シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

明後日のガンダム──『ガンダム水星の魔女 第一期』感想

<この文章は『機動戦士ガンダム水星の魔女』一期のネタバレを含みます。ネタバレが嫌な人は読まないようにしてください。>
 

 
 
今週、やっと『機動戦士ガンダム 水星の魔女』を視聴できた。ねとらぼの記事が示しているように、『水星の魔女』の第一期最終話はツイッターのトレンドを埋め尽くすほど話題になって、ネタバレを避けるためにツイッターも避けなければならなかった。というよりトレンドを埋め尽くしていること、それ自体がネタバレで、波乱が予想された。
 
以下、ネタバレにまったく配慮せず、『水星の魔女』を視て思ったことを書き残していく。
 
感想を一言にまとめるなら、『水星の魔女』の第一期は「明後日のガンダム」だった。
 
これからのガンダムを模索しているという意味でも明後日のガンダムだったし、第二期が始まるまで首を長くして待たなければならないという意味でも明後日のガンダムだったし、最終話のガンダムエアリアルが明後日の方向にガンダムらしかったという意味でも明後日のガンダムだった。
 
『水星の魔女』は、主人公のスレッタが女性でミオリネのお婿さんという、そういう設定のガンダムだった。この設定じたい、新しいガンダムを創ろうという決意にみえ、実際、『水星の魔女』は旧来のガンダムはちょっと……という人にもリーチする作品になっているようにみえた。スレッタは面白い人で、姫様めいたデザインのミオリネと二人でいるとらしくみえる、そういう人だった。こういう主人公なのかーと思いながらも、すぐに慣れることができた。
 
思えば、前作『鉄血のオルフェンズ』も前々作『ガンダムAGE』も、新しいガンダムを模索し新しいファン層を獲得するため努力していた。本作からもそうした意欲が感じられ、その意気込みを嬉しく思う。
 
新しいガンダムという意味では、ツイッターで話題になるよう、ストーリーが練られていた。最終話に限らず、放送後のツイッターのトレンドに『水星の魔女』が何度も入ったのはそういうことだろう。視聴者がツイッターでおしゃべりしたくなるつくりは、第一期最終話で最高潮に達した。
 
視聴後に視聴者がしゃべりたくなるつくりは、もちろん『水星の魔女』が最初というわけではない。どのアニメもある程度はそうだし、『まどか☆マギカ』も、『ひぐらしのなく頃に』も、『新世紀エヴァンゲリオン』もそうだった。『ツイン・ピークス』もそうじゃないかという声も聞こえてきそうだ。さておき、ガンダムの系譜のなかでは『水星の魔女』が突出してそのあたりがしっかりしているように見えたし、SNS映えを意識しているようにみえた。
 
そうしたわけで、第一期最終話の視聴後には、スレッタ達がこれからどうなるのか見たい気持ちがたっぷりと残った。第二期を一日千秋の思いで待つしかない。このあたりは、制作陣の狙いどおりなのだろう。
 
第一期の物語は後半になって雲行きが怪しくなり、遂に戦争が始まった。スレッタにとってかけがえのない相棒であり、医療機器としての可能性を象徴していたガンダムエアリアルが人殺しの武器であるさまもくっきりとした。そのあたりも含めて、ガンダムエアリアルはちゃんと「ガンダム」を、それも「主人公が乗るガンダム」をやっていただろうか。
 
ガンダムと銘打たれた作品を視る時、私がいつも意識することが二つある。ひとつはガンプラを買いたくなるようなガンダムが描かれているかどうか。もうひとつはガンダムが(ちょっと反則にさえ思えるパワーをも発揮して)局面を変えていくかどうかだ。
 
ガンダムと銘打たれているからには、ガンプラが売れなければならない。販促キャンペーンとしての側面は歴代ガンダムについてまわる使命だった。別に、視聴者はそんなこと意識しなくてもいいのかもしれないが、思わずガンプラを買いたくなるような、魅入られるようなガンダムであることは、ガンダムという作品にとって大事なことだと私はいつも思っている。
 
後でも触れるけれども、『水星の魔女』のモビルスーツ戦はメチャクチャ凄いわけでなく、視聴者に読み取ってもらうべきメッセージを読み取ってもらえればそれで良し、といった様子だった。モビルスーツ戦に大きな労力を割いて視聴者を魅了しようとしているわけではない、のだろう。とはいえ、ガンダムエアリアルの戦闘シーンではこれが特別なガンダムであり、他のモビルスーツとは違うということを、工夫をとおしてみせてくれていたと思う。くるくる動くガンビットもそうだし、最終話の高エネルギー兵器もそうだ。このガンダムだけが(今のところ)ガンドフォーマットの呪いをみせないのもそうだと言える。
 
そうしたわけで、『水星の魔女』はモビルスーツ戦をローコストで描きつつ、それでもガンダムエアリアルを格好良く特別なモビルスーツとしてみせて、なんとかガンプラを買ってもらおうと頑張っているんだろうと私は感じた。
 
もうひとつのガンダムらしさ、ガンダムが局面を変えていくかという点では……ガンダムエアリアルは確かに局面を変えた。局面は変わってしまったのだ。ただし今回のそれは、明後日の方向からの変え方だった。
 
よくあるガンダムらしさは、最終話にはオーラを放ったりすごい力を発揮したり、ちょっとチート臭くてもいいからガンダムが戦局をねじ伏せたりするものだった。『鉄血のオルフェンズ』の第一期のラストなどは、そんなガンダムらしさがいかんなく現れていたと思う。
 
ところがスレッタの操るガンダムエアリアルがやったことといえば、ノーマルスーツを着た兵士を素手で潰しただけだった。決定的なそのシーンには、オーラもチート臭さもない。ガンダムが巨大な人型兵器であること、その一端がわずかに現れただけで局面が変わってしまった。少なくとも変わってしまったかもしれないように見えた。
 
これも後で触れるけれども、スレッタがガンダムエアリアルで人を殺めるまでの経緯のなかで、スレッタがどう心変わりをしたのか、ミオリネがどうしてあのように反応したのか、私はわかったような、よくわからないような気持ちになっている。それでもスレッタが人殺しへの大きな一線を越えてしまったこと自体は、視聴者にくっきりわかるよう描かれていたと思う。兵士の血の飛び散る床にスレッタが一歩踏み出す描写、グエルの父殺し、血糊に着地してしまうスレッタという流れを見れば、誰にだって彼女が血塗られた道を進んでいると連想するだろう。そのうえで思い出す「逃げれば1つ、進めば2つ」といういつものフレーズは味わい深い。
 
戦争の渦中にあるガンダムパイロットは、しばしば人を殺めてしまう。それ自体、珍しいことではないけれども、コックピットを撃ち抜くとか、モビルスーツ同士の戦いをとおしてそれが起こるとか、そういった事例が多かった。こうした、モビルスーツの巨大さで一方的に人間を潰し、そのことが局面を変えてしまうのは記憶にない。
 
どちらにしても急転直下の展開で、それを第一期の終わりに持ってくるのはなるほどだった。まさかこんな風にガンダムが局面を変えてしまうなんて。第二期を楽しみに待つしかない。
 
 

そのほか色々

 
そうしたわけで、全体としては『水星の魔女』はとても楽しめたし、私のなかでは「これもガンダムだよね」と腑に落ちるものがあった。以下は、もっとまとまらない感想の断片だ。
  
 
・モビルスーツとその戦闘は、『ガンダムAGE』に比べればちゃんと描かれているけれども、気合が感じられるものではなかった。どちらが勝つのかわからないような迫真の戦闘ではない。ただ、筋書きどおりの戦闘を目で追えるよう工夫されているのはみてとれたし、ガンダムエアリアルが登場する場面は他の戦闘よりもアテンションを集中させたくなるような、そういう工夫もあったと感じた。
 
・実弾兵器を巡っての「宇宙を汚す」「汚さない」という台詞、スペーシアンが地球を汚す云々という台詞が唐突と感じた。確かにスペースデブリを出すのも地球を汚すのも問題に違いない。でも、アーシアンとスペーシアンの対立以上の、環境の問題ってそんなに登場していただろうか。公式サイトの用語集を観に行っても、環境をめぐる問題は記されていない。気にしないほうがいいんだろうか? でも作中でそういう言葉が出てきたからには、それは有意味であるはずで、無意味とは思えない。
 
・わからないといえば、なぜスレッタがいきなり人を殺してしまうことになったのか、その筋がわからなかった。母に色々言われたのはわかるし、そのとき何か大事そうなことを言っているようなBGMが流れていたけれども、一般に、そんなに簡単に人が殺せるようになるだろうか? 実際、母に色々言われるまでのスレッタは眼前の殺人にすっかり動揺していたことを思えば、あまりに急な変化すぎる。戦う必要を感じていたからといって、モビルスーツで人を殺し、しかも殺した後に良心に呵責すらみせないスレッタのあの状況は不審だと感じた。母親が何かをやらかしたのではないだろうか。そうでないとしたら、スレッタのあの心境変化には納得がいかない。
 
・他方、ミオリネは状況に怯えていて、父の悪口をつべこべ言いながらも常識的だった。スレッタの、人を殺して血糊まみれになっても笑顔だったさまと好対照といえる。ほかの学生たちも戦争の始まりに大きく動揺していた。それらがまた、スレッタの異様な様子を際立たせている。
 
・地球の魔女、という言葉から何かが察せられるにせよ、結局、母親の考えや手札は伏せられたままだ。シャア・アズナブルやラウ・ル・クルーゼになぞらえるなら、仮面をつけているのは悪役ということになるが。
 
・この作品は学園が主な舞台で、そのためか空間的にちょっと狭い感じがした。コロニー内外の決闘も含めての感触だ。では、学園を出たら狭さが解消されるのかと思いきや、やっぱり狭いままだった。空間的広がり、特に宇宙についての広がりがこの作品からは不思議なほど感じられず、地球・月・コロニーの位置関係や距離感覚もピンと来ない。これは、火星圏~地球圏の広がりをさまざまに描いていた『鉄血のオルフェンズ』とはぜんぜん違っているところで、宇宙世紀系のガンダムシリーズとも違っているところだ。最終話の戦闘もなんだか狭苦しく感じられ、艦隊が5分で駆けつけるという描写があっても解消されなかった。だいたい、あの艦隊はどこから湧いてきて5分で駆けつけたのだろう?
 本作品の力点は、宇宙の広大さを描くところにあるわけではない。それはわかる。でも、いくらなんでも空間的広がりについては紙芝居じみていないか? 『水星の魔女』という以上、いずれ水星圏も出てくるのかもしれないけれども、この空間的描写で大丈夫なのか? 第二期で広大な宇宙空間を意識させるために、第一期ではあえて空間を狭く、広がりを意識させないよう描いたのかもしれない。制作陣がどのような意図でもって空間的広がりが把握しづらいよう作成したのか、意図的な結果なのか意図せざる結果なのか、今の段階では判断がつかない。
 
・登場人物の多いアニメだ。アーシアンの生徒たち、決闘委員会とその取り巻き、ベネリットグループの面々、宇宙議会連合のエージェント、等々。それでもなんとかついていけたが、なかなか大変だ。このすごい数の登場人物たちがこれから何をするのか、今の段階で想像できることは少ない。
 
・結局のところ、第一期を観て何がわかったのだろう? 気が付けば、なにもわからなかったのではないか? 放送後、さんざんツイッターは盛り上がった。人が死んだり、びっくりすることが起こったりしたから。だが、物語の核心に触れる情報についてはほとんど何も出てこなかったのではないか。まるで『ひぐらしのなく頃に』の前半みたいだ。情報面では、大山鳴動して鼠一匹、ツイッター上のから騒ぎでしかなかった。SNS映えする作風として評価できると同時に、もしもSNS映えしかない作品だったら嫌だなぁ、という危惧もある。本作品がツイッター上のから騒ぎでしかないのか、傑作の輪郭がこれから露わになってくるのかも、今の段階では情報不足のために想像できることがすごく少ない。
 
・たくさんの登場人物を御し、スレッタやミオリネをはじめ魅力あるキャラクターを動かし、新しいガンダムをやっている。そこまででも立派だけど、それが第二期をとおしてどう転がるのかは予断を許さない感じだ。『鉄血のオルフェンズ』も対モビルアーマー戦あたりまでは相当のものだったわけで、結局全話終わってみるまでわからない。ともあれ、21世紀ガンダム最高傑作の誉れある作品になっていただきたい。がんばれ『水星の魔女』!
 
 
登場人物評もしたかったけれども、すっかり長くなってしまったのでこのへんで。
 
 

承認欲求モンスター、それは短所か長所か

 

 
昨日の『ぼっち・ざ・ろっく』の感想の続き。というか正月に書き損ねた話でもあったので書いてしまおう。
 
「承認欲求モンスター」についての話だ。
 
昨日の感想文のなかで

『ぼっちざろっく』は、確かに脱臭されまくったロックバンド女子アニメではある。ぼっちちゃんが本当は美少女であるのもずるいことだ。

と書いたところ、はてなブックマーク上で

脱臭された聖域でも、ぼっちちゃんの輝く世界は美しかった──『ぼっち・ざ・ろっく』感想 - シロクマの屑籠

最も現実的(not都合の良い世界)なのがぼっちちゃんが中学時代に異常な練習量を積み上げていること(容姿なんかよりそれが才能)で、むしろそれが活躍の大前提なのは残酷だなとは思う(リョウ、虹夏も中学からの経験者)。

2023/01/07 08:38
b.hatena.ne.jp*1
というコメントがついていた。
 
これは本当にそうだと思う。ぼっちちゃんは中学時代に異常な練習量を積み上げていた。結果、高度な演奏技量を身に付けていく。音楽や数学は先天的素養が大きくモノをいう分野なので、そうした素養にもぼっちちゃんは恵まれていた、とみることもできる。でも、どんな才能の原石も磨かなければ光らない。ぼっちちゃんが異常な練習量を積み上げられたことが大きな力になっているのはそうだと思う。
 
じゃあ、ぼっちちゃんは何故、異常な練習量を積み上げられたのだろう?
 
それは、人に褒められたかったから、認められたかったからだったよう記憶している。第一話のはじめ、ぼっちちゃんがテレビ番組を見て「陰キャでも人気者になれる」と思い、ギターを手にした。そして「私みたいなのでも輝ける」「みんなからチヤホヤされるんだ」とつぶやいていた。ぼっちちゃんがギターを弾き始めた動機が音楽への興味ではなく、他者からの承認だったのは、興味深い設定だと思う。
 
インターネット世間では、こういう「他人からの承認が目当ての活動」は長続きしなさそうで、大成しなさそうで、ときには悪く言われやすいものだ。ところがぼっちちゃんはそうではなかった。承認目当てでギターを買い、結局続かなかった人間なんて世の中にはいくらでもいるだろう。ぼっちちゃんは違った。それは凄いことだ。だとしたらポジティブな意味でもぼっちちゃんは承認欲求モンスターではないだろうか。
 
作中、承認欲求モンスターという言葉が出てきた4話では、それはコントロール困難な、厄介な内面として描かれていた。ぼっちちゃんは言う──バンドをやって人気者になろうとしているこじらせ人間がSNSを始めたら「いいね」を欲しがるモンスターになってしまう、と。現実にも、「いいね」を欲しがるモンスターになってしまう人は後を絶たない。ストレートに「いいね」が欲しいと自覚できるタイプはまだかわいいほうで、ほとんど無意識のうちに、いわばディープラーニングしてしまった結果として投稿が「いいね」が増える方向に引っ張られる、そういうタイプのほうが厄介だ。「いいね」に金銭や影響力が絡むと「いいね」の重力に魂を奪われる度合いはひとしおになる。
 
しかしぼっちちゃんの場合、それは短所といっても自覚的だからまだマシだ。自分の短所を弁えてSNSと距離を取ったぼっちちゃんのあのシーンは、賢いとも言える。
 
SNS以外でも、ぼっちちゃんは他人からの承認、チヤホヤにめちゃくちゃ弱く、溶けてしまいがちだし顔に出てしまいがちだ。それらもまあ、短所とは言えるだろう。人から褒められたり認められたりするのに飢えていて、慣れていなくて、だから自分がコントロールできなくなるから、ぼっちちゃんは承認欲求モンスターと言える。
 
ところがぼっちちゃんは、正反対の意味でも承認欲求モンスターだった。「私みたいなのでも輝きたい」「みんなからチヤホヤされたい」そうした気持ちに導かれて、異常な練習量を積み上げることができる人はあまりいない。もちろん中途からは、父の勧めで動画配信を進めたおかげでもあるだろう。動画配信で「いいね」を獲得し、それをモチベーション源にしながら一心不乱に技量をあげていけるのも、簡単なようで簡単ではない。ここでは彼女の承認欲求モンスターな側面が、圧倒的モチベーションのエネルギー源となっている。
 
承認欲求モンスターゆえのモチベーションとインターネットと音楽についての先天的素養、そうしたものがうまくかみ合わさってぼっちちゃんという奇跡が起こった。そういった全部をひっくるめて考えると、彼女はポジティブな意味でも承認欲求モンスターだと言える。
 
 

承認欲求モンスターで沈むか、浮かぶか

 
褒められたい。
輝きたい。
チヤホヤされたい。
 
それらの欲求に呑まれてしまうとモンスターじみた振舞いになってしまうかもしれないから、人はしばしば、承認欲求やナルシシズムといった社会的欲求に対して控えめであれ、と語る。ランガム『善と悪のパラドックス』によれば、それは狩猟採集社会の時代から必要な態度で、社会的欲求が悪いかたちで目立った者はパニッシュメントの対象になりやすかったのだという。今日でも、そうした社会的欲求をあからさまにする態度にはリスクがあるといえる。
 
じゃあ、そういった欲求が悪いことにしか働かないかといったら、そんなことはない。チヤホヤされたいから頑張り抜ける人もいるし、誰かのつけてくれた「いいね」が背中を押してくれる瞬間だってあるだろう。オンラインでの欲求充足にリスクがあるのは確かだし、私もそういうことを書いてきたが、全部が全部、残念な結果にたどり着くわけではない。なかにはぼっちちゃんのように、オンラインのどこかで貰った「いいね」を頼りにしながら、内実のある活動をやってのける。
 
というより、ぼっちちゃんのような承認欲求モンスターこそ、いまどきの社会では才能を開花させやすく、輝きやすいのではないだろうか。社会的欲求を充たしたいという願いと、もって生まれた才能と、自分にとって居心地の良いオンラインの場を見出してスキルアップしていける、そのような人物像。それは過去に語られたとおりの危険なメンタリティとしてだけでなく、今の時代に適合したタレントとして語られ得るものでもないだろうか。
 
ぼっちちゃんの場合、社会的欲求を充たしたい気持ちに対し、実際に充たせた経験が絶対的に不足していることが、マイナスになっていると同時に怪物じみた努力を可能にしているふしがあり、いびつだけど強いだなと思う。こういう人は、才能に恵まれ、自分にとって居心地の良い場所を獲得しなければ色々と難しいだろうけれども、ぼっちちゃんはそれらが揃って幸いした。
 
そうしたわけで、承認欲求モンスターとは、ぼっちちゃんの短所であると同時に長所だ。呪いとも祝福とも言いたくなるし、それがぼっちちゃんの個性だよね、とも言いたくなる。
 
世が世なら、そのような個性は開花のチャンスを与えられないのかもしれないし、今の世の中にも、ぼっちちゃんによく似た性質を持ちながら、条件に恵まれず、くすぶっている人もいるのだろう。そもそもぼっちちゃんはエンタメの登場人物として整形された、そういうキャラクターだ。
 
でも、タイムラインに目を凝らしてみていると、その承認欲求モンスターという言葉が短所となって転げ落ちていく人もいる反面、ぼっちちゃんのように、圧倒的継続力と才能と承認が掛け合わさって飛躍する人も見かける。承認欲求モンスター。その言葉をマイナスととらえるのもプラスととらえるのも間違いではない。私なら、ぼっちちゃんの活躍にあやかりたいと思う。
 

*1:コメント転記:最も現実的[not都合の良い世界]なのがぼっちちゃんが中学時代に異常な練習量を積み上げていること[容姿なんかよりそれが才能]で、むしろそれが活躍の大前提なのは残酷だなとは思う[リョウ、虹夏も中学からの経験者]。

脱臭された聖域でも、ぼっちちゃんの輝く世界は美しかった──『ぼっち・ざ・ろっく』感想

 
 

 
 
 
1月1日はアニメ『ぼっち・ざ・ろっく』を観て過ごしていた。まとめてアニメを観ていられる時間がずっと見つからず、元旦しかチャンスがなかったからだ。
 
よくできた、脱臭の行き届いたアニメだった!
 
『ぼっち・ざ・ろっく』は、ぼっちちゃんこと主人公・後藤ひとりがバンドに誘われ、コミュニケーションやメンタルに難しいところがありながらも頑張っていき、活躍し、色々な経験をしていく筋書きだ。筋書きだけ書き出してみると、類似したアニメはいくらでもありそうだし、実際そうかもしれない。が、手を抜いて構わないところや手を抜いたほうが映えるところは手を抜き、頑張って描いたほうがよさそうなところは頑張って描き、キャラクターの魅力もたっぷりでわかりやすく、まったく退屈をおぼえなかった。ぼっちちゃんの、オーバーなリアクションも私は好きだ。
 
このアニメを見て、右のように思わない人はたぶんあまりいないだろう──ロックやライブハウスやバンドが理想郷のように描かれているが、現実はそんなに甘くないよ、と。その片鱗としてか、チケット販売問題が作中で描かれていたが、物語のなかではチケットはそれなり売れて、ぬかるんでいる感じがしなかった。現実にはそのぬかるみは広く深いとは、耳に聞こえてくるところである。女性ばかりのバンドには相応の苦労もあろうし、男性ばかりのバンドにだって相応の苦労があるのだろう。
 
とはいえ、そこはエンタメとして取捨しているのだろうし、その取捨は商業的にも表現方法のうえでも、きっとこれでちょうどいいのだろうと思う。
 
 

社会の平均からズレていても活躍できるアジール(聖域)としての『ぼっち・ざ・ろっく』

 
そうした、エンタメのための取捨を意識してもなお、ぼっちちゃんと仲間たちが一緒に楽器をやって歌を作っていくさまは、見ていて気持ちが良かった。すごく楽しいと感じた。きっと私は、そういう風景のアニメがみたかったのだろう。
 
『ぼっちざろっく』は、確かに脱臭されまくったロックバンド女子アニメではある。ぼっちちゃんが本当は美少女であるのもずるいことだ。それでもなお、ぼっちちゃんとその周辺人物が無菌室的かといったら、そんなことはまったくない。後藤ひとりことぼっちちゃんは、コミュニケーションが極端に苦手で、対人関係に問題があり、他者からの承認に飢えていてそれにめっぽう弱い。いまどきの女子学生としては問題だらけといわざるを得ない。そんなぼっちちゃんの振る舞いから、たとえば社会不安症(社交不安障害とも)を連想するのはいかにも簡単だ。
 
しかし、ぼっちちゃんを社会不安症だと「診断」して、なんになろう。そんなことより、作中でぼっちちゃんが曲がりなりにも仲間たちと頑張っていき、何事かを経験し、技芸の面でも社会経験の面でもなにごとかを為していく、そっちのほうが大事だ。ある文脈・ある状況ではぼっちちゃんはいわゆるコミュ障を通り越して、いわば精神医療の射程距離に入ってきてしまうのかもしれない。まあ入ることだってあるだろう。ところが『ぼっち・ざ・ろっく』で描かれているロックやライブハウスの世界は、また別の文脈・違った状況として描かれている。そこはぼっちちゃんでも経験を積み重ねていけるし活躍できる、そんな社会の片隅だ。
 
型にはまっていないのは、ぼっちちゃんだけではない。金遣いの荒いリョウや酔っ払いのきくりもいる。彼女たちも、ある文脈・ある状況では精神医療の射程距離に入ってきてしまうかもしれない。特によっぱらいのきくりは、色々な人がそのように判断するように思われる。もちろん。けれども『ぼっちざろっく』で描かれているロックやライブハウスの世界では、彼女たちも何事かを経験し、何事かを為している。それは、健康的で清潔で道徳的な秩序ある社会のなかにあって、例外的なこと・貴重なこととしてうつる。
 
ここで描かれているロックやライブハウスの世界を、アジール(聖域・避難所などの意味)と呼んでいいのだろうか?
いいのかもしれない。
でもアジールという言葉をあてがっただけでは、まだ言い尽くした気持ちになれないけれども。
 
管見によれば、ライブハウスの世界には実際問題いろいろな人がいて、いろいろな行動がみられるのだという。脱臭されていないライブハウスの世界、バンドの世界。それらは外側の文脈からみて不健康な場合も不衛生な場合も不道徳な場合もあるのかもしれない。けれどもその世界でなら何事かを経験し、技芸や社会経験を積み重ねていけるのだとしたら、それは悪いことじゃないし、この社会の片隅に、そんな世界があってもいいように思う。そういう世界を失った社会は、口ではどんなにきれいごとを言おうとも多様性ある社会とは言えないんじゃないだろうか。
 
でもって、いろいろな人がいて、いろいろな行動がみられるのは、ライブハウスだけではないはずだ。他のいろいろな趣味領域や仕事領域にも、実際問題いろいろな人がいて、本当はいろいろな行動がみられていた。あえて過去形で書いたのは、今日、そのようなアジール的な世界でさえ、社会と繋がりすぎてしまって、脱臭されなければならなくなって、社会の平均的な価値判断に曝されようとしているからだ。それでもまだ、総体的にアジール的だといえる世界は探せばある。
 
全世界を平均的な価値判断にさらして、均(なら)して、「客観的に」人それぞれの生を評価すべきという人にとって、アジール的な場所は暴かれるべきであり、均されるべきであり、クリーン化されるべきだろう。そこではぼっちちゃんも社交的でなければならないし、さもなくばなんらかの治療や支援が必要である。金遣いの荒い人間、酒を飲み続ける人間も何等かの矯正を受けなければなるまい。それがその人たちのためじゃないか、と主張されたとき、さて反論できるだろうか。
 
けれども別の考え方として、『ぼっち・ざ・ろっく』で描かれるような、「社会の平均的な価値判断からズレているかもしれないけれども、そこでなら何事かを経験できる世界」がどこかに残っていたほうが良い、という考え方もあっていいように思う。アジール的な場所は、アジール的であるがゆえに社会の平均的な価値判断からは胡散臭いもの・有害なものとうつることはあるだろう。でも本当に多様性のある社会とは、平均的な価値判断とはズレた世界が洞穴のようにあちこちに存在していて、そこでなら上手くやっていける人が活躍できるような、そんな世界のようにも思える。
 
 

いつまでもアジールのある社会を

 
そんなわけで、私は『ぼっち・ざ・ろっく』を眺めながら、ぼっちちゃんが活躍できていること、一癖も二癖もある者同士が集って活動しているさまを、楽しく眩しく視聴した。喜多さんの12話の台詞、「私は、人を惹きつけられるような演奏はできない。けど、みんなと合わせるのは得意みたいだから」も忘れられない。もちろん喜多さんは社会の平均的な価値判断のもとでも眩しく輝くのだろう。でも結束バンドのメンバーとしてはまた少し違ったかたちで輝く。ご都合主義っぽいようにみえて、なんだか考えさせられる登場人物だ。
 
最後にもう一度蒸し返しておくと、『ぼっちざろっく』で描かれる世界は、エンタメたりえるよう脱臭されている。ロックという、かつて反体制的・カウンターカルチャー的だったものがそうではなくなっていること、主要メンバーの実家が太く描かれていることは、脱臭の結果か、それとも脱臭しきれない現実か。本当は経済的に太いリョウ、ギターを継承しているぼっちちゃん、姉に見守られ、きっと多くのものを継承しているであろう虹夏からは、経済資本、文化資本、社会関係資本の蓄積が連想される。『ぼっちざろっく』の世界は、上の世代に対する下の世代のカウンターとしては描かれていない。反抗なきロック。世襲的で、体制的になった後のロックというべきか。
 
けれどもロックに限った話でもあるまい。20世紀に反体制的だったもの・前衛的だったもの・改革的だったものは既に親世代のもので、既存の体制に組み込まれたものだ。アニメやゲームといったオタクの世界にもそれは当てはまる。いまどきのカウンターカルチャーはたちまち資本主義によって捕捉され、ネクタイを締めた人々の手によって舗装されていく。
 
いやいや、そういうしんみりした話はよしておこう。『ぼっち・ざ・ろっく』という作品は、そういうしんみりした問いを投げかける風にはつくられていないと思う。それより、ぼっちちゃんが活躍できるアジールが描かれていること、ぼっちちゃん達がそこでなにごとかを経験し、活躍し、思春期を駆け抜けていくこと、そんな世界がまだどこかにあるかもしれないと思い出せたのは良かった。社会が、そのようなアジールをこれからも失いませんように。たとえ脱臭されたアジールでも、ぼっちちゃんの輝く世界は美しかった。 
 
 

書いてみなけりゃわからないこともある/謹賀新年

 

 
新年あけましておめでとうございます。このブログをいつも読んでくださる常連さん、たまに読んでくださるリピーターさん、いつもありがとうございます。
 
しかし私は、今年もブログがあまり書けないでしょう。忙しすぎるからです。
 
でもブログを長く書いていないと窒息しそうだし、書くという行為の大事な一部分が削げてしまいそうなので、2023年最初のブログ投稿は、黄金頭さんへの私信という体裁で書いた独り言です。私は自分のブログを書くということのなかで、独り言を大切にしてきましたし、これからもそうしたいです。以下、主観的な話を垂れ流すので、お役立ち記事をお探しの方は引き返してください。
 
 
「今年は小説を書く」と宣言したのに、一文字も書けませんでした。 | Books&Apps
 
独り言を書きたくなったのは、黄金頭さんがbooks&appsに寄稿した、上の文章を読んだからです。小説が書けない。それは躁鬱の波の問題か? 書きたいことの有無の問題か? 等々。結びの文章に書かれているように、それは筆者である黄金頭さんの話、黄金頭さんだけの話でした。だから黄金頭さんがなぜ小説が書けないのか、第三者である私にはわかりません。推測しても外れてしまうでしょう。
 
私も自分だけの話を書きたくなったので書くことにします。それは2021年から2022年にかけて起こってしまった、思いがけない出来事の話です。私は小説を、書いてしまいました。もちろん世間様に見せられるものではありません。世間様に見せられるようなものを目指しましたが、失敗しました。その出来事をとおしていろいろと学びましたし、また書きたいとも思っていますが年が明けたのでここに部分的に書いて、いわば"出来事として埋葬"したいのです。
 
私にも小説を書きたい性質はあり、プロットの試作は00年代の頃から数年に一度、発作のようにやっていました。とはいえ、小笠原諸島の海底噴火の大半が海面の変色で終わるように、私の小説書きたい欲はプロットの試作で終わってくれました。小説を書く甲斐性が足りなかったからでもあるし、他に書くべきこと・書きたいことがあったからでもあるし、なにより本当は書かなくても構わないことだったからだと思います。
 
ところが2021年の後半に起こった小説書きたい欲は、海面の変色で終わりませんでした。私は小説を書かずにいられなくなって書いてしまったのでした。それでご迷惑をおかけすることにもなったようにも思います。ご迷惑をおかけした方々には、ごめんなさいというほかありません。すいませんでした。
 
間違いなく、書きたいことがありました。それは、今まで書いてきた論説文形式の書籍やブログでは書けそうにないことで、小説という形式が最も似つかわしく思われました。自分なりにプロットをつくり、実際に13万字ほど書いてみました。ハイテンションの期間が重なったのも良かったのでしょう、その時点で私が表現したかったことはおおむね表現できたと思います。
 
しかしその後、親しくしていただいている方の助言などをとおして、私は自分が書いたものの限界を知りました。確かに私が表現したかったことはおおむね書けましたが、それだけだったとも言えます。私は自分が書きたかったこと・小説でなければ表現できないことを確かに表現できたのですが、それ以上のことまでは表現できませんでした。2023年から振り返ると、もっと表現したいことがたくさんあるべきで、その表現したいことが圧縮された形式になっているべきだったとも思います。技巧上の問題点もたくさん見つかりました。
 
でも、実際に書いてみなければそこらへんがわからなかったのです。小説には、論説文に比べて表現しやすいことが色々ありますが、逆に、小説には小説の難しさがあるのですね。そこのところが私には経験不足という以上に、認識不足でした。私には、小説ならではの難しさに対抗するための備えとソリューションが足りていませんでした。十分成功した小説と私が書いたものの間には、ちゃんとしたメーカーの作った赤ワインと、零細漬物業者が初めて漬けてみた赤ワインぐらいの差があるでしょう。そのことがくっきりと見えたのは、確かに収穫でした。表現技法や技巧が拙いだけでなく、想像力の密度とでもいうべき点でも水をあけられていたのです。
 
現在の私は小説づくりを停止していますが、創作の火種は残しています。しかしリトライの機会は二度と訪れないのかもしれません。歳月は人とプロットを待ってくれないので、プロットが時代遅れになるかもしれないし、私がもう書けなくなってしまうかもしれないので。だけど2021~2022年の私は小説を書いたことをとおしてノウハウが0から1になったので、悲観せずに火種を手入れしながら、機が熟すのを待ってみます。
 
そして2023年が始まりました。今の私は再び論説文を書きたい機運にあてられ、その機運じたい、小説を書いてみたおかげで膨張してきたものだと感じています。小説でなければ表現できないと思っていたことを、論説文の様式でどうにか表現できないものか。そういうことも再考しています。今年の抱負として、もっとストレートに、もっと自分の慣れた分野に挑戦し直してみたいものですね。これも、書いてみなければわからないことなので、書いてみるっきゃありません。
 
これを書き始めた時、もっと後ろ向きなことを書くつもりでいましたが、書いているうち、だんだん前向きな気持ちに変わってきました。黄金頭さん、私はつとめてみたいと思います。黄金頭さんにおかれても、良い一年となりますように。それからいつもお読みくださっている皆さん、ブログを書く頻度は少なめが続くかとは思いますが、本年も、どうかよろしくお願いいたします。
 
 

「ママを選んで生まれてきたよ」と二周目の性選択、人間の進化

 
  
ママを選んで生まれてきたよ、というフレーズがある。ちょっとオカルティックに聞こえるかもしれないが、現代社会で必要とされ、流通している言葉のひとつだし、想像するに、この言葉は祝詞のたぐいなのだろう。
 
しかしそれを度外視して、穿った見方で眺めるなら、オカルティックでもなんでもない事実でもある。確かにママは選ばれた。だからその子は生まれてきた。父親によって。むしろ社会や環境の選択によって。母親として選ばれた選択の基準は何だったのだろう? 容姿だったのか、若さだったのか、経済力や才能や性格だったのか。なんにしても、母親として選ばれるに足りるものが先立たなければ、原則として母親は母親になれない。
  
その母親を選んだ父親においては、尚更である。父親として選ばれた選択の基準は何だったのだろう? 経済力だったのか、容姿だったのか、才能や性格だったのか? 動物の世界では、雄は雌に選ばれるか選ばれないかのギャップが大きな性であることが多く、精子による選別過程に加えて、同性との競争に勝った者が生殖を総取りしやすい性別だった。
 
人間の場合、トドやゴリラのような極端なハーレムを築くには至らない。というのも、人間は男性の協力が子育ての成否にとってきわめて重要で、しかも一夫一婦制と家父長制の組み合わせが特定男性による過剰な独占と選別にブレーキをかけてきたからだ。しかし現代では家父長制がなくなり、女性による男性の選別の重要性が高まった。ために、一夫多妻制ではないにせよ、配偶や生殖、ひいては性選択から除外される男性の割合は(女性もある程度そうだが)増えている。
 
そういったことを含めて考えると、いまどきの子どもとは、母親が父親に選ばれ、父親が母親に選ばれ、とにかく、選び選ばれて生まれてきた所産、と言っても言い過ぎじゃない。個人というミクロな水準でみれば、それは相思相愛になるための相性の問題とうつるけれども、マクロにみるなら性選択(性淘汰)であり、生存をめぐる自然選択(自然淘汰)のなくなった人間にとって子孫が残るか残らないかを決定づけるほとんど唯一の選別プロセスとなる。
 
そうした男女の相互選択・相互選別は、昭和以前にもあったという。それでも、お見合いどころか挙式で初めて顔を合わせることさえあった家父長制的な結婚制度のもとでは、今日と同じことが起こっていたとは考えられない。当時は当時で、家父長制的な結婚制度に妥当する男性や女性が選択されやすく、逸脱しがちな男性や女性が不利になるといったこともあっただろうけれども。
 
話を現代に戻そう。男女がお互いを選びあい、その選び選ばれたママとパパを選んで子どもが生まれるようになって、三世代目になろうとしている。今、子どもをもうける適齢期を迎えている男女は、親の代から恋愛結婚という名の相互選択のフィルタを通過している確率が高い。今、生まれてくる子どもは、いわばママを選んで生まれてきた子どものそのまた子どもにあたる。
 
日本では婚外子が少ないので、男女別の有配偶率が、性選択の度合いについて考えるモノサシになるだろう。確認してみると、女性の有配偶率は60~64歳で92%ほど、35~39歳で76%ほどになる。男性の有配偶率は60~64歳で85%ほど、35~39歳で65.5%ほどになる(2020年、こちらより)。これらひとつひとつの確率を見ると、それでもだいたい過半数の人の遺伝子が引き継がれているとうつるけれど、自分の代の男女、親の代の男女がそれぞれに相互選択や相互選別からあぶれなかった確率を掛け算していくと、なるほど、ママとパパを(そして祖父母を)選んで生まれてきたよ、と言いたくなるほどの確率になる。
 
してみれば、血筋はそれなり断絶しやすくなり、私たちは自然選択に曝されていないけれども性選択にはそれなり曝されていて、今、生まれてくる子どもはその性選択の所産であるわけだ。
  
その性選択の所産である、いまどきの子どもはどんな子どもだろう? 順当にいけば、親の代や祖父母の代に比べて、今日の性選択を潜り抜けてきた世代にふさわしい遺伝形質を持った、そのような子どもだろう。いや、「今日の性選択を潜り抜けていない人の遺伝子は継承されていないが、今日の性選択を潜り抜けた人の遺伝子だけが継承されている」という表現のほうが適切か。もちろん二代程度の性選択では、たとえ親の代の有配偶率が現代並みにシビアだとしても、進化といえるほどの変化は起こりそうにない。
 
でも、こうしたことが向こう五十年、百年と続いたら?
十分に移民が流入したり(未来の日本にそんな魅力があるだろうか?)、異民族が侵入し男が殺され女が攫われるような出来事が起こったり(いったいいつの時代だ?)しない場合、今日の性選択を延長線上のような、いまどきの子どもから感じられる傾向を強調したような子どもが生まれてくる、のだろう。それは進化と呼ぶほどのものではなかろうし、そもそも、文化からの重たい影響によって遺伝形質の僅かな変化はマスクされるに違いない。
 
文化の急激な流れに比べれば人間の進化の速度はずっと遅い。けれども性選択を何代も何代も繰り返していれば、それは、環境からの選択をとおした進化を人間に促し、人間はわずかずつでも変わっていくだろう。生物学でいう evolution というものの理屈としてはそうだろう? 日本という範囲に絞っても世界全体という範囲に広げても、人間はいちおう、僅かずつであっても環境によって選択・選別されて、そのプロセスをとおして進化をし続けているはずである。そして今の環境から選択される男女とは、狩猟採集社会当時に選択された男女とも、中世暗黒時代に選択された男女とも、だいぶ違っているはずである。
 
だからどうした、という話ではある。が、年の瀬の街で子どもの歓声を聞き、その親たちの容姿や身のこなしをみているうちに、ふと人間の進化について連想してしまったので、備忘録的にこれを書いた。たとえば今の日本の環境で人間の遺伝形質が変わっていくとしたら、それは自然選択によるのでなく、性選択によるに違いない、と思いながら。