツが広がるとまではいかなかった。
 
 あまりにも早すぎたとも言えるし、似て非なるコンセプトだったとも言える。たとえばリン・ミンメイは、AKB48よりも昭和アイドルに近い存在ではなかったか。帝国華撃団にしても、あれは銀座に本部を置くような歌劇団であって、平成アイドルとは路線が違う。
 
 『マクロス』や『サクラ大戦』は、その時代の作品としてそれほどおかしくないし、じゅうぶんヒット作と言えるけれども、00年代の中盤以降に急速に広まっていった「女の子たちが歌って踊ってライブする作品群」の直近の先祖とするには、コンセプトも時代も違い過ぎる。
 
 インターネットの普及や動画投稿サイトの登場といった、メディアのプラットフォームにかかわる変化がなければ、『涼宮ハルヒの憂鬱』は「それなりに売れたライトノベル」で終わっていたかもしれず、『マクロス』や『サクラ大戦』よりもマイナーな存在として終わっていたかもしれない。『アイマス』にしてもそうで、00年代の複雑で広範な背景に支えられてヒットしたのだろう。
 
 だが、たとえそれが僥倖だったとしても、『涼宮ハルヒの憂鬱』は、そうしたテンプレートの最初期の作品と位置付けられる程度には早かったし、新聞に一面広告を出すぐらいには存在感も示していた。そのことは、アニメ史やサブカルチャー史の一幕として憶えておいてもいいように思う。
 
 「ハルヒの顔が良い」だけでは、こうはならなかったはず。
  
 

*1:特に @stdaux さんに感謝

うちの近所の公園には風の精霊が棲んでいる

 
 
 
 『ポケモンGO』をやっているおかげで気付いたのだけど、うちの近所の公園には風の精霊が棲みついている。
 
 「風の精霊が棲みついている」のは、往来の邪魔にも子どもの遊びの邪魔にもならない、ポケモンGOのジムバトルをするのにちょうど良い小さな空き地だ。
 
 その公園内の空き地は、周辺をマンションやゴミ置き場に囲われて、袋小路のような構造になっている。いい歳したおじさんがポケモンGOのジムバトルに集中しても目立たないのでポケモンGO向きのロケーションだ。でもって、春夏秋冬通いつめて気付いたのだけど、そこは、ちょっと風が吹くとつむじ風が起こる不思議な場所なのだった。
 
 木枯らしの吹く、11~12月の時期はとりわけそうで、枯れ葉がぐるぐる回転し続けている。風系統のポケモンを使っている時につむじ風が起こっているとと、ポケモンが具象化しているような錯覚をおぼえて気分がアガる。他のポケモントレーナーとジムバトルをしている時につむじ風が吹いても、それはそれで、バトル! という感じがして嬉しい。
 
 ポケモンGOのジムバトルの場所につむじ風がしょっちゅう起こるのは、偶然なのか、それとも必然なのか。
 
 

ポケゴーやっている時は、やっぱり精霊って呼びたくなるわけですよ。

 
 現代の科学の知識をもってすれば、なぜ、つむじ風が起こるのか・どのような場所につむじ風が起こりやすいのかを説明づけることはできる。
 
 風の精霊に相当するつむじ風や竜巻は局所的に起こった風の流れだし、その背景として気圧差や地形を考えればいい。
 水の精霊に相当する渦潮のたぐいも、水流や潮汐力などによって説明づけられる。
 

 
 とはいえ、科学以前の時代なら、つむじ風や渦潮が頻繁にできる場所を「精霊が棲んでいる」と説明づけたのは自然なことだっただろう。日本では、そういった場所が「龍のすみか」とみなされたこともある。
 
 どうあれ、つむじ風や竜巻や渦潮のたぐいは「自然界の力が具象化したもの」ではあり、科学時代の人々はそれを「天候」や「自然現象」ととらえ、昔のアニミズムな人々はそれを「精霊」や「龍」や「神」の顕現といった風にとらえたのだろう。
 
 でもって、ポケモンというのは多分にアニミズムな作品なわけで、流体力学にもとづいてつむじ風を考えるより、公園の空き地に風の精霊が棲んでいる、と考えたくなる。でもってそいつは、つむじ風を起こして子どもを喜ばせたり、おじさんの帽子を飛ばしたり、スカートをめくったりしている。
 
 こういう地元の小さな大自然に気付けたのは、まさにポケモンGOのおかげ。これからも遊び続けて、まわりの風景をよく見ていこうと思う。
 
 

Pokémon GO Plus (ポケモン GO Plus)

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アタマが良くてマーケットがわかる人しか稼げない社会は「要らない」。

 
 以下のリンク先記事は、現状分析としては間違っておらず、実際、仕事への要求水準は高くなっているのだろう。
 
人手不足なのに給料が上がらないのは、経営者の強欲のせいではなく、仕事に要求される能力が高くなったから。
 

ですから現在の状況を単純に言えば、
1.事務職の消滅とともに、「普通の人」が遂行できて、「それなりのお金がもらえる」職場は消滅してしまった。
2.今は「低賃金・肉体労働」の仕事に就くか、専門家として「知識労働」に従事するか、その2つしか選択肢がない
ということになります。

 
 日本だけでなく、欧米諸国でも「普通の人」が働いて「それなりのお金がもらえる」職場は少なくなっている。低賃金の肉体労働や単純労働に従事するか、高度なスキルを必要とする知識労働にジャンプアップするか、そのどちらかを迫られがちな世相なのは、そのとおりなのだろう。
 
 加えて、リンク先ではマーケティングセンスの重要性も指摘されている。
 

例えば今の時代は、人工知能や統計解析の専門家は稼げても、刀鍛冶や畳職人はそれほど稼げません。
要するに、専門家でありさえすればよいのではなく、「マーケットがある上での専門家」である必要があります。

 高度なスキルを持っていてもマーケティングセンスがなければ稼げない。ここでは刀鍛冶や畳職人が「稼げない専門家」として挙げられているが、マーケティングセンスというのは、ある種、魔法のセンスであり、市場のニーズをくみ出せるなら刀鍛冶や畳職人でも「事業」を興せないことはないだろう。刀鍛冶や畳職人で想像しづらいなら、和菓子職人について考えればもっとわかりやすい。どれほど素晴らしい和菓子職人でもマーケティングセンスが無ければ零細のままだし、過疎化にまかせて廃業を余儀なくされるおそれもある。だが、マーケティングセンスと技芸を両方持っている和菓子職人であれば、支店を全国に持つような「事業者」になることも叶おう。
 
 
【「アタマが良くて商売センスのある少数以外は低収入待ったなし」】
 
 なので、リンク先の文章を額面どおりに受け取るなら、現代社会において「稼げる」のは、アタマが良くて商売センスにも恵まれている人、ということになる。
 
 だが果たして、世の中にそのような人がいったいどれぐらい存在するだろうか。
 
 大半の人は、それほどまでに高度なスキルを身に付けられるわけではないし、マーケットを読めるわけでもない。
 
 となると、この現状分析から導かれる帰結は「ごく少数のアタマが良くて商売センスのある人ばかり高収入になって、そうでない大多数は低収入に甘んじるしかない」というものである。
 
 昨今の世帯年収の中央値を思い出すにつけても、ここでいう低収入とは、昭和時代末期の「中流意識の家庭」よりもずっと少ない水準を想定せざるを得ない。
 
 もはや中流意識を持つことすら困難な、息子や娘を大学に送り出すことも困難な──それどころか、結婚や子育てを夢見ることすら許されないような──世帯収入に甘んじる人がどんどん増える未来が透けてみえる。実際問題、昭和時代まで中流意識を持っていた家庭の子女の少なくない割合が21世紀には"下流"へと流れ着き、"失われた20年"をたまたま生き残った者たちが、減りつつある"中流"の席を奪いあっている。
 
 そして稀有な才能やコネクションに恵まれ、マーケティングにも通じているごく少数が、資本主義の果実のジュッとした部分を頬張っているのである。 
 
 21世紀の資本主義の状況として、橘玲さんが記すようなビジョンを否定することは難しい。
 
  
【そんな社会を認めて構わないんですか?】
 
 現状がこうである、と分析するのはいい。
 だが、その現状を是とするか非とするかは、また別の問題である。

 日本は資本主義の国であるとともに民主主義の国でもある。
 
 成人すべてに投票する権利が与えられ、デモクラティックに意思決定が進んでいく日本において、そんな、ごく少数の人間だけが資本主義の果実のいちばんおいしいところを持っていってしまう社会をしかと認識し、それをそのままにしておく道理はあるものだろうか。
 
 アタマが良くてマーケティングのわかる少数派にとって、21世紀の資本主義の状況は天国も同然である。グローバリゼーションは、アタマが良くてマーケティングのわかる少数派にとってうってつけの状況を提供している。
 
 だが、国民の大半はそんなにアタマは良くないし、マーケティング適性も持ち合わせていない。そして高騰する大学教育が象徴しているように、高度なスキルを次世代に授けるためのハードルも高くなりつつある。次世代に高度なスキルを易々と身に付けさせられるのは、すでに高度なスキルやマーケティングセンスを手中におさめた少数派の家庭だけだ。もし、政府なり財界なりが高度なスキルの人材が欲しいというのなら、低収入の家庭の子女が高度な教育を受けやすいようなパスウェイの整備に予算と情熱を傾けるべきだろうに、実際にはまったくそうなっていない。"下流"的な家庭からアタマが良くてマーケティングセンスにも恵まれた人材を輩出することは、昭和時代よりも困難になっている。
 
 だったら革命しかない!
 
 ……というのは冗談としても、この民主主義の国において、ごく少数の人間だけが資本主義の果実を堪能し、大多数の人がそれを指をくわえてみているしかない状況は、かなりおかしい。少なくとも、中流的な生活が困難になる人がドシドシ増えざるを得ない状況を静観するばかりで、それが世間だと開き直る人々ばかりの社会状況を是とするのは奇妙なことのように私には思える。
 
 これは、民意が反映されていない状況ではないだろうか。
 
 もちろん、民意が反映されれば万事うまくいくというわけではない。アタマが良くてマーケティングのわかる人々の言うとおりにしたほうが、国民総生産が上昇しやすい、といったことはあるかもしれない。でもって、アタマが良くてマーケティングのわかる人々はプレゼン能力にも優れているから、「自分たちの言うことをきかないと結果として国全体が貧しくなって、あなた達はもっと貧しくなるんですよ」的なことを滔々と語ってみせるだろう。今、流行のエビデンスというボキャブラリーを交えながら。
 
 だが、国全体が貧しくなるかどうかなんて、大多数の人は興味の無いことである。ましてや、「事業」をやってのけられる人々の都合を気に掛ける必要性なんてどこにもない。大多数の人が気に掛けるのは、自分や近しい人が豊かと感じられているかどうか、そして「自分が決してなりようのない連中」との差異、あとは「連中」が自分たちのことを大切にしているか馬鹿にしているか、である。
 
 EU離脱したイギリスやトランプ大統領が当選したアメリカで起こったことの一側面は、アタマが良くてマーケティングのわかる人々にとって都合の良い政治状況や社会状況に対する「そんな社会は要らない」というメッセージではなかったか。
 
 英米の有権者の選択が、最終的にそれらの国の大多数への福音になるのかは、私にはわからない。しかし民主主義を良いものとみなす限りにおいて、有権者にはそのような選択をする権利があり、それらの選択はやはり尊い。そして日本国民だって本当はそうしたって構わないはずなのだ。
 
 私はいちおう医者だから、アタマが良くてマーケティングのわかる人々にとって都合の良い社会でもなんとか生きていけるだろう。むしろ、この筋のブルジョワ社会化がますます徹底してくれたほうが、私のような立場は社会適応しやすくなるはずである。
 
 だが、そのような社会が大多数にとって望ましいものだとは思えない。資本主義の果実がもっと広い裾野に広がって、中産階級的な人々が増えることを多くの人が期待しているなら、そのために声をあげても構わないのが民主主義ではなかったか。
 
 21世紀の資本主義の現状を醒めた目で分析した後、私達はどう考え、どう立ち回るべきなのか。
 
 アタマが良くてマーケティングのわかる人々だけがおいしい果実をむさぼり、そうでない大多数が貧困に甘んじることの是非について、少なくとも英米の大多数と同じぐらいには日本の大多数も声をあげていいのではないだろうか。ごく少数の人間だけが稼げて、そうでない大多数が低収入に甘んじるしかない社会に、「そんな社会は要らない」というメッセージを出していっていいのではないだろうか。
 
 たとえそれが、英米で起こったこと同様に、相応の副作用を伴うものだとしても。
 
 現状を現状として分析するのは分析家の仕事だ。
 
 だが、現状を分析した後、その現状の是非について考えるのは、政治家の仕事であり、ひいては、有権者である私達の責務である。だから一有権者としての私は、アタマが良くてマーケットがわかる人しか稼げない社会に対して、「そんな社会は要らない」と声をあげておきたい。少なくとも、稼げない大多数が世代再生産もままならない状況へと追いやられる前提のもと、ごく一部のアタマが良くてマーケットのわかる人々が大多数の成り行きを黙って見ているばかりの社会には、それっておかしいんじゃないかと考える一人でいたいと思う。
 
 

一切が過ぎ去っていくインターネットに、念仏を

 
 三十代後半になったあたりから、ときどき「歳月!」と叫びたくなるようになった。
 
orangestar.hatenadiary.jp
delete-all.hatenablog.com
 
 昨日から今日にかけてインターネットの歳月について考えさせられる文章を立て続けに読んで、まさに私は「歳月!」と叫ばずにはいられなくなった。
 
 今をときめくバーチャルユーチューバー。リンク先でorangestarさんが書いているように、最近のインターネットの流行り廃りは早い。ニコニコ動画の生主が輝いていた時代も、もう遠い昔のことのように感じられる。そういえば、Ustreamもなくなってしまったのだった。
 
 そしてDelete_Allさんが書いているように、金銭欲に流されていったブロガー達の行方は知れない。一時期はそれなりに繁栄していた「金銭欲をモチベーション源とするブロガーたち」は、その頭領たちも含めて勢いを失ってしまった。
 
 もともと早かったインターネットの栄枯盛衰が、いよいよもって加速しているようにみえる。
 
 インターネットにへばりついて思春期を過ごしていた私のような人間は、そのインターネットの流行によって思春期をかたちづくり、折々の流行を魂に刻み込んできた。私の場合、『セカイ系コンテンツ』とか『テキストサイト』とか『はてなダイアリー』あたりがまさにそうで、それらは意識するまでもなく自分自身の魂に入り込んできて、私の歴史の幹になっていった。
 
 だが、そうやって既に歴史の幹をつくりあげてしまった私という存在にとって、2010年代後半のインターネットの栄枯盛衰は魂に刻まれることの少ない、通り過ぎていくものになってしまっている。その時々のコンテンツやオモシロ人間は勿論面白いとしても、それらは魂に刻まれることなく、たちまち飛び去ってしまう。
 
 ネットで流行のコンテンツをたまたまフォローできたとしても、あるいは人生を火の玉にして燃え尽きていく勇者が現れたとしても、以前のように、骨までしゃぶることはなくなってしまった。私の執着が薄れたから? そうではあるまい。流行りのコンテンツも、火の玉になって燃え尽きる勇者も、ひとときのものだとわかってしまったから。あっという間に消えてしまう可能性の高いものに、以前ほどの興味を感じなくなってしまったから。
 
 それでも元気の良い時期には、新しいものを楽しむことはできる。燃えゆくインターネットの勇者は美しいし、散りゆく花には格別の趣もある。
 
 けれども冬至が近づいている今の時期の私には、そうした新しさを楽しむ気持ちより、一切が過ぎ去っていくことへの寂寥感が勝ってしまう。こういう心境を、ほかの同世代のインターネット愛好家や、元愛好家の人達も経験しているのだろうか。それとも、私がdepressiveになっているだけなのか。
 
 

過ぎ去っていくネット=忘れられていくネット

 
 なにもかもあっという間に過ぎていくネットは、忘れられていくネットでもある。ひいては、自分自身がどんどん忘れていくネットとも言える。
 
 忘れること・忘れられることにはポジティブな側面もあり、それはインターネットにとって必要なことでもある。それでも、今、目の前で繰り広げられているインターネットの景色があらかた忘れられ、自分自身も忘れていくとしたら、その営みにどのような意味があるのだろうか。
 
 もちろん若い人には意味があろう。今まさに流行を魂に刻み込んでいる人達にとっては、かように流速の速いインターネットも空しくはあるまい。だが私はもう若くはないし、今、栄華のきわみにある人々もいずれ色褪せ、消えていくことを知ってしまっている。この厳粛な事実を前に、私は念仏をとなえたくなる。一切が過ぎ去っていくインターネットと、そこで渦を巻く人の業に対して、念仏に勝るものが果たしてあるのだろうか。愛好家のみなさんは、こういうニヒリスティックな気分をどのように取り扱い、対処しているのだろうか。