シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

適切な言葉遣いは、身を助ける防具にも敵を排除する武器にもなる

 
blog.tinect.jp
 
上掲リンク先の文章は「適切な言葉遣い」の重要性について書かれたものだ。混同しそうな言葉のひとつひとつを丁寧に、面倒くさがらず、厳密に選択していく必要性が経験談とともに紹介されている。
 

だが上司は、非常に言葉にうるさかった。
例えば「問題」と「課題」のちがい。
これは専用のテキストまであり、「絶対に混同して使うな」と教えられた。
これはのちに、小難しい議論を好む人ほど
「問題」じゃない、「課題」だ
と強く主張することが結構多く、「厳密に教えてもらっていてよかった」と強く思った。
 
あるいは「失敗」と言うな、「成長ネタ」と言いなさい、とも言われた。
正直なところ、「馬鹿馬鹿しい」と最初は思った。
 
小学生じゃあるまいし、「失敗」と言って何が悪い、と。
 
しかし、「失敗」の発表の場で、誰が発表したいと思うだろうか。
社長が「成長ネタ」を披露してください、とコンサルタントに言い、事例の共有がなされるにつれ、「成長ネタ」という言葉が、心理的安全性を作っていることに、やがて気づいた。

「問題」か「課題」か。
「失敗」か「成長ネタ」か。
「失敗」を「成長ネタ」と言い換えるのは大同小異かもしれないが、その失敗を聞く側の心証はそれなり違う。違いがクライアントとの関係に影響するとしたら、適切な言葉遣いもコンサルタント業の資質のひとつ、ということになる。
 
こうしたことは、メールを書く時や報告書を提出する時にもついてまわる。だいたい同じ意味だからと雑に書くのと、適切な言葉遣いを心がけて書くのでは、読み手の心証は変わる。誤解なく文意が伝わるかどうかも変わるだろう。それこそ、支配を保護と呼び、搾取を競争と言い換えることで浮かぶ瀬もあるだろう。適切な言葉遣いが求められるのは、face to face なコミュニケーション場面ばかりではない。
 
 

「適切な言葉遣い」は、業種や公私を問わず求められている

 
こうした適切な言葉遣いが最も期待され、重要な資質とみなされるのは、なんといっても冒頭リンク先にあったコンサルタント業のような職域の人だとは思う。次いで、報告書や書類をたくさん書かなければならない職業、たとえば管理職や教員や公務員などにも求められがちだ。総じて、こうした技術はホワイトカラーの職域で重宝され、身に付けるのが望ましいとされてきた。
 
しかし実際には、適切な言葉遣いはもっと広い職域で期待されている。
たとえば営業職の人が雑な言葉遣いをしていたら、成約できるはずだった成約も取り逃してしまうだろう。宿泊業や観光業の従業員もそうだ。ちょっとした言葉違いによって、お客さんに喜ばれる確率や嫌がられる確率は変わり得る。その他の職域でも、同僚との会話で悪い印象を与えないために、上司への報告で良い印象を与えるために、それぞれふさわしい言葉遣いがある。不適切な言葉遣いが余計な摩擦や反感を買い、適切な言葉遣いが調和や協力を招く以上、誰しも、適切な言葉遣いを心がけたほうが働きやすいだろう。
 
適切な言葉遣いの出来不出来は、私生活のコミュニケーションの成否や、人間関係の帰趨にも少なからず影響する。新学期で人間関係がスタートする時、好意を獲得しやすいか、敵意を避けやすいかは言葉遣いによって左右される。それができる人とできない人のギャップは、時間とともに埋めがたくなっていく。
 
コミュニケーションが苦手だという人をよくよく観察すると、容姿の面で何か大きなハンディがある人は実はそれほど多くない。適切な言葉遣いができず、無用の反感や敵意を買ってしまっている、そういうハンディのほうが実際には多かったりするのである。
 
人間関係ができあがった後も、言葉遣いは影響を及ぼし続ける。
 
夫婦になった男女が、いつも雑な言葉を応酬しているのと、相手がどう受け取るのかをよく考えた言葉を応酬しているのでは、夫婦間の誤解やわだかまりが蓄積していく度合いはかなり違うだろう。カップルや友達関係の場合もそうだ。
 
こんな具合に、適切な言葉遣いはいつでもどこでも求められる。これができればあらゆるコミュニケーションに成功裏に進みやすくなり、これができなければあらゆるコミュニケーションが失敗しやすくなるーーということはだ、私たちにとって、適切な言葉遣いとはものすごくプラグマティックな渡世の技術ではないだろうか。
 
「たかが言葉遣い、言葉遊びに過ぎない」などと侮っている人は、考えを改めたほうがいい。雑に言葉を吐き出すそのたび、適切に言葉を選んでいる人よりも失敗しやすいコミュニケーションの橋を渡っているも同然である。言葉遣いの雑さに無頓着な人は、いわば、ハンディを背負ったまま渡世をやっているに等しい。
 
 

適切な言葉遣いを用いれば、排除すらいじめ未満になる

 
また、適切な言葉遣いは、自分の身を助けるために用いられるばかりではない、と思う。
 
「どうぞごゆっくり」「おしゃれさん」「まじめで好印象」──こういった、本来は他人を歓待したり肯定したりするレトリックを用いて、他人を揶揄したり嫌悪感を表明したりするテクニックがある。俗に京都ことばとして紹介される"ブブ漬けを出す"の日常版というか、表向きは歓待や肯定のようにみえるが、しばらく考えてみるとそうではない表現、わかっている人にはそうではないとわかる表現、メタメッセージとして異なる含みを持たせている表現を、私は時々みかける*1
 
レトリックの魔法は、そうした本来の語義とは正反対のニュアンスを、話者が不道徳な体裁にならないかたちで伝えることを可能にする。最もエレガントに機能する時、それは語り手と聞き手の両方の気持ちを救うことになるが、最も陰険に機能する時、それは語り手が不道徳を回避することを許しつつ、聞き手が一方的に落胆し、しかも言い返すのが非常に困難な状況を作り出す。
 
で、世の中にはそういうレトリック運びの上手い人が結構いたりする。
 
たとえば学校において、適切な言葉遣いを使いこなせる早熟な生徒は、口は悪いけれども気の良い生徒に対し、いじめだと謗られることなく意地悪な意志表明をしたり、圧力をかけたり、排除の包囲網を形成(しようと思えば)できる。もし、そのプロセスの途上でアクシデントが起こり、いじめの事例として浮上する場合も、十分に賢い生徒は適切な言葉遣いによって「いじめ被害者」の側に回るだろう。
 
というより、いじめを摘発しようとする現代の学校システムを知悉し、それに最適な言葉遣いを心がけられる生徒にとって、いじめとは、自分が加害者になってしまうおそれの高いものではなく、誰かを加害者として貶めることのできる機会にすら、なり得るのではないだろうか。そうした転倒を可能にしてしまうのが、適切な言葉遣いではないかとここでは言いたいわけである。
 
だから私は、自分以上に適切な言葉遣いで、花束のようなコミュニケーションを常としている人に、好感と怖れの両方の気持ちを持たずにいられない。気が付かないうちにそうしたレトリックの術中に嵌っているかもしれないし、実際、あとになってメタメッセージに気付いてうろたえてしまうこともある。でもって本当に手ごわい相手は、後でメタメッセージに気付いてうろたえてしまうことまで織り込み済みで丁寧な言葉遣いで怖いことをいう。中年となった今に至るまで、私はコミュニケーション能力を獲得したいと願い続けてきたが、天然のレトリックの達人たちには、こうした点でまったく敵わない。
 
法治が広く行き渡り、腕力によるコミュニケーションが否定され、言葉によるコミュニケーションこそが本道とみなされる世の中になったことで、適切な言葉遣いは、武器としても防具としても重要性を増していると思う。言い換えれば、令和の日本社会は適切な言葉遣いの有用性が跳ね上がった社会、レトリック巧者が有利を取りやすくなった社会だとも言える。こうした状況がこれからも長く続くとしたら、レトリックを巡る万人の万人に対する闘争はますますインフレし、後発世代は私たちより巧みに報告書を書き、巧みに自己弁護し、巧みに圧力や排除をやってのけるようになるのかもしれない。
 
 

*1:また、そうやって体よくあしらわれていると気付いたり、メタメッセージレベルでさっさと帰れと言われていることに気付いたりする

「本物の社畜」が生まれようとしている

 
www3.nhk.or.jp
 
今週、NHKのサイトで"在宅勤務中も禁煙"を求める企業の動きについての報道があった。野村ホールディングスは、出社している社員に加えて在宅でリモートワークしている社員にも、就業時間中は禁煙を求めるのだという。
 
こうした動きは社員の健康の維持と生産性向上を図るねらいがあるとのことで、イオン、カルビー、味の素なども似たような取り組みをしているという。そして働く人の健康づくりを重視した企業経営は「健康経営」と呼ばれ、経済産業省も後押ししている。
 
 

健康と生産性の名のもと、社員は飼い殺されるのか

 
しかしこれは、社員の自由や裁量を奪うものではないだろうか。
 
企業が営利を求める以上、社員に生産性を期待すること自体はわかるし、その延長線として社員の健康に目を向けるのも自然な成り行きにみえる。しかし、ある社員にとって何が生産性を向上させるのか、それとも向上させないのかは個人差の大きいことのように思える。この場合、タバコが制限の対象になっているわけだが、(ほとんどの人が飲めば生産性がガタ落ちしてしまうアルコールなどと違って)特にタバコの場合は、業務のアクセントになっている人はまだまだいるのではないだろうか。
 
分煙化が進んでいる現在では、職場での完全禁煙はよく理解できるし、それに慣れている人も多い。しかし今回は話が違っていて、リモートワークしていて分煙問題をクリアしている社員の喫煙まで、健康と生産性の名のもとに禁じようというのである。あくまで私企業が社員に「求める」だけだから強制力は無いと考える人もいるかもしれないが、私はそうでないと思っている。確かに私企業が社員に「求める」だけなら、バレないように喫煙するなど造作もないだろう。しかし私企業が社員に「求める」以上、バレればそれはスキャンダルやペナルティの対象になる。そうである以上、この「求める」にも多少の強制力が伴っていて、キャンペーンとして実効性があるとみるべきだろう。
 
私はこの動きが、とても怖いと感じている。
 
怖い理由の第一は、この動きが、(資本主義に基づいた)生産性向上という大義名分と、健康の維持という大義名分によって正当化されていることだ。
 
経済産業省が後押ししていることが象徴しているように、「生産性の向上と健康の維持」には普遍的価値に近い響きがある。普遍的価値に近い響きがあるということは、そのための施策やアクションを正当化する大義名分として非常に強い、ということだ。後でも触れるように、この施策は個人の自由を制限するものだから、なんの大義名分もなくやって良いことではあり得ない。ところが生産性向上と健康の維持のためという大義名分が伴っていれば、できてしまうのである。
 
怖い理由の第二は、働くこと・パブリックな領域での活動が、大義名分さえあればプライベートな領域の個人活動を制限できるよう、なっていきそうだからだ。
  
在宅リモートワーク中の社員の行動まで制限するのは、出社している社員の行動を制限するのに比べて、よりプライベートな領域への制限となる。もし、社員の生産性向上と健康の維持が大義名分となって社員のプライベートな領域にさまざまな「求める」を突き付け続ければ、社員のプライベートは早寝早起きを当然とし、飲酒喫煙を禁じ、フィットネスクラブでネズミ車を回すような、そういったプライベートにならなければならないだろう。もちろん、在宅リモートワーク中の社員の行動を制限するのと、オフタイムの社員の行動を制限するのでは、現段階ではそれなりの距離がある。しかし前者が定着したあかつきには、生産性向上と健康の維持という大義名分は、ただちに後者を射程におさめるだろう。
 

“在宅勤務中も禁煙”求める企業相次ぐ | NHKニュース

射精管理までしてきそう。

2021/09/01 19:08
b.hatena.ne.jp
 
たとえば射精管理なんて馬鹿げていると思うかもしれないが、それが生産性向上と健康の維持に貢献するというエビデンスが集積する限りにおいて、「健康経営」に真剣な人々は本気で射精管理について議論してしまうのではないだろうか。
 
2020年代は新型コロナウイルス感染症が世間にはびこっているので、健康の維持という大義名分がクローズアップされやすくなった。今の世の中を見てもわかるように、健康維持という大義名分があれば普段は通らないような施策や「求める」が正当化され得る。または、そこまでいかなくても追い風を得る。
 
今は、健康の維持という大義名分をもってさまざまなことを制限したり介入したりする千載一遇のチャンスだといえる。そうした制限や介入に人々を慣らし、非常識を常識にしてしまうチャンスでもある。機会をうかがっていた人々は、このチャンスを逃さないだろう。
 
 

生産性と健康を突き詰めると「ほんものの社畜」ができあがる

 
さきにも述べたように、現代社会において生産性向上と健康の維持は普遍的価値にも等しく、今後、私たちの生活はこれらの大義名分に沿ったかたちで"改善"されていく可能性が高い。いや、本当は20世紀からこのかた、"改善"は続いているのである。では、私たちの生活が「健康経営」というスローガンによって"改善"されていった行き着く先はどのようなものか。
 
私は、良い意味でも悪い意味でも行き着く先は家畜化ではないかと思う。
 
良い意味での家畜化とは、働く私たちはますます健康に、ますますマネジメントされた、ますます生産的で効率的な労働者になれるだろうということだ。
 
働く人々の健康はますます増進する。過労死も自殺もメタボも少なくなり、80歳になっても働き続けられるようになる。生産性や効率性が向上した結果、GDPは少子化の割には低下せず、国力は高い水準で維持される。
 
悪い意味での家畜化とは、ますますマネジメントされた私たちはまったく不自由になり、生産性や健康に奉公する存在になり果ててしまうだろう、ということだ。
 
生産性や健康を至上命題とする"改善"が行き着く先は、もちろん喫煙や飲酒が禁じられた世界、さらにカフェインや一部の香辛料も禁じられた世界ではないだろうか。昼食にラーメンを食べたり三時のおやつにチョコタルトを食べるのは、メタボの可能性があるから"改善"にそぐわない。禁じられるか、さもなくばいわゆる愚行税*1の対象になる。登山やスキューバダイビングといったリスクを伴うレジャーも同様だ。健康的で道徳的な余暇を正しく楽しむことが、人々の権利となり、また義務となる。
 
今世紀になってまもなく、社畜という言葉が人口に膾炙したが、社畜とはいうものの、社員にはプライベートがあり、自嘲的に社畜を自称する人々もラーメン二郎を訪れたり居酒屋でくだをまいたりしていた。
 
けれども企業や社会がプライベートに介入し、生産性や健康の維持に忠実であるよう求めることが常態化すれば、社畜の社畜度は今とは比べ物にならないほどになる。私たちは生産性と健康の維持のために、職場でもプライベートでも努めなければならなくなるし、そうであるようマネジメントされる。これでは完全に家畜ではないか。
 
そうとも。24時間365日、揺りかごから墓場まで生産性を期待され、健康を維持するようマネジメントされることで、私たちは社会的に完全に家畜化される。真・社畜の誕生だ。社畜とは、ここでは二重の意味を持つ──つまり私たちは会社に飼われる家畜であると同時に社会に飼われる家畜となるわけだ。
 
 

自由とは、どうでもいいもの・くれてやっていいものなのか

 
家畜には自由はない。何をすべきかを他人に決められ、与えられ、保護されるだけの者には自由などない。まして、そうやって決められ与えられ保護されるだけの状態に疑問を感じない者には尚更である。
 
しかし今、その自由について考え、守り抜きたいと思う人は本邦にどれぐらいいるだろうか? 自由なんて、生産性や健康の維持のためなら、気前よくピザを切り分けるように国や企業や社会にくれてやっても構わないと思っている人が多いのではないだろうか。あるいは自由などなんの値打ちもなく、それを守るための闘争など想像できず、空気と同じく与えられて当然だと思っている人すらあるのではないだろうか。
 
自由が失われれるプロセスにも色々あり、たとえば宗教原理主義勢力や全体主義勢力に侵略された国では個人の自由はなくなる。こういう外敵による自由の喪失は、わかりやすいし警戒もしやすい。
 
しかし外敵によらずとも、たとえば社会の通念や制度によって、あるいはアーキテクチャの設計によって、いわば内から個人の自由がなくなっていく脅威もあるように思う。生産性や健康の維持は、それらが私たちの手段であるうちは私たちの自由に資するだろう。けれどもそれらが私たちの目的となり、主人となり、至上命題となった場合は話は別だ。それらは私たちに命じるようになり、私たちを監視するようになり、私たちを品評するようになる。
 
生産性や健康の維持は、自由を愛する人間にとっても重要な手段であるから、それらに目配りすること、特に専門家がそれらを推進することに異存はない。しかし今後、それらが私たちへの介入を深め、それら自体に貢献させるべく私たちを束縛する度合いを深めていくなら、深刻な自由への脅威、もう少し控えめにいっても私たちが自由と呼んでいるものの形骸化をもたらしかねないだろう。
 
進化の目で見るなら、人類は、ある程度までは自己家畜化を行ってきた生物種であり、社畜がいよいよ家畜になったからといって驚くほどでもないのだが、とはいえモノには程度があり、生産性と健康の維持のために生きる以外の生き幅が制限されるようになったら、人類の未来はブロイラーの現状とさほど変わらぬものになるだろう。それでいい、それこそがいい、という人もいるだろうが私はそうではないので、こうした動きには注意を払っておきたいと思う。
 

*1:ところで、この愚行税とか愚行権といったボキャブラリーからは、何が愚かで、何が愚かでないのかを決める立場があるのは私たちだ、という強い意志を感じる。他人の行動のひとつひとつが愚かかどうかを決められる立場にある、少なくともそうだと思い込んでいる人がいるようだ。

『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』の感想というか

 

 
週末、縁があって『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』を読んで楽しかったので感想文を書き残すことにした。
 
はじめはそれほど興味を感じなかった。この本は、人類を即座に滅亡させられる魔王によって10人の人間が集められ、反出生主義を主張するブラックと、それ以外のレッド・ブルー・イエロー・オレンジ・ゴールド・シルバー・パープル・グレー等々が議論する形式で進んでいく。議論といっても、はじめはブラックが反出生主義について語り、他のメンバーがそれに違和感や反論を述べ、道徳的見地からブラックがそれに反論する、そんな感じが続く。
 
この前半のブラック無双なやりとりは反出生主義のやさしいイントロダクションになっていて、反出生主義がどんな考え方なのかを掴むには向いている。たとえば反出生主義と、ただ「生きていくのが辛いから世界が滅んで欲しい」と願うのはどう違うのかや、反出生主義の背後にある「人が苦痛を感じ得る状況が悪である」とするロジックなどが、ブラック以外が噛ませ犬的に登場することでわかりやすく説明されている。
 
反出生主義のやさしいイントロダクションとして、この前半パートはかなり練られていると私は感じた。本書全体もそうだが、やたら難解な哲学者や哲学用語がしゃしゃり出てくるのを避け、そういう方面をよく知らない人でもしっかり理解できるよう工夫されている。反面、ここではイントロダクションが優先されているせいで、ブラックが目立つのとは対照的にレッド・ブルー・イエロー・オレンジといった他の面々は精彩を欠いている。この本の前半は、ブラックが語る反出生主義のイントロダクションだとはじめから割り切ってかかったほうが抵抗なく読めそうだ。
 
ところが後半にさしかかると様子が変わってくる。
ひととおりのイントロダクションが終わったためか、ブラックとその反出生主義に対してそれぞれのメンバーから、さまざまな突っ込みが入る。たとえば自由主義者のオレンジも、ブラックが自分のロジックを拡張させようとした際にシャキっとしたことを言っている。
 

 ブラックはこれまでずっと「苦痛を増やすこと」は道徳的に避けるべきだ、という話を繰り返してきた。
 たしかに、子どもをつくるということは、苦痛を感じる存在が世界にひとつ増えるということにほかならない。それは、大きな悪を含む行為なのかもしれない。
 でも、その道徳原理を「生まれてこなければ『よかった』」というかたちで過去にまであてはめてしまうと、妙なことになる気がする。もし仮に「わたしたちが子どもを生むのは悪」というのが事実だったとしても「わたしたちが生まれてきたのは悪だった」と言ってしまっていいの?
……これまでの子どもを生む/生まないという話は、あくまで未来をどう決定するか、って議論だった。それに対して「生まれてこない方がよかったかどうか」は、すでにわたしたちが生まれてしまっているこの世界と、わたしたちが生まれてこなかった”もしも”の世界を比べている。そこが大きく違う。
……どんな「もしもの世界」を考えるにせよ、まずこのわたしたちの生きている世界が現実だってことは前提のはず。その現実から「宇宙になにもない世界」を空想し、もしそっちの世界が現実だったら、と考えたとき……当然そこに「わたしたち」は存在しなくなる。というより、初めから存在しなかったことになる。
 「わたしたちは初めから存在しなかった」──そうなると、思考のスタート地点である「このわたしたちの生きている世界」がなかったことになるから「わたしたちが生きている世界」を俯瞰して比べることもできなくなって……。
『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』より

こんな具合だ。この、オレンジの思索のなかには道徳や哲学のテクニカルタームは登場しない。しかし、その思考の手続きはなんだか哲学的だ。道徳や哲学を論じる人は、その適用範囲や定義に敏感だ。そして、その適応範囲や定義の"きわ"を手繰り寄せて是非を論じたり次の議論を準備したりする。
 
私は、後半のこういうところが楽しいと感じる。後半パートのオレンジやパープル、シルバーらはテクニカルタームに頼ることなく、ブラックの提示する反出生主義とその周辺についてさまざまな議論を行っている。だから道徳や哲学のテクニカルタームをよく知らない人でも、この議論なら読みこなせる。もちろん、上記のオレンジの思考の手続きじたいがテクニカルタームのようなものだ、と反論する人もいるだろうし、実際こういう手続きじたいを受け付けない人もいるだろうけれども。
 
やがて議論は、道徳的正しさの適用範囲はどこまでなのか、宇宙や神にそうした考えを適用できるのかといったスケールにまで広がっていく。反出生主義をスタートとして思索を続けると、世界の是非や神の是非といった話に飛び火してしまうさまが、読みやすく、面白く記されている。この、ひとつの議題からスタートして世界全体、宇宙全体に敷衍していく感じも哲学っぽい。こうした哲学っぽい面白さを、反出生主義というテーマに沿って比較的読みやすく体験できるのが『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』という本なのだと思う。
 
そんなわけで、この本は『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』というタイトルに偽りなしの本だといえる。前半が反出生主義のやさしいイントロダクションで、後半は反出生主義内外をめぐっての議論や発展となっている。これが哲学・道徳業界的にどの程度の精度・価値の作品なのかを私は評価できないけれど、読みやすさを保障しながら哲学的思考の手続きを追体験させてくれるのは私には楽しかった。哲学や倫理学に対して徒手空拳の状態の人が反出生主義とその周辺に思いを馳せるなら、これは、結構いい入口なんじゃないだろうか。
 
 

私個人としては

 
なお、私自身はこの本に登場するオレンジとホワイトとグレーの立場に近い。巻頭の説明では、オレンジは自由至上主義者、ホワイトは教典原理主義者、グレーは??主義者とされている。
 
オレンジについてはさきほど引用したので、略。
ホワイトについては、私は日本の在家の大乗仏教徒&日本のアニミズムの影響下にあり、その世界観や道徳観で生きているから。
グレーについては、伏字がされているので詳しく書くのがためらわれる。が、このグレーの世界観や道徳観にも私は親しみをおぼえる。
 
反出生主義というテーマを見聞きするたび、私は脊髄反射として、右のようなことをまず思う──「反出生主義とは、主体においては道徳や倫理の問題として、社会においては危機として立ち上がってくるが、娑婆においては意に介する必要のない問題だし、娑婆は意に介するまでもなくそこにある」。
 
仏教、とりわけ大乗仏教には六道という世界観がある。すなわち天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの世界または境地を人は巡り巡るという。あるいは生きとし生けるものは(輪廻転生をとおして)六道を生きるという。
 
私は、この六道に普遍性を、いや、自動性を感じる。娑婆世界とはそういうもので、その是非を問うこともその自動性を云々することもあまり興味がない。
 
そしてたぶん西洋哲学・西洋倫理体系を内面化した人に比べると人間と動物の境界があいまいで、私自身、自分は畜生道をゆく動物の一匹だと強く自覚している。現代社会は動物的ではないと述べる人もいるだろうし、現代社会ではホモサピエンスの動物的側面の相当部分が抑圧・抑制されているのも事実だ。とはいえ、ホモサピエンスは狩猟採集社会の頃から共同体や社会を作っていたわけだから、動物的側面は多かれ少なかれ抑圧・抑制されるものだったし、現代社会もまた、そこにいる主要な人間たち特有の物理的・倫理的・政治的布置を環境因として共有しながらも、自然淘汰と性淘汰の場であり続けている──少なくともそういう側面を免れてはいないし、たとえば最近は、現代社会における自然淘汰の実相が見えづらくなる一方で性淘汰は見えやすくなった。
 
こうした諸々も、この本のブラックにいわせれば「ならば娑婆全体、宇宙全体がなくなってしまうべきだ」となるのだろう。しかしブラックの反出生主義の道徳的ロジックは西洋由来のもので、ちぇっ、西洋由来の道徳的ロジックでインド生まれ東洋育ちの娑婆という世界観が否定されなければならないのかよ、と思ったりもする。アフリカの人やイヌイットの人もそう思うんじゃないだろうか。
 
これに限らずだけど、西洋由来の道徳的ロジックは、その道徳や哲学がさも不変であるかのように、西洋ではない地域の文化や人生や価値観を云々し、評価し、自分たちの世界の道徳的ロジックにそぐわなければ修正を迫る。仏教文化圏やアニミズム文化圏における世界観や宗教観や死生観のことなど忖度してくれない。同じく、それ以外のさまざまな問題に関しても、私たち東洋の文化や人生や価値観を云々し、評価し、自分たちの世界の道徳的ロジックにそぐわなければ修正を迫る。日本の近代化とは、そういったものの連続だった。これからもそうだろう。そして反出生主義にせよ、それ以外の問題にせよ、反駁する際にも西洋由来の道徳的ロジックをもってしなければ相手にしてもらえない。
 
ということはだ、反出生主義に賛成するにも反対するにも、西洋由来の道徳的ロジックを西洋由来の大砲や軍艦のように揃えるしかなすすべはないわけだ。道徳や倫理の世界においては、西洋的帝国主義は健在だと、ふと思ったりする。西洋に伍するために西洋の大砲や軍艦を購入したりライセンス生産したりしたように、自分たちも西洋の道徳や倫理を身に付け、それで交戦できなければならないわけだ。ということは勝っても負けても結局、道徳や倫理の西洋的帝国主義という土俵に巻き込まれることにはなる。そのとき、たとえば娑婆世界とか、たとえば慈悲とか、そういった概念はここでいう大砲や軍艦としては役に立たない。もちろん、それらが西洋の道徳や倫理によってコンパイルされることならあるかもしれないが。
 
ああいや、そういうことを書きたかったわけではない。
 
私は生老病死と共にあり、娑婆世界を生きる愚かな動物で、喜怒哀楽にまみれて歳を取り、いつか苦しんで死ぬだろう。この本のなかでブラックは、このいつか苦しんで死ぬ未来への、いや、未来全般への耐えがたい怖さに言及している。これはシンパシーを感じるところで、実際、娑婆は暗くて怖いところだと思う。そこでコバエのように増殖するのがわれら生物であったはずで、漫画『風の谷のナウシカ』の最終巻でナウシカが言ったように、私たちは「闇のなかでまたたく光」だ。そしてそんな暗闇のなかを生きる私たちに、お地蔵様や阿弥陀様は慈悲を示している。ナウシカも、慈悲を示すだろう。
 
こうした私の宗教観と世界観に対し、反出生主義がどう位置付けられるのか。この本をとおして私は、反出生主義は自分の宗教観と世界観を侵すものだと感じた。それは別に宗教観や世界観だけを侵すものではなく、西洋の枠組みが私を侵す、いつものありかたの延長線上のものでしかなかったのかもしれない。苦の滅却という結論のところをみれば、反出生主義は阿羅漢や解脱に似ているようにもみえるが、そうではないことがくっきりわかったのも私にとって収穫だった。
 
おかしなことに聞こえるかもしれないが、この本を読んだ私は、信心をもっと深めたいと思った。
 
 

シンエヴァンゲリオンは教科書に載るようなアニメじゃない

 
 

www.youtube.com

 
タイトルで内容を言い切っているので、タイトルしか読まない人はここで回れ右を。わざわざブログに書いたのは、知人に「ブログに書く」と約束してしまったからだ。
 
 

そもそも教科書に載るような作品、資料集に載るような作品とは

 
 
1.表現様式に目新しさがあり、しかも優れていること。たとえばジョットやダ・ヴィンチの絵画は優れているだけでなく、同時代のほかの画家よりも表現の様式が先んじていた。ターナーやピカソなどもそう。
 
2.表現される対象に目新しさがあり、しかも優れているもの。神の世界や聖書の世界ではなく、いちはやく人間の世界を描いた作品、王侯の世界ではなくブルジョワの世界を描いた作品、ひいては庶民の世界を描いた作品、等々。
 
3.時代精神や風俗を見事に表現しているもの、その典型など。バルザックの作品、東海道中膝栗毛、曽根崎心中など。
 

この3つのうち最低一つが抜きん出ていないと、100年後の教科書には載りそうにない。世に出た時の評判やセールスが良かったからといって、その作品が教科書に載るとは限らない。時代が変わるとまったく顧みられず、思い出されなくなる作品もある。
 
で、シンエヴァンゲリオンはどうなのかというと。
 
シンエヴァンゲリオンを作った庵野秀明は、教科書に載ってもおかしくない。宮崎駿の少し後、20世紀後半から21世紀に活躍した代表的なアニメ監督として(DAICON FILMやGAINAXも含めて)名前が残るように思う。
 
では、その庵野秀明の代表的作品として教科書に印字されるのはどれだろう?
 
候補は幾つかあるけれども、表現の目新しさ、斬新さなら若い頃の作品が、時代精神の反映という点では20世紀の『新世紀エヴァンゲリオン』が当てはまるように思う。これらは、現在の視聴者が死に絶えた遠い未来になってもアニメ史の重要な一部として紹介されそうだ。
 
対して、新劇場版のヱヴァンゲリヲン、ひいては『シンエヴァンゲリオン』は1.2.3.に合致していないと思う。
 
1.の表現様式の目新しさについては、それほど時代の先端を行っていたとは思えない。『序』『破』『Q』の戦闘シーンが美しかったりはするけれども、あれらが21世紀の同世代アニメに比べて一歩先と言えるのか、まして『トップをねらえ!』や『オネアミスの翼』の時ほど冒険していると言えるのか考えても、自分にはあまりピンと来ない。登場人物についても、新劇場版の登場人物たちは斬新というより、旧エヴァの登場人物たちをいくらか21世紀のテイストに寄せた感じだ。むしろ他作品を追いかけているような印象すらある。
 
2.については、『新世紀エヴァンゲリオン』で表現されたものを基本的にはなぞっているので、アニメ界に新しい境地、新しい表現対象を流し込んだ風にはみえない。この点では、20世紀の『新世紀エヴァンゲリオン』のほうがよほど新しい境地をもたらしてみえる。
 
3.についても、20世紀の『新世紀エヴァンゲリオン』のほうがずっと時代精神を反映していた。大人になりきれない大人に育てられた子どもの苦しみ、いつまでもわかりあえない苛立ち、ヤマアラシのジレンマ、深層心理、等々、あれはまさに90年代の作品だった。しかし『シンエヴァンゲリオン』は2021年の時代精神を反映しているとはいえない。たとえば『天気の子』のほうがまだそれらしい。
 
『シンエヴァンゲリオン』が教科書に載るようなアニメじゃない根拠として、私なら以上のようなことを挙げる。確かに公開初日には心が動いたし、『シンエヴァンゲリオンを見て三回泣いた』の話をはじめ、感動したとかせいせいしたとか、たくさんの感想を目撃した。でも、そうなったのはたくさんの視聴者が『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下にあったからではなかっただろうか。『新世紀エヴァンゲリオン』をリアルタイムで視聴した人々はもちろん、そうでない人々も、世にエヴァンゲリオンなるコンテンツが存在することをさまざまなメディアやSNSでのバズ等をとおして聞き知ったうえで新劇場版と向かい合ったのだった。
 
換言すると、『シンエヴァンゲリオン』はたくさんの視聴者の事前の期待や思い入れのうえに成り立っている作品であり、そうした下駄によって記憶に残ってヒットした、そういう作品だ私は言いたいのだと思う。「『シンエヴァンゲリオン』は、作品を評価するよりビジネスを評価すべき」とも言いたいのかもしれない。20世紀の『新世紀エヴァンゲリオン』以来積み上げてきたエヴァンゲリオンへの思い入れや記憶を、いわばIPとしてのバリューを換金したのが『シンエヴァンゲリオン』なのであってそれ以上の意味を見出そうとしてもたかがしれている、などと私は考え始めているのだろう。
 
 

だって、いろいろ隙間があるし、それほど斬新でもないし

 
私自身は『シンエヴァンゲリオン』を楽しんだ、そう言っていい。しかしそれは、私が『新世紀エヴァンゲリオン』に思い入れを持っていたからであり、碇シンジや式波アスカラングレーや綾波レイといった登場人物に愛着を感じていたからでもあった。いわば私は『新世紀エヴァンゲリオン』という色眼鏡越しに『シンエヴァンゲリオン』を楽しんだのであって、色眼鏡無しにこれを楽しんだわけではない。
 
アマゾンプライムで配信されていたので、改めて『シンエヴァンゲリオン』を観てみたけれど、作品としてそれほどの出来栄えとは思えない。
 
第三の村の、写真のようなカットの一枚一枚は印象的だと感じた。しかしこれはアニメとして優れているわけでなく、庵野監督らがどこかから持ってきた写真の選択が優れていたのだった。それはそれで美点だが、アニメとして優れているかといったらはてさて。
 
でもって、メカや人が動いているシーンがやっぱりイマイチ……すごくイマイチだ。砲門がピカッと光って爆発がドカーンと表示される、そういう動の少ないカットに頼りすぎている。ピカッと光った瞬間にドカーンと表示される戦闘場面が似合うのは、低予算の深夜アニメだ。庵野監督らがそのことを知らないわけでもなかろうし、相応の事情があってああなったのは想像できることだけど、たとえばセカンドインパクト爆心地に向かっていくシーンはどうにもお粗末で、声優さんたちの熱演にもかかわらず、誤魔化しきれていなかった。
 
量子テレポーテーションの場面はもうどうしようもない。勘弁してください。
 
初号機親子喧嘩のシーンも、「わざと」と但し書きをつけられたとしても納得できませんね。なんだこれは。松花堂弁当にチープな具材が紛れ込んでいたような。ゲンドウとシンジの親子の会話なるものも、とってつけたかのようだ。ゲンドウさんあんた、なんで唐突かつ滔々と息子に喋っているんですか。
 
式波アスカラングレーさんの顛末もよくわからない。歳月が流れたのだから、ケンケンと仲良くなること自体は不自然ではないし、碇シンジが好きだったと振り返るのも別に構わない。しかし『シンエヴァンゲリオン』を見た後に『Q』での式波さんの発言を振り返ると、かみ合わせが悪く見える(特に『Q』前半の式波さんの言動とのかみ合わせが)。彼女はいったいいつまで好きだったのだろう? いや、そんなことはわからなくてもいいし、本人に喋ってもらえば解決するようなものでもない。しかしここも、彼女の心変わりを視聴者にわからせるための手続きが直截的過ぎて、優れない深夜アニメの最終回みたいな感じは受けた。
 
……細かく挙げていくときりがなさそうだ。自分は『新世紀エヴァンゲリオン』のファンなので、これら全てにもかかわらず『シンエヴァンゲリオン』に喝采をおくれるし、また、おくるべきだと思う。だから公開直後は『シンエヴァンゲリオン』を讃えたし、讃えずにはいられなかった。でもそれは作品そのものの完成度が高かったからではなく、『新世紀エヴァンゲリオン』から始まった一連の『ヱヴァンゲリヲン』のフィナーレだから、碇シンジたちのアフターが示される作品だったからだ。
 
そういう、エヴァンゲリオンに対する義理も文脈も無く、公開当時の祝祭的雰囲気も取り除いたうえで『シンエヴァンゲリオン』を他人に勧められるかといったら、「うーん……」とためらってしまいそうだ。というより『シンエヴァンゲリオン』はこれまでのエヴァンゲリオンの文脈と人気にあまりにも多くを負っている作品だから、エヴァンゲリオンと全く縁のなかった人に勧めていい作品ではないと思う(し、だから100年の歳月にこれは耐えられない)。
 
 

誰の、どの作品が残るんだろう?

 
ここまで書いてふと思ったのだけど、いまどきのアニメ監督の作品が未来の教科書に載るとしたら、どの作品が代表作として載るだろうか。少しだけ、考えてみる。
 
富野由悠季。
これは『機動戦士ガンダム』だと思う。完成度、人気、後世への影響、どれをとっても。
 
庵野秀明。
20世紀の『新世紀エヴァンゲリオン』だろうか。それとも『オネアミスの翼』のような若い頃の作品だろうか。アニメの専門家はこのあたりどう考えるんだろう? 自分なら、20世紀後半の社会病理を活写した作品として『新世紀エヴァンゲリオン』を推したくなるけれども。
 
宮崎駿。
世間の評価では『千と千尋の神隠し』かもしれないが、『ナウシカ』『ラピュタ』『トトロ』あたりも凄すぎる。晩年の作品もいける。複数の作品が後世に名を残すのだろう。代表作をひとつ挙げよと言われても定まらない。
 
新海誠。
やっぱり『君の名は。』以降の作品になるんだろうか。個人的には00年代的作品として『秒速5センチメートル』であって欲しいけれども、そうではあるまい。
 
こうやって考えると、他のジャンル、たとえばビジュアルノベルの有名人だったらどの作品が後世に有名になるんだろうか……などと想像が膨らむ。本題から逸れてきたので、今日はこのへんで。
 

記念日のワインを誰かに薦めるとしたらこんなワイン

 
#はてな村 のソムリエ、シロクマ先生 @twit_shirokuma に公開質問状を送る! - 玖足手帖-アニメブログ-
 
こんにちは。公開質問状などと書かれ、ぎょっとしてしまいました。また、そのような文言で送られた文章にリアクションを行うべきか迷いました。nuryougudaさんとは長くインターネットを共にしているわけですが、最近、インターネットにおいて誰とどのように・どこまで言葉を交わすのが良いのかわからなくなっておりまして。
 
さておき、(自分の、ではなく他の人にお勧めする)記念になる酒とはどういうものでしょう。この場合、ワインをご指名なので記念になるワインとなると何が良いのか。
 
これは、どういう人が・どういう状況で・どう飲むのかによってベストが変わってくる問題です。いや、この場合、ワインはおまけで記念日のほうが重要なので、本当はなんでもいいのです。記念になる出来事があって、慌ててワインを買いに行ったらもう店がほとんど閉まっていて、コンビニで売られている一番値段の高いワインをたまたま買ったなら、そのワインが記念日の思い出ワインで本当はいいのだと思います。
 
ワインに限らず、お酒ってそういう偶然の出会いとかタイミングが大事なのだと私は思っています。たまたまその瞬間に掴めたお酒ってのがすごく大事。それが思い出になり、それがお酒のジャンル開拓の礎になったりするのでしょう。
 
ということは、こうやって質問いただいたのもひとつの縁なので、ちょっと緊張しております。それでも以下にいくつか候補を挙げてみましたので、ご覧になってください。
 
 

記念日にふさわしいワインについて、幾つかオススメしてみる

 
さきにも書きましたが、記念日にふさわしいワインといっても色々です。すぐに飲むのか、この日を胸にしまうべく長く所蔵するのか。1人で飲むのか複数名で飲むのか。優れたグラスが手元にあるのかそうでもないのか。ワインを飲み慣れている人なのかそうとも言えないのか。
 
nuryougudaさんの文章によれば、以前、シャンパンのテタンジェに巡り合っておいしかったとのことなので、だったらテタンジェでもいいように思います。テタンジェはおいしく、円満かつ華やかで、楽天で買い求めるぶんには価格にも無理がありません。でもって、シャンパンはどう飲んでも美味いものです。
 
ここはひとつ、30年の記念として超高いテタンジェなどはどうでしょう。こういう上位シャンパンは熟成させたほうが良いという意見があり、それもまあわかるのですが、すぐ飲んでも悪いものじゃありません。ワインを飲み慣れていない人でも、漬物系のフレーバーがそれほど強くないシャンパンならトラブってしまうリスクは少ないといえます。
 
テタンジェ コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン [2005]
 
とはいえ、自宅に届いた当日に飲むのはやめましょう。長旅の後は「ワインが疲れている」ので、少なくとも一週間、できれば一か月ほど休ませるのが得策です。日程的に難しい場合、暑くない日に近くの大規模リカーショップ・ワイン専門店・デパートなどで10000~20000円ぐらいのシャンパンを買い求めたほうが安全かと思います。
 
なお、シャンパンは一日で必ず飲み切ったほうがいいとは限りません。一日で飲むのが難しい場合、封をして冷蔵庫に残しておくのも楽しいです。翌日のシャンパンは泡が微炭酸になっていて、泡に隠されていた味わいが露出しかえって旨味があっていいって人もいるぐらいです。
 
 
泡物ではない赤ワイン・白ワインなら何がオススメでしょうか。
実は、似たような予算で記念品としてワインをプレゼントする相談をソムリエさんにしたことが何度かあったのですが、返事はだいたい以下のようなものでした──記念品として赤/白ワインを渡すのは難しい、特に相手がワイン好きでどんなジャンルが好きなのかわかっているのでない限りは。
 
私もそう思います。1万~3万円の赤ワインや白ワインとなると、ワイン好きにはたまらないワインがいろいろ連想されますが、それらは良くも悪くもワイン好きが飲んだ時に感動や感銘が起こるものが大半で、ワインを飲み慣れていない人が飲んでも「えぐみが強くて飲みにくい」とか「人の飲むものじゃないようなにおいがする」といった否定的な気持ちを引き起こす可能性もあるのです。この点、シャンパンは(比較的にせよ)安全牌で、ワインを飲み慣れていない人をも喜ばせる力があるように思います。
 
加えて、1万~3万円の赤ワインや白ワインは飲み頃を判断するのが面倒で、しかも立派なグラスを要求することが多かったりします。ボルドーやブルゴーニュの赤ワイン、高級なシャルドネといった面々は味よりも香りで楽しむもので、これを楽しむには立派なグラスがほとんど必須です。
 
リーデル スーパーレジェーロ ブルゴーニュ・グラン・クリュ
 
こうした制約を考えると、自分なら、今回のnuryougudaさんの記念品として赤ワインや白ワインは避けたいところです。どうしても赤ワインや白ワインでなければならない!って場合はカリフォルニア産の1~3万円の有名どころをトライしてください。カリフォルニア産は値段と品質が比例しやすく、取り扱いも比較的雑で構わず、ワインに慣れていない人でも割といけるテイストにまとまっていることが多いのでアリだと思います。
 
あと、チビチビ飲んでいただけるなら、ごつくて甘めのアマローネならアリかもしれない。
 
アマローネ デッラ ヴァルポリチェッラ クラシコ 2016
 
アマローネは赤玉ポートワインほど甘くはありませんが、ほんのり甘く、チョコレート+ジャムのような香りがして、鼻息が荒いです。このアッレグリーニのアマローネは舌ざわりが良いのでついつい飲んでしまうかもしれませんが、数日に分けて飲んだほうが健康的です*1
 
 
ワインde記念品でシャンパンと並んで有力なのは、甘口ワイン勢です。甘口ワイン勢のいいところは、冷暗所に保存しておけば非常に長期にわたって熟成することです*2。すごく息が長いので、結婚や出産の記念に買い求め、飲むあてもなく大事にとっておき、20年目、40年目といった折に抜栓するにはうってつけです。複数本を用意し、今年飲み、10年後に飲み、20年後に飲んでみるのもいいですね。味的にも、赤玉スイートワインやラム酒に慣れている人に向いていると思います。
 
シャトーディケム 2006 ハーフ
 
たとえばこのソーテルヌの有名どころ、シャトーディケムなんかは買ったら50年くらい寝かせておけるので、記念品としては最高だと思います。2021年の品を買い求められるのはまだ先ですが、2021年を選んで死蔵するのは大アリでしょう。1991年という年を意識するなら、

シャトーディケム 1991年 ハーフボトル
 
これなんか良いんじゃないでしょうか。1991年のソーテルヌはたぶん当たり年ではないと思いますが、シャトーディケムの品なら中身は健在のはず(というより飲むのが早いぐらいかもしれない)。これはハーフボトルですが、375mlを一日で飲み尽くすような品ではなく、数日に分けていただきましょう。ブレンデーやラムの香りがお好きなら、ソーテルヌの香りには陶然とするはずです。まして、このメーカーなら間違いないはず。
 
シャトーリューセック 2009
 
フルボトルがお望みならこちらを。でも、このワインも今年抜栓するのはたぶんもったいなくて、自分ならあと10年ぐらいは待ってみたいところです。リューセックなら2、3本買って一本だけ抜栓するのもアリかも。これらソーテルヌ系はびっくりするほど甘いので、フルボトルを抜栓したら一か月ほどかけてゆっくり飲むのがいいと思います。
 
この手の甘口超熟ワインは、本当はものすごく候補があり、甘口ドイツワインもいいですし、たとえば
 
 
マディラ ペレイラ ドリヴェイラ マルヴァジア[1991]
 
このマデイラ酒やポートワインなど、南の地方でつくられる甘口ワインも良いものです。私はこのあたりのワインはあまり経験がありませんが、見聞した範囲では、ワインの生存性の長さ、香りや風味の豊かさにかけて立派なものだと思います。
 
 

この季節のワインは必ずクール便で

 
以上が私のおすすめする記念品ワインですが、この時期にワインを買う際には「高温」に対する警戒が必要不可欠です。25度以上から少し怪しく、30度を超えるといよいよワインが痛みます。なので、楽天などで良いワインを買う場合には必ずクール便指定にしてください。どんなに高いワインでも、高温にさらされて変質してしまえばさっぱり駄目です(甘口ワイン、ポートワイン、マデイラワインなどは暑さ耐性に優れるといいますが、自分ならクール便指定にしてみます)。ご注意を。
 
良いワインで、良い生活を。ワインはすぐ飲む楽しみだけでなく、記念日のアクセントとしての楽しみ、熟成をのんびり待つ楽しみもあるので、普段は買わないワインを手に入れたら好きなように楽しんでください。
 
 

*1:アマローネはアルコール度数がワインのなかでもアルコール度数が高いので、一日で飲もうとするのは甚だ勧められません

*2:注:保存する場合はボトルを縦に保存するのでなく、横に保存してください。