シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

私たちは、自己家畜化をこえて"社畜"になる

 
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
続き。
 
いつの世にも苦しみや悩みはあるし、その社会・その時代に最適な人もそうでない人もいるでしょう。アフリカの狩猟採集社会に最適な人と、幕末の日本の農村に最適な人と、2024年の東京に最適な人はそれぞれ違っています。
  
ただ、精神医療の受診者の右肩上がりな増加が現代特有の生きづらさをなにかしら映し出しているとみるのは、それほど見当違いではないのではないでしょうか。
 
近代以前の社会にも、それぞれの時代の生きづらさがあり、適応するための課題があり、落伍者がいました。と同時に、その時代ならではの生きやすさがあり、その時代だからこそ活躍できた人もいたでしょう。逆に、いつの時代でも落伍しやすく、不幸になりやすい人もいたかもしれません。
 
対して、今日の先進国では医療や福祉が行き届き、人権思想も浸透しているため、近代以前の生きづらさ、特に生存の難しさのかなりの部分が克服されました。飢餓や疫病が減り、平均寿命が高くなったこと等々を挙げていけば、両手の指ではおさまらないほど現代社会の恩恵を数えあげられるでしょう。
 
でも、それらを根拠として今日の社会を留保なく肯定し、とめどもない進歩を諸手で歓迎して良いのでしょうか?
昨日の文章にも書きましたし、拙著『人間はどこまで家畜か』でも書きましたが、進歩は否定されるべきではありません。ただ、進歩が速足になり、その速足な進歩がますます累積した時、進歩した社会が私たちに課すハードルもますます高くなるでしょう。高くなっていますよね? 支援や治療を受けることなく社会のなかで生きていく難易度で比べるなら、今日の社会のほうが過去の社会より難しいはずです。それを反映して、精神医療が対象とし得る人の範囲は過去の社会より広がっているはずです。
 
この調子でいくと、全人口の5%どころではなく、10%、20%、40%の人が精神医療による治療や福祉の支援が必要な未来が待っているかもしれません。「治療や支援があれば、そうした人も長く生きられて良いじゃないか」とおっしゃる人もいるかもしれませんし、私も、そういう視点に基づいて議論する場合はあります。けれども社会の成員の何割もが常に精神医療の治療や支援を必要とする社会ってどんな社会でしょうか。それは良い社会だと言えますか? 私は精神科医なのでそのほうが食いっぱぐれないかもしれませんが、その方向に社会が向かっていくとして、本当に祝賀すべきでしょうか?
 

ますます進歩する文化や環境に適応するために精神刺激薬やSSRIでエンハンスする人と、ますます管理されゆく学校環境に適応させるためにADHDと診断され精神刺激薬で治療される子どもの絶対的基準はあるでしょうか? 榊原の論説を踏まえるなら、進歩する文化や環境に適応するためにエンハンスメントを用いること自体は否定できないように思われます。そのとき精神科医は、病者を治すというより社会適応を包括的にメンテナンスしコーディネートする職業、聖書によってではなく向精神薬やIoTの技術をとおして人々の心を統治する司牧的権力、と位置づけられるかもしれません。
人間はどこまで家畜か: 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)』より抜粋

いつか、誰もが精神医療による治療や支援を、いやエンハンスメントやメンテナンスを受けるのが当然の未来がやって来るかもしれません。それは、便利なことである以上に、高度な社会に私たちが適応するために必須なことで、もっと高度化した社会を成立させるために必要になることかもしれません。IoT化に関しては、その兆しは私たちに忍び寄っています──肌身離さずスマホやを所持している人やスマートウォッチを身に付けている人は、サイボーグ化・サイバネティクス化への一歩を踏み出していると言えます。
 
 

子どもは野生のホモ・サピエンスとして生まれてくる

 
それからうひとつ、過去の社会についていけなかった人の条件と今日の社会についていけない人の条件を比較すると、前者のほうが人間の生物学的な仕様に近い問題点がネックになり、後者のほうが人間の生物学的な仕様から遠い問題点がネックになっているようにみえます。
 
たとえば狩猟採集民のメンバーにも集団から落伍する人、その社会・その共同体に適応できない人がいたに違いありません。当時の社会や共同体に適応するために必要だったものは、ヒトの(生物学的・進化的な)行動形質からあまり遠くなかったでしょう。喜怒哀楽をまじえたコミュニケーションができること、共同体とうまく折り合えること、身体的に健康であること、五感をとおして危険を察知できること、等々は何万年も前からヒトが適応していくうえで重要な課題でした。火のある環境に馴染めることも重要だったでしょう。現代社会では焚火がこわくてもあまり困りませんが、狩猟採集民の社会では生存困難だったに違いありません。
 
対照的に、今日、現代社会に適応するための課題には、何万年も前からヒトが適応するべきではなかったものが色々と含まれています。人口密度の高い場所に集まって過ごすこと、座学やデスクワークを何時間もこなすこと、晴天の日も雨天の日も変わらないパフォーマンスを発揮すること、喜怒哀楽を控えめにしつつ黙って働くこと、等々はヒトの行動形質ができあがってきた過去の環境で問われてきた課題ではありません。
 
ヒトの行動形質ができあがってきた過去の環境と比較した時、現代ってのはなかなか特殊な環境です。昔ならとっくに死んでいたはずの人でも生きられるようになった半面、狩猟採集社会や中世ヨーロッパ社会だったら活躍できていたかもしれない人が生きづらくなったり、なんとなれば精神疾患に該当するとされる環境です。子どもから高齢者までがひとりひとり大切にされるようになった半面、子育てのためにクリアしなければならないハードルが色々と増え、子ども自身も、昔に比べて高度な社会に小さい年齢から適応しなければならなくなりました。昭和時代よりも静かで粒ぞろいで暴力の少なくなった令和時代の学校教室は、昭和時代よりホワイトには違いありませんが、そのぶん、子ども自身もホワイトであるよう求められます。
 
より小さい年齢からホワイト化した社会に適応しなければならない兆候は、文科省のデータからもうかがわれます。
 

 
文科省の暴力行為発生件数/いじめの認知件数のグラフをみると、暴力やいじめが増えているような印象を受けるかもしれません。しかしそれらの増加がグラフが波線で区切られている箇所から急に増えている様子がわかるように、これは、暴力やいじめの定義がその年に変更され、事例として認知される条件も変更されたことを反映しています。実際、警察庁「犯罪白書」をみる限りでは、同時期に校内暴力で検挙・補導された児童生徒の数は減っているのです。
 
ですから、上掲のグラフが示しているのは、学校環境が年を追うごとにホワイト志向&高コンプライアンス志向になり、、かつては大人たちに見過ごされて認知の対象にならなかったより小さな暴力やいじめまでもが摘発や矯正の対象となったことを示しています。
 
子どもははじめからホワイトに生まれてくるわけではありません。
社会がいくら高度になろうとも、子どもは必ず野生のホモ・サピエンスとして出生してきます。その子どもに、昔よりもホワイトな行動が期待されて、それができなければ治療や支援の対象とみなされなければならなくなっているとしたら、それってどこまで良いことなんでしょうか。今の子どもは昔よりもずっと早くから・ずっと強力な「ホワイト化した高度な社会に、より早くから馴染め」という圧を受けながら育ち、親も、ホワイト化した高度な社会にみあった振る舞いを身に付けさせるよう努めなければなりません。子どもの安全を期するためにも、子どもが社会の他のメンバーに迷惑をかけないためにも、それは必要な措置ではあります。でも、これは育てる側にも育てられる側にも厳しい課題です。でもその厳しい課題をクリアしなければ、ホワイトな学校・ホワイトな学級の一員でいるのは難しくなってしまうでしょう。
 
 
 

「生物学的な自己家畜化」で身に付けた形質と、「ホワイトな社会の社畜」とのギャップ

 
『人間はどこまで家畜か』の第一章では、進化の過程でヒトがヒトとしてできあがっていった、自己家畜化という生物学的変化を紹介しています。人間同士が協同すること・交易すること・人口密度の高い状態でも平和裏に暮らすことは、この自己家畜化という生物学的変化に多くを依っていて*1、自己家畜化こそが人間を地表の支配者たらしめた最後の鍵であるよう、私には思われます。
 
しかし、自己家畜化を経て穏やかな環境になじみやすくなったとはいえ、私たちが社会の進歩に無限についていけるとも思えません。たまたま脳内セロトニンに恵まれまくり、たまたま穏やかで、たまたま座学にもよく馴染める人なら、そんなホワイトな社会や環境にもなんなく適応できるでしょうが、誰しもがそうであるわけではありません。そして社会の進歩が加速し、私たちにますますホワイトたれと命じるとしたら、そこから逸脱してしまう人の割合は増えてしまうだろうし、そこに適応するために必要とされる努力も増えてしまうのではないでしょうか。
 
私たちは今、生物学的な自己家畜化をとおして身に付けてきた形質よりもずっと向こうの、ホワイトな社会の社畜たれと社会に期待されているのだと思います。文化や環境はそのようにホワイト化し、すでに私たちを覆いつくしています。少なくとも日本国内において、そうしたホワイト化していく社会の機構から逃れるすべはありません。社会の機構から逃れているようにみえる者は、すみやかに治療を要する者や福祉的支援を必要とする者、または矯正が必要な者とみなされ、それぞれふさわしいかたちで社会の機構に回収されていくでしょう。
 
昔に比べて生きやすくなった部分があるのは重々承知していますし、そうした恩恵を否定するべきではありません。だからといって、そのために昔に比べて生きづらくなった部分があることを見逃すことはできないし、なかったことにするわけにもいきません。本当に人間にやさしい未来を目指すなら、たとえ今は無理だとしても、そうした現代ならではの生きづらさを見なかったことにして済ませるのでなく、正面から見据え、「ここに現代社会ならではの問題があって、解決を待っているよ」とちゃんと指さし確認しておくべきで、未来において解決すべきプロブレムリストのなかに入れておくべきだと思います。
 
私はそういう問題意識を持ちながら、『人間はどこまで家畜か』という本を書きました。
 
 

*1:たとえば自己家畜化が起こると脳内で利用可能なセロトニンの量が増える