ビバ! デモクラシー!
兵庫県知事選、結果はどうあれ投票率の高さを鑑みれば民主主義が終わったどころか、真の民主主義が高らかに産声を上げたと言っていいだろう。あらかじめ地盤・看板・カバンを備えた既得権益者が勝つ時代は終わった。これからはblog、SNS、動画配信をフル活用した者が勝つ、選挙2.0の幕開けだ。
— 犬紳士 (@gentledog) 2024年11月18日
民主主義が三度の飯より好きな人には、ともあれ好ましい選挙だったのではないだろうか。高い投票率。若い世代の意思表示。多くの識者が予想していなかった選挙結果。これらは、普段は投票に行かず選挙活動に関心を持たなかった人たちまで、民主主義が届いていることを示しているからだ。
先日の兵庫都知事選に限らず、昨今、識者やマスメディアが予想していなかった結果となる選挙が相次いでいる。そうした選挙で勝つのは“良識派”を嘆かせる候補だ。選挙活動の公正性は問われるべきだろう。が、さておき、そうした候補が登場してより多くの人が選挙活動に関心を持ち、それが高い投票率に繋がること自体は民主主義の観点からみて良いことだった、はずである。
「インターネットはテレビになった」わけではなかった
少し遠回りになるが、「インターネットはテレビを超えた」という話をする。
2015年1月1日、私は『ネットは“コミケ”から"“テレビ”になった。 - シロクマの屑籠』という文章をブログに書いた。インターネットが多数派のものになり、大多数を相手取ったメディアに成長したことでテレビに近い機能を持つようになった、といったことを書いたし、当時はそういう理解が似合う部分があったと思う。だが今日のインターネットがテレビに近いとは、あまり思えない。
なぜならインターネットの双方向的メディアらしさが際立つようになったからだ。テレビは、番組制作者と番組視聴者がほとんど一方向的なマスメディアで、どんな番組をみせるのか、どのような番組を見るべきなのかは製作者側の判断にかかっている。テレビ局はひとつではないとしても、テレビという業界、テレビ人という職業には一定の共通項が(倫理の基準なども含め)あるようにみえる。対してインターネットは、文章を書く側や動画を配信する側だけでなく、視聴者の側もコメントでき、「いいね」や「シェア」をとおして見るべきもの・みせるべきものを視聴者が選別できる。その選別は、テレビの視聴率以上にダイレクトだ。
インターネットは双方向的であるだけでない。その双方向的な状況に参入する敷居がものすごく低い。
その最たるものが「いいね」と「シェア」だ。文章では何も書けない人、イラストを描けない人、魅力的なSNSアカウントを作れない人でも、「いいね」や「シェア」を用いて著者や配信者やコンテンツを推せる。ひとつひとつの「いいね」や「シェア」はささやかでも、何十万~何百万も集まれば大きな影響力や政治力をなし、コンテンツビジネスなら売り上げを、選挙なら集票を左右する。そのうえ「いいね」や「シェア」がもたらす感覚は、テレビの選挙速報の数字よりもずっと主観的に体験されやすい*1。この、著者や配信者やコンテンツとの一体感や、他の支持者との一体感を体験しやすい仕組みのおかげで、「いいね」や「シェア」ぐらいでも推し活気分や選挙活動気分を味わえたりする。
SNSや動画にじかにコメントする、という方法もある。なにもコメントが秀逸である必要はない。凡庸なコメントでも、論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない。支持する人への応援コメントでも、敵対者への批判や避難のコメントでも、数多く集まりさえすれば強力なコメントたり得る。どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ。誰が言ったかや何を言ったかだけでなく、何人が言ったかも重要であることを、いまどきのネットユーザーが知らないわけがない。
だから、メディアとしてのインターネットが成りおおせたのはテレビとは異なる何かで、今日の言説空間はテレビの時代とは異なるどこかだ。私はそれに気づくのが遅く、不十分だった。インターネットのそうした性質は、2016年には『シン・ゴジラ』や『君の名は』をとおしてコンテンツビジネスの領域で露わになっていたし、政治の領域でも、一期目のトランプ政権が生まれる過程はそうだったのだろう。それらは従来型のマスメディアが機能した帰結でなく、双方向メディアとしてのインターネットが普及し、猛威をふるった結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとしてはびこるようになった、と表現すべきだっただと思う。
みんな投票&選挙活動に参加できて良かったですね
で、昨今の選挙に立ち戻ると、双方向メディアとしてのインターネットが果たした貢献は大きいと思わざるを得ない。2024年のアメリカ大統領選挙や兵庫県知事選挙は、従来型のマスメディアが主導し期待したのとは異なる結果に終わった。インターネットでは大きな声が飛び交い、「いいね」や「シェア」が繰り返された。門外漢からみて、いったい何がフェイクで何がファクトなのか全くわからない様子だったが、ともあれ投票率は高かった。年齢別にみると、若い世代が斎藤前知事に投票していて、識者は今回の選挙結果に果たしたインターネットの影響をさまざまに語った。
フェイクやファクトの問題、県職員アンケートの結果等々があるため、この選挙が良かったのか悪かったのかは私にはまだよくわからない。それでも良かったと言えそうなことはある:それは、インターネットも含めた諸々をとおして、投票所により多くの人が足を運んだこと、より多くの人が選挙活動に参加したことだ。それって民主主義にとって基本的で必要不可欠なことでしょう?
(´・ω・`)数日前に見た立花孝志党首の動画が焼き付いてますpic.twitter.com/ji0tYByUMd https://t.co/6ZFPKbkq0W
— 富士三太郎「(自称)国際政治学者」 🇯🇵🇵🇸🇺🇦 (@fujisan_Ed) 2024年11月17日
上掲動画のなかで、選挙の渦中にあった立花氏が集票について持論を展開している。彼は「バカな人たちをどう利用するか」といったことを語っている。バカという言い方は礼を欠いている。が、バカという語彙を「普段は選挙活動に参加しない人」と読み直すなら、真剣に読み直しておくべき話ではないだろうか。
つまりバカかどうかはさておいて、普段は投票しない人・選挙活動に参加しようとも思わない人々を投票させたり選挙活動に参加させたりできた側が選挙に勝つのは民主主義における道理のはずだ。それはアメリカでもイギリスでも日本でも同じだろう。そして今の時代にはSNSや動画をはじめとするインターネットがある。それは双方向メディアとしての性質を持っているから、インターネットを介した選挙活動とは無縁な人を投票させるだけにとどまらない。あわよくば、そうした人々を自陣営の運動員に変えてしまう。
「バカを利用する」と言えば口が悪いが、「選挙活動に普段は参加しない人を掘り起こす」と言えばデモクラティックだ。さらに進んで「これまで選挙活動に参加できなかった人を参加させる」といえば、啓発的にすら響く。立花氏がやったことをバカの動員と言ってしまうのは簡単だが、別の一面として、有権者として自覚と経験の少ない人をも選挙活動に参加させた、という点ではデモクラティックなことじゃなかっただろうか。
民主主義体制下において、動員と参加はコインの表裏みたいなものですからね。
有権者が有権者であることを自覚し、自分で考えて投票や選挙活動をするのは民主主義の基本だ。さまざまに問題含みの選挙ではあり、結局何がどうなっているのか外部からうかがい知ることのできない選挙ではあったけれども、「従来は民主主義に十分に参加できなかった人たちが参加するようになった」こと自体は、喜ばしかった、いや、喜ばしいと言わなければならないでしょう?
本当に全員参加したら壊れる民主主義なら、壊れるしかないんじゃない?
こう書くと、「それじゃあ民主主義政体がもたない」とか「良い民意もあれば悪い民意もある」みたいな意見も出るだろう。そうかもしれない。なら逆に、今までうまくいっていた民主主義政体と"良い民意"なるものが一体どういう与件に支えられていたのか、思い出して点検する必要があるよう、私には思われる。
民主主義は古代ギリシアや中世の都市国家にもあったが、それらの民主主義では投票者が限定されていた。近代以降の民主主義も全員が投票する普通選挙制として始まったわけではなく、たとえば男性ブルジョワが投票するものだった。女性や貧乏労働者に選挙が開かれるようになったのはもっと後のことだ。普通選挙制ができあがった後も、投票と選挙活動を誰もが平等にやっていたとは思えない。地方の田舎では、地元議員の話を聞くために公民館に集まった人々が素朴に地元議員に投票していたし、都市部の投票率が低いエリアには投票しない人・できない人がいた。選挙への関心には年齢差もある。時間がたっぷりあって経験も豊かな高齢者ほど選挙に関わりやすく、そうでない若者ほど選挙に関わりにくい構図は、少子高齢化の進む現代日本では注視されなければならない。
こうした民主主義の来歴を思い出すと、民主主義にかかわる人がだんだん広がっていったとはいえ、現実には投票が難しい人や投票する気になれない人もいて、選挙活動をやれる人はもっと少ないのが実態だったように思う。立花氏がバカと呼んだ人のなかには、投票慣れしていない人や選挙活動慣れしていない人が多く含まれているだろう。そうした人々に投票を促し、自陣営の運動員にすらしてしまう双方向メディアが今日のインターネットだ。毀誉褒貶はあるにせよ、今日のインターネットはこれまでよりずっと多くの人々に投票を促し、選挙活動に(「いいね」や「シェア」をとおしても含めて)参加させる土壌になっている。
で、もし、今まで投票や選挙活動に参加できなかった人々が参加するようになり、それで民主主義政体がもたなかったり"良い民意"が"悪い民意"に変わってしまうとしたら、民主主義は壊れるのがお似合いではないだろうか。でもって、民主主義に基づいて民主主義が壊れてしまったことを有権者は誇ればいいんでしょうかね?
民主主義はタテマエとしてずっと、全員参加を謳っていたし、少なくとも欧米ではだいたいうまくいっていた。 まれに、チョビ髭の伍長のような人物を輩出するとしても、だ。
しかし、そうやって民主主義政体がうまく回っていた時にも、本当の本当に全員参加でやっていたわけではなく、物言えぬ人(サバルタン)が存在していたのではなかったか。高額納税者だけに選挙権があった時代はもちろん、普通選挙制が導入されてからも投票しない人/できない人はいたし、選挙活動ができる人は限られていた。それだけではない。民意を問うプロセスにはマスメディアが関わり、これが制御弁のような役割を果たしていた。マスメディアという制御弁が民主主義政体を安定させる効果があったのは、たぶんそうだろう。しかしマスメディアという制御弁が機能する民主主義政体において、マスメディアはまさに第四の権力で、統治の片棒をも担っていて、民意は、マスメディアの提示する疑問文に基づいて問われなければならなかった。ちょっと前の時代の選挙とは、そういう、マスメディアからの影響が現在よりもずっと強く、マスメディアが問題提起能力の大きな割合を占めている選挙だった。
そうした過去と比較すると、昨今の選挙はもっと草の根っぽさがあり、ひとりひとりが投票や選挙活動に参加できて、(インターネットの仕組みのおかげで)参加している手ごたえを感じやすいものだった。それで投票率が上がり、選挙活動が盛んになり、民意がダイレクトに選挙結果に反映されるとしたら……民主主義の理念に基づいて考えれば結構なことである。しかしもし、従来の民主主義の正体が「本当の本当に全員参加するとぶっ壊れてしまう政治体制や統治様式」だったとしたら……その理念は間違っていたか、理念はあくまでタテマエでしかなく、本音としては投票する者も選挙活動する者も限定されているぐらいがちょうど良かったと疑わざるを得ない。
いまどきの民主主義の理念を作り上げた人というと、ロックやルソーやジェファーソンといった近世~近代の思想家を思い出す。ところが彼らが生きていた時、末端の大衆にまで選挙権が行き渡り、末端の大衆の選択までもが民意にフィードバックされる民主主義を想像するのは難しかったのではないか。たとえば、民主主義の始祖たちの眼中に、立花氏がバカと呼んだ人々はどこまで含まれていただろうか?
それでも長らくは問題なかった。普通選挙制ができあがるまでには時間がかかったし、普通選挙制になってからも全員が投票できるわけではなく、ましてや選挙活動できるわけでもなかったからだ。普通選挙制が浸透した後の民主主義政体にはマスメディアという制御弁がついていて、第四の権力として民意の調整をおこなう仕組みが組み込まれていた。だから、立花氏がバカと呼んだ人まで投票し選挙活動するような「剥き出しの民主主義」に(近現代の)民主主義が慣れていたとはあまり思えない。*2。
ビバ! デモクラシー!
誰もが参加し、誰もが討論し、誰もが政治活動することで政治が行われるタテマエの政体が民主主義で、それが尊いものだとしたら、今、私たちの眼前で繰り広げられている民主主義も尊いはずだ。修正すべき点は修正しつつ、それを寿ぐべきだろう。
もし、尊いわけでないとしたら、民主主義なんてやめてしまい、寡頭制や独裁制を望むべきだろうか? いやいや、それも極端だろう。それなら「制限民主主義」や「修正民主主義」みたいなものを考えるべきだろうか? 本当は、そうやって人を選びたがる民主主義こそが従来の民主主義の正体で、全員参加のタテマエがタテマエでしかないなら、いっそそう言い切ってくれたらいいものを、と思う。でも、大人の世界ではそんなことは起こらないので、せめてインターネットが深く介在する民主主義でもちゃんと機能しつつ、それでいてタテマエも尊重できる制度設計を進めて欲しいですね(というより私たちが進めなければならない)と思う。
個別の選挙結果が未来の制度設計の材料になっていくのも、民主主義のいいところだ。亀のようにゆっくりと、しかし着実に。ただし、こうした民主主義のドタバタを、ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう。未来が明るいといいですね。