少し前に、ある人から拙著『人間はどこまで家畜か』に関連した話題として「犬の自己家畜化」の話と「日本社会・日本文化の進展」の話について、いろいろなご意見をうかがう機会があった。
犬は日本人にとって身近な動物だ。
しかし、その犬は日本でいつ頃からいて、昔はどんな感じで日本人と共存していたのか? これについて拙著では寄り道する機会が乏しかった。そんな私に、ご意見を下さった方が勧めてくれた本がある。
本のタイトルは『犬の日本史』、犬と日本人との付き合いを歴史学の先生が紐解いている新書である。これが良かった。進化生物学的な視点、文化的な視点、どちらで眺めても面白いので、両方の視点から紹介してみたい。
進化生物学的な面白さ:日本で自己家畜化した犬という動物について
『犬の日本史』の前半には、日本人と犬の馴れ初めが書かれているのだが、まずここで私は驚いた。かつての犬についての記述について、著者が、犬が自己家畜化した動物であることを知っている書きぶりをしているからである。
犬の祖先と人間との交渉がどうやって開始されたかは想像がつく。人間が攻撃する意思をもっていないことがわかれば、犬たちは人間の群の近くをうろつき、人間の残飯のおこぼれにあずかったであろう。
……そうした犬たちのなかでも、性質が人間に対して服従的な個体、あるいは特別な形質をもった個体が、好んで飼われるようになっただろう。色が変わっているとか、目がかわいいとか、耳が垂れているとか、そういう特別な個体が人為的に選別され、犬は家畜への道を始めたものだろう。
『犬の日本史』より
この記述内容は、犬が進化生物学的になしとげた、「自己家畜化」という生物学的変化に合致している。そして歴史学の先生が使い慣れていなさそうな「個体」や「形質」といったボキャブラリーが並ぶ。これらは生物学、とりわけ進化生物学で多用されるボキャブラリーだ。こうした犬の自己家畜化については『人間はどこまで家畜か』でも少し触れていて、
自己家畜化が始まった頃のイヌやネコにとって、人間との共生それ自体が新しい環境で、過度に怖がったり攻撃的になったりする個体が定着できなかったのは想像に難くありません。なぜなら動物たちから見た人間はとても大きく、危険そうな動物だからです。その環境に居続けられた個体だけが人間と共生するメリットを享受しながら子孫を残し、そのプロセスをとおしてベリャーエフのギンギツネ同様、従順さのある個体が子孫を残し続け、みずから家畜化症候群を起こしていった=自己家畜化していったのでしょう。
たとえばイヌとオオカミは祖先が共通していますが、その共通祖先のなかで人間に慣れ、人間の周囲で暮らせたのは一部でしかありません。その一部だけがイヌへと進化する道、つまり自己家畜化の道を歩んだのでした。
『人間はどこまで家畜か』より
人に慣れることのできた祖先が今日の犬へと進化していく過程をこのように書いた。『犬の日本史』が出版された2000年頃は、2010年代に比較して自己家畜化についての資料が整っていない時代だったが、同時代には自己家畜化に関連した書籍出版が国内で相次いだ。そうした当時の流行もあってかもしれないが、ともあれ、『犬の日本史』の著者が進化生物学について調べた形跡が伺える。
生物学的な自己家畜化に関して、『犬の日本史』でもうひとつ興味深い記述がある。それは縄文時代の犬についての記述だ。
2010年代の著作『家畜化という進化』によれば、日本は犬の自己家畜化が起こった「はじまりの地」のひとつと目されているが、結論はまだ急ぐべきではないとされている。一方、『犬の日本史』では、魏志倭人伝を引用したうえで「縄文時代の家畜は犬が唯一のものだった」と書き記している。その縄文時代の犬は、
……縄文時代の犬は、肩の高さが40センチ前後の小型犬で、現在の日本犬でいうなら柴犬くらいの大きさだった。ただし、茂原信生氏によれば、現代の犬とは、つぎのような点で相当の差があった。
1.頭蓋骨・四肢骨ともに頑丈である。
2.前頭部から鼻にかけての段差(ストップ)が小さい
3.頬骨弓の幅が小さく、顔の幅がせまい。
4.口吻部がふとい。
5.歯の異状萌出などがほとんどない。
6.歯の摩耗や生前の破損がいちじるしい。
7.雄と雌の差が現代の犬よりも大きい。
『犬の日本史』より
とあって、自己家畜化や家畜化症候群*1が起こった動物たちの特徴と一致するように読める。2010年代に出版された自己家畜化に関する書籍群によれば、自己家畜化や家畜化症候群が起こった動物はまず、(のちに品種改良などを経て大型化することはあるにせよ)野生種よりも体格が小さくなる。また、自己家畜化が進行すると性差は小さくなるとされるが、縄文時代の段階ではまだ、犬の性差は現在よりも大きかったという。
ここに登場する茂原信夫氏は獨協医科大学でアジア地域の家畜の広がりや進化、ひいては人間自身の自己家畜化について研究を続けてきた人で、だからだろうか、2010年代以降の資料と照らし合わせても違和感はない。
それから、これは著者が知らずに書いていることだろうけれども、『枕草子』に登場するかわいそうな犬・翁丸についての論述も、自己家畜化した動物としての犬らしさを反映している。『枕草子』のなかで清少納言は、「人に同情されて泣いたりするのは人間だけだと思っていたのに、哀れみの言葉をかけられると、身をふるわせて鳴き声をたてた翁丸の様子は、いじらしく感動的だった」と書いているのだが、実はこれ、自己家畜化案件である。
どういうことかというと、犬や猫の顔は自己家畜化をとおしてかわいくなっていて、犬にはオオカミにはない表情筋すら発達している。犬が表情筋を用いるのは、犬同士のコミュニケーションのためでなく、人間を相手取ってのコミュニケーションのためだ。いわば犬は人間と意思疎通するために表情をつくるのであって、清少納言はそれを敏感に読み取ったのだろう。
文化的な面白さ:日本社会における犬の位置づけ
その翁丸に限らず、犬たちは人間に飼育され、人間の都合によって虐げられたりかわいがられたりした。
かわいがられるの最たる例として同書に記されているのは、徳川五代将軍綱吉による『生類憐みの令』だ。その最盛期には江戸郊外に犬を養うための巨大な建物がつくられ、白米や味噌や干イワシなどが集められたという。江戸の街中で犬を殺そうものなら大事になり、密告も横行した。では、それで犬たちが幸福になったかというとそうでもない。合わない食事と運動不足で犬たちは早死にする羽目になったという。『犬の日本史』の著者は続けてこう書く。
犬を捨てるな、犬が病気になったら医者にみせろ……、このような犬のあつかいかたは、現代の愛犬家にすれば、ある部分あたりまえに映るかもしれない。しかし、これは江戸時代の話である。江戸時代までの日本には、動物愛護のような文化は、ほとんどないに等しかった。その点をみあやまってはいけない。
よしんば、百歩ゆずって、江戸時代にも、その程度の犬愛護がなされてもいいではないかとしよう。問題は、犬を重んじるあまり、犬にかかわる人間を軽んじた、という側面にあった。
『犬の日本史』より
犬を重んじ、犬にかかわる人間を軽んじ、さかんに罰する。その結果、犬は憎悪の対象となり、『生類憐みの令』が終わった後には迫害の対象となった。犬を勝手に持ち上げたり迫害したり、人間とその社会は犬に対して勝手なものである。
のみならず、人間は犬に対して勝手であり続けている。狂犬病が流行すれば犬を殺し、昭和時代にはどこにでもいた野犬たちは殺処分の対象になって激減した。今日では動物愛護の精神にもとづいて繁殖の抑制が行われ、犬の室内飼いが増え、犬小屋反対運動なども起こっているが、これらも人間の勝手であって、勝手でしかない。少なくとも、犬たちにそう懇願されて実施したものではない。
そして人間は犬を食べてもいた。『犬の日本史』には、昔から日本人が犬を食べていたさまが記されている。犬は自己家畜化し、人間のそばに暮らすようになり、そのおかげで野生種であるオオカミよりも繁栄している。しかし、それは人間の勝手にさらされることをも意味していて、生殺与奪を人間に握られた状態──まさに、家畜というほかない状態だ──での繁栄だったわけで、今日の犬たちは、繁栄はしていても人間から自由ではなく、今まさに人間の完全な管理下に入ろうとしている。
対して、昔の犬はもう少し人間の管理から距離を置いていたし、そもそも人間自身があまり管理されていなかった。なにしろ、犬の側もしばしば人間を食べていたぐらいである。
達智門の捨て子の話では、捨て子が生きているのが不思議なこととされている。なぜ不思議なのかは、達智門周辺に居ぬが多くいるのに生きているからであり、すなわち、捨て子は犬に食べられるのが常識だったのである。
……病人もまた、抵抗する力をうしなっているのことは捨て子と同じであり、犬はそうした人の側の弱者を食うのである。ある状況下での人と犬との間には、まさに弱肉強食の世界が現出するのである。
『犬の日本史』より
犬が人の家畜になったといっても、しょせん、人間と犬の間柄とはこの程度だった。人が犬を食ったり殺したりするのと同じく、犬が人を食ったり殺したりすることもある。「犬や猫や人間に生物学的な自己家畜化が起こった」「生物学的な自己家畜化が進んで、犬も猫も人も穏やかになり、協力関係がもてるようになった」と言っても、ほんの数百年前まではこんな調子だったし、おそらく現在でさえ、人も犬も野性的な一面を残している。
そうしたうえで近代以降の犬、ひいては人を振り返ると、生物学的な自己家畜化の進展よりも迅速に、文化の側が、より穏やかで・より生命を大切し・より生命を管理するかたちで人と犬を包み込もうとしているさまがみてとれる。
今日、犬を食べる人はほとんどいないし、いれば変人扱いされるだろう。と同時に、犬はケージに繋がれるべきであり、愛護されるべきであり、管理されるべきであるとされている。『犬の日本史』の文化面から読み取れるのは、色々あったにせよ、人も犬も次第に管理されるようになり、野生的な一面を抑えて生きるようになったということだ。
著者は、明治から幕末にかけて放し飼いになっていた犬たちについて、「善悪は別にして、日本の犬は『あるがままの犬』であった。」と記している。逆に言えば、今日の犬は、もう、あるがままの犬ではない。物理的なケージに覆われているだけでなく、文化的なケージにも覆われ、管理されなければならない何者かである。おそらく人もそうだろう。そうした犬と人とが二人三脚で管理されていく歴史の流れを、私は『犬の日本史』から読み取った。手前味噌で恐縮だが、拙著『人間は、どこまで家畜か』とセットでお読みになると理解が深まるだろうと思う。
【もっと詳しく読みたい人には】
拙著。こちらは人間の生物学的な自己家畜化と、文化によって引っ張られている部分とを記した本です。
序盤に犬の自己家畜化が結構すごいさまが記されています。中盤以降のお話も面白い。
自己家畜化&家畜化症候群をおこした動物をたくさん挙げているので、色んな動物について知りたい人はこちらを。
*1:家畜化症候群:自己家畜化も含め、家畜化が起こった動物に起こる身体のつくりや行動の変化。