シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

『ほんとうの医療現場の話をしよう』──医学部という進路に悩む人におすすめしたい本

 
長くブログや本を書いていると、いろいろな相談のお手紙が舞い込んでくる。そうしたもののすべてに応えることはとても無理だし、精神医学にまつわる相談、特に医療行為に直結した相談は原則お断りさせてもらっている。
  
そうは言ってもなかなか無視しづらいお手紙もある。それは、
「医学部に入ったのですが、勉強がきつくて悩んでいます。」
「医学部に入ったのですが、浪人して〇〇大学を受験しなおそうか迷っています。」
 
医学部と、それにまつわる進路についての相談だ。この手の相談には、時間が許す範囲で返信するよう努力してきた。自分も悩んでいたし、悩んだうえで医師免許証を手に入れ、精神科医となった後に自分がやりたい仕事や活動に関われていると感じるからだ。
 
我が身を振り返っても、医学部に入るのはわけのわからない選択だった。
 
私が医学部に入ったのはバブル崩壊の直後ぐらい。医学部の偏差値がいちばん高かった時期ではないにせよ、人気はまずまずあって、地方の士業世界において医師免許証は切り札のような扱いになっていた。だけど十代の私にはそんなことはわからない。医者がどんな仕事で、医療の世界にどんなものが含まれているのか、そこで働いてどのようなメリットやリスクがあるのか、ろくに知りもしないまま、なかば流されて医学部に入ってしまった。私の場合、幸いにも精神科というものすごく興味深い領域に出会い、人間世界への関心をますます高めていけたから結果オーライだったけれども、在学中は五里霧中の状態だった。
 

 
当時、こんな本 ↑ を親が買ってきたことがあったけれども、こんなの読んでも医学部や医者の仕事がわかるわけがない。かえって嫌になったとさえ言える。
 
そうやって悩んだ時期があったから、医学部に入り、これから医師になるかもしれない人が迷うのも無理ないよね、と私なら思う。
 
 

医学部について考えるうえでいい本が出た

 
しかし、これからは相談のお手紙に返事しなくて良いのかもしれない。
高須賀さんが、医学部という進路について参考になりそうな本を著したからだ。『ほんとうの医療現場の話をしよう』を読むと、医学部に入り、医師になった後にどんな課題や良し悪しがあるのか、見当をつけやすくなると思う。
 

 
高須賀さんはまず、医療のなかで医師特有の役割として、診断と治療について挙げる。
 
 

 医師の仕事は全て患者さんを契機として始まります。そもそも、なぜ患者さんが病院を尋ねるのかというと、基本的には何らかの体調不良などがあるからです。「熱がある」「お腹が痛い」などなど。私達医師はその患者さんの困った事をどうにかして解決しないといけません。
(中略)
 なんらかの問題を解決するためには、まず原因をキチンと特定しないといけません。医療においてはこの原因特定行為を"診断"といいます。診断は医師にしか行えない非常に重要な役回りのひとつで、コメディカルと言われる医療スタッフや事務職員は「なんだかこの人、風邪っぽそう」と思う事はあっても「あなたは風邪です!」と診断を下すことは許されていません。

  

 こうして身に付けた知識や技術を基に、医師は原因を特定します。そして下した"診断"を基に、医師はもう一つの大切な仕事を行います。それが"治療"です。風邪に対して解熱剤を処方する事や、がんを手術する等の治療に繋がる行為は原則として医師のみが行うことを許されています。その他の職員も治療の手助けは行えますが、それは必ず医師の指示あってのものです。

 
後で触れるように、現在の医療はチームによる分業が進み、それぞれの分野の専門家が力をあわせて働くようになっている。
 
とはいえ上掲の引用文のように、病気や障害が何であるかを特定し、それをどう治療するのかを決めるのはやっぱり医師の役割だ。その裁量は特権的に医師のもの、とさえ言えるだろう。それだけ責任は重いし、身に付けなければならない知識も多い。医学部を出た後も研修期間が続き、専門医になるまでにも時間がかかるシステムになっている一因は、診断と治療のために必要な知識と経験が膨大だからだろう。
 
じゃあ、医師が診断と治療のマシーンかといったらそうでもない。
さらに高須賀さんは、社会人としてのマナーや人に好かれるに越したことはないこと、リーダーシップの大切さにも触れている。
 
さきにも触れたとおり、現在の医療はチーム医療でその対象は患者さんだ。である以上、人を人を結び付けるための素養やトレーニングが期待されるのはやはり避けられない。これも後で触れるように、医師の役割やワークスタイルはかなり広いので、やろうと思えばそうしたコミュニケーションを少なく済ませられる領分に就職できるかもしれない。それでも高須賀さんがおっしゃるように、やっぱり人に好かれやすいに越したことはないし、社会人として期待される常識的態度が欠如していれば苦労が増えやすいだろう。リーダーシップを期待される場面、患者さんとその家族に大事なことを説明しなければならない場面などでは尚更だ。
 
 

医師になってからなれる先は結構広い。

 
では、医師は長い勉強とトレーニングと人間力が不断に問われるものなのか? と思う人もいるだろう。
まあ、ある程度以上にそうではある。
だから難しい、だから疲れるともいえるし、だから面白い、だから奥が深いともいえる。
 
それでも、実地で働く医師にもさまざまなタイプがいるし、さまざまな役割がある。たとえば総合病院の外科医と個人開業のクリニックで働く精神科医では知識も役割もかなり違っているだろう。内科医だって、どの臓器が専門でどういう性格の医療機関で働くのかによって役割はだいぶ違う。
 
収入も含めて、ひとことで医師といってもその境遇、その領分はさまざまだ。医学部を卒業したら一律に幸福な医師人生がやってくるわけではない。悩みも喜びもさまざまだ。恋愛に悩む者もいれば、経歴や肩書をもっともっとと求めて悩む者もいる。幸福な結婚をする者もいれば、そうでない者もいる。
 

多くの人が働く中で、自分が無理のない形で働き続けられるスタイルを自然と見抜き、そこに軌道修正を図っていくケースが多いように思います。結果的には多くの人は自然と上手にやっていけるような道に落ち着いていきますので、そこまで働くこと自体を恐れる必要はないとは思います。医師自体をドロップアウトするケースは自分の見聞きする範囲ではごく稀です。医師は食っていくだけならば大体困りません。少なくとも現時点では。

 
高須賀さんは、医師は食っていくだけならだいたい困らない、自然と上手にやっていけるような道に落ち着く、と書いてらっしゃるが、私から見てもそんな気がする。そのうえで医師の世界にもさまざまな生き筋があり、その生き筋の広さ、いわば医療界隈の懐の深さは医師という職種の魅力のひとつではないかと思う。
 
かく言う私も、精神科という、脳という臓器を診るだけでなく社会と患者さんの関わりを診ないわけにはいかない科に就職したことで、自分がやりたい仕事を見つけることができたのだと思う。高校時代の私は、うすらぼんやりと哲学や心理学のようなことが学びたいと思っていて、医学部はそこから遠い世界ではないかと危惧していた。ところが精神科という診療科があったおかげで、実は、哲学科や心理学科に入るよりも自分がやりたいことに近いものを見せていただけていると今は感じている。
 
そうした事々が書いてあるので、この『ほんとうの医療現場の話をしよう』は、医学部をこれから受験したい人や、医学部に不本意ながら入ってしまったと感じている人、医学部で本当にいいのかなと悩んでいる人には特にお勧めしたい。twitterの、いわゆる医療クラスタと呼ばれるアカウント群の日常ツイートだけではなかなかフォローできない内容が記されていて、かつ、内容が実直だ。今後、医学部についての相談が私のところに舞い込んだ時には、はじめにこの本を推奨することにしようと思う。おすすめ。
 
 

「中年に惑ったら、髪型を変えろ、車を変えろ」

 
times.abema.tv

 
先日8月3日、ABEMA Prime さんにて「中高年のうつ病」という特集があってゲストとしてお邪魔させてもらった。思っていた以上に中高年のうつ病についての話が真面目かつ広く取り扱われて、限られた放送時間のなかでいろいろな話題が出て良かったんじゃないかと思う。そこで、中年危機について良さそうなアイデアが語られていたので、これは書き残したほうがいいと思ったので書いておく。
 
 

パックン「中年危機になったら髪型変えればいいんですよ」

 
そのアイデアは、番組のなかで中年危機の話になっていた時にぽろっと出てきた。隣に座ってらっしゃったパックンさんがこうおっしゃったのだ。「アメリカでは中年危機って言葉はすごくポピュラー。中年危機になったらね、髪型変えればいいんです」。
 
おお、さすが中年危機がカジュアルに語られる国だけのことはある。そう出るか!
 
中年危機は英語でmidlife crisis だが、これはDSM-5のような統計学をベースにした医学用語ではない。かといって精神医学とまったく無関係かというとそうでもなく、うちの精神医学事典にも解説があるし、アメリカ産の精神医学書である『カプラン精神医学』にも関連記述があったりする。でもそれだけでもなくて、もっとポピュラーに用いられてもいて、その意味もかなり広がりのあるものになっている。
 
そうしたわけで、精神科医が"病名や診断名として"中年危機を患者さんに言い渡すことはたぶんない。病名は病名として告げたうえで「このあなたのうつ病は、背景に中年危機と言っていいような人生の曲がり角があったわけですね」などと解説の一部として用いるような感じになるだろう。
 
で、「中年危機になったらね、髪型変えればいいんです」。
 
すごいライフハックだ。いや、アメリカの実践知とでもいうべきか。
 
中年危機と呼ばれるものは、更年期障害や身体の大小の病気といった生物学的な中年の変化や、キャリアの限界がみえてくる・早期退職を余儀なくされる・子どもが巣立ちするといった社会的な中年の変化に伴い、アイデンティティが宙ぶらりんになったり、それに伴って精神疾患に至ったりするものだ。乱心した中年がいきなり家族を捨てて若い愛人のもとに旅立ったり、唐突に陶芸や蕎麦屋を始めたりすることだってある。思春期とはまた違ったかたちで自分のアイデンティティが動揺し、これからの生き方や、自分自身の「私はこういう人間だよね」って自己イメージもわからなくなりがちな状況だとも言える。
 
髪型。
アイデンティティが宙ぶらりんであること、これまでの生き方が生物学的/社会的変化によって継続できなくなった時は、じゃ、新しい生き方を模索しなければならないわけだ。そこでパックンさんはさらりと「髪型変えればいいんです」とおっしゃったのだけど、実際、髪型を変えるのはすごくいいんじゃないだろうか。
 
巷間では、失恋した女性が気持ちに一区切りつけるためには髪を切る、とされている。気分を一新し、自己イメージをも刷新するには、確かにいい方法だろう。自分自身の見た目が変われば、自己イメージは外側から変わるわけだから。で、それと同じ方法を中年の男性や女性がやったって別に構わないのである。いわば、形から入るライフステージの刷新だ。簡単かもしれないし、ちょっと安易にみえるかもしれないけれども、案外、こういうことが大事だったりする。
 
さらにパックンさんはこうも続ける。「それと車を変えるのもいいんです」。
 
これもいい。大都市圏に暮らしていて車を持っていない人にはいまいち想像つかないかもしれないが、車は、結構自己イメージを変えてくれる。郊外で暮らす者にとって、車は衣服であると同時に生活空間でもあり、ライフスタイルやアイデンティティでもある。生活の手触りに直結したアイテムだとも言える。だから、それまでレクサスに乗っていた人がハイエースや小型のフィアットに変えれば、案外、人生も生き方も変わる。これも、形から入るライフステージの刷新だと言える。
 
こうした髪型や車の変更が、中年危機対策のカジュアルだけどよく効く一手だとしたら、自分より少し年上の人々がやっていたことが中年危機対策や予防として上手かったように思える。ゴルフを始める・自転車に凝るようになる・登山を始めるようになる、等々。それらの装備を整え、衣服もそれらに適したものになっていくのも形からのライフステージの刷新だと言える。
 
そうかあ、あの人が山を登るようになったのも、あの人が自転車をやり始めたのも、時期的に言って偶然というより必然だったんだ、などと番組終了後に私は思った。と同時に、家族やパートナーを捨てるとか、どこか遠い場所に旅立つとかに比べれば、まだしも穏健な変更のようにも思えた。ときどき、ライフステージの刷新と称してとんでもないことをやらかす中年だっているからだ。
 
 

小回りの利くところから変えたっていい

 
歳をとるにつれて不可避的に変わっていかなければならないこと、変えていかなければならないことが人生にはたくさんある。たとえば20代の時のライフスタイルを40代になっても続けるのは、どうにも似合わなくなってくる。まして、そこに更年期障害も含めた身体的な制約が加わるなら尚更だ。若い頃からやってきたことに固執していい場合も、固執のしかたを変えざるを得ないことが多い。
 
そうしたなかで、髪型や車や趣味を変えるのは、カジュアルだけど意外に効果があって、バカにできない。それらは自己イメージに働きかけるだけでなく、周囲の自分を見る目にも働きかける変更だからだ。自分自身の挙動にだって影響が出るだろう。
 
アイデンティティを変えたいと思っていてもなかなか変えられない・ぐずぐずしてしまう、という人は多い。中年危機においては、それが長引けば意気消沈するばかりか、身体的にも心理的にも無理が重なり、ついにうつ病などに至ってしまう事例だってときにはある。確かに、なかなか変えられないこと、踏ん切りのつかないことは多いものだ。そうしたなかで、髪型や車といった、着手しやすいところからアイデンティティやライフステージを刷新していくのは、とっかかりからいっても効果から言ってもうまいように思う。
 
なるほど、これも、アメリカのプラグマティズムじゃないのか。
こうしたアイデアをパックンさんから聞いて、私はそう思わずにいられなかった。
参考にしたい。
 
 

新型コロナ対策というトロッコ問題と民主国家の責任問題を考えていたらわけがわからなくなった

 
新型コロナウイルス感染症が第七波を迎えているとのことで、医療機関を中心に危機感が高まってきている。他方、先日の祇園祭の写真が示すようにコロナ禍以前の日常を取り戻す活動も目立ってきた。ワクチン接種が進み、重症者の割合が下がっていることも含めて、さまざまな要因が重なって人々の行動選択や世間の雰囲気が変わってきて、それらを背景として医療や政治の偉い人の判断も変わってきているのだろう。
 
それにしても。
 
感染症対策や行動自粛のゴールポストが少しずつ変わっていくさまを見ていると、諸決定には命がかかっているにもかかわらず、人々の行動選択と世間の雰囲気、それらの空気を読むまつりごとによって決まっているのだとしたら、それって本当はなんだろう?と思ったりする。間接的にせよ、私たちのなんとなくの行動選択と世間の雰囲気によってゴールポストが動いているとしたら、そのゴールポストを動かしている私たちの意志決定とその責任っていったいどんなものなんだろうか?
 
ただ、後でも触れるように、私たちがなんとなくで行動選択し、世間の雰囲気を醸成し、それを参照しながらまつりごとが決まっていくことが無自覚だから悪い! 自覚しろ! 自覚したうえで決断しろ! と言い切っていいのかも本当はわからない。国民主権な民主国家においては、完全に無自覚ってのもいけない気はするけれども。
 
この第七波も含めて、コロナ禍に際しての私たちの行動選択は、何かを選ぶ替わりに何かを捨てる・削るの連続だった。一見、何かを救っているようにみえる選択も、かならず何かを犠牲にしたり代償にしたりしていた。たとえばコロナ禍の第一波の頃、私たちは行動選択をとおして犠牲者を最小にできた一方で、支援も不十分なままサービス業者が朽ちていくことにもなった。それは、医療や政治の偉い人の判断だ、という人もいるかもしれない。ある程度はそうだろう。けれども民主国家であるこの国において、偉い人の判断の背景にはいつも私たちの声や行動選択や世論がある。だとしたら、全部が全部、医療や政治の偉い人の責任だと言い切るのはおかしいだろう。日本が民主国家で、政治家も民意や世論を気にしている以上、本当は私たちにだって責任がある。政治家にアサーティブに働きかける圧力団体が介在しているとしてもだ。
 
第二波、第三波とたび重なる感染拡大に際しても、行動自粛のゴールポストが動いたり税金で賄われる援助があったりなかったりした。が、何かが選ばれ、何かが捨てるか削られた構図は同じだ。東京オリンピックの頃もそうだ。そうした選択の結果、医療の領域で救われた命もあっただろうし救いきれなかった命もあっただろう。でも医療がこの世のすべてってわけじゃないので、経済領域や社会関係の領域で救われた命、救われなかった命もあっただろう。もちろん経済領域や社会関係が停滞することで間接的に命を削られることだってある。外出機会やコミュニケーションの減少によって認知機能が低下した人や、メタボが進んだ人もいたし、家庭の問題が深刻になった人もいた。もちろんリモートワークによって楽になった人、学校をやめずに済んだ人もいただろう。
 
いずれにせよ、だ。
 
みんなの行動選択と世間の雰囲気をとおして、コロナ対策が毎回繰り返され、そのつど、人々の命運は大きく左右された。毎度のコロナ対策がひとりひとりの思い描いたとおりのコロナ対策でなかったとしても、それは私たちみんなの選択の結果という側面が伴っていたはずで、私たちにはなにかしら責任があり、私たちの空気を読む医療や政治の偉い人をそのように行動させる背景をつくりあげてきた側面が伴っていたはずだった。日本が民主国家で、私たちがデモクラシーを奉じて生きているってことは、そういうことでもあったはずだし、実際、コロナ禍の最中にも国政選挙が行われたりもした。
 
 

医療重視でも経済重視でもなにかしら犠牲が出るとしたら、これってトロッコ問題的状況じゃないか

 
医療に激振りすれば直接的な新型コロナウイルス感染症の害悪が少なくなる一方、経済的・社会関係的な害悪が多くなる。その正反対に激振りすれば経済的・社会関係的な害悪が抑えられる一方、新型コロナウイルス感染症の害悪が増えて、医療崩壊を迎えれば他の病気で亡くなる人も増える。
 
そこまで極端な二択ではないとしても、医療ー経済のスライダーのどのあたりに振ってもそれなり救われる人もいれば、それなり削られたり失われたりする人もいるとしたら、これは命の選択にほかならない。
 
で、命の選択といってふと思い出すのが、マイケル・サンデル教授の『白熱教室』でもとりあげられていたトロッコ問題だ。
 

 
走るトロッコに乗った5人を見捨てるのか。それともトロッコを止めるために待避線へと進路を切り替え、そこにいる1人がトロッコに轢かれて犠牲になるのはやむなしとするのか?
そもそもそういう選択を迫ること自体がひどいとか色々なことが言われがちだけれど、この問題を正面きって考えることは哲学領域では重要なことだと考えられ、たくさんの論者が考察していると聞く。それはそうなのだろう。
 
問題は、私たちは哲学領域で考察しているわけでも、哲学者なわけでもない、ということだ。哲学者はトロッコ問題に考察をもって挑めばいい。しかし私たちまでトロッコ問題を考えるよう迫られ、考えないのは人間失格だと言われてしまったらまあその、困る。そもそも、そんな選択を迫る前になんとかすれば良かったじゃないかと言いたくなるのが非-哲学者の心情だろう。
 
ところが新型コロナウイルス感染症によって、私たちはトロッコ問題を回避不能な選択として迫られ続けているのではないだろうか。もちろんここでの選択は、トロッコをどうするかではなく感染症対策だし、決定の段を下すのは医療や政治の偉い人ではある。けれども私たちだって本当は、人々の行動選択や世間の雰囲気をとおして、間接的には感染症対策の決定に影響をおよぼしているはずだ。ことの真っ最中に国政選挙が行われたとなれば尚更である。
 
そうやって私たちだって、少なくとも間接的には誰かの命が助かるかわりに誰かの命が削られたり失われたりする、そういったたぐいの選択をしてきたのだとしたら? で、それは医療や政治の偉い人の責任であると同時に、民主国家においては私たちの責任でもあるとしたら?
 
 

人の顔が見えるのにトロッコのレバーを引けるのも、それはそれで恐ろしいのだけど

 
「民主国家において、感染症対策にはトロッコ問題的側面がある」と気づいてみると、私などは、なんと恐ろしい意志決定だろうと怖気づいてしまう。しかし民主国家としての年季が違う欧米諸国をみる限り、たぶん、彼らはそれをやってきているのだろう。欧米諸国が日本よりデモクラシーの意識が高いという通説に基づくなら、欧米諸国の人々は、トロッコ問題的側面があるとわかったうえで日本よりもずっと早くコロナによる自粛を緩和し、沢山の人が新型コロナウイルス感染症にやられる状況を甘受してきたってことになる。たとえ、そこにうまくいく/うまくいかないといった目算があり、その目算の当たりはずれがあるとしてもだ。
 
たとえばスウェーデンのコロナ政策は透明性が高い議論がなされている、と往時には盛んに報じられたものだ。透明性が高い議論が行われるってことは民主国家として褒められることのはずだし、少なくともなし崩し的に決定がなされるよりは好ましいはずだろう。しかしその透明性が高いと報じられた議論の結果として、2021年のスウェーデン人はコロナにさんざんにやられた。透明性が高い議論、民主国家として(たぶん日本に比べて)優れた意思決定の果てにそれが起こったのだとしたら、スウェーデンの人々は、自分たちがトロッコのレバーを引いたというその感触を自覚していたのだろうか?
 
こちらの東京新聞の記事を読む限り、スウェーデンの人々といえども、醒めた目でトロッコのレバーを引いていたとは言い切れないようにみえる。Aを選んでもBを選んでも誰かが助かって誰かが犠牲になるとわかっている選択を、醒めきった意識でやってのけるのはスウェーデンの人々にだって簡単ではないのだろう。たとえ民主国家の取り決めとしてそうなっているとしても、人間は、哲学命題の水準で実地の選択肢をそう簡単には選べない。
 
もちろん数字だけを見ていればそれができるかもしれないし、数字だけを見て判断しなければならない場面もあるかもしれない。そう考えると、各方面の偉い人に課せられた責務の大きさは知れない。しかし、身内に高齢者がいる人、職場で基礎疾患のある人を診ている人、経営の厳しい観光業やサービス業の身内のいる人、ひと夏をコロナに潰された子どものいる人、等々が、トロッコのレバーを引けるとはちょっと思えない。つまり人の顔が見えるのにトロッコのレバーを引くのはめちゃくちゃ難しいように思える。ポジショントークや自己中心的な動機に基づいて、やれ、自粛しろ、自粛やめろと主張するほうがある面においてよほどマトモではないだろうか。たとえそれが、民主国家の主体としてふさわしくないとしても。
 
感染症対策に限らず、本当は、民主国家のさまざまな決定にトロッコ問題的側面があり、たいていの選択肢が誰かを救うと同時に誰かを救えない、そういった性格のものだとしたら、民主国家の主体としての私たちは、それを醒めきった意識でいちいち決定できるものなのか。また仮に決定すべきだとして、決定するのが人間的だと言えるのか? 人間が哲学命題の水準でデザインされているならそうかもしれないが、きっと人間は哲学命題の水準でデザインされていないから、それって非人間的ではないかと思わずにいられない。だとしても、独裁を否定し、民主国家のていのもと私たちがそれをやっていかなければならず、意識していかなければならず、責任を負うていかなければならないとしたら、なんと難しいのだろう……と思う。
 


 
それとも実際には他の民主国家でも「おれたちは雰囲気で民主国家をやっている」のが実態であり、本当はそれぐらいでちょうど良いってことなんだろうか? そのあたりもあまりわからない。
 
新型コロナウイルス感染症をとおして、私は、民主国家とその責任の所在にトロッコ問題がくっついていることを次第に意識するようになった。だけど本件に限らず、民主国家が有限のリソースを振り分ける際にはトロッコ問題的要素は常についてまわっているはずなのだった。そして戦争が起こる/起こらないといった極端な状況下では、感染症対策よりも鋭利な決断を迫られるかもしれない。
 
こうやって考えているうちに、こうした決定と責任のプロセスが正気とは思えなくなってきた。しかし正気とは思えなくても民主国家の主体たるもの、それを引き受けるのが筋なのかもしれない。人の顔が見えるのにトロッコのレバーを醒めきった意識で引くのは私には正気とは思えないから、私だったら人の顔を思い出しながら引いてしまうだろう。で、その総体として民主国家の意志決定がなされていく……という風に考えたくもなる。どうあれ、責任を医療や政治の偉い人だけに帰するわけにはいかないはずだ。
 
 

50代がさっぱりわからない

 
ゆうべ、文章をなにも書かなくなった夢を見た。無気力な、何をすればいいのかわからなくなった未来の自分が、消極的に、もっと本業に取り組むかと呟いているのが物悲しかった。もちろんこんなのは本業に精力的に取り組む人々には当てはまらない、私の文脈内部にしか当てはまらない物悲しさだ。私は人生の半分以上、文章を書きながら生きてきた。だからなにも書かなくなった自分とは、人生の荷物の大事な部分を落としてきた自分のように思える。
 
年を取るということがわからなくて、年を取るということを少しでも知って、うまく立ち回りたくて、不安を軽減させたくて、私は努めてきたつもりだった。だというのに今の私は書くことがわからず、年を取ることもわからなくなっている。精神疾患になっているとは思わないが、いつ頃からか、迷いの季節に突入したな、と思う。
 
思えば30代後半〜40代前半は、自分の立ち位置と立ち回りのうえで便利な時期だった。もう中年だけどまだ若手だし、まだ若手だけどそこそこ世慣れてもいる。その両面を、如意棒のように振り回して社会適応できるのがその頃だった。知識とバイタリティと好奇心のバランスも良かった。
 
ところが40代も後半に入り、そのような社会適応が早くも成立困難になってきた。中年だけど若手、という立ち位置を他人に対して成立させられなくなって、中年オブ中年とでもいうべき新境地が現れてきた。自分を若手のように見せかけても、周囲、とりわけ年下はそのように見てはくれないだろう。社会的加齢は、自分の一存だけで決められるものではない。
 
すると、コミュニケーションも微妙に変わってくる。たとえば、20代の異性と20代のうちに恋愛するには20代のうちでなければならない。わざわざトートロジーめいたことを書くのは、かりに40代が20代の異性と恋愛できたとしても、それは40代が大幅に年下の異性と恋愛するのであって、20代の異性と20代のうちに恋愛するのとは随分ちがっているからだ。
 
世の中には、若い異性を金で殴ってなびかせ、侍らせる中年もいると聞く。そういった行為にも固有の意味はあろうけれども、若かりし日を取り戻せないのだけは間違いない。
 
同じことがオフ会などにも言える。どこかの新しいオフ会に出かけるとなったら、参加時点で私は最年長である可能性が高い。若かった頃と異なった役割を期待されるわけで、立ち回りを変えなければならなくなっている。それ自体、うまくやってのけたとしても、そこから汲み取る経験は以前と同質ではない。
 
そして体力気力集中力の衰え。
自分が書くということへの(しばらく忘れていた)疑問。
好奇心が膨らむより先に首をもたげがちな、「それって以前に見たことあるよね」という先入観。
 
自分は書き続けられるのか?
続けたとして自他に有意味なものをつくり続けられるのか?
 
そうした疑問は数年前からうっすらあったが、2020年代に入って少しずつ高まり、今、自分はわけのわからないゾーンにいる。もともと『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を書いた時に大事な何かが抜けていった気はしていたのだけど、そこから同じものを再充填できたとは言い切れず、参考文献の山のなかで私は遭難している。
 
じゃあ、書くのをやめてしまえばスッキリした50代を始められるのか? といったらこれもわからない。たぶん無理だろう。より正確には「今はまだ、無理な気がする」。
 
こうして今、アイデンティティの寄る辺がわからない中年になってみると、カネとか、筋肉とか、老年まで持ち越せそうな諸価値に執着したくなる気持ちが少しわかった気がする。でもって案外、そうやってカネや筋肉に執着する人は程度が良いのかもしれない。いやどうだろう? 隣の庭の芝が青く見えるだけかもしれない。カネや筋肉に執着する中年の心境など、わかったようで結局私にはよくわかっていないのだ。
 
「そういう時、ロールモデルの生き方を参考にするのだ」、と人はいうかもしれない。わかっている。私だってできればそうするさ! しかし私の視界内にいた数歳年上の書き手たちは、ほとんど全員、50代になって書くのをやめてしまったか、書く勢いを失ってしまったか、なんだかわけのわからないtwitter論者になってしまった。結局私のエイジングの道は自分自身で切り拓いていくしかなさそうだけど、今は先行きがまったく見えなくて、途方に暮れてしまっている。
 
……で、こういうことをブログにたたきつけるように書く、その身振りも信じて良いのかわからない。
 
インターネットは第一に、願望と思い込みのシミュラークルの鏡地獄なのであって、誰かに何かを伝えるボトルメールとしての機能はもう期待できないように思われるから。この私の戸惑いも、誰かに届くより先に、そういう鏡面が欲しかった人の鏡となり、そういう中年を非難したかった誰かの酒の肴になるばかりなのだろう。しょうもないことだ。そのしょうもない鏡面世界のなかで、こんなこと書いたってなんにもなりやしないんじゃないか。
 

『三体X』のジェンダー観の懐かしさ

 
※この文章はSF小説『三体』の抽象度の高いネタバレを一部含み、その二次創作的位置づけの『三体X 観想之宙』についてはほぼネタバレは含まないと思います。ご承知おきください。※
 
 
SF小説が無性に読みたくなるのはだいたい疲れている時だ。で、先週末はとても疲れていたので、頑張った私へのご褒美として『三体』の二次創作的作品を読んでみることにした。
 

 
この『三体』の二次創作は、二次創作とはいっても後にプロとして活躍する作家さんの手によるもので、版元が原作と同じところであることからも、厚遇された二次創作であることがわかる。
 
で、ネタバレをできるだけ避けて書くと、これもとても面白かった。現在のインターネットでは、こうした作品のネタバレにセンシティブな風潮があるので、ここでそのSFっぽい面白さを詳らかにすることはできない。
 
しいて書くなら、原作がなにかと「物理」で殴って事態が進んでいく作品だったのに対して、この二次創作は「  」で殴って、というより「  」を巡ってSFっぽさが広がっていく感覚だろうか。私は原作の「物理」で殴る感覚にすっかり虜になってしまったけれども、こちらもこちらでなかなか雄大だ。
 
それでも個人的には『三体』原作のテイストのほうが私は好きだ。二次創作だから特に比べやすいのかもしれないが、原作『三体』の、文鎮のごとき重厚さは原作ならではだったのだと再確認できた。『三体X』にも、漢詩や聖書の引用がバッチリ決まっている場面などはあるけれど、それでも原作『三体』のほうが重たさに巧さがあるよう感じられた。
 
 

その懐かしいジェンダー観

 
作品そのものについてはこれ以上おしゃべりできなさそうなので、作品の枝葉について、ここでは女性の描かれ方、男女の描かれ方について印象に残ったことを書く。
 
原作『三体』でうっすらと感じ、この『三体 X』ではっきり感じたのは、女性の描かれ方がなんだか古いSFや古い男子向けエンタメ作品っぽいこと、それに伴って男性役割や女性役割といったジェンダーっぽい表現でまとめられそうな役回りが古風であることだった。
 
作中にも名前が出てくるので比較すると、『三体』シリーズに出てくる女性の描かれ方や役割は、『銀河英雄伝説』に登場するアンネローゼやフレデリカ・グリーンヒル、カリンの役割に似ている、と感じた。もちろんこれらの女性キャラクターも『銀河英雄伝説』の作中ではそれなり活躍しているのだけど、それでも物語全体を主導するのは男たちだった。
 

 
『銀河英雄伝説』が男たちの英雄譚であるのに似て、『三体』もまた、男たちに主導される物語と感じる。女性キャラクターが活躍する場面が皆無なわけではないが、その度合いは、『銀河英雄伝説』に出てくる女性キャラクターぐらいの比率のように感じられた。
 
だから『三体』が駄目だと言いたいわけではない。
とはいえ歳月は感じる。
 
『銀河英雄伝説』と『三体』の間には二十年かそこらの歳月が横たわっている。その間に日本社会は変わり、日本社会のジェンダーに対する感覚も、諸ジャンルで描かれる女性キャラクターの役割も変わった。だから『三体』『三体 X』で『銀河英雄伝説』を連想させるジェンダー観に出会った時、あたかも20世紀の作品のような感触をおぼえ、けれども内容的には21世紀のSF作品なのでえもいわれぬタイムスリップ感が伴う。
 
外伝である『三体 X』においては、原作『三体』以上にそうしたタイムスリップ感が強く感じられ、男性性と女性性が素朴に描かれていると感じた。まるで、めしべとおしべは必然的にくっつくかのようじゃないか、とも思った。人によってはそれを批判的に捉え、「遅れている」「押しつけがましい」だなんて言うのかもしれない。私には、それらが性や性欲に対する信頼の篤さのようにもみえた。
 
なお、私がこう感じた理由は、直近で見てきた作品の印象が残っているせいもあると思う。この直前に読んだSF作品の『プロジェクト・ヘイル・メアリー』や『われらはレギオン』は、ジェンダーやセクシャリティの面で淡泊だった(そしてその淡泊さが私には心地よかった)。
  
これらの作品からは20世紀のジェンダー観は想起されない。そのことも、『三体 X』の印象にいくらか影響していた可能性は、ある。
 
 

『三体』や『三体 X』がそうなのか、中国SFがそうなのか、中国社会がそうなのか

 
ところで、この、『三体』や『三体 X』から感じたジェンダーの20世紀っぽさは、これらの作品に特異的なものなのだろうか?
 
それとも中国のSFの書き手や読み手のジェンダー観がだいたいそんな感じなのか? ひいては中国社会のジェンダー観がだいたいそんな感じなのか?
 
中国は日本ではない。もちろんアメリカやカナダとも違っている。そしてジェンダー観にしても家族観にしても、欧米化のスピードには 欧米ー日本ー中国 の間にズレがあり、中国の人々の通念や慣習は、きっと日本より遅くから欧米化し、けれども日本より急速に欧米化しているのだろう。その、欧米化の圧縮具合とスピード具合のあらわれの一端が、東アジアでは少子高齢化を促している部分もある。
 
ある面では間違いなく21世紀の最先端をゆく中国社会が、にも関わらず、ジェンダー観も含めた通念や慣習の欧米化の面で20年ぐらい日本とタイムラグがあり、いってみれば、当地の人々の心は20世紀末ぐらいを生きているのだとしたら、彼らには2022年はどのように見えているのだろう? そして日本やアメリカのジェンダー観をどのよう眺めているのだろう?

韓国小説『82年生まれ キム・ジヨン』に出会ってしまった時ほどではないにせよ、『三体 X』の読後感の一部分として、中国の人たちがどのような時の流れのなかで男女を捉え、どのような心の布置のなかで生きているのか知ってみたくなった。その興味を膨らませてくれた点でも、『三体 X』は私にとってありがたい作品だった。やがて私は、その手の中国の小説を読むことになるのだろう。