シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

twitter(X)の有料化が「オンライン囲い込み」だとしたら

 
www3.nhk.or.jp
 
 
twitter の有料化について報じられている。自分のタイムラインを見る限り、これを狂気の沙汰とみなす人のほうが多い様子だが、私のあまのじゃくな部分が「twitter の有料化を合理的な決定とみたうえで、その道理を考えてみたい」と欲しがっている。
 
いや、本当のところは「資本主義の『囲い込み』にかこつけて、twitter の有料化についてしゃべってみたくなった」だ。よってしばらく、「Twitter の有料化は合理的で資本主義のロジックにも適っている」と考えてみる。
 
 
twitterの有料化によっておこるのは、twitter というひとまとまりのオンライン空間の囲い込みだ。ほかの多くの無料オンライン空間と同様、twitterは長らく共有地とみなされていた。金持ちや有名人が手を振ってみせることもあれば、狂人が都大路を駆け抜けることも、行者が苦行に耽ることも、犯罪者がつぶやくこともある、正真正銘の共有地(コモンズ)。
 
しかしイーロンマスク氏によって、その共有地が共有地ではなくなろうとしている。私はこの現象を見て、これって見たことあるやつやーと思った。渋谷駅の近くの公園が商業区画になったとか、ありとあらゆるカオスな業態が軒を連ねる区画が有料で清潔になったとか、そういうやつだ。街でそういったことが起こる時、人は、それをジェントリフィケーションと呼ぶ。
 
twitterにしてもそれは同じだったりしないか?  twitterはとてつもなく巨大な公園、あるいはアメリカやイギリスのストリートの超巨大版みたいな無料オンライン空間だった。本当は私企業が作りだし、広告収入などに頼りながらやりくりしようとしていたものだったのだけど、多くのユーザーはそんなのお構い無し、そこを公園のように利用した。
 
そこは功利主義に抵触するのでない限り、誰がいても構わないし、何が叫ばれようと、誰がうろついていようと自由なオンライン空間だった。しかし有料化されればこの限りではなく、お金を払えない人はtwitterにいづらくなる。ひょっとしたらいられるかもしれないが、ものすごく居心地が悪くなるような措置がほどこされるだろう、寝転がりたい人が寝転がれなくなった公園のベンチのように。そうして有料会員のための空間になっていく。
 

 
そのときお金が払えない人がこうむるのは、ジェントリフィケーションが進行した街でホームレスが受ける排除、それか煌びやかなショッピングモールに紛れ込んだ支払い能力の無い人のばつの悪さである。過去のtwitterは発展途上国の路上のように貧乏な人が横たわっていても構わないし、奇妙な人が奇妙な振る舞いをしていても誰も見咎めない、そのようなオンライン空間だった。が、これからはそうではない。無一文の人が横たわっていられるtwitterは、家賃を支払うなら横たわっていられるオンライン空間になる。奇妙な人が奇妙な振る舞いをするのも有料だ。有料化をとおして、無料でなければtwitterにいられなかった人々が、botともども排除される。
 
しかしTwitter は私企業が運営していたオンライン空間だから、そういう人々が排除されること自体、悪く言われる筋合いはなかったはずなのだ。少なくとも東京の公園のベンチを誰も寝転がれないようにしたり、ストリートのあちこちにモスキート音を仕掛けたりするのに比べれば、イーロンマスク氏がtwitterを有料化するのはおかしなことではないのでは?
 
考えてみればかつてのtwitterはとんでもないオンライン空間だった。私企業が運営しているにもかかわらず、そこは社会契約の透徹した(東京都のオフィス街のような)オンライン空間ではなく、明確な犯罪でない限り誰もが自由に振舞える公共空間とみなされていた、あるいは誤解されていた。そうした誤解のうえに政府機関もアメリカ大統領も市町村の災害対策のアカウントも便乗していた。そう考えると、あらゆるものが囲い込まれ、内部化され、商業化され、ジェントリフィケーションしていく資本主義&社会契約の透徹しつつある現代社会において、twitterは奇跡だったのだと今にして思う。
 
イーロンマスク氏はtwitterを有料化し、囲い込み、それをとおしてジェントリフィケーション化し、なんらかの新秩序を打ち立てることになりそうだが、この場合、異常だったのはイーロンマスク氏ではなくこれまでのtwitterのほうだった。その公共空間で広告事業をやろうと努めていたのはわかるけれども、こうして有料化が迫って振り返るに、あんなガンジス川のほとりのようなオンライン空間が世界をまたにかけたかたちで存在し、貧乏人や異常者やインフルエンサーだけでなく、政府機関や市町村まで公共地(コモンズ)としてダダ乗りできていたのは一種異様なことだった。
 
twitterが本当に有料化された時、たぶん、少なくない人がtwitterから逃げ出す、または追い出されるだろう。囲い込みが行われれば人が減るのは当然で、イーロンマスク氏も百も承知に違いない。しかし、よく考えてみれば支払い能力のないユーザーをtwitterは必要としていないし、そのようなユーザーが排除されたからといってtwitterは痛くも痒くもない。むしろ逆ではないか。twitterはそのぶん有料会員たちにとって居心地の良い場所になる。残念ながら完全に居心地が良くなるわけではなく、たとえばbotなどは残存するかもしれない。が、しかし、そのbotにしてもtwitterに「家賃」を支払うぶんにはカスタマーの一部をなす。twitter、もといXは、そのとき社会契約と資本主義の論理によって囲い込まれる。これは、イーロンマスク氏率いるXにとっても、Xのカスタマーの皆さまにとってもそんなに悪い話ではないはずだ。
 
オンライン空間の共有地としての無料のtwitterにぶら下がっていた人たちだけが、この変化で不遇をかこつことになる──。
 
 

「囲い込み」の歴史が繰り返されようとしているとしたら

 
実際のところ、オンライン空間の共有地だったtwitterがイーロンマスク氏にベネフィットをもたらす商業地に変身しきれるのかは、わからない。わからないけれどtwitterの歴史もすっかり長くなり、インターネットの諸インフラがフロンティアではなく既知のアドレスになっている以上、そこで囲い込みが行われ、ジェントリフィケーションも行われ、ユーザーから家賃を取り立てるようになるのは私にはおかしなことには見えない。で、これは昔あったアレと似ているんじゃないか? とも思う。
 

 

……世界ははるか昔から、豊かな自然の糧に恵まれていた。一方、それを使う人は少なかった。自然の糧のうち、一個の人間の努力そのものが及ぶ部分、そして他の人々の利益をないがしろにして独り占めできる部分はきわめて小さかった。とりわけ、道理によって課される有用物の利用限度を守っている限りにおいてはそうだったのだ。
 しかし今日では、所有権の主たる対象は、地上の果実や地上に生きる獣ではなく、土地そのものである。土地は、それ以外のすべてのものを孕む。私の考えでは土地の所有権も、果実や獣の所有権と同じ要領で獲得される。それは明らかである。土地を耕し、苗床にし、改良、開墾する。そして、そこから上がる収穫物を使いこなせるなら、まさにその分の土地が所有地となるのである。労働を加えることによって、その土地はいわば囲い込まれ、共有地から切り離されるのである。  ──ロック『市民政府論』

 
囲い込みといえばジョン・ロック。かつて、共有地としての土地が耕作などをとおして私有地へと囲い込まれ、事業に用いられていく歴史があった。それはフロンティアにおける資本主義による囲い込みでもあり、私有地や私有財産を巡る社会契約のニーズの高まりと成立でもあった。誰もが薪を拾って良い共有地や誰もが耕して構わない共有地から、私有地や借地へ。誰もが住み着いて構わない空間から、家賃を取る空間へ。いまどきは土地以外も囲い込まれているのかもしれない。物事の道理はゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ。遠足の時に持っていく水やお茶も、恋人に贈るプレゼントも、就職活動も、冠婚葬祭も、そうやってありとあらゆるものが資本主義の辺縁から資本主義の中心に取り込まれ、社会契約の道理に沿った商品や財産に改変されていく。
 

 
してみればオンライン空間は奇跡的なフロンティアだった。もちろんオンライン空間を支えていたのは広告収入だったと言えるし、新しいインフラやネットサービスが立ち上がってはフロンティアを形成し、猛烈な勢いで人が集まってきたから、フロンティアであり続けられたのだと思う。けれども広告収入が停滞し、インターネットの膨張速度がピークアウトし、既に誰もがスマホを持ちどこかのSNSに居ついてしまっている現在において、もし、広告収入だけでは(twitterに限らず)オンライン空間が支えきれなくなったら?
 
もし、そうしたオンライン空間が広告収入だけでは厳しくなっていくのだとしたら、ロックの時代の囲い込み運動、または『若者殺しの時代』で記されていたような諸物の資本主義化が加速するかもしれない。で、twitterで囲い込み運動がある程度成功するとしたら、Facebookやインスタグラムではもっと囲い込み運動が成功するかもしれず、人の集まっているオンライン空間はあっちもこっちも囲い込み運動の対象となり、人もbotもサブスクリプションという家賃を支払うのかもしれない。
 
「かもしれない」、を連発しすぎているな。
 
実際にはtwitterは囲い込みに失敗して大願成就せず、小さな無料のオンライン共有地がポコポコとできあがるだけかもしれない。けれども人が大勢集まっているオンライン空間には人のまばらなオンライン空間よりも利用価値があり、従来、とめどもなく広がるフロンティアと増え続ける人口をあてにして広告収入できていたオンライン空間が本当に曲がり角に来ているとしたら、案外、イーロンマスク氏の選択こそ資本主義や社会契約の過去の流れにかなうことで、そうでなかった今までのインターネットがどこかおかしかった、いや、西部開拓時代のアメリカ西部のように特別だったのかもしれない。
 
現在までのtwitterにはすでに大勢の人が集まっていて、そこで商売をしている人も大勢いて、市町村や政治家までもが共有地として利用していたのだから、そこはもう、西部開拓時代のアメリカ西部ではない。既にオンライン空間としてあてにされている土地なら、囲い込みが起こってもおかしくないし、カネのとれる人からは家賃を取り立て、そうでもない人は追っ払おうとするのも案外、自然なことではなかっただろうか。サーバー代だって無料ではないのだから。

 
 

PostScript

ところで私はイーロンマスク氏という人をある種の英雄だと想定している。それは巨額の富を築いたこと、電気自動車や宇宙産業で成功をおさめたこと、そうしたことが嵩じた結果として世界の政治経済にも影響力を持つことからそう思うのに加えて、人々をざわめかせ、どうあれ、人々の話題の渦中に彼の姿があるからだ。醜聞をなすのも才能と言われるぐらいなら、イーロンマスク氏にもその種の才能がある。
 
そうでなくても、英雄なるものが、民草の思いどおりに振舞ってくれる優等生だった試しがあっただろうか。それならイーロンマスク氏は現代の英雄、またはその候補と言ってもいいのではないだろうか。
 
でもって、これを書いているうちに、イーロンマスク氏がわざわざtwitterを買収したのは、このオンライン空間の共有地→囲い込みのためだったとしたらめちゃ面白いよね、とも思った。旧twitterが耕しに耕したtwitterという土地を、イーロンマスク氏が買って、そこにXという御旗を立てて、「ここは今日から我々の私有地である」とかっさらっていったとしたら、なんと抜け目ないことだろう、と思う。これがうまくいって、Facebookやインスタグラムもどしどし囲い込まれて、共有地としてのオンライン空間を囲い込むターニングポイントを作った人として記憶されたとしたら、これは氏の伝記を飾る一幕になるだろう。もちろん、何も考えてなくて勢いでやったことでしかなく、惨めな失敗に終わる可能性もあるだろうけれども。けれども私は「イーロンマスク氏は社会をブン回す、よくある英雄」説を採用したいくちなので、これからどうなっていくのか、どうなってしまうのか、他人事のように興味を持ってみていたいと思う。
 
 

「都合のいい偶然だけ持って来い」

 
偶然は、きらいですか。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
 
偶然はきらいですか、というブログタイトルを読んだ時、私は脊髄神経の早さでこう思った──「都合のいい偶然だけ持って来い」
 
あらゆるものを見通す弥勒菩薩の視点でみれば、この世には偶然はなく必然しかない。そういえば『HoLic』の侑子さんもそんなようなことを言っていた気がする。
 
しかし私たち人間は偶然に対して身構えることも、偶然をリスク回避の精神でマネジメントすることもできる。リンク先のいぬじんさんも、そうした偶然の管理に必ずしも否定的ではない。
 

簡単じゃないものを、できるだけ細かく分解して、なんとか制御してみようとする試みを否定する気はまったくない。
それが人類を発展させてきた。
一方で、よくわからないものを、よくわからないものとして扱って、その不確実性や偶然性を受け入れながら生きていくということも、同じくらい役に立つような気がする。
どっちも大事。
そして、どっちも大事でもない。
とにかく、今のぼくにとっては、答えを急いで出そうと焦ることは、あまりいい結果につながらない気がする。
ここで起きる色んな偶然を受け入れながら、かっこわるく、恥ずかしく、不安で、あせっていて、びびっている自分のままで、しばらくやっていけばよい、と思う。

 
メソッドとして「偶然の管理」は存在し、一般論としては現代社会ではそれが必要だ。原子力発電所は1000年に一度の災害に備えなければならないし、河川管理者もゲリラ豪雨に備えなければならない。株式をやっている人だって、突然の暴落などに定めし備えていることだろう。
 
でもリンク先でいぬじんさんがおっしゃっているのはそういうことじゃない。最悪の偶然に備えて何重にも構えよ、といった話とはまた別に、偶然を楽しむ心について述べておられる。確かに、そういう偶然の愛し方はあるのだと思う。後で書くようにそれはいいものだなとも思う。が、簡単ではありませんよね。
 
私はリンク先のいぬじんさんの構え方に比べると、たぶん偶然への耐性が乏しい。耐性が乏しいからリスクマネジメントなるものに文句を言いながら頼ってしまっているし、物書きとして破壊的な人生を突き進む覚悟が欠如しているし、色々カッコつけられずにいる。だせえ。私が大乗仏教を信奉しているのも、突き詰めれば、偶然へのこらえ性がないからかもしれない。偶然を偶然として受け取るのが嫌なものだから、因縁・因果の流れは本当はあるんだよとか、さきに挙げた侑子さんの「偶然は存在しない、あるのは必然だけ」みたいな言葉に魅力を感じたりする。
 

 
要は、人為によって偶然をギリギリまですり減らしたいと執着しているわけだ、私は。
だせえ。
 
それでも偶然を楽しめる瞬間も確かにある。棚から牡丹餅、とはっきりわかる場面だけでなく、もっとくだらない、しょうもない、どうでもいい偶然を楽しめる瞬間。そういうのは大切に拾い上げていきたい。そういうのも人生の風景なのだろう。
 
 

最近、ヘビによく出会うんですよ

 
ところで私は最近ヘビによく出会う。
秋になったからでしょうか。
 
先日は出勤途中、歩いている目の前を大きなアオダイショウが横切って行った。だいたい下の写真くらいの、鳥を飲み込めそうなサイズのやつだ。
 

 
私はヘビが結構好きだ。ちょろちょろと動いて、爬虫類独特のつぶらな目をしている。トカゲの肌がひんやりしてすべすべしていることを思うに、ヘビの手触りもそんな感じなのだろう。まだ暑くなってないアスファルトをゆったりと横切るそいつを見て、私は「どうかお元気で」と声をかけた。
 
ところがそこから数分進んだところで、今度はアオダイショウがおせんべいになっているのを見てしまった。もちろん別のやつで、今度は子どもサイズのものだった。このあたりはアオダイショウがよく出る場所なんだろうか? 人間社会の片隅でアオダイショウをやっていれば、自動車に踏まれておせんべいになってしまうことだってあるだろう。偶然はいとも簡単に生き物を殺してしまう。
 
それから数日後、今度はマムシに出会った。これもあまり大きくないサイズで、職場の近くの花壇からにょきっと顔を出して、何食わぬ顔をして私の前を横切っていったのでじっくり観察できた。アオダイショウに比べて少し頭がまるっとしていて、「毒蛇は頭が三角のかたちをしている」という言い伝えのとおりではないにせよ、頭部の形状が違っている気がした。
 
私はマムシと今までにも縁があって、4歳ぐらいの頃に初めて近所で出会ったヘビがマムシだった。当時はヘビがちょっと怖かったので、模様だけ確認して大急ぎで家に帰り、爬虫類の図鑑をみてそれがマムシだと知って後から怖いなと思った。その後、初めて捕まえたヘビもマムシだった。保育園の近くにいたそれはやっぱり少し小さめのサイズだったので、私は棒切れを使ってそれを紙の箱に入れて、自宅に持って帰って「すぐに捨ててきなさい」と言われてしまった。大人たちは毒蛇だから危険だと言うしそれは本当なのだけど、紙の箱におさまったマムシはペットのようだった。そんな風に思えたのも、運が良かっただけなのかもしれないけれども。
 
そうしたわけで、ヘビを見かけるたび、じっと眺めてしまう。本当は写真も撮っておきたいのだけど、我を忘れて眺めているうち、だいたい逃げられてしまう。
 
地方の国道沿いに住んでいると、猪やらハクビシンやらニホンザルやら、物騒な哺乳類にしばしば遭遇するけれども、それらに比べればヘビなんてかわいいものだ。毒を持っているマムシ、いちおう毒を持っているヤマカガシは一応危険かもしれないが、哺乳類の連中の明確な害獣ぶりに比べればぜんぜんマシである。そして爬虫類特有の、つぶらな目をしてしゅるしゅると移動していく。
 
だから私は、野生の哺乳類に出会う偶然を不吉と感じる一方で、野性の爬虫類に出会う偶然を吉兆と感じる。ニホントカゲやヤモリもいい。ニホントカゲ、特に小さめのやつは実にきれいな色をしている。ヤモリは窓ガラスをよじ登るあの足がかわいらしい。ヤモリは害虫を駆除し自宅に幸運を招くと信じている。そういう迷信には、あやかりたい。
 
偶然の話をしていたのだったっけ?
気が付けば、爬虫類かわいいになってしまっていた。爬虫類に出会う偶然を得るためには、爬虫類の出そうな場所に出かけなければならないし、歩く距離を増やし、乗り物で移動する距離を減らしたほうがいいのだろう。秋はそういう出会いの多そうな季節だ。里山をたくさん歩いて、良い出会いに恵まれたい。哺乳類の害獣連中には合わなくていいです。
 
 

主人公に卓越をみずにいられない──『東京最低最悪最高!』

 
bigcomics.jp
(はてなブックマークでの反応:[B! 漫画] 週スピ&月!スピ読切・【読切】東京最低最悪最高!/鳥トマト
 
月曜の朝に、この『東京最低最悪最高!』が目に飛び込んできた。現実を忠実に模写した漫画ではあるまい。ただ、読者がぶら下がれそうなフックはたくさん目につく。東京と地方。束縛的な親とそれに束縛される子ども。結婚して問題が解決された女性。そうしたフックに大量のネットユーザーが引っかかり、読みたいように読む恰好となっている。
 
そこから逆に考えるに、この作品は、作中で与えられた情報から何を思い、何を考えたって構いやしないのかもしれない。だから私も自分が読みたいようにこの作品を読むことにした。
 
この主人公の女性、なんだか強いよねって物語として。
 
 

エクソダスを決めた主人公の卓越

 
主人公は、地方の保守的な価値観の家に生まれた「ずべずべびったん」な女性だ。作中では福岡らしきことになっているが、こんな家庭は地方に行けば(いや、本当は結構な大都市にだって)いくらでも残っているので、まあどこでもいいだろう。地方の保守的な家庭では、公務員や医師や看護師といった職業だけがマトモな職業で、デザイナーは職業のうちに入らないとされる。それは地方の雇用情勢の忠実な反映でもあり、世間体の問題でもあり、視野の狭さの問題でもあるかもしれない。
 
それでも主人公は多摩美術大学を志望校とし、上京を志す。地方の学生、特に女性が、親の反対を受けながら上京するのは非常に難しいことだ。つべこべ言いながらも、この作品の両親は主人公の上京にお金を出したのだろうし、それか、この主人公が両親にお金を出させたのだろう。作中では端折られているが、まず、ここがとても強い。
 
地方でメンタルヘルスの問題をみていると、親にこうしてお金を出させることができなかった若者をしばしば見かける。家庭という密室のなかで親に反抗できるだろうか? 反抗できないことはない。しかしその場合、同性の(親以外の)ロールモデルや強い仲間が必要で、もちろん本作品の母親は主人公のロールモデルではなく、乗り越えるべき対象だ。これも作中に描かれていないが、本当なら、主人公には人生の模倣先になるような出会いがあったか、上京を一緒に目指せるような強い仲間がいたか、とにかく、単独で上京を志したとはあまり思えない。
 
大学に合格し、デザイナーになりおおせたのも大したものだと思う。地方在住で美術大学に合格し、フリーの仕事ができるようになったのは才能あってのことだろうし、上京する前から才能は磨かれていなければならなかったはずだ。少なくない人が「結婚」という彼女のソリューションを嫉視するかもしれないが、嫉視すべきはそこだけじゃない。デザイナーとしての才能とその研磨、そしておそらくフリーの仕事ができるほどの対人コミュニケーション能力やそつのなさも羨むに値するものだろう。
 
ここは、福岡という地方というには大きすぎる設定が私にはしっくり来る。たとえば日本海側の人口数万人都市に生まれて同じことができるかって言ったら、たぶんできない。できたとしたら才能が服を着て歩いているような人物だろう。もちろん福岡だから簡単だとも、言うつもりもない。親に忌避される才能をここまで育てあげたのは大変なものだし、たぶん、この才能の育成という点でも(作中にはまったく示されていないが)主人公には大なり小なりの味方が存在していたと想像する。
 
さっきから私は、味方や仲間やロールモデルについてやたら書いている。なぜなら、親の価値観や重力圏の外に出るうえで、親以外のロールモデルや仲間が重要だからだ。親の旧態依然とした価値観や労働観を嫌悪しながら、結局、親の重力圏から逃れることなく生き続けるしかない人たちのブルースが私には今も聞こえる。昭和時代に比べれば親の価値観が軟化していることが多い反面、そのぶん経済事情は悪化しているからフィフティフィフティといったところだ。そうした若者でも親の重力圏の外に出る方法はあり、たとえば親に反抗しながら地元の同世代とつるみ続ける人などは、親の価値観と距離を取りながら人生を歩みやすい。ところが孤軍奮闘では親の重力圏の外に出るのは非常に難しくなる。だからコミュニケーションの苦手な若者、強い味方に出会えない若者は不利だ。そして家庭環境が難しい家に生まれる子は、えてしてコミュニケーションが苦手だったり強力な味方に出会いにくかったりしがちだ。
 
異性との巡り合い、という点でもそうかもしれない。
この漫画の「結婚相手」は中途まではのっぺらぼうだが、主人公の嘘を見抜いたさまが明らかになってからは顔が描かれるようになる。この結婚相手が、なかなかの人物だった。主人公が結婚を決めた動機や結婚観はロマンチックラブからほど遠く、サバサバしたものだとしても、実際になれそめた相手は彼女の呪われし結婚観から家庭観から遠い男性だった。自由恋愛のもとでのパートナー選びは、自由であるがゆえに、自分自身に宿る病理性やコンプレックスからは最も不自由なので、人は、えてして自分自身の病理性やコンプレックスどおりのパートナーを掴んでしまう。たとえば両親の間にDVが絶えなかった家庭で生まれ育った子どもは、しばしば異性の親にどこか似たパートナーを掴んでしまい、家庭の病理がパートナーシップに継承される……というのがありがちパターンだ。
 
はてなブックマークには、この「結婚相手」のことを「理解ある彼くん」みたいにコメントしている人も多かったが、事態はそう単純ではないと思う。女性が「理解ある彼くん」に巡り合う場合も、男性が「だめんずな女性」に巡り合う場合も、そこには選んだ側、巡り合った側の病理性が現れ出てしまうものである。「理解ある彼くん」は、女性の病理性が具現化したものとまずは疑うべきで、「だめんず」も、男性の病理性が具現化したものとまずは疑うべきだろう。でもって、多くの場合、男女の病理性は大同小異で、共依存の重力系ができあがる。
 
ところが、この主人公は悪性の「理解ある彼くん」を掴んでいない。ここにも、この主人公の上手さ、非凡さを想定しておくべきだろう。
文中にもあるように、主人公は「結婚相手」が浮気や不倫をする可能性はあるとまだ考えている。他方、空港から帰るシーンは将来の不安を煽るより払拭するような描き方で、主人公に「この人とはずっと一緒にいられそうだ」と言わせている。だからきっと大丈夫なのだろう。
 
これらを全部を振り返ると、この作品の主人公はすごく強い人物として描かれていて、なんというか、地方にありがちな抑圧に潰されずに見事に開花した一輪のひまわり、といった印象を禁じ得ない。そしてこの一輪のひまわりの足元には、上京することも、自分のしたい仕事に就くこともかなわなかった無数の人々が存在している。そのレアリティ加減は、嫉視もあいまって非現実だというそしりにも繋がるかもしれない。そして現在のインターネットの情勢では、「女性には結婚という解決法があって良かったですね」というコメントをも招くのだろう。
 
私は、この作品を読んでなにより「この主人公はたくましくて賢くて、ともあれ、なんとかなりそうで良かったですね」という感想を持った。親の価値観に縛られることなく生きるとは、今日でも、簡単のようで簡単ではない。家父長制が圧倒的に強かった時代も、核家族が密室化している現在も、どちらにもどちらなりの難しさがある。そして私の見知った範囲では……女性のほうが親の重力圏の外に出るロケットを手に入れにくい何か(ジェンダー的なもの? それとも生物学的な?)が存在する予感がある。引っ越しの段ボールの積まれた新居で歌う主人公の姿を、私は素直にハッピーエンドとして受け取った。この作品は読者が読みたいように読んで構わない作品にみえるから、そう受け取ったっていけないわけではないだろう。看護師になった妹が腐っていたりしたらそうとも受け取れないのだけど、幸い、この作品はそうではないのだし。娑婆世界のうちに、こういうハッピーエンドもあったっていいじゃないか、と私は思う。
 

人間は身勝手な危険動物だから、ザリガニを勝手に増やし勝手に殺すのも通常運転

 
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虐殺が行われるのを、ただ見ていた。
 
令和5年の夏のある日のこと。現場には少し前の日からロープが張られ、午前8時頃、作業着姿の中年男性たちが白いハイエースに乗って現れた。発動機の音高く、草刈り機が起動する。土地を覆う植物たちは無残に薙ぎ払われ、小さな蝶やバッタ、コオロギたちが逃げ惑っていた。地面に放り出された芋虫が、鳥たちについばまれていく。
 
しかしそれも前奏曲でしかなかった。
 
本当の破局はお昼過ぎに訪れた。小さなダンプカーがやってきて、草刈りが行われたばかりの大地に土砂を流し込んだのだ。小さな命を揺籃してきた緑の楽園が、茶色い土や礫に埋め尽くされていく。作業はその日いっぱい続けられ、おそらく、蝶の幼虫たちはなすすべもなく死に絶えた。背の高い草木にはセミの抜け殻もついていたから、地下に残された彼らも助からないだろう。コオロギやバッタのなかにはアスファルトを横断し、近くの家の庭にたどり着いた者もあったかもしれない。しかしあの家の主人は庭いじりに熱心だから、発見されるや殺されるだろう。
 
そうした昆虫たちの殺戮劇をまだ覚えているうちに、冒頭の「アメリカザリガニの駆除」の話を読んだ。
 
子どもの情操教育の題材として、また外来種の問題を考えるうえでも恰好の素材で、読者にも啓発的な内容だと思った。私は八百万の国に育ち、大乗仏教の六道輪廻の教えを真に受けて育ったので、こうした外来種を駆除せざるを得ないとわかっていても無暗に苦しめたくないと意識する。それは、私の宗教観や世界観に基づいたささやかな祈りだ。私の来世はあのアメリカザリガニかもしれないのだし。
 
同じく、キリスト教の博愛精神や動物愛護の精神を真に受けて育った人にも、それぞれの思いがあるに違いないと思う。
 
が、それはそうとして、私たち人間にとってアメリカザリガニを駆除するなど、わけないことではなかったか?
 
つい先日、私の目の前で行われた虐殺を思い出す。
あの小さな緑の楽園を人間たちが踏みにじった出来事は、新聞には報じてもらえなかった。考える材料にすらならなかった。ごくありふれた、小さな工事の一幕でしかない。
 
だが、あの土地で人間たちが行ったのは節足動物の大虐殺であるはずなのだ。アメリカザリガニを外来種として駆逐する、その出来事のうちに悪ふざけが入ってはいけないし、命は尊いと子どもに教え諭すこと自体には賛成だ。だが、アメリカザリガニの駆逐など、事態のほんの一端でしかない。わたしたち人間が節足動物を、あるいは環形動物や軟体動物をも現在進行形で無数に殺しながら日常や文明を成り立たせていることを思えば、アメリカザリガニの駆除、それそのものにスクープ味があるわけではない。(あの記事は、そうしたことを子どもが実体験するという話にスクープ味がある)
 


 
冷静に考えるなら、上掲ツイートにあるとおり、人間はその存在自体、危険動物で、これまでさまざまな生物種を自分たちの都合で絶滅させてきた。人間は、歯や消化管の構造や脳の脂質の割合からいっても他の動植物を食べて生きなければならない宿命にある。もし、動物を食べた・節足動物を殺したといったことが罪であるなら、人間は存在そのものが罪であり、そこにこだわりたいなら私たちはまず私たち自身を始末するのが先決だろう。
 
人間は食べるだけでなく、土地改良などをとおしてその土地の生物を不断に殺し続けている。リチャード・ランガム『火の賜物』によれば、人間は旧石器時代から山に火入れなどをすることで、環境を自分たちにとって都合よいものに改変し続けてきたという。
  
そして現在は道路工事や治水事業などをとおして、不断に魚類や両生類や節足動物などを殺し続けている。外来種の駆除は報じられても、道路工事で街路樹を掘り返した時の動植物の死、護岸工事で磯を埋め返した時の水生生物の死は報じられない。そんなのは当たり前すぎる。顧みられることがない。
 
かと思えば、ロブスターを茹でる時には作法がなってないと難癖をつけ、愛護の精神がどうこうと言ってみせたりもする。そんなにロブスターの死にざまが気になるなら、同じ節足動物のあいつらの死にざまはどうなんだ! それともあれか? エスタブリッシュメントの食べるロブスターはかわいそうで、労働者の土木工事で死んでいく昆虫たちはかわいそうじゃないとでも言いたいのか。もしそうだとしたら、節足動物の世界にも身分や「かわいそうランキング」があるみたいで、世知辛いことである。
 
人間が勝手に放流し、その人間に今度は駆除されるアメリカザリガニの「処遇」も含め、この件で私が一番強く思い、そして自分の子どもにも伝えたのは、「けっきょく人間は多くの生物種を滅ぼす食物連鎖のてっぺんの危険動物で、そのくせ、何を殺していいか殺しちゃいけないかをしたり顔で論じてみせる、度し難い存在だ」ということだった。ついでにこうも伝えてある:「でも、人間という動物がそういう存在だって知っておいたうえで、それでも人間にイエスと言えるかどうかが問われるところだと思う」。
 
どんなに言い訳をしても、人間はその生物学的特徴・生態学的傾向からいって、他の動物を食べたり駆除したりしなければ生きていけない存在だ。それ自体も罪な存在だが、オオタカやシャチやチンパンジーなどもそれに近いといえば近い。加えて人間は、さんざん殺したり食べたりしながら、何を殺していいか殺してはいけないかをしたり顔で論じてみせる性質がある。この、したり顔で論じてみせる性質は、善性だろうか? 悪性だろうか? ともあれ、オオタカやシャチやチンパンジーが自分の生業をしたり顔で論じてみせないのはほとんど間違いない。フォアグラの飼育には問題があると論じてみせながら、雨の日の幹線道路でカエルを踏みつぶしても眉ひとつ動かさない人がいる。ロブスターの茹で方を批判しながら、ガーデンの草刈りで無残に死んでいく他の節足動物たちには一瞥もくれない人がいる。
 
もちろん私も世間なるものを多少は見知ってきたから、それらをダブルスタンダードとは呼ばないらしいと推測することぐらいはできる。だが、幹線道路で踏みつぶされるカエルや草刈りに巻き込まれて死んでいく節足動物たちからみれば、どうしてフォアグラやロブスターはかわいそうだと言われて、俺たちには一瞥もくれないのか、ダブルスタンダードだ、と言いたくもなるだろう。
 
そうしたダブルスタンダードを本気で避けようと思ったら、行きつく先はジャイナ教徒のように、あらゆる動物を殺さないように箒をはきながら歩かなければならない。そういうことをするジャイナ教徒は、それはそれで敬服に値すると私は思う。一方で、しょせん人間全体でみればジャイナ教徒は例外だし、人間のありようとして不自然だとも思う。人間は、動植物を食べたり駆逐したりして生きる危険動物だ。そして自分たちの(他の生物種からみればよくわからない理由の)自己都合で殺しの是非を云々したりダブルスタンダードを掲げでみせたりする、そういう存在だ。是非はともかく、まず、それを認めるところからスタートすべきじゃなかったか。
 
あの緑の土地の虐殺を目撃した後も、私は何事もなかったかのように節足動物を食べている。カニチャーハンもエビのアヒージョもうまい。食べる時には、いただきます、ごちそうさま、を欠かさない。だが、それがなんだって言うんだ、とも思う。慈悲だ感謝だと言ったって、けっきょく私はカニを食べてエビを食べて、土木工事や治水工事の恩恵を受けて生きている、それらなしでは生きていくことも難しい動物だ。その傾向は、人間を旧石器時代の水準まで逆行させたとしても変わらない。結局人間は狩りをして食を得て、野に火を放って動植物をまとめて殺し、環境を改変しながら生きていくしかない、そういう食物連鎖の最上位種なのだから。そしてニホンザルや熊やイノシシにおびやかされる地方の現状をみればわかるように、他の食物連鎖上位種と競合的な関係にある。私は地方在住だから、ニホンザルや熊やイノシシの駆除をかわいそうとは、あまり思わない。彼らは私たちの生存圏をおびやかす、敵性動物だ。絶滅寸前まで減って欲しい。ま、これも身勝手な願いなわけだが。
 
命は大切だ。
そうかもしれない。いや、そうですねと答えておきたい。
だとしても、食物連鎖最上位である私たちにとって命を奪うとはあまりにも当たり前すぎて、人間の存在や文明そのものが殺しと収奪に圧倒的に依っていることも思い出しておきたい。ならば、アメリカザリガニを勝手に増やして勝手に殺すなど、人間の、通常運転以外の何物でもない。殺して良い命など無い、と学ぶついでに、その裏側にこびりついている「人間はあまたの命を奪っていなければ生きていけない危険動物だ」も、学んでもらいたいと思う。私はそんな人間のありようでもイエスと言いたいが、なかには、そんな人間のありようにノーと言いたい人もいるだろう。そういう論じあいができるのも、人間という存在だ。