2024年は私にとって甚だ辰年らしい一年だった。今年だけは身体に負荷を省みず、昇龍を目指せ。で、2024年が終わった。やるべきことをやってやりたいことができたと思う。そして2025年が始まった。巳年にあやかり脱皮できる一年にしたいものだけれど。
そんな簡単に仕事や活動を制御できるわけねーだろ。
お仕事ご依頼が竜頭蛇尾になってくれたらいいな……などという願望を木端微塵にするような、激しいご依頼ラッシュが続いた結果、ついに幾つかのご依頼をお断りせざるを得なくなってしまった。私は医療と文章書きの二足の草鞋を履いているので、一か月でできる仕事量にはどうしても限界がある。それから生活だ。人間は業務と執筆のみで生きているわけじゃないので、それらを支えるためにも、実際にはちゃんと休み、ちゃんと遊び、ちゃんと学び、ちゃんと会うべき人には会っておかなければならない。
休みや遊びや学びや社交を中断して仕事をゴリ押しする余力は2024年にさんざんやってしまって、現在、私の補給線は伸びきってしまっている。巳年にあやかって脱皮などと言っている場合ではない。バトル・オブ・ブリテン後のドイツ空軍のように疲弊している現状をなんとかしなければ、だんだん衰弱してなんにもできなくなってしまうだろう。
それはさておき、最近『「推し」で心はみたされる?』について再考する機会が続いて、執筆当時よりも真剣に考えこんでしまっている。
この本は、コフートとその弟子筋の自己心理学に基づいたかたちで推しについて、特に広義の推しの役割についてまとめたものだ。商業化され、遠くのほうから一方的に推すしかないような推し活は、その場の心理的充足としては十分に効果があるし、(コフートの言葉でいう)理想化自己対象に事欠く人にはニーズがあるだろう。他方、もっと間近な社会関係のなかでの推しは、(これもコフートの言葉でいう)変容性内在化が起こるような、いわば破綻しない程度の欲求不満含みの関係性が続くならナルシシズムの成熟に貢献するだろう、といったことが書かれている。あるいは自己対象関係をとおして副次的に発生するさまざまなメリットについても書いたつもりだ。
まあ、そういうことをまとめた意義はあったと思うし、あの本はそれで良かった。でも、そこからもっと先を考えるとどうなるだろうか。推しが流行する社会とは? 本のなかで私は、オタク的なユースカルチャーが80~90年代的なユースカルチャーにとってかわったことも推しが広がった理由と書いたけれども、そこから先のwhyについてまでは書いてなかったとは思う。
それと、例えばもうひとつ。推し活がこれほど広がり、また可能になっている現代社会のなかにいる私たちのナルシシズム、ひいては人格構成って、どう違ってくるんだろうか? って疑問だ。人間は、文化や環境によって心のスキルセットを変える。人間が、幼少期に環境内の人間の挙動や社会習慣を急速にインストールできる性質を持っていることは精神分析だけでなく、もっと生物学的な方面の研究でも出ているから、たぶんそうだろう。だから数歩先のクエスチョンとして、推し活が盛んになっている・なり得る社会が、人間にとってどのような鋳型になっているのか、ひいてはどのような人間が現代社会において範疇的(または最も高頻度になりやすくて)で、何が逸脱的とみなされやすいのか、を、再考したい気持ちになっている感じだ。
現代社会とその社会病理を振り返る際に、どんな現象に注目するのか、どういう心理モデルに依拠するのかは、さまざまだろう。正直私は、推しをとおしてそこまで社会病理を深堀りするつもりはなかったし、『「推し」で心はみたされる?』はそういう目的のために作られた本とは言えない。でも、ここ数か月にほうぼうからご依頼された仕事に対応する過程で、いわば『「推し」で社会はどう変わる?』みたいな思念が爆誕しそうな予感はある。
それを本当にまとめるとしたら、そのとき「推し」という言葉はかえって邪魔になるだろう。だいたい、今の私には時間や体力が足りない。ただ、「推し」とその周辺を考え詰めるだけでも案外社会を展望するための糸口にはなるかもしれないという所感を得たので、継続審議かなと思ったことを書きたくなっただけです。
以下は、付随したラクガキなのでサブスクリプションしている常連の方以外には意味が無い(サブスクリプションしている方にも意味がないかも)なものです。