シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

3000円前後のお勧めワイン in 2026 (地域ごとの傾向も踏まえて)

 
二日前に書いたワインの文章にはいろいろなご意見が集まって参考になった。で、3000円前後でお勧めのワインや初心者向けのワインを知りたい人が少なくないようにも見えた。
 

スーパーマーケットで3000円のワインは買わないほうが無難 - シロクマの屑籠

何を買ってはいけないかより、何を買うのがおすすめかで自分を語れよ!!(ドン!!!)

2026/05/03 12:24
b.hatena.ne.jp
 
うん、わかった。
よって、今日は2026年におけるお勧めのワインを地域別の傾向も書き添えつつ、紹介してみる。今回のルールは以下のとおりだ。
 

  • 販売価格は2000~4000円ぐらい、ときどきそれ未満
  • 初心者向けのワインにはをつけて紹介する
  • コストパフォーマンスに優れたワインはをつけて紹介する
  • 極端に流通が悪いワインは避け、あるていど入手性が保たれたワインにする
  • 貴腐ワインやドイツハンガリーの極甘口はわからないので書かない

ワインのひとつひとつについてよりも、地域ごとの傾向についてのセンテンスのほうが役に立つかもしれない。ではチリ&アルゼンチンから紹介します。
 
 

チリ&アルゼンチン

チリワインは2000円以下のラインにおいしくてお買い得なワインがひしめいている。ただし、風味が濃厚で飲み続けると「くどい」場面もあるので、ワインの濃さが苦手な初心者には向いていない。とはいえ、コンビニやスーパーで売られている濃いワインを飲み慣れている人なら、チリワインの2000~4000円台はけっこういけていると思う。
あとアルゼンチンもコスパが良い。ちょっと鉛筆みたいなフレーバーのマルベックはおすすめ。
 
モンテス アルファ カベルネ ソーヴィニヨン 2024
・新世界の濃い赤ワインの定番、のひとつ。1000円ぐらいの同品種と飲み比べると品質の高さがわかる。旧世界に適性のある人は飲み飽きるかもしれない。これに限らず、新世界のワインを「飲み飽きる」タイプの人は旧世界のワインに移ったほうが幸せだと思う。
 
カテナ アラモス マルベック
・鉛筆みたいな風味の漂うマルベック。ごつい牛肉料理なんかと一緒にやるとめちゃ幸せ。これに限らず、チリ産やアルゼンチン産のワインは数日程度なら待っててくれるので一日で飲みきらなくても大丈夫です。
 
コノスル シャルドネ シングルヴィンヤード No.5 2024
・コノスルをはじめ、チリやアルゼンチンのワインは2000円以下のゾーンがコスパが良く、3000円台がコスパが良いとは言い切れない。もちろん高価格帯のほうがゴージャスだけど、そのゴージャスさが初級者の人に気に入ってもらえるとは限らない。飲み慣れたメーカー・飲み慣れた品種の上位版を飲んでみて気に入らない人は、チリ以外の同じ品種のワインに鞍替えしてみると面白いかもしれない。
 
 

カリフォルニア

 
極端な甘口や薄口のワインをお望みでない限り、初心者は全員カリフォルニアワインを購入したらいいんじゃないだろうか。カリフォルニアワインは、ちょっと甘味があって、たいていふっくらしていて、口当たりが柔らかく、酸味や渋みもそこまで険しくない。どんな人にも愛想が良い、資本主義に鍛え抜かれたクオリティがある。その凄みが現れ始めるのが3000円台から。コンビニやスーパーのお手頃ワインを飲み慣れている人が初めて3000円前後のワインを買うなら、だんぜんカリフォルニアがお勧め。口が肥えると思います。
 


・サムネイル付きのワインとして、この「デコイ」のメルローを選びました。舌ざわりが円やかで、濃いカフェオレみたいなコクがあって、ほんのりとした甘味。安価なメルローには、しばしばエグい匂いや風味がついてまわりがちだけど、こいつはほとんどありません。このメーカーのワインのなかではこれがエントリークラスなので、気に入ったら上位を試してみると沼に落ちるかも。
 
ブレッド&バター / シャルドネ [2023][2024]
はてなブックマークに書いている人もいたけど、ブレッドアンドバターは正真正銘、初心者向けのワインのひとつ。白ワイン(シャルドネ)は香りが良くて酸味がきつくなく、赤ワイン(ピノ・ノワール)も香りが良くて酸味がきつくない。ワインに慣れていない人をひるませるような要素をできるだけ軽減させつつ、ワインの美味さを殺さないよう努力した品だと思う。極端な甘口志向でない限り、ここが入口として最善かもしれない。
 
カーニヴォ ジンファンデル
あと、カリフォルニアといえばジンファンデル。濃いタイプの赤ワインに抵抗感がないコンビニワイン愛好家なら、きっと気にってもらえるはず。ここに挙げたメーカーでなくても構わないし、2000円を切っている品でも構わない。ジンファンデルからワインに入っていく人もけっこう多い。
 
 

南アフリカ

南アフリカはコスパに優れたワインがたくさんあるエリアだけど、最近は値上がりしていていつまであてになるかわからない。でも、初心者の人が「カベルネソーヴィニヨン」とか「メルロー」とか品種を意識しながら購入するエリアとしてはまだまだ優れていると思う。少なくとも大外れを引く心配は低い。あとスパークリングワインのグラハム・ベックは(初心者向けかどうかはさておき)シャンパン互換品としてはけっこう頼りになり、しかも日本全国で流通している。「シャンパンを買うのはコスト的にきつい、でもシャンパンみたいな品が今すぐ欲しい」時にはありがたい。
 


・この価格帯の南アフリカは品種別のワインを(コンビニワインなどと)飲み比べると良さがわかるんだけど、こいつはブレンド品。でも赤ワインとしてのいろいろなおいしさまでブレンドされていて、濃い口赤ワインが好きな人ならきっといけるはず。
 
ステレンラスト シュナン ブラン 2025
シュナン・ブランという少しマイナーな白ワイン品種だけど、めちゃくちゃうまくてコスパ最高。ただし、このワインには「パパイヤの風味がある」ので、これが気に入るかどうかで評価がぜんぜん違ってくる。パパイヤの風味が苦手でなければ南アフリカ……というよりシュナン・ブランという品種全体がお買い得になるので、やめられなくなる。
 
グラハム・ベック ブリュット NV 750ml (スパークリングワイン)
・シャンパンに似たスパークリングワインとして、わりと定番。高いシャンパンにはまったくかなわないけれども、バランス感の欠如した安シャンパンに比べればまとまりは良い。高いシャンパンをやってみるなら、先にこのグラハム・ベックをいくらか飲み慣れてからやってみると違いがわかって良いと思う。
 
 

その他新世界

まずいな、このペースで書いていたら"はてなブログの字数制限"に引っかかってしまう。ちょっと速足にしますね。
 
オーストラリアは良いワインもあるけど私はあまりやってないからわからない。でも、シャンドンはシャンパンに似たスパークリングワインとしてひとつの定番。ニュージーランドは全体的にハズレが少ないので、安い品も高い品も大損することはないと思う。特にソーヴィニヨンブランという品種は鉄板との誉が高い。イスラエルのヤルデンというメーカーも割といけているけど、値段がジリジリ上がっているので未来はあまりないかもしれません。
 


2000円切っているけど、おいしいソーヴィニヨンブラン! ソーヴィニヨンブランはコスパが優れていて極端に品質が悪いことも少ない。そのかわりさっき紹介したシュナン・ブラン同様、なんだか独特のクセがあって苦手な人は苦手*1。自分自身がソーヴィニヨンブランという品種が飲めるって判明しているなら、ニュージーランド産のソーヴィニヨンブランを飲んでまわるのはそれだけで楽しいと思う。
 
シャンドン ブリュット N.V
・シャンパンもどきなスパークリングワインのひとつとして。高いシャンパンと並べて飲むとまったくシャンパンにかなわないけれども、そういうことをしない限り、シャンパン互換品としてまずまずいける。
 
ゴラン ハイツ ワイナリー ヤルデン シャルドネ [2022]
・白ワイン(シャルドネ)として非常によくできていて、新世界/旧世界それぞれのシャルドネ好きが飲んでも納得できそうな塩梅。欠点を挙げるとしたら、値段が上昇傾向でもうすぐ4000円をオーバーしそうなこと、最近戦争に明け暮れている国でつくられていること。
 
 

イタリア北部~中部

15年前のイタリアは安くてうまいワインの王国だったけど、ユーロ高・円安・インフレの影響でそうとも言えなくなってしまった。とはいえ、まだまだ3000円前後の価格帯にお買い得品がいろいろ見つかる。
慣れていない人がイタリア北部の赤ワインを買う場合、「バローロ」「バルバレスコ」はやめておいたほうがいい。なぜなら、それらのワインは初心者や初級者を怯ませる酸味と渋みが強く、飲み頃を迎えるまで待たなければ本領を発揮しないからだ。そのうえ「バローロ」や「バルバレスコ」の優品は6000円以上であることがほとんどだ。3000円前後で買えるとは思わないほうがいい。
白ワインについては、それぞれクセはあるものの、3000円以上支払うとめちゃくちゃ楽しいエリアなのでゆっくりしていってね!!!
 



初心者向けとして。なぜならワインにありがちな酸味がきつくなく、全体的に風味も柔らかめだからだ。日本風の夕食との相性も良好。白ワインが苦手な理由が「酸っぱすぎる」っていう人でもおいしく飲める可能性のあるワインは、ソアーヴェ・クラシコだと思う。あっさり&さっぱり&幽玄なワイン。酸味が強くても構わないから風味の輪郭がシャープなワインをお求めの人は、このワインは買わないほうがいいと思う。
 
ファルネーゼ モンテプルチアーノ ダブルッツォ カサーレ ヴェッキオ
・美味くて安い、モンテプルチアーノ・ダブルッツォという赤ワインの優品。わかりやすくぶどうの味がし、口当たりがさっぱりしている。このカサーレ・ヴェッキオも少し値段が高くなってきてしまったので、もっと安いモンテプルチアーノ・ダブルッツォを買い求めても構わないと思う。ワイン売り場に行って「モンテプルチアーノ・ダブルッツォくださーい」ってソムリエさんに頼めば必ずあります。たまにコンビニで見かけることもあります。新世界のワインが濃くてバタ臭いって思ったことのある人は是非モンテプルチアーノ・ダブルッツォを当たってみてください。
 
カビッキオーリ ランブルスコ ロッソ グラスパロッサ ディ カステルヴェトロ アマービレ
1500円以下の価格帯だけど、初心者向けなので載せました。ランブルスコはちょっとヨーグルト風味の赤のスパークリングワイン。「アマビーレ」「ドルチェ」と書かれた品はかなり甘いので、甘口ワインを望む人にはうってつけ。甘口が嫌いな人も「セッコ」と書かれた品は辛口で気持ち良く飲めます。ちなみにエリックサウスマサラダイナーにもランブルスコの「セッコ」がリストアップされていました。インド料理だって相手にできるぜ!
 
 

イタリア南部&シチリア&サルデーニャ

イタリアのなかでも特に安ワインがたくさん作られるのがイタリア南部。でも、美味い品を買い抜けるのは案外難しい。モンテプルチアーノ・ダブルッツォのようにジャンル全体がお買い得って品は存在せず、このエリアのワインはメーカーで選ぶのが安全だと思う。私の一押しはクズマーノとアルジオラスです。あとはグルフィとセッラ・エ・モスカ。これらのワインは、とりあえず値段に見合った品が出てきます。値段を気にしないなら、フェウディ・ディ・サングレゴリオやドンナフガータもいいと思います。
 


・クズマーノは次第に値段が高くなってきているけど、今でも安ワインから高級品までそろっているメーカー。ここの2000~4000円台のワインは比較的人を選ばず、どれもしっかりつくられていて、面白い。ただし、シチリアの土着品種でつくられていることが多く、ワインの名前やラベルから品種や味の方向性を予測しにくいかも。
 
ペルデーラ 2023 アルジオラス 赤ワイン イタリア 750ml モニカ サルデーニャ フレッシュ 母の日
・サルデーニャ島のアルジオラスも、どれも美味いしどれもコスパも良いので大絶賛したい……のだけど、品種が独特なのが問題。コンビニワインやスーパーのワインを飲み慣れた人が、その先としてチョイスするとちょっと風変りな印象を受けるかもしれない。クオリティ自体はハイレベルだと思う。
 
タトール プリミティーヴォ サレント 2023 ポッジョ レ ヴォルピ プーリア
・イタリア南部でつくられる「プリミティーヴォ」という品種は、さっき書いたカリフォルニアのジンファンデルと同じ品種だと言われていて、実際、味はかなり近いので赤ワイン入門の入口のひとつとしていけているほう。1000円台のプリミティーヴォはコスパに優れ、3000円以上のプリミティーヴォは飲み心地の良さや風味のバリエーション豊かさまである程度カバーしていることが多い。
 
 

フランス南部(ローヌとラングドック)

フランスにもコスパの優れたワインはいくらでもあり、特にローヌやラングドックには沢山ある。ただし、それらの地域のワインは新世界と同様、濃かったり渋みが強かったりする。薄口ワインが好きな人にはお勧めしづらい。
しかし濃いワイン*2が好きな人にとって、ローヌは適当にワインを選んでも間違いが起こりにくいエリアなので、あまり深く考えずに選んでも割と大丈夫。「ローヌ」って書いてあったらレッツゴーで買ってみてもたいてい後悔しない。
 


・濃い口の赤ワインのなかでもとりわけ濃い口、凄いワインのジゴンダス。このジゴンダスが、なぜか2026年現在、異様に安い相場になっています。大手メーカー・ギガルのジゴンダスが3000円台前半とか、一体何が起こっているんでしょうか? 濃い口の赤ワインに慣れている人は、今のうちにジゴンダスに挑戦してみるといいと思う。同じギガルの一番安い赤ワインとセットで購入し、飲み比べてみると値段の違いがワインの違いになっている様子が把握できるはず。
 
E.ギガル クローズ エルミタージュ ルージュ 2020 750ml 赤ワイン シラー フランス
・同じギガルの、品種や畑の違うクローズエルミタージュを飲み比べてみるのも面白い。ジゴンダスもそうだけど、ローヌの赤ワインは新世界の赤ワインほどわかりやすくないかもしれない。でも、こちらのほうが気に入ったって人は旧世界ワインをやってみる価値があるかもしれない。あと、カベルネソーヴィニヨンとメルローとピノ・ノワールだけが赤ワインじゃないってことが痛切にわかります。
 
ドメーヌ・ポール・マス・カベルネ・メルロー
・スペイン側の南仏であるラングドックは、とりあえず「マス一族」さえ知っておけばいいんじゃないでしょうか。クロード・マスとポール・マスがいるけれども、どちらも安くてうまいワインをざくざく作っている。1000円台のワインをいくらか経験した後に2000円台のワインにアタックしてみたほうが面白い。
 
 

フランス中部、ロワール

フランスの有名産地のワインが値上がりしている一方、ロワールはほったらかしになっている。その理由は、シャルドネやカベルネソーヴィニヨンやメルローといった国際的に有名な品種のものがあまりないからだと思う。本当はすごいワインやおいしいワインがお手頃価格で買えるのに。
ここでクレマン・ド・ロワールを挙げるのは、「シャンパンとシャンパンもどきとは違ったスパークリングワインのおいしさだから」。クレマン・ド・ロワールに限らず、「クレマン・ド・地名」のワインは全体的にシャンパンよりもお買い得で、しゃちほこ張っていないのでワイン初心者にはこちらのほうが飲みやすいと思う。シャンパンが飲みづらいと感じたことのある人は、クレマン系にダウングレードしてみましょう。
 


この品に限らず、クレマン・ド・ロワール、ひいてはクレマン系のワインは押しつけがましくなく、恩着せがましくなく、飲み疲れしにくい。たいていの日本食やイタリア料理を相手取るなら、シャンパンよりクレマン系のほうが付き合いやすい。なによりシャンパンよりも安価で、2000円前後でしばしば見つけられる。
 
シノン シレーヌ [2022] シャルル・ジョゲ
ロワールの赤ワインは本当は凄い品が多く、たとえばこの「シノン」の系列もそのひとつ。果実味いっぱいで、ちょっと酸っぱくて、ヨモギみたいな雰囲気をたたえた美味い赤ワインがたくさんある。ただし若いうちに呑むとヨモギが強すぎることがある。あと、ロワールはヴィンテージによって作柄がかなり左右されるので、再現性があるのかどうかがわからない。
 
ヴーヴレ セック 2023 ドメーヌ ヴィニョー シュヴロー
白ワインもそうで、ロワールのワインがお買い得なのは間違いないとしても、ヴィンテージの揺れに作柄が左右されちゃう不確定性が大きい。だからこそ、ロワールのワインは値段がそこまで高くなっていないのかもしれない。ワインのヴィンテージを地域ごとに暗記するつもりのある人にはお買い得なエリア。
 
 

フランスの高級ワインエリア(ボルドーブルゴーニュシャンパーニュ)

ブランド化したフランスの名醸地は値段が高くなりすぎているので、2000~4000円で品質保証されたワインを買える見込みは小さい。例外はボルドーで、ボルドーの安赤ワインには「ボルドーの安赤ワイン」という一種独特のジャンルというか味わいがあるので、これが好きな人は病みつきになるかもしれない。でも、渋みや酸味がけっこうあり、新世界のコンビニワイン等に比べて味わい薄いので、初心者がいきなり好きになれるとは思えない。
 
そうでない2000~4000円のボルドー赤ワインについては、ブルジョワ級か、メドック格付け3~5級のセカンドワインになると思う。もちろん、それらはおいしいし面白い。ただし新世界のワインに比べるとわかりにくく、ヴィンテージによる差異が大きい。ボルドーに限らず、旧世界のワイン、特にフランスワインの難しいところはヴィンテージによって作柄が違っていて、同じメーカーの同じ品種の品を買っても再現性がわからないところだ。趣味としてのワインにどっぷり浸かると、このヴィンテージの違いによる作柄の違いが逆に面白くなってくるが、初心者や初級者には厄介者として立ちはだかる。
 
ブルゴーニュは、昔は4000円以下で魅力的なワインがたくさんあったけれども、暴騰に暴騰を重ねた結果、4000円以下では滅多に優品に出会えなくなった。ブルゴーニュの傍流にあたるクリュ・ボジョレーの優品やシャブリの優品もそうだ。
 
シャンパーニュ(シャンパン)も値上がりし過ぎて厳しい。ネットショップでは今日でも3000円台のシャンパンが売られているが、こういうバルクなつくりのシャンパンの多くは、初心者や初級者が飲むには癖がありすぎてジャジャ馬めいている。泡がゴワゴワしていたり、甘味や風味がやけに少なすぎたり、まあその、商品としてキチンと仕上げられていない感じがする。そういうバルクなシャンパンにモエ・エ・シャンドンやヴーヴ・クリコなどのクオリティを期待すると裏切られるので注意。
 

online.seicomart.co.jp
・北海道在住の人にはお勧めのシャンパン! セイコーマートにあります! 有名シャンパンに比べれば色々と粗い部分はあるけれど、白パンの香りや柑橘系の香りがちゃんとたちのぼってきて、酸味が強くてドライな感じもある。北海道のシーフードには合っていると思う。私は釧路のセイコーマートで買いました。ゴージャスさではなく、実用性&実直さ本位のシャンパン。円満なスパークリングワインが欲しい人は前述のクレマンを買ったほうが無難&安価。ゴージャスさの看板が欲しい人はもっと高いシャンパンをどうぞ。
 
ルイ ジャド ブルゴーニュ ルージュ クーヴァン デ ジャコバン 2022 750ml 赤ワイン ピノ ノワール フランス ブルゴーニュ
・はてなブックマークで挙がっていたルイ・ジャド。私は好きですし、これなら地方のスーパーマーケットで見かけることもあります。値段も4000円をぎりぎり切っていて、この価格帯のブルゴーニュワインとしては頑張っていることは認めます。でも、ルイ・ジャドのワインってちょっと初心者向けじゃない気がしませんか? 少しワインが硬いというか……。もう少しお金を出して、ジョセフ・ドルーアンの品を買ったほうが初心者&初級者には易しいかも。
 
シャトー サン ボネ 2016
・2024~25年にかけて、我が家の量産型ワインとして大量配備されていた、ブルジョワ級の赤ワインのなかでも特に安かった品。ボルドーのブルジョワ級赤ワインには値段の割にうまくてバランスにも優れ、それでいて新世界のワインにはない節制や節度が感じられる品が見つかる(場合がある)。ところがヴィンテージによる揺れ幅が大きく、このシャトー・サン・ボネもヴィンテージが悪い年にはがっかりさせられました。
逆に考えると、ヴィンテージの優れた年のブルジョワ級や飲んでみておいしかった年のブルジョワ級は「品質の高いワインを格安でまとめ買いする」には向いている。だからブルジョワ級のワインが気に入った時にはスクショを撮っておいて、それを楽天で検索してまとめ買いすると幸せな気分になれます。あと、ブルジョワ級にすっかり慣れた後にこなれた高級ボルドーに遭遇するとめちゃくちゃ良くなるので、「ワインの教科書として」ブルジョワ級に親しんでおくのは大アリだと思う。
 
 

すっかり長くなったのでこのへんで

はてなブログと楽天の仕様で、ワインをひとつ紹介するたびに1000字以上を使ってしまうのでこの文章はこれでおしまいにします。スペインや日本などは紹介できませんでしたが、私は不案内でもあるので略します。
 
全部読むのが面倒な人向けにまとめると、
 
・チリやアルゼンチンのワインは濃い口が嫌いじゃないなら初心者向け。3000円前後にアタックして、考えてみるのもアリ。
ワイン初心者や初級者の人が、はじめて3000円前後の価格帯のワインを買うなら、カリフォルニアワインがおすすめ
・南アフリカ産のワイン、ニュージーランド産のワインもおすすめ
・フランス産なら「ローヌ」や「ラングドック」といった南仏がねらい目、ボルドーやブルゴーニュやシャンパーニュは難しさがついてまわる
 
となるでしょうか。
ここで紹介したワインの多くは、地方のワインを商う気が乏しいスーパーマーケットには置いてないので、ワインショップや百貨店、ワインを気合入れて商っているスーパーマーケット等、楽天のワインショップ等を探してみてください。
 
 
 
 
※ワインは20歳以上になってから。
※節度のある飲み方のできない人は飲むべきではありません。節度を守って。
※高級ワインを買う場合は必ずクール宅急便を利用しましょう。
 

*1:ちなみに私も苦手です

*2:ここでは紹介しないけれども、白ワインも濃くて旨い。ロゼもだ。

スーパーマーケットで3000円のワインは買わないほうが無難

 
GWで帰省し、ワインを買ってはいけなそうなスーパーマーケットに立ち寄ってしまったので「スーパーマーケットで3000円以上のワインを買わないほうが良い理由」を書いてみますね。
 
昨日、「ワインが流行らない理由は千円で飲める美味しいワインが無いからではなく、普段飲まない人が奮発して買った三千円のワインがガッカリする味だからではないかと思う」というタイトルのtogetterがはてなブックマークで伸びていた。
 
ワインは日本の生活空間にある程度溶け込んでいて、好きな人は好きだし、嫌いな人は嫌いな「嗜好品」になっている。だから、こんなtogetterは伸びないだろう思っていたら予想以上に伸びていた。こんなにたくさんの人がワインに言及しているってことは、好きな人だけでなく、好きじゃない人もワインに関心持っているんだーって思った。
 
ところで、このtogetterの出発点は「奮発して買った3000円のスーパーマーケットのワイン」についてだった。
 


 
なるほど、ワイン初心者が、わけもわからずスーパーマーケットで3000円のワインを買うのは、かなり危ないと思う。たとえば私がさっき立ち寄った、ワインを商う気がゼロに等しいスーパーマーケットで3000円ほどのワインを買ってしまったら、私もきっとおいしくないワインを引いてしまうだろう。「ワインに不案内な人が」「スーパーマーケットで」「3000円以上のワインを買う」ことにはかなりのリスクがあると思う。
 
 

ワインの売れてなさそうなスーパーマーケットの3000円ぐらいのワインを避ける理由

 
以下、私が思っているとおりに吐き出してみる。
 
・スーパーマーケットのワインが必ず悲惨なわけではない。ほとんどのスーパーマーケットには1000円台のワインに、なんらか買いぬける選択肢がある。「初心者向けか」と言われたらイエスともノーとも言いづらいが、少なくとも値段相応のワインは今日の日本のスーパーマーケットのほとんどに何かしら存在はしている。帰省のときに立ち寄ったスーパーマーケットでワインを選ばなければならず、自信がない場合には下手に背伸びをしないほうがいいと思う。
 


 
たとえば、ガンチアのスプマンテはお世辞にも「最高のスパークリングワイン」とは言えないが、日本じゅうどこのスーパーマーケットに行っても見かける。でも、これが帰省の際のオードブル等に合わせる最も無難な選択肢であることは結構あると思う。贅沢を言えばきりがないが、やる気のないスーパーマーケットで3000円ぐらいのワインを買ってひどい目に遭うよりは、これを買ったほうがマシな状況はぜんぜんあり得る。
 
 
・全国のスーパーマーケットの数割ぐらい、とてつもなくワイン棚が悲惨な店舗(というよりチェーン店?)がある。値段が高くなるほど魅力が乏しく、最高級ラインナップとしていかにも地雷っぽい3000円前後のワインがふんぞりかえっている店舗だ。
 
・そういうスーパーマーケットに置かれているワインの、3000円という価格帯は、えてして具合の悪い選択肢ばかり並んでいる。なぜなら、そういうスーパーは3000円の新世界ワインやスペインワインを置かず、妙に難しいフランスワインを置いてしまっていたりするからだ。3000円のフランスワインでも、ローヌ産やロワール産なら見どころ満点のワインやわかりやすいワインは見つからなくもない。
 

 
たとえば2000円台でロゼだけど、ギガルのタヴェルとかめっちゃいいじゃないですか。 3400円ほど払って同じくギガルのジゴンダスを買うのもいい。
 
ところが、そういうスーパーマーケットに限って、「いかにも魅力的でなさそうな」微妙なボルドーやブルゴーニュが並んでいたりする。*1。ワインのことが少しわかるようになったら、回避するだろうワインが堂々と並べられていることが多い。
 
・イタリアワイン。これは、3000円台である程度頼りになる選択肢だが、そういうスーパーマーケットに限って、3000円ぐらいのイタリアワインとして掴んではいけない品が陳列されていたりする。具体名を挙げると角が立つので避けるが、たとえば3000円ぐらいのイタリア赤ワインでお買い得って言ったら、イタリア南部やサルディーニャやシチリアが真っ先に浮かんでくるじゃないですか。ところが……ってわけですよ。
 
・そういうスーパーマーケットはワインの回転率が良くない。高いワインなら、一段と回転率が良くないだろう。これはワインに3000円支払う際に、考慮&憂慮すべき事柄ではないでしょうか。
 
・そういうスーパーマーケットのワインは、たいていボトルが縦置きになりっぱなし。だからコンディションの低下リスクがやや高い。ワイン慣れしている人なら、ヴィンテージを確認し、あまりに古い品なら購入を避けることもできるだろうけど、初心者はそれもわからないのが一層具合が悪い。スーパーマーケットはある程度の温度管理下にあると思うけれども、ワインセラーほど完璧ではないはず。
 
・ここから言えそうなのは、「3000円ぐらいのワインを初めて買うならワインを売る気がなさそうなスーパーマーケットで買わず、もっとしっかり商っていそうな場所で買うのが望ましい」ってことだ。できればワインショップ、それが難しくても百貨店のワインコーナーやワインを商う気のありそうなスーパーマーケットで買ったほうが間違いが起こりにくいと思う。
 
・っていうか、ソムリエさんのいるところで「私はワイン初心者です、3000円台のワインはほとんど買ったことがありません。」って伝えたうえで、甘口希望/非甘口希望、あわせる食事 についても伝えるのが一番いいんじゃね? 
 
 

初心者にはワインショップやソムリエさんがいるお店をおすすめします

 
普段ワインを買わない人がいきなりワインを買う場面とは、たとえばGWや盆暮れ正月のような帰省シーズンなどだろう。そういう時、とりあえずで近くのスーパーマーケットで一番高そうな3000円程度のワインを選ぶと、まさに「せっかく3000円も払ったのに、これってたまに飲むワインよりまずいんじゃね?」って事態に出会いやすいと思う。もちろんワインは飲み慣れているか否かで評価がかなり変わる嗜好品だし、個人の好みや食事との相性によってもいろいろ違うからひとつの原因を断定するわけにはいかない。でも、そうした原因のひとつとして、ボルドーやブルゴーニュといった名醸地のワインを3000円ぐらいの価格帯に(最も高価なワインとして・無理矢理に)並べているスーパーマーケットのチョイスの問題や、えてしてそういうスーパーほど回転率が悪い問題も絡んでいるはずだ。よって、スーパーマーケットで3000円のワインを買うのは通常は避けたほうがいいと思う。
 
もちろん例外はあります。
ワインをちゃんと商っているスーパーマーケットなら、3000円のワインのチョイス自体が悪くないだろうし、回転率もたぶん良いはず。良い例を挙げてみると、たとえば成城石井のワインなら、3000円のワインが地雷である確率はかなり低いと思う。
 
でも、一番良さそうなのはさきほど書いたとおり、ソムリエさんに正直に実情を打ち明けて、そのワインをいただくシチュエーションや食事についても伝えたうえでオススメを請うことだ。そうなると、必然的にワインショップや百貨店のワイン売り場あたりが良いはずで、そこで良さそうな品を見繕ってもらうのがおすすめです。
 
 

*1:3000円ぐらいのボルドーやブルゴーニュが全部ダメだって言いたいわけじゃないですよ? でも、3000円でボルドーやブルゴーニュのお買い得品を売っているお店は相当のものだし、そういうお買い得品を買いぬくのはなかなか大変。

この奇跡は一度しか生きられない(私はせいぜい四半世紀ほどだ)

 
世界には奇跡が溢れている。
いっそ「社会には」と言い換えても構わないかもしれない。なぜなら狭義の自然の産物を除外し、人間とその社会が作り上げた被造物だけを挙げても奇跡は溢れているからだ。
 
その最たるものとして、東京を思い出す。東京の景色のひとつひとつが、私には奇跡にみえる。よくもこんなことが成立しているものだ。東京という街ができあがり、行き交う人々が全員違った意志をもって動いているにもかかわらず秩序が成立し、ほとんどの人が曲がりなりに食べ、寝て、互いを害するでもなく共存していることを、私は奇跡とみる。
 
文化的にもそうだ。読み書きに音楽、映像、そしてインターネットをはじめとする通信技術。書記や活版印刷や無線通信はインフラをつくるだけでなく、文化の産物を遠く広く届けている。衛星通信技術のおかげで今では離島でもインターネットに接続できる。
 
人間にそれらを成し遂げるポテンシャルがあったこと自体も奇跡的だが、実際にそれが遂げられていること、今、私の目の前にあるということが一層奇跡的に感じられる。この景色を奇跡とみず、所与の環境などと思っていられること自体、有り難いこと、あり得ないことだった。人間として生を享けること自体が大きな奇跡で、それに輪をかけて2020年代の日本を生きていることも奇跡的だ。今の自分が生きている状況を、私は途方もない状況と感じる。
 
無上甚深微妙法
百千万劫難遭遇
我今見聞得受持
願解如来真実義
 
このえりすぐりの奇跡をどう利用する?
 
私たちは、この一回切りの人間としての生を、自分の好きなように生きることができる……ことになっている。過去の社会ではそうとも限らなかったことには注意が必要だ。中世の社会では地縁共同体や血縁共同体のために生きなければならない度合いが大きかった。身分に基づいて生きなければならない度合いも大きかっただろう。それらからの解放、という文脈に基づくなら現代人はより自由といえる。しかし誰もが知っているように、現代の社会では別の規範、別の要請、別の制約によって私たちの生は絡めとられている。自由、自由と言ってみたところで、私たちが社会や他人の顔色を窺いながら生きなければならない点は昔も今も変わりない。
 
それでも私たちが一生のあいだに選べること、選べるかもしれない可能性は小さくなかったはずだ。他の動物種や他の時代の人間に比べれば、現代の日本人として選べる行動、生きられる可能性はずっと豊かであるはずだ。そういう時間を私たちは生きているし、私は、ここまで半世紀にわたって生きてしまった。気が付けばそのような奇跡の物語も後半にさしかかり、陰りがみえはじめ、終わりが見え始めている。
 
奇跡を生きているのだ、という確認のために宿から少し歩いてみる。繁華街の明かりも、公園の整序も、行き交う人々や車の流れも、やはり、奇跡というほかない。私たちにとってなじみ深く、当たり前であるそれがいとおしく思える。やがてそれを永久に眺められなくなり、思い出せなくなる日のことを思う。塵芥にかえるのは平穏なことではあろう、が、それは奇跡ではない。
 
だけどこの奇跡はずっと続くわけではなく、振り返ればあっという間に終わってしまう夢のような出来事なんでしょうね。
 
花火みたいだな、これって。でも、その花火みたいな時間のなかで、この世を生き、この国この時代を生き、同じ奇跡を共有する人々の一部と知遇を得て時間を共有しているのは、ともあれ有り難いこと、そのはずなのだった。もうしばらくは生きていられると信じながら、明日の予定を確認する。ごくありふれた仕事、ごくありふれたスケジュール、ごくありふれた奇跡。だけど、朝食のシリアルやコーヒーすら、これは奇跡のたぐいだったのだ。せめて明日は、そういうことを思い出しながら生きてみたい。
 
 
(※現世についての本文はここまでです)

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ドーパミンと報酬系について解説してみる

 
  


 
色々な偶然が重なり、先日、ドーパミンやドパガキについて話しているミーティングに出かける機会を得た。
 
昨今は、ドーパミンという物質の名前をSNS上でよく見かける。関連して、ドパガキというネットスラングを見かけることもある。私がそのミーティングに関心を持った理由は、「ドーパミン」という体内の物質をとおして何が語られているのか、その名前に何が仮託され、どう語られているのか、専門も世代も違う人のお話を聞いてみたかったからだ。
 
 

そのミーティング内でドーパミンについてのお話を聞き、思ったこと

 
そういう意図だったので、ドーパミンについての知識の多寡よりも、ドーパミンをとおして何が語られるのかを私は期待していた。また、ドーパミンという物質がどれぐらい拡大解釈されているのか、その風呂敷の広がり具合について意識もしていた。
 
しかし、少なくともミーティングに集まったメンバーに関しては、ドーパミンという言葉をそこまで拡大解釈しているようにはみえなかった。ドーパミンについての知識はそれほどなかったかもしれないが、ドーパミンを夢の物質や銀の弾丸のように捉えている人はいない様子だった。むしろドーパミンという言葉、ひいてはドパガキという言葉に対して批判的な人、「ドーパミンという言葉をとおしてなんでも語ることへの違和感」を表明する人もいらして、私は心強いと思った。
 
ドパガキというネットスラングはもちろん、ドーパミンという言葉がこうも語られていることに時代の流れも感じた。30年ほど昔、人間の行動について語る際には精神分析の語彙や概念がしばしば用いられたものだ。それが、2020年代には脳内の神経伝達物質として知られているドーパミンという言葉が用いられる。セロトニンもそうだろう。世の人々が人間を語る際にドーパミンとかセロトニンとかいった語彙を用いるということは、それだけ神経伝達物質の名前が人口に膾炙していることを示唆している。なんらかの社会病理も反映しているかもしれない。世間における言葉の用法がどこまで精確なのかはさておき、神経伝達物質の名前がこれほど知られるようになったことには隔世の感がある。
 
 

ドーパミンと報酬系、その役割について

 
きっかけをもらった気がするので、私が知っているドーパミン関係についてしゃべってみる。
 
ドーパミンがとても重要な物質で、人間の行動やモチベーション、依存症に関わっているのは確かだ。しかし、ドーパミンの作用は行動やモチベーションや依存症だけに関わるわけではないし、逆に、行動やモチベーションや依存症がドーパミンだけでつくられているわけでもない。
 
もっと付け加えると、ドーパミンが行動やモチベーションや依存症にかかわる際にはドーパミンという物質だけを問題にするよりも、ドーパミン等が関わる一連のシステムを意識しなければならない。たとえば「報酬系」のような*1
 

 

図:ドーパミンは報酬の中心
 ドーパミン(DA)、および特に腹側被蓋野(VTA)から側坐核への中脳辺縁系ドーパミン経路は、強化と報酬の調節において主要な役割を演じていると長く考えられている。大きな成果をあげるなどの自然に報酬を得られる活動は、中脳辺縁系経路でDAの急速で確実な増加を引き起こしうる。乱用薬もまた中脳辺縁系経路でDA遊離を引き起こす。実際、乱用薬は自然に起こるよりも、しばしば爆発的で快楽的にDAを増加させることができる。(『ストール臨床精神薬理学エセンシャルズ第五版、P592から』)

 
物理的・社会的にうまくいった時、人間の脳内ではドーパミン等が分泌(遊離)されて快さが生じて、この快さが人間をさらなる行動へとかきたて、モチベートする。ドーパミンは性的欲求をみたした時や承認欲求をみたした時や、スロットマシンで777が出た時やSNSでバズった時にも分泌され、快さをとおして次の行動がモチベートされるだろう。
 
快さ、ひいてはそれをもたらすドーパミン等の物質は報酬系のなかで重要な役割を果たしている。報酬系がはたらくような自然な状況、つまりドーパミン等が分泌されて快いと感じ、同じ行動をリピートしたい状況は、人間が*2生き抜いて子孫を残すうえで、ひいては社会のなかでうまくやっていくうえでプラスに働いただろうから、報酬系は自然淘汰や性淘汰に有利な状況をリピートさせることで適応を助けてきたと思われる。
  
ところが人間の遺伝子をつくりあげてきた頃の環境と、今日の環境はだいぶ違っている。さきほどスロットマシンやSNSのバズの例を挙げたが、昔からそんな人工的遊戯があったわけではない。それに近かったのは狩りや漁で大成功をおさめた時ぐらいだろうが、そのような大成功の狩りや漁が同じ場所で続けられることはあまりなかっただろう*3
 
また、コミュニケーションがうまくいってドーパミンが分泌される状況は昔もあっただろうが、今日のように不特定多数を相手取って、いつでもどこでもオンラインでもオフラインでもコミュニケーションできてしまうのはごく最近のことだ。サブスクリプションサービスの娯楽、SNSのバズった記事、ショート動画、ポルノ等々が無尽蔵に存在しているのも昔はあり得ないことだった。
 
報酬系に限らず、自然淘汰や性淘汰を耐えてできあがってきた人間の生物学的デザインは、現代社会に照準をあわせてできているわけではない。狩猟採集社会~せいぜいで農耕社会までに照準をあわせてできている、とみるべきだろう。現代社会に適応するうえでたいして重要ではない刺激に快を感じる&ドーパミン等が分泌されて、たいして適応的でない方向にモチベートされてしまう可能性はあると考えておいたほうが良いし、とりわけ産業資本主義はそこを狙っていると考えておいたほうが良いだろう。そのあたりを意識せず、報酬系にモチベートされるまま行動していたら、成長すべき時に成長に資することができなかったり、金銭を浪費してしまったり、身体を壊してしまったりするかもしれない。
 
そのうえ、報酬系を乱してしまう厄介な物質が存在している。たとえば覚醒剤。覚醒剤は人工的にたくさんドーパミンを分泌させるが、繰り返せば覚醒剤依存になってしまうだろう。上掲の解説にあったように「乱用薬は、自然に起こるよりも爆発的で快楽的にドーパミンを増加させる」。すると報酬系は調子が狂ってしまい、おかしな状態になってしまう。
 
依存を形成しやすい乱用薬に加えて、行動への依存=行動嗜癖という問題もある。わかりやすい例ではギャンブル依存だろうか。ギャンブルは覚醒剤のように外部から依存物質を摂取しているわけではないが、大当たりの状況、つまり報酬予測誤差の大きな状況*4が重なるとドーパミンがたくさん分泌されてしまい、くせになってしまうかもしれない。
 
このあたりについて、『ストール臨床精神薬理学エセンシャルズ第五版』は以下のように記述している。

 嗜癖*5の有力な理論は40年以上にわたってドーパミン仮説であり、すべての快楽をもたらすものに対する、脳内の強化と報酬の最終共通経路は中脳辺縁系ドーパミン経路とされている(図)。この仮説は多少単純化しすぎており、おそらくもっとも適用可能なのは、ドーパミン遊離に最も大きな効果を生じさせる薬物、特に中枢刺激薬とニコチンであり、マリファナやオピオイドにはあまり適用できない。……中脳辺縁系ドーパミン経路を脳の「快楽中枢 center of hedonic pleasure」と考え、ドーパミンを「快楽中枢の神経伝達物質」と考える人さえいるかもしれない。この考えによれば、中脳辺縁系ドーパミン神経細胞からドーパミンを有利させようとする多くの自然にできる方法がある。これには、知的な達成感から、運動競技による達成感、すばらしい交響曲の愉悦、オーガズムの経験に至るまで大きな広がりがある。これらはときに「自然な高揚感 natural high」と呼ばれることがある。
 
 これらの自然な高揚感をもたらす中脳辺縁系経路への入力には、内在性物質の非常に驚くべき「薬局」がかかわっている。これらの内在性物質には、脳自身のモルヒネ/ヘロイン(エンドルフィン)、脳自身のマリファナ(アナンダミド)、脳自身のニコチン(アセチルコリン)、脳自身のコカイン(ドーパミン自体)などがある。したがって、すべての乱用薬だけでなく、ギャンブル、過食、インターネット使用など多くの非適応的となりうる行動も、快楽を引き起こす最終共通経路をもつという概念が形成される。これは中脳辺縁系経路におけるドーパミン遊離を誘発することから生じ、その遊離は自然に生じるというよりも、しばしばより爆発的でより快楽的に生じる。このような薬物の処方設計では、薬物は脳自身の神経伝達物質を飛び越え、これら同じ薬物に対する脳自身の受容体を直接刺激し、ドーパミンを遊離させる。脳ではすでに乱用薬に似た神経伝達物質を使用しているので、報酬を自然に得る必要はない。なぜなら、脳の自然な報酬系による自然な高揚感から得られる報酬よりも短時間に強力な、乱用薬からの求めに応じた報酬が得られるからである。しかし、自然な高揚感と異なり、薬物誘発性の報酬は悪魔的な神経適応の連鎖を開始し、習慣形成へと導いてしまう
 
(『ストール臨床精神薬理学エセンシャルズ第五版、P590』)

 
いったん依存ができあがってしまうと、ちっとも快が感じられないにもかかわらず、依存対象を強迫的に求める状態になりがちだ。それについては以下のように記されている。
 

 嗜癖は恐るべき病気である。ちょっとした楽しみとしてはじまり、腹側線条体でのドーパミン遊離が増加し、前帯状皮質anterior cingulate cortex(ACC)の活動亢進を伴う。また報酬は、習慣回路での制御部位を基本的に抵抗できない無分別で、自動的で、薬物を手に入れようとする強力な強迫的欲動としてしまう。嗜癖者において行動制御を乗っ取った邪悪な習慣回路を、どのような治療機序が抑制するかは現在知られていないので、嗜癖に対する治療法はとても少なく、しばしばさほど効果的ではない。
 
(中略)

 
 ひとたび嗜癖に陥ると、脳は主として薬物それ自体から報酬を受けることはもはやないが、薬物とその報酬の期待anticipationからなお報酬を受ける。これにより、それ自体が報酬をもたらすような強迫的な薬物探索行動がはじまる。つまり、いくつかの研究で示されるところでは、腹側線条体に終わるドーパミン神経細胞は実際一次性の強化因子(すなわち、薬物摂取、食物摂取、ギャンブル)に反応することを中止し、その代わり背側線条体に終わるドーパミン神経細胞は薬物を摂取する前(!)に条件刺激(すなわち、ヘロイン注射筒をもつ、コカイン吸入パイプを手に入れる、カジノに入る等)に反応しはじめる。嗜癖に陥ったときには薬物探索と薬物摂取はおもな動機づけの欲動となるので、このことが説明しているのは、嗜癖に陥った人は薬物を入手しようとしているときには興奮し動機づけられているが、薬物に関連しない活動が目の前にあるときには引きこもって無関心になっているという理由である。薬物乱用が強迫性のこの段階に至ると、これは明らかに非適応的な保続行動、つまり習慣やパブロフの条件反応であり、もはや単にちょっとした悪さとか誘惑に負けたなどという状態ではない。
 
『ストール臨床精神薬理学エセンシャルズ第五版、P592-593』

嗜癖や依存症がきわまってくると、依存対象をほとんど自動的に追いかけるようになってしまい、にもかかわらず苦しさばかり先立つ。そうなってしまうのは、もともと報酬系のなかで大きな役割を担ってきた腹側線条体が反応をやめてしまい、かわってパターン的な行動を司る背側線条体が反応するようになり、パブロフの犬のような条件反射っぽい動機付けが先立つ状態になってしまうかららしい。たとえば覚醒剤依存に陥った人が、常人には理解できない執念深さで覚醒剤を追いかけてしまうことがしばしばあるが、あの現象などは、覚醒剤という人工的かつ爆発的すぎるドーパミン遊離によって報酬系の調子がおかしくなってしまい、動機付けの神経回路が変わってしまったとみればわかる気がする。
 
もちろんこれは深刻な事態だ。人間の動機やモチベーションの回路が変質してしまえば、人間の行動も変質してしまい、依存の対象に対する異様なまでの動機付けは、ほとんど必ず社会適応の足を引っ張るだろう。背側線条体サイドのドーパミン神経細胞が中心的役割を果たすようになる頃には、もう、依存対象から快楽を得ることさえ叶わなくなり、依存対象を条件反射的かつ強迫的に求める人になってしまう。各種依存症にみられる「やめたくてもやめられない」「気持ち良いのでなく苦しいのにやめられない」の境地は、報酬系が変質してしまった後の境地なのだろう。
 
 

個人差と状況の差を意識しておきたい

 
なお、実際の嗜癖/依存症をみている限りでは、報酬系が変質してしまうか・なんとか持ちこたえるかにはさまざまな差がかかわっているように見える。
 
ひとつには個人の体質的・遺伝的な違いの問題。たとえばドーパミンと一緒に報酬系にかかわる物質であるエンドルフィンは、内因性オピオイドという物質にあたるが、これが脳内でどれぐらいつくられ、どれぐらい利用されるのかには個人差がある。もともと内因性オピオイドが体内でそんなにつくられず、利用もされていない人は、洪水みたいなオピオイドに対して脆弱かもしれない。ドーパミンもエンドルフィンも、脳内での分泌・代謝・流通には個人差がある。それらが介在する神経回路がどれぐらい接続しあっているのかの度合いにも個人差がある。その個人差により、同じ物質・同じ体験がもたらす転帰は左右されるだろう。
 
それからもうひとつ、臨床的にみると、依存に至ってしまう人はしばしば「依存対象となる物質や行動以外に逃げ道がない状態」に置かれていることが多いようにみえる。ここもミーティングの議論のなかで複数の筋から出た話だけど、他にも頼れる宛先が色々とある人は(比較的にせよ)依存に至りにくい。たとえばギャンブル症やゲーム症やアルコール依存症が、依存症という言葉が似合うほど深刻な事態に向かっている時、その患者さんの置かれているシチュエーションやプロセス自体が深刻で、モチベーションの宛先が袋小路みたいになっていることが多い。
 
 

ドーパミンの報酬系以外での役割

 
ドーパミンに関しては、報酬系で仕事をしている以外にも色々な役割を担っていることを知ってもらいたいので、もう少しだけ付け加えさせていただきたい。
 

 
これは、割と古くから精神科領域のなかでも統合失調症を語る際に図示されている「ドーパミン仮説」の図だ。「統合失調症領域のドーパミン仮説」とは、統合失調症の発病にはドーパミンの過剰分泌、それも、中脳辺縁系における過剰分泌がかかわっている、という仮説で、それはドーパミンの流通をブロックする薬が幻覚や妄想を減少させることとあわせて論じられてきた。最近は「グルタミン酸も大事だ」とかいろいろな話が出てきているため、この仮説をあてにしすぎるのも考え物だが、ドーパミンの過剰や過小がもたらす出来事を知るうえでこの図は便利だ。
 
この図をとおして意識していただきたいことをふたつ挙げる。
 
ひとつは、幻覚や妄想の出現と、報酬系の「快」を司っているのが同じ中脳辺縁系*6であることだ(図中b)。ここでドーパミンが出過ぎてしまうと報酬系のはたらきが乱れるだけでなく、幻覚や妄想が出現してしまうかもしれない。逆に、ここのドーパミンが枯渇してしまうと統合失調症の陰性症状や双極性障害/うつ病で出現することのあるアンヘドニア*7やアパシーなどを引き起こすかもしれない。ドーパミンが増えすぎる状態や病態がしばしば幻覚や妄想を伴ったり、報酬系のはたらきが乱れてしまった後の人においてアンヘドニアやアパシーが起こったりするのは、中脳辺縁系という場所とはたらきの性質を考えると、なんだかわかる気がする。乱用薬に手を出すのはもちろん、報酬系をむやみに乱すような行動の繰り返しには気を付けておきたいものだ。
 
もうひとつは、ドーパミンが身体機能に対しても重要な働きをしているってこと。
たとえば上掲の図には、下垂体に向かって伸びているシナプスが記されている(図中d)が、実はドーパミンは、下垂体にあるプロラクチンというホルモンが出過ぎないようにする調節弁みたいな役割も果たしている。なんらかの理由でここのドーパミンが足りなくなると、そのプロラクチンが増えて、その結果……母乳が出るようになってしまう。関連して、骨粗鬆症のリスクが高まったり月経サイクルがおかしくなってしまうことがある。
 
黒質からスタートして線条体に向かうシナプス(図中a)にも注目していただきたい。ここでのドーパミンの役割は、身体運動を調節する機能だ。なんらかの理由でここのドーパミンが足りない状態ができあがると、その人はパーキンソン病のように身体の動きが悪くなってしまう。というより、黒質線条体においてドーパミンを分泌する神経細胞がだめになってしまうのがパーキンソン病だ。
 
それから中脳辺縁系のドーパミンと同じく腹側被蓋野からシナプスが出発し、前頭葉に向かってシナプスが伸びていく中脳皮質系(図中c)。この中脳皮質系は、認知機能や実行機能、感情の制御にかかわっていると言われている。なんらかの理由でここのドーパミンが足りない状態ができあがると、統合失調症の陰性症状のような状態、認知機能の低下や感情面での粗っぽさなどを招くといわれている。
 
あと、図には記されていないけれども循環器内科の領域ではドーパミンは血圧が下がった人の血圧をあげるための薬としてしばしば用いられる。ドーパミンはカテコールアミンと呼ばれる物質の一種で、アドレナリンやノルアドレナリンの親みたいな物質にあたる。カテコールアミンたちは血管を収縮させる作用を持ち、血圧をあげる方向に働くが、それぞれの物質はそれぞれに効果が微妙に違ってもいる。
 
重要な体内物質はえてしてそうだが、ドーパミンも、一言では簡単に言い表せない複雑かつ重要な仕事を担っていて、動機付けやモチベーションにせよ、身体機能にせよ、他の神経伝達物質たちとも協同しながらえらく複雑なことをやっている。でもって、これらの機能は結局、臓器や細胞のはたらきによって生じるものだから、膝関節や肝臓、血管といったほかの臓器や細胞たちと同じように、大事に使ってあげるのが望ましいと思う。
 
すっかり長くなってしまったので、この文章はここで止めます。もっと詳しく&正確に知りたい人は医学書をどうぞ。
 
 

*1:この文章のなかで「ドーパミン等」とときどき書いているのは、報酬系に関与する物質にはたとえばエンドルフィンやアセチルコリンなども含まれ、それらとて依存形成と無縁ではないからだ。そして人間の行動の制御には、ストレスに関連したHPA系や甲状腺ホルモン、テストステロンなどの性ホルモンも関与している。その全容をここで書ききるのはとうてい無理だ。

*2:というより哺乳類が、と言い直すべきかもしれない

*3:仮に、そのような繰り返し大成功がおさめられる狩場や漁場があったら、それこそ報酬系を介するかたちで、狩人や漁師はその同じ場所・同じ方法で狩りや漁撈を繰り返すようモチベートされ、個人の適応、ひいては集団の文化や風習ができあがっただろう

*4:注:努力の量に対し、想定していたよりも大きな報酬や達成が得られたと感じられる状況

*5:筆者注:ここでは各種依存症のことを指しているとみなしてだいたいOKです

*6:腹側被蓋野から側坐核にシナプスが伸びている系のドーパミン

*7:無快楽状態

文系の権力とは何か

 
今日は、文系の権力とは何か、について現時点の私の考えをまとめてみる。
 
先日、地方の理系男子学生について東大の文学部教授氏が「支配階級の再生産だ」と述べていたが、私には中央の文系エリートの持つ力と、支配階級の再生産が気になった。それを書いたのが下記の文章だった。
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 
 

文系理系の将棋のメタファーは王将と金将を過小評価している

 
それに対して、Xで以下のような突っ込みをいただいた。
 


 
うん、だけど、中央の文系エリートが持つ権力は代えが利かないし、魅力的だよね……。
 
インターネット上では、文系と理系の力関係を示すメタファーとして、しばしば下のような将棋盤が引用される。
 

 
しかし、このメタファーは王将や金将の力をうまく表現できていない。確かに理系の力も弱くはない。それはテクノロジーの力で、飛車角に比喩されるのがお似合いだ。理系とそのアウトプットを適切に使役すれば、ロケットを飛ばしたり通信網をつくったり、生物・自然界・宇宙のメカニズムを解明したりできる。
 
では、文系の力とは何なのか。
一言で言えば、それは人を統治する力、人を動かす力、そして社会と人間がどうあるべきかを定める力だ。権力、と言い換えても差し支えないだろう。
 
たとえば理系は男女の生物学的な機能の違いを研究することができる。だが、社会のなかで男女がどうであるべきか、社会のなかで男女の生物学的な機能の違いをどう取り扱うべきかを決めるのは理系ではなく文系、とりわけ文系エリートたちの領分だ。
 
同様に、社会や自然がどうであるかを解明し、それらを変えていくためのテクノロジーやツールを生み出すのは理系の役割*1だが、理系が生み出したテクノロジーやツールをどう使うのか、なんなら禁止にしてしまうのかを定めるのは文系、とりわけ文系エリートの仕事にあたる。文系の仕事は社会を規定し、社会を変えてしまい、人を規定し、人を変えてしまうものだから、将棋のメタファーでいえばまさに王将にふさわしい。将棋における王将とは違って、文系は、人間社会という盤上のゲームルールを改変する権限にもかかわっている
 
その源流に位置しているのは、哲学や倫理学だ。これらの学問は、生半可なことでは食っていけないし、そのトップに位置するまでの道のりは恐ろしく険しい。しかし、本当の本当に社会統治の中心にいて、社会がどうであるべきかに論及するにあたって最も正当性の高い位置と専門性を握っているのは、彼らである。
 
だからもし、そのように正当性の高い位置を占めている者が特定の立場の人々を非難するステートメントを発するとしたら、その影響力を等閑視すべきではないと思う。そのような発言、そのような意見が未来の社会実装を左右する可能性を低く見積もるべきではない。そのように正当性の高い位置を占めている者が胸先三寸で社会を壟断するなどあるわけがないし、また、あってはならないが、腐敗した社会においてはそうした出来事も起こるかもしれない。
 
そうした文系エリート中枢の周辺には、実働部隊が位置している。立法、行政、法曹を司る人々は、哲学や倫理学を参照しながら、社会統治の実務を担っている。たとえば裁判所や裁判官の決定にはどんな理系も逆らえないし、理系がつくったテクノロジーやツールが社会のなかでどう活用されるべきかを(法にもとづいて)定めるのは立法に携わる人々だ。法に基づいて社会が統治され、その統治を支えるために警察機構も含めた行政組織が整備されている近代国家においては、すべての人が法にもとづいて行動するよう期待されている(法を無視すれば罰せられるだろう)。法に基づいた裁定が下った際には、どれほど才能のある理系のエンジニアでも逆らうわけにはいかない。法が執行される際には、国家機構の末端に位置する役人や警察官の指示にも従わなければならない。
 
理系はこうした法治に全面的に従う。理系が法治を従えることなどできない*2。近代国家と現代社会は法に基づいていて、権力の流れの水源には哲学や倫理が、本流には法治にかかわる諸学と専門家が配置されていて、権力を差配している。その権力の流れに理系が口出しする余地は無い。
 
それから官僚組織も忘れてはいけない。たとえば厚労省は日本国憲法や関連法律に基づいたかたちで医療や福祉や労働環境を司っている。厚労省そのものには理系の力、いわば飛車角や香車の力は欠けているかもしれないが、厚労省は理系の力を従え、理系の人々をも従え、みずからのビジョンに基づいて医療や福祉や労働環境のこれからを主導していく。
 
どのような医療行為が適法でどのような生(と死)が好ましいのかを決めるのは、厚労省だったり法曹だったり倫理学者や哲学者だ。そのバイオポリティクスの枢要を握っているのは現場の医師や患者ではない。もちろん、統治の実働部隊も民草の声に耳は傾けよう。しかし民草の声だけを聴いているのではなく、倫理学者や哲学者たちの声、さらに、それらを踏まえた法学者たちの声にも耳を傾けている。いずれかひとつの職業、ひとりの人物がすべてを独断できるわけではないとしても、学識経験者たちひとりひとりの影響力は民草のひとりひとりの声に比べれば遥かに大きい。
 
 

キリスト教とその神学の末裔たちの持つ力

 
私の理解では、ここまで述べてきたような人を統べる役割を担ってきたのは、過去のヨーロッパ世界ではキリスト教とその神学だったと思う。
 
太陽と大地の関係はどうなっているか・人はどこから生まれてどこへ行くのか──そうした問題は、今日なら自然科学の問題とみなされようが、キリスト教全盛期においては神学的な問題だった。世界や自然を語ることは、そのまま創造主を語ることに通じる。同じく、日曜日はどのように過ごすべきか、キリスト教徒は何を是とし何を非とすべきかも、キリスト教全盛期においては法の問題である以上に神学的な問題だった。
 
もちろん、そうやって世界や自然や人間について語ることは権力に通じることだし、そうした解釈権を独占することは教会にとって大きな力となる。どこかの馬の骨が勝手に世界や自然や人間について語り始め、かくある/かくあるべしを語るのは畏れ多いことだ。神学はいつも自然科学に優越していたから、神学に触ることを言い立てる自然科学者は煙たがられただろう。たとえばガリレオガリレイのように。
 
だからといって、キリスト教とその神学が硬直していたと考えるのも、たぶん間違っている。
 

 
キリスト教とその神学は「アップデート」してきた。レコンキスタに前後するギリシア哲学の再発見、大航海時代の始まり、個人主義や資本主義の芽吹きといったインパクトに対し、キリスト教とその神学はけっこう対応できていたほうだと思う。そうして世界が広がっていくたびに、キリスト教とその神学はその広がりにあわせて軌道修正し続けてきた。その軌道修正のスピードはガリレオガリレイやマゼランやニュートンに比べて遅かったかもしれない。が、遅ればせながらもアップデートできたからこそ、キリスト教とその神学はそっぽを向かれることなく、フランス革命あたりまで健在だった。世界がどうであるか、人間がどうであるべきかを取り仕切るキリスト教は、植民地において原住民をどう処遇すべきか、非ーヨーロッパ世界の文明をどう支配すべきかにも論拠を提供した。大砲や大型帆船や胸甲騎兵が世界を征服していった時、統治や正当性の次元でヨーロッパを支え続けたのはキリスト教、それもアップデートし続けるプラグマティックな文系パワーとしてのキリスト教だ。
 
政教分離の国民国家の時代が到来し、世界の解釈が自然科学=理系に委ねられたフランス革命後の欧米においては、少なくとも表向き、キリスト教はそうした役割からリタイヤした。代わって台頭したのは、まさに文系エリートの中枢、哲学や倫理や思想の次元のイノベーターたちだ。ロックやルソーやアダムスミスといった人々は、社会がどうであるべきか、人間がどうであるべきかに論及し、それらが今日に至るまで、社会がどうであるべきか、人間がどうであるべきかの根幹にかかわる論拠になっている。
 
この次元において、ペンは明らかに剣よりも強い。彼らとその著作物はダイレクトに人を殺さない。が、社会がどうであるべきか、人間がどうであるべきかを決めるのはペンであって、剣ではない。今日に至るまで、文系エリートの最高峰の人々の仕事は私たちの社会の隅々にまで存在している──現代の東京において女性が夜に一人歩きしても安全で、且つ安全であるべきなのも、コンビニにおいて客が誰であれ定価で商品が購入でき、且つ購入できるべきなのも、遡れば近世~近代に活躍した哲学や倫理や思想のイノベーターたちの仕事のおかげと言える。彼らの弟子筋にあたる倫理学者や哲学者や思想家の役割も軽視してはならない。社会がどうあるべきかに論及し、社会の未来を方向付けるのはたいてい文系エリートたちだ。そして現在の社会をかたどり、社会を回しているのも文系エリートたちだ。
 
だから、キリスト教とその神学が担っていた仕事のうち、統治に直接かかわる領域の仕事は文系エリートたちに継承されていると、私は思う。そして聖書を読み聞かせる組織としてのキリスト教、住民台帳を管理する組織としてのキリスト教も、官僚組織とそれを司る文官たちに継承された。こうやって点検してみると、文系エリートたちの権力はとてつもない、と言わざるを得ない。今日の哲学者や倫理学者の仕事は、国家レベルの権力の流れの一番上流に存在する、ごく小さな泉のようにみえるが、しかしそれは権力の大河の水源地だ。その水源に端を発した権力は、立法や行政や司法のなりわいをとおして、ひいては官僚組織や行政組織のなりわいをとおして、巨大な権力となって私たち全員をすべからく統治し、人を、社会を、街をつくりあげる。そうしてできあがった体制に逆らうことはきわめて難しい。そもそも、そうした統治や体制はあまりにも当たり前になっているから、上流から下流へと流れる一連の権力の流れを日常生活のなかで自覚する機会はほとんどない。
 
 

経済セクターの話をまぜると、文系の権力はもっと大きくみえる

 
なお、ここまで経済セクターの話をしなかったが、日本の理系ー文系分類でいえば、経営学や経済学も文系の範疇に入る。貨幣は英語でcurrencyと呼ばれるが、究極的にみれば貨幣は信用や権力の一形態だから、これも文系が統べるものとしてふさわしくはある。一流企業においては、ここまでの話に直接かかわる法務部のような部署はもちろん、役員や従業員も今日の文系的な統治のありかたにリテラシーを持っているよう、期待される。すなわち、どのような正当性に沿って企業は運営されるべきか*3、社内のコミュニケーションはどうあるべきか、従業員のモチベーションや職場のウェルビーイングはどうあるべきかが、きちんとわかっていて絶えずアップデートされていくことが期待される。なぜなら、そうでなければホワイトな企業やホワイトな職場は運営できないからだ。
 
こうしたホワイト志向、企業や社員を文系の論理に沿ってクレンジングしていく方向性じたいも、文系権力のはたらきによって生じていると言えよう。そうした作用への自覚の有無にかかわらず、実際、ホワイトな企業のホワイトな社員は文系的な統治のありかたに対して高いリテラシーを持っているようにみえる。
 
そういうわけで、小さなガレージで理系たちがテクノロジーの産物を完成させ、テックベンチャーとして旗揚げしても、そこが理系の楽園でいられる時間は短い。企業として成長し、社会の公器とみなされていくにつれて、その企業はホワイトカラーたちの力を借りなければならなくなるし、遅かれ早かれ、その企業、そのテクノロジー、そのツールは文系たちの統べるものになっていく。
 
 

背広組には逆らえない。背広組がいなければ企業は(社会は)回らない

 
だから、経済セクターにおいても文系の権力、人を規定し人を変えてしまう力、ひいては人間を統治する力は(いろいろな意味で)強力で、はじめは理系がリードしているようにみえた企業でも、最終的な主導権は背広組のものになってしまう。とはいえ、大規模な企業、公器としての企業が円滑に動き続けるためには文系的な知・専門家・リテラシーといったものが必須なのも事実で、背広組は不要だ、といった考え方に安易になびくものではない。
 
長くなってしまったのでもうやめるが、このように、倫理や哲学、法治や政治、経済や企業活動のめちゃくちゃ広い範囲で、人を統治し人を動かすための知と、それを司る文系エリートたちは活躍している。
 
理系だけが社会を支えているわけでも、アップデートしているわけでもない。文系も社会を支えて、アップデートさせている。そしてもし、人を統治し、人を動かす力を権力と呼ぶとしたら、文系はまさに権力にかかわる領域で、文系エリートたちを権力者と呼ぶことは可能だと思う。そうした権力を、理系は蓄積させることができない。権力を蓄積させ、みずから刷新し、巧みに使いこなして人と社会を変えていくのは文系の仕事だ。
  
 

*1:補足:社会学のなかでも統計学を駆使する社会学は、理系に近い役割を果たすことがある

*2:理系が発明したテクノロジーやツールが法治に新たな問題を持ちこむことはあるが、遅かれ早かれ、そうした新たな問題も法治によって回収される

*3:くだけた言い換えをすると、「どういう運営なら警察や裁判所のお世話にならないで済むか」になるだろうか