シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

古典や文豪を知らなければ「日本が好き」と言っちゃいけないの?

 


 
Xというプラットフォームは、何かしら意見が衝突するようにできているのかもしれない。それが反目を生むのか議論を生むのか、社会の一隅を照らす窓となるのかは、さまざまだろう。

今朝、私は上掲のようなポストをXで見かけて「なんだこれは?」と思った。 だからブログで問うてみたい。
 
古典の作品や文豪の作品に日本らしさ・日本ならではの良さがあるのは私も理解しているつもりだ。私は勉強不足なので古事記や日本書紀についてあまり知らないし、伊勢物語も読んでない。しかし源氏物語については部分的に読んだ記憶があるし、なにより、漫画『あさきゆめみし』や大河ドラマ『光る君へ』などとおして楽しんだ記憶もある。
 

 
文豪も、正直私はあまりよく読めていない。それでも、夏目漱石や太宰治や芥川龍之介などは私の胸を深くえぐった。それらも日本人の手による日本ならではの作品で、外国の作品では摂取できないエッセンスを宿していると思う。
 
「日本が好き」と言う時、その日本の文化や風習と深く関わる日本にしかないものが連想されること、それ自体はとても自然なことだ。上掲のポスト主の方にとって、古事記や日本書紀や源氏物語や伊勢物語、ひいては日本を代表する文豪たちの小説を挙げるのが自然なのも不思議ではない。実際、それらの作品をとおして日本を知る・日本を味わう・日本が好きだと感じる人は他にも結構いらっしゃるに違いない。
 
 

でも、「古典や文豪を知らなければ何が好きなのかな」っておかしくないか??

 
でも、だからといって古典や文豪を知らなければ日本が好きって言っちゃいけないってことはないですよね?
 
上掲のXのポストは、婉曲な言い回しで「古典や文豪を知らなければ日本好きにあらず」と言っているようにも私には読めた。少なくとも、ポスト主の方にとって、古典や文豪を知らない日本ラバーの存在とは、少し考えにくいものであるようだ。それは不幸な認識だと思う。この世には、古典や文豪をたいして知らない日本ラバーが、古典や文豪をよく知る日本ラバーよりもずっと多い。その存在に気付かないのは、とりわけ、出版社で働いているとされるポスト主の方にとって、きっと良くないことだと思うから私は伝えなければならないと思った。
 
だいたいから言って、私も古典や文豪をよく知らない日本ラバーの一人である。ちゃんと源氏物語を通読したわけじゃないし、夏目漱石だって全部読んだわけじゃない。古典や文豪を知らなければ日本が好きと言ってはいけないのだとしたら、私も日本が好きと言えない、欠格者ということになろう。
 
でもって、この考え方を突き詰めた先にあるのは、「専門家に準じるレベルで日本古典や日本文学を読んでいなければ日本が好きとは言えない」だろう。ここまでくると、明らかにおかしい。大昔に言われた「SF1000冊読んでなければSFファンにあらず」も十分におかしかったが、この場合は「しっかり日本古典や日本文学を読んでいなければ日本が好きにあらず」となってしまうから、「SF1000冊~」より一層おかしいと言える。
 
「別に古典や文豪を読んでいなくったって日本が好きでいいじゃないか!」と私はディスプレイの前で叫んでしまった。どうして伊勢物語や森鴎外を読んでいなければ日本が好きと言えないのか。そんなのは絶対におかしい。
 
私は、古典や文豪の場所に、『葬送のフリーレン』や『呪術廻戦』や『初音ミク』が入っていたってまったく構わないように思う。それらは現時点ではサブカルチャーとみなされている作品やキャラクターだが、それらには日本で生まれた、日本にしかない良さが充溢している。幾星霜ののち、そうしたサブカルチャーの作品の一部は古典とみなされるかもしれない。いや、そんなことはどうでも良い。私の心が叫びたがっているのは、日本で生まれた日本にしかない良さが充溢している限りにおいて、古典や文豪を愛する人の「日本が好き」という気持ちと、現代の作品やキャラクターを愛する人の「日本が好き」という気持ちはそんなに変わらないんじゃないか、ということだ。
 
もう少し補足すると、別に、いかにも文化的な作品やキャラクターでなくても構わない、とも思う。
日本の食事や食習慣が好き、もっと具体的には煎餅や寿司や(日本風)カレーライスが好きって気持ちが「日本が好き」と繋がっているのはぜんぜん不思議じゃない。今となっては、サイゼリヤが好きとか日高屋が好きだって構わないだろう。日本の競馬が好きな人、日本のプロ野球が好きな人もあるかもしれない。
 
私は日本の海も好きだ。マリアナや東南アジアの海、地中海ももちろんいいが、それでも一番好きなのは日本の海、特に日本海側の海だ。これだって私のなかにある「日本が好き」であり、古典や文豪とは違った背景に基づく「日本が好き」だと思う。同じように、静岡や山梨に住む人なら富士山のある景色が「日本が好き」と繋がっていることだってあるだろう。
 
「日本が好き」は「地元が好き」とも無関係ではない。日本、という言葉を狭義のナショナリズムに限定するなら、「日本が好き」とは近代的かつ観念的な代物となり、それは「地元が好き」とも、ひょっとしたら「初音ミクやサイゼリヤが好き」とも乖離するかもしれない。が、げんに日本が好きとなんとなく思っている大半の人は、そんな厳格なナショナリズムに基づいているわけではなく、もっと曖昧に、もっと広く「日本が好き」とイメージしているだろう。そういうものだと思うし、それで構わないとも思う。
 
せっかくなので付け加えると、「日本が好き」という気持ちを厳格なナショナリズムに基づいて考えすぎるのも、本当はもっと広く存在する「日本が好き」という気持ちを認めなかったり見て見ぬふりをするのも、なんか違うと思う。
 
だから、古典や文豪を知らなければ「日本が好き」と言っちゃいけないかのようなポストには、私はつい反応せずにいられない。日本が好きである条件が厳しく制限されてしまった気になってしまうからだ。そして古典や文豪は初音ミクやサイゼリヤや日高屋に比べて敷居が高いから、言い方次第では、ある種の選民主義にも聞こえかねない。冒頭リンク先のポストにはそういう性格は無さそうだけど、こういうのは言い方次第で、「勉強ができる人でなければ『日本が好き』を言っちゃいけないような雰囲気」に作り替えられるかもしれない。
 
 

「日本を論じる」だけでなく、「日本が好き」すら勉強ができる人のものだとしたら

 
こうして私が「日本が好き」についてブログに書いてしまっている背景には、2026年2月8日に行われた衆議院議員選挙と、それに至るまでの選挙期間中に見聞した、やたらと選民主義的な言葉たちがあったと、私は自己分析する。
 
選挙期間中、日本の将来について自分たちはちゃんと考えているが、ろくに考えていない人間がたくさんいることを憂いている言葉がたくさん飛び交っていた。自分たちには熟慮があり、そうでない有権者には浅慮しかないと言ってはばからない人を何度も見かけた。選挙が終わってからもそうだ。有権者について、選民主義的なことを言う人は後を絶たない。息を吐くように、物凄く失礼なことを平気で口にしている「日本を一生懸命に論じている」人の発言を見るたび、私はひどいなぁと思った。
 
いつも政治について考えている人、"わかっている"人でなければ日本を論じるには値しない・日本について何も考えてもいない、とみなすようなポストをX等では頻繁に目にした。職場やインターネット上では政治に対して無言の人々のなかにも、日本のことを考えている人、考えたうえで投票所に足を運んでいる人だってたくさんいるに決まっている。だのに、どうしてそんなことが言えてしまうのだろうか? そんなひどいことを当たり前のようにメンションする支持者が溜まっている政党は、選挙では苦戦するだろうと思う。そのような排他的で選民的なメンションは、幅広い支持を獲得するうえで、足手まといになるだろうからだ。
 
それでもまだ、選挙にある種の選民主義が顔を覗かせるのはまだわかる*1。だが「日本が好き」にまである種の選民主義がしみ込んでくるとなったら、これは、一層あってはならないことのように思う。日本を好きな理由なんて、なんだっていいじゃないか。どんな人がどんな理由で日本が好きになったっていいじゃないか。ついでに言うと、どんな人がどんな理由で日本が嫌いになっても、それはそれで構わないと思う。そういう、好き嫌いの次元にまで、条件とか、資格とか、正当性とか、そういう話が紛れ込んでくるのは息苦しい。私はとうてい、そういうの好きになれない。
 
そして「○○を愛好していなければ日本が好きとは言えない」的な考えの地平線の向こうには、「日本人はすべからく○○を好きにならなければならない」が待っているかもしれない。
 
いや、これは少し考えすぎか。
 
とにかく私が言いたいのは、「日本が好き」ぐらい好きにさせてくれよってことだ。高邁な日本が好きもあれば低俗な日本が好きもあるでしょう。でも、それでいいじゃないですか。選挙前後の毒気にあてられて、つい、書いてしまいました。「日本を論じる」ばかりか「日本が好き」までもが一部の人々の専有物や特権であるかのように思われたらたまったものじゃないので、このように私は過敏に反応してしまいました。
 
 

*1:この文章を全部書き終わってから読み直して、いや、わかっちゃいけない気がしてきた

ハサウェイは何と戦っている?──『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケ―の魔女』(ネタバレ有)

 
※この文章は、途中から機動戦士ガンダム閃光のハサウェイキルケ―の魔女のネタバレに変わります。ネタバレしたくない人は、途中で警告しますので引き返してください
 
 

 
 
『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケ―の魔女』を観てきました。
 
前日譚にあたる『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』や原作小説から継承した諸々を踏まえつつ、2020年代のガンダムのひとつとして何かを表現している・描いていると伝わってくるガンダムだった。もちろん、こうした野心的なトライアルに賛否が生じるのは避けられない。さまざまな世代のさまざまなガンダムファン、ひいてはアニメファンがいるなかで、すべての視聴者が満足し、納得するガンダムをつくることなどできない。そのうえで、どんなガンダムを表現するのかが作り手に課された課題であり、どんなガンダムができあがったのかを確認するのがファンの楽しみだと思うので、さっそく私は映画館に向かい、堪能した。
 
 
とても良いガンダムだと思う。
こういう味のするガンダムかー、とか思った。
 
 

ネタバレなしエリア

 
今回私が出かけたのは公開から最初の土曜日、地方都市の一般的な映画館だった。お客さんの入りはまずまずで、男女比は極端に男性に寄っていた。アニメを映画館に観に行って、ここまで会場内が男性ばかりだったのは久しぶりだったので、ちょっと驚いた。ガンダムというIPがけっこう広いファン層に広がっているといえども、『閃光のハサウェイ』は男性の割合が圧倒的多数なのだと知った。
 
話が始まる前に、ごく簡単に前回のあらすじが示される。これはありがたかった。前作を観ていない人へのささやかな配慮のように見えるが、実際には、前作を観た人でも復習しておくに値する内容だったと思う。作品世界に飛び込むスターターとして良い配慮だった。
 
今回の話も、日本よりずっと南の、熱帯~亜熱帯のエリアから始まる。あいかわらずリゾートめいていて、しかし、そのリゾートの成り立ちについての描写は手厳しい。昼と夜のコントラスト、静と動のコントラストの見事さも前回同様だ。見せたいものを見せつつ、見せる必要のないものを見せない気遣いが随所に利いていて、それは、きっと制作サイドの意図に沿ったものだろうから、私は作品に心を預けてゆったりと視聴することができた。「これは書きそびれじゃないか?」とか「これは手抜かりの一種じゃないか?」とか疑心暗鬼にならずに済むのはありがたいことだ。いやいや、今日のよくできたアニメとは、皆、そういうものかもしれないが。
 
それにしても景色の美しい作品である。これも、今日のよくできたアニメとは、皆、そういうものかもしれないが、南方の海岸線に打ち寄せる波、輝く太陽、水中、それらひとつひとつが私を出迎えてくれた。スペースコロニーの何気ない描写にしてもそうだ。と同時に、たとえば登場する猫の一匹は非常に簡単に描かれていたが、これもかえって良かった。あの猫は、あのぐらいがちょうど良いのだと思う。なんでもかんでも偏執的に描けばいいってもんじゃない。本作に登場するさまざまな描写のうち、相対的に簡素に記されているパートは、そのようなものとして視聴すべきものとみなし、そのようなものとして視聴した。
 
人間模様について。
好ましいと思う。別に、アニメという媒体でこれをやらなくてもいいじゃーんと思う瞬間もあったが、後から思い出すと、それもガンダムでこそ描かれて欲しい部分を補強する材料になっていて、ここでも無駄のない表現を観た気がした。人間の業、人間の限界、ニュータイプという概念、そしてハサウェイ自身の問題。そうした諸々を映し出す万華鏡のように、本作品はさまざまな人間とその営みを描き出している。ひとつひとつの場面描写が、本作品の、というより『閃光のハサウェイ』シリーズ全体の通奏低音と推定されるものとよく結合していて、いちいち見ごたえがあった。
 
前作でいえば、ハサウェイとしゃべったタクシーの運転手の歯が抜けていたり、タクシーのインテリアがああだった必然性と同様に、今作におけるさまざまな描写に登場するさまざまな人間のアクションのいちいちが作品の趣旨に沿っているよう思われた。単なる作り込みの問題だけで実現できるとは思えない。制作陣内部において、首尾一貫性を保てるような意思疎通の努力があったのかなぁ……などと想像したりもした。
 
ガンプラは売れるだろうか?
ガンダムという作品が背負うもうひとつのミッション、「ガンプラを売る」ことについては、前作よりは前向きかもしれない。それだけに、ややガンダム歌舞伎している部分もあったかもしれない。しかし、全体としては戦場が暗く、爆発や斬り合いも短時間なので、昔のガンダムほどガンダム歌舞伎している雰囲気ではない。「ダサくて古めかしいガンダム歌舞伎に堕することなくいかにガンプラを売るか」という命題に対し、前作よりも意識的に取り組んでいると思えるふしはあったと思う。
 
ネタバレなしパートはここまで。
前作の雰囲気が好ましく思えた人には文句なしにおすすめできる作品だ。特に昔ながらのガンダムっぽさの苦手な人には『機動戦士ガンダムジークアクス』よりずっと勧めやすい作品だと思う。なにより、これは宇宙世紀モノのガンダムでありながらもはっきりと新機軸なガンダムであって、ガンダムという看板を背負いながら独自の表現をやろうと努力しているガンダムのひとつと思われるので、そういうものとして観るなら抜群だと思う。前作から筋のブレていない作品なので、次回(最終回?)も楽しみだ。ハサウェイは、過去とどう向き合っていくのだろうか?
 
 
【ネタバレなしパートはここまでです。以下、ネタバレパートになりますので、読みたくない人は引き返してください!】
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ネタバレありパート(嫌ならすぐに引き返して!)

 
 
さあ、ここからはネタバレありで、私が思ったことを思ったとおりに書く。
 
本作は、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の時代にハサウェイがやってしまったこと・経験してしまったことを引きずる物語としてつくられている。私は大昔に原作小説を読んだが、ここまで過去の記憶や執着にハサウェイが振り回されているとは感じなかった。もしかしたら、そのように描かれていたのかもしれないが、少なくとも当時の私の記憶には残らなかった。だから、本作のハサウェイの記憶や執着の問題は、2020年代の新しい劇場版ガンダムとしてつくられた、「この、『閃光のハサウェイ』」の趣向として私は受け取ることにした。前作もある程度までそのように受け取ったが、今作をとおして、それが確信に変わった。
 
「これは、ハサウェイの記憶や執着の物語であると同時に、ニュータイプの、人の革新の、人間社会の、物語なのかぁ、」と。
 
SNSにおいては、本作におけるハサウェイについて肉欲だ肉欲だと強調している人がいたが、そんなに肉欲しているかぁ? と私は疑問に思った。まあ、肉欲もあるっちゃあるだろう。でも、ハサウェイの苦悩はそれほど単純ではない。もし、本作品が肉欲にフォーカスしているなら、こんな作品として創らないという信頼が私にはある。仮にそう創るとしたら、ケリアとハサウェイの描写、ハサウェイがギギを思い出す描写は、もっと艶めかしく描かれただろう。ギギがプールで泳ぐシーンなどもだ。だけど本作はそのように描いていないので、そこまで肉欲にフォーカスしているわけではなく、彼はもっとブロードバンドに苦悩している。
 
作中で示されているように、ハサウェイの苦悩は動物としての人間の限界、肉体に縛られた者の限界としての懊悩でもある。同じテーマが、ギギとケネスとのやりとりのなかでも反芻される。ただしケネスは自らがオールドタイプだと言いながらも、そうした自分自身の性質に、ある種の折り合いや諦めをつけている。伯爵もそうかもしれない。彼らはオールドタイプでありつつ、オールドタイプであることを受け入れている。あるいは諦めている。
 
ところがハサウェイは自分自身のそうした動物的で肉体に縛られた者としての性質に本気で悩んでいる。そりゃあ薬も飲みたくなろう(しかし、そのような悩みに例えば抗うつ薬が奏功するだろうか?)。のみならず、ハサウェイは人間の世界がそうであることまで悩んでしまっている。そりゃあ世界を革新したくものなるよね! でも、その悩みはハサウェイ自身においては動物としての自分自身に対する反逆に、世界全体においてはテロリズムにならざるを得ない。なるほど、ハサウェイは、人間と人間世界における危険分子だ。ハサウェイにニュータイプの素養があるのは間違いない。だが、これではニュータイプのなりそこないではないか! そう言うのが言い過ぎだとしても、ハサウェイがみずからのニュータイプとしての素養や感性と、人間である自分自身や人間世界との折り合いをつけられないままでいるのは間違いない──少なくとも現時点ではそうだ。
 
宇宙世紀シリーズのガンダムにおいて、ニュータイプは、人類の革新などといわれながらも、人間世界のなかで自分自身をうまく位置付けることに失敗しがちで、たとえばアムロ・レイは軍隊の隅っこにいることぐらいしかできないし、カミーユ・ビダンは精神が壊れてしまった。シャア・アズナブルも、けっきょく政治家にはなりきれず、挙句の果てに小惑星アクシズを地球に落とそうとする暴挙の末、阻止された。ハサウェイも、そのような悩めるニュータイプの一人なのかもしれない。というかそうだろう。彼の悩みには、クェス・パラヤに端を発する過去の過ちの記憶が茨のように絡みついている。ハサウェイは、人間だったのだ。今でも人間である。
 
そうした、人間の人間ゆえの過ち、パプテマス・シロッコやザビーネ・シャルだったら顔を歪ませるような生の感情を出した過ちが、作中では無限に積み重ねられていく。復讐に塗り固められた戦場も、ケネスの女事情も、ケリアとハサウェイの間で起こっていることもそうだった。そうしたうえで、マフティ―組織内の人物描写は、特に今回、嫌味なほどフィジカルだった。肉体を忌み嫌っていても、肉体からは逃げられず、肉体によって生かされ助けられているさまが描かれていた。ブライト・ノアとミライ・ヤシマの現在もそうだろう。
 
もし、ニュータイプの極致が肉体に縛られていないことだとしたら──たぶんそうなのだが──本作で描かれている身体性は、たいへん嫌味である。ハサウェイは、肉体に包囲されている。それは肉欲という狭いものではない。もっと大きな、身体性に依った社会全体や世間全体のなかで、彼は独り相撲を続けているようなものだ。
 
そうした独り相撲のきわめつけが、終盤の、アムロとの邂逅である。実際、あれはアムロとの邂逅でもあるのかもしれないが、まずはハサウェイの独り相撲である。結局ハサウェイは、その独り相撲のなかでシャア・アズナブルのようなことを口走っている。ここから逆に、シャア・アズナブルという人物が社会全体のなかでどうだったのか、ニュータイプのなりそこないの先輩格としてどうだったのかを想像するのも楽しい。そのシャア・アズナブルがララァ・スンの件でハサウェイと同様に紐付けられていたのは、言うまでもないことだ。
 
宇宙世紀モノのガンダムシリーズにおけるニュータイプ概念のなかでは、「わかりあう」に比べて「肉体からの解放」が前に出てくる頻度は、やや低かったように思う。後者が出てくるのは、だいたい、死人の魂が化けて出るような場面(たとえば『Zガンダム』でカミーユが亡霊たちを引き連れてシロッコを倒す時のような)だ。しかし、確かに肉体からの解放もニュータイプ概念は含んでいたはずで、そこに重きを置いてぶちあげてきたのが、今回の『キルケ―の魔女』だった。そのうえで、肉体の束縛から人間の動物性へと矛先を変え、その問題や限界、それがために生じる執着にまでフォーカスするのは本作らしさだと思う。
 
してみれば、本作のハサウェイは人間の執着と戦っている聖者のようでもあり、アムロとの邂逅も、聖者が聖者になる前の苦悩のようだとも連想したくなる。いや、こういうことを連想するのは、けっきょく小説版の顛末が頭のどこかでちらついているからかもしれない。どだい無理なものと戦っているのがハサウェイである。彼は自分自身を救おうとしながら人類すべてを救おうとしている。まあ、ニュータイプが人類の革新であるとするなら、そんな無理だって乗り越えられるのやもしれない。しかし、その当のハサウェイは、こうも口を滑らせているのである──「だったら今すぐ、愚民に知恵を授けてみせろ」──と。それは死亡フラグではないか?
 
ハサウェイの苦悩は、ハサウェイ自身においては発狂の瀬戸際へと彼を追い詰める。でも、それだけでない。その苦悩が世界に向かって投影されれば、それは人間許すまじ、人間亡ぶべし、となりかねない。そして宇宙世紀ガンダムの世界には、そのようなヤバい人がしばしば登場している。
 
ハサウェイは、これからどうなってしまうのだろうか? 私のなかには、それを一種の悲劇として眺めたい気持ちに加えて、一種の喜劇として、いわば「『Fate/zero』の愉悦部として」眺めてみたい意地悪な気持ちも少しだけあったりする。なぜならハサウェイは執着を抱え、それに振り回されていて、自分の救済と人間全体の救済の区別が不明瞭だからである。そこは衛宮切嗣的だ。こういう人間が踊り狂う物語は、ギルガメッシュや言峰綺礼でなくても面白かろう。
 
そのうえ私はオールドタイプであり、動物であり、ハサウェイよりもケネスに近しさを感じる俗物である。前作でもうっすらと感じていた、ハサウェイに対するかすかな反発が、動物であり俗物でもある私のなかでくっきりと像を結んだのがこの『キルケ―の魔女』だった。ハサウェイは、テロリストである。それはマフティーだからというのでなく、人間の性質に対する反逆、オールドタイプの性質に対する反逆でもあるからだ。そのようなハサウェイのありように反発を感じる私のこの性質も、オールドタイプ的なものと言えるだろう。そうした諸々を踏まえるにつけても、本作は見ごたえのある作品だったし、続編は必ず観に行かなければならない。人の業をまるごと背負ってよろよろと歩くハサウェイの顛末を、見届けるのである。
 

2月1日追記:ツッコミたいがネタバレになる。映画の中の情報と真逆の事実誤認があるとだけ伝えておく。 - ahomakotom のブックマーク / はてなブックマーク なにか、大きい見間違いがあるらしい。それは有り得ると自分でも思う。忙しく視聴していたから。ただ、今の時点ではそれを確認できないし、指摘してもらうわけにもいかないので、各自補正してください。
 
 

小さな戦争準備

 
数年前に、ある人から防災グッズをプレゼントしていただき、我が家も防災について考えるようになった。
 

 
防災グッズといっても、このアイリスオーヤマのものほど完璧にパッケージされた品ではない。けれども、これに近いものがすぐ取り出せる体制にたどり着いた。防災グッズのプレゼントは効果てきめんだ! まだ持っていない人にはプレゼントのしがいがあるかもしれない。ただし、既に用意している人も多かろうから、贈る前に要確認だが。
 
災いが絶対にないと言い切れるなら、防災グッズなんて無用の長物だ。けれども巨大地震などでライフラインが不通になった時、それがあるのとないのでは生命や健康の維持可能性は大きく変わる。じきにライフラインが回復するとしても、回復するまでの何時間~何日間かを乗り切れる準備は、軽視できるものではない。
 
 

戦争に備える、とは

 
で、災害について考える延長線上として、戦争について考える頻度が2025年から私のなかでは増え続けている。
コロナ禍が起こるまでは、自分たちの生活空間が戦争と結びつくかもしれないと考える場面はほとんどなかったが、2025年以降、自分たちの生活空間に戦争の火の粉が飛んでくる可能性について考え始めるようになった。ただ断っておくが、これからの戦争はわかりやすく戦争の顔をしていないだろう。そもそもインターネット空間で今起こっていることなどは、後世から振り返って既に戦争の範疇に含まれるかもしれない。その場合、私たちは既に戦争の渦中にあって実は火の粉を浴びていることになる。
 
それ以上の事態、実際に武器が発砲される事態が生活空間に闖入し、日本人の生命や健康、財産などが脅かされる可能性も、少なくとも山や海で落雷で命を落とす可能性よりはあるような気がしてきた。
 
戦争が生活空間を侵すと言っても、ピンからキリまである。一番ひどいのは、熱核兵器で生きながら焼かれることだろう。衝撃波で死傷することだってある。冷戦を経て終末思想の流行した80~90年代に物心ついた者の一人として、私は全面核戦争が起こる可能性を否定できずにいる。そうでなくても、たまたま日本に飛んできた熱核兵器がたまたま自分の頭上で炸裂する可能性だってゼロじゃなかろう。
 
他方で私は、核抑止論ある程度あてにする人間でもあった。キューバ危機を切り抜けたソ連とアメリカのような国については、核抑止論はそれなり当てはまるだろうと期待していた。しかし、核抑止論は、核兵器がその管理と行使に関して冷静で合理的な意思と能力のもとに置かれ、衝動的にならない意思決定プロセスが機能している状態を前提としているだろうから、2026年において核抑止論は以前ほどあてにならないと疑っている。人類が死滅するほどの核戦争がいきなり起こる可能性は依然として低かろうが、まず、いつかどこかで「ちょっと」熱核兵器が炸裂してしまう可能性はあると疑ってしまう。その「ちょっと」が、自分の頭上だったらおしまいだ。市井の人間にはこれに備える方法はない。
 
通常兵器による被害も、市井の人間にはこれに備える方法はない。せいぜい疎開だろうか。しかし疎開が必要な局面とは、すでに色々と終わっている局面だし、そうは言っても関東平野に敵対勢力の大部隊が上陸してくるとか、日本のどこかに殺人ドローンが何百機も投入されるなんてことはさすがにあまり考えられない。
 
こういった、一番最悪な戦争被害については一番備えようがなく、そのかわり一番確率の低い被害でもあるだろう。地震や災害と同じく戦争も、一番ヘビーなやつが一番近いところで炸裂した場合には、どんな備えも通用しそうになく、容赦なく人は死ぬだろう。けれども、そこまでひどい貧乏くじを引く可能性もそこまで高くあるまい。(これは地域による差異を含んだ話で、たとえば一部の離島と東京を同列に論じることはできない部分はある)
 
それよりずっとあり得るのは、ライフラインやインフラが破壊されて生活に支障をきたすこと、手に入れるべきものがしばらく手に入らなくなることだ。サイバー攻撃の場合、社会の麻痺というかたちでそれが現れるかもしれない。
 
そうした水準の戦争被害に関しては、防災グッズならぬ戦争グッズが役に立つかもしれない。……というより、そのとき必要とされるものは災害グッズとある程度重複しているだろう。帰宅難民も戦争被害の一部として容易に想像される。そうやって考えた場合、人が撃たれるより前に、建物が破壊されるより前に、戦争が生活を脅かすカタチはいろいろ思いつく。
 
だから、災害に備えていれば、少なくともある程度までは戦争に備えることにもなる。最もあり得て、最も対処可能で、最も起こりそうな低脅威の戦争への対策はやっておいたほうがよかろうし、皆がそれを心がければ、いわば民間防衛に近い何かになるだろう。
 
この国での生活、この国での生存は、国土防衛とかそういう話の手前の段階として高度なインフラとサプライチェーンによって成り立っているのだから、そこが一時的に寸断される事態に備えることが、とりあえずの戦争準備として手堅い。しかも、この国は災害が多く地球温暖化の影響も深甚なので、よしんば平和裏にすべてが進んでも無用の長物として腐りにくい。日持ちのする食料品、飲料水、簡易トイレ、医薬品が必要な人は一定期間持久できる程度の医薬品、等々については常日頃から意識しておかなければならないなと最近は思う。
 
(いつものように、有料パートには益体もない話しか書かれていません)
 

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「才覚」が求められる時代への不安について(返信として)

 
ブログを使って誰かに返信を書く時、私は自他の違いを意識し、自分の輪郭がいつもよりくっきり見えるような気持ちになります。今回、小島アジコさんから返信をいただいたので、返信がてら、「才覚」が求められる時代に対する私の不安を可視化してみたくなりました。
 
 

1.お手紙ありがとうございます! どんな時代にも頼れるのは「才覚」っすね!

 
orangestar.hatenadiary.jp
 
こんばんは、アジコさん。私の最後に頼れるのは才覚ぐらいしか思いつかない - シロクマの屑籠に返信くださりありがとうございました。おっしゃるとおり、最初っから最後まで、人間、頼れるのは「才覚」しかないっすね!
 
アジコさんがご指摘されたとおり、今回私が言っている「才覚」は広義のもので、才覚、能力、長所、できること、が含まれます。アジコさんが丁寧に補足してらっしゃるように、先天的なものから後天的なものまで、生物学的なものから社会的なものまで、ハビトゥスのような文化資本から資格や学歴といった制度化された文化資本まで、含めて考えるべきものと思います。
 
今回の話の文脈で述べるなら、人間は生まれた時から死ぬまで「才覚」によって生き、その不足に関連して不適応に陥るので、「人が生きていくのに最初から最後まで才覚が必要」ってのは本当にそのとおりです。たとえば赤ちゃんが生まれてきて、やがておぎゃあと泣くのだって「才覚」ですよね。少し前までの社会では、おぎゃあと泣けない赤ちゃんはいきなり社会不適応に陥った、そして高確率で死に至ったでしょう。なんなら母親の胎内にいる時から「才覚」は問われていると言えるかもしれない。生きるってことを、その人の「才覚」を行使していると表現するのは可能だと思います。その「才覚」には、学歴や資格といった制度的なものも含まれます。日本国民やアメリカ国民であることも制度化された「才覚」としてカウント可能で、パレスチナで苦しんでいる人からみれば、それらは実に大きな制度化された「才覚」とうつるでしょう。
 
もうひとつ、アジコさんは時代によって必要とされる「才覚」が変わってくる、とおっしゃいました。これも全く同意です。中世では英雄になれた人が、現代社会では刑務所に入るしかないとか、精神障害に相当すると判定されるとか、そうしたことは大いにあり得そうです。歴史学者のノルベルト・エリアスが述べるところによれば、感情表出が乏しい人間は、中世においては修道院に入らなければならなかったそうですね。
 

 
でも、たぶん今は逆で感情表出が激しすぎる人間、泣いたり怒ったりが激情的である人間は、修道院……には入らなくて構わないかもしれませんが、精神医学の対象とみなされるかもしれません。そのわかりやすい現れとして感情障害や気分障害といったカテゴリーが広まっている現代は、これまで人間の「才覚」として重要だった感情表出の一部がナーフされ、感情表出の穏やかさがむしろ「才覚」としてクローズアップされている時代なのかもしれません。
 
……とはいうものの、私はある部分では、感情表出はまだまだ「才覚」として強いカードだと思っています。激情的な感情表出は徹底的にナーフされていますが、制御された感情表出、戦略的に行使可能な感情表出はコミュニケーション能力をエンハンスするものとして相当強いのではないでしょうか。感情労働への適性にもかかわってくる「才覚」でしょうし。これに限らず、生物学的にできあがっている「才覚」は、全体的に思うほどナーフされていない気がします。たとえばガタイの大きな男性のガタイの大きさは、今でもさまざまな場面で男性の身を助けるでしょう。
 
総体として時代により必要な「才覚」が変わってきているのはそうだと思います。暗記にまつわる「才覚」は情報記憶媒体の増大によって重要性を減じていますし、エネルギー代謝にまつわる「才覚」は、飢餓の多い時代と飽食の時代では正反対に働きがちです──飢餓の多い時代・社会で育った人がいきなり飽食の時代・社会で生活すると、なにかと大変なことになるのは南太平洋諸国の健康問題などを見るとよくわかります。また社会契約が浸透し、暴力が国家に独占されるようになってからは、他人を腕ずくで従わせる「才覚」の出番も少なくなったでしょう。
 
ですから、アジコさんのお話のこの部分までは、私と考えていることはたいして違わないだろうな、と思います。
 
 

それでも「平和な日本社会」は、「才覚」にかかわらず人が生きていけるよう進んできた

 
ここから、私とアジコさんの考えの違ってそうなところを言語化してみたいです。
 
アジコさんのご返信の力点は、「いつの時代にも『才覚』が必要」なのに対して、私の文章の力点は「これからますます『才覚』に頼るほかなくなる」でした。私はアジコさんより、これからの日本社会では今までよりも峻厳に「才覚」が問われる、ぼんやりと生きていられなくなる、と言いたいみたいです。それは、アジコさんがそれとなくご指摘されているように、私自身の不安を反映しているとも想定されます。
 
そう、私は不安なのです。
私が国際情勢や日本社会について書く最近のラクガキの少なからぬ部分は、私が不安であること、その不安を防衛するために言語化すると同時に、自分自身の舵取りを調整するためにやっていることに依っていると思います。もちろんそれだけでもありません。それらに基づいて未来を占い、これからの人間社会や日本社会について自分の問題として捉えるのはモノカキとして有意義で面白い活動です。
 
私は、不登校のダメージから立ち直ってから数年間は自分ごとに精一杯でしたが、研修医になった頃から周囲を見渡し、今後、自分の生存を脅かしそうな要素はなんなのか考えるようになりました。アジコさんは私と付き合いが長いから、私が最初に目をつけたのがコミュニケーション能力だったことはご存知でしょう。汎用性の高い「才覚」群としてのコミュニケーション能力はどんな時代・どんな状況にも有用です。それを「才覚」の筆頭格にしていくのか、それとも「才覚」のぎりぎり合格程度の履修にするのかは人によって異なるでしょうけど、コミュニケーション能力を養って無駄ってことは基本ないでしょう。
 
私は冷戦のさなかに生まれて、大人たちが述べる核戦争の話や、世紀末終末思想などに触れても育ったので、社会は、いずれ悪くなる可能性が高い、日本社会はいずれはもっと苦境に陥り世界は戦争くさくなるだろう、とも漠然と思っていました。少なくとも「平和」が唐突に終わることは不登校になったいきさつでよくわかったのです。そうした漠然とした「平和の終わり」が「いつ」起こるのか、「どう」起こるのかを特定できなかったので、結局なんにも役にも立ちませんでしたが。それでもコロナ禍が起こり、その後に日本と世界で起こったことは社会が悪くなる可能性を示唆してやみません。この社会とこの世界、難しくなっていませんか。
 
「生き馬の目を抜く」という言葉があります。
これから、生き馬の目を抜かなければ生きていけない社会が到来するとしたら、それって「才覚」が今まで以上に必要な社会ですよね? ちょっと極端な比喩をするなら、今、戦火に晒されている国や地域はそうでない地域に比べて死亡率が高い、「生き馬の目を抜く」国や地域になっていると思います。そこまで極端なことに日本社会はならないとはどこかで思っていますが、今より「生き馬の目を抜く」必要性の高い状況になりやしないかと、私は不安をおぼえます。そうなっちゃったら、私自身も、私の知っている人たちも、生きるか死ぬか、伸るか反るか、危ない橋を渡っていかなければならず、そのとき"「才覚」の持ち物検査"に引っかかったら命取りになってしまうかもしれません。それは、怖い未来です。
 
他方で、日本社会はそうした"「才覚」の持ち物検査"になるべくならずに済むような方向に長いこと進歩し続けてきました。
 

 
上掲の本では、私は現代社会をどちらかといえば批判的な目線で論じていますが、それでも今までの日本は、多産多死の時代に比べてより少ない"「才覚」の持ち物検査"で済む社会になってきたのだと思います。20世紀前半などと比較して明らかに「才覚」がなくても生きていける最もそれらしい証拠は、各年齢の死亡率と人口ピラミッドのかたちだと、私は思いますよ。生きているか・死んでいるかというのは大ざっぱな指標ですが、これほど手堅く雄弁な指標もないでしょう。『窓際のトットちゃん』の時代を思い出してください。ある程度裕福な家庭の子女でさえ、色々な「才覚」がなければ生きていけない時代でした:子どもたちは公園で遊ぶ、裏庭で遊ぶ、学校に通学する、そのたびに「才覚」を試されたでしょう。時代がまだ進んでいなかったから可視化されていなかった"「才覚」の持ち物検査"もたくさんあったんじゃないでしょうか。たとえば「いじめ」というマターは20世紀には日本でもアメリカでも「あるのが当たり前」で「子ども時代の試練」で「それをとおして子どもが成長していく」ものでさえありました。そんな時代には「いじめ」によって本当は命を落としていたけれども、それが意識されなかったり表沙汰にならなかったりした例はたくさんあったでしょう。
 
その「いじめ」対策にしても、メンタルヘルスの諸問題にしても、古い家庭の食器棚に埋もれている血と汗と涙にしても、不可視化されてきただけでなく"「才覚」の持ち物検査"として人間を振るい落としてきたわけです。
 
ですが、日本社会の先人たちは、そうした"「才覚」の持ち物検査"によって人が振るい落とされない社会を、「才覚」の多寡にかかわらずできるだけ大勢の人が生きられる、生きやすい社会を目指してきました。昭和20年代に「才覚」の不足で生きられなかった人も昭和60年でなら生きられる、そういう状況があったのではないでしょうか。あるいは昭和60年では忍の一文字しかなかった人が、令和元年にはもう少し大手を振って生きていられる、そういう状況もあったのではないでしょうか。
 
私は進歩主義な人間ではなく、どちらかといえば保守的な人間ではありますが、それでも、日本社会をここまで進歩させてきた人たちの志、「才覚」の多寡にかかわらず人としての権利や尊厳が守られ、実際的な生活状況をも改善させてきたムーブメントは偉大だと思います。戦後、高度経済成長期を経て日本社会は豊かになってきたと言われますが、それは経済的発展だけでなく、人倫にかかわる領域や命にかかわる領域においてもそうだったのだと思いますよ。ひいては「才覚」の多寡をそこまで直視しなくても構わない社会が不完全にせよ一時的にせよ実現した。それはとても豊かなことで「平和」なことだと思います。
 
就職氷河期はそうではなかったとおっしゃる人がいるのが想像されます。それもある程度はそうです。だけど終戦前後の日本や現在のパレスチナに比べれば"「才覚」の持ち物検査"の峻厳ではなかったと私は想像していますし、就職氷河期を抜けてからしばらくの日本社会はだいぶ状況が改善していたと思います。絶対的に考えるなら、そりゃあどんな社会の個人も「才覚」を問われないわけにはいかないし、差異が資本として生産される東京という街ではなおさら強く意識されるものかもしれない。それでも、"「才覚」の持ち物検査"で命を落としてしまうリスクが減り、みんなが相対的に長生きしている昨今の日本は、そうでなかった頃の日本より「才覚」が峻厳には問われていない、「平和」な社会じゃないの? って思わないわけにはいきません。私が今ことさらそう思うのは、未来の雲行きがとてもまずくて、日本政府に限らず、いろいろな国々で今までの暮らしの持続を(いったん、かもしれませんが)諦めている動きがみられるからです。
 
娑婆の風が冷たくなれば、多くの人が斃れるのは歴史の常でした。で、私が生きてきてこのかた、こんなに娑婆の風が冷たくなっているのを観測したことがありません。ですから、生存や社会適応に絶対確実という言葉はなくても、できるだけ「才覚」を大事にしていきたい、願わくは、社会変化を少し先取りするかたちで「才覚」のスキルセットについて考えたいと思っているわけです。そんな個人の「才覚」など一瞬で粉みじんにしてしまう、巨大な歯車の音が聞こえるとしても、です。
 
 

加齢と「才覚」

 
最後に、私の「才覚」の衰えについて。
アジコさんは、私が年を取って「才覚」が枯れてきたとおっしゃいますが、それはそうだけど、そうでもないとも思います。
確かに年を取りました。体力も目減りしているし、新しいことを吸収する力も衰えてきているし。技術上のことは吸収できなくもないけど、感性的な部分で若い衆のそれをうまく消化できていないと感じます。若い衆の感性を消化できないのも、「才覚」の衰えと言えそうですね。
 
ただ、中年が、若い衆の真似しようとしてもいいことなんてないじゃないですか。若い衆の評価尺度で今の自分自身を劣化したと嘆いても面白いことはありません。代わりに、中年にならなきゃわからなかったことがわかり、中年にならなきゃできなかったことができるようになったことをどう活かすのか、に今は集中しなければなりません。
 
私の場合、「本が前より読めるようになった」のは凄いことなのです。私は今、自分がやりたいことの材料として本が読めるんです。最近は月5冊ぐらいならぺろりと読んでしまうし、難読書と呼ばれる本にも挑戦しやすくなりました。私はもう歳ですけど、結晶性知能はあと何年かは伸び続けるでしょうし、伸びが止まっても数年程度、それを行使できるでしょう。この、今までの人生のなかで一番「本が前よりも読めるようになり」「社会についての知見をいちばんよく覚えていて、それらを頭のなかでシナプス結合させている」状態を生かしたいのです。というか、生かそうとしています。2026年現在、そのトライアルはあまりうまくいっていませんが、焦ってもしようがないし、できることをやっていくだけです。で、結晶性知能がだいぶ弱ってきた時に私に問われるのは今とも別の「才覚」でしょう。
 
これって本当は中年期や老年期に限った話じゃないですよね。小学生の時に問われる「才覚」と中高生の頃に問われる「才覚」も異なるし、就職間もない新社会人と、そろそろ結婚とか考えようかって年齢の社会人に問われる「才覚」も異なるのも同じことです。個人の発達心理学的な見地に立つなら、あらゆる「才覚」が衰え果てた後にもなお、新しい課題が生じ、新しい「才覚」が問われるのだと思います。まあ、そうやってがっかりしたり、有頂天になったりしながら私は頑張ってみます。たとえ失うものが多くても、「才覚」の最後の一滴にすがりつくような気持ちで私は生きていけたらなと願っています。では、また。
 
 

最後に頼れるのは才覚ぐらいしか思いつかない

 
togetter.com
 
togetterに、「最後に頼れるのは制度か、それとも血縁か」という話に関して、核家族の耐用年数切れといった話が記されていた。以前から私は個人主義や核家族システムの隘路について考え、書き記すのが割と好きなほうで、たとえば十年前には「人は一人では生きられない。もう一度群れるしかない。」という文章を書いている。私と同じように考える人が増えているならば、今はそういう趨勢にあるのだろう。
 
 

一人暮らし、核家族、個人主義の前提条件を振り返る

 
一応断っておくと、独り暮らしや核家族を貫き、独り身の気楽さ、しがらみからの自由を満喫する方法はこれからもある。ずっと未来においてさえそうかもしれない。しかし、それなら先立つものについて考えなければならない。独り暮らしや核家族を成立させるに足りる金銭や収入、あるいは財産といったものだ。
 
個人主義というイデオロギーをベースとした、独り暮らしや核家族はそりゃあいい。しがらみによるストレスがなく、誰かを助ける必要も、誰かと社会関係を維持する必要も最小限で済む。なんなら、無、で済むかもしれない。そうしたコストは契約社会に丸投げだ。
 
コストがないとは、もちろん嘘である。実際に個人主義を支えるためには、飲食物を手に入れるにせよ、洗濯をしたりトイレを利用したりするにせよ、コストがかかる。それらは有償だ。また一人暮らしは、自由であるかわりに自己責任、すべての労務や雑用を自分でやらなければならない点も高コスト体質で、本来的に高い能力や才覚を要求するものである。一人暮らしで部屋が散らかってしまう人、カード破産してしまう人、生活リズムが乱れてしまう人などは、一人暮らしと表裏一体な自己責任に基づいて生活が維持できない人、自己責任を前提とする生活に能力や才覚がついていけない人という部分が少なからずある。
 
独り暮らしでは誰も自分の能力の弱いところを補ってはくれない。核家族においても、父や母として欠格である部分を祖父母など他の親族が補ってくれることなく、家庭の病理は余さず子どもに転写される。もし片付けが得意な人と同居していたら、もし財布のひもをしっかりと握ってくれる人がいたら、もし父や母として欠格である部分を補ってくれる人がいたら避けられたはずのトラブルが、片付けができない人はゴミ屋敷というかたちで、金銭のだらしない人はカード破産といったかたちで、親ができない人は子どもの育成の問題というかたちで顕在化してしまう。
 
一人暮らしがインフラと法治に支えられている点も見逃せない。1970年代から増え始め、1980~90年代には時代の雛型として賛美されてきた核家族や一人暮らしは、それを可能とする都市の発展やインフラの整備、サービス業の発達と表裏一体のものだった。なにかと便利な『別冊 宝島 80年代の正体!』では、80年代のライフスタイルとしてコンビニを紹介されているが、コンビニが登場する以前の一人暮らしはかなり難しかった。
 

 
コンビニの手前には百貨店とスーパーマーケットもあった。いずれも流通に関連したインフラとサービス業の発展の賜物である。
 
それから家電製品。80~90年代には、独り暮らしを始める大学生はテレビから冷蔵庫洗濯機まで一切合切を買って一人暮らしを始めたものだが、それってお金のかかることで、日本が豊かだったからこそ20世紀の段階で誰もができるように思われたことだった。日本のデフレ経済が続いていたうちは、そうした家電製品をまるっと購入して独り暮らしをするやりかたは、中国製品をもってすればまだまだ可能だった。しかし日本の、というより日本国民の経済的与件が変わってきている今は、同じことをやってのけるためにはそれなりの経済力が必要になる。
 
それとは少し文脈が異なるものの、00年代にはシェアハウスというアイデアが(例えば)phaの提言などとともに広められていった。シェアハウスは、もはや独り暮らしではない。独り暮らしの経済的デメリットを減らしてくれるが、若干にせよ、集団生活のしがらみや相互賦役的な性格を受け入れなければならない部分もある。
 
そしてそのpha自身が『パーティーが終わって、中年が始まる (幻冬舎単行本)』でも触れたように、比較的少ない経済的負担感で独り暮らしのメリットを享受できた背景には、日本がデフレだったこと、究極的には日本が経済的に豊かな国だったことや日本円が信用に足りる価値ある通貨だったことがあった。コンビニやファミレスで、調理済みの、比較的安価でそこそこおいしいものを買ってそこそこ楽しく・健康的に暮らす、というライフスタイルが私たちに成立可能だった究極要因は、日本国の経済的繁栄である。
 
経済大国としての日本は凋落すればするほど、本当は有料で、本当は高価だったはずのそれらサービス業の値段の高さが意識されてくる。そして、私たちが20世紀からありがたがり、少なくともある世代より年上の「トレンディな人々」には常識的に思われていた核家族や独り暮らしの高コスト体質が肌感覚としてもわかりやすくなる。
 
それから治安と法治。
日本は治安が世界有数の水準にあり、盗難や強盗や殺人などに遭遇する確率も世界的にみて低い。それは、自由な個人主義社会を成立させる与件としても重要だ。平和な街だからこそ、独り暮らしで深夜で街を出歩くこと、ひいては酔っぱらった状態で自宅に帰ることが可能になる。また、ここでいう「法治」とは、犯罪が少ないだけでなく、社会契約の論理に基づいた取引や契約があてになること、比較的分け隔てなく対価に見合ったサービスや商品を受け取れることも含む。
 
社会契約の不行き届きな社会はこの限りではない。共同体で顔が利くこと、一族郎党や一門のメンバーであることが対価に見合ったサービスや商品を受け取るにもモノを言った。しかし社会契約の論理が生き届いていて、治安も良い環境ではそうした集団権力をバックグラウンドにしなければならない必要性はほとんどなくなる。
 
医療へのアクセスも、ここで言及して良いかもしれない。2026年現在、日本は誰でも救急車を呼べ、三次救急までフルアクセスできる医療体制を維持しているが、これも、少人数での生活を成立させている縁の下の力持ちだ。医療体制が劣化してくれば、次第にそれもあてにできなくなるだろう。
 
戦前から戦後、21世紀に入ってからも日本社会は治安を向上させ、法治の徹底を推し進め、個人主義的に生きたい人が生きられる社会を実現してきたから、2030年代も2040年代もそうであれかしと思う。しかし、治安と法治が守られるということも、その前提条件が問われなければならない。どれだけ立派なことが法令や憲法に書かれていても、その国の治安や法治の実態、社会契約の論理が遵守される度合いは国によって異なる。たとえばギャングが暗躍する中南米の国々で日本と同じ治安や法治の実態は望むべくもない。アメリカにおいてもたぶん同様だろう。もし、これから治安や法治があてにならなくなっていった場合、私たちは再び共同体で顔が利くことや、一族郎党や一門の一員であること、等々に頼らなければならなくなる。
 
治安も法治も一応維持されるが、それが強者を贔屓にしたかたちで進行していく可能性もある。たとえば社会契約に基づいた法治が強者にとって有利な条件に変わり続けたら、信用スコアが一定以下の人間からはモノを買わない、モノを売らない、といった社会が到来するかもしれない。そのとき、気楽に独り暮らしをやってのけられるのは社会的信用をすでに獲得していて、かつ、経済的にある程度以上恵まれている者である。
 
もし、日本国が治安と法治を今までどおりではなく、信用を司るものを持つ者に便益をはかり、そうでない者に便益をはからない方向に変え始めたら、持たざる者の一人暮らしは今よりずっと面倒になるだろうし、なんとなくそういう方向に日本社会は向かっているようにみえる。と同時に、独り暮らしや核家族が経済的にデメリットが大きいことをある種の圧力として、80-90年代とは正反対に、集団生活への親和性が好もしく語られる可能性はこれから高まっていくんじゃないだろうか。その嚆矢は00年代のシェアハウス論だったかもしれない。どうあれ、これから「おひとりさま」なるものが流行るとはまったく思えない。
 
 

集団生活に馴染めるのも才覚のうち

 
さてそうなると、集団生活ができるか、できないかが個人の社会適応にとって再び重要になってくる。それはひとつの才覚と言っていいレベルのものだ。死命を制するような才覚と言えてしまうかもしれない。
 
来日して働き続ける外国人のうちに、手狭な住まいに複数名が同居している人をみることがある。私が見聞している限りでは、そうした同居生活は色々な国の人もやっていることのようだ。
 
そうした手狭な同居はプライバシーすらうっちゃって低コストをきわめたシェアハウス的なものであり、その経済的なメリットは計り知れない。しかし、プライバシー感覚を自明としている人にとって、そのような集団生活はストレスが多すぎてなかなか耐えられないものだろう。
 
プライバシー感覚とストレスの問題は、だからどういう環境で生活可能か、どういう環境までなら耐えられるかを左右する。集団生活に適したライフスタイルか否かや、集団生活にまつわるストレス耐性の高低が、生活に要する経済的コストに直結する。独り暮らしや核家族が社会の当たり前だった時代には、そうした集団生活適性はせいぜい職場でしか問われないものだったかもしれず、たとえばフリーターのような生き方が実際に可能だった時代には集団生活適性を無視しても蔑視しても構わなかった。
 
だが、経済的に下降していくこれからの日本社会では、集団生活適性が問われる場面が増えてくるよう思われる。経済的/社会的なクレジットが乏しければ乏しいほどそうだろうし、東京のような、土地代や家賃の高いエリアに暮らしているほどそうだろう。先立つものがなければ、プライベートが維持できる空間を借りたり買ったりすることはできない。クレジットが乏しければ、シェアハウスか、もっとプライバシー空間の乏しい生活空間で生活しなければならないかもしれない。そうなった時、集団生活適性が再び重要になる。見ず知らずの者と集団生活をする、ということは、素養であると同時にハビトゥスや文化資本でもある。それに恵まれていたから助かる人、それが乏しかったからトラブったという人は今まで以上に出てくるだろう。*1 
 
 

才覚が無くても生きていけた時代を、平和と呼ぶ

 
「集団生活適性は才覚だ、それが問われる場面が増えてきた」と書いたが、もちろん才覚はそれひとつではないので、別の才覚が優れていれば、なんなら独り暮らしを続けることも核家族をやっていくこともできよう。一番わかりやすいのは経済的に豊かであることだ。何千万円、何億円とお金が入り続ける人なら、独り暮らしも核家族もどうってことはない。
 
誰とでも仲良くなれる才覚、誰かの心を穏やかにできる才覚、誰かを喜ばせる才覚などもきっと頼りになるに違いない。学力も、今までと同じぐらいには重要だろう。
 
なんであれ、資本主義社会では、その社会に適合したかたちで才覚を示すことができれば理論上は経済的成功を手に入れられる。治安が極度に悪化しても護衛など雇えるかもしれないし、というより、治安の良い場所に転居できるだろう。クレジットを山ほど所有し、いつでもどこでも着の身着のまま生きられるのは個人主義者の夢を体現したご身分だが、それをやってのけられる人間はゼロにはならない。ただし、その難易度は上がっていくだろうし、そもそも、それほどまでにクレジットを手に入れられた人間が核家族、さらには独り暮らしを続けるのかといったら、さてどうだろう、という気もする。
 
そこまでの経済的成功を達成しなくても、才覚がなんらか社会と噛み合えばそれは生きやすさに繋がる。集団生活適性も、そうした渡世の才覚の一つに過ぎない。たとえ今後、その重要性が漸増し、群れて生きる価値やライフスタイルが見直されるとしても、過大評価するあまり、それを社会適応の必要条件や十分条件とまでみなしてしまうのは早とちりだろう。
 
しかし、これだけは言える。
どういうものであれ、これからを生きるには才覚が必要だ、と。
そして才覚がなくてもぼーっと生きられた時代を「平和」と呼ぶのだ、とも思う。
 
これは、東浩紀『平和と愚かさ』を読んでいる最中だから連想されたこと……というより、似たことが『銀河英雄伝説』にも書かれていたように記憶している*2。それで言えば、日本社会は「平和」でない方向に着実に向かっている。2026年現在、日本とその周辺がわかりやすい戦火にさらされているわけではないが、それでさえ、ここでいう「平和」は脅かされているし、まさにその「平和」が脅かされているさまを意識しながら東浩紀は新著を書いたんだろうな、などと想像したりもする。
 
そして、『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリー風に言えば、その「平和」がたかだか数十年続いただけでも尊いものだったし、そのたかだか数十年を作り上げてくれた先人たちには足を向けて寝られない感じだ*3
 
しかし歳月は流れ、そのたかだか数十年の「平和」も命数を使い果たしたようにみえてならない、日本においても、グローバル資本主義社会ぜんたいにおいても。社会構造や社会体制が激変する際には、天災や疫病や戦乱が起こるだけでなく、起こらなくても、才覚が問われることになる。最後に頼れるのは才覚ぐらいしか私には思いつかない。ただし、ここでいう才覚のうち何が活きやすく、何が死にやすいのかはまだ明らかではない。見当つけて、爪を磨いていくしかあるまい。
 
 

*1:日本は少子化に向かい、家屋が余ってくるとも言われているが、余ってくる家屋のうち、十分にメンテナンスがされ、居住可能であり続けるものが何割ぐらいか、ひいてはそのようにメンテナンスが行われ続けた物件がどれぐらいの費用で贖われなければならないものかを、考える必要がある。古くて不便な物件が現在より手頃感が出るぐらいのことはあるかもしれないが、それにも限界はあるだろう。

*2:追記:調べたところ、「平和というのはな、キルヒアイス。無能が最大の悪徳とされないような幸福な時代を指して言うのだ。貴族どもを見ろ」でした。

*3:たぶんだが、次のたかだか数十年の平和を作り上げられるのか、準備できるのかが、これから私たちに問われるのだろうとも思う