シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

教養が欲しくなった

 
2025年12月4日の23時15分頃、「教養をつけるべし」という霊言が私に降ってきた。
 


 
うん、私は今、教養が欲しい。
なぜならポストモダンが本当にやってきて前が見えないからだ。
 
 

「フェイクかファクトか」と考えることに、今、意味があるのか

 
ここ一か月ほどの私はインターネットが億劫だった。Xやブルースカイは特にそうで、疲弊した金曜夜にそれらを死んだ目で眺める時間が呪わしかった。こんな蜃気楼を眺めて何になる? と。
 


 
現在のSNSにおいて、フェイクかファクトか判断するのはとても難しい。自然科学のファクト、たとえばエタノールを構成している元素とか、光の速さとかはファクトとして変わらない。社会的な事柄でも、日本国の実在やgoogleのサービスの実在などもファクトだろう。しかし、もっと外側の社会的な事柄については、フェイクかファクトかを判断するのは本当に難しい。実際、私のXのタイムラインなどには社会的な事柄について正反対のメンションが絶えず流れているので、「どちらがファクトでどちらがフェイクか」、といった風に考えてしまいやすかった。
 
その混沌としたタイムラインを前になすすべがなかったのがここ一か月ほどの私だ。やがて、もう少し出自のしっかりしたメディアから流れてくる情報すらちょっとわからないと感じるようになった。どの情報筋が信頼するに値するのか、どの機関のどういうステートメントなら信頼して構わないのか、ニュース速報が合っているのか誤報なのか、等々。よしんばファクトらしいとあたりをつけた場合も、それをインフォメーションとしてどう咀嚼すればいいのか? ……まで考えてみた時、私は、一番人気の馬券を機械的に買う以上のことができているのか、自信がなくなってきた。
 
コロナ禍が始まった頃は、フェイクかファクトか判断する意気込みをまだ私は持っていた。兵庫県知事選挙が話題になっていた2024年の11月頃もそうだったと思う。つべこべ言いながら、どこかで自分を信じている部分があった。
 
けれども今年の後半ぐらいから、いよいよ本格的にわからないと感じるようになってきた。経済的なこと、政治的なこと、社会的なこと、そういった事柄についてのニュースやメンションを前にした時、私は判断できているのか? それとも誰かや何かに流されてしまっているのか? 前はまだわかったつもりになれていたが、今はわかったつもりになれない。
 
今の私にも確からしく思われるのは、Xにしてもブルースカイにしてもブログやウェブサイトにしても、新聞やテレビにしても、それらは全部メディアをとおしてメンションやステートメントを吐き出す場所で、プロパガンダやポジションから自由ではあり得ない、ということだ。かつまた、そのプロパガンダを流す側やそのプロパガンダを受け取る側が、感情を宿している。喜怒哀楽に加えて、妬みや恨みといった感情も宿しているだろう。そのことが情報の授受に志向性を与える。
 
では、ひとつひとつのメンションやステートメントからプロパガンダ成分やしみ込んだ感情を除外して眺め直した時、そこに残るのはフェイクかファクトか? その混合物か? 混合物だとしてその配合具合はどんな塩梅か? そのメンションやステートメントはどんなポジションを背景に行われていて、そのポジションを類推する妥当性は……。
 
やめやめ。こんな具合に考え続けても、わかるわけがない。
 
私たちは全知全能ではないから、この情報の滝のなかですべてを検証するのは不可能だ。視界に入る情報についてファクトかフェイクかをいちいち検証すること、とりわけ学術研究者のごとき態度で検証することは不可能だ。そんなことをするよりは、もうニュースはNHKやBBCなどしかあてにしない態度を決め込んでしまったがラクだ。
 
さてそうなると、Xやブルースカイなどのタイムラインや更新記事を追いかける気持ちが薄れる。それらは私の感情にさざ波を起こすことはあるが、それゆえに、フェイクかファクトかなどと考えさせてくれない。感情にさざ波を起こすようにできているアーキテクチャのなかでわざわざそんなことを考えるのは取り越し苦労というものだ。
 
で、私一人がそういうXやブルースカイの情況から一抜けしても事態はなにも変わらない。SNSというより社会全体、世界全体がそういう情況から抜け出さない限り、この、真贋の定まらない状態は続くだろう。この状態が変わるように期待している人も、本当はあまりいないんじゃないかとも思う。 知恵のまわる人々はたいていポジションを持ち、そのポジションを持った人々が期待しているのはプロパガンダの成否と感情を絡めた扇動、あるいは、ファクトという看板を掲げながらメンションやステートメントを繰り出すことであって、不動のファクトや間違えようのないフェイクがあると信じられた時代への回帰ではないんじゃないだろうか。
 
 

ぐるっと回って自分のアタマで考えたくなってきた

 
社会とそれを内側から支えているメディアがこんな風になってしまって、私はどうすべきなのか?
ひとつ。引きこもりたい。真贋が定まらず判断もできない情報の濁流から一定の距離を置いておきたい。もうひとつ。教養が欲しくなった、自分のアタマで考える力としての教養、が欲しくなった。
 
教養、とは色々な使われ方をする言葉で、ときには知識やうんちくのマウンティングの具材とみなされることもある。実際問題、それが有効で必要な場面も世の中にはあるのかもしれない。また、教養主義という言葉も過去にはあったが、これも言っていることが微妙に違っている風にみえて、なんだかわからない。一時期話題になった『教養主義の没落』には、
 

 

本書の対象は教養そのものよりも教養主義と教養主義者の有為転変のほうにある。近代日本社会を後景にしながら、教養主義(者)の軌跡を辿ることで、エリート学生文化のうつりゆく風景を描き、教養主義へのレクイエムとしたいのである。
(『教養主義の没落』より)

と記されていて、教養主義のほうにウエイトが置かれている。
 
人格の完成を目指す大正教養主義、学生運動や社会運動の寄る辺としての教養主義、近代社会における主体としての個人を陶冶する教養主義、等々。同書には、色々な時代の教養主義、大衆からエリートまでの教養主義が登場するが、時代のコンテキストが2025年と隔たっているのは言うまでもない。そして教養主義の時代にはモダン、近代の進歩、近代の啓蒙、近代の約束といったものが多かれ少なかれ残っていて、その近代における知的準拠点として教養なるものに期待が持てる時代だった。
 
今はどうだろうか?
この文章のいちばんはじめに、私は「なぜならポストモダンが本当にやってきたからだ」と書いた。ポストモダン、ポスト近代、ポスト構造主義が論じられ流行したのは20世紀で、確かにその頃にもそれらの言葉があてはまる現象はあり、今こそポスト近代だとみていた人は当時実際にいたのだろう。
 
けれども後期近代とか、ハイモダニティという別の言葉を用いる論者たちの考えに基づくなら、近代は終わったのでなく徹底された、または変形したのであって、そのうえで知的準拠点は相変わらず近代の諸思想だった。2010年代のはじめのほうまでは、この後期近代やハイモダニティといった考え方は割と世の中によく当てはまっていて、近代末期の情況を掬い取っていたと私は感じる。
 
しかし2020年代以降の現状を、私は「本当にやってきたポストモダン」「本当の近代の後」と捉えている。近代の進歩は部分的に続いているかもしれない、いや、少なくとも続いている部分はあろう。けれども近代の啓蒙、近代の約束を成立させている諸条件は半世紀前~四半世紀前に比べてガタガタになっている。近代の啓蒙や近代の約束が成り立っている風に装っていた化けの皮もはがれてきた。たとえばパレスチナで起こっている出来事などは、西洋近代体制の羊頭狗肉*1っぷりを物語っている。
 
こんな混沌とした時代のなかで、自分はどうすべきだろうか? 寄る辺がない。だから私は自分のアタマで考えなければと思った。だからといって、Xやブルースカイに流れていることのひとつひとつの真贋について自分のアタマで考えようとするわけではない。やるだけ無駄だし、やろうとしてもきっと自分自身の感情やポジションに喰われ、ぬかるみにはまるだけだ。さしあたり、世俗の出来事については(近代という体制のバイアスに基づいていることを承知のうえで)NHKやBBCや新聞などに判断をアウトソースしてしまうのがベターだと想像している。
 
自分のアタマで考えるのは、NHKやBBCや新聞が教えてくれなさそうなこと、たとえば自分たち自身の社会適応についてだ。混沌の時代にあって人生の舵取りをしていくのは難しい。けれども社会適応は、より妥当性のあるかたちで状況を把握できる者が有利になりやすく、同じ把握でも早く把握した者が遅く把握する者よりもアドバンテージを持てるのが通例だ。完璧でなくていい。ほんの少しでも状況をうまく把握し、ほんの少しでも早く把握できればそれで充分だ。
 
しかし、そのためにはアンテナが高いだけでも駄目だ。アンテナの感度は人並みでもたぶん構わない。それより、肝心な事柄についてもっと粘り強く考える力が要る。その力、自分のアタマの筋力に相当する力を与えるものはいったい何なのか。それが教養ではないか?
 
教養という言葉には近代のにおいがこびりついている。が、この期に及んで近代のプロダクツを無批判に受け入れると、今起こっていることを近代というバイアスに基づいて解釈し過ぎる危険を含んでいる。他方で、知的純拠点たりえるオルタナティブを、私は思いつけない*2。仕方ないから、近代の書籍や作品に「これは近代のインサイダーです」という付箋を貼り付けながら私は参考にする。でも、そうすることで、少しだけ近代の重力に魂を奪われた状態がマシになる気がする。
 
そうしたうえで、過去に考えを練って練って練った人たちの思考の足跡、論の立て方、ものを考える際の手つきを私は少しでも学びたい。何が書いてあるかだけでなく、どう書かれているのか、どう書いているのかも重要だ。別に書籍を読むばかりが能でもない。絵画や彫刻もあるだろうし、ユースカルチャーの産物、たとえばゲームやアニメを参照してはいけないこともないだろう。教養を、難しい本、まして人文社会科学の本に絞るなどあってはならないことだ。印刷技術の産物は確かに重要だが、だからこそその外にも目を向けなければ印刷技術の知に囚われてしまう。
 
自分のアタマで考えるといっても、要は巨人の肩の上で歌ったり踊ったりしようって肚だから、自分が乗っている巨人について知っておくに越したことはない。その作業も、ここでいう教養を得るということにかなり近いだろう。
 
もっとうまく、もっと自由に巨人たちの肩の上に乗り、そこで歌ったり踊ったり眺めたりするための教養が欲しくなった。欲しいものは、戦ってでも手に入れるまでだ。
 
 

*1:つまりカントやヘーゲルの頭に凶獣の身体を合体させたような体制

*2:ギリシア哲学やスコラ哲学にしたって、今、私たちがなんにも考えずに触れる際には、たぶん近代のパースペクティブ越しにしかそれらをみることはできないのだろうなと思っている

読書は孤独じゃない、なぜなら天才や怪物を召喚できるから

 
いつも読書の参考にさせていただいているホリィ・センさんのアカウントに、ゆうべ、以下のようなメンションがあった。それを読み、勝手なことを書いてみたくなった。
 


 
ホリィ・センさんのこのメンションは、最近一部で話題になっている「令和人文主義」なる語彙に関連したものらしい。私は、この「令和人文主義」なる語彙についてよくわからない。「令和人文主義の解説」なるものを読んでも理解した気持ちにならなかった。ただ、言及する人たちの熱量のうちに、ブログがブームだった頃のような熱量を嗅ぎとった気した。
 
それより、読書の孤独性や一人性について、私は考えこんでしまう。
独りで読書している瞬間には誰もいないし誰からも邪魔されない……ようにみえる。でも、読書している時って、本当に人は一人だろうか? 最近の私は、そう感じていない。昔からある程度までそうだったが、特に最近は孤独な読書をしていない気がする。そのあたり、好きなことを書いてみたくなったから書いてみる。
 
 

みんなで読む読書・コミュニケーションを伴う読書

 
はじめに、孤独でも一人でもない読書の、わかりやすい例について考えてみたい。社会には、狭義の「みんなで読む読書」に相当する行為が幾つかある。それらの読書は多かれ少なかれ孤独ではない。
 
たとえば大学の研究室で皆で本を読む時、その読書は孤独ではない。そのとき読書は本と一対一で向き合うものではなく、指導教官と学生たちがコミュニケーションを行いながら書籍を紐解いていくかたちになる。そういう読書の良いところは、指導教官から読み方や読み筋を教えてもらえること、他の学生と議論をしたり補足しあったりしながら読めるところだ。そのかわり、読み方や読み筋はある程度まで指導教官や他の学生の影響下に入ることになる。読書をとおしてインストールされる知識、または読書体験そのものは、指導教官や他のゼミ生からの影響のカラーを免れ得ない*1
 
それよりもっと緩い、読書会という集まりもある。読書会には指導教官は存在しないが、コミュニケーションは存在する。読書会には複数名が含まれ、そこにコミュニケーションもあるだろうし、読み方や読み筋についても幅があって面白かろう。とはいえ、この場合もインストールされる知識や読書体験には他の参加者からの影響のカラーが紛れ込む。
 
それらをもっと緩く・もっと広くした体験として、「話題の本を読む」「誰かの書評記事を見て本を読む」という体験もある。自分の属しているインターネットの界隈で話題になっている本があり、その感想文や引用文などがチラチラ見える状況下で読む読書は、読書会ほどではないにせよ、その本について言及しているメンバーからの影響を被る可能性がある。同じく、書評記事を見て本を読む行為も、大学の指導教官ほどではないにせよ、書評記事というメディアをとおして書評者とコミュニケーションが行われ、書評者の影響を受けながらの読書になる。なら、それだって厳密には孤独の読書と言い切れない。
 
逆に、自分が読書について「発信している」場合もあろう。
レビューを書き残したり、その本についてSNSに書いたりしているなら、それも孤独の読書とは言えない。読書した事実や読書をとおして獲得したことをブログや SNSに書き残し、他人がそれを読むよう期待するのはコミュニケーションである。そうしたコミュニケーションが織り込み済みの読書はどうにも孤独じゃないし、それで「いいね」がついたりつかなかったりする読書も孤独じゃない。それも読書には違いなかろう。ただし、それはコミュニケーションに紐ついた読書だと言えるし、社会的相互行為としての読書、ときには政治的行為としての読書というニュアンスさえ含んでいるかもしれない。
 
こうした要素をできるだけ切り捨て、読書体験の孤独さの純度をあげていくとしたら? 最も孤独な読書とは、ぶらりと本屋を訪れ、店内をぶらぶらしたり立ち読みしたりしたうえでこれぞ、という見知らぬ本を手に取る体験……あたりが該当するんじゃないだろうか。書店員のオススメ欄に置かれていた本を読む読書、派手な広告に惹かれて読む読書、帯に記された推薦者の売り文句に釣られて読む読書も、若干、孤独ではないかもしれない。なぜならそれらのメディアをとおしてコミュニケーションが発生し、そのぶん、誰かの影響下に入っていると言えるからだ。
 
そういったものをガン無視して、前評判や前知識や人間関係などと無関係に手に取って読む読書が、一般的には孤独の読書といえるんじゃないかと思う。
 
 

でも、いつだって著者が存在している

 
で、そうやって前評判や前知識や人間関係から距離を置いた読書をしていてさえ、最近の私は孤独を感じない。なぜなら、そこには著者という人間がいるからだ。
 
たとえば、この『西洋近代の罪』という本には大澤真幸という著者がいらっしゃる。
 

 

 これらは、全体としてどこに向かっているのか。それは、西洋近代の裁量の部分、啓蒙主義が見出した価値や理念の否定であろう。多文化主義、気候主義、LGBTQ+、ジェンダーの平等等の思想の多くは、直接的には、20世紀の終わりから21世紀にかけての時期に唱えられるようになった新しいものだが、それらを基礎づけている基本的な価値や理念は、ヨーロッパの啓蒙主義の時代(17-18世紀)に見出されたものだ。多文化主義や気候正義等は、この時代に定期された人権、平等、自由等々の概念の発展や現代版だ。トランプの制作は、これらをすべて否定するものである。
(中略)
トランプは、AIの開発などIT関連のビジネスを大々的に支援するつもりでいる。これもまた、西洋近代の理念的な産物の否定を促進する仕事になる。なぜか? ミシェル・フーコーが、1966年に発表した『言葉と物』で、西洋近代(19世紀)のエピステーメー(認識枠組み)は、「人間」の概念を中心に置いて成り立っている、。と論じた。フーコーは1960年代後半の段階で、人間主義の終焉を予言していたわけだが、AIの急速な発展とともに私たちが今立ち会っているのは、19世紀的な人間概念の崩壊の過程以外のなにものでもない。トランプのIT企業への肩入れは、この家庭にさおさすものである。

私は大澤真幸という著者が特別に好きなわけではないが、上掲の文章などを読むと、「ああ、この著者さんならこう書くのはわかる気がするなー」などと感じ取ったりする。近代社会と啓蒙とトランプとAIについて論じる人はたくさんいようが、この著者ならこう書くのはすごくわかるし、この著者がこう書いたからこそ私が受ける影響というのもある。たとえば私は、これを読んで本棚の隅っこで居眠りしているフーコー『言葉と物』を叩き起こしたいと思ったわけだ。
 
この本に限らず、新書タイプの書籍は著者に教えられて次の読書に広がっていくことが多い。新書というフォーマットはおしゃべりだと思う。新書それ自体で一冊の読み物をなしていると同時に、著者が「この本は面白かったよ」「この本を引用してこれを書いているんだよ」と教えてくれる。これは新書に限ったことでもないか。著者はいつだって何事かを読者に投げかけてくるし、本とはそのようなメディアだ。だから私は読書をとおしていつでも著者の影響を受けているし、著者とのコミュニケーションを感じ取っている。
 
さきほど挙げた大澤真幸の新書にしても、それを通して私は彼の近代観、彼の啓蒙観、彼の21世紀観を浴びているわけだ。そしてイエス! と思ったり ノー! と思ったり ウムム…… と思ったりして、いわば討論している。私はこれをkindle版で導入したけど、メモ欄には、著者に向かって書いたことや自分と著者の考えを結び付けるために書いた殴り書きが残されている。読書であると同時に紛れもないコミュニケーションだと思う。
 
 

読書は天才や怪物を召喚する

 
で、読書の面白さとヤバさのきわみにあるのは、「読書は天才や怪物を召喚する」点にあると思うんですよ。
 
新書の著者だってコミュニケーションの相手として十分に面白いしヤバい。けれども、読書でコミュニケーションできる相手はもっともっと広い。その分野を代表する学究や思想家、数百年前の偉人とさえコミュニケーションできてしまう。
 


 
上掲ポストの著者であるボードリヤールやブルデューも、そうした召喚可能な天才や怪物だと思う。彼らの著書が欠点を含んでいないわけではないし、今日の研究では否定されている部分もある。しかし、著書の実物を読んで得られるものは「まちがいがある」「今日の研究では否定されている」といった切り取りだけでは到底済まない。その時代・その社会状況のなかで達成した偉業に驚いたり、それらを紹介する入門書には記されていない含蓄の深さや思慮深さ、ユーモアなどあてられたりする。
 
そうした過去の天才や怪物の著書は新書よりも読みづらかったり、その時代・そのジャンルのコンテキストを踏まえておかないと読めたものじゃなかったりすることが多い。だから、一冊読む前に何冊も新書や入門書で準備をしたり、同じ時代の異なる著者を当たってからアプローチしなければならない等の面倒さはある。
 
だけど、いざ自分で読み切れた時の喜びは大きい。過去の学究や思想家の怪物じみたパワー、知の脈拍をじかに感じ取れる。私は我を忘れ、その知の営みを賛美する。そんな読書体験の最中において「まちがいがある」「最新研究では否定されている」なんてのは、小さな問題でしかない。もちろん、引用する際にはそうした部分を点検すべきだろう。でも、読書をコミュニケーションとみなす場合、まずは眼前にフーコーやブルデューやルソーといったすごい面々が召喚され、じかに自分に向かって語り掛けてくる戦慄、遠い過去からものすごいものを投げかけてくる感覚に打ち震える。
 
だから、読書は著者を、過去の天才や怪物たちを召喚する魔術なのだろうとも思う。この点において本とは正しく魔導書であり、「読んだら発狂する本」「読んだら戻れなくなる本」「読者を下僕にしてしまう本」が世の中に沢山存在するのは間違いない。そういう目でジュンク堂書店や八重洲ブックセンターの奥のほうを眺め直すと、過去の大物たちが手招きしている危ない洞窟のようにみえてならない。大書店の静かなエリアは、天災や怪物たちが眠るカタコンベと言っても過言ではない。
 
 

天才や怪物は、何度でも召喚できる

 
そのうえ、そうした強烈すぎる天才や怪物たちは何度でも蘇ってくれる。たとえば私も、さきに挙げた書籍たちを何度か通読している。飽きる気配はなく、暇な時にパラパラとめくったりする。手許に書籍さえあれば天才や怪物たちは何度でも召喚できるし、する甲斐がある。まるで『Fate /Grand Order』のカルデア召喚術のごとく、私たちは読書をとおして天才や偉人たちを何度も何度も呼び出し、サーヴァントのように使役することができる。
 
もちろん、ここでいう使役とは考える対象としての使役、そしてコミュニケーションとしての使役だ。自分の代わりに考えてもらう使役もあり得るだろう。時間をかけて向き合うも良し、枕頭の書として少しずつ言葉をわけてもらうも良し。彼(彼女)らは一筋縄ではいかないので、一度読んだだけで理解できるとは限らないし、下僕にならずに済むのかもわからない。が、何度でもいつまでも召喚できるのだから、細かいことは気にしなくて構わない。なにせ相手は、何十年も何百年も前に時代や分野のパイオニアになったような偉人なのだ。まずは怪物じみたパワーに惚れこみ、噛みしめようじゃないか。
 
そうして自分の本棚の一番良い場所に、お気に入りの天才や怪物の本を並べておけば、彼らを召喚しっぱなしにしているにも等しい。これも『Fate Grand Order』のチームバトルに似て、自室のいちばん手近な本棚に並べる本のチョイスは、(ソーシャルゲームやカードゲームで)デッキを組むのに限りなく近い。いちばん手近な本棚の本たちは、ほぼ直接的に自分の思考やアイデアに影響をもたらすし、それらは一番手近な話し相手としても機能する。個人的なイメージとしては、以下のようなチョイスに近い。
 

手近な本棚って、ソーシャルゲームのお気に入りデッキ編成にすごく近いと思う。今、自分に必要なバフや援助を与えてくれる本を並べておくと、いろいろはかどりやすくなるのでお勧め。

 
ページさえめくれば、いつでも過去の天才や偉人、怪物じみた力を持った著者たちが待ち構えていて、相手をしてくれるって素晴らしいと思いませんか? 私は思います、本ってすごい発明品だよね。
 
こうして考える場合、読書はまったく孤独な体験でなく、いつでも著者とお話できる召喚魔術ってことになる。私はそんな風に読書をしていて、私の本棚からはたくさんの偉人や天才や怪物や大学者たちの叫び声やうめき声や金切り声や演説が聞こえてくる。大きな書店や図書館でも同様だ。そうした著者たちの声がよく聞こえる日には、寂しがりな私でさえ寂しさが吹き飛んでしまう。
 
 

*1:もちろん、それがリテラシーやディシプリンを身に付けるうえで大切なのだけど、それは於く

別に、私が中年危機を克服したってわけじゃなくて

 
私の2024年は、まだ終わっていない。
私にとって2024年は「人間の自己家畜化」と「推し活」と「中年危機」についてひたすら書き続け、しゃべりつづける年だった。ありがたいことに色々な人にご関心を持っていただき、私もたくさん課題を持ち帰った。それは良かったのだけど、2025年になっても問い合わせが続くのは想定外だった。ちょっと負担になりはじめている。
 
そのなかで、今日は「中年危機」についてグチグチ書きたい。
 
私は現代人と私自身の年の取り方に関心があって、2010年代には当時の若作りな傾向、たとえば"美魔女"や"チョイ悪オヤジ"に象徴されるようなエイジングの混乱に違和感を表明する本を書いたりした*1。当時は現在以上に中年や老年に対するネガティブなイメージが流通していて、加齢恐怖症めいた、若さ至上主義っぽい社会風潮があったように思う。
 
で、あれから10年が経過し、好ましい中年像や老年像は少しはできあがっただろうか?
日本社会全体が年を取ったためか、昔ほどの若作りは目立たなくなった。若者然としたライフスタイルやメンタリティを後生大事にすることは、今、決してカッコいいことではないように私には見えている。

しかしそれは私自身が年を取ったため、それも私が混乱しながら年を取ったためそう思っているだけかもしれない。若者と呼ばれる年齢から遠く離れ、中年期の渦中にある私には、私自身と私の世代がどれぐらい若作り的なのか、それともエイジングの歩みを発見しているのか、うまく論じられないと思う。
 
その一方で、私に身体的・社会的・心理的変化がはっきり起こったのも事実だ。今の私の心境は30歳当時とも40歳当時とはかなり違う。私の知己たちの心境も変わったように思う。とはいっても、かつて私が年上世代のエイジングに違和感を投げかけていた頃のように、私自身と私の世代のエイジングに疑問を投げかけることは難しい。私たちの世代のエイジングの是非については、下の世代が批判的に検討すべきことだろうと思う。
 
かわって意識する機会が増えたのが中年危機だ。私自身についても、少なくとも数年前にそれがあったと感じているし、対処が必要だった。でも、その対処が福をなした結果として2024年に3冊の本を同時に出版できたので、当時の一時的な混乱は結果的に良かったのだろう*2
 
それなら、私は中年危機を克服したと言えるか?
いやー、どうだろう? 私がそれを克服したのか克服していないのか、それともこれからが本番かなんて、本当は誰にもわからない。
 
 

中年の皮膚の内側を、若さの亡霊が這い回っている

 
数年前の行き詰まりを突破したつもりでも、還暦までにはまだ時間があるし、なんでもかんでも割り切れたわけじゃない。中年覚悟完了とはとても言えない。私にも若さへの未練がある。心のなかに、せめぎ合うものがある。
 
ときどき、鏡にうつる自分の姿に、生命の翳りを探してしまう。
荒れた肌や消えなくなった皺は、雄弁だ。普段は、そうした歳月の刻印をスルーできているが、疲弊している日やネガティブな日には気にしてしまう。心の蓋がとれた瞬間には、「もうこの身体はどうしようもない!」といった気持ちになったりする。
 
過ぎ去った時間や失われた可能性についてもそうだ。思春期~青年期に比べて、夢や可能性や"人生の余白"を意識し、あてにする度合いは減った。過ごしてきた時間に対する印象もそれほど悪くない。だけど、たまにそれらの亡霊が蘇る日もある。しょうがないですね。甲斐のないことですね。わかっているが、それでも、過去にあったはずの夢や可能性に気持ちが囚われてしまう日がゼロになったわけでもない。
 
私のなかには子ども時代の気持ちや思春期の気持ちや青年期の気持ちも強烈に生き残っていて、ときどき私の袖をクイクイと引っ張るのだ。今の私には、中年期らしい気持ちが堆積していて、それは子ども時代や思春期には無かった種類の堆積物に違いない。だからといって、若かった頃への執着や、若かったらできるはずのことへの執着がゼロになったわけでもなく、潤いを失った皮膚の内側をそれらが這い回っている……のが本当のところだ。
 
こんな自分自身を省みている真っ最中に『中年危機』というイシューについて読み書きしていると、自嘲不可避というか、自分自身のおかしさに吹き出したくなってしまう。しょうがないですねえ。まあでも、私がこうして不承不承にエイジングの階段をのぼっていくからこそ、こんなふうに読み書きできるのかな、と思う部分もなくはない。執着していなければ、そもそもエイジングに関心を持とうとしないだろう。言及するということは、関心があるということと表裏一体だ。そうして関心を持ちながら、中年らしくなっていく自分自身の心身に慣れ、慣らされていき、思春期や児童期の亡霊たちをどうにか手懐けていく。本当は、他の人もそれぐらいが精一杯なんだろうか? 願わくは、それが私にとっての最適解でありますように。
 
中年危機や中年期心性について記された文献をいくら読みこなしたところで、結局のところ、私のエイジングはもっとゴチャゴチャしていて、執着まみれで、ズルズルと進んでいくのだろうと思う。それが中年危機の克服と呼べたものなのか、私にはわからない。でも、人間ってスッキリしない生き物じゃないですか。少なくとも私はスッキリしない生き物だと自分自身のことを思っている。だから、文献をとおしてエイジングについて調べたり年上の人の生きざまをロールモデルにしたりして役立てながら、割り切れない部分についてはなだめすかしたり、ごまかしたり、社会的体裁に身を任せたりしながらやってくしかないし、やっていくのが私のエイジングの実態なんじゃないかな、と最近は思ったりしています。
 
なので、私にとっても中年危機は他人事にできる領域のイシューではなく、今もここにあって泥んこまみれになっているイシューなんですよと、今日は言いたい気持ちになったのでこれを書きました。
 
 
※本文はここまでです。今回の有料パートは中年危機とは違うことを少し書いているだけなので、常連の方以外は読まなくていいと思います。

*1:講談社から出していただいた『「若作りうつ」社会』のこと

*2:ちなみに、この一時的な混乱については、何人かのはてなブックマークユーザーから重要な示唆をもらい、私は自分が混乱していること・行き詰まっていることを自覚させてもらった。はてなブックマークユーザーには頼りにならない人もいるが、ある日・あるユーザーの意外なコメントが事態を大きく変えることがあるから無視できない

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過労死する人の気持ちがちょっとわかる気がする

 
ちょうど一か月前に「早起きできるようになった。年を取った - シロクマの屑籠」と書いたけれども、11月に入ってからは過労死な気分だ。矛盾も甚だしいが、矛盾した状況を生きていることを書き残せば、生命力の不安定な脈動を思い出せる気がするので書いてみる。
 
今週はとても忙しくて、週のはじめからフルパワー稼働だった。最近は午後8時を回っても普通に全力で働けてしまうので困る。リンク先にあるとおり、あまり遅くまで働くと眠れなくなるので午後9時までには作業を停止したいのだが、昨日とおとといは午後10時まで働いてしまったし、働く必要のあることごとが存在していたりする。今期唯一楽しみにしている『ウマ娘シンデレラグレイ』を視聴するのも遅れているし、『ヨーロッパユニバーサリス5』を遊ぶなど夢のまた夢だ。
 
昭和時代には「24時間働けますか」などとリゲインのCMは歌っていたが、密度の高い令和の労働状況のなかで同じ時間働いていたらたちまち心身が溶けるだろう。私の就業時間+αは、労働生産性の向上や副業としての文章づくりも含めて力の限り・効率のおよぶ限りやり遂げるもので、かつての自分自身のそれを大幅に上回る。私は勤勉になってしまった。異常に勤勉だ。資本主義の悪魔や近代社会の魍魎に憑かれているのではないかと我が身を勘ぐりたくなる。
 
勤勉のバックグラウンドに怠惰がある点も見逃せない。私は怠惰なのだ。怠惰ゆえに勤勉である。怠惰をきわめんとして勤勉をやってしまい、気がつけば自分自身の首がしまっている。向上するのは生産性だけだ。それでは良くないとも言えるし、それで良いとも言える。……いいわけあるか!
 
この身体は、オーバーヒートするマシンのように駆動死反応する。夕方になってくると頭痛がしてくる。たびたび身体は血糖を求める。思うさま糖分を補充していれば糖尿病にまっしぐらだから、飢えたまま作業をしたり干した昆布をかじったまま作業をしたりする。35歳の頃の私だったら休んでいただろう場面でも働くし働けてしまう。衰えた身体。老眼。腰痛。それでも作業できてしまうのは悪いことだ。きりがない。
  
仕事ができて、できる意味や意義もあって、「たぶん今が生涯でいちばん仕事ができるんだ」と魍魎が耳元でささやいて、それらに取り憑かれている自分がいる。文章制作や文献調査もそうだ。繰り返すが私はワーカホリックでなく怠惰なので、休暇をこのうえなく好む。だのに仕事や活動にどこか魅入られている自分自身もいて、それが自分の身体をいじめつつある。これをずっと続けていたら、たぶん血圧や血糖がおかしくなり、脳出血や脳梗塞や心筋梗塞などに討たれるだろう。怠惰であるはずの自分がそんなことを心配しなきゃいけないとはね。でも、この頭痛は本物だ。間違いなく、一生のなかで今が一番頭痛の発生頻度が高くなっている。
 
40代までと比較して働く意義や意味が異様に高まり、働く能力も異様に高まり、だのに自分の身体の耐久性が低下しているというのは怖いものだな、と思う。私の身体は着実に老化していて、壊れたら取返しがつかない。私は身体からのメッセージとしての痛みや疲労に敏感であるべき、なのだろうと思う。ところが夢中になって作業している時、私はしばしばその身体からのメッセージに鈍感になる。そんなことを一週間続けていると、金曜日の午前にはきついと感じるとようになり、土曜日はミイラのように寝ている。『ヨーロッパユニバーサリス5』なんてやっている場合じゃない。土日すら休まなかったら、すみやかに心身を破壊してしまうだろう。
 
できることが増え、すべきことも増えたことで、良かったこともたくさんある。フロイトが言ったとされる*1、中年の課題「働くことと愛すること」の渦中に私はいると思うが、それゆえ、リミッターを超えるとまではいかなくても、身体のアラートが出るまで働くパターンを毎週繰り返している。危険な兆候だ。
 
ははあ、人生にはこういう風景もあったのか。これは、ここまで来てみなければまったくわからなかった境地だった。20代や30代の、身体のホメオスタシス機構が丈夫で、怠惰がもっと前に出ていて構わなかった頃には想像すらできなかった境地でもあった。私は、人生のなかで新しい一ページをめくるのが大好きなので、こういう境地が存在すると自覚できたのは獲得だったが、これは一歩間違えれば全部失いかねないやつなので、ここでこれを書いておいて、自戒にしたいと思っています。
 
 

*1:注:実際には言ったかどうかは甚だ怪しい

書評:『なぜ人は締め切りを守れないのか』

 
 
いい本に出会ったので紹介したくなりました。紹介します。
 
 

 
この本は「人はなぜ締め切りを守れないのか」という疑問から出発して、人間にとって時間とはどういうものなのか、ひいては「いい時間」「悪い時間」とはどういうものなのか等を論じている本だ。締め切りをひとつのキーワードとして、古今の哲学者や思想家のお話を引用し、はるか昔からの人間の時間観念を振り返り、時間に追われる現代人のありようを紐解いていく(そうしたうえで著者自身の展望も記される)。こう書くと重たそうな本に思えるかもしれないが、この本は内容に比してかなり軽やかだ。
 
本書には良い点がたくさんある。
ひとつは、時間について“哲学する本”なのに難読ではない点だ。
 
哲学と銘打った本、哲学に明るい人が書いた本は読みにくいことが多い。少なくとも20世紀までに書かれた哲学系の書籍は、どんなに「やさしい」と銘打ってあっても油断ならないことが多かった。そうした本も読者のことを考えているつもりなのか、リンゴや椅子や机といった身の回りの品を用いて説明していたりする。だが、その比喩がかえって読みづらさを誘発していて、喉に引っかかって飲み込めない本が少なくなかった。
 
本書はそうではない。哲学が好きな人でなければ知らなさそうな21世紀の哲学者や思想家も出てくるし、平易な文章のなかに、ときどきぎょっとするほど鋭利な言葉遣いが混じっていたりする。けれどもそれらが読みづらさに直結しないよう、巧みに論述を重ねていく。
 

 本当は大切な誰かとゆっくり時間を過ごすべきなのに、あるいは趣味に没頭したいのに、スマホの通知に呼び出された経験がある人は多いだろう。それは価値あることを優先したのではなく、期限を、ひいては締め切りを優先してしまったのである。
 さらにひどいバージョンもある。あなたの目の前には明らかに価値があること──読みたかった本、趣味で描いている絵の画材、子育てや大切な人と過ごすこと──ずっとやりたかったことがある。それなのにスマホを触ってしまう。ぼんやりテレビやYoutubeを見てしまう。30分、一時間が過ぎて、あなたはハッとする。なぜだったっけ。なぜこんなことに私は時間を使っていたのか?

私は著者である難波さんのXのアカウントをフォローしているのだけど、そこでの書き方は人文科学に詳しい人が自問自答しているような、なんだか難しそうなオーラが漂っていた。ところが本書はそうでは……ない! 難波さんは、こんなに易しい調子で難しいことを表現する人だったのか!
 
ふたつめの長所を挙げると、なんだか地に足がついている感じがすることだ。
哲学を語る本には、理念や概念や理論が前のめりになっていて、現実が置いてけぼりを食っていると感じてしまうことがある。哲学は、(俗にいう)リアルなモノやコトを馬鹿正直になぞるばかりではないから、それはある程度は構わないことだし、むしろそういう部分があるからこそ、ふだんの生活では考えないことが考えられるようになったりもする。
 
けれども、あまりに理念や概念や理論のレンズ越しに現実や日常について書かれてしまうと、私のような一般読者は戸惑い、迷子になったような気持ちになる。そこを、著者はうまく躱していると思う。

 もしあなたが一般企業で働いているならば、特定の問題解決には知識と経験が必要であり、理論を学ぶだけではうまくいかないことはおそらく体に染み付いているだろう。一方で、思想家や哲学者は、理論を提示する仕事をしているのであり、それを実装する訓練を積むわけではないし、実装で評価されているわけではない。
 念のために断っておくと、これは「アカデミアは机上の空論ばかりで役に立たない」というステレオタイプな批判ではなく、あくまで世間一般との乖離について確認しておきたいのである。
 つあり、ビジョンを実際に実装するためには、誰かがその作業に取り組まなければならないのだ。では、誰が取り組むのだろうか。実務家だろうか。だが、実務家は理論を解釈することの専門家ではない。誰かが理論と実践の橋渡しをしなければならない。

本書の冒頭パートにはこうあり、実際、著者は理論と実践、ビジョンと現実のあいだの乖離について相当意識していると感じた。だから私が読んでもスルスル読めるし、哲学書を読む際に要求される一種独特な思考様式、あるいは「哲学書読書作法」にそこまで頭を切り替えなくても言葉が入ってくるのは嬉しいことだった。
 
みっつめは、タイトルどおり、時間について考える機会になること。
本書は「締め切り」を皮切りに時間について考えを深めていく。「締め切り」の次は「いい時間」「わるい時間」だ。いい時間と言っても色々なものがある。発売されたばかりのゲームを入手し、プレイするうちにどんどん自分が上達していく手ごたえが得られている時、それはきっと「いい時間」だろう。反対に、「本当はやりたくもない仕事の締め切りに追われ、やりたい仕事ができない」時間などは「わるい時間」だろう。
 
そこから更に、著者は「時間正義」について考えを深めていく。普段の私たちは、「時給●●円」といったかたちで、時間を貨幣のように計算し、価値づけしたがる。これはある面では理にかなっている──社会の誰もが共通の物差しで時間について考え、違った価値観やライフスタイルを持つ者同士が足並みを揃えて作業し、契約するうえでは向いているだろう。工場やコンビニや病院といった、いつでも動いているよう期待され、いつでも動いていることが社会全体に大きな恩恵をもたらしているシステムは、この、時間が共通規格の貨幣のようになった考え方に依っている。
 
けれども私たちの主観において、すべての時間が同価値とはまったく思えない。余暇ひとつ取っても、楽しすぎて飛ぶように過ぎていく時間もあれば、Xをダラ見しながら泥のように過ぎていく時間もある。働いている時だって同じだ。身体的にはきつくても充実した労働時間がある一方で、心も身体もたいして使っていないがウンザリする時間もある。
 
「いい時間」をいい時間とみなし、「悪い時間」を悪い時間とみなしたうえで、「いい時間」が増えるように考え、対策し、あるべき時間の姿について議論することは可能か:こうした著者の問いは、「時給●●円」という考えに毒されている私たちには難しいものだと私は思った。けれども、実務ではすぐさま実現できなくても、理論が先回りして考える余地はある。まず、「いい時間」や「悪い時間」と私たちが感じる一面があること、にもかかわらず「時給●●円」や「タイパ」といった考え方によって「いい時間」が蔑ろにされていることは指差し確認できるし、本当は解決に持っていったほうが人類のためになると思い出すことも可能なはずである。
 
理論でしかないじゃないか、という人もいるだろう。しかし歴史を振り返れば、少し未来の社会通念や常識を哲学が先行して考え、問題提示していたパターンは珍しくない。理論が実務の世界に届くには時間がかかるし、届くまでの道のりは直線的ではないかもしれない。けれども、理論が実務に届く前段階では、著者のように考える人──この場合は「時間正義」といった概念をポップアップさせて(先行する議論を踏まえながら)まとめていく人──が必要となるだろう。
 
本書は、読者が「いい時間」や「悪い時間」について考えていくプロセスであると同時に、著者が時間についての考えを深めていく、そのプロセスを垣間見せてくれるものだとも感じた。きっと著者はこの本を書きながら新しく読んで、新しく考え、「いい時間」を過ごしたんじゃないだろうか? そのあたりが、本書の読みやすさや親しみやすさになんらか拍車をかけているんじゃないかなぁ、と勝手に思った。
 
 

私にとっての『なぜ人は締め切りを守れないのか』

 
こんな感じの書籍なので、時間に追われている人、締め切りに恨みを持っている人、「いい時間」とは何かについて考えたい人には本書はおすすめだ。哲学しているのに読みやすく、身近に感じられるテーマの本なので、哲学というと敬遠したくなる人にもすすめられるかもしれない。面白い本である。
 
最後に、私自身にとって、この書籍との出会いがどうだったのかについて少しだけ書く。
 
「時給●●円」という考え方がよく示しているように、現代の時間についての一般的な考え方は、かなり資本主義に毒されている。あるいは近代社会の成り立ちと不可分のかたちにある。
 
著者が述べるように、それは案外政治的なことで、案外私たちをコントロールするものでもある。「タイパのことしか考えられない現代人」とは、長年にわたる統治の産物だとみることもできる。じゃあ、誰が政治や統治をやったのか? 王やキリスト教会、ではないと思う。じゃあ企業や資本家か? ある程度はそうかもしれない。でも、労働者の側だって次第次第に「タイパのことしか考えられない現代人」になっていったんだよね? とも言える。控えめに言っても、「タイパのことしか考えられない現代人」が、専制君主の一声で爆誕したわけでないことだけは間違いないだろう。
 

 
この本の途中には、「時給●●円」や「締め切りに追われる私たち」の世界の時間の流れ方が一方向的であって、たとえば中世の農民の時間の流れ方が循環的だったさまが図示されてもいる。円環的な時間の流れ方は、今日でも農業などをやっていれば当てはまることだし、ほんらい命はつねに循環的だった。輪廻や六道や生老病死にしたってそうじゃないか。人の命までもが一方向的になったから、人は生にすがりつくことはできても死を世界のなかに位置づけづらくなった。本当は、人の命だってコオロギや朝顔とそんなに違わないはずなのに。
 
本書のなかで批判的に検討されている(現代の)時間のありようは、近代以降にできあがってきたものだから、本書に記される時間概念は、近代社会ってなんだったっけ? と考えたい現在の私のニーズにもよく合っている。つまり「締め切り」について考えることは、現代社会、ひいては、近代という大きな物語について考え直す契機にもなる。これは、私にとって非常に刺激的でタイムリーな体験だった。
 
ちなみに本書の参考文献とそのページ数の記し方は簡明で、リファレンス性は高いように思われた。著者の思考の道筋を追いかけるパンくずが拾いやすいのはありがたいことです。