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先日、「医薬に依存しない健康」を教義に含んだ宗教団体から麻疹(はしか)の集団感染があったというニュースが流れ、「ああ、これはネットでバッシングされるだろうな」という気持ちで眺めていたが、案の定、痛烈な批判や非難がネットにこだましていた。
これに関連して、はてな匿名ダイアリーに
anond.hatelabo.jp
という短文が投稿されると、「感染症対策をするのは当然のモラル」という声をはじめ、信仰を持つのは構わないが衛生学的に望ましい措置はとるべき、といった指摘がはてなブックマークに集まった。
私には、この一連のできごとが現代社会の常識を再確認するチャンスのようにみえたので、頭の整理をしてみようと思う。
「信仰の自由」vs「リスクをもたらす信仰は駄目」
宗教は、しばしば科学やエビデンスに則った常識から外れたことを信徒に要求する。
たとえば20世紀後半のローマ教皇庁は、人工衛星が飛ぶようになってもかなり長い間、地動説を否定していた。進化論や医学も含め、今日の科学的知見が宗教教義とぶつかり合うことは、現在でも珍しくはない。
とはいえ、その宗教自体も世俗化するにつれて時代に順応していくし、信徒の多くもそうである。
教皇庁が地動説を認めたのはその一例だし、私の知る多くのお坊さんがたも科学やエビデンスといったものに喧嘩を売ってはいなかった。現代のお坊さんがたの大半は、現代社会に即したかたちで御仏の教えを説いているし、それは、日本国内の他の多くの宗教宗派でも同じだろう。
信者サイドにしてもそうで、教義を厳格には実行していない人も多い。宗教を信仰している人の多くは、信仰の内容や教義と、科学的知見や生活との折り合いをどこかでつけている。
反面、もっと真剣に・信仰どおりに生活しようとする人がいるのも事実だし、それは新興宗教に限定された話でもない。
科学と宗教との間には、相いれない部分もある。科学は、人間の主観にかかわらずに事実や方法論を編み出していく手法なのに対し、そもそも宗教は、人間の主観にかかわる問題にもアプローチするものであり、もっと言うと科学が科学になるために捨ててしまったものを後生大事に持ち続けている*1。輪廻転生や最後の審判のたぐいも科学との食い合わせが悪い。
また、宗教には合理主義に反する部分も少なくない。現代の合理主義者からみて非合理的な行動が、宗教教義にはしばしば含まれてもいる。
今回の一件は、「医薬に依存しない健康」という宗教教義によって麻疹の集団感染という公衆衛生上の問題が発生したため、非常にわかりやすいかたちでひんしゅくを買った。
だが本件に限らず、宗教とその思想体系のなかには、ほかにも科学的・合理的とは言えない部分がある。今回は、ワクチンと集団感染という出来事によってそれが人目に晒されたけれども、科学やエビデンスや合理主義といった現代的な考え方に合致しないものが、宗教のなかにはまだまだ埋もれている。
先進国には、信仰の自由があるという。
信仰の自由があるからといって法律を侵してはならない、ということはよく知られているし、宗教を信奉する人々もそのことは理解しているだろう。
では、法律を侵してはいないけれども、教義にもとづいて科学や衛生学や合理主義に逆らった行動を行うのはどうかといったら、原則として禁じられてはいない、はずだ。
「科学や衛生学や合理主義に従って行動しなければ罰せられる」といった主旨の法律は、私は寡聞にして知らない。
だから、予防接種を受けなかったことで麻疹をひき起こした件に関しては、意図的にパンデミックを起こしたとかでなければ、[法的に]罰せられるようなものではないと思う。
しかし、今回の件が象徴しているように、[法的]には罰せられなくても、感染を起こしたこと自体は[ひんしゅく]を買っていた*2し、「リスクをもたらす信仰はけしからん」という声が多数あがってもいた。くだんのはてなブックマークには「社会に害のないように」という表現が散見されるが、ここでいう害とは、ダイレクトな害悪ではなくリスクのことである。
法律的には信仰の自由が認められているとしても、人々の道徳感覚としては、衛生学の見地からリスクを拡げる信仰はひんしゅくの対象であり、つまり道徳的にはアウトであるらしいのだ。
法律により、意図的に他人に害を加える行為が禁じられているだけでなく、世間の道徳感覚の次元でも、図らずも他人に健康リスクをもたらす可能性がひんしゅくの対象になるという現況は、噛みしめて考えると、きわめて現代的だと私は思う。
「リスクは迷惑」→「リスクは不道徳」ではないか
そもそも、リスクというセンスが昔からあったわけではない。
去年書いたタバコの話にしてもそうだが、昭和時代以前の人間のほとんどは、健康リスクという観念自体をあまり持っていなかった。
[関連]:「喫煙者は不道徳な人間」極論ヘイトはなぜ先鋭化するのか
[関連]:どんどん清潔になっていく東京と、タバコ・不健康・不道徳の話 - シロクマの屑籠
タバコは直接人を殺さない。
この点では、タバコを拳銃やサリンなどと同列に論じるわけにはいかない。
しかし統計学的にみれば、タバコが癌やCOPDなどの罹患率を高くしてしまうことが、現在では広く知られている。
統計学という手法でリスクを評価できるようになってはじめて、タバコは毒物も同然の扱いを受けるようになった。
発癌物質。塩分過多。メタボリック。そういったリスク概念をみんなが知るようになったのは比較的最近のことで、それは、タバコが本格的に害悪とみなされるようになった時期ともだいたい一致している。
そして21世紀を迎えると、都市のあちこちにジムが建てられ、非常に多くの人が健康増進に気を付けるようになった。ジャンクフードや運動不足は、直接人を殺すことはないが、病気の罹患率を高くするリスクがあると知られている。だから範疇的な現代人はせっせとジムに通い、健康的な食生活を心がけている。
こうした変化を「公衆衛生の啓蒙の勝利」とみることもできよう。
が、思想上のパラダイムとしてみるなら「リスクという考え方の浸透」のあらわれとみることもできる。
統計学にもとづいた評価と、それを背景としたリスク管理という発想は、必ずしも公衆衛生領域の独壇場というわけではなく、その裾野は広い。公害問題や原発問題にも、リスクという考え方を色濃くみることができる。
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この問題について私が気にしているのは、誰もがリスクを気にする社会が立ち上がってきたことで、「リスクは不道徳」という意識も強まっているのではないか、ということだ。
高コレステロールや高血糖は、リスクとして数値化される目に見えない統計上のリスクである。それらはいきなり(あるいは必ず)人を殺したりはしないが、統計的にみれば疾病可能性が高くなる、そういったタイプのリスクである。そういう透明だが数値化できるリスクを避けることが自明視される社会のなかで、私達はリスクとみなされる他者をも一層敬遠するようになり、リスクとみなされる言動をとる他者を、不道徳とみなしたがるようになってはいないだろうか。
少し前に、カナダで「移民は受け容れるが独身男性は除く」という報道があった。これを告げたニューズウィークの文面にも、リスクという言葉が登場している。
www.newsweekjapan.jp
CBC(カナダ国営放送)ニュースは以前、カナダは家族連れと独身女性、子供しか受け入れないことになるという匿名の情報を引き合いに、難民擁護派の懸念を伝えていた。独身男性は安全保障上のリスクが高すぎるという考えによる選別だ。
独身男性は安全保障上のリスクが高すぎるから移民させないのは、個々の男性ごとに判断しているのではなく、独身男性を統計学的にみてハイリスク群とみなして判断しているわけで、これも統計学にもとづいた典型的なリスク回避の発想である。この人はダメとか、あの人なら大丈夫とか、ではなく、ローリスク群、ハイリスク群という統計的なモノの考え方にもとづいて政策決定することは、現代社会のジャスティスに適ったことなのだろう。あの先進国の優等生であるカナダ政府がそうしているというなら、なおさらである。
このことが象徴しているように、リスク回避は私達が他者を選別する大義名分として通用し得るものとなっている。健康リスクを回避するために不健康をもたらすハイリスク群を批判・非難することと、治安リスクを回避するために独身男性の移民を敬遠することとは、異なる毛色はあるにせよ、リスク回避し、リスクを管理する時代ならではの理路という点では土台が共通している。
もし、このようなリスクに対する理路が、私達に深く浸透し、内面化しているとしたら。
何が選別の対象となり、何がブロックの対象となり、何が非難の対象となるだろうか?
これまでは?
そしてこれからは?
こういったリスクに対する理路によって、私達は多大な便益をもたらされているわけだから、現状を非難すればそれで良い、というものではない。長寿社会も、現代人の快適で安全・安心な生活というものも、このリスクに対する理路に多くのことを依っている。
とはいえ、リスクを遠ざけることに誰もが自覚的になった時代ならではの道徳感覚とはどういうものか、あるいはリスク回避と道徳感覚との相互関係はどういうものなのか、ときどき振り返って点検しておく必要があるのではないだろうか。
とにかくリスクを回避し、リスクは不道徳とみなしていくうちに、あれも不道徳、これもやっちゃ駄目、ああいう人は避けなきゃいけない、といった選別が自他をどんどん窮屈にしていくような未来は、私はあまり見たくない。なので、「リスクは回避」と、リスクについて言及する人々の道徳感覚の動きについては、これからも見つめ続けていこうと思う。