そういえば、日本の精神医療では頻出ワードだけれど世間ではあまり知られていない「状態像」について、ちょっと資料づくりしたくなったので、はてなの有料記事スペースを使ってできるだけ簡潔にまとめてみようと思います。常連読者の方以外が読むものではないし、常連読者の方も興味関心をそそらない話題かもしれないので、スルーでいいんじゃないかな、と思っております。
無礼にならずに「なめる/なめられる」から降りるのは難しい
p-shirokuma.hatenadiary.com
昨日の「なめる/なめられる」についての雑談は多くの人に読んでいただき、はてなブックマーク等で多くのコメントをいただき、勉強になりました。ただ、そこを眺めていて「なめる/なめられる」の構図から降りていると言っている人、自分は他人をなめることがないと言っている人も少なくなく、考え込んでしまった。
「そんなに簡単なものだろうか」、と。
まずはじめに断っておくと、「なめる/なめられる」が遅れた風習でしかない、と考えるのは間違いだ、と私は思う。
「ブラックで」「遅れた」場所にだけなめる/なめられるがあると思うのは違うと思います。「ホワイトで」「進んだ」場所にもあると思ってかかるべきでしょう。 なめる/なめられるが表出されるかたちが異なるだけで。 たとえば政治的に正しい「なめる/なめられる」もありますよね?しらんけど
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2024年10月29日
いわゆる進んだ文化や共同体、部族においても「なめる/なめられる」は存在し、それに対応する礼儀や礼節のプロトコルが存在する。そもそも、他所の文化や共同体をいとも簡単に遅れているとみなし、そちらには「なめる/なめられる」が存在し、自分たちには存在しないと考えること自体、他所の文化や共同体を、ひいてはそのメンバーをなめている──軽んじたり侮ったりしている──のではないだろうか。
いや、そもそも「なめる/なめられる」の問題はもっと構造的で根源的だ。
たとえばある人が、「私は『なめる/なめられる』の構図から降りていて、他人をなめることがない」と言っていたとする。もしその人が、分け隔てなく色々な人に礼節や礼儀を尽くし、異なる文化・部族の礼節や礼儀にも配慮を怠らない人だとしたら、なるほど、他人をなめることのない人だなと私は理解する。立派な人だ。ただし、その人は、そうして礼節や礼儀を尽くすことをとおして、「なめる/なめられる」の構図を結局は意識している。確かにその人の行いは立派だが、「なめる/なめられる」の構図から自由だとは思えない。むしろ、十分すぎるほどコストを支払ってそこに適応していると言ったほうが似合う。
また、同じことを言っているけれども、礼節や礼儀に無頓着で、異なる文化や部族のそれらにも配慮を怠る人はどうだろう? 意図のうえでは、その人には他人をなめる"つもりはない"かもしれない。しかし、礼節や礼儀に無頓着な人の実態は、無礼者である。たとえば旧twitter(X)やヤフコメのリプライ欄にいきなり登場し、口汚いメンションをばらまいてタイムラインを汚染する人を思い出して欲しい。そういう人がいきなりタイムラインにしゃしゃり出てきて、そういう風に言い放ったら、「この人、私のことなめているんじゃないか」と多くの人は思うのではないだろうか。あるいはインターネット上の異なる文化、異なるクラスタに対していきなり不躾なことを言い放ったら、喧嘩売ってるのかとか、なめてんじゃないかと、多くの人を思わせるのではないだろうか。
で、そうした無礼者でも、当人自身は「自由で」「平等な話し合いを」「希望しているだけだ」と思っていて、そのうえ「だというのに、なぜ人々は私をこんなになめてかかってくるのか?」と思っている人さえ、いるかもしれない。
ここから何が言いたいのかというと、【「なめる/なめられる」が起こりがちな娑婆世界のなかで、その悪影響を回避するためには結局礼節や礼儀を意識しないわけにはいかず、すると結局「なめる/なめられる」の構図から降りることはできないんじゃないの?】ってことだ。
「『なめる/なめられる』を避けるために、職場でもどこでも、他人とは最小限のやりとりしかしない」のが最適と考える人もいるかもしれない。が、これもどうだろう? 全員が最小限の業務連絡しかしないのが最適だと思っているなら、それこそが「なめる/なめられる」を回避する最適解かもしれないが、そんなことはあるまい。文化や部族によっては、それこそが最も人をなめている/なめられていることに当てはまりそうだし、そうでなくても受け止め方には個人差はある。極端なことを言えば、たとえば業務連絡だけに終始し、いっさい相槌も打たず、挨拶すら省く人がいたとしたら、その人は、たぶん色々な人に「あの人、私のことをなめてるんじゃないか」と疑わせてしまうだろう。
個人差や文化・部族による違いをすり合わせるためには、最小限のやりとりではなく、すり合わせのためのコストを費やし、プロセスをやっていくしかない。挨拶をはじめとするプロトコルも必要だろう。もちろん、最小限のやりとりしかしたくない人がなるべくそうできるように、周囲の側がすり合わせる必要性もあると言える。だとしても、そこは周囲の側だけが配慮のコストを費やすべきところではなく、最小限のやりとりしかしたくない人の側も、いくばくかでもコストを費やすべきところでもある。
礼儀や礼節で回る社会に無頓着な人は、無礼をばらまく
現実には、世の中の人のほとんどは礼儀正しくあろうとしている。
巧拙の差はあるにせよ、職場で・学校で・出先でわざわざ無礼を働きたいと思う人はいまい。インターネットコミュニケーションを長く続けている人なら、他人のタイムラインにもの申す際などは、なめられたと思われないような語りかけ方を意識するものだろう。「私は他人をなめない」と言っている人が”本物”なら、いきなり他人のタイムラインを土足で踏みにじったり、自分と異なる文化や部族の人に無知かつ失礼な難癖をつけたりすることは、ないように思われる。
しかし、礼儀や礼節が拙ければそうもいかないし、私たちは完璧ではないから、非礼やボタンの掛け違いだって起こる。だからこそ「すみませんでした」とわびることも含め、意見のすり合わせや譲り合いが大切だし、礼儀や礼節にかけるコストをおろそかにし過ぎてはいけない。そこをおろそかにしている最も極端な例が、SNSにおいて他人のタイムラインに無礼なコメントや不躾なメンションをばらまいているアカウントであって、ああいうのは良くない。
礼儀や礼節は、無料ではない。
精神的なコストを支払いあい、ときには時間的・経済的コストも支払いあい、お互いがお互いのことを尊重しあっている人間関係を維持するために努めあっている。挨拶などもそうだが、およそ人間の暮らすところではどこでも、私たちはお互いに敬意を払いあい、争いを避けるために気を遣ったり汗をかいたり、ときにはお金を支払ったりしている。
しかし、そうしてお互いにお互いを気遣うコストを支払いあっているなかで、その礼儀や礼節にコストをぜんぜん支払わない人がいるとしたら、その人は意図するしないにかかわらず、いろいろな人に「この人、なめているんじゃないか」という印象を与えかねない。
なめる/なめられる についての話 - シロクマの屑籠b.hatena.ne.jpいやだと言ってる人が多いが、社会的な価値を身につけるコストをかけずに人と対等にあろうとする姿勢は逆に人間関係をナメてるとしか思わない。自分も無知無学で言葉遣いもなってないやつとは話したくはないくせに。
2024/10/30 09:27
たとえば全員が敬語を使いあっている場所で、一人だけため口の人がいるとしたら? その人はほとんどの人から「この人はなめてかかっているんじゃないか」と思われるだろう。「私は他人をなめない」と自称している人が、敬語の欠如も含めて礼節や礼儀にコストを支払っていないとしたら、それはもう、礼節や礼儀のフリーライダー、ではないだろうか。
もちろん実地ではそこまで極端な人は珍しい。けれども、礼儀や礼節にコストを支払わないほど・意識を差し向けないほど、こうした印象を周囲に与えやすいかと思う。そのような人が「私は他人をなめない」と言ってみたところで、他人はそうは受け取らない。
礼節や礼儀を欠いていると、「なめる/なめられる」の構図から自由になるどころではなく、むしろ、「なめる/なめられる」の構図のなかの、かなり悪いポジションに陥ると懸念される。
こうしたことを考えていくと、私には、「なめる/なめられる」という構図から自由になることは娑婆世界では無理だと思えてしまう。文化や部族で多少の違いはあるにせよ、全人類が礼儀と礼節を守りあい、それでお互いの面子や沽券を守りあっている以上、人の間で生きていくためには礼儀と礼節にコストをかけないわけにはいかない。ある程度のコストを支払っていてもなお、ときには「今、あの人になめられたのではないか」という誤解が生じることもある。「なめる/なめられる」の構図のすべてが礼儀と礼節に由来している、と主張するつもりはないが、礼儀や礼節を欠いていると、「なめているんじゃないか」と疑わせてしまう確率、相手から無礼者だと思われる確率は一気に高まる。である以上、結局私たちは礼儀や礼節を守って人間社会の輪のなかで生きるほかない。礼儀や礼節を無視した結果、あちこちの人に「あの人は、私をなめている」と思われ、あちこちの人に無礼者と思われて生きるよりは、たとえ不自由でもそっちのほうがマシなんじゃないかというのが私の思うところだ。
最後に少し付け加えると、礼儀や礼節は無料でないだけでなく、社会的格差や不平等に根ざしている部分もある。礼儀や礼節には、ハビトゥス、つまり文化資本としての一面があるし、先天的に礼儀や礼節が守りづらい人やずっと多くの精神的コストを支払わなければならない人はどうなんだ、という問題もある。そうしたことまで書くと、やがて「礼儀や礼節は多数派のためのもの、そしてブルジョワ資本主義的イデオロギーに基づいた階級装置だ!」みたいな言葉が脳裏をよぎるけれども、そうした各論については、今日ここでは書かない。そのあたりは、いつかまたどこかで。
なめる/なめられる についての話
blog.tinect.jp
上掲リンク先の記事は、刺激的なタイトルのためか、はてなブックマークでも喧々諤々の様子になっている。私個人としては、海外でコミュニケーションをする際には、日本の標準的な構えよりも自己主張を強めにするとちょうど良い、逆に、日本の標準的な構えのままでは意思疎通に支障をきたすと思っていたので、外国の人々にまともに相手をしてもらうためには、明確に自分の意見や願望や意志を伝える・表出しないとだめだ、とは思っていた。表出のなかには、もちろん身振り手振りも含まれる。
国内外の違いはさておき、私は、「なめられるか、なめられないか」は社会適応において非常に重要だと思っている。鳩の群れを眺めていると、なめられる鳩はろくなことがなく、やせ細って死んでいく。チンパンジーなども、群れのなかでの順位のために、お互いに無理をしている感がある。であるから、「なめるか、なめられないか」は、社会的生物が生存と繁殖を賭けて競り合うにあたって元々重要な要素だったのではないか……と考えたくなる。
ただし、「どんな人がなめられるのか」「どういうことがなめられるのか」に関しては、文化や社会による修飾をかなり受ける。共同体や部族によっても異なるだろう。たとえば平安貴族がなめられないようにするために必要だったことと、鎌倉武士がなめられないようにするために必要だったことは、共通点もあるが相違点もある。現代でも、新興企業でなめられないために必要なことと、伝統的な日本企業でなめられないために必要なことと、街の中小企業の工場でなめられないために必要なことが同一とは思えない。
そうした[なめる/なめられる]の局地性が、ときには「文学フリマでなめられないようにするために必要なこと」みたいな問題をクローズアップするかもだし、実際、文学フリマでなめられないための条件が世間一般と同一とは思えない。そして文学フリマにもコミケにも、人をなめてかかる人が複数名混じっているのは想像にかたくない。
「なめられたら」まずいこと
なめられているとは、いっぱしとみなされていないこと・軽視されていること・あなどられていることだ。なにをやってもやり返してこないと思われていたり、不平等を押し付けて構わないと思われていたり、搾取できると思われていたりするかもしれない。
かえってそれが望ましい場面がないわけでもない。うつけ者のように振る舞っておき、相手をあなどらせておくことが最適な状況もある。だがそれは例外で、基本的にはなめられていないほうが良いに決まっている。周囲の人間になめられていると、軽んじられ、不平等を押し付けられ、搾取される可能性が高くなる。自己主張はもちろん、業務連絡すらうまく伝わらない・伝えられなくなるやもしれない。
その場合、業務連絡がうまくいかない責があるのはなめている側で、なめられている側ではない。しかし責が誰にあるのであれ、なめられている側にとって大きなハンディになることには変わりない。だから、なめる側が悪いという問題とは別個の命題として、私たちひとりひとりはなめられないに越したことはない。
そのうえ、なめられると心が苦しくなるように人間はできている。なめられると、ストレスに直結する。きっと大昔の人間のうち、なめられてもへっちゃらだった人間は生存も世代再生産も難しい立場に追い込まれ、死に絶えたのだろう。なめられたらストレスを感じ、必死に対処していた人間が生存しやすく、世代再生産もしやすかったから人間はそのような性質を帯びるに至った。ストレスを感じる状況、つまり副腎からコルチゾールやアドレナリンが分泌される状況とは、生存や生殖にかかわるクリティカルな状態が専らだから、なめられたらストレスを感じるということは、なめられることが生存や生殖にとって致命的だったことを示唆している。
また、歴史学のアナール学派の書籍を読むと、"中世ヨーロッパにおいても、なめられるのは死活問題で、だから馬鹿にされたり挑発されたりしたら立ち向かわなければ沽券にかかわった"、と書かれている。
立つ瀬。
沽券。
面子。
これらの言葉が象徴するように、なめられるとは、ストレスをこうむるだけでなく、社会的立場が危うくなる事態でもある。なめられれば、家族を養うための土台を脅かされるかもしれないし、なんなら命を脅かされるかもしれない。飢饉や災害に際しても生き残りにくかっただろう。少なくとも昔はそうだった。それに比べれば、現代社会では沽券や面子が生死に直結するわけではないし、それでいきなり失職するわけでもない。それでも、なめられたたら社会的立場が危うくなる一面はまだ残っている。
たとえば教室や職場でなめられると、ストレスでメンタルヘルスがやられるかもしれないし、自分の主張や利益や立場を守れなくなるかもしれない。逆に考えると、なめるとは、良くないこと・誰かに悪影響を及ぼし得ることだから、人は、おいそれと他人をなめるべきではない。そしてなめないためにも、なめられたと相手に誤解されないためにも、礼節や礼儀が重要になる。
この礼節や礼儀も少し厄介で、それらにはローカルルールがあり、そのローカルルールを知らないと、結果的になめる/なめられないの問題が発生することもあったりする。ときには、ローカルルールを遵守していないことを大義名分とし、攻撃や軽侮を始める人もいる。
とはいえ、できればお互いに礼節や礼儀をおこたらず、相手とすり合わせながら守り合うのが理想なのだと思う。上掲リンク先の話でいえば、外国人観光客は日本の礼節や礼儀をなるべく知っておいたほうが良く、寺院や神社に不敬を働かないのが好ましいと思う。また、日本人が海外渡航した際も、現地で敬われているものには敬意を払い、礼節や礼儀を守るよう努めたい。それはそれとして、ときには誤解やボタンのかけちがえだってある。だから、「すみませんでした」と言えること・言ってもらえることも大切なのだと思う。
しかし、そうしたことも、たとえば差別意識に基づいてはじめからなめてかかっている相手だとぶち壊しだ。すると話は振り出しに戻って、差別心を持っている相手からもなめられないような個人的自衛が必要、みたいな辛い話になる。残念ながら、世界にはそんな辛い話が鬱積していると、最近のインターネットをみていると特に思う。
なめられないためにどうすればいい?
じゃ、なめられないようにするために何をすればいいのか。
これは年齢・職業・住んでいる地域や文化、属している部族、などによってまちまちだろう。
男性の場合、なめられにくくなる条件というか属性はいくつか思いつく。
ひとつは、身体ががっしりしていること、筋肉がしっかりあること。筋トレを異様に信仰する人がいるが、実際、体格がしっかりしていればそうでないよりはなめられにくくなる。体格の大きさ、腕っぷしの強さは、どこに行ってもなめられる確率を下げてくれる。
身振り手振りもたぶん重要だ。はっきりとした声で、相手をみて話せることは、そうでないよりはなめられにくい。身体のがっしりさ同様、これはフィジカルな性質にも由来している。しかし、効果的な筋トレが体格をしっかりさせるのと同じく、身振り手振りにもトレーニングの余地はある。姿勢や歩き方、返事の仕方などもそうだ。娑婆世界を長く観察していれば、どんな身振り手振りがなめられやすいのか(逆になめられにくいのか)を観察する機会はあると思う。観察したうえで、自分に可能なことを可能なようにやっていくのが好ましいよう思われる。
服装も、なめられやすさを左右する一要素かもしれない。服装はメッセージを発するメディアであり、自己主張が反映される社会装置であり、社会的立場やステータスや機敏さや鈍感さが現れ出るキャンバスでもある。そのうえ、属する文化や部族によってなめられにくい服装にも違いがあり、それが流行によって揺れ動くから厄介だ。自分の属する文化や部族のなかで、なめられにくい服装はどんなものか、逆になめられやすい服装はどんなものか? そして自分の身体に似合うのはどんな服装か? ──特に思春期以降、たいていの人がこのクエスチョンを模索し、自分なりの回答を持つに至る。
知識や知恵も、なめられやすさを左右する。自分の属する文化や部族で必要な知識がしっかりしている人は、そうでない人よりもなめられにくい。同じことは趣味の世界でも言える。繰り返すが、なめるのが悪いのであってなめられるのが悪いわけではない。が、なめられる確率を低下させたければ、自分の属する文化や部族に即した知識をそろえ、それを使いこなす知恵を期待したい。
それから経済力とそれを示す符牒。経済力は、資本主義社会において影響力であり、しばしば才能や能力に近いものとして取り扱われる。そして経済力に異様に偏ったかたちで人物を評価し、なめたりなめられたりする人たちもいる。しかし『STATUS AND CULTURE ――文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』に記されているとおり、経済力の高さがそのままカッコよさに繋がるとは限らない。自分の属する部族、属する文化圏にふさわしいかたちで経済力を持っていることの兆しが示されるのが好ましいのであって、たとえば文化貴族の集まりで金ピカ趣味を開陳したら、これは、なめられるおそれがある。
ちなみに、私は女性のなめる/なめられないについてほとんどわからない。化粧にせよ、服装にせよ、女性は男性に媚びるためにそれらをやっているというより、むしろ同性に対するメッセージや牽制の意味合いを持つかたちでそれをやっているようにみえる(実際は、女性が化粧をしなければならないのは男尊女卑的ジェンダー勾配による、ということなのだろうけれども、とはいえ、女性たちの化粧や服装からは同性に対する鋭い意識がいつも感じられ、男性に対する意識をそれに優先させる場面はかなり少ないように私にはみえている)。女性においても、体格はなめられないための一要素となるだろうが、その重みが男性と同等だとは思えない。
この文章は学術的ではなく、いわゆる雑談として読んでいただきたいわけだが、とりわけ女性の人は「これを書いたのは男性」なのであてにならないと思っておいていただきたい。
が、なんにせよ、なめられやすい状態、なめられにくい状態というのは存在し、前者は後者に比べて不利で不遇になりやすいので、面倒くさくてもコストがかかっても、なめられにくくなるように多かれ少なかれの努力をしたほうが良いのだと思う。そして自分とは異なる文化や部族とコンタクトをとる場合には、相手をなめないように/相手になめられないように、いつも以上の工夫や配慮が必要になる。
ネトフリガンダム、しっかりガンダムしていて良かった
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ネットフリックスでフルCGオリジナルガンダムが公開されたと聞いたので、急遽、課金をした。ベーシックプランの月額加入料は980円で、この作品は全6話だから、それだけ観てもおつりが来るぐらいだろう。SNSでの評判も良さそうなので、週末に観てしまった。
はたして、視聴する価値のある『ガンダム』だった。ガンダムにもいろいろあるけれども、いわゆる「宇宙世紀モノ」と呼ばれる『初代ガンダム』~『Vガンダム』(やクロスボーンガンダム等)に連なる作品群が好きなら、見る値打ちはある。払ってしまえば、ネットフリックスの他の作品も視聴できるわけだし。
以下、ネタバレなしの感想を7割を書いて、最後にネタバレありの感想を3割書いてみる。
(ネタバレなし)ガンダム愛好家のためのフルCGガンダム
はじめに、言い切ってよさそうなことがあるので言い切ってみる。
この作品は、第一にガンダム愛好家、2ちゃんねる時代の言い方でいう「ガノタ(ガンダムオタク)」のほうをしっかり向いている作品、ということだ。
作品の舞台は、宇宙世紀ガンダムシリーズでいえば一番はじめにあたる『機動戦士ガンダム』の時代のヨーロッパ戦線で、ジオン軍士官が主人公となっている。登場する軍隊や兵器はまさに初代『機動戦士ガンダム』時代そのままだが、登場人物は基本的にこの作品のオリジナルだ。これまでの作品からの引用もたくさんあり、それらはガンダム愛好家をニヤリとさせるが、ガンダム愛好家ではない人には意味のない情報でしかない。
ガンダム愛好家のほうを向いている感じは、作品世界についての説明の乏しさからも推察される。本作品も含め、宇宙世紀ガンダムシリーズでは、モビルスーツと呼ばれる人型の大型機動兵器同士が近接戦闘を繰り広げ、戦闘機や戦車といった在来型の兵器も、ロケット弾や機関砲といった第二次世界大戦ばりの兵装を用いている。
ガンダム愛好家なら、これが「ミノフスキー粒子」という物質が広く戦場で用いられるようになったせい、索敵・精密誘導・通信などが困難になってしまっているせいと、説明されなくてもわかるだろう。しかし本作品は、このミノフスキー粒子について、はじめのほうに、ほんの少し触れるに留めている。ほんの少し触れただけでわかるのはガンダム愛好家だけで、そうでない人にどこまで伝わるのかちょっと心もとなかった。
しかし、「だからいけない」と言いたいわけでもない。ガンダム愛好家ではない人への説明を最小化し、ミノフスキー粒子などの説明を折りたたんだほうが展開はスピーディーになる。そして本作はスピーディーさを選んだ。それはひとつの選択なのであって、良しあしをいえるものとは思えない。
描かれる兵器たちも、ガンダム愛好家のほうを向いている。本作品に登場する兵器はどれも、ガンダム愛好家にはなじみ深いもので、それがフルCGで動いていること、活躍しているのを見るのは楽しい。「2020年代のフルCG作品だととこんな風に描かれるのか!」という喜びが待っているだろう。
作品物語としては描かれる必要はないのだけど、ファンサービスとして描かれているらしき兵器描写もあった。これはネタバレっぽくないと思うのでここに書いてしまうけれども、マゼラアタック戦車の砲頭部(マゼラトップ)が自力飛行するカットや、歩兵用のホバーバイク(ワッパ)が動いているカットは、物語のために必須のものではない。ガンダム愛好家ではない人には無意味というより「今の描写の意味はいったいなんだったんだ?」という性質のものだったと思う。しかしガンダム愛好家には嬉しいカットなわけで、私はそれらの雄姿に手をたたき、(おさるのように)喜んだ。
こうしたことを踏まえると、少なくともガンダム愛好家なら一見してみる値打ちが十分にあると思う。SNSでは「『ガンダム08小隊』や『ガンダムIGLOO』の好きな人向け」といったレビューを見かけたし、確かにそれらに通じるところもあるかもしれない。しかし、『ガンダムIGLOO』の作風が苦手な私も、本作は嫌がらずに視聴することができた。本作品にも血や涙や硝煙のにおいはあるが、くどいほど押し付けてくるわけではない。
そして肝心のガンダム。
本作品のガンダムは実にガンダムしているので安心して観ていられる。
本作品はジオン軍の兵士から見た「連邦の白い悪魔」としてのガンダムにフォーカスした作品で、その圧倒的恐怖がこれでもかと描かれる。登場するガンダムは『ガンダムORIGIN』風の、肩にガトリング砲を装備したガンダムで、TV版とは少し趣が違っている(Exガンダムという声も聞こえてきた)。しかし、本作品は原作に隅から隅まで忠実でもないので、少し趣の異なるガンダムのほうがかえってしっくり来る一面もある。そして、この作品のガンダムはちゃんとガンダムしているので、ジオン軍が束でかかっても倒せないほど強い。
ジオン軍兵士から見た「連邦の白い悪魔」を描いた作品は過去にもあったが、本作品のガンダムは本当に恐怖そのもので、そこが強調されているし、ザクをはじめとするジオン軍側の兵器は、ただ格好良いだけでなく、ガンダムの引き立て役としての役割もきっちり引き受けている。ストーリーも戦場のバックグラウンドも、この「連邦の白い悪魔」の恐ろしさを強調することに多くのことが費やされていて、実際、ガンダムのばらまく恐怖は本作品の見どころだと思う。ジオン軍の兵士の目線に立って、恐怖したらいいんじゃないかなと思う。
フルCG作品、というポイント
なお、本作品はフルCGなので、ひょっとしたらそこで人を選ぶかもしれない。今ではフルCG作品の品質が高くなり、私は本作品を違和感なく楽しめた。が、フルCGを見慣れていない人に、これがどう見えるのかはわからない。
私の家族は声を揃えて「デスストみたいなガンダム」「FallOut4みたいなガンダム」と言っていたが、私もそう思う。逆に言えば、最近のフルCG描写のあるゲームに慣れている人なら、本作品をより楽しみやすいかもしれない。
なので、私はガンダム愛好家の人と、フルCG作品に親和性のある人に、特にこの作品をお勧めします。それから、初代ガンダムが「連邦の白い悪魔」と呼ばれた頃、それが一般兵にどう映ったのかを想像してみたい人にも。特にガンダム愛好家なら、見て損をする可能性は非常に低いんじゃないだろうか。
以下、ネタバレあり!ご注意を。(ストーリーに関連した話)
作品のストーリーに関連することもしゃべりたいので、以下はネタバレありとしてご注意ください。
ネタバレを避けたい人は、ここで引き返すよう、お願いします。
では、以下、ネタバレなことを。
* * *
本作品のストーリーにはガバガバなところもあり、なぜヨーロッパ戦線のルーマニアあたりにガンダムが出没しているのか、なんだかよくわからない。とりわけ、主人公たちがトラックで逃走している道中にガンダムが出没したこと、それをグフ二機が迎撃したこと、これらもよくわからない。遭遇戦だとでもいうのか? 「なぜ、ガンダムがこの戦場に現れてこのように暴れているのか」に関しては、本作品は真剣に考えてはいけない感じだ。誰かがガンダムのことをゴジラのような怪獣に喩えていたのも、わかる気がする。
しかし、そうした作品ではあっても、主人公とその周辺を軸とした、一応の物語、人間模様が展開される。私は、ここもちゃんとガンダムしていたと感じたので、言及しておきたい。
主人公はヴァイオリニストであり、母であり、ザクのパイロットでもある。そして、物語が進むにつれニュータイプらしき才能の片鱗を示し始める。そう、本作品はミリタリー路線一本槍のガンダムではない。本作品は宇宙世紀ガンダムシリーズで描かれていた「ニュータイプ」についても、ひとつの忌憚ない描写をみせていて、これがなかなか旨くてびっくりした。
主人公のニュータイプ適性は、はじめは戦況を先読みする直観のようなかたちで示されるが、物語後半では、人と人との意識の交感も含めた、歴代のニュータイプの体験に近い描写になっていく。幸か不幸か、ガンダムのパイロットも同じような適性を持っていた。物語の終盤、主人公はまだ少年であるガンダムパイロットと通じ合い、ひととき、武器を下ろして交感する。
だが、本作の制作陣は宇宙世紀ガンダムのことをどこまでもわかっていた!
確かにニュータイプは人と人を繋げ、わかりあう素養としての可能性を持っている。しかし戦場において、その素養がかえって悲しみを生むことだってある──初代『ガンダム』のアムロ・レイとララァも、『Zガンダム』のカミーユとハマーン・カーンも、ガンダムUCのバナージとロニも、そのように描かれたが、本作も例外ではない。主人公とガンダムのパイロットの間に起こる出来事については、ご覧になってくださいとしか言えない。本作なりに、こうしたニュータイプ同士の交感とその結果が記されているのだけど、私は、とてもいい塩梅だと思った。ドイツ人の監督さんの選択に敬意を表したい。
いやはや、このドイツの監督さん、ガンダムのことを本当にわかっていて、ガンダム愛好家が好きなこと、押さえていて欲しいことを本当によくわかっていて、それでいて、この監督さんなりのオリジナリティも感じられて、素晴らしかったです。ネタバレ部分も含めて評価すると、ガンダム愛好家向け作品としてこれ以上のものはないんじゃないでしょうか。こんな秀逸な外伝的作品が国外でつくられたことも、こんなバリエーションのガンダムが生まれたことも、眼福としかいいようがない。ガンダムの、ニュータイプ論が好きな人も、きっと何か感じ入るものがあるんじゃないかと思う。
それは「知性」と「わかりやすさ」のパラダイムシフトだった
先日リリースされた『ないものとされた世代のわたしたち』について、お手紙をいただきました。読んでくださった方々に、改めてお礼申し上げます。色々なご指摘・ご感想をいただいていますが、そのなかに「知性」の変化についてお話があったので、拙著に書いてないことも含めて書いてみます。
いただいた感想に書かれていた「知性」とは、知識をたくさん持っている人やそうした人の行為、存在感などを指すよう読めました。
それを見て私が真っ先に思い出したのは、昭和50年代に日曜日の朝にテレビで流れていた討論番組です。
www.youtube.com
特に記憶に残っているのは『竹村健一の世相を斬る』で、武村健一がパイプ煙草をくわえながら社会について語ってみせたものです。これに限らず、日曜朝には「難しそうなことを知っていそうな大人たちが、なんだか特別な雰囲気でしゃべっている」テレビ番組が流れていました。こう言っていいのかわかりませんが、いわゆる「知識人」が政治・経済・文化・流行についてあれこれしゃべっていて、それが耳を傾けるに値するものとして放送されていたように思い出されます。
このほか、「批評」も栄えていたよう記憶しています。批評は絶滅したわけではありませんが、20世紀にはもっと旺盛に行われ、批評する人とそのオピニオンには一目置かれていたよう記憶しています。そうした批評家とオピニオンのなかには、当時の私の目から見て「なんてきついことを言うんだ」と思えるものもありましたが、とにかくも「知識人」や批評家が活躍し、一目置かれていたのが20世紀後半でした。
それらは下火になっていきました。NHKは今も『日曜討論』という番組を続けていますが、20世紀に比べれば討論番組の存在感は小さくなったと言わざるを得ません。紙媒体における批評もそうです。00年代にはまだ批評の存在感がありましたが、20年代の批評に同等の存在感があるとは言ません。
そもそも、テレビや雑誌の存在感が低下した時代でもあります。では、代わって台頭してきた動画の世界では? 動画の世界に、そうしたものが生き残っている部分もあります。というのも、討論番組や批評に相当する番組を作っているところはちゃんとあるからです。お客さんだってちゃんといます。
けれども(これはインターネットのアーキテクチャの問題でもあると思いますが)、討論番組や批評が「みんなのもの」「誰もが視野に入れるもの」という意識はたぶんなくなったのではないかな、と私は感じています。
それらに代わって存在感を放っているのは「わかりやすさ」ではないでしょうか。
20世紀に私が眺めていた「知性」「知識人」「批評」には「わかりづらさ」が伴っていました。「話者や筆者が洗練されていなかったからわかりづらかった」だけではなかったと思います。わかりづらい話題について、わかりづらい話をする、わかりづらい人がいる(またはわかりづらい本がある)、といった、わかりづらさがあっても構わない雰囲気があって、わかりづらさが社会の一隅を占めていたのでした。わかりづらさが、わかりづらいまま人目に触れる場があったように思われるのです。そうでなければ、たとえば、浅田彰『構造と力』があんなに売れることはなかったように思われるのです。
『構造と力』は最近中央公論新社からリニューアルされましたが、1980年代ほどには売れないでしょう。80年代に『構造と力』があんなに売れたのは、わかりやすい本だったからではなく*1、わかりづらい本でも構わなかった、なんなら、わかりづらいものがわからないままでも構わなかったからではなかったでしょうか。そしてわかりづらい本だったからこそ、知的ディスプレイや知的差異化の記号としてのニーズも生じたんじゃなかったでしたっけ。
今、わかりづらい話題、わかりづらい話、わかりづらい人にはニーズはあまりありません。求められているのは「わかりやすさ」であり、三行でわかる要約であり、タイパの良いメンションでしょう。それから140字におさまるメンション。
もちろん、わかりやすい話やわかりやすさ、タイパの良いメンションだってあって良いですし、それらが20世紀に絶無だったというつもりはありません。しかし、20世紀と比較した場合、「わかりづらさ」と「わかりやすさ」のそれぞれが存在して構わない比率がかなり変わり、「わかりづらさ」に属するものがニッチな領域へと追いやられている印象はあります。
誤解されたくないので断っておきますが、現代人たるもの全員がわかりづらいものと格闘しろ、などと言いたいわけではありません。……何て表現すればいいんでしょうか、わかりづらいものがわかりづらいまま世間にゴロっと陳列されている、その陳列されている状態がそれでいいことになっている、その度合いが違ってきている、と言えば伝わるでしょうか。
ついでに言えば、「『知性』はクリーンでなければならなくなった」、みたいなのもあるかもしれません。「知識人」や「批評」と呼ばれていたものには、わかりづらさのほかに、気難しさや近寄りがたさが伴っていました。ときには無茶苦茶さやアウトローさが伴うこともあったかもしれません。記憶違いでなければですが、汚い言葉遣いもあったように思います。そうしたことが「パフォーマンス」や「プロレス」でしかなかったのか、いわゆる「場外乱闘」だったのかは、当時の私には判断できませんでしたが、そうした振舞いも、「知識人」や「批評」に一種独特の雰囲気、ひいては特権を与えていたようには思います。
わかりやすさのパラダイムと、統計学的パラダイムと
そうした「知識人」や「批評」がまとっていたアウラがすっかり失われたのが2020年代ではないでしょうか。
繰り返しますが、00年代にはその残滓があったよう思われました。でも、今はそうじゃない。知識人や批評家のプレゼンスは低下し、「知性」なるものは、もっとわかりやすく。もっとタイパの良いかたちでなければならなくなりました。晦渋さ・迂遠さ・解釈の多義性といったものは、今日日は知性の一部ではなくノイズです。ノイズレスな「知性」に、汚い言葉遣いや違法性や気難しさが不要なのは言うまでもありません*2。
そうした、わかりやすさ・タイパの良さ・明瞭さへの志向は「知性」だけに起こったこととも思えず、快適になっていく社会・清潔になっていく社会とも符合していたんじゃないかなぁ、と私は深読みしたくなります。つまり、「わかりやすさのパラダイム」とでもいうものがあり、そのパラダイムシフトのなかで旧来の「知性」や「批評」はニッチな場所へ追いやられたのではないかと。
加えて、「知性」によって扱われる知識の次元でもパラダイムシフトがありました。
「知性」、または「知性」と呼ばれる人々が取り扱う知識の性質は、20世紀中頃から21世紀にかけて変わりました。社会学にせよ心理学にせよ、統計的に確かな基盤を持ったものが主流を占めるようになり、たとえばポスト構造主義哲学、たとえば精神分析の存在感はすり減っていったわけです。私自身、そうした変化を私の職域で感じ取りました。それは、精神分析やドイツ精神病理学から、エビデンスに基づいた国際的診断基準に基づいた精神科診断学&治療ガイドラインへの移行です。
拙著『ないものとされた世代のわたしたち』では、それを以下のように書いています。
「精神分析的な診断と治療は時代遅れだ、もっと徹底的にDSMを、エビデンスに基づいた精神医学を学びなさい」と師はおっしゃった。
私服を着ているときは精神分析的なテキストを読み書きし、白衣を着ているときはエビデンスに基づいた精神医学に基づいて考えたり学んだりする二重生活が始まった。はじめ、それはDSMのあらさがしをしてやろうといった反骨精神から始まったのだけれど、それを再履修してみて考えが変わった。……精神分析やドイツ精神病理学を重視していたDSM批判者たちのいう"空疎な診断パンフレットとしてのDSM"が、本当は骨太でエビデンスに基づいた治療を実践するうえで重要であること、エビデンスに基づいているから精神分析などでは反駁のしようがないこと、等々が私にもわかるようになってきたのだった。
『ないものとされた世代のわたしたち』より引用
DSMとは、アメリカ生まれのエビデンスに基づいた精神医学の診断基準だと、ここでは受け取ってください。
精神科医になった頃、私は精神分析やドイツ精神病理学に心惹かれていて、それら(の当時の語り口)は旧来型の「知性」や「知識人」が引用する学問ともどこか共通点があり、「批評」とも無縁ではないものでした。
しかし00年代に出会った恩師から「精神分析やドイツ精神病理学を捨てる必要はない。ですが、エビデンスに基づいた精神医学をもっときちんと修めないと時代遅れになりますよ」とはっきりと言われ、なにくそと思って学ぶうちにそちらに重心が移ってしまったのでした。
つまり私は、精神医学という世界で(精神分析やドイツ精神病理学といった)旧来型の知識が、DSMのような、統計学的に裏打ちされ、どことなくアメリカンな新時代の知識へと変わっていく端境期にいたのだと回想します。そうした精神医学のトレンドの変化が、たとえばポスト構造主義からアメリカっぽい分析哲学へのトレンドの変化とも似ているなと感じて、よってこれは精神医学だけに起こったことではなく、知識全般のパラダイムシフトに遭遇したのだと考えているのです。
こうした知識のパラダイムシフトのタイミングは学問分野によってまちまちだったでしょう。医学のなかでも生理学や内科学は早くから移行を終えていたでしょうし、精神医学よりも後になってパラダイムシフトが入ってきた学問分野もあったかもしれません。90年代~00年代にかけて起こった社会変化はいろいろでしたが、就職氷河期が起こっただけでなく、こうした知識のパラダイムシフトも進行し、そうしたなかで「知性」とか「知識人」とか「批評」といったものが問われ直したのだとも思います。
知識と知識、人と人はこれからどう繋がる?
では、知識のパラダイムシフトが起こり、旧来型の「知性」や「知識人」が失効していって、みんななんにもわからなくなったのか? そんなことはないと思いますし、たとえばDSMに基づいた精神医学が空疎なわけでもありません。
エビデンスに基づいた精神医療だからといって、血が通っていないと思うのも大きな過ちだ。理解を深めるほどDSMなりの内実が見え、歴史がわかり、その蓄積と先人たちの努力に唸らされた。それをよく知らなかったことを、私は恥じた。
『ないものとされた世代のわたしたち』より引用
統計学に裏打ちされた知識の体系にも人の血と汗と涙の跡がにじみ、堅固な知識の石垣を築いています。石垣を支えているのは正統な研究を積み重ねている専門家たちです。そうした専門家は、世界全体・世相全体を斬ってみせられないし、しようともしないけれども、今日の学術体系に則ったかたちで石垣を積み上げ、学問と人類に貢献しています。
ですから、このパラダイムシフトを否定すべきではなく、その恩恵は世界のありとあらゆるところを覆っていると心得るべきでしょう。しかし、知識と世界がそうして変わっていくなかで、その専門家と専門家を繋ぐ鎹、専門外の人に専門的知識を伝える伝達者が見えにくくなったようにも思います。いいえ、人が見えにくくなったことだけが問題ではなく、そういう人が活躍するフィールドや舞台が見えにくくなったのも問題かもしれません。
20世紀末ぐらいまでのパラダイムでは、知識人や知性がまさにそうした一翼を担い、批評は、そうした人々が活躍する場のひとつだったと私は思っていますが、今日のパラダイムのもとで同じことをやるのは難しく思われます。なぜなら、世界はあまりに複雑になり、専門家とその知識はあまりに細分化され、それぞれのバージョンアップの速度も早くなっているからです。
でも、そうなったことで各分野の専門家はバラバラになり、いろいろな分野の知識を縫い合わせて一編の織物を織ろうとする人もいなくなりました。思うに、旧来の知性や知識人は、彼ら自身がそうしてできあがった一編の織物、またはひとつの世界観だったように思われます。たとえば精神科医の中井久夫などは、その人自身がここでいう織物に比喩できます。そういう人ができあがりやすかったのが前のパラダイムで、そういう人ができにくいのが今のパラダイムなのでしょう。
じゃあどうすればいいのか?
正直、私にもよくわかりません。旧来の「知識人」や「知性」の真似をしたって、どだい無理な話だと思えるので。さりとて何もしなくていいのかといったら、たぶんそんなことはないので、それぞれの分野の専門家、いや、さまざまな職種の人同士が、なんらか、一緒に宴会をやったり、一緒にお茶会やボウリングをやったりする場があったほうが良い、なければ困るんじゃないかと思います。SNS等をとおして繋がりやすくなったようにみえてもなお、バラバラになりやすいのが現在のパラダイムのもうひとつの顔だと思うので、なおのこと、知識と知識、人と人とを繋げる場が待望されている&貴重に思える今日この頃です。
そんなことを最近は考えています。