シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

五十代として『ミドル・エイジ・ビギンズ』を読む

 
 
私は年を取るという出来事に執着のある人間なので、年の取り方について書かれた本には手が伸びる。で、心理学者の東畑先生が『ミドル・エイジ・ビギンズ』という本を出してらっしゃるのを見つけて、読んでみることにした。
 

 
東畑先生とは職業も年齢もライフスタイルも違うので、『ミドル・エイジ・ビギンズ』は私自身の参考にはならない。しかし、書籍のタイトルにあるように、これから中年を迎える人、私とは異なる境遇にある人には有益で、面白い本だと感じた。まずはそこを紹介したい。
 
そのうえで、私自身が『ミドル・エイジ・ビギンズ』を読んで考えたり感じたりしたことも後半に付け加える。
 
 

東畑先生の魅力全開の中年ビギンズ本

 
『ミドル・エイジ・ビギンズ』は、東畑先生が講談社現代新書から『カウンセリングとは何か 変化するということ (講談社現代新書)』 を出版された後に感じた中年の気配や行き詰まり的感覚が企画化された書籍、だと思う。内容のかなりの部分はインタビューによって占められ、これが例に漏れず面白い。東畑先生としては、多様であろう中年期の様相を掬い上げるような意識のもとでスタートしたインタビューとあるが、落着点は必ずしもそうではない恰好になっている。そのこと自体もひとつの読みどころだと思うので、これから読んでみる人はそこに目を向けて読んでみても楽しいかもしれない。
 
2026年現在、東畑先生は四十代前半で、臨床心理士(公認心理師でもある)かつ心理学者だ。河合隼雄の系譜を継ぎ、ユング派精神分析がご専門だったと私は記憶している。いっぽう私は五十代の精神科医で、E.エリクソンのライフサイクル論にかぶれている*1から、中年危機とか中年という事態に対する見方もどこか違っているだろう。
 
その期待どおり、本書にはユングや河合隼雄に関する事柄も登場する。その一節一節を私は噛みしめるように読んだ。
 

 ……強みを生かすことは楽しくても、弱みと向き合うのはしんどい。それでも、そのようにして影だった自分を開拓し、生き方に取り入れていくことは人生を豊かにしてくれると、ユングは考えます。「なりたい自分になる」のではなく、「なりたくなかった自分も含めて引き受ける」のが、ユング的な「自己実現」です。
 暗いものに直面することで豊かになる。「影を生きる物語」のこの逆説を、ユング派分析家である河合隼雄は次のように記しています。
 
 "中年とは壮年だ。そんな暗い話はまったく話にならない、という人もあるだろう。それも結構だが、せっかくこの世に生まれてきて春だけ楽しむのも、もったいない話である。春夏秋冬をすべて味わうほうが面白いのではなかろうか。"
 
 人生の前半に価値をもたなかったものが、後半には価値をもってくる。春の喜びや夏の暑さだけで人生はできていなくて、秋の悲しさや冬の寒さにもまた人生の価値がある。「影を生きる物語」はまさに夕暮れの心理学です。心は光だけではなく、闇も十分に生きることを求めているということです。
 東畑開人『ミドル・エイジ・ビギンズ』より

こことか、めちゃくちゃいいよね……。
 
なりたくなかった自分・否定してきた自分を受け入れ、自分自身の生き方にちゃんと取り入れていくのは簡単じゃない。自分の人生のなかで置き去りにされた側面や影を見て見ぬふりをしたまま三十代や四十代まで生きる人はそこらじゅうにいるだろう。中年危機について詳しいダニエル・レビンソンという心理学者は、「ある年頃の課題をスルーしてもとりあえず先に進むことはできる。けれども、そうするともっと先の年頃における課題の難易度が高くなる」みたいなことを著書*2で書いている。中年期まで課題を後回しにし、はたと直面すれば、それは高難易度の課題に、いかにも危機という言葉がふさわしい中年危機になり得るだろう。
 
たとえば若さをアイデンティティの一部としてきた人が、年とともに訪れる老化をごまかし、20代と同じように生き続けることは30代のうちはそんなに難しくないかもしれない。が、40代になればそうするためのコストは高くつくようになるし、他人に対しても自分自身に対しても老化を糊塗するのは難しくなる。30代のうちに老化と折り合うならソフトランディングはそう難しくないが、40代まで自分自身の老化を見て見ぬふりをし、はたと直面するならギャップもショックも大きくなる。そうした場合、傍目には「どうしてこの人はいきなり自分の年齢にショックを受けたのかわけがわからない」けれども当人自身にとっては中年危機ど真ん中……みたいなことが、稀によくあったりする。
 
しかし、歳月の進行をそう悲観ばかりするものでもないと思う。河合隼雄&東畑先生がおっしゃるように、人生には秋や冬もあるし、暗いもの、なりたくなかったものを引き受けることで豊かになれる一面もある。思春期青年期と比べて中年期は喪失や翳りが視界に入ってくる時期だから、こうしたユング的な考え方を前向きにとらえていくことには重要な価値があると私も思う。そしてこういう価値を論じるにあたり、私が愛顧してやまないE.エリクソンはそこまでたくさんの言葉を持ってはいない気もする。
 
東畑先生もおっしゃっているように、E.エリクソンのライフサイクル論には「発達課題がこなせなければ停滞するゾ」みたいなきつい部分&ワンパターン的な部分があるのは否めない。これから中年期に入っていく人にはともかく、中年危機の渦中にある人が読んでも嬉しくないように思う。また、多様なライフコースのなかで中年期という事態に悩みや惑いがある人にも、たぶん、東畑先生の言葉のほうが染み入るのではないかと思う。
 
 
そうしたうえで、この本は読み心地が良い。
読み心地が良い理由は、東畑先生の文章に色気があるからだろう、と私は思っている。
 

鷲田:やっぱり僕、文章には色気がないといけないと思ってて。どんなハードなことを書こうが、色気のある文章って、人間の生き方とか存在そのものを伝えてくるじゃないですか。人の心をざわざわさせたり、あるいはしっとりと触れてくるところがある。そういう文章を書きたいなとは思うけど。なかなか最後まで、それはできないと思う。
 東畑開人『ミドル・エイジ・ビギンズ』より

世の中には、色気のある文章とない文章がある。同じ内容が書いてあっても前者のほうが多くの人の胸に刺さり、または人の懐にスッと忍び込む。東畑先生におかれては、学者であり臨床家でもありつつ色気のある文章まで書けるのは反則級だと思うが、とにかく、『ミドル・エイジ・ビギンズ』においてもその文章の色気は健在だ。そういう刺さりやすさや読みやすさも長所だと思うので、書店で手に取ってみて、いいなと思ったら買ってみるって判断でもいいと思う。
 
 

私の感想1:「まだまだこれからじゃないですか?」

 
そのうえで、私個人の感想を書いてみたい。
 
私が本書を手に取った理由の第一は、さきほど挙げたユング派的な中年危機の受け取り方を知りたかったためだ。その願いは果たせられたと思う。それからもうひとつは、東畑先生の中年危機の(2026年現在の)受け止め方や眺め方と、自分自身のそれとを見比べてみたかったためだ。
 
ちょうど私も、東畑先生ぐらいの年齢の時にエイジングについて一冊の本を出している。
 

(※間もなく新しいカバーデザインの新装版が出ます!)
 
タイトルもサブタイトルもE.エリクソン派っぽいし、なおかつ、すごく私っぽい本だなーと思う。こちらの本は中年危機を気にしている人向けではなく、これから上手に年を取っていきたい人・若者と呼ばれる年頃の次のステージを覗いてみたい人向けに書いた本だ。というより、この本の正体は自分より年下の編集者の方に「若者のネクストステージには、こんないいことがあるんだよ」みたいなことをおしゃべりする感覚で書かれた本で、中年危機にフォーカスしているものではない。
 
43歳当時の私は、中年という年頃が後戻りややり直しができない季節であることは意識していたけれども、そこで発見した若者時代には無かった面白さや強みに魅了され、どうやってそれをこの局面を生かしていくのかを考えるのに忙しかった。ブロガーや作家として自分が本当に追いかけるべき目標も、この段階ではまだ視界には入っていない。しいて言えば、この頃は講談社現代新書から出版していただいたのに『ミドル・エイジ・ビギンズ』よりずっと小さなセールスに終わってしまった『「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)』の雪辱戦をやりたい、ぐらいの意識しか持ち合わせていなかった。
 
私がようやく「もしかしたら中年危機かも?」と思い始めたのは2020年代、40代後半になってからだった。この頃の私は「これ以上、本気で本を作ることはできない」と感じていたし、自分自身の身体的衰えに愕然としていた。筋トレやランニングなどで筋力は向上しているくらいなのに、隠しきれない衰えがあると感じていた。それはきっと内分泌学的な出来事なのだろう。更年期という言葉があるが、いよいよ自分の身体が老人のそれに変わりつつあるさまを、肌から、内臓から、神経から自覚していた。
 
でも、そこから何かが一皮むけて、私は2024年に三冊の本を同時に出していただいた。だから私は、
 

 この本を書き終えてみたら案外「もう終わったな」みたいな気持ちになっているんです。二十年考えていると、それが正しいかどうかは別にして、僕なりの答えが出る。すると、考えたいことって、無限にあるわけではないのだなと最近思っていました。
 東畑開人『ミドル・エイジ・ビギンズ』より

と東畑先生が書いてらっしゃる箇所に、「東畑先生は、あと五年以内にまた波動砲を撃つよ」とラクガキをした。どういう形かはわからないけれども、東畑先生はきっとまた波動砲を撃つ。そうに決まっていると思う。もちろんそれは四十代前半の頃とは違った何かだろう。でも、きっと何かが溜まってきて、きっと何かが起こるに違いない。『ミドル・エイジ・ビギンズ』を読み終わっても、その感想は変わらなかった。だって、東畑先生の中年期はまだまだこれからですもの。
 
 

私の感想2:「いつごろ、『中年』をやめて『老人』を始めるか」

  
そのうえで五十代になってしまった現在の我が身を振り返る。時間がない。それは仕方のないことだ。生物学的にはっきりと衰えはじめた自分自身を、知識の蓄積や社会的状況によってカバーできる年数はあとどれぐらいだろうか?
 
自分自身の継戦能力の見積もり方は、人によってまちまちだろう。私はせっかちで臆病なので、残り時間はあと数年程度と思ってかかることにしている。今ぐらいのペースであと数年、自分のすべきことに取り組んだら自分自身に見切りをつけ、働き方も生き方も書き方も変えていかなければならない:そんなことを去年からずっと考えている。そのかわり、今は今しかできないことを精一杯やって、悔いの残らないように努めたい。
 
私には、ずっと青年期を続ける境遇、いくらかアンソニー・ギデンズっぽい言い方を言えば「再帰的青年期」とでもいうべき境遇が生物としてのことわりに反しているようにしか思えない。同じく、バウマンのいう「リキッドライフ」なんてくそくらえだとも思う*3。生涯現役でなければならない。青年期のように生きなければならない──そうした社会からの要請は理解できるけれども、私の顔貌、私の身体機能、私の精神や価値観はどう見ても青年期のそれではない。こんな私も、いや、私より年上の人々すらも青年期的な境遇に引き寄せて離さない社会・時代がここにあるとしたら、それは、批判されなければならないと今は思う。
 
と同時に、私はせっかちで臆病な人間だから、河合先生のいう秋の悲しさや冬の寒さに、尻込みしながら引きずり込まれるより、前を向いて突撃したほうが好ましいんじゃないか、みたいな計算を始めてもいる。かつての『「若者」をやめて「大人」を始める』の時と同じように、今度は『「中年」をやめて「老人」を始める』感じだ。
 
レビンソンの言うことには、老年期への過渡期は60~65歳頃だという。私はそれより幾分若いけれども、時機が訪れたらスパッと老人になる算段を立てたいし、今のうちから周到に(ゲーム用語でいうなら)フラグを立てて回っておきたい。こうした立ち回りをわざわざ選ぶのも、要は、私が老いを怖れていることに由来するのだろうけれども、どうせ防衛機制するなら歯切れよく防衛して、還暦にちゃんちゃんこなど着て手順どおりに老けたい。昔の人が残してくれた社会慣習にも頼りながら、人生の秋から冬に向かってガイドビーコンを焚いていくのが私の次の作戦だという思いを、今日は新たにしました。
 
 
 

*1:それどころか最近はエリクソンのいうライフサイクルという言葉を生物学的用語としての生活環にあえて還元し、動物としての人間の生と近現代人としての人間の生を比較するヒントとみなそうとしている

*2:レビンソン『ライフサイクルの心理学』

*3:念のため断っておくが、バウマンがくそくらえなのでなく、リキッドライフがくそくらえだ

20世紀と21世紀の生きづらさの違いを知りたくて社会を追いかけている

 
ここ数年、「近代という時代の終わり」について考える機会が増えた。
 
blog.tinect.jp
 
たとえばリンク先は、いわゆる現代社会と私たちが呼んできた体制も含め、近代という時代が終わりかけているんじゃないの? と書いた2025年6月の記事だ。その後も中東情勢をはじめ、20世紀までの社会の大前提となってきたさまざまな条件が鉄面皮の人々によって毀損され続けている。国際情勢という観点からみる限り、近代という時代への揺り戻しは考えにくく、人類社会は近代とは異なるどこかへと漂流しはじめているように見えてならない。
 
リンク先の末尾に書いた、
 

いずれにせよ、地球における体制や権力は多極化する。もちろん、ここでいう多極化とは、近代とその担い手たちが夢想してきたような「実際には欧米列強に率いられグローバリゼーションという統治の片棒を担いできた、口先ばかりの多極化」ではなく、もっと抜き差しならない多極化、体制や権力の多極化、そして衝突だろう。

という予想は、現時点では当たっているようにみえる。そもそも近代という時代が欧米列強が牽引してきた一種の「体制」や「物語」でもある以上、その欧米列強が世界を牽引する意思と能力を喪失すれば近代は幕引きとなる。また、近代という時代や体制や物語が数百年かけてみずから進歩を遂げてきた結果、倫理的にも技術的にも進歩しすぎて私たち人間の大半についていけなくなってしまっても、それはそれで近代は幕引きとなる。人類社会は激動の時代を迎えようとしている。ウエストファリア体制が通用しないような時代がやってきても、驚いてはいけないのかもしれない。
 
 

なぜ、精神科医なのに社会を追いかけるのか

 
先日、韓国でインタビューを受けた際に「なぜ、あなたは精神科医なのに社会のことや世界のことを追いかけるのか?」と質問されたことがあった。
 
Xでは、たくさんのフォロワーを持つカリスマ精神科医やインフルエンサー心理学者たちが個人のメンタルや生きづらさや精神疾患について話題提供したり、それらの役に立つtipsを提供したりしている。いっぽう私はそういうことはたまにしかせず、明後日の方向の話題ばかりつぶやいている。
 
でも、これでも私は私なりに現代社会において何が生きづらさなのか、何が精神疾患とみなされ治療の対象となるのか、そして社会に適応していく方法を私なりに探しているつもりだったりする。ただし、そのための方向性や生きづらさをマッピングする方法が「お役立ちコンテンツ」ではないだけのことで、私のライフワークは「現代人の社会適応について考えること」でしかない。
 
 
「現代人の社会適応について考える」ためには、どうみても二つの大道具が必要になる。少なくとも私が「現代人の社会適応について考える」場合にはそうだと思う。
 
ひとつは社会について知ること。
社会について無知であるまま社会適応について考えるのは無謀だと思う。たとえばSNS依存の若者がどうして増えているのか、たとえば神経発達症(発達障害)と診断される人がなぜ増えているのか、を考える際に、当人の生物学的特性やせいぜい核家族の内側の病理性についてだけ問うのはきっと適切ではない。
 
もちろんアメリカ精神医学会のDSM-5のような公認の診断基準を用いて診断と治療をしていれば個々の症例への対応には困らないし、だからこそ公認の診断基準というのは有用かつ必須なツールだ。けれども公認の診断基準は個別の症例への対応、臨床研究、疫学研究には貢献するけれども「なぜ20世紀末から21世紀はじめに神経発達症がこれほど診断されなければならなくなったのか」を教えてはくれない。
 
個々の患者さんが有しているASDやADHDの生物学的特性そのものは生物学的所産でも、個々の患者さんが有しているそうした生物学的特性に神経発達症という名前が与えられ、社会のなかで特定のカテゴリーに分類され、特性に沿った対応や支援が官民それぞれの領域にできあがったこと自体は社会学的所産、いってみれば「社会構築物」にほかならない。ホワイトカラーの領域が増えてこなければ、流動性の高いコミュニケーションを誰彼かまわず要請するようにならなければ、ASDやADHDが生きづらさに直結する状況はここまで増えなかったはずである。同じように、識字率の著しく低い古代エジプトや中世ヨーロッパのような社会では、SLD(限局性学習症、学習障害とも)が問題視されることはなかっただろう。
 
ある社会における生きづらさは、その社会で生きていくために必要とされる事柄と表裏一体だ。なぜ、生きづらいのか、なぜ、それが障害と呼ばれ得るのかを理解する際には、突き詰めれば、社会の事情、社会のつくり、社会のニーズといったものをよく理解しなければならない。
 
  
もうひとつは時代について知ること。
時代についても、普段の臨床活動ではほとんど考えなくてもいい。しかし例えば「現代人の生きづらさとは何か」を考え始めるとしたら、じゃあ現代ってどんな時代なんだ、たとえば近世や中世とはどう違っているのか、同じ近代でも19世紀あたりとどう違っているのかが言えなければならないと思う。
 
いつの時代にも同じぐらいに存在する生きづらさもあれば、時代によって異なる生きづらさもある。たとえば、殴ってコミュニケーションが行われていた時代の生きづらさと、殴ってコミュニケーションしてはいけない時代の生きづらさが同じとは思えない。同様に、精神医療や精神医学が普及した時代の生きづらさと、それらが普及していない時代の生きづらさが同じとも思えない。時代精神とか、時代の風潮といったものもある。それらによっても生きづらさは変わるだろう。
 
こうした時代の違いを無視して個々人の生きづらさについて考えると見当違いが起こるかもしれない。たとえば1986年の生きづらさの基準で2026年の生きづらさについて考えれば見当違いなことになるだろうし、その生きづらさがが時代を問わず存在するたぐいのものなのか、時代の要請や文化の流行によって生じているものなのかによって助言や対策は違ってこよう。
 
もし、ある人の生きづらさが時代を問わず存在するものなら、それは時代のせいである可能性は低く、ホモ・サピエンスの個体として生物学的になんらか問題が存在している可能性が高いものとみて構わないように思う。しかし、ある人の生きづらさが21世紀に特有のものだったとしたら、それは時代によってつくられた生きづらさとみるべきだろうし、その生きづらさをホモ・サピエンスの個体として生物学的になんらか問題が存在していると決めつけるだけで構わないのか、それとも過去の時代には役立つ機能や適応の形態だったのか、よく考えなければならないはずである。
 
こうして社会や時代について考え続けていくと、行き着く先は歴史学や文化人類学の領域になる。あるいは進化生物学か。現在、生きづらさとして公認されている領域の、その生きづらさを扱うための専門技術とされている部分だけ眺めていてもはじまらないのだけは間違いない。だからここ10年、私のなかでは社会や歴史にどんどん関心が高まっているし、何が社会や歴史の流れを生み出す中心的なエンジンになってきたのかにも関心が及ぼうとしている。きりのないことではあるし、個人でまとまったことを言える領域でもないのだけど、興味を持ってしまったのだから仕方がない。私の考える生きづらさの問題は、どうにも社会や時代に接続している。
 
しばしば私は、精神科医は社会や時代にも理解を持ち、それらが患者さんに何をもたらしているのか、ひいては自分たち自身や公認の診断基準にまで影響を与えているか否かといった点まで意識できたほうがいいんじゃないかな、と思ことがある。いやいや、精神科医すべてが関心を持つべき領域ではないな、これは。でも、知っている精神科医、知りたがる精神科医がいたっていいじゃないかとも思う。精神医学史や精神医療史を読み、「まるで社会の影絵みたいだ」と思ったことのある人なら、これはある程度同意してくださるはずだ。
 
 

未来について考えるためにも、未来を生き残るためにも

 
それだけじゃない。社会や時代によって生きづらさが変わっていくことを知っておけば、未来においてどんな生きづらさが台頭してくるのか、ある程度予測することだってできよう。たとえば座学の必要性が高い時代にADHDやSLDが台頭してきたことを知っていれば、コンピュータやAIやウェアラブルデバイスの必要性が高い時代にはそれらが使いこなせない人が「障害」として社会問題になってくる可能性が高いということが想像できる。
 
それとは別の事態も起こるだろう:20世紀には同性愛は精神疾患とみなされていたが、今日ではそうではない。ということは、同じように、21世紀になってなんらかの精神疾患が社会的合意に基づいてそうではないとみなされる可能性はあると想定される。そうなった場合、今日では精神疾患とみるのが当たり前だったはずの行動傾向が、精神疾患とみるのがおかしなことで、不見識であるとみなされるだろう。
 
逆に、社会的合意に基づくかたちで今日では精神疾患とみるのが不見識であるはずの行動傾向、いや、イデオロギーが精神疾患とみなされる日が来るのかもしれない。たとえば思想犯を精神疾患とみる向きは過去にさんざん批判されたが、それが似ていないふりをして蘇ってくる可能性はないだろうか? こうした可能性は、自然科学としての精神医学だけ眺めていても決してわからない。人文社会科学としての精神医学、または、人文社会科学のレンズをとおして眺めた精神医学の自画像を確かめなければならない。
 
私の場合、そうした未来への展望は、学問的興味や臨床的必要性のためだけに欲しがっているわけではない。私や私の知人縁者がより巧く生きるためのヒントにもなると確信して欲しがっている。
 
たとえば子どもの進学先や就職先について考える時、人は未来について考えたがる。時代が変わり、社会の常識やルールが変われば未来の展望も変わっていく。社会適応に必要とされるスキルも変わっていくだろう。となると、自分を磨くにせよ、誰かを育成するにせよ、身に付けるべきものやトレーニングすべきものも変わってくるはずだし、弱点を埋め合わせるための方法、そもそも何をもって弱点とみなすかの定義や着眼も変わってくるはずだ。近現代の体制が動揺し、AIのような新技術が台頭していく2020年代においては、こうした見極めの上手い下手がきわめて重要になってくるだろう。
 
私の人生の砂時計はもう午後3時半ぐらいになってしまった。この年齢になってもなお、私が社会や時代を知り生きづらさの変遷を追いかけているのは、自分自身(や自分にかかわりのある人)の社会適応を追いかけることとなおも半分ぐらいは同義だ。前者を追究することは、後者を追求することと矛盾しない。未来の人間像や生きづらさを予感することは、未来を生きやすくする準備の材料ともなる。私は今でもそういうものが知りたいし、そういうものを知ることをとおしてこれからの人間とこれからの自分自身についてもっとわかりたい。今日は、そうしたことをふと書いてみたくなったので、書きました。
 
 

私にとって読書とはゲームだった!──『本とは何か』感想文2

 
 
昨日書いた難波優輝『本とは何か』の読書感想文の続き……というより、こちらが本体にあたります。
 
 
1995年頃、のちに有名になっていく『エースコンバット』シリーズの前身にあたる『エアーコンバット22』という大型筐体の空戦ゲームを毎日遊んでいた時期があった。戦闘機でイライラ棒や火の輪くぐりをさせられる『エースコンバット』とは違って、この『エアーコンバット22』では自由に大空を飛び回って好きなプレイをやって構わない。
 
そこはそれ、アーケードゲームだから難易度は高く、はじめは戦闘機を真っ直ぐ飛ばすのも難しい。けれども慣れてきて、ゲーム内のノルマを楽々とこなせる頃には大空が自由だったと気づく。医学部の勉強が一番きつかった時期だったから、この、『エアーコンバット22』をプレイする一日30分がかけがえのない自由時間だった。
 
『本とは何か』を読んでいて私がたびたび思い出したのは、こういう自由で気ままなゲーム体験だ。
 
 

アトラクション性の高い/低い本、アトラクション性の高い/低いゲーム

 
著者である難波さんは『本とは何か』のなかで、狭義の本"らしさ"を規定する要素として「アトラクション性の高い本/低い本」を紹介している。「アトラクション性の低い本」とは著者によるナビゲートやコントロールが甘いとも言えるし、読書体験の内実や読者が受け取るものが厳密に定まっていない本とも言える。「読者サイドの受け取り方の自由度が高い本」、とも言えるかもしれない。
 
アトラクション性の高低にまつわる同書の議論を読んでいて私の脳裏をたびたびよぎったのは、「そういえばゲームの世界にもアトラクション性の高低がある」ということ、そして「私はアトラクション性の低いゲームがずっと好きだったな」ということだった。冒頭で触れた『エアーコンバット22』も、アトラクション性が高いように見えて本当はアトラクション性が低いゲームの一例といえる。
 
 
私は子ども時代から、『本とは何か』風にいえばアトラクション性の低いゲーム、あるいはゲーム制作陣によるナビゲートやコントロールが甘かったり、ゲームの盤上でプレイヤーをほったらかしにしてくれるゲームが好きだった。
 
そういう気持ちのスタート地点はたぶんゲームウォッチに由来している。ファミコンこと『ファミリーコンピュータ』が登場する前、1980年頃にはゲームウォッチが流行していたが、ゲームウォッチのゲームはプレイヤーキャラクターの動きもリアクションも数パターンしかないことが多く、その数パターンという枠組みのなかでしかプレイヤーは動けなかった。たとえばゲームウォッチ版『ドンキーコング』では、ドンキーが落としてくる樽をジャンプして回避できる場所が4か所しかない。対してファミコン版の『ドンキーコング』*1では、どこでもジャンプして樽を躱して構わない。
 
ゲームウォッチ版とファミコン版の『ドンキーコング』の違いはハードウェアの制約によるもので、前者に対してゲーム制作陣がナビゲートやコントロールを厳しくしようと画策した結果ではない。けれどもゲーム小僧の私には、ファミコン版の『ドンキーコング』がずっと自由度の高いゲームとして体感された。これは『マリオブラザーズ』や『アイスクライマー』といったファミコン初期のゲームにもおおむね当てはまる。この時期のハドソンのファミコンゲーム、『ロードランナー』や『ナッツ&ミルク』にはエディタ機能もついていて、それもゲームの自由度に貢献していた。
 
『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』が流行してきた頃も、私は自由度の高いゲームを高く評価しがちだった。私にとって理想のドラクエはもちろんファミコン版『ドラゴンクエスト3』だ。船を手に入れてからの自由度が高く、職業選択やパーティー編成も好きなようにやらせてくれる。そのうえで、ファミコン版には素晴らしいバグがあった:そのバグを利用すれば、ゲーム制作陣が想定していないさまざまな遊びが可能になり、めちゃくちゃなゲームプレイへの道が拓ける。『ファイナルファンタジー2』も忘れられない。熟練度システムは不評な人には不評だったが、これも破天荒なキャラクターメイキングを可能にしてくれる。また、『ファイナルファンタジー2』はゲーム開始直後から割とどこまででも歩いていけるので、とてつもなく強いアイテムを売っている街やとてつもなく強い敵にアクセスできてしまうめちゃくちゃさがあった。
 
『ファミ通』のかわりに『ゲーメスト』を読む年齢になり、主な遊び場がゲーセンに移っても私のこういう感覚は変わらなかった。この頃の私はアーケードゲーム至上主義者だったので、映画のような演出をダラダラとみせ、プレイヤーに一本道を歩かせるような、そういう日本産のロールプレイングゲームを「エンターテインメント」と呼んで敬遠していた。*2『バトルガレッガ』や『怒首領蜂』といったシューティングゲームに夢中だった頃の私にとって良いシューティングゲームとは、解法や体験が複数存在して構わないシューティングゲーム、ラスボスを倒すまでの間にプレイヤーがどんな風景を見ても構わず、プレイヤーの技量や得手不得手によって違った風景が見えるシューティングゲームだった。あるいは上達するにつれて見える風景が変わっていくシューティングゲームでもあった。
 
 

 
たとえば『斑鳩』。
『斑鳩』では敵の出現パターンが事前に・完全に決まっている。一見、ものすごく不自由で窮屈なゲームに見えるが、その楽譜のごとき進行のなかでプレイヤーがどのように行動し、どのように攻略するかはプレイヤー自身に委ねられていて、自由度が無いようにみえて実はかなり高い。ために、『斑鳩』がゲーセンで稼働していた頃は、いろいろな攻略パターンでプレイするさまざまなプレイヤーを見かけることができた。正解をガチガチになぞらなければならないゲームのように見えて実はそうではないから、『斑鳩』は私にとって特別なシューティングゲームであり続けているし、(私にとって)よくできたシューティングゲームとは多かれ少なかれそのようなものだ。
 
 
仕事を始め、PCゲームを遊ぶ割合が増え始めた21世紀以降は、私のゲームプレイの中心は『シヴィライゼーション』シリーズのような海外産ゲームへ移っていく。ゲームの盤面と力任せなゲームエンジンが与えられているだけで、ゲーム制作陣によるナビゲートやコントロールが少なめに抑えらえているような*3、自由度がバカ高いゲームが私の新しい遊び場になった。
 
 

 
 
上掲スクショは宇宙金儲け?ゲーム『エリートデンジャラス』で地球まで遊びに行った時のものだ。このゲームには倒すべきラスボスも、目指すべきエンディングも、プレイヤーなら必ずみておくべき見所も存在しない。物理エンジンがあり、とてつもなく広い銀河が舞台として用意されている。プレイヤーはそこで宇宙商人をやっても観光業者をやっても採掘業者をやっても深宇宙探索者をやっても構わない。それから以前も書いたが、『エリートデンジャラス』というゲームは自分自身の宇宙ごっこ遊びに入っていくための触媒みたいなものなので、ゲームプレイの自由度が高いだけでなく、ゲームプレイの想像の自由度も高い。というより想像力や妄想力が足りない人にはそんなに楽しくないゲームですらある。
 
『本とは何か』に登場するメディアとの比較でいえば、『エリートデンジャラス』はマンガのちょうど正反対をいっているし、実は人文書にかなり近いと思う。悪く言えばプレイヤーに何を遊ばせたいのかがよくわからないゲームだし、良く言えばプレイヤーが何を遊んで何を受け取ったって構わないゲームだ。
 
それから『skyrim』『Fallout4』といったベセスダのゲームがある。これらはまだいくらか、プレイヤーに何を遊ばせたいのかが示されているほうだ。が、広大な世界で自由気ままに遊べること、何をしたって構わないことが私にとってかけがえのないポイントだった。『oblivion』をはじめ、こういう趣向の作品はそれ以前にもあったけれども、ゲームコンセプトがプレイラビリティやグラフィックの美しさ等にきっちりと支えられ、「大ヒットするほどの完成度」にまで昇華されたのは、やっぱりこれらの作品あたりからだと思う。switchのゲームでは『ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド』がコンセプトとしてはこれらに近い。
 
こういう話をする時にどうしても触れておかなければならない作品がある。『マインクラフト』だ。『マインクラフト』も、エンダードラゴンという一応のラスボスらしきものは存在するけど、たいていのプレイヤーはエンダードラゴンを倒すための地道な冒険物語としてではなく、もっと自分勝手に『マインクラフト』を遊んだと思う。そして『マインクラフト』にはたくさんのmodが存在し、数えきれないほどのプレイ動画も存在する。マインクラフトをプレイするだけでなく、マインクラフトをいじること、マインクラフトを二次創作すること、マインクラフトを動画視聴することにまでこの作品は広がっていて、「マインクラフトを楽しんでいます」という人それぞれの体験は全く違っている。
 
私自身はリアルタイムで知らないけれども、いわゆる教養主義の時代には、難しい人文書を読み書きする人とその実況番組・実況雑誌などが多くの人に楽しまれていたという。その風景は案外『マインクラフト』を巡る近年の状況に似ていたんじゃないのかな、と思ったりする。自分勝手に人文書を読む人がいて、人文書を二次創作する人がいて、人文書を実況する人がいて……という状況があったとしたら、それは『マインクラフト』を巡る状況の人文書バージョンみたいな感じだったのかもしれない。
 
 

自由度の高いゲームから自由度の高い読書へ

 
そろそろ『本とは何か』に帰ろう。
 
私は自分自身をゲーオタ(ゲームオタク)だと自認していて、「最近は本ばかり読んでいてゲーオタ功夫が萎えて良くない」みたいなことを考えていたが、案外、本をとおしてゲームに近いエッセンスを吸収していたらしい。私はゲームをプレイするのと変わらない姿勢で読書をし、『マインクラフト』などのmodを作るように本を書いているのだと私は気づいた。私は「私にとって読書とはゲームだった」と『本とは何か』に教えていただいた。
 
私はゲームが好きで、その次にアニメが好きで、実はマンガが苦手である。
もちろんマンガが読めないわけではない。読むことだってあるし、魅了されたり感動したりした回数は数えきれない。ただ、私はマンガを読むとたちまち疲れてしまうのでたくさんは読めないし、普段はなるべく読まずに済ませるようにしている。
 
その理由もわかった気がした。私はアトラクション性の高い娯楽、製作者によるナビゲートやコントロールの強い娯楽が全体的に苦手なのだ。同様の理由で、映画もあまり得意ではない。アニメは比較的ホットなメディア*4のためか、それとも制作陣によるナビゲートやコントロールがそこまでタイトでないためか、映画に比べればまだいけるほうだけど、かといってアニオタ諸氏ほど熱心にアニメを追いかけられる自信はまるでない。
 
その点、人文書の自由度は私が愛してきたゲームたちに似ている。
まあ、何かが書いてある。著者の論旨がしっかり記されていることもあるし、相対的にナビゲートやコントロールが旨い著者だっている。とはいえ、人文書は自分勝手に読むものだと私は思っているし、『本とは何か』のなかで難波さんがおっしゃるように読むたびに「ざっとわかる」を更新していくもの、自己都合によってその本から受け取る「わかったこと」が変わってくるものでもある。
 

 
私にとって人文書の入り口に相当する『消費社会の神話と構造』も、00年代に読んだ時と、10年代に読んだ時と、20年代に読んだ時では「ざっとわかる」「わかったこと」の内容がぜんぜん違う。00年代の時の「ざっとわかる」では読み取れなかった文脈が、後になるほど読み取れる感覚は、よくできた自由度の高いゲームを二回目、三回目と再プレイする時の感覚に似ている。優れた人文書は、こういう「何度でも『ざっとわかる』を積み重ね可能でいつまでも飽きない」感じだ*5。だから10年後に『消費社会の神話と構造』を私が再読したとしても、他所から仕入れた知識や経験に照らしたまったく新しい「ざっとわかる」が体験できると信じて疑わない。好きな人文書のあいだをぐるぐると回遊して、図書館や書店に出かけてときどき新しい仲間を本棚に加えている限り、無限に自由度の高いゲームがプレイし続けられるようなものだ。
 
私の場合は、ゲーム体験そのものがそういう人文書の無限回遊を助けてくれている一面もある。
 

 
『シヴィライゼーション』や『ヨーロッパユニバーサリス』シリーズは、私が人文書を読むきっかけになると同時に、人文書を読む際に知っておくと便利な知識をたくさん授けてくれた。それらのゲームはルイス・マンフォードの『技術と文明』やノルベルト・エリアス『文明化の過程』を読む解説書に似た効果を授けてくれたし、特に『ヨーロッパユニバーサリス』はヨーロッパのこまごまとした地域名や都市名、15~19世紀にヨーロッパで起こった出来事や交易路の概要、等々を暗記させてくれ、通常の読書では得難い形態の知識を与えてくれた。そういったことも含め、気が付けば、ゲームで楽しんでいた自由で気ままな散策が、そのまま読書に、ひいては書店めぐりや図書館めぐりに接続していったのだと私は知った。
 
 

modや二次創作を作る気持ちで本を書く

 
でもって、そうした無限に自由度の高いゲームをプレイし続けるような読書の帰結が「本を書くこと」なんだと思う。
 
誰にもナビゲートされず、誰にもコントロールされない読書を続けていると、誰にもコントロールされない本を書きたくなる。ある意味、ブログだってそうした楽しみの一部だ。たとえば今回のこの「私にとって読書とはゲームだった!」なんてこれっぽっちも商業的ではないけれど、こういう自分勝手な文章を書きたくなるじゃないですかあ。
 

 
そうした自由な読書の結果として自由な思考が生まれ、本と本、 report と report をまるで『マインクラフト』の二次創作modのように綴じて繋ぎあわせた結果、拙著『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』や『人間はどこまで家畜か』ができあがった。もちろん商業出版だから、そこはそれ、編集者の方のお力添えで売り物になるようまとめていただいたけれども、これらには私の自由きままな読書の、ひいてはゲーム的読書体験の色彩がものすごく残っている。
 
せっかくだからエッセイ『ないものとされた世代のわたしたち』も。この本は誰が想定読者なのかが不明瞭だけど、それだけに、私が読者をナビゲートしたりコントロールしたりする度合いは低いと思う。私のことをよく知っている人に言わせれば、「p_shirokumaのいちばんいい本」なんだそうだ。
 
商業出版という制度のなかで、どこまでナビゲートやコントロールを意識し、読者に提供するアトラクション性を優先させるべきかは議論の対象になるところだろう。もちろん、ジャンルや媒体やレーベルによってもそれは違ってくる。でも、そういうことは編集者にある程度委ねておけばいいし、ジャンルやレーベルといった制度のなかで何かできるのかを考え、競うのもそれはそれでゲーム的だよねと私などは思う。
 
私の記憶違いでなければ、難波さんはどこかで「なんでもかんでもゲーミフィケーションするのは良くないんじゃないか」みたいなことを書いていた記憶もある。でも、私は難波さんよりゲーム寄りの人生を歩んできたし、寝言でもゲームゲームって言っているような人間なので、『本とは何か』を読んでかたちづくられる読書パフォーマンスがゲームの色彩を帯びるのは仕方のないことだと思う。それってゲームがルーツじゃない人には意外に思えるかもしれないし、人文書を読むという出来事がもたらす作用の一例として難波さんにも知らせてみたくなったので、これを書いてみました。
 
 
 
どうやら私にとって、本、特に人文書のたぐいは自由度の高いゲームと地続きの何かみたいで、そうですね……「ゲーム感覚で」付き合ってニコニコするものみたいです。
 
 
追記:「自分勝手に読む」という言葉を連呼しているけれども、ちょうどシューティングゲームやシミュレーションゲームに定石があるのと同じように、各分野の本を読むにも定石があり、あくまでそれを意識しながら読む(意識できない場合、意識できない度合いに応じて読み落としや誤解が生じるリスクが高いことを承知のうえで読む)ってことを含みます。ゲームもそうですが、書籍も、まずは書かれていることが土台で、ジャンルやレーベルなどに応じて読解の筋や構えがあることも踏まえたうえでの「自分勝手に読む」だと思ってやってください。
 ※難波さんの新著『本とは何か』はこちらになります!
 
 

*1:ステージ1

*2:ロールプレイングゲームならせめてマルチエンディングにしてくれよ、とも思った。

*3:無用なプレイ時間を短縮可能な"ダンジョンの帰り道"を案内するようなものを除いて

*4:注:マクルーハンのいうホットなメディア

*5:ちなみに私は優れた小説もそのようなものだと思っている

アトラクション性から本について考える──『本とは何か』

 
今夜は難波優輝『本とは何か』の読書感想文をやってみる。
 
 

 
 
その理由は、「私にとって読書はゲームだった」という文章が書きたくなり、その文章の前座として読書感想文がどうしても必要だからだ。
 
 

『本とは何か』のあらまし

 
これは、若き美学者の難波優輝さんが書き、6月に新潮新書からリリースされた本である。難波さんの前著『批判的日常美学について』が面白くて信濃毎日新聞の書評記事に採用したのだけど、この本も面白く、というよりこの本はそれより面白く、けれども二回連続で書評に回すことはできないのでブログに回すことにした。せっかく個人のブログなので、今日の文章も明日も文章も、私自身に引き寄せた感想として書いてみる。
 
はじめに、本書のあらましについて。
 
『本とは何か』という大きなタイトルが示唆しているように、この本は、本とは何かに加えて読書体験とは何か、良い読書体験とは何か、本を読むという言葉の定義はどこまで有効か(たとえば自己啓発書や楽譜やマンガは本と呼べるのか、もし本と呼びたくない理由がどこかにあるとしたら、それは何なのか)といったことをざっくばらんに考えてみる本だ。読書という日常に溶け込んでいる行為を、易しい言葉で、しかし人文の人らしい視点で解体しては組み立てていく著者の手つきが気持ち良い。
 
読書をする理由はいろいろあって構わない。知識を身に付けたいとか、SNSでマウントする武器が欲しいとか、背景となる欲求はいろいろだろうけど、たとえばこうした著者の手つき、著者の思考の軌跡をなぞること自体が楽しい・気持ち良いということだってあるように思う。
 
『本とは何か』に登場する自己啓発書についての解説からも、本を読む理由や動機がさまざまであると推察される。
自己啓発書で本気で啓発されたい人もいるかもしれないが、別にそうじゃなくても自己啓発書は楽しい、と難波さんは述べる。「自己啓発書は、仮面ライダーの変身ベルトみたいなものである」──つまり自己啓発書には「変身願望を楽しむグッズ」といった側面があるじゃないかとおっしゃるわけだ。なんなら自己啓発書の内容が成就しないほうが楽しいまである。自己啓発書の著者の言い分や言い方に乗せられるまま、ひとときかもしれないがビジネスが上手になった私や整理整頓が上手になった私を夢想する。それは、どことなくアトラクションのような楽しみだ。
 
難波さんによれば、マンガはこうしたアトラクション性がこれがもっと極端になったメディアだという。絵やキャラクターはもちろん、吹き出しやコマわりや効果線なども巧みに用い、マンガは構成によっても読者を(作者の)狙いどおりのアトラクションへといざなう。読者のアテンションをコントロールしたりナビゲートしたりする力が、マンガにおいては通常の本を大きく上回っている。これが、マンガというメディアの長所であり、短所とも言えるかもしれない。
 
そうした自己啓発書やマンガばかりでなく、小説、人文書、楽譜、雑誌といった、さまざまな「読む」メディアについて、本書はこのアトラクション的な機能が強いか弱いかを中心軸として論じたり比較したりしていく。たとえば人文書には難読書も多いが、それをどう読んで何を受け取るのかに関しては比較的自由、または読者によって読後感がばらばらになりやすいメディアとして紹介されている。同じく楽譜や料理レシピも、表向きは「書いてあるとおりに」やらなければならないように見えて、どう読むかに関しては自由になりやすいメディアとして紹介されている。
 
楽譜に関しては、演奏者の異なるベートーヴェン『月光』を聴いたり、過去の有名な歌手の作品のカバー曲を聴いたりすると想像しやすいだろう。同じ楽譜の曲でも解釈や演奏には幅があるし、演奏者や指揮者が編曲することだってある。料理レシピも、レシピ自体は守られていても材料の違い、コンロの火力の違い、わずかな動作の違い等々によってできあがる料理にはばらつきが生じるし、そこがまた面白い。
 
難波さんは本書のなかで「読書パフォーマンス」という言葉を用いてこれらについて述べている。読書パフォーマンスとは、どう読むか、どんな風に読むのか、読んで何を受け取り、何を思い、どんな結果が招来するのか、みたいなものだ。読書パフォーマンスのばらつき具合や効能はメディアによっても違うし個人によっても違う。同じ個人でも2006年にある本を読むのと、2026年にある本を読むのでは読書パフォーマンスはきっと何か違っているに違いない。
 
私はこの「読書パフォーマンス」を「読書ライブ」と勝手に読み替えてずっと読み続けてきたが、後半に楽譜が登場し、我が意を得たりと感じた。とにかく、「読む」メディアによって体験の質が変わり、読んでいる間に本と読者の間で起こる出来事も変わる点をこの本は細かく教えてくれる。のみならず、「読む」メディアが空間や時間とどうかかわるのかといった、もっと違った視点からの分析もあってこれも面白い。たとえば雑誌という「読む」メディアについての説明はすっかり感心してしまった。たぶん私は、これから雑誌を今までとは違った風に眺めるようになるだろう。
 
「本を読むときに何が起こっているのか」とか「読書体験っていったい何なのか」と考えたことのある人には勧められる本だと思う。読みやすく、それでいてムムムと考えさせられることが記されているのは、今までの難波さんの著書と同じだから、期待は裏切られないだろう。
 
 

『本とは何か』のアトラクション機能

 
ところで、この本は人文書に分類されるのだろうか? いや、これは新潮新書から出版されているから第一に新書なのだろう。だからかもしれないが、本書を読んでいる最中、私は何度も「オレは今、難波さんの掌の上を転がされているのではないか?」と感じることがあった。『本とは何か』に記されている内容どおりに考えるなら、この本は、マンガや自己啓発書ほどではないかもしれないが、読者のコントロールやナビゲートがうまい本ではないかと思う。
 
どういうことか。
たとえば私が『本とは何か』を読んでいる最中、私は「いや、だけどわからない本とか読みたくないでしょ?」とか「それって、別に全部わからなくったっていいじゃん、そのときの自分にとっての『仮にわかる』にとりあえずたどり着くことが大事じゃーん」とか思いながら読んでいると、数ページ後には難波さんならではの表現でだが、それがきっちり書いてあるのである。こうしたことが、自己啓発書の章でも、楽譜の章でも、本棚の章でも繰り返されるものだから、まるで『三国志演義』の孔明の罠みたいだ、と思ったりもした。私は読書に際して筆者が書いてないことを考えたりあらさがしをしたりするのが大好きなので、難波さんが書いてないかもしれない事柄を脳内で巡らせながらニヤニヤしていたのだが、そうすると難波さんがゴールキーパーのように、またはカラカラと笑う諸葛孔明のように待ち構えているのである。
 
喧嘩腰で読書するのが大好きな人、筆者を論破してやりたいと思っている人にも『本とは何か』はぜひともお勧めしてみたい。その場合は、ゴールキーパー難波、諸葛難波の防御力をご堪能あれ! もう少し真面目に言い換えるなら、それだけ難波さんが穴がないように手広く論じているってことだし、それだけ読者のコントロールやナビゲートが巧みである、ということでもあろう。一冊の本を(東京ディズニーランドの)『ビッグサンダーマウンテン』のようなアトラクションとしてみるなら、これも長所である。著者の掌の上で転がされてコロコロするのも楽しいものである。
 
そして、それはそのまま書き手としての難波さんの巧さや長所でもある。そして難波さんご自身はたぶん自覚的だと思うのだけど、短所でもあるかもしれない。『本とは何か』にも書かれていることだが、たとえば新潮新書というレーベルは制度そのものである。その制度に忠実に記すなら、『本とは何か』という作品は(メタに考えるなら)アトラクティブでなければならないのかもしれない。だからこれは、難波さんの性質ではなく新潮新書という制度の性質である可能性もある。というかその可能性は高いと思う。
 
私はまだ、難波さんが記した十分にぼんやりとした書籍、十分に自由な書籍には出会えていない気がする。書き手としての難波さんをこれから私が追いかけていくとしたら、そこが出てくるのか・出てこないのか・出せるのか・出せないのか、みていきたいなーと思ったりもする。
 
が、それはさておき、本を読むということに関心のある人にはきっと刺さる本だと思うので、読んでみるのは大アリだと思う。我こそは読書家だと思う人は、道場破りする気持ちでこの本を手にするのも良い。そういう読み方でも、きっと楽しい。
 
 
※この文章はここまでです。
 これは、"私にとって読書はゲームだった──『本とは何か』2"の前座にあたります。続きはこちらです。


明日の更新も良かったら読んでください。
 

「あいつらの梅仕事は自由趣味、おれらの梅仕事は必要趣味」

 
 
梅仕事、梅干しを漬けたりする作業って、世田谷区に住むお金持ちがやったら卓越性ディスプレイになる「自由趣味」だけど、田舎に住む人間がやる場合は生活に密着した「必要趣味」になるんですよね。表向きは同じ梅干しをつける・梅酒をつくるという行為や楽しみでも、誰がやるか、どうやるかによって意味合いはぜんぜん違ってきます。
 
なお、この話は6月25日に私が書いた「ていねいな暮らしという規範」と、階級・階層の問題」というブログ文章についてはてなブックマークのなかに、梅仕事に言及している人が思いのほかたくさんいたことを意識しながら書きました。
 
 

梅干しを漬ける理由は立場によって違う

 
人はなぜ、梅仕事をするのでしょうか?
その表向きの答えは、「梅酒や梅干しなどを食するため」となるでしょう*1
 
私が子どもだった昭和時代の田舎では、6月になるとどこの家庭でも梅干しを漬けたし、梅の収穫を手伝ったりもしました。私は梅干しが苦手だったので積極的には食べませんでしたが、梅干しのための収穫、梅干しをつくるイベントはけっこう楽しみにしていました。でも、大人にとって梅干しを漬ける意味は違ったと思うんです。もちろん、それはそれでささやかな楽しみのひとつではあったでしょう。でも、梅干しを漬ければ梅干しをわざわざ買わなくて済むし、お金を浮かせることもできます。貧乏な家でもアクセス可能なささやかなおかずの足しとして、梅と梅干しというアイテムが望まれていたと理解すべきものでしょうし、それは生活習慣や地域の常識にも根ざしたものでした。同じことは、長野県における野沢菜漬けや山菜採りにも言えます*2
 
でも、昨今の「ていねいな暮らし」の一環として梅干しを漬けるのはそうじゃないですよね。
世田谷区や港区に住んでいるお金持ちの人にとって、6月に梅干しを漬けるのはやってもやらなくても本当は構わないことです。本当においしい梅干しが食べたいだけなら、成城石井あたりに行って来ればよろしい。単に梅干しが必要なだけなら、イオンやまいばすけっとに行って来れば済むんですよ。都内の年収の高いご家庭にとって、最も経済的で生産的な選択は、梅仕事をすることではありません。もっとたくさん働いて給与所得や事業所得や配当所得を増やし、そのお金で梅干しを買うことです。
 
ですから「ていねいな暮らし」としての梅仕事には「やってもやらなくてもいい」がゆえに「能動的・主体的」な部分があります。わざわざそんなことをしなくったって生活に差し支えないし、むしろ、やらないほうが楽でコスパやタイパもいいはずなのに、それをわざわざやっている一面があります。田舎の貧乏な家がささやかなおかずの足しとして梅干しを漬けるのとは、ぜんぜん意味合いが違っていると言わざるを得ません。
 
 

ブルデューはそれを、(カントのいう)自由趣味、ひいては支配階級の趣味と呼ぶだろう

 

生活の必要性に迫られてつくる昭和の田舎者の梅干しと、「ていねいな暮らし」の一環として能動的・主体的につくる令和の都会者の梅干し。
 
これらは全く意味の異なった行為で、後者はカントの述べる自由趣味や純粋趣味にあたると思います。この分野に詳しい社会学者のブルデューなら、たぶんそう言います。
 

 
"必要性にたいする、またそのなかに閉じこめられた人々にたいする客観的な距離は、見せびらかすことによって自由を倍加するような意図的な距離設定をともなう。必要性への客観的な距離が大きくなるにつれて、生活様式はますますウェーバーが「生活の様式化」と呼んでいるもの、すなわちワインなどの製造年代やチーズの選択、田舎の別荘の室内装飾といった、ありとあらゆる慣習行動を方向づけ組織だててゆく一貫した方針の産物に、なってゆくのである。必要性を克服し支配する力の肯定であるこの意味での生活様式は、無償の贅沢やこれ見よがしの浪費に見られるところの、こまごまとしたことがらをこうして軽視する態度を是認できない人々、そしてそれゆえに日常的利害や差し迫った必要に支配されている人々、そんな人々にたいして正当な優越性をもちたいというもくろみ[プレタンシオン]をつねに含んでいる。このような自由趣味goût de la libertéは、必要性から生じたがゆえに美学の次元へと向かおうとする、したがって通俗的なものとして形成された必要趣味goût de nécessitéとの比較において、はじめて自由趣味として現れることができるものなのだ。"
ブルデュー『ディスタンクシオン I』P99 より抜粋

必要性を克服し、支配する力の肯定。
 
 
自由趣味としての梅干しに漬けついて言えば、それはイオンやまいばすけっとで購入しなければならない必要性を克服していること、それだけのゆとりがあるという卓越性のディスプレイとして機能します。やってもやらなくても構わないことをやってのけられること、コスパやタイパに汲々とすることなく「ていねいな暮らし」なるものに邁進するってのは確かにひとつの力に違いありません。イオンやまいばすけっとで梅干しを買うしかない人、もう少し背伸びして成城石井で梅干しを買えるぐらいの人の「生活にとらわれている」感をよそに、本当はやってもやらなくても構わないことに心血を注ぎ、「ていねいな暮らし」の一環として梅干しを漬ける。ブルデューの『ディスタンクシオン』においては、こうした趣味生活は支配階級のよくするもの、特に文化貴族がよくするものとみなされていました。そのうえでブルデューは、それがカントが『判断力批判』のなかで自由趣味とか純粋趣味と呼んでいるものと対応していることを指摘しています。
 
対照的に、私たちの田舎でこの時期に行われた梅干しづくりは、そうしないと梅干しにアクセスできないからだったり、そうすれば梅干し代を節約できることに根差しています。それで、店売りに比べて劣った梅干しを漬けている家もあったりする。信州の野沢菜づくりもそうだと思います。野沢菜漬けは「やってもやらなくてもいい」ことではなく、「やらなきゃ冬が越せない」ようなことでした。これは、カントを引用したブルデューの分類でいえば必要趣味とか野蛮趣味に属するものと指摘されるでしょう。
 
もちろん、「ていねいな暮らし」を実現すれば成城石井や三越で売られている梅干しよりもずっとおいしい梅干しが入手できると心の底から信じている都会人の場合、梅干しを漬けるという行為にもなんらか必要趣味的な側面があると理論上は強弁できるでしょう。「わたしのつくった世界でいちばんおいしい梅干しを食べるには、わたしみずから梅干しを漬けるしかない」、みたいな。でも、生産性の論理やノウハウの蓄積といったことを踏まえるなら、都会人が「ていねいな暮らし」と称して梅干しを漬け、それで成城石井や三越で売られている梅干しを味やクオリティで凌駕するなんて考えられません。おいしい梅干しを入手したいだけなら、駅前まで出かけたほうがタイパはもちろん、コスパもずっと良いのです。なんなら紀州から特上品をネット通販したって構わないでしょう。
 
都会人はタイパやコスパに敏感至極な人々ですから、当然そのことをほとんどの人が知っているはず。知ったうえでわざわざやっているってことは、これは自由趣味にあたり、その梅干しをつくるという営みの動機や目的や効果は(必要に迫られて梅干しをつくっていた田舎者のそれとは)異なっていますよね?
 
ですから、都会に住んでいる人が語る「梅仕事をしていますから」という言葉のなかにはゆとりや能動性・主体性に関する支配階級仕草があるといえます。そういうことを言ったりやったりする人々が正真正銘の支配階級(ブルジョワや文化貴族)と言えるのかはわかりません。なぜならプチブルはいつだって、ブルジョワの真似事が大好きだからです。とはいえ、「ていねいな暮らし」としての梅干し漬けは、ブルデューの時代なら支配階級が悠々とやってのけたことと共通点は大きいし、それがもたらす社会的効果や心理的効果も似たようなものでしょう。*3
 
 

卓越性のディスプレイは少なくとも自分自身には着実に効く

 
なお、こうした支配階級仕草、自由趣味っぽい卓越性のディスプレイを見た時、周囲の人々がそれを卓越性として実際に認めてくれるのか、逆に反発を感じたりなんとも思わなかったりするのかはケースバイケースでしょう。
 
でも、確実に獲得できるものもあります。それは、「ていねいな暮らし&自由趣味をとおしての卓越性のディスプレイは、他人に対してだけでなく、自分自身に対して有効」ってところです。これはブルデューというよりボードリヤール『消費社会の神話と構造』あたりを思い出しながら言っちゃうことですが……自由趣味的な卓越性のディスプレイに限らず、そのほかの卓越性のディスプレイも含めて、うぬぼれることだけは確実にできるんです。ですから社会的効果が不十分でも心理的効果が得られる目途は立つわけで、「ていねいな暮らし」はけっして無意味でなく、いつも最低限の有意味さを有している、ということはできるでしょう。
  
 

ブルデューはカントに気を許していない

 
あと、これも付け加えておきたいので付け加えておきますが。
 
ブルデューがカントの『判断力批判』をリファレンスしながら自由趣味という言葉を用いる時、ブルデューはカントにまったく気を許していないし、支配階級の自由趣味、たとえば「ていねいな暮らし」的なものを賛美すべきものとして書いているわけでもありません。彼の文章は全方位・全階級に冷たい目線を向けていて、ときに、読む人すべてに喧嘩を売っているようにみえるかもしれません。
 
それでも。
 
それでも ブルデューの『ディスタンクシオン』には、そういう支配階級のありかたや卓越性のディスプレイとしての「ていねいな暮らし」、ひいてはカント的な判断基準に対し、こみあげてくるような怒りが感じられる瞬間が数百ページに一度ぐらいあると、私は感じています。ブルデューは、こうした卓越性のディスプレイにまつわる人間世界の力学やメカニズムを「象徴闘争」という概念でまとめた社会学者ではありますが、そういう力学やメカニズムを手放しで肯定しているようにはまったく思えません。
 
そうした怒りや思いは私も共有しているつもりです。お金持ちが梅干しを漬けたら自由趣味で卓越していて、貧乏人が梅干しを漬けたら必要趣味で野蛮趣味ってのは、構図としては理解できても釈然としないものがあります。でも、どうやら人間社会の文化的側面はそんな風にまわっているみたいなので、私としてはまず勉強を重ねて、もっと理解を深めたいと願っています。田舎からは、以上です。
 
 

*1:ここからは、話を短くまとめるために特に梅干しを漬ける行為を中心にしゃべっていきますね

*2:山菜は「自分の山に生えているんだから、もったいないから取る」って感じです。キノコや自然薯もそう

*3:こうしたブルデューの分析を思い出しながら私が6月25日に書いた「「ていねいな暮らし」には階級・階層の問題がある」という文章につけられた「私は梅仕事を楽しんでいます」的なコメントを読み返すと、まあその、降参するしかありませんね。