シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

40代は人生の物語をアップデートさせる季節

 
私のXのタイムラインでは、定期的に「40代になったら狂う」論が流行する。去年も流行ったし一昨年も流行った。今年も3月下旬ぐらいから活況を取り戻し、まるで花粉症のようだ。
 
そうした「40代になったら狂う論」のなかには、面白がるようなもの、蔑む調子のもの、心配がるもの等々が混在しているが、今回、良いことをおっしゃってるなぁと思ったのは、カエル先生さんがポストした以下のものだった。
 


 
カエル先生さんのポストには大事なことが幾つも書いてある。核心を箇条書きすると、
 
1.人間には物語が必要
2.40代でいろんな物語が終わる
3.物語をアップデートさせよう
 
以下の三つになるだろうか。
1.2.の必然性、および3.の必要性は、ライフコースの多様性が進んだとされる現代社会でも、たぶんあまり変わらない。なぜなら、人間は生物学的にも社会的にも加齢する存在で、40代にもなれば20代の頃と同じはもちろん、30代の頃と同じ境遇すら覚束なくなってくるからだ。そのうえで人が生きていくためには自分自身の物語が必要になるから、境遇の変化にあわせて自分の人生の物語をアップデートさせる、または、別の物語に乗り換えたりするニーズが浮かんでくる。
 
 

人間は物語をアップデートさせながら生きている

 
「人間には物語が必要だ」。
ここでいう物語という言葉は、役割という言葉であるていど代替できる。人間は、しばしば自分の役割を自分の物語として体感しながら生きていくからだ。役割が変われば物語も変わる。役割が変わっただけ、物語も変わっていくし、変わっていかないほうが不自然だ。
 
人生には役割が変わる時期がたくさんあり、就学期、就職直後、家庭を持ったり子どもをもうけたりする時期にも役割がいろいろと変わりがちだ。だからミッドライフライシスだけでなく、たとえばクオーターライフクライシスといった言葉もあったりする。
 

 
私は『クオーターライフ』という本があまり好きではないが、アラサーあたりの課題をこの本は正面きって取り扱っている。それより私はダニエル・レビンソンの『ライフサイクルの心理学』上下巻のほうが説得力があると感じている。
  
『ライフサイクルの心理学』の良いところは、E.エリクソンのよく知られたライフサイクル論に比べて青年期~壮年期にフォーカスしている点、悪いところも、青年期~壮年期にフォーカスしている点だ。著者のレビンソンは詳細な聞き取り研究をとおして、ミッドライフライシス以外にも人生の危機たりえる山場や移行期があるさまを詳述している。というよりいささか詳述しすぎているせいで、あたかも人生はいつでも山場や移行期であるかのような印象すら受け、結局どこを強調したいのかが捉えづらい感じにまとまっている。
 
とはいえ、レビンソンは就職して間もない頃の役割とある程度仕事に慣れてきて周囲が見渡せるようになってからの役割が異なっている様子、たとえばアラサー手前ぐらいになって周囲が見渡せるようになってからの時期が意外に手こずりやすいさまを巧みに表現している。
 
そしてエリクソンと同様、ある時期の役割変換や物語変換が停滞した場合、ただちに深刻な影響を来すことはなくても、未来の役割変換や物語変換の時期に影を落とすことがあり得るとも述べている。*1ここで挙げた例でいえば、アラサー手前ぐらいの時期の役割変換や物語変換を頬かむりして済ませることは不可能ではない。しかし、変換を避けたツケはなんらか40代以降に影を落とし、まさに「40歳狂う論」で言われるような著しい困難にまで発展するかもしれない。
 
ここまで物語と役割について書いてきたが、実際には、これらは自分自身のアイデンティティともかなり重なっている。仕事人間であること、家庭人間であること、趣味人間であること、親やパートナーであることは、どれも自分自身のアイデンティティの構成要素となる。それも、かなり重要な構成要素だろう。
 
 

いろいろな物語が終わりいろいろな物語が始まる

 
40代はこれらが大きく動揺する時期だ。仕事の曲がり角、家庭の曲がり角、趣味の曲がり角、親としての曲がり角を迎えればアイデンティティも動揺する。終わってしまう物語もあれば、始まってしまう物語もあるだろう。平均寿命が延長し、晩婚化が進んでいる昨今は、そうした曲がり角の季節が50代にずれ込む人もいるかもしれない。
 
今まで立身出世の物語や夢追い人の物語を追いかけていた人が、それらの継続不可能性をとうとう直視する時がやって来る。あるいは、子育てに自分の役割やアイデンティティを仮託していた人が、子どもが自立していくのともにそれらの継続不可能性に気付くことがある。そうやって閉じていく物語がある一方、親の介護のような、今まで眼中になかった物語が始まることもある。望ましかった物語が失われ、眼中になかった物語が始まっていく時、人は多かれ少なかれ動揺し、新しい物語への適応に四苦八苦する。
 
更年期をはじめとする身体的変化が、それまでの物語を時代遅れにしてしまう一面もある。思春期から引きずっていたた若い自己イメージが身体的変化によって崩れてくると、「若くて元気な自己イメージ」を前提としてきた物語は閉じなければならなくなる。自分はもう若くないと感じた人は、自分自身の物語を「若者の物語」から「若くない者の物語」に改変しなければならない。役割やアイデンティティも同様だ。若くなくなったにもかかわらず若者の役割や若者のアイデンティティを貫こうとすれば、次第に難しくなり、やがて自己欺瞞を重ねなければならなくなる。社会からの風当たりも変わってくるだろう。「若者の物語」を引っ張って生き続ける難しさがだんだん露呈してくるのも40代あたりだ。通常、どんなに自己欺瞞のうまい人でも、身体の衰えやトラブルまでは隠しおおせきれない。
 
 

若者をやめて、中年としての自分にアップデートする(それか再起動させる)

 
こうした事態に対応するにはどうすればいいのか。
冒頭リンク先カエル先生は解決案のひとつとして「物語をあきらめ、ひたすら今ここを生きる」を挙げているが、直後に「だけど、そんなのは悟りを開いた達人にしかできないこと」と付け加えている。不可能と考えて差し支えないだろう。
 
もうひとつの方法として、物語のアウトソースを紹介している。宗教や共同体、ナショナリズムに物語を委ねてしまえばいい。今だったら、政治活動や推し活もこれに当てはまるかもしれない。
 
私個人は、人生の物語やアイデンティティの宛先を自分自身に向け過ぎるのもそれはそれで偏っていると思っていて、物語のアウトソース、ひいてはアイデンティティのアウトソースについて悪い風には言いたくない。しかし、ひとつの宛先に全面的にアウトソースしてしまうと、マインドコントロールされるリスクが非常に高くなると思われるので、あくまで副次的な手段に留めておくぐらいが安全だと思う。いまどきは、そこを鵜の目鷹の目で狙っている商売人や組織が少なくないと思ってかからなければならない。
 
さらにもうひとつの方法として「等身大の新しい物語を始める」とも記していらっしゃる。これが本命だろう。人間が、物語や役割を持たずには生きていけず、アイデンティティや自己イメージを形成せずに生きていけないとしたら、それらはみずから獲得していかなければならない。自分自身のうちにあった「若さを前提とした物語や役割」がじきに成立困難になるとわかったら、おそるおそるで構わないから、そうでない自分自身にも似合いそうな物語な役割を、ひいてはアイデンティティや自己イメージを模索していくのが安全策であるよう、私には思われる。それは仕事や子育てのウエイトの見直しだったり、若者に親和的な趣味への依存度を減らしシニアにも親和的な趣味への依存度を高めるといったかたちだったり、弱り始めた身体への顧慮、その身体にふさわしいライフスタイルや恰好の追求かもしれない。
 
そうした物語のアップデートのひとつひとつは、案外些細なものだ。髪型を変えるとか、通勤手段を変えるとか、その程度のものかもしれない。しかし、些細なことを五月雨式にアップデートさせていけば人生の物語も、五月雨式に若者のそれから中年のそれへと変わっていく。いきなり全面的に変えようとするより、そのほうが無難だし、そのほうが実践的だろう。歯磨き粉を歯周病対策のものに変えるとか、スマホのカバーを変えてみるとか、その程度の変更も積み重ねる値打ちはある。なぜなら、歯磨き粉やスマホのカバーも、自分自身の物語や役割、ひいてはアイデンティティや自己イメージのごく小さな構成要素のひとつだからだ。飲み屋を変えるとか、ジムに通い出すとか、アイデアは無数にある。それらも全部、自分自身を構成する、小さな素子のひとつとして機能する。
 
だから、物語やアイデンティティといった言葉が大げさだと思う人は、新しいことを初めてみたり、惰性で使い続けているものを現在の自分に馴染みやすいものにアップデートさせてみると良いと思う。身の回りの小さなアップデートが積み重なれば、勝手に自分の物語や役割やアイデンティティは僅かずつ変わるし、メインストーリーともいうべき根幹にあたる部分のアップデートもより易しく、より受容しやすいものになると思われるからだ。そうやって人生の物語をアップデートさせ続けている人なら、「40代狂う論」もそれほど恐れる必要はないはずだ。
 

※表紙を新しくした新しい版が近々発売されるみたいです。ちょっと古い部分もありますが、よろしかったらどうぞ。
 
 

*1:ただし、エリクソンが述べる発達課題の後回し問題は良くも悪くも精神分析的な色彩が強いのに対して、レビンソンが述べる停滞がもたらす問題はより即物的な印象を受ける。

患者満足度はあてにできるか?(いや、できないよね)


 
先日、開業医★チョココルネさんが、「ゆうメンタルクリニックでは患者満足度で医師をランク分けして良い医師が高待遇で確保される仕組みになっている」、とXでコメントされていた。それに対して、AMAPSYMEDさんが、「患者の主観的満足度でインセンティブを与えたら、短期的に患者を気持ち良くさせることに全振りしたモンスターが増殖するだけでは? それは医療か?」と問いかけているのを見かけた。
 
精神科の病院やクリニックをgoogle検索すると、ひどい評価がつけられていることがしばしばある。身体疾患を診る病院や総合病院、歯科クリニックなどにもひどい評価がつけられていることは珍しくない。ひょっとしたら、あれは病院にひどい評価をつけたい人の意見だけ拾っていて、すべての患者さんにアンケートをとれば違った結果が出てくるのかもしれない。現状、私が感じるのは「患者満足度的なものと、医療機関がマトモかどうかはイコールではない」「患者満足度が低いから駄目なドクターがやっている医療機関とは限らない」といったものだ。
 
患者満足度の高い医院やクリニックが良く、そうでない医院やクリニックが悪い……というのは確かに医療っぽくなくて、サービス業っぽさがある。逆に考えると、サービス業としてお客様が満足するサービスを提供する、という観点からみれば、「短期的に患者を気持ち良くさせることに全振りしたモンスター」こそが最も正当なサービス事業者なのであって、医師免許証などの資格を用いながらサービスを提供しているサービス事業者においては、それこそが正解なのだろう。
 
でもって、医師免許証などの資格を用いてサービスを提供しているサービス事業者は自由診療領域に存在する。ということは、「短期的に患者を気持ち良くさせることに全振りしたモンスター」は、おそらく実在していて、お客様から高い評価をいただき、ご愛顧いただいているはずだ。
 
だが、それは医療か?
そうじゃないよね、サービスだよね。
各領域で救命救急をやっている病院、緊急受け入れをしなければならない病院、治療ガイドラインなどを遵守しエビデンスに基づいた医療を推進する病院、等々は、患者満足度という評価尺度にどうしても馴染まない部分がある。精神科の場合、その極北とも言えるシチュエーションがある:病識の欠如した患者さんに非同意入院の決定を伝えなければならない状態や疾患が少なからず存在するため、そのような場合、患者満足度という評価尺度にそぐわない決定を下さなければならない場合もあり得る。
 
そうでなくても、多くの精神疾患において患者さんの喜ばないことを言ったりやったりしなければならない場面は多い。たとえばベンゾジアゼピン系抗不安薬/睡眠薬の取り扱いについて、精神科医は慎重を期したいが、患者さんはそう考えていないことはままある。身体疾患の場合も、そういうのは少なくないと思う。たとえば糖尿病や高血圧などの生活習慣病について患者さんが聞きたくもないことを説明し、やりたくもないライフスタイルを勧めるのは本当は大事なことだ。しかし、患者満足度という評価尺度、とりわけ短期的な顧客満足度といった評価尺度は、そのようにマトモに説明しマトモに勧めるマトモなドクターをきっと低く評価してしまう。
 
患者さんたちが、そういう"良薬は口に苦し"な助言をするドクターを高く評価し、患者満足度も高まる人々ばかりなら、医療的にマトモな言動のドクターの評価がうなぎのぼりで、イエスマンみたいなドクターの評価が地を這うはずだが、現実はそうではない。イエスマンになってくれなければgoogleマップに★1をつけちゃう患者さんが存在する以上、患者満足度の高低とマトモな医療機関か否かが等号で結べるとは考えないほうがいいだろう。そもそも、何が腕の良い医療で何がそうでない医療かを評価(推定)できる人間がいったいどこにどれだけいる? ほとんどどこにもいるまい。同業者の間でさえ、ドクターの腕の良し悪しや医療機関の評価は割れることがある。せいぜい可能なのは、同業者集団のなかで明らかに鼻つまみ者になるほど素行の悪いドクターや医療機関を、悪いものとみなす程度のことだ。同業でさえそうなのだから、患者さんサイドからドクターの良し悪し、医療機関の良し悪しについて考えることは著しく困難、というより不可能だと思う。
 
さて、そうなるとグルリと回って「患者満足度ぐらいしか、あてにできる指標はないじゃないか」となってしまう。医療上の妥当性や技量の高低を評価できるウルトラ患者さまもいらっしゃるかもしれないが、そうではないほとんどすべての患者さんは患者満足度以外にそのドクター、その医院やクリニックを云々する評価尺度が存在しない。本来なら「患者さん側からみて妥当な評価尺度など、一切存在しないのだ」と腹をくくるしかないのだろうけど、それができないのが人情ってものですよね。かくして、気休めにもならない患者満足度が、googleマップ上を独り歩きし、フェイクニュースのごとく患者さんたちを欺き始める。患者満足度を評価するのは患者さん自身であるから、この場合、欺いているのは患者さん自身(世間に存在する患者さんのまとまり)とも言える。
 
ポストモダンっぽい話になってきて少しだけワクワクしてきたが、今回はそこに深入りしない。
医療が典型的なサービス業とは言い切れず、(たとえば)エンターテインメント産業などに比べて腕の良し悪しと満足度が乖離しやすい領域である以上、患者満足度という評価尺度はあてにしすぎるべきではないだろう。もちろん、それが医療機関やドクターのサービス業的側面を反映している、とは言える。しかし、逆に言えばサービス業的側面に引っ張られ過ぎていること、医療としてのマトモさとは関係のないかたちで上げ下げでき得ることは、もっと知られていいんじゃないかなあと思うので、この文章の無料パートにはそういうことを書きました。
 
 
※以下の有料記事パートは、常連さんと共有したい文章しか書いてないので、通常、読まなくていいと思います。
 
 

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なぜ彼らは脱オタクファッションに失敗したのか in 2026

 
今は昔、「オタクはキモい」と名指しされていた時代があった。
 

※『脱オタクファッションガイド』より
 
1983年、ライターの中森明夫は「『おたく』の研究」のなかで、オタクという言葉と垢抜けない若者というイメージを結合させた。以来、20年以上にわたってオタクという言葉には垢抜けないイメージがついて回った。00年代のはじめ頃まで、オタクであること、オタクっぽいとみなされることは社会適応に差し障ることだった。オタクという言葉が徹底的に希釈され、ライト化された2020年代からずっと遠い昔話である。
 
その昔話の一幕として、「脱オタクファッション」というムーブメントがあったのをご存じだろうか。
 

 
90年代から00年代にかけて、アニメやゲームの裾野が次第に広がると同時に、オタクでも世間の冷たい目線にさらされたくない・オタク差別を回避したいと思う人が知恵を出し合うウェブサイトがつくられる時期があった。この頃の世間では、実際にアニメや漫画に凝っていなくても、とにかく見た目や言動が気持ち悪かったり垢抜けなかったりすれば「あいつはオタク」とレッテルを貼りつけられるほどオタクはスティグマ化していたし、逆にオタク的な振る舞いをしていれば良い風にはみられなかった。
 

※『脱オタクファッションガイド』より
 
たとえば今日の学生ではごくありふれている、キャラクターものの缶バッジなどをバッグにつけるのはオタク固有の行動とみなされ、冷たい目線にさらされるのが関の山だった。推し活が当たり前になった2026年から振り返ると、隔世の感がある。そうした状況のなかでアニメやゲームを愛好しつつ、オタク差別を回避するには工夫が、もっと言えば擬態が必要だった。
 
どうすれば「あいつはオタク」とレッテルを貼られなくなり、差別を回避できるのか?
 
清潔にする。
よれよれになった服を着ない。
生乾きの洗濯物のようなにおいを漂わせない。
背筋を伸ばして歩く。
etc……。
 
実際問題、これらは外見で減点を食らわないようにするうえで無視できない助言だった。当時、かなりの部数を売った『脱オタクファッションガイド』をはじめ、このムーブメントで発信者に回った人は多かれ少なかれその方法を書き記していたし、そうしたことに無頓着な人には有用なアドバイスだったに違いない。
 
だが、話はそれほど簡単ではなかった。たとえば『脱オタクファッションガイド』の助言どおりに身なりに気を遣い、イトーヨーカドーで母親が買ってきた服を卒業しても、それだけでは納得できない人がいた。もっと外見にお金を費やして、オシャレになりたいと願うけれども、藻掻けば藻掻くほど垢ぬけず、他人から良い風にみられないと嘆く人も少なくなかった。
 
そういう人は、どこがいけなかったのか?
今更だが、その答えを書いているっぽい本に出会ったのでそれをまとめてみる。
 
 

違和感はセンスのなさに直結する

 
答えを書いているっぽいのは、『STATUS AND CULTURE』という本だ。
 

 
著者のデーヴィッド・マークスは、ハーバード大学と慶応大学の修士課程を卒業し、『AMETORA──日本がアメリカンスタイルを救った物語』という本も書いている東京在住のアメリカ人だ。この『STATUS AND CULTURE』は、現代社会におけるステイタスとは何か、そのステイタスはどういう条件で獲得できたりできなかったりしたのかを細かく書いている本だ。関連して、クールであるとは何か、センスがあるとは何かについても書き記している。
 
著者は、ステイタスやクールさの成立背景のひとつとして、センスについて述べている。少し昔の欧米上位文化では、「センスとは哲学者のカントが述べた"美的判断力"に相当し、複雑な構成のクラシック音楽や現代アートなどを理解する能力、さらに庶民の愛好する"野蛮趣味"や"必要趣味"とは区別される"自由趣味"を楽しむ能力だ」とまとめることができた。しかし文化が細分化し、サブカルチャーにもさまざまなジャンルが生まれ、それぞれのジャンルの内側でもセンスが問われるいまどきの状況下では、その定義では実地のセンス競争について何も言えない。
 
そのうえ、サブカルチャーのうちに複数のジャンルができあがり、それぞれが違った美意識や習慣を持つようになると、ジャンルごとに身内びいきの感覚も生まれる。たとえば「自分のジャンルを共有する者は良いセンス」「共有していない者はナンセンス」といった感覚だ。
 

 ステイタスを評価する際は、センスは最初に赤の他人が"仲間"かどうか選別するという単純な作業を補助する。ピエール・ブルデューは、センスとは"マッチメイカー"であり、"互いによく調和し適合しているものや人間同士を組み合わせ、類似させる"力だと述べている。『ザ・シンプソンズ』の《ブッシュvsシンプソンズ》というエピソードで、ホーマー・シンプソンは隣に引っ越してきた愛国者のジョージ・H・ブッシュ元大統領と一戦を構え、そして同じ元大統領でもお互いフットボールとナチョスとビールが大好きだという縁でジェラルド・フォードと仲よくなる。共通の趣味があると、互いに"いいセンス"をしているという判断をうながし、社会的承認を付与する。
『STATUS AND CULTURE』P128より

 
共通の趣味は、センスの評価を、ひいてはステイタスの評価にも影響する。であれば、当時のオタクたちが周囲の一般人*1と同じようなアパレルで同じような衣服を購入し、似た格好をすることにもある程度の意義があったと言える。母親がイトーヨーカドーで買ってきた服、それも、ヨレヨレになった状態の服を着たままでは、マルイやパルコで買ってきた服を着ている(当時の)一般人の人々から"仲間"とみなされるのは難しい。しかし、同じアパレル、同じブランドの衣服を身に付ければ、自分たちは"仲間"であって"社会の異端者"ではありませんよとシグナルを送ることができる。
 
だから、服を買う・着るという行為を通じて非ーオタクに"仲間"であるとシグナリングするだけなら、実はそれほど難しくはない。ファッション雑誌を買うなり、繁華街を行き交う同世代をウォッチするなりして、とにかく非-オタクに近い恰好を記憶し、それを模倣すれば良い。
 
同書には以下のようなことも書いてある。
 

 ……普通のステイタスは一定の慣習に従わなければ得られない。それはつまり仲間たちの振る舞いを真似る一方で、低ステイタス集団や敵対者たちとは差異化を図るということだ。同時に、より高いステイタスを得るには属しているステイタス層との差別化を図り、上層の行動を真似る必要がある。結局のところ模倣と差異化(差別化)はライフスタイルの選択において補完的な磁石として作用し、上層と見なしている人々にわたしたちを近づけ、下層と見なしている人々からは遠ざけてくれる。この向きが正反対のふたつの力を背後で支えているのがステイタスだ。
『STATUS AND CULTURE』P88より

当時のオタク差別を回避したいだけなら、"仲間"たちの模倣をすれば事足りる。すなわちマルイやパルコで服を買って身に付ければいいだけである。もっとオシャレになりたければ、もっと"上層"とみなされている人々の模倣にとりかかる手もある。せいぜい脱オタクファッションを目指している程度の人間に必要なストラテジーは、模倣、模倣、模倣だ。オリジナリティなんてほとんど必要ない。
 
しかし、当時のオタクたちが『脱オタクファッションガイド』を購入し、助言どおりにアパレルで買い物をしただけでは浮いた感じになってしまうことが少なくなかった。当時しばしば揶揄された「服が歩いているような状態」とは、まさにそのような状態である。そうなってしまう理由も、『STATUS AND CULTURE』には書いてある。それはセンスを巡る問題だ。「センスが良い/悪い」といった印象は、整合性やまとまりによって大きく左右される。
 

ライフスタイルの選択においても調和、つまり目標とする感性との内的整合性を示さなければならない。衣料品から食料、自動車、そして住居や家具に至るまで、わたしたちは日々さまざまなカテゴリーの商品やスタイルや行動を選択している。それもそれぞれの選択が互いに「見合う」ものにしなければならない。そのためには物品と行動の適切な関係と関連性を知る必要があり、したがって調和そのものも深い造詣を反映している。わたしたちは専門的知識を組み合わせて調和したセンスを身につける──インテリアデザインの提案は家具店から、キッチンのしつらえ方は家電製品の広告から、スタイリングはファッション誌の記事からといった具合に。こうした商品の既存のグループ分けは<集合的配置>と呼ばれ、それぞれの嗜好世界には明確な集合的配置が複数存在する。

今まで着ていなかった服に袖を通すなら、その服と自分自身のライフスタイルとを調和させなければならない。その服装を着るだけでなく、その服装と組み合わせるにふさわしい諸条件が揃っていなければギクシャクしてしまう。ギクシャクすれば「服が歩いているような状態」は避けられない。一足飛びにハイブランドを身に付けようと無理をすればするほど調和の欠如が目立つことになり、それはセンスの欠如として浮かび上がる。
 
この考え方に基づくなら、当時、一部の人が主張していた「アパレル店員のコーディネートに任せれば良い」というアイデアもあまり良くなかったと思われる。たくさん服を売ることしか考えていない店員は、個々のアイテム間の調和は考えてくれても当人との調和については考えてくれない。「当人との調和が不可能と判断して服を売らないことにする」店員はきわめて良心的だと思うが、世の中、そんな店員ばかりでもあるまい。
 
 

彼らはどうすべきだったのか

 
では、どうすれば良かったのか。
センス競争の最前線に立ち、各ジャンルで最もクールな人間を目指すなら、ここでいうセンスや調和について考えるだけでは駄目だ。『STATUS AND CULTURE』によれば、自然に醸し出される独自性、出自とスタイルとの一致、等々が必要になるという。だが、脱オタクファッションを目指していた人々のゴールはセンス競争の最前線ではなかったはずだ。模倣戦略をベースにしつつ、当時の大多数の同世代に違和感を持たれないような状態になること、ひいては当時にあって差別語だったオタクという烙印を回避することでしかない。そのために必要なのは、服と自分自身のライフスタイルとの調和、もっと言えば服と自分自身のつじつま合わせだったはずだ。
 
具体的には、いきなり超ハイブランドの服を買いそろえようとしないこと。はじめはあまり高価でないブランド、それこそマルイやパルコで一番あか抜けないテナントの服などでも良かったのだろう。(当時の)無印良品やユニクロの品を混ぜるのも良かったかもしれない。それらは比較的無色透明でどんな人が着ても喧嘩しにくいし、いろいろな服との着合わせにも使えるし、しかも引き算ができる。
 
ここでいう引き算とは、服同士が自己主張してコンフリクトを起こすのを回避する、という意味に加えて服装による見た目をダウングレードさせ、服に追い付いていないであろう自分自身に近づける、といった意味を含む。脱オタクファッションをはじめたばかりの人、とりわけ時間やお金や注意力をほぼ全て自分の趣味に費やしてきた人は、その本来のライフスタイルと服のギャップをすぐには埋められないだろう。だったら変に恰好をつけようとするのでなく、むしろ身の丈にあったかたちで外見を改めたり服を選んだりすべきだった。そのほうが経済的な負担も少なくて済むし、高価なブランドを使って「自分はセンスの感覚が皆無の人間です」と自己主張する愚を避けることもできる。
 
ところが、当時、脱オタクファッションガイドですすめられていた品、あるいは脱オタクファッションについてしゃべっていたインターネット上で勧められていた品のなかには、そうした「ギャップをすぐには埋められない」人のための、移行段階についてのアドバイスがあまりなかった。
 

※『脱オタクファッションガイド』より
 
これも『脱オタクファッションガイド』からの抜粋だが、こういったスタイルの服装ではライフスタイルと服のギャップを埋めるためのストップギャップとしては、たぶん最適ではない。たとえば長らくオタクライフを続けてきた人がいくらか垢ぬけたい場合や、オタクライフを続ける自分自身とつじつま合わせを図りながら服装を変えたい場合、たとえばラルフローレンなどのほうが違和感が少なくて済んだのではないか。あと、一部のアイテムをあえて(当時の)ユニクロや無印良品にダウングレードする手もある。本来のライフスタイルと服とのギャップを小さくするために、そういったダウングレードを積極的に行ったほうが全体のまとまりが保ちやすくなり、違和感も小さくしやすくなる。
 
とはいえ、書籍版『脱オタクファッションガイド』が出たあたりから、(当時の)秋葉原を歩くオタクたちの服装がみるみる変わっていったのも事実だ。高価な衣服にこだわるあまり、「自分はセンスの感覚が皆無の人間です」と自己主張する結果に終わってしまう人々を後目に、大多数の人は背伸びし過ぎない程度に服装を変えていたようにも思う。その程度の変更では「垢ぬけた」とは言えなかったかもしれない。しかし、元々からの自分自身のライフスタイルとのつじつま合わせという観点でみれば、ナンセンスに陥らないための賢い選択だったと言えるし、元々からの趣味をやめてしまわないうえでも有利だっただろう。あまりにも垢ぬけようとすると、お金がかかるだけでなく、自分自身の服装とのつじつま合わせにかかる時間的・認知的コストは一気に膨らむ。そのように身のほどを弁えたアレンジメントで十分だったし、それが最適だったのだと思う。
 
 

「個性」なんて出せない、少なくともすぐには

 
ちなみに、背伸びし過ぎない服装、自分自身とのつじつま合わせを優先させた服装は、しばしば没個性的になりやすい。それを不満がる人も当時はいたものだが、でもそれって仕方なくない? と私は思う。なぜなら、実際問題、私たちは没個性でしかないからだ。クールなど夢のまた夢。ちょっと値の張る服に袖を通しただけで自分自身との辻褄合わせや調和に四苦八苦する私たちが個性を主張するなんて、おかしいだろう。それに、正真正銘のオタクの場合、自己主張なら自分の趣味生活の内側でいくらでもできるから服でわざわざする必要がない、という部分もある。『STATUS AND CULTURE』には、自己主張についてこんなことが書かれている。
 

近代は、個人差をよしとする貴族の特権を庶民に開放した。それでも個性的であることは依然としてステイタスの階層の上層にいる人々のほうが簡単だ。つまり社会から反発を買わずに個性を貫きたいのであれば、高いステイタスを確保すれば一番簡単だ。
『STATUS AND CULTURE』P149

 
加えて、同書の別のパートには以下のような箇条書きも見つかる。
 

・普通のステイタスを確保するには集団の慣習を模倣しなければならない。
・ステイタスの低下を防ぐには敵対集団の慣習を模倣回避しなければならない。
・より高いステイタスを得るにはステイタス価値の高い慣習を模倣しなければならない。
・最高位のステイタスを得るには個性的な行動で自分を際立たせる努力をしなければならない。
『STATUS AND CULTURE』P149

この二つの引用文から考えられるのは、独創性や個性といったものを服装をとおして誇示しやすいのは、すでに高ステイタスを手にしている人たちであって、まずは普通のステイタスを手に入れようとしている(はずの)脱オタクファッション者ではない。ファッションに限らず、右も左もわからず、ノウハウの蓄積もない状態で個性や独創を前に出しても失笑を買うだけである。第一、うまくいかない。守破離という言葉もあるが、オーソドックスから離れて独創をやろうと思ったら、あるいは"わざと崩したり力を抜いたりする"には、それ相応の蓄積が必要になる。
 
いっそ、クールになってしまえばいいのだろうか? トレンドのオピニオンリーダーとなってしまったら、個性的であること・独創的であることは、むしろ義務となる。それも、自然に・如才なくやってのけなければならない義務だ。そこまで到達した人は、なんでも着たいように着て、なんでも遊びたいように遊び、なんでも働きたいように働けばよい。のみならず、それらを義務として負うことにもなる。しかし、誰もがそうなれるわけではないし、ならなければならないわけでもない。とりわけ、自分の趣味分野に独創性や自己主張や自分らしさの座を保有しているオタクなら、外見の次元で独創性や自己主張や自分らしさを獲得する必要はない。もともと脱オタクファッションというムーブメントは、当時の大多数の”普通”や”無難”に溶け込むこと、ひいては擬態することが目的だったから、外見を個性的にする必要なんてなかった。
 
長くなってしまったのでもうやめるが、(外見という領域における)個性は、高級なブランド品を買いあさることで身に付くものではなく、自分自身と外見との整合性をすり合わせながら、自分なりにセンスの感覚を磨いていった先に(勝手に)見出されるものだったと思う。その手前の段階にあって脱オタクファッションなどと言っている人々に必要だったのは、模倣、模倣、模倣、それから自分自身と外見との辻褄合わせだった。このことは、00年代に限らず20年代においてもある程度は当てはまることだと思うから、ほとんどゼロから外見についてブラッシュアップしていきたい人は、模倣と辻褄合わせにリソースを突っ込んでください、と思う。
 
 

*1:一般人、という表記は、90~00年代において、オタクの間で用いられたスラング。非-オタクの人をそのように呼びならった。同じく、カタギという言葉もしばしば用いられた

好みじゃない、でも100点だ!──『パリに咲くエトワール』

 
自分の好みのストライクゾーンを外している作品でも、素晴らしいアニメは素晴らしいアニメですね。
 
 

 
週末、『パリに咲くエトワール』をほとんど嫌々、勉強しにいく気分で観に行った。
 
youtu.be
 
公式が配信している予告動画を見ただけだと、この作品はたいしたことがないようにみえる。だって、この動画を見ただけだと、昔のジブリか昔のハウス食品のアニメ*1を連想しちゃうでしょう? グラフィックや演出がどんなにバージョンアップしていても、これは not for me だ。それに、3月22日の段階でこの作品を賛美しているのは、修行僧みたいにアニメを見ている一部の愛好家さんが中心じゃないですかー。そう思っていたのだけど。
 
ところが、そんなの全部吹き飛んだ!
これは、すごいアニメですよ。
流行最先端の作風ではないかもしれないし、私の大好きな、ビームライフルやビームシールドが出てくるような作品とも違う。
でも、そうやって小理屈をこねたがる私のなかの天邪鬼を、『パリに咲くエトワール』ははじめの数分でねじ伏せ、沈黙させた。美しいグラフィック、音楽、キャラクター、そして固唾をのんで見守りたくなるストーリー。すべてが完璧だと思った。説得力もある。ただ優れているだけの作品でなく、人の心を鷲掴みにして持っていく膂力があると感じた。
 
 

『パリに咲くエトワール』は予告どおりで、予告を完全に上回っている

 
この作品を観に行くにあたって、当初、私が気にしていたのは「どう見せるのか」だった。
予告動画や公式ウェブサイトを確かめて、私は「この作品は昔のハウス食品みたいなタイプの」「パリで憧れを追いかけた少女たちの物語」だと想像した。実際、そのとおりの作品だったと言えなくもない。「フジコと千鶴という二人の女性が、パリで必死に夢を追いかける物語」というマニフェストに偽りはなかった。
 
そのうえで、そのマニフェストをどんな風に見せるのかがこの作品の楽しみどころだと思っていた。期待できるのは、パリを舞台としてキャラクターがグリグリとよく動くアニメ映像、だろうか。それだけでは熱心な愛好家が騒いでいる理由にあたらないと思ったが、それぐらいしか思いつかなかった。
 
ところが実物はそうじゃなかった!
 
『パリに咲くエトワール』は、予告動画どおりのアニメ作品……ではないっ!
 
いや、もちろん予告動画に出てくるシーンは存在するから、あれがフェイクってわけじゃない。
でも、この作品で本当に格好良い場面、心を打つ場面はあの予告動画とは別のところにある。でもって、そこで観ることのできる(アニメとしての)表現は、予告動画をはるかに上回っている。
 
この作品は、第一次世界大戦前のパリを舞台としているから、花の都としてのパリの風景、多くの人々の憧れの都だったパリの風景がこれでもかと登場する。主人公のフジコが絵画を志していることをいいことに、この時代の絵画に思いを馳せるシーンもバシバシ登場する。パリを舞台にした物語なのだから、そういった表現を用いるのはアリだし、実際、見栄えが良かった。その少なくない割合は、キャラクターをぐりぐりと動かすタイプのシーンではなく、一枚絵のシーンなのだけど、それらの使い方が抜群に巧い。日本のアニメには、もともと紙芝居みたいな一面もあったと思うのだけど、この作品は、花の都パリの紙芝居をやるのが抜群にうまかったし、それは最新型の紙芝居だった。印象的な一枚絵をさしはさむタイミング、入れ替えるタイミングもバッチリ最高だ。そういう細部に神が宿っている。
 
それから音響。
この作品は、できれば映画館で観るか、優れた音響環境を準備して観たほうがいいと思う。これも抜群だった。ピアノやヴァイオリンの音も、ノートルダムの鐘の音をはじめとするパリの街の音も、実に気持ち良かった。長刀がぶつかり合う音が素晴らしいのは言うまでもない。長刀はこの作品に欠かせないアイテムなのだけど、その長刀に神を宿らせていたのは音響の力かもしれない。
 
エンディングテーマも良かった。一枚絵(厳密にはそうではないが……)とスタッフロールとエンディングテーマの組み合わせはとても似つかわしいもので、余韻を楽しむのに最適だった。途中から夢中になっていたからかもしれないが、私はエンディングテーマが流れている間もずっとテンションが高いままだった。
 
ストーリーも良かったですよ! 一人で映画館に来ている中年男性である私が、うら若い女子二人の行く末にドキドキハラハラしてしまった。フジコはどうなるのか? 千鶴はどうなるのか? そういうことをついつい考えさせてしまう物語の渦に引き込まれた。視聴後に考えてみると、この時代のパリならではの諸問題──東洋人差別とか、第一次世界大戦が迫っているとか───が抜群のスパイスになっていたと思う。といえ、せっかくのスパイスも使い方がまずければメインストーリーに差し障ることだってある。でも、この作品に関してはそんな心配は要らない。東洋人差別や第一次世界大戦直前のパリといった香辛料やら苦み調味料やらを、本作品はたぐいまれな進行で味方につける。フジコと千鶴は大正時代の日本女性でもあるから、当時の日本社会にありがちな問題も登場する。これも、ストーリーを野暮ったくするのでなく、ピカピカに磨き上げる一部になっていた。榊原良子が演じている千鶴の母には迫力があった。そういった声優さん達の演技もこの作品に神を宿らせる一助になっているのだろう。
 
そうした全部が重なり合った結果として、『パリに咲くエトワール』は「パリで憧れを追いかけた少女たちの物語」という一言には到底まとめきれない、もっと分厚いインパクトを力いっぱいぶつけてくる作品として爆誕している。サブキャラクターたちの挙動、サブキャラクターたちの小さなストーリーも、そうしたメインストーリーに貢献しつつ、メインストーリーだけではおさまりきらない分厚さを構成しているようにみえた。こういったすべてに神が宿り、こういったすべてが絡み合って、信じられないほど説得力のあるアニメ作品を観た! という感想と感動が残った。これだけ見事なアニメ……というより、完璧なアニメを観たのはいったいいつ以来だろう? ひょっとしたら『天空の城ラピュタ』以来ではないか? それぐらい、すごいものを観たと思う。
 
確かにこの作品は、昔のジブリアニメのようでもあり、昔のハウス食品のアニメのようでもある。それらをいかに現代風にブラッシュアップして描くのか、という点では「どう見せるのか」の次元で素晴らしい作品だった。でも、ここまで分厚くて総合的な作品、そして野心的な作品だと、むしろ、そういう範疇的なテーマを隠れ蓑や言い訳として「何を見せるのか」の次元でも力いっぱい殴りかかってくる作品、と言ったほうが似合いだろう。この作品は、アニメという枠組みのなかで何が表現できるのかに関して果敢にチャレンジしている作品でもあると思う。一見、クラシックそうな見かけに反して、アニメとしてかなりアバンギャルドなことをやっているんじゃないだろうか?
 
この作品はカビの生えた古典じゃない。『パリに咲くエトワール』じたいが、フジコや千鶴のように憧れを追いかけている作品だと、私は思いましたよ!
 
  

好みじゃなくても100点以外、つけようがない

 
私はアニメファンとしてはグルメではなく偏食家なので、正直、『パリに咲くエトワール』のような作品は得意じゃない。でも、ここまで素晴らしいものを見せられて、この作品を低く評価するだなんて、とてもできない。「パリで憧れを追いかけた少女たちの物語」という陳腐にも響くテーマにもかかわらず、この作品はけっこう新しい表現を追いかけている。と同時に、新しい表現を追いかけていることにスポイルされるでもなく、抜群の説得力とまとまりを保ったままエンディングまで走り切ったこの作品に、どうして賛美以外の言葉が見つかるだろう?
 
いや? しいて欠点を挙げるとしたら、この作品の優れているさまを広報するのは簡単じゃない、それが欠点といえば欠点かもしれない。
奇しくもフジコが作中で言っていたように、今の時代は広報が死命を制するところがある。ところが前半に書いたとおり、予告動画を観ただけでは『パリに咲くエトワール』の凄さや面白さはほとんどわからない。視聴前の私のように、not for me と思ってかかってしまう人は、決して少なくなかっただろう。でも、この作品の細部に神が宿っているところをショート動画で提示するのは簡単なことじゃないないですよね。誰かが言った「いいものなら売れるなどというナイーヴな考え方は捨てろ」という台詞が脳裏をよぎる。セールスの面で、ショート動画映えする作品の後塵を拝してしまうのは仕方のないことかもしれない。
 
でも、良いアニメが観たいだけの人にとって、セールスの大小はたいした問題ではないはず。映画館はガラガラで、じきに上映も終わってしまいそうなので、気になっている人、よくできたアニメを観たい人はお早めにどうぞ。
 
 

*1:『小公女セーラ』や『小公子セディ』あたり

2006年の『涼宮ハルヒの憂鬱』、2026年の『超かぐや姫!』

 

 
今期のアニメは豊作ですね。『呪術廻戦』や『葬送のフリーレン』だけ抑えておこうとか思っていたら、『Fate/strange Fake』もけっこういい感じだ。中年男性のサガとして、つい、『MFゴースト』も覗いてしまう*1。そうしたうえで、年度末に気になるアニメ映画作品が立て続けにリリースされるのは時間的にも身体的にもつらい。うれしい悲鳴とか言ってる場合じゃないんですけど。
 
で、やっとの思いで『超かぐや姫!』を見た。良かった。SNSを眺めると、ある程度ネタバレを憚る雰囲気が漂っているので、私もそういう雰囲気のまま感想を残しておきたい。
 
 

ピカピカに磨き上げられた、秀逸なアニメ

 
この作品を視聴している間、ずっと感じていたのは「とにかくきれい」「とにかくハイレベル」だった。今期のアニメは全体的にハイレベルで、日本のアニメってすげえ進歩したなと驚いてばかりだが、『超かぐや姫!』も例外ではなく、キャラクターの絵、キャラクターの動き、背景、どれも素晴らしい塩梅だった。
 
ここでいう素晴らしい塩梅には、「適度にデフォルメすべき箇所でデフォルメする」を含む。省略すること・記号的表現にとどめること・観ても観なくても構わない情報の提示を短時間で済ませてしまうこと、等々についても気が利いていた。「いまどきの一流アニメとは、そういうものだ」と言われたらそのとおりだと思うが、実際、そのような作品として『超かぐや姫』はあった。そのうえ十分にきれいで、十分にかわいくて、十分に動いて、十分に楽しかった。個人的には、中盤でジェノベーゼのパスタを作るシーンがお気に入りだ。グシャグシャっとした表現に見とれてしまった。
 
それから物語の進行。視聴者の期待を裏切らない。それでいて意表も突いてくる。その匙加減が絶妙だった。全体を振り返ると、前半のスピードはややゆっくりだったかもしれない。とはいえ、それは後半を観た後に思うことでしかなく、モタモタしているとは感じなかった。後半、物語が加速していくことを踏まえるなら、ペース配分としては良かったんじゃないだろうか。そういうところまで気配りされているおかげで、ストレスを感じることなく物語を楽しむことができた。絵面だけピカピカしている作品でなく、物語進行もピカピカしている作品だと私は言ってしまいたい。
 
 

『涼宮ハルヒの憂鬱』から20年、『電脳コイル』から19年、『ソードアート・オンライン』から14年……

 
この、2026年にふさわしい作品を眺めながら私の胸に去来したのは、「『涼宮ハルヒの憂鬱』から20年で、ここまで来たんだなぁ」……だった。
 
『超かぐや姫!』のご先祖様がアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』だけだと言いたいわけではない。この作品は、きっとたくさんの先行作品にインスパイアされているのだろう。たとえば一番古いアニメ『攻殻機動隊』から約30年、『電脳コイル』から約19年、アニメ版『ソードアート・オンライン』から約14年、といった具合だ。とはいえ、歌ったり踊ったりするキャラクターたちを眺めて、こういうのって『涼宮ハルヒの憂鬱』でブレイクし、それから『けいおん!』などを経由して人口に膾炙していったんだなーと私は思い出した。
 

 
今となっては様式にさえなっている、歌って踊って、ときにはバトルまでこなしてしまう一連のアニメ作品たち。その重要なターニングポイントとして、2006年にアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』とそれが起こした旋風を無視することはできない。『ハレ晴レユカイ』や『God knows…』は、『葬送のフリーレン』風に言えば一種の"ゾルトラーク"だったのだと思う。いわゆる深夜アニメ的な作品が一般に受け入れられていく過程で果たした役割は、とてつもなく大きい。
 
それから20年ぐらいしか経たないうちに、『超かぐや姫!』のような作品ができあがった! 人類すげえ! アニメすげえ! 私は作品の素晴らしさに感動するだけでなく、アニメ全般の足早な進歩、その受容の裾野の広さにクラクラしてしまった。こんなにピカピカしていて裾野も広そうな作品が、こんなに堂々と公開される時代だなんて! ところが今期のアニメで秀逸なのは『超かぐや姫!』だけではない。「いまどきの一流アニメ」に相当する作品が他にも公開されている。
 
すげえな、なんだか夢みたいだ。
しっかり観て、目のこやしにしておきたい、と思う。そのうえで、『涼宮ハルヒの憂鬱』をはじめ、今日の状況をつくるまでに登場した色々な作品を思い出しておきたい。『超かぐや姫!』も、そうやって思い出される作品のひとつになるのかもしれない。
 
 

*1:エンジェルスの出番がもう少し少なければ、もっと一般的にいいアニメだと思う