シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

試される前頭葉──FGO新春ガチャ迎撃戦

 
 2018年、私がいちばんのめり込んでいたゲームは間違いなく『FGO』だった。
 
 この、世界的な売り上げを誇るソーシャルゲームのガチャを回しまくった結果として、2018年の夏イベントでは、★5サーヴァントに目がくらみ、なし崩し的に課金するという、衝動的な行為に走ってしまったのだった。
 
 
 で、お正月がやってきた。
 

 
 
 『FGO』は、盆と正月に派手なガチャイベントを繰り出してくる。いつもは絶対に手に入らない優秀な★5サーヴァントが、日替わりでガチャメニューに登場するのである。
 
 

 
 このリストには、私が欲しくて欲しくて仕方の無い★5サーヴァントが3人載っていた。ギルガメッシュ・スカサハ・葛飾北斎の3人はものすごく強力で格好良く、いつも指をくわえて眺めていた。ついでに言えば、ネロ・クラウディウスだって欲しいしジャンヌ・オルタも欲しいといえば欲しい。
 
 要は、どれも欲しい。
 
 2018年の夏は「あれも欲しい、これも欲しい」と欲をかいたあげく、どれも手に入らず、なし崩しに課金するという前頭葉の敗北を喫した。
 
 だが!
 
 今回こそは欲望には負けない! 負けるものか!
 
 この正月に備えて、私は数か月かけて作戦を仕込んでおいた。
 
 

 1.2019年1月1日までに聖晶石500個相当のリソースを蓄積する。それまでは基本的に聖晶石は温存する
 
 2.目当ての★5サーヴァントは一人とする。もし、葛飾北斎がいる場合は葛飾北斎にリソースの70%以上を投入する。
 
 3.それ以外の★5サーヴァントは聖晶石30個以下のリソースしか投入しない。
 
 4.どんなに嘆き悲しもうと課金は追加しない。『FGO』関連の予算は新年度まで通さない
 
 5.合計2体の★5が来れば満足すべきである

 
 徹底したガチャの統制。
 計画経済。
 そういうことを4か月ほど自分に言い聞かせ、ガチャの方法も事前に取り決めたうえで正月に臨んだ。
 
 

「どうしてこんなに欲しがってしまうのか」

 
 『FGO』の正月ガチャイベントは、いわゆる「福袋ガチャ」で始まる。
 
 「福袋ガチャ」とは、一人一回かぎりの特別なガチャで、確定で★5サーヴァントが1体(ときには2体以上)出てくる。私はこれで、いきなり★5を二つ当ててしまった*1
 
 
 

 
 
 
 ラッキーな滑り出しだが、前回、これで調子に乗って無秩序なガチャに突入してしまった反省がある。
 
 本命の葛飾北斎にリソースを集中させるために、そこから私は、ケチケチとガチャを回すことにした。
 
 
 
 ところが、FGOの神はどこまでも気まぐれだった!
 
 
 

 
 
 
 1月1日、最初の10連でいきなり★5のギルガメッシュを召喚。本当はのどから手が出るほど欲しかったけれども心のなかで諦めていたのに、新年早々、「運を使い果たしたな雑種!」というありがたい御訓示を賜ることになった。
  
 続いて1月6日。
 
 
 

 
 
  
 気まぐれで1回だけ回したガチャでいきなり★5の紅閻魔が出て腰が抜けた。
 
 『FGO』のガチャで★5が出る確率は1%、一度のガチャで聖晶石を3個消費する。ということは、大まかにみれば★5が2人というのは聖晶石600個ぶんである。
 
 もちろんこんなものは目安でしかなく、★5は出る時には出るものだし、出ない時には出ないものではある。けれども私は「ああ、これはもう駄目かもわからんね」という気持ちになっていた。
 
 ところが、実際に葛飾北斎のガチャを回す日がやってくると、底知れない「欲しい」という気持ちが湧きあがってくるのである。
 
 
 

 
 
 
 もう、十分に★5は手に入れたではないか。しかも、そのうち一人は英雄王ギルガメッシュで「運を使い果たしたな雑種!」という御訓示までいただいている。だというのに、どうして私はこんなに葛飾北斎が欲しいのか?!
 
 最初のうちは、私は丁寧にゲンを担ぎながらガチャをまわしていた。世の中には、迷信に惑わされながらガチャを回す人々がいるが、私もその一人である。
 
 
www.inside-games.jp
 
 
 
 上記リンク先でいえば、私のゲン担ぎは、「単発教」と「強化大成功教」に近い。最初のうち、私はゲン担ぎを丁寧に守っていたが、30回ほどガチャをまわしているうちにだんだん粗くなってきた。そのうち、我が家では禁忌とされている「10連ガチャ」を回すようになってしまった。
 
 
 

 
 
 うへぇ、ひどい10連。
 
 負け犬気分でガチャを回していると、ガチャの一回一回が空しくなってきて、だんだん辛くなってくる。それぐらいなら、いっそ10連ガチャをまわして玉砕し、この苦しい気持ちから早くオサラバしたほうがいいのではないか。
 
 そもそも、どうしてこんなに「欲しい」という気持ちが高まってくるのか意味がわからない。ソーシャルゲームのカードなんて、ただの電子データではないか。だというのに、ガチャを回すほど、聖晶石が減っていくほど、おのれの執着で息が苦しくなってくるのである。
 
 最終的には、玉砕玉砕と騒ぎながらガチャを回す私を見るに見かねた嫁さんが、「一枚ずつ、ちゃんとゲンを担いでまわしましょう」といってスマホを取り上げて、かわりにガチャを回し始めて、
 
 
 

 
 
 
 この恐ろしい地獄から生還することができた。
 ありがとう嫁さん、ありがとう葛飾北斎。
 
 
 

課金を防ぐことはできた。だが、欲しがることは防げなかった

 
 
 2018年夏の悲劇をふまえて、今回は万全の統制をしいたうえでガチャに臨み、どうにか私は課金は免れた。
 
 念願の葛飾北斎をお迎えできたという意味では、私は「勝った」と言えるだろう。
 
 しかし、「欲しがり過ぎたあげく、ガチャに苦しみ抜いた」という意味では「敗北」である。
 
 課金を防ぐことはできたものの、途中からはやけっぱちになり、終盤は「玉砕玉砕」と騒ぎながらガチャを回す一匹の獣になっていた。嫁さんが言うには「お前、泣いていただろ」、とのことである。
 
 大の大人がガチャに心を奪われて獣になったり、なし崩しに課金に走ったりするのは、ガチャにコントロールされていること・ガチャに負けていることだ。
 
 結局また、私はガチャに呑まれてしまったわけだ。
 
 
 ガチャに試される前頭葉。
 
 
 遊びとしてはとてもシンプルだが、なんという深淵。
 それでも私は準備し、計画的課金するのだろう。
 今年の夏イベントのために。来年の正月イベントのために。
 
 

賭博者 (新潮文庫)

賭博者 (新潮文庫)

 
 
 ※2018年夏のガチャについてはこちら:「ガチャは悪い文明」だとやっとわかった - シロクマの屑籠
 

*1:補足:はてなブックマークにて「福袋ガチャは課金聖晶石」とのご指摘がありましたが、これは2018年夏の残存戦力です。

日本の破局的な少子化と、急ぎすぎた近代化

 
 


 
 たぶん、このツイートはブラックジョークのつもりで書かれたものだろうが、私には冗談にみえなかった。
 
 
 
 
 
 憲法九条のおかげか、国民の選択の賜物か、ともかく日本は戦争を経験せずに70年以上の歳月を過ごしてきた。なお、冒頭ツイートはちょっと間違っていて、平成25年の段階で20歳は40歳の6割ぐらいで、実際に5割になっているのは新生児のほうだ(下図参照)。
 
 

 出典:統計局ホームページ
 
 
 とはいえ、このすさまじい人口動態を前にすると、そういう数字の違いは誤差の範囲にみえる。子どもが第二次ベビーブーム世代の半分以下になりつつあるのは事実だし、これから合計特殊出生率が急増したとしても、これまでの減少を埋め合わせるには膨大な時間、それか欧米諸国もためらうような規模の移民が必要になる。常識的に考えて、日本の合計特殊出生率が急増するきっかけは思いつかない。
 
 若者が集まり続けている首都圏の合計特殊出生率がきわめて低く、にもかかわらず、子育てに対する考えも、子育てを援助するインフラもたいして変わっていないのだから、どうしようもあるまい。
 
 

「たくさん死ぬ」も破局だが「ぜんぜん生まれてこない」も破局

 
 「人口なんて減っても構わない」という人がいる。
 
 わからない話ではない。日本人は狭い国土にひしめくように住んでいるから、人口が減ることにはメリットもあるだろう。
 
 しかし今起こっているのは、そんなに生易しい人口減少ではない。
 
 今日の医療や社会福祉、そのほかのインフラは、生産人口の急激な減少を前提につくられてはいない。いまの政権も、急激な少子高齢化をみすえてそれなり努力しているだろうけれども、高齢有権者のほうがマスボリュームとしてずっと大きい現状では、少子化対策に多くのリソースは割けないだろう。
 
 また、人口減少にみあった道徳や倫理も、私達は持ち合わせていない。社会が変わればそれにみあった道徳や倫理が必要になってくるのが世の常だが、国内外の世論は、それを許さないだろう。
 
 そうした難しさを思うにつけても、この少子化は、戦争による人口減少に迫るインパクトがある。
 
 たとえばフランスは第一次世界大戦で非常にたくさんの犠牲者を出し、労働人口の1割程度を失ったといわれている。当時のフランス社会にとってこれは破局的な損失で、その悪影響は第二次世界大戦にまで色濃くあらわれていた。
 
 他方、日本の労働人口の減少は、みずほ総合研究所の調査によれば、2016年~2065年で4割減少すると推計されている。第一次世界大戦に比べればタイムスパンが長く、戦死・戦傷とは性質も異なるため、両者を同じ秤に乗せるわけにはいかない。それでも労働人口の減少がこのまま進んだときのインパクトは計り知れず、その影響はずっしり残り続けるだろう。
 
 そして労働人口の減少とは、消費人口の減少、つまり内需の減少にも直結している。
  
 戦争やテロで人が大勢死ぬと、人はそれを破局と呼ぶ。自殺者が増えることを破局と呼ぶ人もいるだろう。それらは破局として理解しやすい。
 
 だが、子どもが生まれてこなくなるのも、それはそれで破局ではないか
 
 すでに、街で見かける子どもの数は減っている。急激なニュータウン化に苦しむ一部地域をのぞけば、小学校や中学校には空っぽの教室がある。数十万~数百万人の規模で子どもが生まれてこなくなり、数十年で数千万人の人口が減っていく。あまりにもスケールの大きなその影響は、計り知れない。
 
 こういった破局は、人類史のなかでもはあまり例の無かったことだ。豊かな生活・男女平等・個人の自由・民主主義といったアチーブメントを成し遂げたにもかかわらず子どもが半減していく事態を、まだほとんどの国は経験していない。そのくせ表向きは豊かな生活が続いているものだから、この破局を、破局として認識する人はあまりいない。
 
 本当は、不産の疫病神が国全体に、とりわけ人口集中の進む首都圏に憑りついている状態だというのに。
 
 みんな、この人口減少によって後進世代がゆでガエルになっていくプロセスを平常心で眺めていようと決め込んでいるのだろうか? それとも今日を生きるために明日のことや他人のことを見ないようにしているのだろうか? 後進世代よりも先に死ぬから「自分は逃げ切れる」とたかをくくっているのだろうか?
 
 ともあれ、この破局に違いないはずの変化を、破局と呼んでいる人は少ない。
 
 

乳児死亡率の低下だけでは説明できない

 
 よく、少子化と関連のある因子として乳児死亡率が挙げられている。
 
 確かに、人類史の大まかな流れを追うぶんには、乳児死亡率は少子化の目安として頼りになる。乳児死亡率が低下するテクノロジー水準に到達した国では、合計特殊出生率が2前後まで下がってくる。いわゆる人口転換の第一段階がこれで、大部分のヨーロッパ社会では19世紀~20世紀の前半にこれを経験している。
 
 

親密圏と公共圏の再編成―アジア近代からの問い (変容する親密圏・公共圏)

親密圏と公共圏の再編成―アジア近代からの問い (変容する親密圏・公共圏)

 
 
 しかし、少子化には第二の段階がある。落合恵美子 編『親密圏と公共圏の再編成 ──アジア近代からの問い』によれば、ヨーロッパとアメリカ合衆国では1960年代から、日本では1970年代からその第二段階の少子化が起こったという。個人主義にもとづいた現代的な価値観の浸透や、家族観の変化を背景として、合計特殊出生率が2以下になっていく現象だ。
 
 主要な欧米諸国では、この第二次人口転換は比較的緩やかに進んだ。緩やかに進んだ原因のひとつは多産な移民流入のせいでもあろうが、もうひとつは、もともと近代化が進行していて、ことがゆっくりと進んでいったこと、その時間的猶予のあいだに結婚と挙児についての結びつきがシフトチェンジできたことにもある。
 
 しかし日本にはこれは当てはまらない。日本はメインストリームな欧米諸国よりも急速に第二次人口転換が進み、時間的猶予が無かったためか、それとも近代化をあまりにも急速に推し進めたためか、結婚と挙児についての結びつきはあまり変化しなかった。
 

 ここでまた注意しなければならないことがある。ヨーロッパにおいては、婚姻年齢上昇と、生涯独身者の上昇という現象は、同棲と婚姻外の出生の増加とセットになって起きたということである。換言すれば、ヨーロッパ人は遅く結婚するとしても、結婚しないで性的関係をもったり同棲をしたりという、変容した「親密性」を生きているのである(Giddens 1992)。
 
 これとは対照的に、アジアにおいては同棲や婚姻外の出生の増加は見られず、この点がヨーロッパの第二次人口転換との最大の違いであると言われてきた。日本の18歳から50歳の独身者についての調査によれば、「交際している異性はいない」と回答した人の割合は、男性で52.2%、女性で44.7%であり、1990年代から僅かながら増加が見られるほどである(国立社会保障・人口問題研究所 2005)。日本での婚姻年齢と、生涯独身者の比率の上昇は「親密性の変容」からもたらされたのではなく、「親密性の欠如」を意味している。
『親密圏と公共圏の再編成 ──アジア近代からの問い』より

 
 欧米諸国では、結婚と挙児とはイコールではなくなり、挙児は、同棲をはじめとする「親密さによる結びつき」によって代替されるようにもなった。そうできたのは、近代化にともなう意識変化の最先端だったからでもあろうし、変わっていくための時間的猶予が十分にあったからでもあろう。
 
 対して、日本では結婚以外で子どもをもうける割合はあまり増えていない。「できちゃった婚」こそ増えているが、これも、子どもがいること=結婚すること・家族を構成すること という意識が根強く残っていることを反映しているようにみえる。
 
 「欧米諸国にならえ」と簡単に言う人もいるが、日本が近代化するために与えられた時間は、あまりにも短かった。乳児死亡率が低下したことによる第一次人口転換と、個人主義的で現代的な価値観の浸透にともなう第二次人口転換の間のモラトリアムが日本には少ししか与えられなかったため、ひとびとの結婚観や価値観まで欧米風にシフトチェンジするには、時間が足りなかった。
 
 こうした歴史的経緯の違いや、意識や社会構成の近代化にかけられた時間的猶予の違いは、欧米諸国と日本の違いを考えるうえで忘れてはならないものだと思う。
 
 

それでも日本はマシなほう

 
 さて、こうした破局は日本だけのものではない。
 
 
 (出典:内閣府ウェブサイトより)
 
 上掲の図が示しているとおり、アジア諸国は日本よりも早いスピードで、もっとシビアな破局に突き進んでいる。韓国、香港、台湾あたりの合計特殊出生率は、国家や民族の存亡にかかわる水準である。
 
 シンガポールの合計特殊出生率も注目に値する。強権的なこの国は、第二次世界大戦以降は人口抑制計画を続け、ことの重大さに気づいた1980年代以降は人口増加のための政策を推し進めたが、それでも合計特殊出生率は1.25となっている(googleによれば、2016年の段階では1.20とますます低下している)。強権的な国が強力に政策を推し進めてさえ、この人口減少の"病"は簡単には覆せないことを、シンガポールは証明しているようにみえる。
 


 
 シンガポールの例を踏まえるなら、たとえ日本の「失われた20年」がもっとマシだったとしても、当時の政権がもっと少子化対策に力を入れていたとしても、結局、ある程度の少子化は不可避だったのではという気がしてくる。
 
 上の表では比較的出生率の高いタイも、間もなく日本に追いつき、追い抜くだろう。なぜなら、タイは今まさに急速な近代化が進んでおり、と同時に首都バンコクへの人口流入が続いているからである。このバンコクの合計特殊出生率が東京以上に酷い。東京が日本じゅうから血を吸い上げることで繁栄を謳歌しているのと同じく、バンコクもまたタイじゅうから血を吸い上げながら繁栄し、そしてタイ全体の合計特殊出生率を引き下げている。
 
 日本で起こっている以上にはげしい少子化が、もっと早いスピードでアジアの新興国で起こっているわけだ。
 
 さきほど、日本では急速に近代化が進んだと書いたが、それでも日本にはいくらかの時間的猶予があった。
 

 もしも我々が二つの段階の出生率低下期の中間の、出生率が人口置換水準に安定していた時期を「近代の黄金時代」と呼ぶのなら、その時期の長さは、ヨーロッパとアメリカでは50年であり、日本では20年であり、東アジアの残りの地域ではほとんど存在しない。日本以外のアジア社会では、安定した近代を経験しなかった。そこでは突然に、また一気に後期の、あるいは第二の近代に飛び込んだのである。
『親密圏と公共圏の再編成 ──アジア近代からの問い』より

 
 東アジアの新興国は、日本以上のスピードで近代化と経済発展を追いかけてきた。その努力によって大変なスピードで欧米諸国に追いついたが、まさに大変なスピードだったがゆえに、価値観や結婚観や諸々の習俗なども含めて、いろいろなものが置き去りにされたままになってしまった。
 
 その結果、ゆっくりと時間をかけて近代化を成し遂げた欧米諸国にはあったはずの、近代化に即した価値観や結婚観の変化を推し進めるだけの時間的猶予はなく、変化にみあった新しい価値観・結婚観・ライフスタイルを人々の間に浸透させることはできなかった。おそらく、タイもこの轍を踏むことになるだろう。
 
 日本も東アジアの新興国も、かつては近代化や経済発展を旗印に、つまり、欧米諸国のようになることを目標としてきた。ほかのアジアやアフリカの途上国も同様だろう。しかし、急激な近代化とは、いったいどういうものだったのか? 急激に近代化し、経済発展を遂げた国々がたどり着いた破局的な人口減少を目の当たりにした時、長い時間をかけてたくさんの植民地を食い荒らし、そういった土台のうえに先進的な思想と国家体制をかためていった国々を、表層的かつ短期的に真似したツケは高いものではなかったかと、私は思わざるを得ない。
 
 実のところ、アジア新興国の近代化と経済発展とは、潜在的な出生率も含めた人口ボーナスのすべてをなげうって行われた、代償を伴った経済発展プロセスではなかったのだろうか。
 
 欧米諸国の繁栄や思想は、なにかと「後進国」の模範とみなされやすい。それは仕方のないことだとしても、国際社会は、「後進国」にかつての欧米諸国が辿ったのと同じ発展プロセスや歴史的手続きを授けてはくれない。たとえば植民地から収奪し続けながら長い時間を過ごし、そうした時間的猶予のもとで民主主義や個人主義を洗練させていく発展プロセスなど、望むべくもない。
 
 さりとて、韓国や台湾や日本のような一足飛びの発展は、国と民族の根幹を蝕み、やがては人々の生活にも影を落とすであろう急激な人口減少を招いてしまう。だとしたら、どうすれば良かったのだろうか?
 
 
 この文章で参照させていただいた『親密圏と公共圏の再編成』は全体としては落ち着いた筆致の書籍だが、それだけに、以下のようなセンテンスを見つけた時に私はうろたえてしまった。
 

 しかし、どちらのタイプ*1の家族主義も、持続可能な社会システムを建設することに失敗したということでは、違いはなさそうである。日本における純正な家族主義は変貌する世界に対する柔軟性と適応力を圧殺し、他の東アジア社会における自由主義的家族主義は、経済的に不利な人々に対する無慈悲な社会的排除を結果として生み出した。近い将来、他の東アジア社会が今日の日本と同じように高齢化するまでに、革命的でダイナミックな政策革新を実施できないならば、東アジアの社会的再生産はまさに不可能になるだろう。
(同書P94より)

 つまり、よほど革命的な改革ができない限りは、日本も含めた東アジアの国々は社会的再生産ができない=社会としては終わっていく。
 
 この、大規模な破局に対する処方箋は、欧米諸国には存在しない。もちろん各論的な部分では参考にもなろうけれども、ゆっくりと近代化を成し遂げた欧米諸国と、急激な近代化を余儀なくされた国々には大きな違いがあり、まさにその違いがこの破局の背景として無視できないことを思えば、これは、東アジア諸国がみずから処方箋を作り出していくしかないものなのだろう。
 
 果たして、そのようなことが日本や韓国や台湾に可能だろうか?
 
 どうあれ、なるようにしかならず、処方箋を見出せなかった国や地域は急速に衰退し、混乱していくだけのことではあるが。
 
 

*1:引用者注:日本の家族主義も他の東アジア諸国の家族主義も

謹賀新年──平成31年の『シロクマの屑籠』について

 
 新年、あけましておめでとうございます。
 常連読者のみなさん、時々読んでくださる読者のみなさん、常日頃よりありがとうございます。
 
 平成31年、2019年が始まりました。元号が変化するまでもなく世の中は急激に変化し、昭和時代によって準備された平和の成った時代は複雑な局面を迎えつつあるようにみえます。20世紀後半以来の秩序の揺らぎという意味でも、少子化に歯止めをかけられなかった因業が迫ってくるという意味でも、先の見通しが難しいと、私は感じています。
 
 だから、というわけでもないのですが、今年からこのブログは少し読みにくくなる予定です。なぜなら、幅広い読者さんに読んでもらうために語彙を選ぶのでなく、自分自身が考えるのに便利な語彙を選んで、今、私が考えたいことを考えたいように考える場として、このブログをもっと使っていきたいからです。
 
 このブログの主題は、もともと「オタクの社会適応」でしたし、もちろん、これからもアニメやゲームやオタクの生態についての文章は書き続けるでしょう。そういったものも社会の一部ですし、現代人の適応の一部をなしてもいるわけですから、尚更です。
 
 ただ、個別の現代人の社会適応については、私のなかで納得のいく答えがだいたい出たというか、あとは加齢に身を任せて高齢の境地を体験すれば、それでいいのかな、と思うようにはなりました。承認欲求をはじめとする社会的欲求についてはだいたいの傾向がわかったし、あとは、人と人とをつなぐコミュニケーションの導線と、その人自身の個人精神病理によって社会的欲求のかたちとその成否が左右される……と考えて、大筋では間違いはないように思えるからです。
 
 他方、人と人とをつなぐコミュニケーションの導線──たとえばSNSやLINE、ブログや動画投稿サイトなどが良い例ですが──が変われば、社会的欲求の表現型は変わりますし、個人精神病理の露出の仕方も変わります。と同時に、発達障害ブームがよく現しているように、社会が与える与件によって何が個人精神病理の範疇なのか、そしてどのような見立てで個人精神病理を取り扱うのかの枠組みそのものが変わります。
 
 この、「枠組みが変わると社会的欲求も個人精神病理のあらわれかたや見立ても変わる」という土台の揺らぎは、もちろん他の事々にも当てはまります。健康と不健康、道徳と不道徳、常識と非常識、自由と不自由の領域なども、社会という土台の揺らぎによって、知らず知らずのうちに揺さぶられ、ゆっくり変化していることを私は意識するようになりました。
 
 オタクという言葉が空中分解を起こしながら、そう呼び倣われる人の社会適応のありかたを変えていったのと同じかそれ以上に、現代人と自らを呼ぶ、私達の社会適応のありかたとその土台としての道徳や常識や自由のありかたも、この数十年の間に大きく変わり、しかし、その変化はあまり省みられていません。
 
 国内外が大きく変わりゆき、たくさんの人々が社会適応の難しさに直面していくであろう近未来の社会適応を考える際には、私達の社会適応の土台とはどういうものなのか、どのように揺らいできて、どこへ向かっていくのかを考えてみるのもいいんじゃないか──そんな風に現在の私は考えています。
 
 なので、この『シロクマの屑籠』は、今までよりも幾らか、個人の社会適応の問題と、その根幹にかかわる諸々の土台の揺らぎについて、自分の考えを自分の使いやすい言葉で整理整頓するための下書き場として用いていこうと思っております。ぶっちゃけ、「読者優先ではなく筆者優先のブログ」化がますます進行するわけですけれど、私はブログでやりたいことを真っ直ぐに追いかけていきたいので、新年のご挨拶の場を借りて、一年の指針についてご報告申し上げます。
 
 このようなブログで構わなければ、本年も、どうかよろしくお願いいたします。
 

雑感・『ゾンビランドサガ』

 
 

 
 今年もいろいろなアニメを味わい、楽しんだけれども、10月からのアニメで生活の質を一番良くしてくれたのは『ゾンビランドサガ』で、ゾンビ、アイドル、佐賀県がこれ以上ないぐらいに噛み合っているさまを楽しんだ。年末、思い出してスマホで書き殴りたくなったので書き残しておく。
 
 
 
・深夜アニメなので子ども向けの作品ではないだろうが、『ゾンビランドサガ』はうちの子どもには好評だった。特にガタリンピック、【たえの四肢がバラバラになって残りのメンバーが有明海を這い回る→ドライブイン鳥のTシャツが現れる】までのシーンのウケが良かった。「首がもげて、四肢がバラバラになって、ガブガブかみつくゾンビをコミカルに描こう」という強い意志の賜物だと思う。
 
・ガタリンピックの回はほかにも見所いっぱい。泥だらけになったさくらの髪がなぜか風にたなびくという、意図的に描いたとしか思えない、いかにもアニメ的な不自然さを描いていて、それがさまになっていた。司会の女性の、やる気のない声も似つかわしいもので、場面の雰囲気のつくりかたに一役買っているようにみえた。他の回もだいたいこんな感じで、見せたい場面のセッティング、視聴者の構えを誘導する巧みさみたいなものを感じた。
 
・私はあまりアイドルものをたくさん見ていないので、もしかしたら『ゾンビランドサガ』よりも命の輝きを印象づけられるアイドルアニメがあるのかもしれない。というか、リアルを含めてアイドルとは命を輝かせるものなのだろう。ただ、日常生活ではそういうことはあまり考えないわけで、「一度しか訪れない時間のなかで、命を燃やすアイドル」なるものをここまで意識したのは自分にとって新鮮な気付きだった。アイドルであること、生前が語られること、ゾンビであることが噛み合っていたから、ひとりひとりの命の輝きをことさら意識できたのだと思う。
 
 
・ところで、ある程度歳をとってから実物のアイドルにのめり込むおじさんが世の中にはいたりするが、あれも、今更若い娘さんの外見に魅了されているというより、命の燃焼や青春の燃焼に魅了されていたりするのだろうか? 生身の人間アイドルというのは実物の人生、そのひとの魂を宿した存在であり、その、取り返しのつかない一回性の存在が、歌って踊って汗や涙を流すエンターテイメントとはどういうものだろう? ……といったことをふと思った。
 
 
・とにかくゾンビというギミックが活きている。ブラックな労働も四肢バラバラパートの面白さも命の輝きも、すべてゾンビというギミックのおかげで辻褄が合っていた。生前の活躍と死後のトラウマ、死者を思い続ける人々を巡る物語にインパクトが宿っているのも、一度死んで、蘇っているからに他ならない。
 

 
・リリィの回の、この涙にはやられた。くそっ! ベタな涙ではあるし、いまどき深夜アニメの世界には無駄といっていいほど涙があふれている。「お涙頂戴」という言葉があるとおり、涙という記号自体はチープなものでしかないけれども、そこでベタな演出に白けるのか、乗っかって感極まるのかは、細部に宿る神の御業によるものであり、『ゾンビランドサガ』という作品には細部に宿る神がおはしましたらしく、不覚にも、何度か涙腺が決壊してしまった。
 
 
・とにかく細かいところに気が利いている。素晴らしい主題歌、再視聴した時に発見のある細かな気配りや伏線の数々。気持ち良く動き、ちゃんとかわいいフランシュシュのメンバーたち。作画にお金がかかっているだけでなく、ゾンビ・アイドル・佐賀県というギミックとストーリーラインの統合性、視聴者を楽しませてやろうという執念*1、どれも一線級。製作に携わった人達とサイゲームスには感謝しかない。
  
 
・それだけに、10話~12話は相対的にモタっとしてみえた。あくまで相対的なもので、並みのアニメに比べれば十分なのだけど。続編を見据え、アクセルの踏み具合を変えたのではないか、とも感じた。12話のラストは強制的に続編をみるように促すもので、1期単体アニメとしてみれば尻切れトンボではある。そのかわり、今後に期待を持たせる終わりかたではあった。
 
 
・佐賀県のご当地アニメとしても強力、ドライブイン鳥の社長さんの棒読みはほとんど反則だ。社長さん本人を連れてくればリアルな棒読みになるわけで、ご当地アニメに似つかわしかった。エンディングテーマ『光へ』は、すでに更地になっているコーヒーショップボガも相まって、(これは佐賀県に限ったことではないけれども)衰退していくジモトの風景の儚さを思い起こさせるところがあり、その衰退していく佐賀県のご当地アイドルがゾンビであることに4割のシンパシーと4割の応援と2割の皮肉を感じずにいられなかった。
 
 

 
・でもって、『光へ』以外のエンディングテーマの時も、「佐賀県」というテロップがベストショツトでうつっていた(上記貼り付け画像参照)。これ、サブリミナル効果があるんじゃなかろうか。佐賀県に来い、という強いアピールを感じる。遠いけれども行ってみたくなった。
 
 
・個人的には、二階堂サキがツボにはまった。世代的にも近いし、ヤンキーという種族そのものが絶滅に瀕している2018年から見ると、彼女の振る舞いのひとつひとつが思い出であり、20世紀の地方や郊外を思い起こさせる。自分が生きた時代と文化圏を代表しているのはサキだし、ああいう振る舞いは自分のどストライクゾーンなので、とにかく良かった。
 
 
・とはいえみんなやたらかわいい。誰一人欠けてはいけないし、誰の動きにフォーカスして眺めてもうっとりする。愛と純子、リリィやたえの動きをじっと見ていても発見があって幸せになる。ゆうぎりの過去話はDVDを買って見ろ、なんだろうか。そんな気はする。
 
 
・次回予告以上に、冒頭の前回のおさらいが良くできていて、飛び飛びに再視聴するときに目当ての回を探すのが楽だった。とてもまとまっているし早口な語りも似合っているし、一話飛ばしてしまった人もなんとかなるだろうし、そのうえ面白い。こういうところにも心遣いが感じられてかたじけない。
 
 

続きが楽しみです

 
 そんなこんなで、楽しんでしまった。それだけに、ゾンビアイドルグループの核心に迫りそうな続編が待ち遠しくてたまらない。かわいらしくゾンビアイドルしている歌を聴きながら、続編リリースを待っていたいと思います。
 
 ※このブログの更新は、今年はこれでおしまいです。皆さん良いお年を。
 

徒花ネクロマンシー

徒花ネクロマンシー

光へ

光へ

 
 

 
 

 

*1:方向性は違うけれども『GRIDDMAN』も相当なものだった。今年前半の『宇宙よりも遠い場所』や『ゆるキャン』もよくできていた。私自身のアニメ視聴としては、今年はこれらだけでも大豊作で、アニメ頑張っているなーと感じた。

「養分」「情弱」が正当化される社会とは、一体何なのか

 
 ※この文章にはヤマもオチもイミもありません。まとまりのある文章をお望みでしたら、回れ右です。
 
 
FGOに400万課金した女が思うこと
課金してるやつには何を言っても無駄
 
 クリスマスイブ~今日にかけて、はてな匿名ダイアリーに、ソーシャルゲームに大金をつぎ込んでしまった話が相次いで投稿された。ひどい課金もあったもんだねぇ……と思いつつも、お天道様はそれでも課金を許しているじゃないか、それに、位置情報ゲームのために何十万円何百万円つぎ込む人や、ホストクラブやキャバクラに蕩尽する人だって似たようなものじゃないか、などとぼんやりと考えているうちに日経平均がどんどん下がっていった。
 
 そんな折、ふとtwitterを眺めていたら「養分」という言葉が目に飛び込んできた。
 

 なるほど、「養分*1」ですか。
 株価が大暴落しているせいもあってか、「養分」という言葉が私のなかに染みわたって変な気分になった。
 
 ソーシャルゲームに何十万何百万もつぎ込む人は、ゲーム運営企業にとって「養分」に違いない。それだけではない。他のゲームプレイヤーにとっても「養分」だったりする。なぜなら、たくさんのお金をつぎ込んでくれる人がいればいるほど、そのソーシャルゲームのクオリティが高くなったり、そのソーシャルゲームの耐用年数が長くなったりするからだ。ゲーム運営企業という媒介者をとおして、無課金プレイヤーや少額課金プレイヤーも間接的に「養分」の分け前にあずかっている。
 


 
 この「養分」の構図はソーシャルゲームで際立っているけれども、アイドルグループの応援や、自分が使っているネットサービスが継続されるか否かといった問題にも(程度の違いはあれど)当てはまることだ。投機や投資のたぐいにも当てはまるだろう。
  
 「養分」がたくさんのコストを負担してくれることによって、そうでない人々がお金をもうけたりサービスを享受できたりする構図は、現代社会のすみずみまで浸透しているので、私達は、それが甚だしい時には顔をしかめるけれども、その構図そのものに対して自省的になることはほとんどない。
 
 「情弱(情報弱者)」が損をする問題についても、近いものを感じる。
 
 もっと便利なサービスを知らない・もっと安くつくサービスを知らないがために多くのお金を使わざるを得ない人を、ネットの住民はしばしば「情弱」と言って蔑む。たとえば大手通信会社がスマートフォンにプリインストールしたアプリによって「情弱」からお金をむしりとっている、などと言ったりする。
 
 その一方で、経済のある部分はまさにその「情弱」によって回っていたりもする。情報弱者がいなければ成り立たない産業、情報弱者がいるおかげで潤っている商売が、この世にいったいどれぐらいあるだろうか。資本主義社会において、情報が弱いということは経済的弱さに相通じるし、情報が強いことは経済的強みに相通じている。そんなことは、多くの人々──とりわけ「情強」を自称している人々──が知悉していることだろう。にも関わらず、「情弱」がその情報の弱さによって多くのお金をむしりとられる構図自体が自省されることはほとんどない。
 
 
 「養分」や「情弱」からお金をむしり取ることは、現代社会ではどうやら正当化されているらしく、現代人は、そのことに良心の呵責をあまり感じないのだろう。どうしてこんなことが大っぴらに、さも当たり前のことのように許容されているのだろうか。
 
 

「身体的に組み伏せる」のは許されないが「判断力や情報力で組み伏せる」のは許される社会

 
 現代社会では、他人に殴りかかって財貨を奪ったり、他人を腕力によって服従させたりすることは良くない──暴力──であるとみなされている。つまり身体的能力を行使して他人を組み伏せてはいけない、というのが現代社会のルールになっていて、法的にも倫理的にも禁じられている。
 
 他方、判断力の勝る側が判断力に劣る側を「養分」とすること、情報力に勝る側が情報力に劣る「情弱」からお金をむしりとることは、法的に認められている。「判断力や情報力で他人を組み伏せても構わない」というのが現代社会のルールで、それをフィジカルなパワーで覆すことは許されていない。もしも身体的能力を行使すれば、暴力とみなされ罰せられるだろう。
 
 遠い昔は、人間はありとあらゆる力を用いて競争してきた。身体的な力も、判断力も、情報力も、他者を組み伏して自分自身を優位に立たせるために用いられてきた。
 
 

社会契約論 (白水Uブックス)

社会契約論 (白水Uブックス)

 
 
 しかし、商業が発展し、中央集権が進むにつれて、身体的な力の行使は禁じられていった。中央集権国家とその法律、警察機構などによって身体的な力の行使は統制され、社会のなかで許容される競争の原理は変わっていった。これによって治安が改善したり商取引が邪魔だてされることが減ったりしたのだから、社会がそれで進歩したのは間違いない。
 
 そして、身体的な力の行使が徹底的に禁じられた先には、判断力や情報力による力の行使が残った。
 
 判断力に優れた者や情報力に勝る者にとって、現代社会は法律の範囲内で思うさま力をふるえるフィールドだ。判断力に勝る側が得をして、判断力の劣る側が損をするのは、現代社会では自然なことと受け取られているし、そういった競争は倫理的にも問題視されない。情報力についてもおおむね同様だ。そうした競争原理が公に認められている背景には、過去の思想家や法律家の仕事の積み重ねや、後見制度(昔でいう禁治産者制度)があるのだろう。
 
 そうはいっても、これからもそのままで通用させて構わないものなのか。
 
 100年前とは違って、現代人はほとんど皆、インターネットを介して巨大企業やSNS上のインフルエンサーといった、手強い相手と繋がっている。ただでさえ手強い相手なのに、24時間365日繋がりっぱなしになっているものだから、いつでもどこでも「養分」にされかねない。ソーシャルゲームのガチャも、電子書籍のセールも、インフルエンサーの甘い言葉も、いつでもどこでも這いよって来る。
 
 「私は大丈夫だ」と思っている人もいるだろうけれども、たぶん、そうはいかない。人間が24時間365日、判断力も情報力もベストでいられるわけがない。百貨店や商店街に出かけている時だけ判断力や情報力がシャキっとしていれば良かった時代ではないのだから、「シャキっとしていない時の自分」や「弱っている時の自分」も否応なく競争にさらされてしまう。
 
 
 病気などの理由によって判断力や情報力があまりにも足りない場合は、成年後見制度の対象となって、そのような競争の荒波から守られることもある。しかし、その場合は守られる度合いに応じて権利が制限されるし、そもそも、「養分」や「情弱」になりそうな人すべてに適用できるように後見制度がデザインされているとも思えない。かりに、認知症や知的障碍のような永続的なハンディを片っ端から後見制度の対象にできたとしてさえ、それだけではこの問題をカヴァーしたことにはならない。なぜなら、誰にだって破れかぶれの時期はあるものだし、精神疾患とみなされる手前にもそのような状況はたくさんあるからだ。
 
 100年ぐらい前の世の中で、比較的狭い範囲の商取引のなかで判断力競争や情報力競争が起こっていた頃は、まだしも、今の制度や倫理感覚は妥当なものだったかもしれない。けれども何もかもが情報化し、あらゆるものが商業化した現代社会でも、同じ制度・同じ倫理感覚がそのまま通用されて構わないものなのだろうか。
 
 ソーシャルゲームの話題と「養分」というネットスラングをきっかけとして、私は初めて「なぜ、現代社会で『養分』や『情弱』が食い物にされることが正当化されるのか・その正当化のメカニズムはどのようなものなのか」が不思議だと感じた。この不思議な気持ちはまた思い出したくなるような気がしたので、ブログに書き残しておくことにした。まったくコンテンツ性の無い文章にここまでお付き合いしてくださった常連読者のみなさん、ありがとうございました(いつもすみません)。
 
 

*1:ネットスラングで「体の良いカモ」といった意味