NotebookLMのインフォグラフィック生成機能、
— まめ狸@パラオ泊地 (@mametanuki) 2026年1月11日
今更に使ってみたけど凄い!!(驚き男) pic.twitter.com/HGQfE91SJg
ツイッター時代からの相互フォローのmametanukiさんが、AIに上のようなイラストを出力させてらっしゃった。オタクの中年危機はどういうもので、どういう解決があるのかについてのイラストだ。
なお、mametanukiさんは「「ニュータイプ」になれなかった中年オタクの生存戦略」という文章のなかで、現実主義的なオタク撤退論についても書いていらっしゃる。求道者として趣味の道を突き進むのでなく、もっとまったり・身の丈にあった趣味生活になっていくことを勧める文章だ。私は、それでいいよねと思った。
私は、若い頃に求道的なオタクだった人がぬるくなっていくことを悪く思わない。何十年もそのままというケースがいないわけではないが、たいていの人の趣味生活には黎明期も最盛期もあれば、衰退期や復活期もあるだろう。それは自然なことで、健全なことだ。
私も、「ずっと求道的なオタクを続けるのは並大抵ではない」と思う
念のため断っておくと、私も、オタクが何歳になっても若い頃と同じ情熱・同じリソース投下を続けるには無理がある、と思うほうだ。たとえば2015年に「ガンダム念仏会」という文章を書いた。
p-shirokuma.hatenadiary.com
歴代ガンダムを肴にしたテンプレート的会話である。その内容は高度に様式化されていて、あたかもサブカルチャーの化石のようだ*1。
そのかわり、各人が台詞を暗記し文脈をシェアしているだけあって、唱和の声は淀みない。“垂乳根”といえば“母”が来るのと同じように、Vガンダムに言及すればバイク戦艦やカテジナさんがやって来るし、ニュータイプのなり損ないといえばシャアなのだ。掛け合いひとつひとつの必然性は、天の運行にも等しい。
ここでは“ガンダム念仏会”を挙げたけど、世代柄、私は“エヴァンゲリオン念仏会”や“葉鍵念仏会”にも出くわす。“エヴァンゲリオン念仏会”などは開闢から十数年が経ち、そろそろ熟成感が備わってきた。もう少し上の世代の人は“宇宙戦艦ヤマト念仏会”なんかをやっているのかもしれない。
何歳になっても求道的なオタクを続けていて、且つ、そのことを鼻にかけている人からみれば、昔のガンダムネタで盛り上がふ中年同士の会話は醜悪で、みるべきものがないと受け取られるかもしれない。でも、年を取ってから内輪でこれをやるとたまらないんだよね。たまらないということが、前は十分にわかっていなかった。「火曜日午後8時のNHK『歌謡コンサート』で懐メロを聴くことが喜びになっていく心境」と比喩すれば伝わるだろうか。そんな心境、若い頃はわからなかったしわかりたくもなかった。でも、わかるようになってしまったのだ。
今日では、アニメやゲームの世界でも、懐メロに相当するものがごまんとある時代が到来している。時代がそうなったのか? おれたちがそうなったのか? 今、私がみているこの風景は、年を取ってみなければわからないものだった。求道的なオタクであることにアイデンティティの座を置き続けている人はいざ知らず、大多数の愛好家にとっては、年を取るにつれて趣味生活が変わっていき、懐メロならぬ懐アニメや懐ゲームをたしなむ程度に変わっていくのは好ましいことだとさえ、最近は思う。
いや、そういう元オタク、さびついた愛好家とて、リバイバル作品などには触れるだろう。2026年初頭で言えば、ガンダムが好きだった人は『閃光のハサウェイ』の続きぐらいは視聴するだろうし、2010年頃に熱心にアニメを観ていた人は『魔法少女まどか☆マギカ ワルプルギスの廻天』を観に出かけるだろう。私の嫁さんは今、switchで『ドラゴンクエスト7』の体験版をいじっている。まったくの新作に触れる頻度は少なくなっていても、自分が見知った作品、自分に縁のあった作品に触れるぐらいの力が残っているなら、御の字というものだ。
過去には「求道的なオタクだけがオタクだ」みたいなキツいことを言っていた人が、今ではだいぶ丸くなったのをSNSで見かけることもある。若くて求道的な、 genuine なオタクがそれを衰えと呼ぶとして、それに反駁する言葉を私は持ち合わせていない。でも、それでいいじゃないか、とも思う。ララァ・スンは「人は変わっていくわ」と言ったが、趣味生活においても人は変わっていく。インターネットには色々な思想信条、ポリシーの持ち主がいるから、そうした変化をののしる人に遭遇するのは避けられない。でも、自分自身の人生にとって、そんなの関係ないでしょう?
オタクや愛好家の人生のコーナリングについて考える
中年危機に限らず、人生はコーナリングの連続だ。人生の曲がり角としてわかりやすいのは、進学、就職、転職、結婚、子育て、介護、退職といったものだ。そうした曲がり角を過ぎる時、人は、人生の次のステージに向けてライフスタイルを多かれ少なかれ刷新する必要性に迫られる。
人生の次のステージを迎えたにもかかわらず、ライフスタイルを変えない・変えられないとしたらどうなるだろう?
たとえば就職や結婚といった節目を迎えたのに、それ以前のライフスタイルに固執していたら、就職後や結婚後の暮らしはうまく始まらない。または、人並み以上のコストを支払いながらの就職や結婚となる。趣味に限らず、新しいステージには新しい暮らしぶり、新しいやり方が必要になる。その必要性をしばらくは誤魔化し続けることも可能かもしれない。しかし、ずっとは難しい。ずっと続けるとなったら、なんらかの代償を支払わなければならない。それは、新しいステージへの不適応かもしれないし、若かった頃には払わずに済んだ経済的・社会的コストかもしれない。
しかし、大半の人は人生のステージが変わるたび、それにあわせてライフスタイルを変えていくものだ。変え方はさまざまだ。たとえばある時点まで熱心にアニメやゲームを追いかけていた人が、人生の曲がり角を曲がるたびに少しずつ趣味人として薄くなっていき、仕事や家庭に軸足を移していくのはよくあることだ。この視点で考えた場合、少しずつ趣味人として薄くなっていくのはむしろ好ましいことだと言える。悪く解釈すれば「惰性で流されている」ようにみえる人が、良く解釈すれば「状況にあわせて自然にライフスタイルを微調整できている」とも言える。社会的加齢や生物学的加齢にあわせて流されるようにライフスタイルを変えていける人は、中年危機と呼べるほどの危機を迎えることなく加齢していけるかもしれない。
危ないのは、むしろ惰性によらず、ストイックに趣味人を続けている人、あるいはライフスタイルを意識して継続している人のほうじゃないだろうか。
中年危機が本当の本当に危機たりえるのは、中年期にいきなり大きな曲がり角を迎えざるを得なかった人、それまでのライフスタイルを中年期に大きく撤回しなければならない人だ。少しずつライフスタイルを変え続けてきた人ではない。なんらかの理由で青年期までのライフスタイルを強引に引っ張り続けてきた人が、ついに継続困難になった時、そのときの人生のコーナリングは相当な急カーブになる。求道的なオタクや愛好家とて、それは例外ではあるまい。
あるいは若い頃の趣味生活に固執するうちに身体に無理をかけ続けて、中年期あたりにそれが顕在化する(例:倒れて救急車で運ばれる、糖尿病などの病気が判明する、など)人も珍しくない。身体が変わってしまったら、ライフスタイルも変えなければならないし、趣味生活も若い頃のままってわけにはいかない。もし変化を拒否して身体に無理をかけ続ければ、命にかかわる事態となるだろう。
もちろん、中年危機と呼べる問題は趣味生活だけで決まるわけではなく、仕事の問題や家庭の問題によってそれが顕在化することのほうが多かろう。しかし趣味生活に関してだけいえば、趣味に固執している人、趣味を気合い入れて続けている人より、そうでない人のほうが生きやすく、中年期の人生のカーブも曲がりやすいと私は思っている。人生のコーナリングに関していえば、変わっていける人はどんどん変わっていけばいいし、流されていく人はどんどん流されていくほうが安全だ。続けていけることも才能だけど、続かないこと、変わっていけることも才能だ。そう考えながら、愚かにも私はブログを書き続けています。