シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

読書は孤独じゃない、なぜなら天才や怪物を召喚できるから

 
いつも読書の参考にさせていただいているホリィ・センさんのアカウントに、ゆうべ、以下のようなメンションがあった。それを読み、勝手なことを書いてみたくなった。
 


 
ホリィ・センさんのこのメンションは、最近一部で話題になっている「令和人文主義」なる語彙に関連したものらしい。私は、この「令和人文主義」なる語彙についてよくわからない。「令和人文主義の解説」なるものを読んでも理解した気持ちにならなかった。ただ、言及する人たちの熱量のうちに、ブログがブームだった頃のような熱量を嗅ぎとった気した。
 
それより、読書の孤独性や一人性について、私は考えこんでしまう。
独りで読書している瞬間には誰もいないし誰からも邪魔されない……ようにみえる。でも、読書している時って、本当に人は一人だろうか? 最近の私は、そう感じていない。昔からある程度までそうだったが、特に最近は孤独な読書をしていない気がする。そのあたり、好きなことを書いてみたくなったから書いてみる。
 
 

みんなで読む読書・コミュニケーションを伴う読書

 
はじめに、孤独でも一人でもない読書の、わかりやすい例について考えてみたい。社会には、狭義の「みんなで読む読書」に相当する行為が幾つかある。それらの読書は多かれ少なかれ孤独ではない。
 
たとえば大学の研究室で皆で本を読む時、その読書は孤独ではない。そのとき読書は本と一対一で向き合うものではなく、指導教官と学生たちがコミュニケーションを行いながら書籍を紐解いていくかたちになる。そういう読書の良いところは、指導教官から読み方や読み筋を教えてもらえること、他の学生と議論をしたり補足しあったりしながら読めるところだ。そのかわり、読み方や読み筋はある程度まで指導教官や他の学生の影響下に入ることになる。読書をとおしてインストールされる知識、または読書体験そのものは、指導教官や他のゼミ生からの影響のカラーを免れ得ない*1
 
それよりもっと緩い、読書会という集まりもある。読書会には指導教官は存在しないが、コミュニケーションは存在する。読書会には複数名が含まれ、そこにコミュニケーションもあるだろうし、読み方や読み筋についても幅があって面白かろう。とはいえ、この場合もインストールされる知識や読書体験には他の参加者からの影響のカラーが紛れ込む。
 
それらをもっと緩く・もっと広くした体験として、「話題の本を読む」「誰かの書評記事を見て本を読む」という体験もある。自分の属しているインターネットの界隈で話題になっている本があり、その感想文や引用文などがチラチラ見える状況下で読む読書は、読書会ほどではないにせよ、その本について言及しているメンバーからの影響を被る可能性がある。同じく、書評記事を見て本を読む行為も、大学の指導教官ほどではないにせよ、書評記事というメディアをとおして書評者とコミュニケーションが行われ、書評者の影響を受けながらの読書になる。なら、それだって厳密には孤独の読書と言い切れない。
 
逆に、自分が読書について「発信している」場合もあろう。
レビューを書き残したり、その本についてSNSに書いたりしているなら、それも孤独の読書とは言えない。読書した事実や読書をとおして獲得したことをブログや SNSに書き残し、他人がそれを読むよう期待するのはコミュニケーションである。そうしたコミュニケーションが織り込み済みの読書はどうにも孤独じゃないし、それで「いいね」がついたりつかなかったりする読書も孤独じゃない。それも読書には違いなかろう。ただし、それはコミュニケーションに紐ついた読書だと言えるし、社会的相互行為としての読書、ときには政治的行為としての読書というニュアンスさえ含んでいるかもしれない。
 
こうした要素をできるだけ切り捨て、読書体験の孤独さの純度をあげていくとしたら? 最も孤独な読書とは、ぶらりと本屋を訪れ、店内をぶらぶらしたり立ち読みしたりしたうえでこれぞ、という見知らぬ本を手に取る体験……あたりが該当するんじゃないだろうか。書店員のオススメ欄に置かれていた本を読む読書、派手な広告に惹かれて読む読書、帯に記された推薦者の売り文句に釣られて読む読書も、若干、孤独ではないかもしれない。なぜならそれらのメディアをとおしてコミュニケーションが発生し、そのぶん、誰かの影響下に入っていると言えるからだ。
 
そういったものをガン無視して、前評判や前知識や人間関係などと無関係に手に取って読む読書が、一般的には孤独の読書といえるんじゃないかと思う。
 
 

でも、いつだって著者が存在している

 
で、そうやって前評判や前知識や人間関係から距離を置いた読書をしていてさえ、最近の私は孤独を感じない。なぜなら、そこには著者という人間がいるからだ。
 
たとえば、この『西洋近代の罪』という本には大澤真幸という著者がいらっしゃる。
 

 

 これらは、全体としてどこに向かっているのか。それは、西洋近代の裁量の部分、啓蒙主義が見出した価値や理念の否定であろう。多文化主義、気候主義、LGBTQ+、ジェンダーの平等等の思想の多くは、直接的には、20世紀の終わりから21世紀にかけての時期に唱えられるようになった新しいものだが、それらを基礎づけている基本的な価値や理念は、ヨーロッパの啓蒙主義の時代(17-18世紀)に見出されたものだ。多文化主義や気候正義等は、この時代に定期された人権、平等、自由等々の概念の発展や現代版だ。トランプの制作は、これらをすべて否定するものである。
(中略)
トランプは、AIの開発などIT関連のビジネスを大々的に支援するつもりでいる。これもまた、西洋近代の理念的な産物の否定を促進する仕事になる。なぜか? ミシェル・フーコーが、1966年に発表した『言葉と物』で、西洋近代(19世紀)のエピステーメー(認識枠組み)は、「人間」の概念を中心に置いて成り立っている、。と論じた。フーコーは1960年代後半の段階で、人間主義の終焉を予言していたわけだが、AIの急速な発展とともに私たちが今立ち会っているのは、19世紀的な人間概念の崩壊の過程以外のなにものでもない。トランプのIT企業への肩入れは、この家庭にさおさすものである。

私は大澤真幸という著者が特別に好きなわけではないが、上掲の文章などを読むと、「ああ、この著者さんならこう書くのはわかる気がするなー」などと感じ取ったりする。近代社会と啓蒙とトランプとAIについて論じる人はたくさんいようが、この著者ならこう書くのはすごくわかるし、この著者がこう書いたからこそ私が受ける影響というのもある。たとえば私は、これを読んで本棚の隅っこで居眠りしているフーコー『言葉と物』を叩き起こしたいと思ったわけだ。
 
この本に限らず、新書タイプの書籍は著者に教えられて次の読書に広がっていくことが多い。新書というフォーマットはおしゃべりだと思う。新書それ自体で一冊の読み物をなしていると同時に、著者が「この本は面白かったよ」「この本を引用してこれを書いているんだよ」と教えてくれる。これは新書に限ったことでもないか。著者はいつだって何事かを読者に投げかけてくるし、本とはそのようなメディアだ。だから私は読書をとおしていつでも著者の影響を受けているし、著者とのコミュニケーションを感じ取っている。
 
さきほど挙げた大澤真幸の新書にしても、それを通して私は彼の近代観、彼の啓蒙観、彼の21世紀観を浴びているわけだ。そしてイエス! と思ったり ノー! と思ったり ウムム…… と思ったりして、いわば討論している。私はこれをkindle版で導入したけど、メモ欄には、著者に向かって書いたことや自分と著者の考えを結び付けるために書いた殴り書きが残されている。読書であると同時に紛れもないコミュニケーションだと思う。
 
 

読書は天才や怪物を召喚する

 
で、読書の面白さとヤバさのきわみにあるのは、「読書は天才や怪物を召喚する」点にあると思うんですよ。
 
新書の著者だってコミュニケーションの相手として十分に面白いしヤバい。けれども、読書でコミュニケーションできる相手はもっともっと広い。その分野を代表する学究や思想家、数百年前の偉人とさえコミュニケーションできてしまう。
 


 
上掲ポストの著者であるボードリヤールやブルデューも、そうした召喚可能な天才や怪物だと思う。彼らの著書が欠点を含んでいないわけではないし、今日の研究では否定されている部分もある。しかし、著書の実物を読んで得られるものは「まちがいがある」「今日の研究では否定されている」といった切り取りだけでは到底済まない。その時代・その社会状況のなかで達成した偉業に驚いたり、それらを紹介する入門書には記されていない含蓄の深さや思慮深さ、ユーモアなどあてられたりする。
 
そうした過去の天才や怪物の著書は新書よりも読みづらかったり、その時代・そのジャンルのコンテキストを踏まえておかないと読めたものじゃなかったりすることが多い。だから、一冊読む前に何冊も新書や入門書で準備をしたり、同じ時代の異なる著者を当たってからアプローチしなければならない等の面倒さはある。
 
だけど、いざ自分で読み切れた時の喜びは大きい。過去の学究や思想家の怪物じみたパワー、知の脈拍をじかに感じ取れる。私は我を忘れ、その知の営みを賛美する。そんな読書体験の最中において「まちがいがある」「最新研究では否定されている」なんてのは、小さな問題でしかない。もちろん、引用する際にはそうした部分を点検すべきだろう。でも、読書をコミュニケーションとみなす場合、まずは眼前にフーコーやブルデューやルソーといったすごい面々が召喚され、じかに自分に向かって語り掛けてくる戦慄、遠い過去からものすごいものを投げかけてくる感覚に打ち震える。
 
だから、読書は著者を、過去の天才や怪物たちを召喚する魔術なのだろうとも思う。この点において本とは正しく魔導書であり、「読んだら発狂する本」「読んだら戻れなくなる本」「読者を下僕にしてしまう本」が世の中に沢山存在するのは間違いない。そういう目でジュンク堂書店や八重洲ブックセンターの奥のほうを眺め直すと、過去の大物たちが手招きしている危ない洞窟のようにみえてならない。大書店の静かなエリアは、天災や怪物たちが眠るカタコンベと言っても過言ではない。
 
 

天才や怪物は、何度でも召喚できる

 
そのうえ、そうした強烈すぎる天才や怪物たちは何度でも蘇ってくれる。たとえば私も、さきに挙げた書籍たちを何度か通読している。飽きる気配はなく、暇な時にパラパラとめくったりする。手許に書籍さえあれば天才や怪物たちは何度でも召喚できるし、する甲斐がある。まるで『Fate /Grand Order』のカルデア召喚術のごとく、私たちは読書をとおして天才や偉人たちを何度も何度も呼び出し、サーヴァントのように使役することができる。
 
もちろん、ここでいう使役とは考える対象としての使役、そしてコミュニケーションとしての使役だ。自分の代わりに考えてもらう使役もあり得るだろう。時間をかけて向き合うも良し、枕頭の書として少しずつ言葉をわけてもらうも良し。彼(彼女)らは一筋縄ではいかないので、一度読んだだけで理解できるとは限らないし、下僕にならずに済むのかもわからない。が、何度でもいつまでも召喚できるのだから、細かいことは気にしなくて構わない。なにせ相手は、何十年も何百年も前に時代や分野のパイオニアになったような偉人なのだ。まずは怪物じみたパワーに惚れこみ、噛みしめようじゃないか。
 
そうして自分の本棚の一番良い場所に、お気に入りの天才や怪物の本を並べておけば、彼らを召喚しっぱなしにしているにも等しい。これも『Fate Grand Order』のチームバトルに似て、自室のいちばん手近な本棚に並べる本のチョイスは、(ソーシャルゲームやカードゲームで)デッキを組むのに限りなく近い。いちばん手近な本棚の本たちは、ほぼ直接的に自分の思考やアイデアに影響をもたらすし、それらは一番手近な話し相手としても機能する。個人的なイメージとしては、以下のようなチョイスに近い。
 

手近な本棚って、ソーシャルゲームのお気に入りデッキ編成にすごく近いと思う。今、自分に必要なバフや援助を与えてくれる本を並べておくと、いろいろはかどりやすくなるのでお勧め。

 
ページさえめくれば、いつでも過去の天才や偉人、怪物じみた力を持った著者たちが待ち構えていて、相手をしてくれるって素晴らしいと思いませんか? 私は思います、本ってすごい発明品だよね。
 
こうして考える場合、読書はまったく孤独な体験でなく、いつでも著者とお話できる召喚魔術ってことになる。私はそんな風に読書をしていて、私の本棚からはたくさんの偉人や天才や怪物や大学者たちの叫び声やうめき声や金切り声や演説が聞こえてくる。大きな書店や図書館でも同様だ。そうした著者たちの声がよく聞こえる日には、寂しがりな私でさえ寂しさが吹き飛んでしまう。
 
 

*1:もちろん、それがリテラシーやディシプリンを身に付けるうえで大切なのだけど、それは於く

別に、私が中年危機を克服したってわけじゃなくて

 
私の2024年は、まだ終わっていない。
私にとって2024年は「人間の自己家畜化」と「推し活」と「中年危機」についてひたすら書き続け、しゃべりつづける年だった。ありがたいことに色々な人にご関心を持っていただき、私もたくさん課題を持ち帰った。それは良かったのだけど、2025年になっても問い合わせが続くのは想定外だった。ちょっと負担になりはじめている。
 
そのなかで、今日は「中年危機」についてグチグチ書きたい。
 
私は現代人と私自身の年の取り方に関心があって、2010年代には当時の若作りな傾向、たとえば"美魔女"や"チョイ悪オヤジ"に象徴されるようなエイジングの混乱に違和感を表明する本を書いたりした*1。当時は現在以上に中年や老年に対するネガティブなイメージが流通していて、加齢恐怖症めいた、若さ至上主義っぽい社会風潮があったように思う。
 
で、あれから10年が経過し、好ましい中年像や老年像は少しはできあがっただろうか?
日本社会全体が年を取ったためか、昔ほどの若作りは目立たなくなった。若者然としたライフスタイルやメンタリティを後生大事にすることは、今、決してカッコいいことではないように私には見えている。

しかしそれは私自身が年を取ったため、それも私が混乱しながら年を取ったためそう思っているだけかもしれない。若者と呼ばれる年齢から遠く離れ、中年期の渦中にある私には、私自身と私の世代がどれぐらい若作り的なのか、それともエイジングの歩みを発見しているのか、うまく論じられないと思う。
 
その一方で、私に身体的・社会的・心理的変化がはっきり起こったのも事実だ。今の私の心境は30歳当時とも40歳当時とはかなり違う。私の知己たちの心境も変わったように思う。とはいっても、かつて私が年上世代のエイジングに違和感を投げかけていた頃のように、私自身と私の世代のエイジングに疑問を投げかけることは難しい。私たちの世代のエイジングの是非については、下の世代が批判的に検討すべきことだろうと思う。
 
かわって意識する機会が増えたのが中年危機だ。私自身についても、少なくとも数年前にそれがあったと感じているし、対処が必要だった。でも、その対処が福をなした結果として2024年に3冊の本を同時に出版できたので、当時の一時的な混乱は結果的に良かったのだろう*2
 
それなら、私は中年危機を克服したと言えるか?
いやー、どうだろう? 私がそれを克服したのか克服していないのか、それともこれからが本番かなんて、本当は誰にもわからない。
 
 

中年の皮膚の内側を、若さの亡霊が這い回っている

 
数年前の行き詰まりを突破したつもりでも、還暦までにはまだ時間があるし、なんでもかんでも割り切れたわけじゃない。中年覚悟完了とはとても言えない。私にも若さへの未練がある。心のなかに、せめぎ合うものがある。
 
ときどき、鏡にうつる自分の姿に、生命の翳りを探してしまう。
荒れた肌や消えなくなった皺は、雄弁だ。普段は、そうした歳月の刻印をスルーできているが、疲弊している日やネガティブな日には気にしてしまう。心の蓋がとれた瞬間には、「もうこの身体はどうしようもない!」といった気持ちになったりする。
 
過ぎ去った時間や失われた可能性についてもそうだ。思春期~青年期に比べて、夢や可能性や"人生の余白"を意識し、あてにする度合いは減った。過ごしてきた時間に対する印象もそれほど悪くない。だけど、たまにそれらの亡霊が蘇る日もある。しょうがないですね。甲斐のないことですね。わかっているが、それでも、過去にあったはずの夢や可能性に気持ちが囚われてしまう日がゼロになったわけでもない。
 
私のなかには子ども時代の気持ちや思春期の気持ちや青年期の気持ちも強烈に生き残っていて、ときどき私の袖をクイクイと引っ張るのだ。今の私には、中年期らしい気持ちが堆積していて、それは子ども時代や思春期には無かった種類の堆積物に違いない。だからといって、若かった頃への執着や、若かったらできるはずのことへの執着がゼロになったわけでもなく、潤いを失った皮膚の内側をそれらが這い回っている……のが本当のところだ。
 
こんな自分自身を省みている真っ最中に『中年危機』というイシューについて読み書きしていると、自嘲不可避というか、自分自身のおかしさに吹き出したくなってしまう。しょうがないですねえ。まあでも、私がこうして不承不承にエイジングの階段をのぼっていくからこそ、こんなふうに読み書きできるのかな、と思う部分もなくはない。執着していなければ、そもそもエイジングに関心を持とうとしないだろう。言及するということは、関心があるということと表裏一体だ。そうして関心を持ちながら、中年らしくなっていく自分自身の心身に慣れ、慣らされていき、思春期や児童期の亡霊たちをどうにか手懐けていく。本当は、他の人もそれぐらいが精一杯なんだろうか? 願わくは、それが私にとっての最適解でありますように。
 
中年危機や中年期心性について記された文献をいくら読みこなしたところで、結局のところ、私のエイジングはもっとゴチャゴチャしていて、執着まみれで、ズルズルと進んでいくのだろうと思う。それが中年危機の克服と呼べたものなのか、私にはわからない。でも、人間ってスッキリしない生き物じゃないですか。少なくとも私はスッキリしない生き物だと自分自身のことを思っている。だから、文献をとおしてエイジングについて調べたり年上の人の生きざまをロールモデルにしたりして役立てながら、割り切れない部分についてはなだめすかしたり、ごまかしたり、社会的体裁に身を任せたりしながらやってくしかないし、やっていくのが私のエイジングの実態なんじゃないかな、と最近は思ったりしています。
 
なので、私にとっても中年危機は他人事にできる領域のイシューではなく、今もここにあって泥んこまみれになっているイシューなんですよと、今日は言いたい気持ちになったのでこれを書きました。
 
 
※本文はここまでです。今回の有料パートは中年危機とは違うことを少し書いているだけなので、常連の方以外は読まなくていいと思います。

*1:講談社から出していただいた『「若作りうつ」社会』のこと

*2:ちなみに、この一時的な混乱については、何人かのはてなブックマークユーザーから重要な示唆をもらい、私は自分が混乱していること・行き詰まっていることを自覚させてもらった。はてなブックマークユーザーには頼りにならない人もいるが、ある日・あるユーザーの意外なコメントが事態を大きく変えることがあるから無視できない

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過労死する人の気持ちがちょっとわかる気がする

 
ちょうど一か月前に「早起きできるようになった。年を取った - シロクマの屑籠」と書いたけれども、11月に入ってからは過労死な気分だ。矛盾も甚だしいが、矛盾した状況を生きていることを書き残せば、生命力の不安定な脈動を思い出せる気がするので書いてみる。
 
今週はとても忙しくて、週のはじめからフルパワー稼働だった。最近は午後8時を回っても普通に全力で働けてしまうので困る。リンク先にあるとおり、あまり遅くまで働くと眠れなくなるので午後9時までには作業を停止したいのだが、昨日とおとといは午後10時まで働いてしまったし、働く必要のあることごとが存在していたりする。今期唯一楽しみにしている『ウマ娘シンデレラグレイ』を視聴するのも遅れているし、『ヨーロッパユニバーサリス5』を遊ぶなど夢のまた夢だ。
 
昭和時代には「24時間働けますか」などとリゲインのCMは歌っていたが、密度の高い令和の労働状況のなかで同じ時間働いていたらたちまち心身が溶けるだろう。私の就業時間+αは、労働生産性の向上や副業としての文章づくりも含めて力の限り・効率のおよぶ限りやり遂げるもので、かつての自分自身のそれを大幅に上回る。私は勤勉になってしまった。異常に勤勉だ。資本主義の悪魔や近代社会の魍魎に憑かれているのではないかと我が身を勘ぐりたくなる。
 
勤勉のバックグラウンドに怠惰がある点も見逃せない。私は怠惰なのだ。怠惰ゆえに勤勉である。怠惰をきわめんとして勤勉をやってしまい、気がつけば自分自身の首がしまっている。向上するのは生産性だけだ。それでは良くないとも言えるし、それで良いとも言える。……いいわけあるか!
 
この身体は、オーバーヒートするマシンのように駆動死反応する。夕方になってくると頭痛がしてくる。たびたび身体は血糖を求める。思うさま糖分を補充していれば糖尿病にまっしぐらだから、飢えたまま作業をしたり干した昆布をかじったまま作業をしたりする。35歳の頃の私だったら休んでいただろう場面でも働くし働けてしまう。衰えた身体。老眼。腰痛。それでも作業できてしまうのは悪いことだ。きりがない。
  
仕事ができて、できる意味や意義もあって、「たぶん今が生涯でいちばん仕事ができるんだ」と魍魎が耳元でささやいて、それらに取り憑かれている自分がいる。文章制作や文献調査もそうだ。繰り返すが私はワーカホリックでなく怠惰なので、休暇をこのうえなく好む。だのに仕事や活動にどこか魅入られている自分自身もいて、それが自分の身体をいじめつつある。これをずっと続けていたら、たぶん血圧や血糖がおかしくなり、脳出血や脳梗塞や心筋梗塞などに討たれるだろう。怠惰であるはずの自分がそんなことを心配しなきゃいけないとはね。でも、この頭痛は本物だ。間違いなく、一生のなかで今が一番頭痛の発生頻度が高くなっている。
 
40代までと比較して働く意義や意味が異様に高まり、働く能力も異様に高まり、だのに自分の身体の耐久性が低下しているというのは怖いものだな、と思う。私の身体は着実に老化していて、壊れたら取返しがつかない。私は身体からのメッセージとしての痛みや疲労に敏感であるべき、なのだろうと思う。ところが夢中になって作業している時、私はしばしばその身体からのメッセージに鈍感になる。そんなことを一週間続けていると、金曜日の午前にはきついと感じるとようになり、土曜日はミイラのように寝ている。『ヨーロッパユニバーサリス5』なんてやっている場合じゃない。土日すら休まなかったら、すみやかに心身を破壊してしまうだろう。
 
できることが増え、すべきことも増えたことで、良かったこともたくさんある。フロイトが言ったとされる*1、中年の課題「働くことと愛すること」の渦中に私はいると思うが、それゆえ、リミッターを超えるとまではいかなくても、身体のアラートが出るまで働くパターンを毎週繰り返している。危険な兆候だ。
 
ははあ、人生にはこういう風景もあったのか。これは、ここまで来てみなければまったくわからなかった境地だった。20代や30代の、身体のホメオスタシス機構が丈夫で、怠惰がもっと前に出ていて構わなかった頃には想像すらできなかった境地でもあった。私は、人生のなかで新しい一ページをめくるのが大好きなので、こういう境地が存在すると自覚できたのは獲得だったが、これは一歩間違えれば全部失いかねないやつなので、ここでこれを書いておいて、自戒にしたいと思っています。
 
 

*1:注:実際には言ったかどうかは甚だ怪しい

書評:『なぜ人は締め切りを守れないのか』

 
 
いい本に出会ったので紹介したくなりました。紹介します。
 
 

 
この本は「人はなぜ締め切りを守れないのか」という疑問から出発して、人間にとって時間とはどういうものなのか、ひいては「いい時間」「悪い時間」とはどういうものなのか等を論じている本だ。締め切りをひとつのキーワードとして、古今の哲学者や思想家のお話を引用し、はるか昔からの人間の時間観念を振り返り、時間に追われる現代人のありようを紐解いていく(そうしたうえで著者自身の展望も記される)。こう書くと重たそうな本に思えるかもしれないが、この本は内容に比してかなり軽やかだ。
 
本書には良い点がたくさんある。
ひとつは、時間について“哲学する本”なのに難読ではない点だ。
 
哲学と銘打った本、哲学に明るい人が書いた本は読みにくいことが多い。少なくとも20世紀までに書かれた哲学系の書籍は、どんなに「やさしい」と銘打ってあっても油断ならないことが多かった。そうした本も読者のことを考えているつもりなのか、リンゴや椅子や机といった身の回りの品を用いて説明していたりする。だが、その比喩がかえって読みづらさを誘発していて、喉に引っかかって飲み込めない本が少なくなかった。
 
本書はそうではない。哲学が好きな人でなければ知らなさそうな21世紀の哲学者や思想家も出てくるし、平易な文章のなかに、ときどきぎょっとするほど鋭利な言葉遣いが混じっていたりする。けれどもそれらが読みづらさに直結しないよう、巧みに論述を重ねていく。
 

 本当は大切な誰かとゆっくり時間を過ごすべきなのに、あるいは趣味に没頭したいのに、スマホの通知に呼び出された経験がある人は多いだろう。それは価値あることを優先したのではなく、期限を、ひいては締め切りを優先してしまったのである。
 さらにひどいバージョンもある。あなたの目の前には明らかに価値があること──読みたかった本、趣味で描いている絵の画材、子育てや大切な人と過ごすこと──ずっとやりたかったことがある。それなのにスマホを触ってしまう。ぼんやりテレビやYoutubeを見てしまう。30分、一時間が過ぎて、あなたはハッとする。なぜだったっけ。なぜこんなことに私は時間を使っていたのか?

私は著者である難波さんのXのアカウントをフォローしているのだけど、そこでの書き方は人文科学に詳しい人が自問自答しているような、なんだか難しそうなオーラが漂っていた。ところが本書はそうでは……ない! 難波さんは、こんなに易しい調子で難しいことを表現する人だったのか!
 
ふたつめの長所を挙げると、なんだか地に足がついている感じがすることだ。
哲学を語る本には、理念や概念や理論が前のめりになっていて、現実が置いてけぼりを食っていると感じてしまうことがある。哲学は、(俗にいう)リアルなモノやコトを馬鹿正直になぞるばかりではないから、それはある程度は構わないことだし、むしろそういう部分があるからこそ、ふだんの生活では考えないことが考えられるようになったりもする。
 
けれども、あまりに理念や概念や理論のレンズ越しに現実や日常について書かれてしまうと、私のような一般読者は戸惑い、迷子になったような気持ちになる。そこを、著者はうまく躱していると思う。

 もしあなたが一般企業で働いているならば、特定の問題解決には知識と経験が必要であり、理論を学ぶだけではうまくいかないことはおそらく体に染み付いているだろう。一方で、思想家や哲学者は、理論を提示する仕事をしているのであり、それを実装する訓練を積むわけではないし、実装で評価されているわけではない。
 念のために断っておくと、これは「アカデミアは机上の空論ばかりで役に立たない」というステレオタイプな批判ではなく、あくまで世間一般との乖離について確認しておきたいのである。
 つあり、ビジョンを実際に実装するためには、誰かがその作業に取り組まなければならないのだ。では、誰が取り組むのだろうか。実務家だろうか。だが、実務家は理論を解釈することの専門家ではない。誰かが理論と実践の橋渡しをしなければならない。

本書の冒頭パートにはこうあり、実際、著者は理論と実践、ビジョンと現実のあいだの乖離について相当意識していると感じた。だから私が読んでもスルスル読めるし、哲学書を読む際に要求される一種独特な思考様式、あるいは「哲学書読書作法」にそこまで頭を切り替えなくても言葉が入ってくるのは嬉しいことだった。
 
みっつめは、タイトルどおり、時間について考える機会になること。
本書は「締め切り」を皮切りに時間について考えを深めていく。「締め切り」の次は「いい時間」「わるい時間」だ。いい時間と言っても色々なものがある。発売されたばかりのゲームを入手し、プレイするうちにどんどん自分が上達していく手ごたえが得られている時、それはきっと「いい時間」だろう。反対に、「本当はやりたくもない仕事の締め切りに追われ、やりたい仕事ができない」時間などは「わるい時間」だろう。
 
そこから更に、著者は「時間正義」について考えを深めていく。普段の私たちは、「時給●●円」といったかたちで、時間を貨幣のように計算し、価値づけしたがる。これはある面では理にかなっている──社会の誰もが共通の物差しで時間について考え、違った価値観やライフスタイルを持つ者同士が足並みを揃えて作業し、契約するうえでは向いているだろう。工場やコンビニや病院といった、いつでも動いているよう期待され、いつでも動いていることが社会全体に大きな恩恵をもたらしているシステムは、この、時間が共通規格の貨幣のようになった考え方に依っている。
 
けれども私たちの主観において、すべての時間が同価値とはまったく思えない。余暇ひとつ取っても、楽しすぎて飛ぶように過ぎていく時間もあれば、Xをダラ見しながら泥のように過ぎていく時間もある。働いている時だって同じだ。身体的にはきつくても充実した労働時間がある一方で、心も身体もたいして使っていないがウンザリする時間もある。
 
「いい時間」をいい時間とみなし、「悪い時間」を悪い時間とみなしたうえで、「いい時間」が増えるように考え、対策し、あるべき時間の姿について議論することは可能か:こうした著者の問いは、「時給●●円」という考えに毒されている私たちには難しいものだと私は思った。けれども、実務ではすぐさま実現できなくても、理論が先回りして考える余地はある。まず、「いい時間」や「悪い時間」と私たちが感じる一面があること、にもかかわらず「時給●●円」や「タイパ」といった考え方によって「いい時間」が蔑ろにされていることは指差し確認できるし、本当は解決に持っていったほうが人類のためになると思い出すことも可能なはずである。
 
理論でしかないじゃないか、という人もいるだろう。しかし歴史を振り返れば、少し未来の社会通念や常識を哲学が先行して考え、問題提示していたパターンは珍しくない。理論が実務の世界に届くには時間がかかるし、届くまでの道のりは直線的ではないかもしれない。けれども、理論が実務に届く前段階では、著者のように考える人──この場合は「時間正義」といった概念をポップアップさせて(先行する議論を踏まえながら)まとめていく人──が必要となるだろう。
 
本書は、読者が「いい時間」や「悪い時間」について考えていくプロセスであると同時に、著者が時間についての考えを深めていく、そのプロセスを垣間見せてくれるものだとも感じた。きっと著者はこの本を書きながら新しく読んで、新しく考え、「いい時間」を過ごしたんじゃないだろうか? そのあたりが、本書の読みやすさや親しみやすさになんらか拍車をかけているんじゃないかなぁ、と勝手に思った。
 
 

私にとっての『なぜ人は締め切りを守れないのか』

 
こんな感じの書籍なので、時間に追われている人、締め切りに恨みを持っている人、「いい時間」とは何かについて考えたい人には本書はおすすめだ。哲学しているのに読みやすく、身近に感じられるテーマの本なので、哲学というと敬遠したくなる人にもすすめられるかもしれない。面白い本である。
 
最後に、私自身にとって、この書籍との出会いがどうだったのかについて少しだけ書く。
 
「時給●●円」という考え方がよく示しているように、現代の時間についての一般的な考え方は、かなり資本主義に毒されている。あるいは近代社会の成り立ちと不可分のかたちにある。
 
著者が述べるように、それは案外政治的なことで、案外私たちをコントロールするものでもある。「タイパのことしか考えられない現代人」とは、長年にわたる統治の産物だとみることもできる。じゃあ、誰が政治や統治をやったのか? 王やキリスト教会、ではないと思う。じゃあ企業や資本家か? ある程度はそうかもしれない。でも、労働者の側だって次第次第に「タイパのことしか考えられない現代人」になっていったんだよね? とも言える。控えめに言っても、「タイパのことしか考えられない現代人」が、専制君主の一声で爆誕したわけでないことだけは間違いないだろう。
 

 
この本の途中には、「時給●●円」や「締め切りに追われる私たち」の世界の時間の流れ方が一方向的であって、たとえば中世の農民の時間の流れ方が循環的だったさまが図示されてもいる。円環的な時間の流れ方は、今日でも農業などをやっていれば当てはまることだし、ほんらい命はつねに循環的だった。輪廻や六道や生老病死にしたってそうじゃないか。人の命までもが一方向的になったから、人は生にすがりつくことはできても死を世界のなかに位置づけづらくなった。本当は、人の命だってコオロギや朝顔とそんなに違わないはずなのに。
 
本書のなかで批判的に検討されている(現代の)時間のありようは、近代以降にできあがってきたものだから、本書に記される時間概念は、近代社会ってなんだったっけ? と考えたい現在の私のニーズにもよく合っている。つまり「締め切り」について考えることは、現代社会、ひいては、近代という大きな物語について考え直す契機にもなる。これは、私にとって非常に刺激的でタイムリーな体験だった。
 
ちなみに本書の参考文献とそのページ数の記し方は簡明で、リファレンス性は高いように思われた。著者の思考の道筋を追いかけるパンくずが拾いやすいのはありがたいことです。
 
 

なくなるのは、おれらのラクガキ。歴史資料はきっと残る(だが、それが問題だ)

 
orangestar2.hatenadiary.com
 
こんばんは、小島アジコさん。シロクマです。
次々にブログサービスがなくなり、綺羅星のようだったウェブサイトまで消えていくのは悲しいものですね。
 
リンク先でアジコさんが書いてらっしゃるように、 (株)はてな がネットメディアの金剛組のようになって、数百年後もブログサービスを保守してくれたらすごくいいなと私も思います。とはいえ、(株)はてな も営利企業のひとつではあるので、依存してばかりってわけにもいきません。
 
私は広告を消すためにはてなブログに課金をしています。インターネットに広告が溢れてしまっていること、単に広告があるのでなく、00年代などと比較しても苛烈な広告にさらされていることもインターネットという場の変質に関わっていることでしょう。ただし、広告を消してもプロパガンダは消えません。そしてインターネットはプロパガンダの場、動員の場でもあります。
 
話が逸れかけているのでやめましょう。
それより、個人がインターネットに書き記した電子データの喪失について。
 
ご指摘にあるように、00年代前半に個人によって書かれたブログやウェブサイトは、既にその多くが消えました。日常の記録、アマチュア地誌、生活の知恵、ユースカルチャーのイベント感想、等々はなかったことになってしまいました。ブログやウェブサイトが「消える」だけでなく、「検索しても引っかからなくなる」のもなかったことになってしまう一端ですよね。00年代から20年代にかけて、ワールドワイドウェブには加速度的にテキストやサイトが増殖し、アーカイブも増殖し、ビジネスサイトやプロフェッショナルサイトに価値があるとみなされ、アマチュアが書いたあれこれはプレゼンスを失っていきました。個人のブログやウェブサイトが消えてしまうことに加えて、個人のブログやウェブサイトのワールドワイドウェブのなかにおける位置づけが低下してしまったこともここでは問題です。
 
今後、AIの支援を受けてますます多くのテキストやサイトが生産された時、ビジネスでもプロフェッショナルでもない個人のサイト、アマチュアが書いたテキストやサイトは希釈され、本当に誰の目にも触れなくなっていくかもしれません。そうなってもなお、意味や意義のあるアマチュアのテキストやサイトはどこでどうあるべきでしょうか? discordのようなクローズドの環境は答えのひとつではあるでしょう。もうひとつは、2000年前後にあった「リンク集」的なものだったりしませんかね? そうなると、ぐるっと回って「おとなりブログ」的な機能が大切になるかもしれません。確か、noteにもそれに近い機能がありませんでしたっけ? アマチュアのテキストやサイトの接続手段として機械検索がますます頼りにならなくなるなら、近い意識や関心を持ったアマチュア同士を繋げる導線がクローズアップされる気がします。
 
 

歴史資料は残ります、研究者もいるし、記録媒体もあるからです

 
とはいえ、アジコさんのおっしゃる「21世紀は歴史資料がない時代になる」は大袈裟だと思います。
 
なぜなら、歴史資料という名に値する文献のたぐいは、たとえば大学などの研究機関で現在も生産され続けているからです。
 
研究機関における文献や資料の生産速度はあまり高くない、とおっしゃる人もいるかもしれませんが、それでもPCやプリンタやクラウドといった文明の利器によって、20世紀初頭に比べれば研究者の作業効率は相当高まっていると思われます。AIの普及がそうした作業効率をさらに向上させる、とみるべきでしょう。研究論文、研究資料、フォーマルな文献といったものの生産速度は20世紀や19世紀と比較し、十分なものがあるはずです。それらはしばしば紙媒体だったり、比較的堅固なメディアに記されていたり、国会図書館に所蔵されていたりします。正真正銘の資料というレベルでは、現在の歴史資料が20世紀や19世紀のそれに比べて劣るとは、私には思えません。
 
それから書籍や雑誌、新聞のたぐいがあります。フォーマルな文献のフォーマットに比較し、それらは学術的に不十分かもしれませんが、過去を振り返る未来人には十分に利用可能なものです。今日の出版点数が示しているように、このレベルでも未来人には多くの資料が遺されるでしょう。焚書や禁書のような問題もあるので万全ではありませんが、それでも、写本文化の時代に比べればアーカイブがどこかに残る可能性は高いと言えますし、少なくとも平時の場合、国会図書館に所蔵されればそれでオーケーです。
 
それらと同等のものとしてテレビフィルムや映画といった映像媒体も遺されるでしょう。「電子データ化したそれらが、適切なかたちで保存できるのか」は確かに問題です。でも、なにかしら残るのではないでしょうか。エンタメ作品のアーカイブもそうですね。今の日本で繁栄している漫画・アニメ・ゲームの繁栄っぷりがまるごと歴史から消えてミッシングリンクになる、とはちょっと考えられません。日本にめちゃくちゃヤバい体制が爆誕し、焚書や坑儒をきわめたとしても、世界のあちこちにアーカイブが残るでしょう。細かな作品のひとつひとつが残るか残らないかって言ったら、そりゃあ残らないと思いますが、それは20世紀も19世紀も18世紀も同じだったはず。
 
たとえばバッハとその楽曲は今日では有名ですが、バッハの時代に流行した作曲家の楽曲は(残存はしているにせよ)有名ではなく、だとしたらバッハの時代に売れなかった作曲家の楽曲の多くは散逸してしまったとみるべきでしょう。それは仕方のないことです。
 
そうしたわけで、歴史資料のことは、そんなに心配しなくても大丈夫なんじゃないですかね、と私は申してみます。そういう資料をつくるプロたちがどこかで頑張っているはずだし、複製技術がとても優れているから少なくとも代表的なもののアーカイブは地球上のどこかに残るはずだから、きっと大丈夫ですよ。
 
 

「おれらのラクガキが消えてしまう」という問題

 
……とかゴチャゴチャ書いてみましたが、アジコさんがおっしゃりたいことって、こういうことじゃないですよね?
 
gooブログやライブドアブログにみんなが書いていたことが散逸すること、ウェブサイトに個人が書き綴っていたアーカイブが消えてしまうこと、が、ここでは問題でしょう。ブロガーやウェブマスターのひとりひとりが、素人的ではあっても個人的に書き残したものが散逸してしまうのは残念なことです。それらは生きた証言です。情念の痕跡でもあります。失われていくことに哀惜の念をおぼえるのは私も同じです。
 
個人のブログやウェブサイトにしか書いてないこと、ありましたからね。
例えば平成××年〇月△日の秋葉原のどこそこでこんなものを見た、あんなことがあったという記録。同じく秋葉原のとあるPCショップでメモリの何某が幾らだったとか、新入荷はこういう商品だったとか、そういった細々とした記録は学術の人たちではフォローしきれないものがあります。SNS以前の小さなイベントの記録情報、地方レベルの小さな集まりの活動情報などもそうですね。フォーマルな文献をフォーマルにパブリッシュしている人たちの視界にすら入らない細々としたことが、電子の藻屑になろうとしています。
 

歴史に残る写真は保存されるだろうけれども、市民生活を伝える資料というものは、殆ど失われてしまうだろう。

まさに、アジコさんがお書きになったとおりですね。
 
また、フォーマルな文献には残りにくい、個人の情念や心情もあります。ビジュアルノベル全盛期において、それぞれの作品に当時の愛好家がどんな感想を持ったのか。どのエロゲやエロマンガのどんなところが良かったのか。そういった一瞬の気持ちが一番残されているメディアはSNS以前においてウェブサイトやブログの日記でした。アマチュアの日記にこそ、そういった一瞬の気持ちが記されていたし、そういう場所でなければ記されようのないものだったとも言えます。『魔法少女まどか☆マギカ』のリアルタイム視聴の感想ならtwitter(現X)の奥底に残っているかもしれませんが、『けいおん!』あたりからは記録は少なくなります。そういえば、2ch(5ch)の過去ログって、ちゃんと残っていていつでも閲覧可能なんでしたっけ? まとめて残っているなら、あれはあれで学術の研究対象として案外大事な気もしますが……。
 
フォーマルな文献に比べて風化しやすいそれらを曲りなりにも記録していたのが、往時のウェブサイトやブログの日記だったと思います。それらをチラシの裏のラクガキと言ってしまえばそれまでです。それでも貴重な証言だったり、そこにしか書いてないことが含まれていました。なにより、そこには情念が宿っていて、血の通った営みの痕跡が遺されていたのです。
 
いわば「おれらのラクガキ」が消えていってしまうわけですね。
案外、そういうものも記録として面白いかもしれないのに。
また、同時代人にとって回想するに値するかもしれないのに。
 
そうしたアーカイブが失われることを危惧したり、寂しく思ったりするのなら、私も同感です。
 
 

「おまえが語り部になるんだよ!」

 
では、私たちはどうすれば良いでしょうか。
個人にもできることが色々あると私は思っています。
 
はてなブログで書いている私たちにできることの第一は、はてなブログをもっと使うこと、はてなブログを読んでくれる人や書いてくれる人が一人でも多くなるよう努めることだと思います。(株)はてな が1年でも、いや1か月でもはてなブログをサービスとして長く維持できるよう、ユーザーとしての私は努めます。アジコさんをはじめ、はてなブログのユーザーであれば多かれ少なかれそのためにできることがあるでしょう。小さな努力と言われればそれまでですが、でも、何もしないよりはいいし、ブログサービスが少しでも先まで保たれていることには意義があると思います。
 
はてなブックマークも、案外貴重だと思いますよ?
本文が消えてしまっても、はてなブックマークユーザーが遺した書き込みは残る。はてなブックマークコメントはまさに「おれらのラクガキ」なわけですが、この「おれらのラクガキ」が長く残っているのは凄いことだと私は思います。たとえば00年代のウェブサイトの記事のはてなブックマークとか、まだ残っているじゃないですか。20年ぐらい前のはてなブックマークのコメントって、まさに歴史の証言ですよ。なので、日本一のソーシャルブックマークサービスでもあるはてなブックマークを、私はしぶとく・大切に使い続けていきたいものです。
 
それから、これが私たちの目が黒いうちは一番大事だと思うのですが、
 
みなさん自身が「語り部」になりましょうよ。
 
00年代、10年代に書かれたことが失われていくことは避けられません。それはもう、どうにもならない。でも、私たちの記憶のなかにはまだ00年代や10年代が残っています。もちろん20年代だって。それらを書くこと。語ること。配信すること。誰かの目や耳に届けること。それが、私たちにできる一番強い手段だと思います。ユースカルチャーの領域の、細々としたことはどんどん忘れられ、フォーマルな文献だけがピカピカと残って、そのピカピカの周囲に嘘や誇張がはびこるかもしれません。ファクトとトゥルースのわかりづらい今の時代にあって頼りないことですが、それでも、憶えている人間が憶えていることを語らなくて誰が語るんですか。
 
もちろんこれは20年代にも当てはまります。2020年代の最前線を語るのは、私やアジコさんのような中年より、もっと若い世代が似つかわしいでしょう。「語り部」は老人だけのつとめではありません。今の風景を今の気分で切り取るのは、きっと10~30代の方に似合うはず。ドシドシやっていただきたいです。
 
 

もっと凝ったアーカイブにする手もある(かもしれない)

 
ときには、そうした「おれらのラクガキ」がひとまとまりになるチャンスも巡ってくるかもしれません。
 

 
上掲は、フォーマルな文献に残りそうにない私の体験をそのまま書いたものです(こんな出版企画が成った幸運を感謝するほかありません)。でも、こういう本ってそんなに珍しくないし、色んな人が色々と書いておられます。こうしたことを書き残せる状況の人には、それをやっていただきたいものです。
 
アジコさんは、
  
10年代に、10年代のブロゴスフィアの片隅をまるっと作品化する記念碑的事業を残されました。これは、ハイコンテキストで当時の事情を知らない人が読んでもわかりにくい作品ですが、10年代の、あの時代にしか生まれ得なかった何かです。フォーマルな文献に絶対に残らない、「おれらのラクガキ」の典型と言えるでしょう。
 
「おれらのラクガキ」をひとまとまりにするには馬力が必要です。チャンスや巡り合いも必要かもしれません。でも、やれる人はやったらいいんじゃないかと思うし、私は、そういうことにも値打ちがあると思いたいです。だって、私たちは生きていて、何事かをいつも考えていて、経験したことはみんな本当にあったことなんですから。忘れたくないし、残したくもありますよ。じゃ、残しましょうよ? 少なくともできることはしておきたいと、私はいつも思っています。アジコさんにおかれてもきっとそうでしょう。お互い、生きているうちはがんばって「語り部」やりましょうね。ではまた。
 
 
(※本文はここまでです。有料記事パートには、ほとんどの人にはあまり関係のないことしか書いてありません)
 
 

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