2025年12月4日の23時15分頃、「教養をつけるべし」という霊言が私に降ってきた。
12月4日23時15分、この、2025年の惣流アスカラングレーの誕生日にポストモダンの霊言が私のもとにおりてきた。霊言に曰く、「教養をつけよ、励め」だそうな。
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2025年12月4日
うん、私は今、教養が欲しい。
なぜならポストモダンが本当にやってきて前が見えないからだ。
「フェイクかファクトか」と考えることに、今、意味があるのか
ここ一か月ほどの私はインターネットが億劫だった。Xやブルースカイは特にそうで、疲弊した金曜夜にそれらを死んだ目で眺める時間が呪わしかった。こんな蜃気楼を眺めて何になる? と。
この一か月ほどX等を眺めていて思うのは、ファクトかフェイクかといった思考法はここではなんの意味も持たず、たぶんここの外においてもそれほど意味を持たないってことだ。「社会における社会の出来事について」ファクトとフェイクの思考法で臨んでも甲斐ないことになった。あるのは違った何かだけだ
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2025年12月4日
現在のSNSにおいて、フェイクかファクトか判断するのはとても難しい。自然科学のファクト、たとえばエタノールを構成している元素とか、光の速さとかはファクトとして変わらない。社会的な事柄でも、日本国の実在やgoogleのサービスの実在などもファクトだろう。しかし、もっと外側の社会的な事柄については、フェイクかファクトかを判断するのは本当に難しい。実際、私のXのタイムラインなどには社会的な事柄について正反対のメンションが絶えず流れているので、「どちらがファクトでどちらがフェイクか」、といった風に考えてしまいやすかった。
その混沌としたタイムラインを前になすすべがなかったのがここ一か月ほどの私だ。やがて、もう少し出自のしっかりしたメディアから流れてくる情報すらちょっとわからないと感じるようになった。どの情報筋が信頼するに値するのか、どの機関のどういうステートメントなら信頼して構わないのか、ニュース速報が合っているのか誤報なのか、等々。よしんばファクトらしいとあたりをつけた場合も、それをインフォメーションとしてどう咀嚼すればいいのか? ……まで考えてみた時、私は、一番人気の馬券を機械的に買う以上のことができているのか、自信がなくなってきた。
コロナ禍が始まった頃は、フェイクかファクトか判断する意気込みをまだ私は持っていた。兵庫県知事選挙が話題になっていた2024年の11月頃もそうだったと思う。つべこべ言いながら、どこかで自分を信じている部分があった。
けれども今年の後半ぐらいから、いよいよ本格的にわからないと感じるようになってきた。経済的なこと、政治的なこと、社会的なこと、そういった事柄についてのニュースやメンションを前にした時、私は判断できているのか? それとも誰かや何かに流されてしまっているのか? 前はまだわかったつもりになれていたが、今はわかったつもりになれない。
今の私にも確からしく思われるのは、Xにしてもブルースカイにしてもブログやウェブサイトにしても、新聞やテレビにしても、それらは全部メディアをとおしてメンションやステートメントを吐き出す場所で、プロパガンダやポジションから自由ではあり得ない、ということだ。かつまた、そのプロパガンダを流す側やそのプロパガンダを受け取る側が、感情を宿している。喜怒哀楽に加えて、妬みや恨みといった感情も宿しているだろう。そのことが情報の授受に志向性を与える。
では、ひとつひとつのメンションやステートメントからプロパガンダ成分やしみ込んだ感情を除外して眺め直した時、そこに残るのはフェイクかファクトか? その混合物か? 混合物だとしてその配合具合はどんな塩梅か? そのメンションやステートメントはどんなポジションを背景に行われていて、そのポジションを類推する妥当性は……。
やめやめ。こんな具合に考え続けても、わかるわけがない。
私たちは全知全能ではないから、この情報の滝のなかですべてを検証するのは不可能だ。視界に入る情報についてファクトかフェイクかをいちいち検証すること、とりわけ学術研究者のごとき態度で検証することは不可能だ。そんなことをするよりは、もうニュースはNHKやBBCなどしかあてにしない態度を決め込んでしまったがラクだ。
さてそうなると、Xやブルースカイなどのタイムラインや更新記事を追いかける気持ちが薄れる。それらは私の感情にさざ波を起こすことはあるが、それゆえに、フェイクかファクトかなどと考えさせてくれない。感情にさざ波を起こすようにできているアーキテクチャのなかでわざわざそんなことを考えるのは取り越し苦労というものだ。
で、私一人がそういうXやブルースカイの情況から一抜けしても事態はなにも変わらない。SNSというより社会全体、世界全体がそういう情況から抜け出さない限り、この、真贋の定まらない状態は続くだろう。この状態が変わるように期待している人も、本当はあまりいないんじゃないかとも思う。 知恵のまわる人々はたいていポジションを持ち、そのポジションを持った人々が期待しているのはプロパガンダの成否と感情を絡めた扇動、あるいは、ファクトという看板を掲げながらメンションやステートメントを繰り出すことであって、不動のファクトや間違えようのないフェイクがあると信じられた時代への回帰ではないんじゃないだろうか。
ぐるっと回って自分のアタマで考えたくなってきた
社会とそれを内側から支えているメディアがこんな風になってしまって、私はどうすべきなのか?
ひとつ。引きこもりたい。真贋が定まらず判断もできない情報の濁流から一定の距離を置いておきたい。もうひとつ。教養が欲しくなった、自分のアタマで考える力としての教養、が欲しくなった。
教養、とは色々な使われ方をする言葉で、ときには知識やうんちくのマウンティングの具材とみなされることもある。実際問題、それが有効で必要な場面も世の中にはあるのかもしれない。また、教養主義という言葉も過去にはあったが、これも言っていることが微妙に違っている風にみえて、なんだかわからない。一時期話題になった『教養主義の没落』には、
本書の対象は教養そのものよりも教養主義と教養主義者の有為転変のほうにある。近代日本社会を後景にしながら、教養主義(者)の軌跡を辿ることで、エリート学生文化のうつりゆく風景を描き、教養主義へのレクイエムとしたいのである。
(『教養主義の没落』より)
と記されていて、教養主義のほうにウエイトが置かれている。
人格の完成を目指す大正教養主義、学生運動や社会運動の寄る辺としての教養主義、近代社会における主体としての個人を陶冶する教養主義、等々。同書には、色々な時代の教養主義、大衆からエリートまでの教養主義が登場するが、時代のコンテキストが2025年と隔たっているのは言うまでもない。そして教養主義の時代にはモダン、近代の進歩、近代の啓蒙、近代の約束といったものが多かれ少なかれ残っていて、その近代における知的準拠点として教養なるものに期待が持てる時代だった。
今はどうだろうか?
この文章のいちばんはじめに、私は「なぜならポストモダンが本当にやってきたからだ」と書いた。ポストモダン、ポスト近代、ポスト構造主義が論じられ流行したのは20世紀で、確かにその頃にもそれらの言葉があてはまる現象はあり、今こそポスト近代だとみていた人は当時実際にいたのだろう。
けれども後期近代とか、ハイモダニティという別の言葉を用いる論者たちの考えに基づくなら、近代は終わったのでなく徹底された、または変形したのであって、そのうえで知的準拠点は相変わらず近代の諸思想だった。2010年代のはじめのほうまでは、この後期近代やハイモダニティといった考え方は割と世の中によく当てはまっていて、近代末期の情況を掬い取っていたと私は感じる。
しかし2020年代以降の現状を、私は「本当にやってきたポストモダン」「本当の近代の後」と捉えている。近代の進歩は部分的に続いているかもしれない、いや、少なくとも続いている部分はあろう。けれども近代の啓蒙、近代の約束を成立させている諸条件は半世紀前~四半世紀前に比べてガタガタになっている。近代の啓蒙や近代の約束が成り立っている風に装っていた化けの皮もはがれてきた。たとえばパレスチナで起こっている出来事などは、西洋近代体制の羊頭狗肉*1っぷりを物語っている。
こんな混沌とした時代のなかで、自分はどうすべきだろうか? 寄る辺がない。だから私は自分のアタマで考えなければと思った。だからといって、Xやブルースカイに流れていることのひとつひとつの真贋について自分のアタマで考えようとするわけではない。やるだけ無駄だし、やろうとしてもきっと自分自身の感情やポジションに喰われ、ぬかるみにはまるだけだ。さしあたり、世俗の出来事については(近代という体制のバイアスに基づいていることを承知のうえで)NHKやBBCや新聞などに判断をアウトソースしてしまうのがベターだと想像している。
自分のアタマで考えるのは、NHKやBBCや新聞が教えてくれなさそうなこと、たとえば自分たち自身の社会適応についてだ。混沌の時代にあって人生の舵取りをしていくのは難しい。けれども社会適応は、より妥当性のあるかたちで状況を把握できる者が有利になりやすく、同じ把握でも早く把握した者が遅く把握する者よりもアドバンテージを持てるのが通例だ。完璧でなくていい。ほんの少しでも状況をうまく把握し、ほんの少しでも早く把握できればそれで充分だ。
しかし、そのためにはアンテナが高いだけでも駄目だ。アンテナの感度は人並みでもたぶん構わない。それより、肝心な事柄についてもっと粘り強く考える力が要る。その力、自分のアタマの筋力に相当する力を与えるものはいったい何なのか。それが教養ではないか?
教養という言葉には近代のにおいがこびりついている。が、この期に及んで近代のプロダクツを無批判に受け入れると、今起こっていることを近代というバイアスに基づいて解釈し過ぎる危険を含んでいる。他方で、知的純拠点たりえるオルタナティブを、私は思いつけない*2。仕方ないから、近代の書籍や作品に「これは近代のインサイダーです」という付箋を貼り付けながら私は参考にする。でも、そうすることで、少しだけ近代の重力に魂を奪われた状態がマシになる気がする。
そうしたうえで、過去に考えを練って練って練った人たちの思考の足跡、論の立て方、ものを考える際の手つきを私は少しでも学びたい。何が書いてあるかだけでなく、どう書かれているのか、どう書いているのかも重要だ。別に書籍を読むばかりが能でもない。絵画や彫刻もあるだろうし、ユースカルチャーの産物、たとえばゲームやアニメを参照してはいけないこともないだろう。教養を、難しい本、まして人文社会科学の本に絞るなどあってはならないことだ。印刷技術の産物は確かに重要だが、だからこそその外にも目を向けなければ印刷技術の知に囚われてしまう。
自分のアタマで考えるといっても、要は巨人の肩の上で歌ったり踊ったりしようって肚だから、自分が乗っている巨人について知っておくに越したことはない。その作業も、ここでいう教養を得るということにかなり近いだろう。
もっとうまく、もっと自由に巨人たちの肩の上に乗り、そこで歌ったり踊ったり眺めたりするための教養が欲しくなった。欲しいものは、戦ってでも手に入れるまでだ。




