シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

ある研修医が見た就職氷河期の記憶

 
 芽吹いてきた新緑を眺めていて、ふと、昔話がしたくなった。
 別に珍しい話ではない。
 一人の研修医から見た、就職氷河期当時の思い出話についてだ。
 
 
 1.
 私が研修医になる前から、それは始まりかけていた。私は医学部にこもりっきりなのが性に合わなくて、他学部の学生がたむろしている場所に好んで出入りしていた。そこで出会った他学部の先輩たちが「就職活動が大変だよ」と言っているのを耳にしたりもしていた。とはいえ1994年度、1995年度に卒業した他学部の先輩がたの就職先はなかなかのものだった。ゲームと登山に熱狂して留年しまくっていた先輩が、大手自動車メーカーに入社できた話を聞いた時はびっくりした。あのゲームばかりやって山ばかり登っている先輩ですら大手自動車メーカーに入社できる。そういう希望があった。
 
 1996年。1997年。
 この頃から様子がおかしくなってきた。私と同学年に相当する彼らは就職活動に苦戦していた。百社以上を回ってようやく内定獲得。内定が出ないから大学院に進学。そういった話が間近になってきた。今から振り返ってみれば「就職できないから大学院に進学する」とはハイリスクなルートに思えるのだけど、もちろん彼らはまだそのことを知らなかった。
 
 どうにか内定を獲得した同学年たちのホッとした表情。どうにも内定を獲得できない同学年たちの焦燥。なんともいえない曖昧な笑み。それでもゲーセンはたむろの場であり、たむろの場は社交の場だった。私は六年制学部の学生だったから、「就職活動という問題系」について十分に考えておらず、それらが意味するものも理解していなかった。当時の私には、就職についての問題は形而上学的な何かでしかなった。あるいは今でもそうなのかもしれない。
 
 
 2.
 1999年。研修医になって最初の一年は忙しくて、周りのことなど見ていられなかった。当時の研修医の年収はおよそ400万ぐらい、大学病院勤務による収入が3割ぐらいで残りは「いわゆるバイト」というやつで、大学関連病院のお手伝いの報酬としていただくものだった。もらったお金は医学書の購入以外にはほとんど使っていなかった。何かに使う暇が無かったからだ。
 
 2000年。研修医の生活にもいくらか慣れ、時間の合間に人に会うチャンスをつくれるようになったが、大学時代以来の知人はだいたい無事だった。境遇はさまざまでも、とにかく生活は成り立っているようだった。忙しいか? もちろんだとも! とはいえ研修医の自分以上に忙しい生活をしている人はいない様子で、周囲からは気の毒がられた。皆、携帯電話を持ち、皆、インターネットを始めていた。正社員になれたかどうかが意識される場面は、この段階でもまだ無かった。ゲームや飲み屋といった繋がりの紐は意外に頑丈にみえ、不況の影響はそれほどでもないな……などと思っていた。
 
 
 3.
 就職氷河期の影響を私がじかに見知るようになったのは、だから2001年以降になる。
 
 消息がわからなくなる人が出始めた。それはオフラインのゲーセンや飲み屋に限った話ではない。インターネットで知り合った人々も、00年代の前半からポツポツと消息がわからなくなる人が現れるようになった。楽しみにしていたウェブサイトが、管理人の失業からしばらくして更新停止になってしまう──そんな出来事も何度かあった。ハイパーリンクの網の目からひっそりいなくなる人のことは、あまり話題にならなかった。話題にしたくなかったのか、そういう作法だったのか。
 
 大企業の正社員になった人々も安泰ではなかった。退職を余儀なくされる人、うつ病などの精神疾患にかかる人がいた。発達障害という診断を受け、医療や福祉によるサポートを受けなければならなくなった人もいた。彼らは苦労し、疲弊していた。自分の手札で勝負し、手札が切れかけて、その場に踏みとどまるか、転戦しようとしていた。
 
 当時は私も若かったので、友人のメンタルヘルスの相談に真正面から乗ることもあった。今だったら、少なくとも真正面からは相談に乗らなかっただろう。なぜなら、(補:精神科医として)友人関係のメンタルヘルスの問題に耳を傾けすぎると、友人関係が破壊され、まったく別の関係が始まってしまうことがよくあるからだ。この頃はまだそれを知らなかった。
 
 ゲームや飲み屋といった繋がりや、インターネット上の繋がりが、諸事情によって切れてしまうことがあることをようやく私は知った。そうした断絶は、人生のなかでは不可避的に経験するものなのかもしれない。ただ私の場合、この時期にそうした断絶がかなり集中していた。
 
 
 4.
 2005年~2006年頃になってようやく、私は"就職氷河期"とか、"失われた10年"とか、"「希望は戦争」"とかいった、わかりやすく出来事をまとめた言葉を知るようになった。ブログや2ちゃんねるでは、当該世代のたくさんの人がそうした言葉を駆使して不遇を語ったり世間を呪ったりしていた。少なくとも私が好きなインターネットの圏域では、それらの言葉が流行っていた。
 
 当時の私は個人の社会適応のことばかりネットに書いていたためか、そうした人々から恨みつらみをぶつけられることもあった。しかし彼らからさまざまな不遇のありよう・個人における不適応のバリエーション・社会にできあがった構造的困難について教わった。90年代後半~00年代前半に私が見た風景は、それでもまだ恵まれていたのだと思う。社会には、もっと持たざる人々・もっと厳しい人々が確かに存在していて、どうやら格差は広がり始めている。そういうことを教えてくれたのは、当時のはてなダイアリー(現:はてなブログ)でブログを書いている人たちだった。
 
 私は、はてなダイアリーを書いている人たちと対立していたはずなのだけど、気が付けば彼らに感化されて、彼らの文章の続きを、私自身の言葉で書きたいと思うようになった。もし彼らがブログを書き続けていたら、そうはならなかっただろう。けれどもはてなダイアリーで社会についてブログを書いていた人々、ここで心の叫びを書けば何かがあるかもしれないと祈っていた人々は去って行った。これは、就職氷河期とは直接に関係のない出来事で、きっとSNSの台頭やインターネットのテレビ化とか、そういった移り変わりのせいだろうと頭では理解しているけれど、私のなかでは就職氷河期終盤の別れの一部として記憶されている。
 
 5.
 就職氷河期は2005年頃には解消されたとされている。事実としてはそうなのだろう。
 ただ、その間に起こった出会いと別れの影響はなくならない。もちろん、就職難の大波をダイレクトに食らった人や(00年代あたりの)ブラックな労働環境に傷ついた人の時計の針も戻らない。そしてあの就職氷河期を境として、この国は格差ができあがる構造を暗黙の了解とした、表向きは自由競争とされる社会へとはっきり変わっていった。自由という言葉の響きも、今では違って聞こえる。
 
 こうして思い出してみると、就職氷河期の真っ最中に「これはひどい社会だ」「これはブラックな労働だ」とはっきり意識して、はっきり声に出していた同世代はそれほどいなかったように思う。皆が社会に適応するのに必死か、必死ななかでも楽しみを見出そうとしているか、その両方かで、なかにはみずから追い詰められながら自己責任論を叫んでいる人すらいた。就職氷河期がそのような悪しき時代としてハッキリ意識され、語られるようになったのはそれが出口に向かった00年代の中頃、それこそ往年の"ロスジェネ論壇"やその周辺のブロガーが声をあげるようになってからではなかったかとも思う。
 
 だとしたら、このパンデミックに伴う厳しい社会情勢も、今はあまり言語化されなくとも、一区切りついてから下の世代によって言語化され、語り継がれていくのかもしれない。厳しい状況の渦中においては、何かを語ったり考えをまとめたりすることは難しいからだ。いや、どうだろう? もう長文ではそういうことはあまり語られないのだろうか。歌かポエムか、140字ぐらいのつぶやきに収められていくのかもしれない。長文を書いたり読んだりする暇すら与えられないなら、そうだろう。
 
 

『ウマ娘』をやっていると目が痛くなる

 

 
先日も書いたとおり、ゲーム『ウマ娘』は本当によくできた、つい夢中になりたくなるゲームだ。プレイヤー同士のリーグ戦にも楽しみがあり、正しくソーシャルゲームしている。だから時間とお金がコントロールできるゲーム愛好家には、勧め甲斐のあるゲームだと思っている。
 
でも、このゲームをガツガツと遊ぶのは中年のゲーム愛好家には厳しい。いやたぶん若いゲーム愛好家にも厳しいんじゃないかと思う。というのも、この『ウマ娘』をやっていると目が痛くなってしまうからだ。
 
ウマ娘を遊んでいて目が痛くなる理由は、だいたい見当がつく。育成モードのイベントを早送りしているからだ。イベントを早送りするかしないかによって、ウマ娘を育てるスピードはぜんぜん違う。また、早送りしてもイベントで何が起こっているのかはだいたい把握できる。だから早送り機能は重宝するし、『ウマ娘』がダレてしまわないために必要不可欠な機能だとも思う。
 
ところがスピードが速く、それでいてイベントで起こっていることやパラメータの上下がだいたい把握できるせいで、つい、この早送りを「見てしまう」。イベントを早送りしているから、目にはすごい勢いで情報が飛び込んでくる。これを、自分の目が追いかけてしまっていると自覚する。なまじ、だいたい把握できるからこそ、目が早送りを追いかけてしまって、それですごい勢いで目が疲労してしまうのだ。目にくまができるぐらいならまだ良くて、しまいに目が痛くなる。
 
これまで色々なゲームジャンルのゲームを遊んできたつもりだけど、『ウマ娘』は目が疲れるほうのゲームだ。個人的には『怒首領蜂』などの弾幕シューティングゲームと同じぐらい疲れやすいと思う。
 
早送り機能といえば、ファミコン版『ウィザードリィ』シリーズの戦闘メッセージ速度1も目が早送りを追いかけてしまうゲームだったけど、『ウマ娘』みたいに目が痛くなることはなかった。あちらは高速で文字が流れるだけで、グラフィックが目まぐるしく変わるわけではないから大丈夫なのだろう。
 
そこで最近は、育成モードではなるべく目をつむっていようと心掛けているのだけど、これがなかなか守れない。育成がうまくいっている時にはうまくいっているなりに、うまくいっていない時はうまくいっていないなりに、つい、何が起こっているのか見守ってしまう。イベントの成り行きによってステータスが変化するので、見落としたくないという心理が働いてしまう。で、早送りされた画面に吸い込まれてしまい、目がやられてしまう。
 
繰り返すが、『ウマ娘』のイベント早送り機能は(総体としては)とても良い仕事をしていて、育成のテンポを保つうえで不可欠のものだと思う。だから早送り機能をなくしてくれとは言えないし、リリース直後にこれほどの完成度であることに難癖をつける気にもなれない。
 
現段階では、プレイヤー側が気を付けるしかない。「目が痛くなってしまうようなプレイはするな」「自分の体調を考えて『ウマ娘』を遊べ」ということなのだろう。ちょうど『ウマ娘』の育成でレンタルウマ娘を借りてこれるのは3回までだから、この3回が一日の育成限界とみなし、目を酷使しないのが望ましい遊び方なんじゃないかと思う。なんならもっと回数を減らしたっていい。
 
もちろん、現在のTP値の仕組みやTP回復アイテムの存在を考えると、「『ウマ娘』は一日3回まで」という遊び方は、ゲームの仕様に合致していない。だからゲーム運営の皆様におかれては、もうちょっと目が痛くなりにくい方策を実装してほしいとも思う。どんなにゲーム自体が魅力的でも、目をやられてしまっては楽しいゲーム体験を続けられないからだ。
 
 

ゲーム依存や高額課金だけが問題ではない

 
良くできたソーシャルゲームというと、ゲーム依存や高額課金などが槍玉にあげられがちだし、もちろんそれらは大きな問題だ。
 
けれども、そうした一部のプレイヤーに生じる深刻な問題とは別に、眼精疲労や肩凝り、姿勢の悪化や運動不足などもゲームプレイにはついてまわる。ゲームプレイヤーが年々高齢化していることを思うにつけても、目に優しいゲーム、ひいては身体に優しいゲームを歓迎する向きはあるはずだ。たとえば『ウマ娘』のような、歴代の名馬が登場するゲームの場合は特にそうだろうとも思う。
 
また、プレイヤーの側も、ゲーム依存や高額課金だけを警戒するのでなく、自分の目を傷めないプレイ、腰を傷めないプレイ、姿勢が悪くなってしまわないプレイを心がけていったほうが良いはずだ。部屋の明るさや椅子の良し悪し、インターバルの有無なども、長くゲームと付き合っていくなら考えておいたほうが良い。
 
もっと私たちは自分の身を労わりながら、長くゲームと付き合っていく工夫をしたっていいんじゃないだろうか。
 
後日、別記事で紹介するつもりだけど、そうした身を労わるゲームの心がけは、単に健康を守るだけでなく、ゲームプレイの精度や上達にもかかわってくる。若くて健康に自信のあるゲーム愛好家も、知っておいて損はしないはずだ。スポーツ選手が身体に気を配るのと同じように、ゲーム愛好家、とりわけ向上心のある愛好家が身体に気を配るのは理にかなったことだと思う。
 
『ウマ娘』のような、完成度の高いゲームを遊べるのは愛好家冥利に尽きるけれども、それで身体を壊してしまっては元も子もない。節度をわきまえ、メンタルも身体も財布も壊さないようにしながら長く付き合っていけたらと思う。
 
 

 

ウマ娘プリティーダービー、雑感

うちに『ウマ娘プリティーダービー』*1がやって来て40日ほどが経った。


 
一度、今の段階で『ウマ娘』について感じていることを書いてみたくなったので書いてみる。
 
 

とにかく丁寧、とにかくかわいい

 
『ウマ娘』はジュニア~クラシック~シニアの3年間にわたってウマ娘のトレーニングやレース出走に付き合っていく育成ゲームだけど、育成難易度のゲームバランスがとても良く、つい熱中してしまう。一回の育成に20~40分ほどかかってしまうのだけど、適度にランダム性が絡むため、なかなか飽きそうにない。
 
ネット上の情報を見ていても攻略情報がしばらく二転三転し、それぞれのウマ娘ごとに育成指針もかなり違っているため、個人で全容を把握するにはまだ時間がかかりそうだ。育成に適した因子を揃えるにも時間がかかり、機械的ルーティンに落とし込める日も遠い。
 
もちろんこれは40日目の感想で、もっとヘビーに育成を繰り返したり何年も続けたりすれば違った風に感じるだろう。それと『ダビスタ』をやっていた人も違った風に感じるかもしれない。それでも、育成がルーチン化しにくいよう最大限の工夫が凝らされ、育成ゲームとして完成度がとても高いようにみえる。
 
 
 

 
プレイ画面のインターフェースも便利だ。たとえば上の画像でも、レース前のウマ娘の状態が一覧でき、スキル確認や作戦変更のボタンもプレイ初回から気づきやすい。ホーム画面は少しゴチャっとしているが、育成モードやレースモードのインターフェースは使いやすいほうだと思う。ボタンを押した時の挙動や効果音、BGMなどもストレスない感じで遊びやすい。育成やレースやストーリーに集中できるようつくられている。
 
 
 

 
で、レース実況がメチャクチャ良くできている。止まった画像ではわかりにくいけれど、実際のレース実況では、ウマ娘の走るさまにスピード感や迫力が伴う。絵柄の巧さより、演出やエフェクト、それと実況中継の巧さで魅せている感じだ。実況をスキップして結果だけを見ることもできるのだけど、つい、実況を選んでしまうほど。とにかく、ここはゲームリリース直後から異様な完成度でたまげてしまった。
 
 
 

 
そのうえウマ娘は全員かわいらしい。アニメ版『ウマ娘』でドタバタ要員だった連中も含めて、とにかくみんなかわいくできあがっている。これもびっくりした。いわゆる旧来の立ち絵ではなく、グリグリと動く今風の描画なのだけど、前を向いても横を向いても表情が変わってもちゃんとかわいい。これは、静止画では得られないタイプのかわいらしさだ*2
 
ここではアニメ版『ウマ娘』との優劣はつけがたくて、アニメ版のウマ娘も魅力的なのだけど、ゲーム版『ウマ娘』はそれより輪郭がマルっとしていて、かわいさに極振りしたような感じだ。このかわいさに、いったい幾らのゲーム制作費が費やされたのだろう? 
 
性的アピールを押し付けて来ないのも(私には)ありがたい。やたらバストサイズの大きなキャラクターやあられもない恰好のキャラクターが出てくるゲームやアニメとは、キャラクターのコンセプトが違うと感じる。世の中にはいろいろな嗜好があるので、これぐらいがエロチックと感じる愛好家もいるだろうけど*3、私には、押しつけがましくないと感じられる。
 
 
 

 
ところでアニメ版『ウマ娘』は、娘といいつつ、男の子のようなキャラクターが活躍する作品だった。もし昭和60年に同じようなアニメ作品がつくられていたとしたら、スペシャルウィークやトウカイテイオーは男の子の主人公だったに違いない。チームスピカも半分以上が男の子だったかもしれない。しかし現代の『ウマ娘』ではこれが全員娘として描かれている。今ではそういうことを気にすることもなくなったけれども、昭和60年の青少年が『ウマ娘』を見たら混乱してしまうかもしれない。
 
そういった男の子っぽいウマ娘も含めて、とにかくかわいく、とにかくイベント等を充実させまくってプレイヤーをおもてなししている。いったいどれほどのお金と工夫と技術がこのゲームにつぎ込まれているのか、見当もつかない。
 
 

ゴールドシップがゴルシちゃんになっている

 
アニメ版『ウマ娘』にはゴールドシップ(通称ゴルシ)という非常に味わい深い、気の良い兄貴のようなキャラクターが登場した。うんちくに詳しく、やきそばを作り、メジロマックイーンのトレーニングに協力して踏まれたりするゴールドシップは、『ウマ娘』に必要不可欠なキャラクターだったと思う。
 
このゴールドシップが、ゲーム版『ウマ娘』ではかわいいゴルシちゃんになっている!
 

 
ゲーム版『ウマ娘』の他のキャラクターたち同様、ゴールドシップもアニメ版に比べて輪郭がマルっとしている。かといってゴールドシップらしさ・兄貴らしさが無くなってしまったわけではない。レースに勝つと、楽しいポーズを取ったり蹴ってくれたりする。育成中のイベントや台詞もゴールドシップらしい。育成も、長距離ー追込型なのでやりごたえがあり、レース実況では居並ぶウマ娘をゴボウ抜きする雄姿をみせてくれる。
 
ゴールドシップは、そのキャラ立ちじたいが『ウマ娘』の魅力の一部だ(と思う)。これを損ねずにかわいさと両立させるのは重要な課題だったはずだけど、サイゲームス制作陣はこの課題を完全にクリアしてきた。兄貴であり、ゴルシちゃんでもあるゲーム版のゴールドシップはほんとうに素晴らしい。手を合わせたくなる。
 
 

たぶん、ソーシャルゲームとしてもヤバい

 
これほど良く作られたゲームに、SSRのウマ娘やサポートカードが存在し、ガチャが用意され、プレイヤー同士のリーグ戦まで用意されているからついつい課金したくなる。
 
少額課金を行い、他のプレイヤーの動向などをみた限りだと、このゲームの課金圧はかなり強いと思う。
 
 
 

 
課金をすれば育成がはかどる。課金だけですべてが解決するわけではないけれども、課金によって育成効率や育成スピードがブーストされるのは明らかだ。より強いサークルに所属できるようになり、よりたくさんのフォロワーにフォローされるようにもなる。見栄えのするサポートカード、見栄えのする育成ウマ娘を並べることだってできる。
 
 
 

 
そこにプレイヤー同士のリーグ戦が絡む。ウマ娘3体×5レースという点も含めて、このリーグ戦には育成のレースとは違った趣向があり、ここでも制作陣は手抜かりしていない。『ウマ娘』が競馬をテーマにしているせいかもしれないけれど、プレイヤー同士のリーグ戦はかなり燃える。勝ちたい・強いチームを作りたいという欲求に呑まれてしまったらたちまち課金してしまいそうだ。
 
こうしたリーグ戦の出来栄えも含めて、この『ウマ娘』、じつに正しくソーシャルゲームをしていると思う。いや、ちょっと正しすぎるほどソーシャルゲームしていないか?
 
強いサークルに所属したい・たくさんのフォロワーを獲得したい・リーグ戦で上位に入りたい──そういったソーシャルゲーム然とした欲求を、精巧なゲームシステムとキャラクターをもって、まさに正攻法で煽ってくる感じがとても魅力的で、とても怖くもある。ゲームとしてすさまじい完成度だけに、注意が必要な点だとも思う。
 
 

「トレーナーがウマ娘を育てるより、ウマ娘がトレーナーを育てている」

 
それと、自分自身も含めた『ウマ娘』に夢中になっているプレイヤーたちを見ていると、ここではプレイヤーがウマ娘を育成しているというより、ウマ娘がプレイヤーを育成しているようにもみえてくる。
 
 

  
『ウマ娘』をとおして競走しているのは、ウマ娘なのか? それともプレイヤーなのか?
 
馬車馬のようにトレーニングしているのはウマ娘なのか? それともプレイヤーなのか?
 
『ウマ娘』が競走をテーマにしたゲームだけに、ふと、プレイしている最中にそういう倒錯じみたことを考えてしまう。作中で懸命にトレーニングし、レースで勝とうと努力するウマ娘の姿が、プレイヤーの似姿のように思えることもある。
 
いやたぶん、その点も含めて『ウマ娘』はよくできたエンターテインメントなのだろう。ウマ娘とプレイヤーが二人三脚で頑張って、努力や工夫や情報収集や課金が正しく報われる──素晴らしいエンターテインメントじゃないか。
 
この点に倒錯やアイロニーを感じる感じないにかかわらず、『ウマ娘』が恐ろしく作りこまれた、かわいく、遊び甲斐のあるゲームである点は揺るがない。あまり難しいことを考えずにウマ娘と一生懸命に走っている限り、とにかく夢中になれるゲームなのは間違いない。
 
個人的には、2021年の新作ソーシャルゲームがここまで磨きこまれていることを身をもって体験できたのも良かった。こういう作品を遊んで「ソーシャルゲームはチャチな造り」などとどうして言えよう。すごい大作、すごい力作だ。当面、付き合っていこうと思う。
 
 

*1:以下、『ウマ娘』と表記

*2:玉に瑕なのは、画面切り替わりの時にウマ娘が白目になっているような瞬間があること。体感的には、自分が疲れている時のほうが気になる。

*3:というより結構そういうプレイヤーも確認できている

イタリアの食堂で出てくるシャバシャバなワインの良さ

 

 
イタリアの食堂、それも気取らない食堂には、めちゃくちゃ安くてなんとなく旨い、シャバシャバしたしたワインが用意されている。グラスで2ユーロぐらい、カラフで頼んで5ユーロぐらいの、いわゆるハウスワインってやつだ。ランチのお供に最適で、後のコーヒーを飲む頃には酔いが抜け始めている。アルコール度数は10~11%ぐらいだろうか。あれは、とてもいいものだと思う。
 
フランスやスペインの食堂でも、ハウスワインを頼むと(良い意味で)シャバシャバとしたワインが出てきて、ざくざくと飲める。プロヴァンスのロゼなんかもいい。安くて、気取らない料理のお供としてうってつけで、午後の活動の邪魔にもならないワイン。あれはあれでいいものだと思う。
 
 

日本で手に入る安ワインは、シャバシャバしていないことが多い

 
今、日本で手に入る1000円ぐらいのワインの多くは、そういうワインではない。たとえばチリ産の「安くて旨いワイン」として知られているブランドの品を思い出していただきたい。
 
立派な香り。
しっかりとした風味。
果実味が迫ってくるようで、大柄、重量感もある。
アルコールの濃度は13.5%以上、14%を上回ることもある。
 
私のいうシャバシャバしたワインと、このチリ産の「安くて旨いワイン」を並べて飲んだら、印象に残るのはチリ産の「安くて旨いワイン」のほうだ。
 
ところが、こういう「安くて旨いワイン」はパワーが強すぎる。グラス一杯を飲み比べるならいいけれど、こんな風味の強いワインを飲み続けていると、やがて飲み疲れてしまう。味の輪郭もはっきりしまくっているから、料理も相手を選ぶ。濃い味付けの料理やバーベキューの時は困らないけれども、簡単な豚肉料理なんかはワインが蹴散らしてしまう。白ワインもそうで、和食のお供をさせたつもりが、ワインが出しゃばってしまったりもする。
 
これはチリ産に限った話ではなく、カリフォルニア産でもオーストラリア産でもよくあることだ。フランス産やイタリア産のワインでも珍しくない(フランスやイタリアでも、ここでいう「安くて旨いワイン」を作っているメーカーはある)。だから前知識なしに楽天市場で1000円ぐらいのワインを買うと高確率でこれに出くわす。あと、国内のトラットリアやビストロでも、このタイプの「安くて旨いワイン」がハウスワインとしてしゃしゃり出てくることが時々ある。ワインらしいワインには違いないし、香りも味もしっかりしている。でも重たいしザブザブ飲むには向かない。カラフでなんか注文したら大変なことになってしまいそうだ。
 
安いワインにやっすい仕事をしてもらいたい時、いまどきのよくできた「安くて旨いワイン」たちは色々な意味でオーバースペックになってしまう。
 
シャバシャバとしたワインそのものか、それに近いワインを日本で求めるとしたらどうなるか。
自分なら、候補として以下のようなワインを探す。
 
・キアンティと名前のついた赤ワイン(もっと高価なキアンティ・クラシコである必要はない)やモンテプルチャーノ・ダブルッツォと名前のついた赤ワイン
・ボジョレー(の赤ワイン)
・品種名がピノ・ブラン(フランス名)かピノ・ビアンコ(イタリア名)の白ワイン
・おなじく品種がアリゴテ、シルヴァネール、ヴェルメンティーノの白ワイン
 
それとトラットリアやビストロには必ずシャバシャバしたワインのひとつぐらいは候補にあるはずなので、店員さんに「きつくないワイン」「威圧感のないワイン」などを尋ねてみたらだいたい何か出してくれる(はずだ)。それと日本産の赤/白ワインも大丈夫なことが多いように思う。昔は、米麹みたいな変な風味の日本産ワインがよくあったけど、最近はそういうワインも少なくなった。日本産のワインは繊細なものが多い。シャバシャバした日本産の赤ワインを狙うなら、メルローやカベルネソーヴィニヨンといった名の知れた品種でなく、もうちょっとマイナーな品種が狙い目だと思う。
 
 

「ワインとして優れていること」と「今日のメシにふさわしいワインであること」

 
「シャバシャバとしたワインなんて要らない」という人は多いように思う。ワインが好きな人でも、シャバシャバとしたワインを遠慮したい勢は結構いるはずだ。「安くて旨いワイン」たちに比べて風味や香りが控えめで、かといって高級ワインに期待されるような繊細なあやを誇るでもないこれらのワインは、ワインコンテストをやれば確実に埋もれてしまう。
 
でも、ワインとして優れているからといって、今日のメシ・その場のメシにふさわしいワインとは限らない。
ものすごく濃い料理や、大ブルジョワのためのコース料理を年中食べているのでない限り、シャバシャバしたワインのほうがふさわしい場面はあるはずだ。気の置けないビストロのランチやいつものおうちごはんに、ふんぞりかえったようなワインは要らない。ときには邪魔にすらなる。
 
煎じ詰めると、シャバシャバしたワインの存在意義は、日常的な食事と一緒にワインを飲む嗜好があるかないか次第、なのだろう。ワインを単品で"鑑賞"したいとか、日常酒としてはワインを飲まずにビールや日本酒を選ぶ人には、シャバシャバしたワインの価値はたぶん無い。でも、ワインを日常の一部とみなし、気兼ねしない食事と調和させるなら、シャバシャバしたワインが占める場所があるように思う。
 

シン・エヴァンゲリオンにかこつけた惣流アスカの昔話

 

NEON GENESIS EVANGELION 3

NEON GENESIS EVANGELION 3

 
※この文章はシン・エヴァンゲリオンの感想というよりTV版・旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』の昔話ですが、シン・エヴァンゲリオンのネタバレも含みます。ネタバレが嫌いな人は読まないでください。
※BLOGOSの担当者のかたへ:この文章は転載しないでください。
 
 
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」公開から1週間分の感想エントリまとめ - まなめはうす
 
今日までにシン・エヴァンゲリオンについてたくさんの人が感想や論評を書いていて、個人史が伝わってきたりもして面白かった。ところが自分はシン・エヴァンゲリオンの感想や論評が書けない。それよりも、TV版25話・26話と旧劇場版『Air/まごころを、君に』のことばかり思い出してしまう。また、式波アスカラングレーについてではなく、惣流アスカラングレーのことを思い出す。
 
私は、シン・エヴァンゲリオンをとおして約四半世紀前の熱狂を思い出さずにいられない。『新劇場版:破』に登場したアスカが式波であって惣流ではないと知った時、はじめ落胆したけれども終わってみれば私にとって都合の良い終わり方だった。なぜなら"私にとっての惣流アスカラングレー"は1997年6月頃に私自身へ播種され、生き続けているからだ。それは世間のエヴァンゲリオンの歴史とも、よその誰かのエヴァンゲリオンの歴史とも違うだろうけど、私のエヴァンゲリオンの歴史として巻き戻し不可能なものになっている。
 
2011年に、私は式波アスカラングレーについて以下のように書いている。
 

2009年には『ヱヴァンゲリオン劇場版 破』が公開され、式波アスカラングレーという、惣流アスカラングレーとちょっと違う別人さんが活躍しました。旧来からのアスカファンのなかには、「式波アスカはアスカじゃない」と否定的な人もいると聞きます。しかし私の場合「あれはアスカ神の顕現である。初代の面影を色濃く残しておられるが、よりかわいらしい姿で降臨なさった。」という気持ちで眺めています。劇場版の続編では、そこそこ幸せになってくれるといいなと思って応援しています。
 そうしてアスカは神になった――ある“心の神棚”ができあがるまで - シロクマの屑籠より

 
で、式波アスカはそこそこ幸せになった。エントリープラグのなかで彼女がまとった服やエントリープラグが還った場所からは、式波アスカには彼女の物語がもうできあがっていると察せられた。旧TV版や旧劇場版に比べれば、式波アスカの心の補完(TV版25話風にいうなら【式波アスカ、彼女の場合】)もそれなり描かれていたといえる。本当はもっと描いて欲しかったけれども、それを求めるのは求めすぎだろう。
 
『新劇場版:破』以来の式波アスカの歩みは、TV版や旧劇場版とそれなり差別化されていて、(ビジュアルノベル風の言い方をするなら)"フラグの踏み具合"もだいぶ違っていて、エヴァを降りた後も生きていけそうな描写だったので私は式波アスカのことを心配しないことにした。世界でいちばん惣流アスカに似ている彼女が幸せに生きていける可能性が示されたから、シン・エヴァンゲリオンは10点満点中10点である。あの世界の人々(や動物たち)が蘇ることも示され、たぶん、世界がだいたい元に戻ったことも示された。渚カヲルも綾波レイも満更ではなさそうだ。碇シンジも成長した。私が新劇場版に期待していた筋書きを、シン・エヴァンゲリオンはほとんど全部見せてくれたといえる。おめでとう! ありがとう! さよなら!
 


 
シン・エヴァンゲリオンに気に入らないところがないわけではない。たとえばシンジとゲンドウの言語的やりとりやヴンダーの戦闘シーンはあまり気に入らなかった。第三の村の描写の一部や「おとしまえ」というキーワードにも思うところはある。
 
というかシン・エヴァンゲリオンにはストーリーの筋書きに対して肉付きがあまり良くないシーンが幾つかあって、ところどころ(低予算の)深夜アニメのようですらあった。スクリーン内の描写によってではなく、声優さんの演技とセリフによって筋を追わなければならない場面がいろいろあった。『新劇場版:破』の終盤には赤木リツコが蘊蓄をふるっている場面があるが、あの蘊蓄を知らなくても『新劇場版:破』のあのシーンはなんとなく楽しめる。が、シン・エヴァンゲリオンの場合、登場人物の台詞によって筋書きを補強しながら観なければならない感じがあった。旧劇場版『まごころを、君に』の時にも似たような瞬間はあったが、なにせシン・エヴァンゲリオンは一部のアニメオタクのための作品ではなく、もっと幅広いファンにサービスするエンタメなのだから、それってどうなのよ、と思ったりもする。
 
でも、それらは私にとって小さなことでしかない。
シン・エヴァンゲリオンを最後まで観て再確認したが、私は『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』の世界の登場人物たちの行く末を案じていたのであって、シン・エヴァンゲリオンの作品としての優劣は問題ではなかった。シンジがすべきことをして成長し、アスカやレイやトウジやケンスケが未来を紡いでいる、そういう筋書きが確認できればそれで私は良かったのだろう。
 
葛城ミサトはエピローグまで生きなかったが、彼女のすべきことをし、彼女の行くべきところに行ったから異存はない。というかシン・エヴァンゲリオンで唯一泣きそうになったのは葛城ミサトの顛末だった。これはまったく想定外だったので自分自身で驚いた。
 
葛城ミサトに心動かされたのは、旧劇場版で果たせなかったことを最後までやってのけたからだと思う。葛城ミサトは旧劇場版でも頑張っていたが、碇シンジを初号機に載せられず、惣流アスカに事実上の死守命令*1を出して見殺しにした。だから私はどこかで葛城ミサトを恨んでいたのだけど、シン・エヴァンゲリオンの彼女を見て、その恨みがやっと消えた。恨みが消えるとは、心地よいものですね。
 
新劇場版の登場人物たちの行く末が確認できたので、私にとってのヱヴァンゲリヲンは終わった。と同時に、ヱヴァンゲリヲンの終わりをとおして(TV版・旧劇場版といった)本来のエヴァンゲリオンから自分がどれだけ遠ざかっていたのかと、エヴァンゲリオンから何を授かったのかを思い出した。シン・エヴァンゲリオンは私とエヴァンゲリオンとの相対距離を思い出させてくれたから、葬式というより、同窓会や二十五回忌に近い。声変わりした碇シンジの、あの聞き慣れない声が約四半世紀の歳月を象徴していた。スタッフロールが流れている最中、結局私は歳月のことを思っていた。私にとってのエヴァンゲリオンは、過去に起こって今を作った作品だったなと。
 
 

昔話

 
『新世紀エヴァンゲリオン』は全体としてみれば碇シンジの物語だった(彼は主人公だから、おかしくはない)。TV版25話では碇シンジ・綾波レイ・惣流アスカ・葛城ミサトの心の補完のスタートらしきものが描かれたが、結局TV版26話は碇シンジの心の補完だけを語り、旧劇場版『まごころを、君に』は碇シンジが選択した結末としては理解しやすかったけれども、それ以外の登場人物の選択ははっきりしなかった。そうしたなかで、碇シンジの物語(と碇親子の物語)に強いエモーションを持った人がたくさんいたと記憶している。
 
私も途中まではそうだったが、夢のお告げにより、自分が碇シンジよりも惣流アスカに心性が似ていると気づいてしまった。それからは第8話『アスカ来日』が私にとってのの第1話で、彼女が廃人になった第24話『最後のシ者』が事実上の最終回となった(TV版25話と26話はアスカの心性を理解する参考資料)。そうやってアスカ視点でボルテージが限界まで高まっている最中に、1997年春の劇場版『Death&Rebirth』を観てしまった。アスカは一応復活したがどう見ても死にそうな様子で、その少し後に公開された続編予告ではアスカが「殺してやる」と呪詛を連呼していた。
 
この頃の私は惣流アスカと自分自身のシンクロ率が最高に高まっていて(友人に言わせれば)「狂ったように萌えていた」。これは、精神科医になってから覚えた語彙でいえばナルシシズム的対象選択の極みで、今にして思えば危なっかしいところもあったのだけれど、エヴァンゲリオンに出会うまでの私はナルシシズム的対象選択の踏み込みが浅く、自分自身を肯定することにも及び腰だった。おかしな話に聞こえるかもしれないが、私は、アスカの身を案じることでようやく自分のことを好きになってもいいと思い、また、好きになるべきだとも思うようになった。もちろんこれはアスカ単体でそうさせてくれたのでなく、TV版26話から受けた影響もあってのことだろう。
 
だというのに、続編予告を観る限りでは惣流アスカは助かりそうにない。どうすればいいのだろう? 私は助けたいと思った。助けなければとも思った。アスカを助けることが自分を助けることにも通じているように思えた。なら、どうすれば惣流アスカを助けられるのか。
 
「自分にできることは全部やろう。」
実際、お金と時間と手間を惜しまずあらゆることをやったが1997年7月19日が来るのは止められなかった。予想通り彼女は死んだ。悲鳴をあげたくなるような死に方である。『まごころを、君に』では碇シンジの選択の結果として彼女は蘇り、それはそれで救いではあったけれども、『まごころを、君に』は(TV版26話に似て)碇シンジの心の補完と選択の物語としての色彩が濃く、惣流アスカ自身が何を選んだのかや、彼女にとってあの結末がどういう意味を持つのかは判断保留するしかない……と私は受け取った。
 
当時はエヴァ二次創作なるものが(一部の愛好家のなかで)流行していて、さまざまな物語が描かれた。正体不明のアンソロジーが本屋に売られたりもしていた。そのなかにはTV版までをベースにしたものもあれば『まごころを、君に』までをベースにしたものもあった。それらはそれらで有意味だったと思う。でも十分ではないと感じた。二次創作を読むだけでは彼女が助かったということには、たぶんならない。
 
だから1997年の私は考えた:この、シンクロ率が最高に高まっていて狂ったように萌えている我が身をエヴァンゲリオンとし、いまや声が聞こえるほどシンクロしているアスカが私を操縦していると考えるなら、これからの自分が生き残り、アスカによく似た課題や弱点を克服すればアスカも助かったことになるのではないか? と。
 
この手法にはメリットがたくさんある。
第一にアスカの積極性を自分自身のものにできる。1997年以前の私は今より消極的で、もっと碇シンジに心性が近かった(だからはじめのうち、碇シンジの物語としてエヴァンゲリオンを観て、それに熱中できた)。アスカの声を聞き、アスカのように生きるなら自分はきっと違った風に生きられる。
 
第二に、アスカが幸せになる可能性があるのか実証できる。惣流アスカに比べて才能も容姿も劣る私が成長できるなら、それより才能や容姿に優れるアスカもまた成長するだろう。そして幸福を掴みもするだろう。だから私がアスカからもらったものをとおして成長や幸福を掴めるなら、アスカもまたそうであるはずだ。
 
第三に、この方法は「現実に帰れ」にも『まごころを、君に』のなかで綾波レイが言っていた「都合の良いつくりごとの世界で現実の復讐をしていたのね」という台詞にも対応できている。もし私がアスカを助けるために人生をオフェンシブに生きるとしたら、それは(シン・エヴァンゲリオン風にいえば)イマジナリーなアイコンであるアスカの力を借りて、自分自身の現実を変えることになるだろう。
 
第四に、アスカの運命を他人に委ねずに済む。ここまでシンクロ率を高めてしまったアスカの運命を他人任せにするのは、たぶん良くない。自分の戦いは庵野秀明という人や二次創作者たちに委ねるべきでなく、自分ですべきだ。そして戦いに勝ち、凱歌をアスカに捧げたい。
 
『まごころを、君に』前後の狂熱と混乱のなかで、私は「自分の人生をどうにかすることは、アスカをどうにかすることと等価値」という気持ちを高めていき、折に触れて「こんな時、アスカだったらどうする?」と自問自答しながら生きるようになっていった。結果、すべてが成功裏に進んだとは言えないにせよ、私の人生は大きく変わり、私の心性もだいぶ変わった。精神科医になったのも、精神分析と精神病理学に関心を深めたのも、ある程度まではこうしたことの一環だった*2し色々と役に立った。
 
イマジナリーなアイコンであるアスカの力を借りて私の人生が変わり、心性も変わったのだから、惣流アスカもそうなれるのだろう。というより1997年に異常なシンクロをしてから私の人生と(私へと播種された)惣流アスカの人生はイコールなので、よその惣流さんはどうだか知らないが、うちの惣流さんはもう大丈夫だ
 
はじめの数年間、彼女は私にとって軍旗のようでも軍神のようでも軍師のようでもあったけれども、そのうち考えるまでもなく彼女のように考えるようになり、そこに、自分自身の経験による修飾が積み重なっていった。考えようによってはもうシンクロしていないとも言えるし、考えようによっては完全に融合したともいえる。ときどき思い出す(現在の・私のなかの)惣流アスカのイメージは、中年期を迎えて子育てをしている母親の姿だ。シン・エヴァンゲリオンの公開がもっと早く、もっと惣流アスカ寄りの事実が判明していたら、そうしたイメージが破壊されたかもしれないけれども、2021年に公開されたシン・エヴァンゲリオンの劇中では惣流アスカについて多くのことは語られなかった。ために、私と私が預かった惣流アスカはこのまま年を取って問題ないと再確認した。
 
いや、確認するまでもない。どうあれ私は(私のなかの)惣流アスカとともに生きてきたし、これからもそうするしかない。イマジナリーな領域でも、リアリティの領域でも。
 
 
※追記:ここで文章化してしまったほうが良い気がするので追記するが、それでも惣流アスカが1997年7月19日に死んだのもまた事実だ。彼女の死を、私はどこかで「彼女はおれの身代わりになって死んだ」「かわりに播種された惣流アスカによっておれは生まれ変わった」と受け取っているふしがある。だからエヴァンゲリオンを思うこと・アスカのことを書くこと・新劇場版シリーズの式波アスカの運命を見定めることには、供養と仏前報告という意味合いもある。そういう意味では、私にとってのシン・エヴァンゲリオンは満足のいく大法要だった。
 
 

もう心配することはない。

 
シン・エヴァンゲリオンを見て、私が静かな気持ちになった一番の理由は、(私のなかの)惣流アスカと生き続けてきた24年間を否定する材料が出てこなかったからだ。式波アスカはあくまで式波アスカだと判明したし、彼女の道筋も無事に示された。式波アスカがケンスケを選んだらしき描写を観た時、「自分に娘がいて、娘が彼氏を連れてきたらこんな気持ちになるのかな」と思ったりもした。式波アスカたちは自分たちの物語を紡いでいくのだろう。綾波レイや碇シンジにしてもそうだ。逞しく生きて欲しい。
 
気がかりだった新劇場版の登場人物たちの安否がはっきりした今、思い残すことは無い。思春期を直撃し、私の人生を変えてくれた生涯に一度きりの作品の完結に立ち会えたことを嬉しく思う。名残惜しさがないわけではないけれども、もう彼らのことを心配しなくて良い安堵のほうが大きい。
 
さよならエヴァンゲリオン。
だけどエヴァンゲリオンから授かったものはなくならないし、私はそれと共に生きていくつもりだ。それが彼女との約束を果たすことにも、彼女の成長や幸福を実証することにもなるからだ。
 
 
[関連]:アスカの声はこれからも聞こえるか──キャラクターと一緒に年を取ることについて - シロクマの屑籠
 
 
 

*1:旧劇場版25話:「エヴァシリーズは必ず殲滅するのよ」

*2:ちなみに精神分析や精神病理学を学んだ結果として、現在は「新世紀エヴァンゲリオンの惣流アスカラングレーを精神分析や精神病理学の言葉で語ってもあまり面白くないし、あまり良いこともない」と考えている。それらは第三者の理解には役立つし、対人関係を制御する際の知識として役立つ場面もあるけれども、誰かと共に生きるにも、自分自身が生きるにも、決定的なツールとはならないように思った。だいたいの精神分析や精神病理学には三人称がよく似合う。一人称や二人称は似合わない。