シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

素人の「ぜんぜんいない」と専門家の「けっこういる」問題

 


 
たまたまXの相互フォローの人がこんなことを投稿していたので、思わず「今でもネットを繋げない、社会的ひきこもりに当てはまる人はけっこういらっしゃいますよ」とreplyしてしまった。社会的引きこもりの定義に該当する人は百万人単位で日本には存在しているが、そのなかにはインターネットをまったく使用していない人が少なからず存在している。少なくとも精神医療にかかわっているとそういう社会的ひきこもり該当者を見かける頻度はかなり高く、まったく珍しくもない。
 
 

精神医療でみかけるネットに接続していない「社会的ひきこもり」

 
Lebenstriebさんは、現在の社会的ひきこもりはインターネットにアクセスしている前提でお話していて、私はそうではない社会的ひきこもりにやたらと遭遇している。これは、なぜだろう?
 
Lebenstriebさんのご認識が完全に間違っているとは思わない。社会的ひきこもりに該当し、かつ精神疾患を持っていてメンタルクリニックや精神科病院外来に通っている人は珍しくない。外出は病院とコンビニぐらい、ニートにも該当し、社会関係は少なめだ。そういう患者さんたちは、だいたいスマホを持っているしSNSなどにも触れている。AIに手を出している人もそれなりにいる。
 
その一方で、まったくインターネットに接続しない・できない社会的ひきこもりに相当する人も精神医療の現場では珍しくない。
 
そのなかで最も目立ち、それでいて一定の頻度があるのは未治療かつ慢性の統合失調症に該当し、家族相談や保健師の受診援助、ときにはなんらかのトラブルが嵩じて措置鑑定のようなかたちで受診に至る人たちだ。
 
こうした行政関与となるタイプの社会的ひきこもりは重症度が違う。身なりはまったく整っていないことが多く、入浴や洗顔、整髪といったことができていないことも多い。昔、books&appsで書いた「精神科、入院する。まず、清潔になる。」を地で行くパターンがよくある。
 
何十年も未治療 かつ慢性の統合失調症の患者さんは陰性症状により外界への興味がほとんどなくなっているため、インターネットはおろか、テレビや新聞もまったく見ていないケースがある。食事などは両親や兄弟が健在のうちは玄関に置いておいたり、軒下に置いておいたりして何とかなっている場合がある。もう少し社会機能が保たれている患者さんなら、顔なじみの地元商店や地元食堂に頼って生活していたりする。そうした生活を何十年も続けられてしまい、逆に言えば同じ生活しかできない人の生活が両親の他界や認知症、近所の環境変化などで破壊された時、一気に精神的/社会的問題があらわになり、行政が関与するかたちで精神医療に繋がる場合がある。こうした患者さんがインターネットに接続していることはとても少ない。
 
それとはまた別に、神経発達症(発達障害)や知的発達症(知的障害)に当てはまる社会的引きこもりの人のなかに、インターネットに接続していない一群が存在する。
 
それらに該当する患者さんでも、若い人の場合は子ども時代からYoutubeを見ていたりするのでなんらかインターネットに接続している、またはインターネットの文物に触れていることが多い。しかしそれらに該当する50~60代の患者さんのなかには、インターネットに関心を持たず、インターネットとは縁のないライフスタイルで完結している人が少なからずいる。授産施設とグループホームの間を行き来する生活、地元のスーパーマーケットや商店街で生活が完結する生活、メディアといえば未だ新聞テレビ雑誌で事足りている生活に、インターネットが入り込む必要性や必然性はあまりないようだ。そうした患者さんのうち、高齢な両親と自宅で生活していて、社会的引きこもりの定義にも合致している人は、インターネットと縁のない生活を2026年になっても続けている。
 
 

専門家の「けっこういる」は、素人の「ぜんぜんいない」

 
こんな具合に、精神医療の現場ではインターネットにアクセスしていない社会的引きこもりはまったく珍しい存在ではない。しかし、精神医療の現場でたびたび目撃するインターネットにアクセスしていない社会的引きこもりは、けっして多数派とは言えないし今日のトレンドとも言えないことは私も承知しているつもりだ。
 
統合失調症の陰性症状が著しいタイプの社会的引きこもりは、精神疾患の重症度でいえば相当に重症度が高い。いや、大昔の農耕社会では、本当は外界への関心が乏しく保守的で、ときどき妄想を話す程度の人は別段重症度が高いという風でもなかったのかもしれないが今日の市民社会においてはそれそのままではいられず、精神的/社会的問題として行政が関与する事態になりかねない、と言い直すべきかもしれない。いずれにせよ、この群の患者さんたちは社会的引きこもりに占めるパーセンテージ自体はそれほど高くないだろう。統合失調症の軽症化がいわれている昨今は特にそうだ。
 
かつまた、神経発達症や知的発達症の患者さんで高齢の群も、過去からそう育ってきた人たちだったのであって、いまどきの、幼少期から動画などをみて育つ人たちには当てはまらない。そうした患者さんはこれからいなくなっていく人たちである。
 
だから、精神医療の現場でけっこう見るからといって、このふたつのタイプが社会的引きこもりの患者さんとして「メジャー」とは言えない。精神医療の専門家からみればごくごくありふれた存在だが、社会的引きこもり全体のなかでのパーセンテージは少なめで、なおかつこれから減っていくタイプの患者さんとは思われる。専門家ではないLebenstriebさんが、社会的引きこもりもオンライン化していると見立てている傾向じたいは、トレンドとしてみれば当たっていると思う。
 
じゃあ、Lebenstriebさんと私で社会的引きこもりに対する所感がこうも違うのはなぜか?
 
ひとつはLebenstriebさんがこの話題にオンライン上で言及しているからだと思う。オンライン上にはインターネットにアクセスしている人間しかいない。インターネットにアクセスしない人間は不可視にみえ、それどころか、いないものと思い込んでしまいやすい空間だと思われるからだ。
 
もうひとつ、こちらが本題だが、それは素人と専門家ではみている群がけっこう違うからだと思う。
 
精神医療の現場で働いていれば、社会的引きこもりに該当するさまざまな人に遭遇する。重症度も精神疾患の程度も生活環境や来歴もさまざまの人がいらっしゃる。行政が関与する患者さんは、精神的/社会的に重症度が高いことがほとんどで、そうした患者さんはオンラインでもオフラインでも遭遇頻度はきわめて低い。なにしろオンラインにもオフラインにも出てこないのだから、素人の立場からみれば完全に不可視の存在と言えるだろう。精神医療・精神保健福祉系の職業においては、そうした社会的引きこもりの患者さんと遭遇することは珍しくないが、そうでない職業の人にはその存在じたいがわからないゾーンの患者さんだ。
 
それから遭遇している数の違い。
たくさんみていれば、珍しいものも珍しくなくなる。たとえば手洗いを何十回も繰り返さずにいられなかったりする強迫症(強迫性障害)は、精神疾患ぜんたいのなかでは頻度が少なくパーセンテージも少なめだ。けれども精神医療でちゃんと仕事をしている人にとって、強迫症はまったく珍しいものではない。ASDや統合失調症の症状の一部として強迫症状が出現している患者さんはもちろん、強迫症状オンリーの、最も典型的な強迫症の患者さんも精神医療で働いていれば珍しくないように感じられる。でも、メンタルヘルスの悩みとして強迫症を身近に感じている素人の人はかなり少ないのではないだろうか。本当にたまたま家族に発症した人がいれば身近と感じられようが、うつ病などに比べ、身近に感じる人の数はずっと少ないはずだ。
 
これと同じことは、身体疾患でもきっとあるだろう。
素人の人にとって、潰瘍性大腸炎やSLE、シェーグレン症候群といった自己免疫性疾患は頻度の低い病気、ほとんどいない病気として感じられるだろう。実際、それらの病気は高血圧や糖尿病などに比べれば発病率は低い。けれども医療に携わっていればこれらに当てはまる患者さんに遭遇する頻度はある程度ある。精神医療という身体疾患を取り扱わない領域においてさえ、そうだ。*1
 
その自己免疫性疾患のなかでもますます遭遇頻度が低いものになれば、精神科医にも「ぜんぜんいない」と体感されてしまう。けれども自己免疫性疾患を専門にしていて、しかるべき施設に勤務している専門医からみれば、そうした疾患も「けっこういる」として体感されるんじゃないかと思う。診ている症例数が異なり、診ている患者さんの群が異なればそういうことは起こるはずだ。
 
 

どちらが正しい、間違っているという話ではない

 
こんな具合に、みている群が異なり、みている人数が異なれば、素人のみている風景と専門家のみている風景が異なっていることは往々にしてあるように思う。今回は社会的引きこもりや精神疾患などに引き寄せて書いたが、同じことは医療以外の業界でも──たとえばホテル業の人、たとえば運輸業の人など──いろいろあるだろう。
 
インターネットでは、ホテル宿泊者の奇行が語られることがあり、一宿泊者としての私には信じられない思いがする。スーパーマーケットのお客さんに関する話などもそうだ。しかしもし、それらを本業としている人々がそうした宿泊者やお客さんの存在を語っているのなら、実際そのとおりで、私たち素人とはみている風景が違っているのかもしれない。
 
 

*1:その一因は、SLE精神病やステロイド精神病といったかたちで、自己免疫性疾患に関連の深い病態に遭遇することがあるせいかもしれない。あと、抗NMDA受容体脳炎! これに最初に遭遇するのは内科医ではなくてだいたい精神科医だ。

何の診断か+その診断でどういう具体的内容なのか

 
このブログにはPVの回転速度が速い時期と遅い時期があり、現在は遅い時期にあたる。
不特定多数の人にみてもらうならPVの回転速度が速いほうが良いが、あまり多くの人にみてもらいたくない場合、みてもらってもしようもない場合は後者のほうがふさわしい。で、後者なので「たくさんの人に読んでもらえばいいってわけじゃない」タイプのことで書きたいことを書くシーズンだなと理解しておく。
 
私は精神科診断において、なんの病名に診断されているのかに加えて、どういう内容でその診断名なのかをとても重視している。診断名の重要性は、今日の精神医学、精神医療においても重要だ。たとえば65歳の男性が活動性が低下し、ものをちゃんと覚えられなくなって、閉居気味になったと訴えて来院された時、その診断名がうつ病かアルツハイマー型認知症かで、その人の運命、その人の予後の予測は大きく違ってくる。用いるべき薬剤、対応すべき事柄も違うだろう。同じく27歳の女性が、抑うつ気分や易疲労感、感覚過敏、などを訴えて来院された時、その診断名がうつ病か統合失調症か、それとも自閉スペクトラム症などに重点を置いたものになるのかによってその人の運命、その人の予後の予測、用いるべき薬剤等々はだいぶ違ってくる。特に予後予測と第一選択薬のチョイスの観点からみた時、診断病名を軽視するのはあり得ない。ここをおろそかにすると統計的に有意な治療が提供できなくなる。
 
他方、診断病名が同一でもまったく異なる内実の患者さんも、また多い。ひとことで統合失調症と言っても、破瓜型と以前に言われていたような、比較的短い時間で急速に残遺性人格変化を呈し、妄想や幻覚も慢性化して最終的に長期入院まで行ってしまう人もいれば、人生のある段階で妄想や幻覚が出現したものの、少量の抗精神病薬でほとんどそれらが制御可能で(ただし完全にやめてしまうと症状が戻ってくるのでやめてはいない)、ごくごく僅かにすり減るような人格変化が伴っただけで社会関係にたいした影響のない人もいる。双極症(躁うつ病)も、I型とII型がだいぶ違う、という話を聞いたことがある人もいらっしゃるだろう。その双極症II型と診断される人のなかにも、社会関係がきわめて豊かかつ経済的にも富裕で、比較的高めのゾーンで気分が緩やかに上下動する程度の人もいれば、むしろ社会関係が乏しく経済的にも厳しくて、たえずストレスにさらされて対応不能であるなかで比較的低めのゾーンで気分が不安定に上下動する境地の人もいる。前者と後者では、表向きの病名は同じでも生じている症状の内実は大きく異なるし、症状に関連しているに違いない周辺の事情、レジリエンスに役立てられる資源の多寡も大きく異なるはずだ。実際問題、こうったことはDSM-5TRのマニュアル本にだって「予後を左右する因子」として書いてあるところには書いてあったりする。
 
このような、患者さん個々によって周辺事情が異なり、症状までもが同一とはいいがたい現状を踏まえると、特に当科においては診断病名をしっかりと付けるだけでなく、その患者さんがどうであるのか、または、病名が何であるのかに加えてどういう内容でその診断なのかをいかに意識するのか、いかに情報として踏まえておくのかが重要になってくる、と私は信じて疑わない。ああそう、たとえば知的機能の多寡なども診断病名にかならず併記すべきことがらだろう。知的機能の多寡は、その人の社会適応の幅を規定するだけでなく、その人のレジリエンスにも、その人に対する医療的な説明を主治医がどこまでかみ砕いて説明しなければならないか(ひいては、どこまで疾患等についての説明の細部が伝わらないと想定しなければならないか)の程度にも大きな影響を与える。IQというのも数字だけでなく内容が問題なのだが敢えて説明のために数字を持ち出すと、IQが120の人のうつ病とIQが80の人のうつ病では、やはり前者のほうが治療に際しての持ち札のバリエーションは多くなる傾向がある。ここではIQを挙げてみたが、感情や情緒についての資源、文化的な資源、社会関係の資源の多寡なども同様だろう。そうした診断病名の周辺にあって患者さんの予後やレジリエンスに影響しそうな要素群を、大雑把でもいいから頭に入れつつ診療行為を行うのと、そういうことをあまり意識せずに診療行為を行うのでは、アウトカムはそれなり違ってくるのではないか、と私はいつも考えている。
 
こうした、診断病名に加えてどういう内容でその診断なのかを顧慮する方法のひとつとして、DSM-IVの多軸診断があった。
DSM-IVの多軸診断はDSM-5になって消えてしまったが、あれは便利だった。主たる診断病名に加えて、II軸でパーソナリティ症、III軸でGAFスコア……といった具合に、I軸診断だけで足りない要素をII軸以降の尺度で表記するのは、患者さんとその精神疾患の内実をよく理解するひとつの便法だったと思う。キャリアの浅かった頃にDSM-IVの多軸診断に出会えたのは私にとって大きな獲得だった。なぜなら、アメリカ式の操作的診断基準を用いても、少なくともある程度までは患者さんの内実に迫った診断の付け方はあり得ると理解する、その補助輪になったからだ。
 
これからだったらICD-11のディメンション診断だろうか。
 
note.com
 
金剛出版のnoteで榊原英輔先生がまとめてらっしゃるように、ICD-11では精神疾患はディメンション診断になる。このnoteにも書かれているように、今までのようなはっきりとした病名をつける診断(カテゴリー診断)と比べて、ディメンション診断には捉えづらさ、わかりづらさがついてまわるかもしれない。しかし、従来どおりのカテゴリー診断をDSM-5TRに基づいて行い、そのうえでICD-11のディメンション診断を併記したらどうなるだろうか? たぶん、DSM-IVの多軸診断よりもきめの細かな、「診断病名に加えてどういう内容でその診断なのか」がやれると思う。少なくともその可能性は期待できる。
 
榊原先生がnoteで記してらっしゃるように、ディメンション診断にしたからといって、患者さんの属性や歴史性等々のなにもかもを踏まえることができるわけではない。患者さんを把握する、とは、ある種きりのない作業であると同時に勘所を働かせなければならない部分を含んだものだから、機械的にディメンション診断すればすべての患者さんの病歴聴取が理想的になる、などとも考えるべきではない。が、現実に立ち返ってみれば、うつ病や双極症やアルツハイマー型認知症といった従来型の診断病名をまさにカテゴリーに分類して、そこから先に理解の食指を伸ばしていかないような臨床状況というのもそれなり存在しているようにはみえるので、国際的に標準化されたかたちで「診断病名に加えてどういう内容でその診断なのか」を問うのは好ましい傾向のあるように思う。標準化されるコストを支払うのはちょっとおっくうだが、ユニバーサルに共通化されることで得られるものは小さくないはずなので、意識して身に付けていきたいものだ。
 
(※以下のパートはもっと個人的な臨床雑感です)

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noteで「高学歴という願いと呪い」を見かけた

 
note.com
 
秀逸なnote記事を見かけた。物語そのものが饒舌であるだけでなく、Xで大喜利状態が起こった、そのひとつひとつのコメントまでもが饒舌だった。はてなブックマークでも同様の傾向があった。たくさんの人の心をざわめかせ、動かす物語だと思う。
 
私も心をざわめかせ、動かされた。
私はこういう物語が好きだ。これは筆者の執着であると同時に、ある程度までは私たちの執着だ。そして学歴という本当はあったほうが幸福に近づけそうな要素がありながら幸福ではない人、カネや権力にアクセスしあぐねている人の物語でもある。『課長島耕作』もそうだが、人は、とりわけ男性は、権力や影響力の獲得が通奏低音になっている物語に惹かれる。それがうまくいく物語でも、うまくいかない物語でも構わない。物語には、ある種の整合性が期待される。この物語は、整合性があったと思う。これでは幸福になれないし、カネや権力にアクセスできそうにもないからだ。
 
このような、ごろりと人間の執着が横たわった物語が読めるのだとしたら、noteも悪くないかも、と思う。私はずっとはてなダイアリー(現・はてなブログ)で人の執着を見つめ続けてきたから、noteの良きファンとは言えない。けれどもこれからはnoteにも目を向け、ファンになれるようにみてまわりたい。
 
 

雑感

 
たくさんの人が惹かれた物語だから、Xで行われていた大喜利の全容は掴めない。さしあたり、以下を貼り付けるにとどめる。
 
 
togetter.com
 
 
釣られて私も何か書いてみたくなった。それに乗ってみたい。
 
 

  • 何を欲しがっているのか

 
著者は、他人の欲望を欲望することは知っていて、つまり、なんとなく高い地位に就きたい・なんとなく出世したい。なんとなく世間体が良くなりたいと願望しているようにはみえる。同期の出世を気にしているのも、そうした願望や羨望があればこそだろう。
 
逆に、他人の欲望を欲望する以上のことが彼の文章からは読み取れない(本当は何かがあるのかもしれないが)。東京カレンダー的な文章と同様、他人の欲望を欲望する以上のものが見えないから、それがこの文章にがらんどうな印象を与える一因になっている。
 
手許にあった哲学書のなかに、「他人が欲しいものを欲しがるのが近代人だ」的なフレーズが書かれている。それはそれで一理あると思う。東京のような街では、まさにその近代的な欲望や羨望に基づいてネオンがまたたき、人々は六本木や表参道を回遊するのかもしれない。しかし田舎で前ー近代人的な欲求に基づいて生きている私のような人間には、それはそれで一種の人間疎外のようにみえてならず、他人の欲望を欲望する以外の色彩を人生に添えなければ人間はおかしくなるじゃろ、と思えて寒気がする。
 
彼の文章は、その私の寒気が具現化したかのようだが、もし本当に、筆者が他人の欲望を欲望する以外に欲求のみあたらない境地を生きているとしたら、どうすればいいのか私にはよくわからない。いいや。それ以上の境地なのかもしれない。筆者の欲望の正体が、高い地位や出世やカネですらなく、本当は、受験偏差値とその栄光にいまだに紐付けられたものだとしたら? もしそうだとしたら、受験偏差値の高さと社会的評価の高さが一致した空想世界でなければ幸福は成就しないのかもしれない。
 
空想から現実に立ち返ろう。東京の全てがそうだとは思わないが、それでも東京には他人の欲望を欲望するように人間を仕向ける社会装置が地方都市に比べて強力だと思う。高学歴、社会的地位、高年収、そういったものは他人の欲望を欲望する標的として目印にしやすいが、それらが人間の幸福に直結しているかといったらそうとも限らず、そういった他人の欲望のまわりをぐるぐるしながら不幸なバターになっていく人は存外に多い。彼の文章の筆者は、そのようなバターになっているように読めた。
 
 

  • 他人の姿がみえてこない

 
自分自身の悩みについての文章なのだから、他人の姿がみえない・におい立って来ないのは一定程度、仕方のないことかもしれない。しかし、ひとりの人間の幸福は他人を介在させてようやく成立するものだし、さきほど書いた「他人の欲望を欲望する」話とて、もともとは自他の人間関係が要件だったはずだ。
 
たとえば承認欲求をみたすとは、他人から褒められたい・認められたいといったかたちをとるのがもともとの姿だったはずで、その場合、承認欲求をみたすためには他人との協調姿勢や相互承認のプロセスが必要だったはずだった。高度な産業資本主義の段階では、そうした具体的な他人を介在させるプロセスなしで承認が獲得できる方法が思いつくかもしれない。たとえば証券取引などで大金を手に入れ、首都高速でフェラーリを乗り回せば、具体的な他人を介在させることなく承認を獲得できるかもしれない。
 
が、そうした具体的な他人を介在させない承認の獲得は今世紀でもなお、例外だと思う。会社のような組織、人と人が集まってプロジェクトをやっている組織では特にそうだ。「うまく仕事をやってのける」という現象のバックグラウンドにはいつも、人と人との協調、ひいては人と人との間で行われる承認の交換、が隠れているように思う。心の表層において、それはしばしば感謝や恩義、リスペクトや感心といったかたちで現れる。しかし彼の文章からはそれが感じられなかった。「うまく仕事をやってのける」という事態を裏側から支えているミクロかつ原始的な承認の構図に意識的ではないようにみえる。
 
会社のような組織では、仕事をうまくやること、成功すること、ひいては出世すること、それらのどれも、自分独りでやったってたかがしれている。JTCともなればとりわけそうだろう。仮にスタンドプレーで何かを達成する機会がめぐってきた場合でさえ、スタンドプレーでそれをなし、その成果を自分の承認のポケットにまるごと突っ込んでしまって良いかはわからない。会社において人は石垣で、その石垣の石と石とを結び付けているのは承認だ。人が昇進していくという事態も、この承認によって支えられている部分が少なからずある。だから立身出世について考える際には、自分自身の承認もさることながら、他人の承認という問題、いかに相互承認の構図を構築し、敵を増やさず味方を増やすのかという課題が立ち上がってきそうなものだが、彼の文章にはそれがない。「人間関係の構築が必須」というくだりは登場するが、その人間関係の構築に心を砕いていた様子はなく、代わりに、想像のなかで鉄槌を下すこととコンサルに転職することが記されている。
 

「君は優秀だが、人の付き合いというものを軽く見ているのがいかんな。」
(『新世紀エヴァンゲリオン』21話より)

 
すべてがスタンドアロンに完結する仕事なら、こうした問題は意識しなくて構わないかもしれない。しかし会社の仕事、ましてJTCの仕事において承認をめぐる諸問題に対して意識が低いのはなんか違くない? と私は思ったりする。仕事に限らず、人間社会で起こる出来事の多くは他人との関わりのなかで、自他の承認を巡る関係性をバックグラウンドとして起こってくるから、これからどこで活躍するとしても、このあたりはもっと意識されていいのでないでしょうか、と思った。
 
 

  • 大切に育てられたのはわかる。しかし学歴が内面化され過ぎている

 
あと、いいことか悪いことかはわからないが、筆者の文章を読んでいてたびたび思ったのは、「筆者は大切に育てられたのだろうなぁ」ということだった。育てられる子どもの側からすれば、親が大事に育てる意識を持っていたか否かは本当は重要ではない。どう育てられたかが重要なのだけど、さしあたり、大切に育てられたのだろう、ということは伝わってきた。
 
そうして育てられたところの筆者が、受験偏差値に魂の大事なところを持っていかれ、ずさんな幸福追求をしているのは不幸なめぐり合わせだと思う。幸福を追究するための算術において、受験偏差値や学歴を過大評価しすぎ、具体的な自分自身と他人全般を評価する尺度が混乱しているようにも読めた。自他の学歴や受験偏差値を意識するのがいけないわけではない。しかし自他をまなざし評価する尺度の大きな部分を受験偏差値や学歴に占めさせ続けるのはいけない。やめかたを真剣に検討しなければならないところだと思う。
 
人間が幸福になるには、または、人間が不幸を回避するには、いろいろなことに心配りをしておかなければならない。現代社会において学歴は高いに越したことはない。カネや社会的地位も、あればあるほど有利だろう。少なくともそれらを軽視しすぎること、それらが皆無で構わないとうそぶくのも危険ではある。
 
だが、学歴やカネや社会的地位といった、資本主義社会のもとで交換可能で普遍的にみえる、まさに他人の欲望を欲望する代名詞のような要素だけが人間の幸福を構成しているわけではない。カネや社会的地位も、特に会社のような組織のなかでより多く集まるようにする際には、それらを集めるのに適した諸要素が揃っていなければ思うほど集まらない。カネなら、たまさか相場で儲けられれば集まるのかもしれないが、社会的地位、とりわけホワイトカラー世界における不特定多数からの承認やJTCにおける出世といったものは、もっとずっと多様な構成要素から成っているように私にはみえている。
 
いや、ホワイトカラー世界、JTC世界に限らずか。
人が生きるにあたってアチーブしたほうが好ましいこと、有利を取るうえで意識できたほうが良いことは多様だ。ゆえに、それらに心配りするための体験の蓄積、それらを感得するための視野の広さや感覚器官のトレーニングが必要になるはずなのだが、これほど大切に育てられた人でさえ、過度の受験偏向がそれらの発達を妨げてしまうとしたら、不幸な行き違いと言わざるを得ない。
 
 

  • 生育環境が学歴至上主義なら、子どもは学歴にとらわれる

 
最近は知らないが、ある時期、やたらと出演者の学歴を掲示するクイズ番組などあった(今でもあるのかもしれない)。それだけ高学歴化が進み、学歴信仰の裾野が広がったのだろう。それはいい*1。しかし、学歴が幸福を約束してくれるわけではなく、それどころかカネや社会的地位を約束してくれるわけですらない。学歴は幸福を模索するための一要素でしかない。それも、就職に前後する時期に最も効果を発揮し、人生が後半になっていくにつれて霞んでいくタイプの要素だ。幸福や社会適応に資する手札の一枚ではあっても、幸福を保障してくれるわけでも、末永い承認を約束してくれるわけでもない。
 
ところが幼児期~思春期にかけて学歴の向上を至上命題とする環境が延々と持続すると、学歴が幸福の要件であるかのように、さらには学歴が超自我の核であるかのような価値観や世界観が内面化されてしまう。精神分析だけでなく進化心理学の分野でも、子ども時代は周囲環境の価値基準を内面化していく時期といわれている。なので、生育環境における価値観や世界観が学歴至上主義的であればあるほど、そこで育つ子どもの超自我に占める学歴なる要素の割合は大きくなってしまう。
 
学歴が価値判断や超自我の基準として大きくなればなるほど、学歴へのこだわりは重たくなり、学歴を手に入れても手に入れられなくても基準やこだわりとなってまとわりつく。そして自分自身の評価や他人全般の評価する際の時代遅れのモノサシとして君臨し続ける。私からみて、そういった状態は学歴神経症とでも比喩したくなるものだが、それをどうにかするためには、学歴、ひいては東京的な他人の欲望を欲望する堂々巡りの外側に、そうでない価値や値打ちや喜びを見つけなければならないのだと思う。
 
これから子育てを行う人は、学歴やカネや社会的地位を子どもに与えたいと望むのは構わないとしても、それら以外の価値や値打ちや喜び、それら以外の幸福の構成要素をいかにちゃんと子どもの生育環境のなかで提供するのかが、課題になるはずだ。そこを疎かにし過ぎると、学歴に支払った金額や時間は、バランスを欠いたかたちで子どもに長くついてまわり、重荷になる。多くの場合、それは願いから始まった呪いとでもいうべきかたちに帰着する。
 
もし、今日の東京のある圏域においてそうした願いから始まった呪いが発生しやすくなっているなら──ソウルやシンガポールや上海でも同様の事態を迎えているなら──それは個人の精神分析的現象や家庭の問題であるだけでなく、社会の問題、あるいは時代の病理でもあるように思う。このような状況を個人や家庭に迫ってやまない社会や時代を、安閑と肯定すべきではない。たとえすぐに是正できなくても、おかしなことが起こっていると承知し、ことあるごとにその是正について議論と政治を重ねていくべきだと思う。
 
そのうえで、個々の若い人、個々の家庭においては、学歴をはじめ、他者の欲望を欲望するような向きを絶対視しすぎないこと、それらだけでは人間の幸福を構成しきれないことに自覚的であるよう、つとめなければならないと思う。既にそうなってしまった人においては、学歴という呪い、学歴という憑き物を祓わなければならないが、その方法は私にははっきりわからない。学歴にとらわれない人付き合いや価値判断が生じれば治ったも同然だと思うが、神経症的状況や神経症的葛藤はそれ自体が色眼鏡となってついてまわるものだから、その色眼鏡を随意に着脱できるなら、そもそも苦労しないだろうからだ。
 
追記:ああ、昭和時代だったら「グレる」のもひとつの筋道だった。家庭で内面化された規範や尺度を、家庭外の規範や尺度をもって破砕する「グレる」という筋道は、ある時代までは有効だった。しかし、それは生還できるかわからない道であり、且つ令和の日本社会、とりわけ子どもに学歴を与えたいと欲する親たちの願いにかなったものではないのでローラー作戦的に漂白され、現在に至っている。そもそも、「グレて」「不良になる」とて学歴や大人社会から自由になれるというより、学歴や大人社会の影法師を踏むだけのパターンが多く、危険を冒してまで獲得できるものが見合っているかといったら、よくわからなかった。学生時代に思想にかぶれる、というのも案外良かったのかもしれない。だがこれも、今となっては危うい道程に思える。全共闘の時代とはわけが違うからだ。
 
 

*1:いいのか?

『パリに咲くエトワール』と近代、それからフジコと作品の二重性

 
3月公開の劇場版アニメ『パリに咲くエトワール』は、同時期に公開された『超かぐや姫!』と並んで大傑作だった。3月22日にネタバレなしの感想文を書いたが、もう一回観たうえで、正規の感想文を書いてみたいと願っていた。
 
ところが地方都市では公開期間が短すぎ、上京しようと悪あがきしていたが忙しすぎて目途が立ちそうにない。そこで、いったん思いのたけを吐き出してしまおうと決めた。
 
 

『パリに咲くエトワール』と「近代」

 
『パリに咲くエトワール』という作品を考えるうえで、20世紀初頭のパリ、という時代と場所は避けて通れない。本作品を本作品たらしめているのはこの時代と場所で、たとえば19世紀のイスタンブールや16世紀のマラッカでは、本作品は本作品たり得なかったと思われる。というより、この時代と場所の設定を踏まえたうえで『パリに咲くエトワール』という作品が彫琢された、と考えたほうが自然だろう。
 
作品冒頭で、「近代」という大きなテーマが提示される。
 
近代は、ひとつの時代であり、ひとつの体制、ひとつの思想、ひとつの姿勢でもある。欧米列強によって幕を開けた近代は、産業革命のような技術的・産業的進歩を生んだだけではない。表現や創作の領域にも及ぶ大きな運動だった。本作にはモネやゴッホ、ミュシャなどの作品が登場している。フジコが旅立ち、彼女自身の表現を模索しなければならなかった戦場は、そのような独創的表現が次々に生まれ、問われる20世紀初頭のパリだった。
 
フジコはパリでたくさんの絵画表現に出会い、影響を受け、一時はすっかり呑まれてしまう。彼女が出会ったのはもちろん近代の、近代的な絵画表現だった。それは教会や神に仕える絵画ではない。聖書やギリシア神話をモチーフとした絵画でもない。風景を写実的に捉えることに徹した絵画でもない。画家が観たものを観たとおりに描く絵画、画家が表現したいものを表現するべく描く絵画だ。だからといって従来の技術や表現技法、絵画というフォーマットを全否定しているわけではない。それらを踏まえつつ、その画家にしかなしえない表現を模索し、達成すること。それが問われ、実践されていたのが20世紀初頭のパリだった。
 
もうひとりの主人公である千鶴は、バレエという近代と対峙していた。長刀の家系に生まれた千鶴がバレエに挑むさまは、欧米列強に追いつき、肩を並べることを良しとする、近代日本の戦いと重なる。もちろんここには人種という問題や、日本の伝統的な女性のありようの問題も重なり合う。千鶴の戦いは長刀からバレエへの戦いであると同時に、日本からフランスへ、日本家庭からバレエへの戦いでもあった。どれも、日本が近代化の過程で直面し、必死で克服していった(ある程度までは克服されたが完全には克服されきっていないとも言える)課題だ。外交官である矢島が千鶴の姿を観て変心するさまは、千鶴の課題が当時の日本全体の課題とも通じていたことをわかりやすく示している。
 
『パリに咲くエトワール』は、アニメ愛好家のなかでもコア層を中心に支持された作品だと思うが、作品冒頭に掲げられた「近代」というテーマと、それをフジコと千鶴の両面から描いた作品であることへの言及は、たとえばXなどを観ていてもけっして多くなかったと思う。本作を本作たらしめている要素のひとつとして「近代」は必須であり、ひとつのキーワードであり、意識するに値するバックグラウンドであることを思えば、理解に苦しむことだ。フジコの戦場も千鶴の戦場も、20世紀前半の日本が戦った戦場、ひいては日本人が戦った戦場と重なり合っているし、なんとなれば今日に至るまで日本人が戦い続けている戦場でもある。『パリに咲くエトワール』とは、日本の近代化と、フジコと千鶴という二人の少女がパリで近代に憧れを抱き、それぞれがアチーブメントにたどり着く物語である。
 
 

2026年の傑作アニメとしての『パリに咲くエトワール』の特長

 
ここまでだけを読んだ人には、本作品がシリアスな作品に読めたかもしれない。
そんなことはない。往年のジブリアニメやハウス食品アニメと同様に、本作は小学生でも安心して楽しめるつくりになっている。『パリに咲くエトワール』のリアリティラインは「絵空事」のレベルなので、逆に、リアリティの高い近代の物語を期待して視聴すると肩透かしを食らうだろう。本作の眼目は、近代化を写実に徹して描くところにあるわけではない。
 
公式ウェブサイトと予告動画からみてとれるのは、本作のマニフェストである「20世紀初頭のパリで憧れを追いかけた少女たちの物語」であること、そして本作品が往年のジブリアニメやハウス食品アニメのフォーマットに基づいてつくられているらしきことだ。それらが本作品の演目、というわけである。
 
事実、本作はリアリティラインという面でもキャラクターの描画という面でも、マニフェストを忠実に守り、フォーマットに基づいてつくられている。これらの演目だけ見れば、本作からは独創性はまったく感じられない。もし、本作の制作陣がマニフェストとフォーマットを守る以上のことをしていなかったら、本作は恐ろしく凡庸な、無害だが無意味な作品に終わっていただろう。
 
ところが『パリに咲くエトワール』の実物はそうではなかった! なるほど、児童向けアニメの安全なリアリティラインで描かれる少女たちの物語という意味では陳腐だろう。普段アニメに関心のない人のなかには「古臭い作品だ」と見間違える人さえ、いるかもしれない。しかし本作は2020年代の劇場版アニメにふさわしい諸力を用いて、まったく古臭くないことをやっている。それどころか、2020年代の日本アニメのトレンドに逆らうような巧さを連発し、2026年の第一クールのアニメ群のなかにあって異彩を放っている。
 
2020年代の日本のアニメ表現は、CGやAIの進歩、資本の流入なども手伝って素晴らしいことになっていると思う。その成果は『鬼滅の刃』シリーズにも『呪術廻戦』シリーズにも『Fate』シリーズにも反映されている。ちょうど同時期に公開され、高い評価を得ていた『超かぐや姫!』のことも忘れられない。現代日本アニメのおいしいところ、映えるキャラクターをしっかりと動かし、アニメ的・漫画的表現を巧みに利用し、視聴者の(脳内補完や二次創作的な)イマジネーションを刺激してやまない作品として、『超かぐや姫!』は最先端かつ最高峰の作例をみせてくれたと思う。
 
『パリに咲くエトワール』は、それとは違う路線の最先端・最高峰をみせてくれた。『パリに咲くエトワール』のキャラクターたちは、『超かぐや姫!』のキャラクターたちほど(脳内補完や二次創作的な)なイマジネーションに開かれてはいない。少なくとも作中の時間内にあっては、作品が描き出している物語を正確に読解させるのに適したキャラクターとして挙動している。『超かぐや姫!』が脳内補完や二次創作に開かれ、東浩紀風に言えばデータベース消費に親和的な作品であるのに対し、『パリに咲くエトワール』はそのような読み筋を許さず、作品が描いているとおりに視聴者が読解し受容するよう、そのためにすべてのキャラクターとキャラクターの関係性が描かれている。
 
制作陣が提示したテクストとして第一に読解すべきで、視聴者の勝手な脳内補完や二次創作に開かれているとは言えないその作風は、脳内補完や二次創作に開かれた現代日本のサブカルチャー作品、たとえば『超かぐや姫!』とそこに登場するオニキスの面々とは対照的で、近代風、そして近代絵画風だ。*1
 
『パリに咲くエトワール』は2020年代のアニメのなかでは、近代絵画っぽく読解するようにつくられた作品だ。ちょうど『超かぐや姫!』と公開時期が重なったから、その違いは私には明瞭にうつった。
 

 
これを、マクルーハンのメディア論になぞらえて言い直すなら、『超かぐや姫!』がクールなメディアなのに対し、『パリに咲くエトワール』はホットなメディアであると言えるかもしれない。マクルーハンのいうクールなメディアとは、情報量が比較的疎で、その疎な余白の部分をメディアの受け手が自由にアレンジできるとも、受け手側が想像力を動員して補って楽しむ(または参加できる)ものとも言える。近代絵画との比較でいえば、アニメというジャンル全体はクールなメディア寄りで、二次創作が行われる作品、視聴者にキャラクター同士の関係性やスピンオフ的ストーリーを連想させる余白を提示している作品はとりわけクールなメディアと言える。『機動戦士ガンダムジークアクス』も、視聴者にさまざまな想像を促し、余白を遊んでもらえるようにつくられた、絶対に意識的にクールなメディアだった。対して、『パリに咲くエトワール』はそのようなつくりになっていない。アニメリテラシーが高くない児童が観ても、アニメリテラシーの高い人が観ても、どちらにせよ制作陣が見せたい・読解させたいと思うとおりに見る・読解するようにつくられている。
 
もちろん、ここでいうクール/ホットを完全に区別することは不可能で、たとえば『超かぐや姫!』にもホットなメディアとしての側面がゼロであるわけではないし、逆に『パリに咲くエトワール』を二次創作的に見ようとする向きはあるだろう、なぜなら2020年代の日本には、クールなメディアとしてアニメを受容することに慣れきった愛好家、そういう風にアニメを受容するのが専らな愛好家がたくさんいるからだ。
 
だが私が観たところでは、本作はどんな時でもすべてのキャラクターが何かメインストーリーの読解にあたって有意味な行動をとっていて、有意味な情報を提示している。それらの行動や情報は視聴者に余白を与えるためでなく、製作者が見せたいもの・読解させたいものを見せるために、あるいはストーリーの情報密度を高める効果のために作中にわざわざ描かれているように見えた。無駄な描写など、寸分もなかったに違いない。*2 作中に次々に登場する近代絵画たちが、こうしたつくりをことさらに意識させていたのはたぶん間違いないだろう。
 
 

フジコのやったことと『パリに咲くエトワール』制作陣がやったことは重なり合っている

 
もう一点、本作に私が胸を打たれた背景というか、構造を紹介したい。
本作に対する揶揄として、「フジコがあまり描かれていなかった」「千鶴の長刀がメインだった」といったものがあった。確かに千鶴のストーリーは魅力的で、見栄えがして、胸がすく場面も多かった。本作のリアリティラインが昔のジブリアニメやハウス食品アニメの水準であることも、千鶴の快進撃を楽しむうえで都合良かった。千鶴の物語は小学生が観ても楽しくつくられていると同時に、長刀のシーンもバレエのシーンも手抜かりせずに作り込む制作陣の鋼の意志をみた気がした。
 
じゃあ、フジコは本当にあまり描かれていなかったのだろうか?
私はフジコのことをずっと見ていたので、そう思わなかった。確かに、フジコが実際に絵を描いているシーンは少ない。しかし絵筆を握っていないフジコはいつも描かれていたし、絵筆を握ることのできないフジコもいつも描かれていた。千鶴をはじめとする多くの人を世話し、人と人とを繋ぐフジコの姿は、絵筆を握っていない・握ることのできないフジコの姿でもあった。一度しか視聴していないので断言する自信はないけれども、私が記憶している限り、彼女の目の動きや小さなリアクション、小さなカットのうちに絵筆を握ることのできない葛藤や逡巡が表現されていたように思う。引っ越しをした後、絵を描けていないことを知られてフジコが泣くシーンは、それが水面下から水面上にあらわれるシーンだった。パリでしのぎを削るたくさんの画家、たくさんの表現、たくさんの前衛の洪水のなかで、フジコは自分が描くべきもの、自分が描く意味を見失っていた。
 
そんなフジコの苦しみは、千鶴の物語が進行する最中も伏流水のように描かれていたと思う。私はそれを観るのが不安でたまらなかったから、千鶴だけを追ってはならない、フジコの挙動をしっかり見ておかなければと思ったものだ。そしてフジコの不安は私の不安でもあった。雄飛する千鶴を見つめ、思い悩むフジコの表情に、私は見覚えがある。
 
本作を称賛する声のなかに、「創作をしている人に深く刺さるものがある」というコメントがあったが、そのとおりだと思う。そういう人たちは、きっとフジコの動きをきっちり目で追っていたに違いない。私は画家でも小説家でもないが、絵筆を握ることのできないフジコの姿がまったく他人事とは思えず、表情やリアクションのひとつひとつに見覚えがあった。自分よりもずっと先に進むライバルたち、すでに独自の表現をなしているライバルたちがひしめくなかで、自分にできることって何だろうか? 自分になら表現できる・自分にしかできない表現って何だろうか? 与えられたフォーマット、課されたマニフェスト、為すべき演目のなかで、自分にはいったい何が可能だろうか?
 

 
フジコは、最終的にこれらのクエスチョンの答えを見出した。それがエンディングで掲げられる彼女の作品群だ。主題歌『風に乗る』の軽快かつ力強いスネアドラムの音のおかげかもしれないが、エンディングで示される彼女の作品群は、誇らしげで、自信に満ち溢れているようにみえる。絵の内容からは、これからの彼女の人生が波乱にみちていると読み取れるが、それはたいした問題ではない。『風に乗る』のなかで、それでも彼女は過去も未来も手放さないと謳われているからだ。未来の彼女が戦火にみまわれようとも、きっと彼女は彼女を生きていく。それは尊いことで、讃えられてしかるべきことだ。
 
それと並行して、2020年代の日本において、『パリに咲くエトワール』の制作陣の人々も、与えられた演目のなかで何が表現できるのかを問われただろう。もし、このクラシックなマニフェストとフォーマットの内側で、最も凡庸に、最もありきたりに、最も手抜かりに作ってしまえば、どこかで見たような凡作ができあがってしまったに違いない。どんなにお金がかかっていても、どんなにキャラクターがグリグリと動いても、新しくないものが豪華にできあがってしまっただろう。
 
しかし、このアニメを作った人々はそうしなかった。近代絵画というテーマで演ることをいいことに、作品そのものも近代絵画寄りにつくりあげた結果、かえってそれが前衛的なトライアルと私にはうつった。一枚絵の効果的な挿入を多用する点も含めて、『パリに咲くエトワール』は2020年代の日本アニメとして主流の作風ではない。だが、そのおかげもあって2026年の大豊作なアニメ作品群のなかにあっても埋もれず、異彩を放っている。本作を作った人々は、今、自分たちにどんな表現ができるのか、この演目のなかで何がアニメの前衛たりえるのか考え、工夫を凝らし、そこに現代のアニメ技術を注ぎ込んだに違いない。その姿勢が反映されている本作全体が、私には、作中に登場する近代画家たちやフジコの挑戦と重なって見えた。
 
私がエンディングでやたら感動したのも、フジコが近代絵画の世界で独自の表現をやってみせた誇らしさと、『パリに咲くエトワール』がクラシックな演目のなかで独自の表現をやってみせた誇らしさが重なり合って見えたからだった。フジコの達成は、この作品の達成、ひいてはこの作品の制作陣の人々の達成でもあるように思えた。そうしたうえで、フジコが皿洗いする姿、狭い部屋に引っ越しながらも絵筆を握れずにいる姿を私は再び思い出す。自分だけの表現を追求したいと願っていても、それが自由自在にできる人なんていない。お金の問題や社会情勢に振り回され、逆風や無理解や差別にも曝され、やりたくないこともたくさんやらなければならず、遠回りだってしなければならない。それでもフジコはパリに留まり、戦った。本作の演目の範囲を超えているが、当然、力尽き敗れる者もいただろう。それだけにフジコの達成は尊い。同じく、今、アニメをつくる世界で戦い、表現をものする人々の達成も尊い。
 
パリを舞台にし、近代をテーマとした作品でなければ、これら三重の達成が重なり合う奇跡は起こらなかっただろう。
 
 

長くなってしまったのでやめます

 
気が付いたら7000字をオーバーしたのでこれでやめます。
『パリに咲くエトワール』を見て本当に凄いと思ったこと、巧みだと思ったこと、二重~三重構造だと思ったこと、近代を描いていると思ったことを、これで言い尽くせたとはいいがたい。なにより、もう一度視聴して、あの時に感じたこと、読み取ったことが本当にこれで良かったのか確かめてみたい。いや、そんなことは二の次だ。この、完成度が高く、クラシックのようで前衛的な作品をもう一回確かめ、そこに注ぎこまれている工夫や努力や技術を再体験したくてたまらない。
 
ここで私が書いたことの何%が正鵠を射ているのか知らないけれど、約3か月にわたって感想文を腹に抱え続けなければならないぐらい私は感銘を受けました。まだご覧になっていない人は、本作がクラシックな演目のもとで前衛的なアニメ表現をやろうと挑戦し、実際やってのけているさまをご堪能ください。田舎からは、以上です。
 
 

*1:逆にいうと、脳内補完や二次創作に開かれた現代日本のサブカルチャー群は、『パリに咲くエトワール』や近代絵画との対比関係においてポスト近代風だとも言える

*2:私が二回目の視聴を希望していた理由のひとつは、そのことに確信を持つには一度だけの視聴では足りなくて、もう一度視聴し、確認したかったからでもある。

魚の水槽を掃除するように引っ越しをする

 
先月から今月にかけて、引っ越しのトラックを街のあちこちで見かけた。現代人は就学や就職、転勤のたびに転居するから、引っ越し自体はそう珍しいイベントでもない。私も比較的引っ越しの多い職業だから、歳月の経つなかで、引っ越しを前提とした暮らし方になってしまった。
 
再び引っ越しが起こった時に困らないよう、引っ越しの段ボールをある程度残した状態で暮らすとか、そういうやつだ。それから大きな家具をなるべく持たないこと。庭木なども持って運べないし、植物のプラントとかも極力持たないようにする。根無し草ならではの生活の貧しさ。でも、それを引き受けなければ根無し草なんてやっていられない。
 
ところで、引っ越しを円滑にすすめるコツとしていつも思い出すのは、魚の水槽の水換えのことだ。
 

 
実家で生活していた頃、キンブナ、ギンブナ、ヘラブナを水槽に飼っていて、それらの世話を約十年していたことがあった。上掲写真のようなピラニアと違って、フナは飼いやすい丈夫な魚だ。窮屈過ぎないスペースと適度な隠れ家、それから少し水草などを用意してやるとかなり長生きする。
 
そんなフナといえども生き物だ。乱暴に扱うのは良くない。特に気を付けていたのは水槽の水を交換する時だった。水槽の環境が汚れてきたらフナたちを一時的に別の場所にうつし、水槽をきれいにするのだけど、きれいにしすぎてはいけない。きれいにしすぎるとフナたちは元気がなくなる。隠れ家に付着した藻などはそのままにし、水槽内の配置も変えないようにする。水も全部とっかえるのでなく、掃除する前の水をいくらか残したほうが掃除後の環境に馴染んでくれる。
 
フナを飼い始めたばかりの頃は、このことがよくわかっていなかったためか一年間で4尾が死んでしまった。けれでも、これを意識してからは脱落者を出さず、30年以上も生き続けるに至った。
 
 

人間だってフナとそんなに変わらない

 
でもって、私たちだってフナと本当はそんなに変わらないと思う。
フナにとっての水槽の掃除と同様、人間にとっての引っ越しは結構ハードで、元気がなくなりやすい。うつ病のリスクファクターには転居が含まれている。春にに引っ越しし、転居のストレスに加えて新環境のストレスにも耐えきれない人が、連休の前後で息切れしてしまうのは精神科では割と定番だ。この流れを世間では、五月病と呼ぶことも多い。
 
進学や昇進、転勤や異動も少なくないストレスをもたらす新状況だから、望むらくは、そうした変化の時期には住まいだけでも今までのままであって欲しい。しかし、日本の就学や就労のシステムだと、それらに転居が伴うことが少なからずある。もし、本当に、健康に良くないことが制限されるべきだとしたら、そうしたいっぺんにいくつもの生活状況が一度に変わるシチュエーションも制限されるべきだと私は思うけれども、制限される様子はあまりみえない。個人にとって相当に大きな試練なのだけど。
 
そこで、せめてもの対策として、転居する際には「フナの水槽の掃除のように」転居するのが良いと思う。少なくとも私はそう思い、実践し続けてきた。転居の前後にあたっては家具や間取り、暮らしを極力変えない。PCを置く場所、テレビを置く場所、そうした間取りについては可能な限り転居前と転居後で違いが出ないようにする。もちろん、物件の間取りまではそうそう同じにはできないから限界はある。それでも、物品の配置や人の導線について、工夫ができる場合には極力工夫をして、新環境と旧環境の差異を小さくし、前と変わらないと感じられる部分を増やすような心配りはあったほうが良いように思う。
 
生活習慣などもできるだけ今までと同じ要素を残しておきたい。人間関係もだ。いまどきは社交関係もオンライン化している部分が多いので、転居がそっくりそのまま社交関係のやり直しや断絶になることは少ないと思う。そうやって、転居前の生活の要素を少しでも残しておき、転居後との生活との連続性や共通項を残すことで自分たちの負担を少なくするのも生きていくうえでの知恵、ひいては社会適応を助ける一助になると思う。
 
人間はフナより器用でなんでもできるように見えるけれども、心身のサバイバビリティの面でもフナに勝るとは限らない。環境の変化に敏感な人は敏感だし、そうでなくても転居に転職や進学や異動が重なれば心身にかかる負担は大きくなる。「心機一転」という言葉もあるけれども、でも実際の引越しに際しては魚の水槽を掃除するように引っ越したい。