シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

無礼にならずに「なめる/なめられる」から降りるのは難しい

 
 
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昨日の「なめる/なめられる」についての雑談は多くの人に読んでいただき、はてなブックマーク等で多くのコメントをいただき、勉強になりました。ただ、そこを眺めていて「なめる/なめられる」の構図から降りていると言っている人、自分は他人をなめることがないと言っている人も少なくなく、考え込んでしまった。
 
「そんなに簡単なものだろうか」、と。
 
まずはじめに断っておくと、「なめる/なめられる」が遅れた風習でしかない、と考えるのは間違いだ、と私は思う。
 


 
いわゆる進んだ文化や共同体、部族においても「なめる/なめられる」は存在し、それに対応する礼儀や礼節のプロトコルが存在する。そもそも、他所の文化や共同体をいとも簡単に遅れているとみなし、そちらには「なめる/なめられる」が存在し、自分たちには存在しないと考えること自体、他所の文化や共同体を、ひいてはそのメンバーをなめている──軽んじたり侮ったりしている──のではないだろうか。
 
いや、そもそも「なめる/なめられる」の問題はもっと構造的で根源的だ。
たとえばある人が、「私は『なめる/なめられる』の構図から降りていて、他人をなめることがない」と言っていたとする。もしその人が、分け隔てなく色々な人に礼節や礼儀を尽くし、異なる文化・部族の礼節や礼儀にも配慮を怠らない人だとしたら、なるほど、他人をなめることのない人だなと私は理解する。立派な人だ。ただし、その人は、そうして礼節や礼儀を尽くすことをとおして、「なめる/なめられる」の構図を結局は意識している。確かにその人の行いは立派だが、「なめる/なめられる」の構図から自由だとは思えない。むしろ、十分すぎるほどコストを支払ってそこに適応していると言ったほうが似合う。
 
また、同じことを言っているけれども、礼節や礼儀に無頓着で、異なる文化や部族のそれらにも配慮を怠る人はどうだろう? 意図のうえでは、その人には他人をなめる"つもりはない"かもしれない。しかし、礼節や礼儀に無頓着な人の実態は、無礼者である。たとえば旧twitter(X)やヤフコメのリプライ欄にいきなり登場し、口汚いメンションをばらまいてタイムラインを汚染する人を思い出して欲しい。そういう人がいきなりタイムラインにしゃしゃり出てきて、そういう風に言い放ったら、「この人、私のことなめているんじゃないか」と多くの人は思うのではないだろうか。あるいはインターネット上の異なる文化、異なるクラスタに対していきなり不躾なことを言い放ったら、喧嘩売ってるのかとか、なめてんじゃないかと、多くの人を思わせるのではないだろうか。
 
で、そうした無礼者でも、当人自身は「自由で」「平等な話し合いを」「希望しているだけだ」と思っていて、そのうえ「だというのに、なぜ人々は私をこんなになめてかかってくるのか?」と思っている人さえ、いるかもしれない。
 
ここから何が言いたいのかというと、【「なめる/なめられる」が起こりがちな娑婆世界のなかで、その悪影響を回避するためには結局礼節や礼儀を意識しないわけにはいかず、すると結局「なめる/なめられる」の構図から降りることはできないんじゃないの?】ってことだ。
 
「『なめる/なめられる』を避けるために、職場でもどこでも、他人とは最小限のやりとりしかしない」のが最適と考える人もいるかもしれない。が、これもどうだろう? 全員が最小限の業務連絡しかしないのが最適だと思っているなら、それこそが「なめる/なめられる」を回避する最適解かもしれないが、そんなことはあるまい。文化や部族によっては、それこそが最も人をなめている/なめられていることに当てはまりそうだし、そうでなくても受け止め方には個人差はある。極端なことを言えば、たとえば業務連絡だけに終始し、いっさい相槌も打たず、挨拶すら省く人がいたとしたら、その人は、たぶん色々な人に「あの人、私のことをなめてるんじゃないか」と疑わせてしまうだろう。
 
個人差や文化・部族による違いをすり合わせるためには、最小限のやりとりではなく、すり合わせのためのコストを費やし、プロセスをやっていくしかない。挨拶をはじめとするプロトコルも必要だろう。もちろん、最小限のやりとりしかしたくない人がなるべくそうできるように、周囲の側がすり合わせる必要性もあると言える。だとしても、そこは周囲の側だけが配慮のコストを費やすべきところではなく、最小限のやりとりしかしたくない人の側も、いくばくかでもコストを費やすべきところでもある。
 
 

礼儀や礼節で回る社会に無頓着な人は、無礼をばらまく

 
現実には、世の中の人のほとんどは礼儀正しくあろうとしている。
巧拙の差はあるにせよ、職場で・学校で・出先でわざわざ無礼を働きたいと思う人はいまい。インターネットコミュニケーションを長く続けている人なら、他人のタイムラインにもの申す際などは、なめられたと思われないような語りかけ方を意識するものだろう。「私は他人をなめない」と言っている人が”本物”なら、いきなり他人のタイムラインを土足で踏みにじったり、自分と異なる文化や部族の人に無知かつ失礼な難癖をつけたりすることは、ないように思われる。
 
しかし、礼儀や礼節が拙ければそうもいかないし、私たちは完璧ではないから、非礼やボタンの掛け違いだって起こる。だからこそ「すみませんでした」とわびることも含め、意見のすり合わせや譲り合いが大切だし、礼儀や礼節にかけるコストをおろそかにし過ぎてはいけない。そこをおろそかにしている最も極端な例が、SNSにおいて他人のタイムラインに無礼なコメントや不躾なメンションをばらまいているアカウントであって、ああいうのは良くない。
 
礼儀や礼節は、無料ではない。
精神的なコストを支払いあい、ときには時間的・経済的コストも支払いあい、お互いがお互いのことを尊重しあっている人間関係を維持するために努めあっている。挨拶などもそうだが、およそ人間の暮らすところではどこでも、私たちはお互いに敬意を払いあい、争いを避けるために気を遣ったり汗をかいたり、ときにはお金を支払ったりしている。
 
しかし、そうしてお互いにお互いを気遣うコストを支払いあっているなかで、その礼儀や礼節にコストをぜんぜん支払わない人がいるとしたら、その人は意図するしないにかかわらず、いろいろな人に「この人、なめているんじゃないか」という印象を与えかねない。
 

なめる/なめられる についての話 - シロクマの屑籠

いやだと言ってる人が多いが、社会的な価値を身につけるコストをかけずに人と対等にあろうとする姿勢は逆に人間関係をナメてるとしか思わない。自分も無知無学で言葉遣いもなってないやつとは話したくはないくせに。

2024/10/30 09:27
b.hatena.ne.jp
 
たとえば全員が敬語を使いあっている場所で、一人だけため口の人がいるとしたら? その人はほとんどの人から「この人はなめてかかっているんじゃないか」と思われるだろう。「私は他人をなめない」と自称している人が、敬語の欠如も含めて礼節や礼儀にコストを支払っていないとしたら、それはもう、礼節や礼儀のフリーライダー、ではないだろうか。
 
もちろん実地ではそこまで極端な人は珍しい。けれども、礼儀や礼節にコストを支払わないほど・意識を差し向けないほど、こうした印象を周囲に与えやすいかと思う。そのような人が「私は他人をなめない」と言ってみたところで、他人はそうは受け取らない。
 
礼節や礼儀を欠いていると、「なめる/なめられる」の構図から自由になるどころではなく、むしろ、「なめる/なめられる」の構図のなかの、かなり悪いポジションに陥ると懸念される。
 
こうしたことを考えていくと、私には、「なめる/なめられる」という構図から自由になることは娑婆世界では無理だと思えてしまう。文化や部族で多少の違いはあるにせよ、全人類が礼儀と礼節を守りあい、それでお互いの面子や沽券を守りあっている以上、人の間で生きていくためには礼儀と礼節にコストをかけないわけにはいかない。ある程度のコストを支払っていてもなお、ときには「今、あの人になめられたのではないか」という誤解が生じることもある。「なめる/なめられる」の構図のすべてが礼儀と礼節に由来している、と主張するつもりはないが、礼儀や礼節を欠いていると、「なめているんじゃないか」と疑わせてしまう確率、相手から無礼者だと思われる確率は一気に高まる。である以上、結局私たちは礼儀や礼節を守って人間社会の輪のなかで生きるほかない。礼儀や礼節を無視した結果、あちこちの人に「あの人は、私をなめている」と思われ、あちこちの人に無礼者と思われて生きるよりは、たとえ不自由でもそっちのほうがマシなんじゃないかというのが私の思うところだ。
 
最後に少し付け加えると、礼儀や礼節は無料でないだけでなく、社会的格差や不平等に根ざしている部分もある。礼儀や礼節には、ハビトゥス、つまり文化資本としての一面があるし、先天的に礼儀や礼節が守りづらい人やずっと多くの精神的コストを支払わなければならない人はどうなんだ、という問題もある。そうしたことまで書くと、やがて「礼儀や礼節は多数派のためのもの、そしてブルジョワ資本主義的イデオロギーに基づいた階級装置だ!」みたいな言葉が脳裏をよぎるけれども、そうした各論については、今日ここでは書かない。そのあたりは、いつかまたどこかで。