シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』から始める歯切れの悪い意見

 
この文章は、歯切れが悪い話として受け取っていただきたいし、少なくとも私はそう読んでもらえたらと願いながらこれを書いている。
 
歯切れの悪い話とは、アニメや漫画に登場する、なにやら依存症や精神疾患に当該しそうな登場人物の描写について色々と言う人についての話だ。たとえば最近では、『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』や『ぼっち・ざ・ろっく!』の登場人物が特定の依存症や嗜癖症に該当していることを指摘し、そのうえで「だから表現として良くない、ひっこめろ、書くな、見せるな」、といった意見を見かけることがある。
 
こうした意見に近いものとして、昔から「非行を描くな」「飲酒喫煙を描くな(またはゾーニングせよ)」といったものがあったが、この文章では、そこまで風呂敷を広げるつもりはない。確かに隣接する問題ではあるけれども、今回は、あくまで依存症や英心疾患に当該しそうな行動が描かれているキャラクターや作品に絞って私の意見を書いていきたい。
 
 

作品理解、キャラクター理解の観点から「〇〇は病気だから」について考える

 
はじめに、作品理解やキャラクター理解という観点から、「〇〇は病気」について述べてみる。
 
今も昔も、作品のキャラクターや登場人物を、特定の精神疾患や精神医学的概念にあてはめる見方はたえない。さきに挙げた『ぼっち・ざ・ろっく!』でいえば、きくり姐さんはアルコール依存症、アルコール乱用といった風に語られ、「だから描くな」「けしからん」といった声も聞こえてきた。そのほかにも、『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流アスカラングレーは境界性パーソナリティ障害だとか、色々なことが語られてきた。
 
作中のキャラクターの言動を見て、そうした特定の精神疾患との類似性を見出すこと、それ自体は別段悪いことでもなかろうし、それがキャラクターの理解を、ひいては作品を理解する補助線になることもあるだろう。だからキャラクターと精神疾患の類似性を云々することには私も異論はないし、そういうことをしたっていいよね、と思っている。
 
問題は、そういう人ばかりではないことだ。
作中のキャラクターの誰それは、アルコール依存症っぽい、共依存っぽい、パーソナリティ障害っぽい、といった風に述べるのでなく、アルコール依存症だ、共依存だ、パーソナリティ障害だ、と言い切ってしまう人がいる。のみならず、そこでキャラクター理解をやめてしまう人がいる。つまり、もちづきさんは摂食障害でしかない、きくり姐さんはアルコール依存症でしかない、と、そこで作品とキャラクターの読み取りをやめてしまっている人たちがいるよう見受けられる。
 
作品理解や作品鑑賞の面からみて、これは、つまらないレッテル貼りだと私は主張したい。
 
なるほど、いろいろな作品のいろいろなキャラクターの言動が、精神疾患に該当することはあろう。けれども、キャラクターたちが精神疾患「でしかない」なんてことはないはずである。
 
たとえばもちづきさんを見て摂食障害を連想するのは簡単だ。人間は、アルコールやタバコといった依存性のある物質に限らず、特定の行動を不適切使用してしまうことのある生き物で、不適切な食行動としての摂食障害も問題視されている。でもって『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』の主人公であるもちづきさんからそれを想像し、不健康だ、不適切だ、と思うのもいいだろう。
 
では、『もちづきさん』は摂食障害を、摂食障害として描れている「だけ」だろうか? 私は違うと思う。確かにこの作品に占める摂食行動の割合は大きい。『孤独のグルメ』と比較しても大きいだろうし、食行動がもっとビビッドに描かれているようにもみえる。それでもなお、この作品は摂食障害を摂食障害の症例として描くだけの作品には私には見えない。
 
そもそも、この作品に精神科医が登場してもちづきさんを摂食障害であると診断しているわけではない。
 
「もちづきさんは摂食障害の症例である」と決めつけているのは、作者ではなく、私たちの側ではないだろうか。確かに彼女の摂食行動じたいは摂食障害のそれを連想させるものではあるし、「至ってしまう」のも生理学的に問題のある状態を連想させる。だからといって、この作品はもちづきさんを「病者として描いている」わけではなく、もちづきさんの体型が示しているように、ある部分においてファンタジーとして描いている。
 
そうしたことを踏まえるにつけても、この作品が不健康を連想させやすいとしても、「もちづきさんは摂食障害」で終わらせるのは違っているし、摂食障害を描く作風とも思えない。そうした諸々が、摂食障害というレッテルをとおして無視され、無化されて良いとは私は思わない。それはレッテルづけをとおして作品理解をやめてしまうこと、作品理解をすすめるアングルを摂食障害というキーワードに単純化してしまうこと、にほかならないのではないだろうか。
 
他の作品については尚更である。
『ぼっち・ざ・ろっく!』のきくり姐さんはアルコール依存症。あっハイそうも見えますね。だけど、きくり姐さんはアルコール依存症「でしかない」と言ったら、それはきくり姐さんを理解するうえで、ひいては『ぼっち・ざ・ろっく!』を理解するうえで、貧困な態度と言わざるを得ない。きくり姐さんというキャラクターはアルコール依存症っぽく描かれてはいるが、それ以外にもさまざまな性質を持ち、さまざまに作中で行動している。そうしたものが全部合わさって魅力的な一人のキャラクターをなしている。
 
きくり姐さんをアルコール依存症だと指摘するのは別にあってもいいと思うが、「アルコール依存症でしかない」で考えるのをやめてしまったら、それはキャラクター理解としておかしいだろう。
 
それで言えば、『ぼっち・ざ・ろっく!』の主人公である後藤ひとりもそうだ。彼女を社交不安症っぽいとみなすこともできようけれども、彼女を「社交不安症でしかない」とみる人がいたら、一体彼女の何をみているんだ、本当に作品を通覧したのか、と指摘したくなる。映画『窓際のトットちゃん』のトットちゃんも、令和時代にあの作品をみてADHDを連想するのは簡単だとしても、「ADHDでしかない」と見るのは、トットちゃんの理解、ひいては作品理解としてこれほど貧しい収穫物もあるまい。
 
作中のキャラクターが精神疾患に該当する(または似ている)と着眼することと、そこで考えるのをやめてしまうのは態度としては大きく異なる。同じく、精神疾患に該当するとみた時点でキャラクターをわかったつもりになるのか、ならないのかも態度としては大きく異なる。もし、作品とキャラクターをもっと高い解像度で見ようと思うなら、前者の態度は勧められたものじゃない。*1
 
なお、その際に「どうでもいい作品のどうでもいいキャラクターではレッテル貼りをするけど、どうでも良くない作品のどうでも良くないキャラクターではそうしない」みたいな言い訳は、私はあまり信用ならないと思っている。なぜなら、日ごろからキャラクターや作品にレッテルを貼ってそれで平気でいられる人は、いざ肝心な作品と向き合うつもりでいても、そう易々と態度を変えきれないように思えるからである。
 
 

不健康は楽しそうに描かれてはいけないのか

 
それからもうひとつ、不健康な行動は楽しそうに描かれてはいけないのか、という問題もある。
 
くだんのもちづきさんやきくり姐さんに批判が集まった時、「本当は苦しくて恐ろしいものが、楽しそうに描かれている」といった批判もあった。彼らの言い分をそのまま受け入れるなら、「健康に害を与えるかもしれない行動、功利主義に抵触する可能性のある行動は、楽しそうに描かれてはならぬ」ということになる。
 
これに関しては、私も一部の依存症や嗜癖についてはそうだろうなと思ったりする。たとえば違法薬物の使用について。作中のキャラクターの行動に違法性という問題が含まれる時、それがどこまで描かれて良いのか、どのように描かれて良いのかは、合法的な行動とは違った基準が適用される場合があると思う。または、そのような表現はゾーニングの対象になるようにも思う。飲酒や喫煙といった、年齢制限のある嗜好品についても、放送時間帯も含めたゾーニングがあってもおかしくはない。
 
では、違法性のない行動、たとえばもちづきさんのドカ食いはどうなのか。
これは、意見の割れるところだと思うし、許容できる度合いが人によって違うかもしれない。
 
たぶんだが、『もちづきさん』がまったく平気な人もいれば、『もちづきさん』はダメだけど『孤独のグルメ』*2や『吉田類の酒場放浪記』なら構わない人もいるだろう。『孤独のグルメ』や『吉田類の酒場放浪記』もだめって人だっているはずだ。
 
しかし、もしそれが不健康だから──たとえばメタボリックシンドロームや摂食障害などのリスクを孕むから──楽しそうに描いてはいけない、と原理主義的に考える人は少数派だろうとは想像される。私個人は、そんな健康原理主義的な尺度でアニメや漫画やドラマを見たいとは思わない。
 
ひとつには、そんな健康原理主義的な尺度であれもダメこれもダメとやってしまったら、表現されて構わないものが狭くなってしまうし、ひいては、人間としての行動や人間文化の幅も狭くなっていきそうだからだ。健康原理主義な人にとって健康は至上命題であろうから、表現の対象が狭くなろうが人間文化が狭くなろうがたいした問題ではないのだろうが、少なくとも私は、人間は健康だけで生きるにあらず、と考えるので、やり過ぎは勘弁してもらいたい。
 
もうひとつは、たとえば摂食障害的な人、たとえばADHD的な人が、楽しそうに描かれてはいけない、みたいな事態になって欲しくないという願いがある。
 
もし、不健康な行動、それこそ精神疾患の病名が脳裏をよぎるような行動の含まれるキャラクターたちが、必ず苦しんでいなければならない、必ずうつむいていなければならないとしたら、それって、そのようなキャラクターに共感をおぼえる視聴者にとって、良いことばかりではないんじゃないか、と私は思う。
 
たとえばドカ食いするキャラクター、たとえば飲酒喫煙するキャラクターが、必ず苦しんでいなければならない、必ずうつむいていなければならないとしたら──ひいては、社会のなかで苦しんでいるかうつむいていなければならないとしたら──それって「ドカ食いするやつは不幸であるべきだ(幸福たるためにはドカ食いをやめなければならない)」「飲酒喫煙するやつは不幸であるべきだ(幸福たるためには飲酒喫煙をやめなければならない)」ってことにならないだろうか。でもって、そこからさらに一歩進んでしまったら、精神疾患に該当する人は治るまで不幸であるべきだ(幸福たるためには治らなければならない)、となっちゃったりしないだろうか。
 
もちろん、ドカ食いが重なれば不健康だし、飲酒習慣や喫煙習慣も不健康だ。だから模倣者が出ないよう、表現を絞りなさいって声は理解できる。それはそうなのだが、他方で、それらが悪として必ず描かれなければならず、悪として社会のなかで位置付けられなければならないところに到達するのも、それはそれでまずい気がするのだ。
 
そうなってしまったら、いわゆる「健康ファシズム」ってやつじゃないでしょうか?
 
2024年の日本社会はそんな「健康ファシズム」には至っていないし、だから『もちづきさん』のような作品も流通し、それを私たちは楽しむこともできる。けれどももし、不健康な行動のひとつひとつが今以上に批判されるようになり、描写を禁じられるようになり、楽しむことがいけないことになってしまったら、社会はもっと「健康ファシズム」へと傾くだろう。そのとき、健康な人々は自分たちの正しさを誇ることができようし、健康に根差した社会規範の徹底を寿ぐこともできようけれども、不健康な行動がやめられない人、本当は不健康な行動をときどき楽しみたい人にとっては、なかなかつらい事態になるのではないかと思う。
 
 

最後にもう一度。これは、歯切れの悪い話として受け止めてください

 
ここまで私は、『もちづきさん』や『ぼっち・ざ・ろっく!』を例に挙げながら、不健康な行動はどこまで描かれていいものなのか、について、どちらかといえば「描かれなくなるような社会は、きっとまずい社会だ」みたいなことを書いてきた。私自身は、もちづきさんやきくり姐さんに肩入れしたいとも思っている。
 
他方で、世の中には影響されやすい人、とびぬけて影響されやすい人というのもいて、サスペンスドラマやアニメを模倣して事件を起こす人もいなくもない。不健康な行動にしてもそうだろう。また、たとえば摂食障害の人が別の摂食障害の人のSNS上の言動を見て「もっとやせよう」と思ったりすることもある。
 
だから、この話を「アニメや漫画、SNSに何を描いても構わないしどこまでも描いて構わない」という結論に持っていくことも、またできない。
 
では、この文章をとおして結局私は何が言いたいのか。
 
この、歯切れの悪い話をとおして私が言いたいのは、「こういう話って、クリアカットに結論が出せるようなものじゃなく、歯切れの悪い話だってみんなで承知しておくべきじゃない?」というものだ。
 
ちょうど、2024年度のACジャパンのCMに、「決めつけ刑事」というものがある。
 
www.youtube.com
 
この動画では、SNSの書き込みを鵜呑みにして犯人捜しをしてしまう人が挙げられているが、こういう決めつけの弊害は「歯切れの悪い話」全般にも言えると思う。
 
本来、政治にしろ道徳にしろ社会にしろ、白か黒かのクリアカットで決めつけられることなど、なかなかないはずである。例示した、もちづきさんやきくり姐さんの件にしてもそうだ。ところが今日のインターネット、特にSNSではそうした決めつけが横行し、むしろ決めつける態度こそがクレバーだと思っている人の姿さえ、しばしば見かける。
 
X(旧twitter)のような140字のアーキテクチャの内側では、なにごとも短く言い切ること、決めつけてしまうことが「映える」のかもしれない。が、歯切れの悪い話を140字以内で決めつけることなどできるわけがない。そんな、事情の大半を切り捨ててしまうような決めつけを大勢の人々が繰り返しているとしたら、それはなんらかの歪みを招くものではないか、と私は心配になる*3
 
歯切れの悪い話は、歯切れの悪いままで抱えておきませんか。
簡単に決めつけず、結論を急がずに。
今日のSNSに足りていないのは、そういう歯切れの悪さを歯切れの悪いまま抱えておく態度だと思うし、それって今日的問題だと思うので、もちづきさんやきくり姐さんを例として、問題視していこうよと書いてみました。需要があったら続編を書きます(需要がなければ書きません)。
 
 

*1:これは、キャラクターに含まれている諸属性を語ることと、諸属性で考えるのをやめてしまうことにも通じている問題だ。

*2:『孤独のグルメ』も実は色々で、ドラマ版の、後のほうの回のほうがドカ食い度が高いようにみえる。だから、『孤独のグルメ』のドラマ版の特に最近のやつが受け付けないって人もいそうな気がする

*3:だから、ブログのようなアーキテクチャに戻っておいでよ、そうしてせめて1000字ぐらいは書こうよ、みたいなことを思ったりもする

低感情社会、皆がニコニコしていなければならない社会

 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
先週、怒鳴り声がどんどん社会のなかでストレスフルなものとみなされるようになり、他人に害をなすものとして浮かび上がってくる話をした。昭和時代には怒鳴り声、ひいては大きな声が溢れていたが、令和時代の日本社会はそうではない。令和の日本人は、自分が怒鳴られると大きなストレスを自覚するのはもちろん、ただ怒鳴り声が聞こえただけで大きなストレスを自覚する。
 
だが、振り返って考えてみると、怒鳴り声だけがストレス源として社会のなかで浮かび上がっているわけではない。およそストレス源となりそうな感情表出ならなんでも、交感神経を亢進させる感情表出ならなんでも、忌むべきストレス源とみなされ、できるだけそれをなくすよう、なくせなければ迷惑であり危害であり排除すべきもののように扱われる。
 
たとえば泣き声などもそうだ。職場では、怒鳴っている人が浮かび上がるだけでなく、泣いている人も浮かび上がる。アンガーマネジメントなどといわれるが、本当にマネジメントしなければならないのはエモーション全般である。過度の悲嘆は怒鳴り声と同様、ストレス源として浮かび上がり、忌むべきものとみなされる。たとえば職場の同僚が泣きながら仕事をしていたら、私たちはそれを許容できず、なんとかすべきだと思うだろう。けたたましい笑い声もそうかもしれない。喜怒哀楽のうち、喜楽に関しても、それが強すぎるシグナルであれば私たちはストレス源と感じ、迷惑だ、マネジメントしろと言ったりもする。
 
ってことは、皆が・いつでも穏やかなスマイルを浮かべていなければならない社会になってきているんじゃないでしょうか。
 
それができない人間は、家庭でも職場でもどこでも歓迎されないし、なんとなれば加害者か障害者とみなされる社会になってきている。そう言ってしまうと誇張かもしれないが、社会がどちらに向かっているかと考えた時、そのような方向に社会がどんどん傾いている、とは言えるように思う。
 
ついでに指摘すると、赤ん坊の泣き声も私たちの交感神経を亢進させる。進化生物学的にみて、赤ん坊の泣き声は私たちの交感神経を亢進させるようにできているし、逆に私たちは赤ん坊の泣き声を聞くと交感神経を亢進させるようにできている。怒鳴り声に限らず、ストレス源をどんどん減らすように変わってきた社会、ストレス源たる感情表出を忌み嫌うよう変わってきた社会のなかで、赤ん坊の泣き声は今も昔も変わらない。だからストレス源にだんだん不慣れ&不寛容になった私たちには、赤ん坊の泣き声はひときわ耳障りに響く。子どもの歓声もそうだ。子どもが公園で騒ぐ声など昭和時代には街じゅうに溢れていたはずだが、その時代を生き、その時代に騒いでいたはずの高齢者のなかにも、そのストレスに慣れなくなった人が珍しくない。
 

「怒鳴り声に無神経な年長者と繊細な年少者」問題について - シロクマの屑籠

「怒鳴り声、いや、泣き声や悪態などもそう」大人の怒鳴り声と子供の泣き声が同列であり、大人の怒鳴り声に不寛容な社会が子供の泣き声に「だけ」寛容になる、ということは有り得ないことを示唆してる。少子化は必然

2024/08/30 08:07
b.hatena.ne.jp
 
ちょうどこれに類するコメントをはてなブックマークでも見かけた。赤ん坊の泣き声も、子どもの歓声も、令和の日本社会の社会規範に沿って考えるなら加害者や障害者に近い。赤ん坊や子どもが免罪されているのは未成年だからでしかなく、それも、仕方なくお目こぼしをいただいているものでしかない。
 
 

どこから、いわゆる高EE家庭なのか

 
こうした問題について考えていて、ふと思い出すのが「高EE家庭」という言葉だ。
 
高EEとは、high emotion expressionのことで、感情表出の度合いが高い家庭、特に患者さんに対して強い感情表出をぶつける家庭を指しがちで、"業界"ではしばしば問題視される。実際問題、治りの良くない精神疾患の患者さんの家庭を垣間見ると、高EE家庭だったとうかがえる症例は多い。そうした症例の父母や祖父母も、精神科医の前では感情表出を今風に抑えようと努めるさまが見受けられる。しかし、精神科医の前以外では感情表出がきついことがさまざまなかたちで漏れ聞こえてくるし、感情表出を今風に抑えようとしても抑えきれていないさま、あるいは、顔面表情筋などに刻まれた痕跡などは、しばしば隠し切れないものである。
 
なお、断っておくと、幼少期から家庭内で高感情表出にさらされ続けてきた子どもが精神疾患になった症例について、「高EEだからですねー」と言うだけでは、「アダルトチルドレンだからですねー」と言ってしまうのと同じぐらい、たいしたことを言っていないと思う。高感情表出な家庭ができあがっているのは、家系的な生物学的特性のあらわれの一端かもしれないし、子ども自身の特性の甚だしさに由来する現象かもしれないし、複雑性PTSDのような捉え方で捉えるのが似合いかもしれないし、もっと精神分析が得意としている理路で考えたほうが良いかもしれない。高EE家庭という兆候は、メンタルヘルスについて考える一材料になるとしても、一材料に過ぎないし、それ単体では家庭内の諸問題をするには足りない。
 
話が逸れた。
ともかく、高EE家庭であることは、どうやらメンタルヘルスのリスクファクターで、虐待や教育虐待やDVといった問題に隣接している気配がある。実際問題、今の日本社会で理想視されている家庭像は高EE家庭から遠い。今日の社会が家庭に(そして私たち一人ひとりに)期待しているのは、家庭内のコミュニケーションに安定感があり、感情表出が過大ではなく、とりわけ親が子どもの前で泣いたり怒鳴ったりすることがなく、親子それぞれの感情表出が安定していることだ。
 
では、どこまでが高EE家庭と言え、どこからが低EE家庭と言えるのか。
 
さきほど述べたように、メンタルヘルスの領域で高EE家庭と呼ばれそうな家庭のメンバーでも、世間体を気にし、第三者の前では感情表出を今風に抑えておける人は珍しくない。それでも高EE家庭なのはプライバシーの領域では高い感情表出だからで、つまり高EE家庭とも判断されないためには、パブリックでもプライベートでも低め安定な感情表出でなければならず、いつ・誰を相手取るとしても感情表出の度合いが低め安定でなければならないわけだ。
 
過去においては、世間体を意識しなければならない場面で低い感情表出でさえあれば、それで良かった。今日では、プライバシーの領域でも低い感情表出であることが常に期待されている。これからはもっとそうだろう。
 
昭和時代の家庭や人間関係を描いたホームドラマ、コメディ、演劇などを振り返ると、人と人が強い感情表出をまじえながらメッセージを授受している場面がとても多い。メッセージの授受に際して伴っているのは感情表出だけではない。令和の日本社会では暴力とみなされる「身体性」まで伴っていることもままある。『サザエさん』の波平はしばしばカツオを怒鳴り、『ドラえもん』ののび太の両親も感情をまじえていた。
 
そうしたことから思い出されるのは、「昭和以前の家庭で許容されていた感情表出の水準も、今とはだいぶ異なっていた」ということだ。
 
もちろん昭和時代の家庭ならいくらでも感情表出して構わなかったわけではない。当時においても常軌を逸しているとみなされる家庭はあった。逆に言えば『サザエさん』や『ドラえもん』や『あばれはっちゃく』あたりに登場する程度の感情表出は、当時の許容範囲だった。だが、それらの感情表出は令和社会の期待には合致しないだろう。
 
精神科臨床をやっていると、令和社会が期待する家庭像どおりにいかない家庭、しかし昭和時代であれば高EE家庭と名指しされずに済んだかもしれない、境界的な家庭にも出くわす。そうした家庭に出くわした時、私は「古風な家庭だ」と感じるとともに、令和社会が期待するものと、その「古風な家庭」の規範やハビトゥスとのギャップを意識せずにいられなくなる。そこも、メンタルヘルス上は問題のひとつになるだろう。なぜなら社会全体の規範やハビトゥスと、ローカルな家庭内で流通し内面化してしまった規範やハビトゥスとの乖離は、神経症的葛藤の源たりえるからだ。
 
なお悪い(?)ことに、その令和社会は、そうした神経症的葛藤の渦中にある子どもにエディプスの父殺し的な反抗を許さず、反抗の兆しがあろうものなら、たちどころに逸脱や障害として秩序に回収してしまう。家庭に関連した神経症的葛藤を子どもの側が自覚したとしても、盗んだバイクで走り出すことは断じて許されないのである。
 
 

低感情表出社会の行き着く先は

 
職場や学校でアンガーマネジメントが言われるようになり、家庭内でも穏やかな感情表出が期待されてやまない令和の社会。
これは、人類史のなかでも有数の、低感情表出社会と言っても間違いないように思う。
 
では、この傾向がもっと加速したら、未来はどうなるだろう?
 
この半世紀の延長線として未来を想像すると、21世紀後半の日本人はもっと感情表出が少なくなる。どんな職場や学校も、安全で、静かで、ホワイトになり、世代再生産の場もそれにふさわしいものになる*1
 
そうなった日本社会はさぞ、静かだろう。そのかわり、その安全で、静かで、ホワイトな社会にふさわしい人間へと日本人は作り変えられなければならない。令和時代の人間が容赦なく昭和時代の人間の騒がしさやブラックさを非難するのと同様に、半世紀後の人間も令和時代の人間の騒がしさやブラックさを非難し、令和時代の感情生活全般が悪しきものとして語られることになる。
 
怒鳴り声を撲滅した社会が次に撲滅するのは、もうちょっと小さめの声だ。私語に向けられる非難の目は、現代とは比較にならないほどきつくなる。他方で喫煙室ならぬ喫談室がつくられて、ある程度以上のボリュームの会話は喫談室で行われるのが一般的となる。
 
その時代のドラマやアニメや演劇で許容される感情表出も今日よりずっと穏やかなものとなり、「令和時代の作品描写は野蛮で観るにたえない」という言説が、「私たちは着実に進歩した。だがまだ進歩が足りない」という言説とともに流通する。
 
この時代に生まれてくる子どもは乳幼児期から大きな声をあげないよう"エンハンスメント"を受けて育つから、大きな声が出せない人、泣き方や怒り方がわからない人が次第に増えてくる。ところが対人コミュニケーションの多くはスマートメディアを介した言語的・記号的なものと化しているので、同時代の人々はそれを深刻な問題とは思わない。身体的な感情表出が禁じられていく一方、(LINE等のスタンプのような)感情表出をあらわす記号が多用されるようになり、オンラインに繋がりっぱなしの同時代の人間の感情表出は、令和時代の人間の感情表出よりもAIの学習対象として適するようになり、結果、21世紀後半のAI端末はこの時代に必要十分な模擬感情表出機能を実装していると判断される。
 
半面、そのような低感情表出な社会におさまりきらない人々は精神機能に障害ありとみなされ、たとえば感情症といった呼び名に基づいて治療の対象になる。感情症 affective disorder は、20世紀以前にはうつ病や躁うつ病などをまとめて呼びならう疾患概念だったが、21世紀後半においては低感情表出社会にふさわしい感情表出ができない病態全般を指すものとされ、少なからぬ人が感情症に該当するとみなされ、精神科医による治療を受ける。ただし、この時代、精神疾患の治療と精神機能のエンハンスメントの垣根は無いも同然なので、実際にはもっと多くの人が精神科医の援助の対象となっている。
 
かくして、21世紀後半の日本社会で流通する感情表出は、令和のそれが大袈裟と思えるほど繊細なものになり、繊細たるために多大な努力が支払われると同時に、繊細の恩恵を社会全体が受け取るようになる。社会は繊細で低感情表出な人に都合の良いように、そうでない人には都合の悪いようにできあがっていく━━。
 
 
もちろんこれは極端な未来予想で、そもそも21世紀後半まで平和が持続しなければ成り立ちそうにないものだ。が、もし平和裏にこれまでどおりの趨勢が続くなら、その先にあるのは令和の人間すら高感情表出だとみなされる社会、そして感情表出に相当するものが言語表出や記号表出に置き換えられる社会だと思われる。そうなった時、未来の人々は誰も怒鳴らず、誰も泣かず、誰も大笑いせず、ただニコニコしているだけになるだろう。と同時に、誰も怒鳴ってはならず、誰も泣いてはならず、誰も大笑いしてはいけない社会が到来するということでもある。そこまでいかなくとも、2024年に比べればそういった雰囲気の未来社会が到来するはずで、本当にそんな未来でいいのか、私にはなんだかよくわからない。
 
 
 
※伸びているので宣伝。10月4日発売の新著のURLを貼っておきます。

 

*1:家庭と書かず、わざわざ世代再生産の場と書くのは、半世紀後には今日の家庭像が失効している可能性があるとみているからだ

「怒鳴り声に無神経な年長者と繊細な年少者」問題について

 
togetter.com
 
この話は私の見聞きしている状況、特に我が家の子どもが感じていることとも一致していると感じた。
「自分が怒鳴られているわけでなくても、誰かが怒鳴っているのを見るだけでストレスがきつい」、という話だ。
 
このtogetterに対して、たくさんの人が「それは昔からストレスだったものだ」と述べている。確かにそうだろう。怒鳴り声は交感神経を亢進させるシグナルであって副交感神経を亢進させるシグナルではない。交感神経の亢進を他人に伝染させるシグナルですらあったかもしれない。
 
元々、怒鳴り声はそのようにできていて、そのように流通してきたのだから、怒鳴り声を聞いてリラックスする人は太古の人間社会にもいなかったはずである。
 
問題なのは「1.それが昔からストレスだったかどうか」ではなく「2.そうしたストレスがありふれた性格のものだったのか、それとも大きなストレスとして受け取られる性格のものだったか」であり、それか、「3.そうは言っても耐えられるものだったのか、耐え難い苦痛として受け取られるものなのか」のほうだ。
 
2.3.の問題意識に基づいて「怒鳴り声」について考えるなら、昭和時代以前などと比較して、明確な差異があるように思う。
怒鳴り声、いや、泣き声や悪態などもそうだが、こうした交感神経を亢進させるシグナル、ひいてはストレスと感じられるシグナルは、昔はもっとありふれていた。誰かが怒鳴ることも、誰かが泣くことも、悪態をつくことも、学校でも、街でも、家庭でも、日常茶飯事だったのではないか。
 
関連して拳骨、平手打ち、どつき、等々が忌むべき暴力としてではなくメッセージの一種としてまかり通ってもいた。繰り返すが、もちろんそれらはストレスだっただろう。だが、ありふれたストレスであり、ありふれていることに疑問を感じることの難しいストレスではあった。
 
令和の進歩した状況から「昭和以前のストレス環境は間違っていた」と言ってのけるのでなく、その時代の渦中において「こうしたストレスがありふれているのは社会が間違っている」と声を張り上げることができた人は、少なかったのではないか。
 
つまり「怒鳴り声がストレスかどうか」ではなく「怒鳴り声がどれぐらい許容されてしかるべきストレスかどうか」という観点でみれば、やはり昭和以前と令和では違いがあり、違いがあるからこそ、怒鳴り声を耳にするという事態が許容されなくなっていった経緯と、ストレスとしてクローズアップされる現況には注目する意義があるように思う。
 
 

怒鳴り声においても「デュルケームの僧院」が起こっている

 
この、怒鳴り声とそのストレスに対する受け止め方の変化に関して、私は、社会学者のデュルケームが言っていた僧院の話を思い出す。
 

 
 それが完璧に模範的な僧院だとする。いわゆる犯罪[もしくは逸脱]というものはそこでは起こらないであろう。しかし、俗人にとっては何のことはないさまざまな過ちが、普通の法律違反が俗世界の意識に呼び起こすようなスキャンダルと同じように解釈されて、そこでは生じることになるだろう。したがって、もし、その社会が裁判と処罰の権力を持っているならば、それらの行為は犯罪[もしくは逸脱]的とされ、そのようなものとして扱われるに違いない
 デュルケーム『社会学的方法の規準 (講談社学術文庫)』

何が犯罪や逸脱に相当するのか、何が許容されない行動とみなされるのかは、社会や環境によって違う。このくだりでデュルケームは、「完璧に模範的な僧院のような、一般的な犯罪や逸脱がきわめて少なくなった環境では、俗世界ではとるにたらないとされる問題までもが犯罪や逸脱、許容されない行動とみなされ、処罰などの対象として取り扱われる」、と述べている。
 
つまり、社会が変われば逸脱とみなされる行動も許容されない行動も変わり、私たちが何をいけないこととみなすのかも変わるわけだ。
 
そのうえで上掲のセンテンスの"犯罪や逸脱"を"怒鳴り声とそのストレス"に入れ替えて考えると、令和社会はここでいう「完璧に模範的な僧院」に近く、昭和以前の社会はここでいう「俗世界」に近い。昭和から令和にかけては犯罪発生率が低下しただけでなく、ハラスメントの撲滅やコンプライアンス遵守がうたわれ、実際そのように社会は変わった。DVやいじめを防ぐための取り組みも加速している。そうしたなか、たとえば学校で児童生徒にふるわれる体罰の頻度と程度も減り、児童生徒間の暴力や争いごとも少なくなった。
 
いじめの「認知件数」を見ていると、いじめは少なくなったとは言えないように見えるかもしれないが、これは、いじめが増加したというより児童生徒間の暴力や争いごとに大人たちがセンシティブになったこと、ひいては児童生徒間の暴力や争いが許容される度合いが低下し、許容されず事例化する度合いが高まったことの反映とみるほうが実態にかなっているだろう。
 
たとえば昭和の小学校にありふれていた拳骨やからかいや冷やかしは、令和の小学校ではいじめとして事例化する。逆に、昭和以前の学校においてそれらのほとんどは大人たちが取るに足らないとしてスルーしていた。確か、ピンカー『暴力の人類史』にも、"いじめは少年時代の試練"といった風に20世紀のアメリカ人たちが捉えていた様子が記されている。
 
また、ストレスに対しても、私たちはセンシティブになっているかもしれない。私たちはストレスを避けようとし、ストレスから回復しようともする。そのための方法論は昭和以前よりも向上している。ただ、そのためだろうか、私たちは幾つかの種類のストレスをストレスとして受け止めることに不慣れになり、そのひとつひとつのその重さに呻吟している。
 
社会は、怒鳴り声をはじめとするストレス源に対して全体的にセンシティブになり、そうした事態に個々人が直面しないで済むように変わってきた。それは進歩と言って構わない変化だっただろう。そのかわり、センシティブになった私たちはひとつひとつのストレスに不慣れになり、それらを些末なストレスでしかないと感じることが難しくなってしまった。
 
だから私は、ストレスの方面でも日本社会は昭和から令和にかけてデュルケームのいう俗世界から模範的な僧院へと変わっていった、とみたくなる。かつては取るに足らないストレスと感じられていたものまでが、重大なストレスと感じられるように、なってしまったのではないだろうか。
 
 

高齢者たちは耐え難く無頓着・無神経に見え、若年者たちはどうしようもなく繊細・脆弱にみえる

 
とはいえ、社会規範や物事の判断基準は幼少期にインストールされる割合が大きいため、昭和前半に育った世代、昭和後半に育った世代、平成に育った世代、令和に育った世代のそれぞれにおいて、インストールされた社会規範はちょっとずつ違っている。
 
先ほどから挙げている「デュルケームの僧院」の構図は、社会全体がそのように変わっていくものだが、他方で、その構図を内面化している程度は世代ごとに異なっている。「これぐらいなら怒鳴って構わないだろう」と思う基準も、「これぐらいなら怒鳴る場面に出くわしても我慢の対象だろう」と感じる基準も世代ごとに(個人差はさておきその平均は)違ってくる。
 
そうしたわけで、全体としては年上の人ほど怒鳴る・怒鳴られることに無頓着・無神経で、年下の人ほどそうしたことに繊細、ひいては脆弱であるようにみえる。「怒鳴り声はストレスの源である」というそこのところは今も昔も変わらないが、そのストレス源たりえる怒鳴り声をどのように受け取り、どのように社会規範のなかに位置づけ、取り扱っているのかには世代間のギャップが(時代のギャップとともに)存在する。
 
結果、若年者から見た高齢者はしばしば耐えがたく無頓着・無神経に感じられ、と同時に高齢者から見た若年者がどうしようもなく繊細・脆弱にみえたりする。
 
こうした世代間ギャップは別に令和時代特有のものではなく、平成時代にも、昭和後期にもみられた。少なくとも戦後、日本社会は一貫して穏やかで繊細な方向へと変わり、人も穏やかで繊細であるよう期待されるようになったために、いつの時代にも年上が粗野にみえ、年下が繊細にみえる。そうした社会の変遷と、人に求められる行動の変遷については『人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)』や『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』に書いたし、『ないものとされた世代のわたしたち』でも触れたところだし、それこそアナール学派が中世まで遡って教えてくれるところでもある。
 
目下、こうした社会全体の穏健化と繊細化は止まっておらず、功利主義や危害原理に基づいて推進すらされているので、順当にいけば数十年後の日本人はもっと怒鳴らなくなり、と同時に怒鳴り声に対して繊細・脆弱になっていると推測される。そのとき、怒鳴り声はドラゴンシャウト*1のように人を害するものとみられているかもしれないし、その反映として、怒鳴り声をあげた人は傷害罪に問われるようになるかもしれない。もちろんこれは極端な推測だが、社会を徹底的に穏やかで低ストレスなものに改変していく未来とは、とどのつまりそういうものではなかっただろうか。
 

*1:ドラゴンシャウト:ゲーム『skyrim』に登場する、声の使い手だけが使いこなせる、人を害せるほどの威力を持った吠え声

推しと宗教はどこまで同じで、どこから同じでないか

 
 
www.4gamer.net
 
 
少し前に、推しと宗教の共通性について宗教学の先生がお話している文章を読んだ。私はそれを読んである程度は納得できると同時にある程度からは納得できないものだった。ただし、くだんの先生は、私を説得するために「推しと宗教の共通性」についてしゃべっていたわけではない。それに、確かに私たちは推しに「尊さ」を見出しているから、間違ったことを述べていたって印象はなかった。
 
が、私も推しについては関心は持っているし、私なりに推しと宗教の異同について書いてみたくなったので、やってみることにする。
 
 

推しと宗教、共通しているところ

 
推しと宗教の共通点は、既にリンク先で宗教学の先生がおっしゃっていた。推しに「神聖さ」を見出しているご指摘は、巷でいう「推しが『尊い』」という言い回しとも一致しているし、推しに対してファンがある程度脳内補完したイメージを消費しているさまを福音派の話とダブらせているのはなるほどと思った。
 
それはそれとして、私の好きな領域に引き寄せて推しと宗教の共通点を書いてみたい:それは、どちらも自己像や自意識のほうを向いていない心のはたらきである点、それでいて心理的充足をはじめとする効果が生じる点だ。
 
現代人は、とかく自分というものに執着しやすい。つまり、自分がもっと立派になること、自己評価が高まること、自分自身が承認されること、等々にいつも心をくだいていて、たとえば「何者かになりたい」などと願望したりする。
 
それが悪いと言いたいわけではない。いわゆる承認欲求、またはコフート風にいう鏡映自己対象体験を求める気持ちは、人を頑張らせるモチベーション源となる。「みんなに認められたいと思って頑張った」「『いいね』をもらえるのが嬉しいと感じているうちに腕が磨かれた」といった人はそんなに珍しいものではないだろう。もっと狭い範囲からの承認、たとえば特定の友人に自分のゲームの腕前を認められたいとか、パートナーにちょっと良いところをみせたいといった気持ちが人を飛躍させることもある。だから承認欲求に相当する心のはたらきは、原則としてはポジティブに受け取って良いものだと思う。
 
しかし、人の心のはたらきは承認欲求だけから成っているわけではない。心の宛先が自己像や自意識のほうではなく、別の誰かや何かを向いていてもモチベーション源として機能する場合が往々にしてある。それが、推しや宗教が提供してくれる機能で、承認欲求と並んで語られる所属欲求がこれに相当する。
 
人が誰かを熱心に推している時や、熱心に信心をしている時、人は自己像や自意識を省みていない。そうした自己像や自意識を目当てとして推しや宗教をやる場合も絶無ではないが、「自己像や自意識を目当てとした道具として」推しや宗教を利用する意識は原理的ではなく、おそらくオーソドックスでもないだろう。
 
だから推しや宗教には、「自己像や自意識に執着してならない自分自身から、ちょっと距離を置ける」点も共通している。推しや宗教に心を向けている間は、自分自身に意識を向け過ぎてしまう状態を脱することができる。加えて、推しや宗教は、その対象が多かれ少なかれ理想化されることをとおして、ロールモデルとしてモチベーション源になる──この場合、ならうべき理想や向かうべき理想として人を引っ張ってくれる──こともある。対象が理想やロールモデルとして体験され、それが心理的充足を提供したりモチベーション源として機能するさまは、コフートのいう理想化自己対象体験にほかならないが、推しや宗教の対象は、まさにこの理想化自己対象に相当する。
 
自己像や自意識に執着してばかりの人にとって、この、理想化自己対象をとおしてのモチベーション獲得や心理的充足の獲得はちょっとわかりにくいものかもしれない。それだけに、自分自身にとらわれすぎずにモチベーションを獲得する新しい経路として値打ちある活動たり得るかもしれない。
 
ちなみに世の中には自分自身になかなか執着できず、推しや宗教ばかり追いかけてしまう人もいる。こういう人は、推しを見つけたり宗教を信奉したり、またはコミュニティやジャンルの成員の一人として活躍したりはしやすいかもしれない。反面、自分自身にこだわって頑張ることにあまり慣れていない。そういう人の場合、後述する問題もあるため、推しや宗教にばかり心理的充足やモチベーション源を見出すのでなく、承認欲求もモチベーションの経路として活用できるほうが、心のはたらきのバランスはとりやすいだろう。
 
 

推しと宗教に共通する問題点

 
で、さきほど書いた「推しと宗教に共通する問題点」について。
それは、「どちらも理想が高くなり過ぎてしまうとどこまでも理想が高くなって、だいたい面倒なことになってしまう」点だ。
 
まず推しについてだが、推しに対して求める理想が高くなると、人はしばしば推しについてあれこれうるさく言いたくなり、満足よりも不満を感じやすくなる。
 
たとえば推しの演技やメンションが自分が理想視していたイメージからちょっと外れていただけで口うるさく批判してみたり、こうあるべきだと主張してみたりする。他のファンにもきついことを言い始めるかもしれない。そうなったらすっかり厄介ファンである。
 
宗教にもこういった危険性はある。日本で有名なのはオウム真理教だろうか。宗教も、初詣にお参りするぐらいならご本尊や宗派に対して口うるさくなることは少なく、理想視する度合いも小さいが、熱心に信奉すれば信奉するほど、熱心になるだけでなく、排他的になってしまうことがあり得る。
 
宗教には全能性という問題もある。全能の神、全能の指導者といった理想のイメージを宗教はしばしば信徒に提供する。これは、理想が高すぎる人(それこそ、全能でなければあらゆるものは無能無意味と断を下してしまうような人)でさえ信仰できる可能性を提供しているとは言える。実際、コフートの弟子の本には、カウンセラーでは引き受けきれない理想化自己対象の役割を宗教や宗教者が引き受ける可能性にわざわざ言及してあるページもある。
 
なら、宗教はみんなの理想も引き受けてくれて天晴じゃないか、と思うかもしれないが、良いことばかりではない。そのような全能性を期待する信者は、しばしば全能性を気取る宗教指導者に引き寄せられて集まる。全能性を期待する信者たちが全能性を気取る宗教指導者のもとに寄り集まったら何が起こるのか? 何が起こったのか? それは周知のとおりである。
 
ところで、オウム真理教においては、発泡スチロールでつくられたシヴァ神が祀られていた、という報道がされていたが、これは、宗教や推しを理想化する人の心のはたらきを理解するうえで示唆的なことだと思うので少し書いてみる。
 
コフートは、理想を引き受けてくれ、推しなどの対象になってくれる対象のことを理想化自己対象と言ったが、彼の解説する理想化自己対象とは、発泡スチロールのシヴァ神そのものや教祖・麻原彰晃そのもの で は な い。
 
そうではなく、理想化自己対象とは理想視しているイメージのなかの発泡スチロールのシヴァ神や麻原彰晃なのであって、実物ではないのである。
 
これは推しを理想化自己対象としている時にも言えることだ。たとえば『ぼっち・ざ・ろっく!』の山田リョウを熱心に推している人にとっての理想化自己対象は、ローソンで入手したクリアファイルそのものでも、ディスプレイのなかでベースを弾いている山田リョウそのものでもない。それらすべてをとおしてできあがった理想のイメージとしての山田リョウが、理想化自己対象ということになる(この話は、冒頭リンクで語られている「リアリティを自分で作って,そこに没入していく」という話と符合している)。
 
これは、実在のアイドルや役者さんを推している場合にもある程度まで言えることで、生身のアイドルや役者さんと、推しの対象としてファンが受け取っているイメージには多かれ少なかれのギャップがある。たとえば、その理想のイメージと実在のアイドルや役者さんのギャップが暴露された時、理想が高すぎる人は裏切られたと感じたり憤激したりすることになる。
 
推しも宗教も、理想を高く持ち、その対象のイメージを理想化すればするほど「難しいファンや理想が高すぎる信者」でも推せたり信奉できたりする反面、実態から乖離した理想像を追いかけ、勝手なリアリティを現実だと思い込んでしまった挙句、カルトなことになってしまったり、いざ理想像が崩れてしまった時に深く傷ついたり憤激したりする可能性が高まったりする。
 
だから推しも宗教も、どちらも付き合い方が良ければ心理的充足やモチベーション源の一端として生活を潤わせる反面、それが人生のすべてであるかのようにのめりこんだり、それが全知全能の神であるかのように拝み倒したりすると、狂信に根ざしたトラブルが起こるかもしれないと心得ておかなければならない。
 
こうした推しや宗教の狂信可能性は、ほとんどのファンや信者にとってそんなに心配する必要のないものではある。しかし、特定の心理的・社会的状況に置かれている人はこの限りではない。狂信に至りやすい個人もいれば、狂信に至りやすい状況や社会や時代もあるだろう。たとえば推しの行き着く先がアドルフ・ヒトラーに国全体が熱狂したナチスのような境遇……といった可能性も一応ゼロではない。
 
 

推しと宗教、いちばん大きく違っていると感じるのは

 
もう少し、推しと宗教の異なっているところを挙げてみる。
それを一行にまとめるなら、組織性の有無、戒律の有無、葬祭機能の有無、歴史性の有無、あたりだろうか。
 
このうち、組織性については相違点としてあてにならないかもしれない。狩猟採集社会のクランが信奉しているアニミズムなどは、組織という点ではごく小規模だ。いっぽう推しも、背景にメディアミックスを企画している企業の働きがあるわけだから、組織性が伴っていると言えないわけではない。
 
次いで戒律について。
宗教には、「これをしなさい」「これはしないようにしなさい」と命じるところがあり、信者はそれを守るよう期待されている。こうした宗教の戒律の面白いところは、忠実に守らなくても影響がないわけではない点だ。たとえば信者の側は戒律を破れないわけではないが、その場合も「自分は戒律を破っている」という気持ちからは自由にはなれない。もし、その気持ちから自由になるためには、棄教しなければならない。
 
宗教には超自我を司る機能が備わっている、とも言い換えられるだろうか。これは、一神教の宗教に限らず、日本の大乗仏教にだってある程度までは言えることだ。神道もそうかもしれない。
 
対して、推しが戒律を言いつけ、超自我を司ることはどこまであるだろう?
例外がないわけではないが、推し活をしている人が推しから戒律的なものを受け取っている様子はあまりみられない。宗教の場合、熱狂的な信仰は高確率で厳格な戒律の遵守を伴うが、推しに関してはそうとも限らない。
 
葬祭機能の有無に関しては、言わずもがなである。
宗教は、小さなものから大きなものまで、生と死を司り葬祭を取り計らう機能がある。同様に、生誕に関連した儀式をも取り計らうだろう。関連して、宗教は世代から世代へと受け継がれ、信者とその家族が歴史を紡ぐサポート役をつとめる。してみれば、宗教には死生観を司る機能がある、と書いたほうが似合いなのかもしれない。
 
この、死生観を司る機能が、今のところ推しにはほとんどない。もし、推しが冠婚葬祭を司るようになったら、きっと非常に宗教っぽく見えるようになるだろう。逆に言うと、推しの対象になっているキャラクターが冠婚葬祭を司ったり、死生観を引き受けたりするようになるまでは、推しと宗教の間にはごまかしようのない一線が残ることになる。

こうして考えると、冠婚葬祭や死生観や超自我を司る機能の有無によって、推しと宗教の間にはかなり大きな相違点がある、と私なら言いたくなる。推しも宗教も人の理想を引き受け、心理的充足やモチベーション源といった心理的な機能を果たすけれども、人の生死や世代の継承といった問題にコミットするのは宗教で、推しはそうした問題にコミットしない。ここはすごく大きな相違点だと思う。
 
もちろんこれは相違点を強く意識した着眼であって、相似点を強く意識するなら話は変わってくるだろう。そろそろ次の原稿に取り掛からなければならないので、今日のブログはここまでにさせてもらいます。
 
推しについての私の既刊はこちらです→「推し」で心はみたされる?~21世紀の心理的充足のトレンド
 
 

『ないものとされた世代のわたしたち』が出版されます

 

題 名:『ないものとされた世代のわたしたち』
発 売:2024年10月4日
社 名:イースト・プレス
リンク:https://amzn.asia/d/gtdLcAr

 
このたび、イーストプレスさんから『ないものとされた世代のわたしたち』という書籍を出していただくことになりましたのでお知らせします。
 
本のカバーに描かれた青々とした氷河とクレバス、タイトルから就職氷河期世代が連想されるでしょうし、実際、この本の第二章はバブル崩壊~リーマンショックの時代が中心に記されています。著者である私が当該世代で、この本が過去の思い出話から成っているので、特に就職氷河期世代に訴えたい……というのが版元さんの狙いなのかもしれません。
 
が、就職氷河期に限らず、この本は私の思い出話からなっています。50歳を前にして半生を思い出話にするってのは恥ずかしいものですが、イーストプレスの編集さんから「書いてみましょうよ」と誘われて書いてみました。思い出話は、以下のように年代別・テーマ別に語られています。
 
 
第1章 途上国の面影のこる地方社会 1975年~
第2章 ないものとされた世代のわたしたち 1980年~
第3章 犯罪者予備軍と呼ばれたオタク 1990年~
第4章 診断され、支援され、囲われていく人々 2000年~
第5章 インターネットにみた夢と現実 2010年~
第6章 やってきたのは「意識低い」ポストモダンだった 2020年~
 
私にとって、この約半世紀は、途上国の面影の残る石川県の片田舎から始まり、思春期にはバブル景気の終わりから"失われた30年"への突入という時代のターニングポイントに遭遇しました。ユースカルチャーの領域では、オタクバッシングが盛んな時期からオタクの大衆化が起こっていった時期にあたり、精神医療の世界では精神分析をはじめとする"心"についてのナラティブの全盛期から退潮期を経験することになりました。インターネットに関しても、研究者やナードやギークやオタクのパジャマパーティーの場だったものが、誰もが利用するパブリックスペースに変貌しました。
 
それからポスト近代(ポストモダン)について。ポスト近代論なんて時代遅れじゃないか、とおっしゃる人もいるでしょうけど、私にとっては現役です。むしろニューアカなどが流行していた20世紀後半より、今のほうがずっとポスト近代みがあるのではないでしょうか。
 
それでも、東京の最も進歩的な圏域にはポスト近代はいまだ訪れていないか、"近代を徹底されたものとしてのポスト近代"が到来した、と体感されているかもしれません。でも地方、たとえば片田舎のロードサイドで、イオンモールなどが生活の生命線になっているような圏域ではどうでしょう? 第6章の"「意識低い」ポストモダン"には、東京からではなく片田舎からポスト近代について考えた、私の随想が綴られています。東京でポスト近代を研究している学者さんから見ればラクガキでしかないでしょうけど、でも、そういう学者さん、片田舎からポスト近代について考えてくれてる気配がないんですよね。そもそも、そういうフォーマルな学者さんは近代のディシプリンをしっかり身に付いておられて、近代をキチンと内面化した、その座標からポスト近代についてお考えになっていないでしょうか。私はそうではないので、そうではない私がグシャグシャとポスト近代について書き殴ったのが第6章で、これが本書をまとめるパートともなっています。
 
第1章から第5章については好きな順番から読んでもたぶん大丈夫ですが、第6章は全部読み終わってからお読みになったほうが良いと思います。私たちが生きた1970年代後半~2020年代までを思い起こす随想に、よろしければ付き合ってやってください。
 
 

2024年三部作の「過去」にあたる本

 
ところで、すでに私は2024年に2冊の本を出版していただいています。
 

 
それぞれの本は内容があまり重複しておらず、それぞれ、私にとって「未来」「現在」「過去」を記したものだと自認しています。つまり、『人間はどこまで家畜か』は未来についての本で、『「推し」で心はみたされる?』は現在についての本、そして今回の『ないものとされた世代のわたしたち』が過去についての本です。内容こそ大きく異なりますが、私のなかでは"2024年三部作"という兄弟みたいな出版企画で、これが全て出版にこぎ着けたことは私にとって大きな喜びです。熊代亨、2024年三部作の完成ってことになります*1
 
この、三部作の「過去」にあたる本を書いていて思ったのは、未来を予測することの難しさ、そして今がどのような時代なのかを現在進行形で把握することの難しさです。就職氷河期の時も、インターネットが普及しようとしている時も、その渦中にあって状況を正確に洞察できていた人はどれぐらいいたでしょうか。国際情勢についてもそうかもしれません。2020年代の国際情勢についての私たちの理解と、30年後から見た2020年代の国際情勢の理解は、きっと違ったものになっているでしょう。だから未来について考えるべきではない、とも言いませんし、IoT化や少子高齢化のように、大筋として当たった未来予測だってあります。ともあれ時は流れ、時代は巡り、私たちはいつも変化の渦中にあります。読者の方におかれては、そういうことにも思いを馳せていただけたらと思います。
 
 

*1:ついでに言えば、私にとって『人間はどこまで家畜か』は社会と生物の本で『「推し」で心はみたされる?』は心理の本で『ないものとされた世代のわたしたち』は追憶の本かもしれない