ここ数年、「近代という時代の終わり」について考える機会が増えた。
blog.tinect.jp
たとえばリンク先は、いわゆる現代社会と私たちが呼んできた体制も含め、近代という時代が終わりかけているんじゃないの? と書いた2025年6月の記事だ。その後も中東情勢をはじめ、20世紀までの社会の大前提となってきたさまざまな条件が鉄面皮の人々によって毀損され続けている。国際情勢という観点からみる限り、近代という時代への揺り戻しは考えにくく、人類社会は近代とは異なるどこかへと漂流しはじめているように見えてならない。
リンク先の末尾に書いた、
いずれにせよ、地球における体制や権力は多極化する。もちろん、ここでいう多極化とは、近代とその担い手たちが夢想してきたような「実際には欧米列強に率いられグローバリゼーションという統治の片棒を担いできた、口先ばかりの多極化」ではなく、もっと抜き差しならない多極化、体制や権力の多極化、そして衝突だろう。
という予想は、現時点では当たっているようにみえる。そもそも近代という時代が欧米列強が牽引してきた一種の「体制」や「物語」でもある以上、その欧米列強が世界を牽引する意思と能力を喪失すれば近代は幕引きとなる。また、近代という時代や体制や物語が数百年かけてみずから進歩を遂げてきた結果、倫理的にも技術的にも進歩しすぎて私たち人間の大半についていけなくなってしまっても、それはそれで近代は幕引きとなる。人類社会は激動の時代を迎えようとしている。ウエストファリア体制が通用しないような時代がやってきても、驚いてはいけないのかもしれない。
なぜ、精神科医なのに社会を追いかけるのか
先日、韓国でインタビューを受けた際に「なぜ、あなたは精神科医なのに社会のことや世界のことを追いかけるのか?」と質問されたことがあった。
Xでは、たくさんのフォロワーを持つカリスマ精神科医やインフルエンサー心理学者たちが個人のメンタルや生きづらさや精神疾患について話題提供したり、それらの役に立つtipsを提供したりしている。いっぽう私はそういうことはたまにしかせず、明後日の方向の話題ばかりつぶやいている。
でも、これでも私は私なりに現代社会において何が生きづらさなのか、何が精神疾患とみなされ治療の対象となるのか、そして社会に適応していく方法を私なりに探しているつもりだったりする。ただし、そのための方向性や生きづらさをマッピングする方法が「お役立ちコンテンツ」ではないだけのことで、私のライフワークは「現代人の社会適応について考えること」でしかない。
「現代人の社会適応について考える」ためには、どうみても二つの大道具が必要になる。少なくとも私が「現代人の社会適応について考える」場合にはそうだと思う。
ひとつは社会について知ること。
社会について無知であるまま社会適応について考えるのは無謀だと思う。たとえばSNS依存の若者がどうして増えているのか、たとえば神経発達症(発達障害)と診断される人がなぜ増えているのか、を考える際に、当人の生物学的特性やせいぜい核家族の内側の病理性についてだけ問うのはきっと適切ではない。
もちろんアメリカ精神医学会のDSM-5のような公認の診断基準を用いて診断と治療をしていれば個々の症例への対応には困らないし、だからこそ公認の診断基準というのは有用かつ必須なツールだ。けれども公認の診断基準は個別の症例への対応、臨床研究、疫学研究には貢献するけれども「なぜ20世紀末から21世紀はじめに神経発達症がこれほど診断されなければならなくなったのか」を教えてはくれない。
個々の患者さんが有しているASDやADHDの生物学的特性そのものは生物学的所産でも、個々の患者さんが有しているそうした生物学的特性に神経発達症という名前が与えられ、社会のなかで特定のカテゴリーに分類され、特性に沿った対応や支援が官民それぞれの領域にできあがったこと自体は社会学的所産、いってみれば「社会構築物」にほかならない。ホワイトカラーの領域が増えてこなければ、流動性の高いコミュニケーションを誰彼かまわず要請するようにならなければ、ASDやADHDが生きづらさに直結する状況はここまで増えなかったはずである。同じように、識字率の著しく低い古代エジプトや中世ヨーロッパのような社会では、SLD(限局性学習症、学習障害とも)が問題視されることはなかっただろう。
ある社会における生きづらさは、その社会で生きていくために必要とされる事柄と表裏一体だ。なぜ、生きづらいのか、なぜ、それが障害と呼ばれ得るのかを理解する際には、突き詰めれば、社会の事情、社会のつくり、社会のニーズといったものをよく理解しなければならない。
もうひとつは時代について知ること。
時代についても、普段の臨床活動ではほとんど考えなくてもいい。しかし例えば「現代人の生きづらさとは何か」を考え始めるとしたら、じゃあ現代ってどんな時代なんだ、たとえば近世や中世とはどう違っているのか、同じ近代でも19世紀あたりとどう違っているのかが言えなければならないと思う。
いつの時代にも同じぐらいに存在する生きづらさもあれば、時代によって異なる生きづらさもある。たとえば、殴ってコミュニケーションが行われていた時代の生きづらさと、殴ってコミュニケーションしてはいけない時代の生きづらさが同じとは思えない。同様に、精神医療や精神医学が普及した時代の生きづらさと、それらが普及していない時代の生きづらさが同じとも思えない。時代精神とか、時代の風潮といったものもある。それらによっても生きづらさは変わるだろう。
こうした時代の違いを無視して個々人の生きづらさについて考えると見当違いが起こるかもしれない。たとえば1986年の生きづらさの基準で2026年の生きづらさについて考えれば見当違いなことになるだろうし、その生きづらさがが時代を問わず存在するたぐいのものなのか、時代の要請や文化の流行によって生じているものなのかによって助言や対策は違ってこよう。
もし、ある人の生きづらさが時代を問わず存在するものなら、それは時代のせいである可能性は低く、ホモ・サピエンスの個体として生物学的になんらか問題が存在している可能性が高いものとみて構わないように思う。しかし、ある人の生きづらさが21世紀に特有のものだったとしたら、それは時代によってつくられた生きづらさとみるべきだろうし、その生きづらさをホモ・サピエンスの個体として生物学的になんらか問題が存在していると決めつけるだけで構わないのか、それとも過去の時代には役立つ機能や適応の形態だったのか、よく考えなければならないはずである。
こうして社会や時代について考え続けていくと、行き着く先は歴史学や文化人類学の領域になる。あるいは進化生物学か。現在、生きづらさとして公認されている領域の、その生きづらさを扱うための専門技術とされている部分だけ眺めていてもはじまらないのだけは間違いない。だからここ10年、私のなかでは社会や歴史にどんどん関心が高まっているし、何が社会や歴史の流れを生み出す中心的なエンジンになってきたのかにも関心が及ぼうとしている。きりのないことではあるし、個人でまとまったことを言える領域でもないのだけど、興味を持ってしまったのだから仕方がない。私の考える生きづらさの問題は、どうにも社会や時代に接続している。
しばしば私は、精神科医は社会や時代にも理解を持ち、それらが患者さんに何をもたらしているのか、ひいては自分たち自身や公認の診断基準にまで影響を与えているか否かといった点まで意識できたほうがいいんじゃないかな、と思ことがある。いやいや、精神科医すべてが関心を持つべき領域ではないな、これは。でも、知っている精神科医、知りたがる精神科医がいたっていいじゃないかとも思う。精神医学史や精神医療史を読み、「まるで社会の影絵みたいだ」と思ったことのある人なら、これはある程度同意してくださるはずだ。
未来について考えるためにも、未来を生き残るためにも
それだけじゃない。社会や時代によって生きづらさが変わっていくことを知っておけば、未来においてどんな生きづらさが台頭してくるのか、ある程度予測することだってできよう。たとえば座学の必要性が高い時代にADHDやSLDが台頭してきたことを知っていれば、コンピュータやAIやウェアラブルデバイスの必要性が高い時代にはそれらが使いこなせない人が「障害」として社会問題になってくる可能性が高いということが想像できる。
それとは別の事態も起こるだろう:20世紀には同性愛は精神疾患とみなされていたが、今日ではそうではない。ということは、同じように、21世紀になってなんらかの精神疾患が社会的合意に基づいてそうではないとみなされる可能性はあると想定される。そうなった場合、今日では精神疾患とみるのが当たり前だったはずの行動傾向が、精神疾患とみるのがおかしなことで、不見識であるとみなされるだろう。
逆に、社会的合意に基づくかたちで今日では精神疾患とみるのが不見識であるはずの行動傾向、いや、イデオロギーが精神疾患とみなされる日が来るのかもしれない。たとえば思想犯を精神疾患とみる向きは過去にさんざん批判されたが、それが似ていないふりをして蘇ってくる可能性はないだろうか? こうした可能性は、自然科学としての精神医学だけ眺めていても決してわからない。人文社会科学としての精神医学、または、人文社会科学のレンズをとおして眺めた精神医学の自画像を確かめなければならない。
私の場合、そうした未来への展望は、学問的興味や臨床的必要性のためだけに欲しがっているわけではない。私や私の知人縁者がより巧く生きるためのヒントにもなると確信して欲しがっている。
たとえば子どもの進学先や就職先について考える時、人は未来について考えたがる。時代が変わり、社会の常識やルールが変われば未来の展望も変わっていく。社会適応に必要とされるスキルも変わっていくだろう。となると、自分を磨くにせよ、誰かを育成するにせよ、身に付けるべきものやトレーニングすべきものも変わってくるはずだし、弱点を埋め合わせるための方法、そもそも何をもって弱点とみなすかの定義や着眼も変わってくるはずだ。近現代の体制が動揺し、AIのような新技術が台頭していく2020年代においては、こうした見極めの上手い下手がきわめて重要になってくるだろう。
私の人生の砂時計はもう午後3時半ぐらいになってしまった。この年齢になってもなお、私が社会や時代を知り生きづらさの変遷を追いかけているのは、自分自身(や自分にかかわりのある人)の社会適応を追いかけることとなおも半分ぐらいは同義だ。前者を追究することは、後者を追求することと矛盾しない。未来の人間像や生きづらさを予感することは、未来を生きやすくする準備の材料ともなる。私は今でもそういうものが知りたいし、そういうものを知ることをとおしてこれからの人間とこれからの自分自身についてもっとわかりたい。今日は、そうしたことをふと書いてみたくなったので、書きました。











