シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「ヒト、または日本人はASDに進化しないと思う」

 
私のタイムラインでは、定期的に「人類はASD(自閉スペクトラム症)的な方向に進化していく」「未来の人類はもっとASD的だ」といった内容の文字列が流れていく。そうした文字列を書いている人の属性はさまざまで、そう思っている人が結構いるんだろうなと思っている。
 
しかし、人類(ここからはヒトと書く)はASD的な方向に進化できるのだろうか? 特にもし、日本の現在の環境下が続くと考えた時に、ASD的な特性が日本人の多数派になっていくとは考えづらい。そのことを文章にしておきたくなった。
 
 

でも、肝心なのは性選択で勝ち残れるかどうかじゃないの?

 
2023年の12月に「ヒトはASD的な方向に進化していく」的なお話が目に付きやすくなった引き金は、たぶん、東北大学の研究グループの発表だろう。yahooニュースでは以下のように報じられている。
 
news.yahoo.co.jp
 
年を取った男性の精子は、より若い男性の精子に比べてASDの発症リスクが高い。そして現代社会は高齢出産が増えており、より高齢な男性の精子が受精に用いられる頻度も高くなっている → 生まれてくる子どもが自閉スペクトラム症の特性を持って生まれてくる確率も高まるのは、そうかもしれないですね、と思った。
 
だが、そうして生まれてくる頻度の高まったASDの人たちは、そうでない人たちと同じぐらいに子をなし、その行動形質を次代に伝えられるだろうか? 言い換えれば、ASDの人たちは現環境下の自然選択と性選択において非-ASDの人に比べて有利とまではいかなくても互角ぐらいにはやっていけるのだろうか?
 
ある行動形質、たとえば自閉スペクトラム症でも社会不安症でもなんでもいいが、そういう行動形質を持っている人が生まれてくる頻度が高い社会が到来しても、その行動形質を持ったひとりひとりが自然選択と性選択に十分に適合できるのでなければ、その行動形質がヒトの遺伝子プール内において頻度の高いものになっていくことはない。たとえばASDの人が生まれてくる頻度が今までの二倍になったとしても、そのASDの人々が子をなす程度が非-ASDの人々の半分もなかったら、世代が進むにつれ、むしろASDの人はだんだんヒトの遺伝子プールのなかで頻度の稀なものになっていくだろう。進化とは、せんじ詰めれば遺伝子プールのなかに現れる形質の頻度の問題だから、この仮定の場合、ヒトはASD的な方向には進化しないことになる。
 
ASD的な方向にヒトが進化していくか否かの鍵を握っているのは、ASDの行動形質を持った個体がどれだけ生まれてくるのかもさることながら、そうした行動形質の個体がどれだけ自然選択や性選択に耐え、次世代を残せるのかにかかっている。で、たぶんだけど前者よりも後者のほうが現時点ではクリティカルな問題ではないだろうか。
 
ASDの人がどれぐらい自然選択や性選択において不利を被っているのかは、即座に挙げられる資料がない。けれども関連があるのではないか、と思われる統計はある。内閣府のウェブサイトにある「障碍者の状況等(基礎的調査等より)」などでこれは確認できる。
 
第1編 第1章 障害者の状況(基本的統計より)|平成25年度障害者白書(概要) - 内閣府
 
これによれば精神障碍者に当該する人は、そうでない人よりも配偶率が低い。日本では、配偶率の低さは子どもをもうける頻度の低さにほぼ直結しているので、精神障碍者に当該する人は子をもうけにくくなっているとみなして構わないだろう。ASDに限らず、なんらかの精神障碍者に当該する人は性選択において不利を被っている可能性が高い。また、その性選択という観点でみれば、ASDの疫学論文に記されている「ASDの人は独身である割合が大幅に高い」という文言からも、ASDの人が性選択において大幅に不利であることが想像される。ASDの人が配偶しないのか、できないのかはここではあまり重要ではない。どうあれ、結果としてあるASDの人が配偶せず、性行為や子育てをとおして好首尾に子をもうけることもなければ、そのASDの人の行動形質は後世の遺伝子プールに残らないことになる。だからより多くのASDの人が配偶や子育てをしない傾向を持っているなら、高齢受精によって新たに生まれてくるASDの人がちょっとぐらい増えたとしても結局ヒトの遺伝子プールにASDの行動形質の出現頻度は増えていかず、むしろ、低下さえしていくのではないだろうか??
 
大事なことだと思うので念押し的に書くと、ヒトがASD的な方向に進化するかどうかを左右するキーポイントは、高齢出産等をとおしてASDの行動形質を持った人が生まれてくる頻度がどれだけ高まるのか以上に、自然選択と性選択をとおしてその行動形質がどれだけ次世代に伝えられ、それが首尾よくヒトの遺伝子プールに広められ、そのなかでの頻度や割合を増していくかではないか? とここでは問うている。で、私は後者のほうが大きいじゃないかと思っているわけだ。
 
 

むしろ日本社会はASD的な特性を減らす方向に変わり続けていないか?

 
そもそも、この数十年間、この日本社会と文化は(いや概ね先進国の社会と文化は、と言い換えてもいいかもしれない)ASD的な特性や行動形質を必要なものから不要なものへ、役に立ちやすいものから役に立ちにくいものへと変え続けてきたのではなかっただろうか。
 
それは精神科臨床だけを眺めていてもある程度勘づくことではある。大人のASDが次々に診断されるようになっていった2010年代以降、新たにASDと診断された中年や高齢者の生活歴や、ASDと診断された子どもの親でカルテの備考欄に「父親(母親)はASD的傾向を有する」と書かれた中年や高齢者たちの生活歴は、発達障害がブームになるまで、その人々が社会のなかでどうあれ活躍していたことを物語っている。子どもよりも父親のほうがASD的な傾向が強いぐらいなのに、父親は社会人として定年まで働ききり、その息子が「おまえもちゃんと働け」と父親にネチネチと言われて親子喧嘩が絶えない……的な状況も珍しくない。
 
現代社会とその文化が個々人に求めている資質、「どのような人が社会に適応しやすく適職を見つけやすいか」に関してもそうだ。第一次産業や第二次産業のウエイトが多かった時代、人的流動性の低かった時代には求められなかった資質が、この、第三次産業のウエイトが大きく人的流動性の高い社会には必要とされている。ずっと同じ工場で・ずっと同じ作業を続けていればそれで良しとする仕事は、今日ではほとんど存在しない。工場勤務でさえ、作業内容が次々に変わっていき、その変化についていかなければならないからだ。異動だってある。「第二次産業だから全く同じ場所で同じことを続けていれば良い」と期待するのは難しいことだ。ましてや第三次産業では尚更だ。
 
配偶についてもそうかもしれない。お見合い結婚、イエとイエが結び付ける結婚が廃れた結果、配偶のボトルネックは男女間の個人的なコミュニケーションとなった。ASDの人にも魅力的な人はいるし、ASDの人にも配偶を積極的に望んでいる人もいる。が、少なくともお見合いやイエとイエが結び付く結婚といったかたちで、周囲にお膳立てされた結果としてASDの人が配偶するということはまずなくなった。配偶を差配するシステムが個人のコミュニケーションに依存している社会では、そのコミュニケーションが苦手であることの多いASDの人は配偶に繋がる確率が低く、したがってみずからの行動形質を次代の遺伝子プールのうちに残しにくくならざるを得ない。
 
発達障害が診断され、治療や対応をしなければならなくなった社会とは、このような社会ではなかっただろうか?
また、このような社会になったからこそ、まさに発達障害は治療や対応をしなければならなくなったのではなかったか?
 
その社会は加速している。ますます流動的な社会へ。ますます効率的な社会へ。とりわけ先進国において、おそらくそうした社会の加速は色々な人を振り落としていくのだろう。50年前、100年前は仕事を見つけることができ、配偶もそこまで困難ではなかったはずの(たとえば)ASD的な特性を持った人が、仕事を見つけることが難しくなり、配偶も困難になっていく。それを医療や福祉がなんらか援助しようとしているとしても、社会全体の趨勢、文化の潮流までは食い止めることはできない。それは、本当は人口減少と同じぐらい途方もないスケールの出来事で、実はヒトの遺伝子プールは今、ものすごい選択圧(淘汰圧)の真っただ中にあるのではないかと私は思う。
 
このままの調子で社会が加速し、文化の潮流が現在の方向に流れ続けるとしたら、未来のヒトの遺伝子プールは、よりコミュニケーションが得意で、より流動性の高い状況に追随しやすく、より自ら異性の歓心を買いやすい、そのような行動形質を持つ者の頻度の高いものに変わっていくと私なら予想する。それらの行動形質とは、資本主義や個人主義に妥当しやすいものでもあるだろう。
 
逆に、ASD的な特性の頻度が高くなる、いわばASD的な人がモテるようになり配偶・挙児・子育てが今より容易になる社会や文化とはどのようなものかも考えてみる。
 
いちばん簡単に想像できるのは、時計の針を50~100年ほど巻き戻すことだ。第二次産業や第一次産業が幅をきかせていた時代まで諸々が逆行すれば、今日のような、ASDのみならず色々な行動形質が精神疾患として析出しなくて済む社会や文化が到来するかもしれない。が、もちろんそんなことは通常起こり得ない。全面核戦争のような大規模戦乱によって、地球のあちこちが封建制ぐらいまで後退すれば起こり得るかもしれないけれども。
 
それとも「歴史は繰り返さないが韻を踏む」的な未来が到来するとしたら。今日、第三次産業とみなされている仕事の大半がAIなどによって不要になり、ぐるっと回って人間がその肉体的な作業能力を買われるようになる、そんな未来だ。現代の先進国の人間は非常に高コスト体質であり、たとえば産業用のロボットや自動改札機やと比べて低コストとは言えない。しかし、人間のフィジカルな条件こそが最適な仕事や労働や作業が重要な社会や文化がこれからできあがった場合には、ぐるりと回ってASD的な特性が再び脚光を浴びるかもしれない。
 
これらの予想はどれも、今日の先進国社会やその文化がなんらかのかたちで終焉した場合を想定している。現代人は無自覚かもしれないが、現行のヒトとて、社会や文化といったみずから構築した環境のなかで自然選択と性選択を積み重ねていて、今日の環境に適した形質(もちろん行動形質も含む)が残りやすく、そうでない形質が残りにくい、そういう進化の過程の最中にある。そうしたなか、今日、ASDという特性や行動形質が後世の遺伝子プールのなかに十分な頻度を残せる見込みはあんまりないようにみえる。だから私は、ヒト、または日本人はASDの方向へと進化しないと思っている。少なくとも、この社会・この文化が破壊されることなく持続するとすれば、の話だが。