シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

野良猫、野良犬、野良…人間?(と、それらを存在させない現在の東京)

 
こちらの続きだけど、単体でも一応読めると思います。
 
たとえば東京は徹頭徹尾人間のための街であって、動物のための街ではない。その、人間にとって都合が良くあるべき空間に動物が勝手に棲みつくと、迷惑になるし害にもなる。だから昭和から現在に至るまで、害獣駆除が行われてきた。もちろん動物愛護の精神や法治に基づいたかたちでだ。ドバトのようにまだまだ数多い害獣がいる一方、そうした努力の積み重ねが成果をあげてきた害獣も少なくない。昭和時代を憶えている人なら、その成果を実感できるんじゃないだろうか。
 

 
こちらのグラフは環境省のウェブサイトから借りてきたもので、犬猫の殺処分数を示したものだ。昭和から令和にかけての間に、犬猫の殺処分数が大幅に減ってきたのがみてとれる。昭和49年にはなんと年間100万匹以上の犬が殺処分され、平成元年には年間32万匹以上の猫が殺処分されてきたという。
 
こうした殺処分数のなかには、飼い犬や飼い猫が飼い主に殺処分を依頼されたものが含まれている。が、令和においても所有者不明の動物、いわゆる野良犬や野良猫が割合として大きいので、昭和や平成においてもその大半が野良犬や野良猫から成っていたと想像される。
 
実際、昭和時代には野良犬や野良猫をよく見かけた。学校に野良犬が入ってきてしまうのはあるあるイベントで、近所に住み着いた野良犬に誰かがマジックで眉毛を書くなどイタズラをし、やがて、その犬を行政の人がどこかに連れていく……なんてこともあった。野良猫も同様で、ゴミ収集場を漁るなんて当たり前のこと、人の家の台所に上がり込んで魚を盗む野良猫も珍しくなかった。サザエさんの主題歌にある「お魚加えたドラ猫 追いかけて」という歌詞は本当に起こっていたことだった。
 
それが、駆除の積み重ねや動物愛護の精神の浸透のおかげで、ここまで犬猫の殺処分数が少なくなった。くだんの環境省のウェブサイトによれば、令和3年度の犬の殺処分数は2739、猫の殺処分数は11718という。実際、街で野良犬や野良猫を見かけることは今日では珍しい。暖かい地域の漁港近くでは野良猫をそこそこ見かけるが、野良犬を見かけることは本当に稀になった。
 
動物愛護の精神に基づくなら、殺処分の対象たりえる野良犬や野良猫の数が減ったのは好ましいことだろう。実際、殺処分ではなく去勢という、今日の私たちからみて穏当に思える活動も広がっている。去勢は野良犬や野良猫を直接殺しはしない。が、それをとおして将来の野良犬や野良猫を、つまり殺処分の対象たりえるそれらが生まれてくることを未然に防ぐ。そうした結果の積み重ねが上掲グラフの数字となっているのだろう。
 
人間の私有地と公有地が社会契約の論理に基づいたかたちで活用されるべき都市において、野良犬や野良猫が勝手に住み着き、勝手に増殖し、勝手に暮らすのは迷惑なことであり、地権者の権利や都市機能にとって損害や損失になり得るのは想像しやすい。狂犬病のような病気を媒介する可能性、噛みつきの危険、ゴミ集積場を荒らす可能性などもある。人間は動物に対して人間都合に基づいて処遇や処断を決めるものだから、そういう理解になることに不思議はない。
 
が、野良犬や野良猫にとってはたまったものではあるまい、とも思う。
そもそも犬や猫はどこまで野良でどこまでペットだったのか? その起源を振り返った時、犬や猫は必ずしもペットとして生まれた・生み出されたものではない。
 

 
犬や猫は人間による品種改良を中途から受けた種ではあるが、もともと人間が一方的に家畜化したわけでなく、人間の居住地に勝手に住み着き、勝手に共生をはじめた種だ。犬や猫はオオカミやヤマネコから自己家畜化のプロセスをとおして人間の居住地で生活できるように分かれていった種で、人間との共生のはじめから令和時代の飼い犬や飼い猫のように飼育されていたわけでもない。
 
だから犬や猫からすれば、令和時代の飼い犬や飼い猫のように暮らすのは本来の姿ではない。昭和時代によく見かけたような野良犬や野良猫の姿、あるいは人間に飼われているのか寄生しているのか曖昧な状態が元来の暮らしに近かったはずである。当然、犬や猫が人間に人懐こい側面をみせることもあったろうし、人間の迷惑や害になる側面をみせることもあったろう。と同時に人間の側もそれらを慈しむ側面をみせることもあったろうし、それらを害する側面をみせることもあったろう。
 
まあ、そうして野良っぽさを伴いながら人間と共生していた犬や猫が、人間の暮らしの変化とともに異なった生活を強制され、従来の生活を続けている者が根絶やしにされようとしている。それは人間の人間中心中心主義に基づいて考えるなら、いかにも起こりそうなことだし、仕方のないことだったとは思う。けれども人間中心主義において主体とはみなされず、愛護の精神を差し向けられるところの犬や猫からすれば、それがどこまで歓迎できること・喜ばしいことだったのかはわからない。人間と違って国民投票で意思表示することもできないから、犬や猫がこの事態をどう思っているのかは謎のままだ。
 
なるべく殺さず、なるべく苦痛なく、しかして殖えないように──これは私たちにとって良いことのように思えるわけだけど、それが犬や猫、とりわけ野良犬や野良猫にとって良いことなのかは私には正直よくわからない。苦痛が少ないこと・それぞれの個体がなるべく長く生きることが、たとえ苦痛に満ちて短命でも生殖可能性に開かれていることに比べて慈しみとして優れている・素晴らしいとみなすのは、人間の価値基準に基づいたことで、さらに言えば、近代以降の人間の価値基準に基づいたことでしかない。
 
野生の犬や猫にとって、本当は苦痛が少ないことや個体がなるべく長く生きることより、短命であっても生殖可能性に開かれていることのほうがプライオリティが高い可能性はぜんぜんあり得るだろう。もちろん彼らは哺乳類であり感情や疼痛を人類と共有しているから、苦痛がなるべく少ないほうが好ましいし、むごたらしく苦しめたりしないほうが良いのはそりゃそうだろう。だがそれはそれとして、苦痛にみちて短命な野良犬や野良猫の生をできるだけ減らすよう動物愛護の精神に基づいて実践しているそれが、まさに根絶されようとしている野良犬自身や野良猫自身からどうみえているのか、どう思われているのかは不明だ。生殖し増殖するという生物の基本線から考えて、哺乳類である彼らとて、短命であっても生殖可能性に開かれていることのプライオリティが高い可能性はあると思う。もちろんこれも私の勝手な推測に過ぎない。本当のところはわからないし考えても仕方ない。
 
人間が犬や猫と共生するようになってから長い間、人間と犬と猫との間柄はお互いに共生しつつ、お互いに利用しつつ、ときどきバチバチと争ったりするようなものだった。が、従来よりも私たちは長生きになり長生きしなければならなくもなり、街は清潔で安全に、種々のリスクは遠ざけられなければならなくなった。ある時点までは都市や農村にいて構わなかった野良犬や野良猫、野良ともペットともつかない状態で構わなかった犬や猫はそれそのままではいてはいけないものになってしまった。なぜなら彼らは清潔や安全に抵触するかもしれないから。リスクをもたらす者、損害や損失をもたらす者として遠ざけられなければならなくなったから。そうして私たちは動物愛護の精神とそれに基づいた法を後ろ盾にしながら、社会契約とリスクマネジメントが徹底していく街から野良犬や野良猫たちは排除されていった。
 
今日、犬や猫が生きていくためには、その犬や猫が動物愛護の精神にかなった飼育をされているのに加えて、その犬や猫が人間にとってけっして害をもたらさない、そのような生き方でなければならない。間違っても、ときどきバチバチと人間と争うような犬や猫であってはならない。社会契約の論理に基づいてお互いに危害や迷惑を加えず、私有地や公有地を害されないよう心掛けなければならない今日の都市空間では、だから野良犬や野良猫は存在を許されない。たとえば放し飼いの犬など今日では稀になっているし、放し飼いの猫でさえだんだん見かけなくなっている。泥棒猫など論外である。
 
社会契約の論理の徹底、そして人間にとっての功利主義というアングルから上掲の犬・猫の殺処分数の推移を振り返ってみると、まず野良犬が殺処分の対象となって減少し、続いて野良猫が殺処分の対象になっていったのもうなづける。はじめに猫よりでかくて危険な野良犬が駆逐されていった。しかし平成の中頃になると野良犬は相当に駆除され、より危険度の低い野良猫が標的になっていく。
 
旧来型の生をおくる犬──つまり野良犬──は、日本においてほとんど絶滅させられたも同然と言える。いわば野生の犬は、人間都合によって日本では滅ぼされたのである。そして現在は旧来型の生をおくる猫──つまり野良猫──が滅びの途上にある。ときには人間とバチバチ争いながらも共生し、短く生きて子孫を残そうとして死んでいった、そのような猫の生は過去の記録上にしか見いだせなくなるのかもしれない。
 
 

社会契約の論理におさまらない人間は?

 
ところで人間自身はどうだろう?
 
今日の人間は借家住まいか不動産持ちかを問わず、特定の住所に紐付けられながら、社会契約の論理にもとづいた生活をしている。地権者の意図や用途に基づいて私有地や公有地が徹底的に切り分けられている東京のような都市空間ではとりわけそうだと言える。もちろん人間は法の対象で、法に保護されると同時に法にその存在を定義され、法に従って生活することを期待される。
 
さて、その社会契約の論理は昭和より令和のほうが進んでおり、法治の徹底も進んでいる。私有地や公有地、特に東京のような大都市のそれらは所有者や地権者の意図や用途に従ったかたちで用いられなければならず、勝手に占有したり、勝手なことに用いたりしてはならない。たとえば、空き地だからといって私有地で子どもが勝手に草野球をすべきではないし、道路にかんしゃく玉をばらまいてはいけない。その度合いがどんどん高まって、今日では法の隙間はますます少なくなっている。無くなったはずの法の隙間に強引に入り込もうとする人間は、所有者や地権者の権利を侵害する者であり、害や迷惑をもたらす者とみなされる。だから、そういう人間もいなくならなければならない。もちろん人間はドバトや野良犬や野良猫とはわけがちがうから、駆除の対象ではないけれども。
 
 

 
そうした法の隙間的な空間が減ったことで、暴力団とその活動が少なくなり、また、ホームレスも少なくなった。東京都においてホームレスの数はどんどん減少し続けている。東京都保健福祉局から借りた上掲のグラフにはないが、令和5年1月の段階では東京都23区区のホームレス数は384人と報じられ、減少には拍車がかかっている。
 
ではどのようにホームレスが減少しているのか? その答えは上掲グラフに含まれている。都は緊急一時保護事業やそれに引き続く自立支援事業といった福祉事業をとおしてホームレスをホームレスではない何者かに変換しようと努力している。グラフの数字を追うと、それらの福祉事業は延べでホームレスの数をも上回るほどに行われており、かなり手厚い福祉事業が行われていることがうかがわれる。また、一度の支援ですべてが完結するわけではないこともうかがわれる。
 
被支援者の健康維持や生活の安定化といった観点からみて、こうした福祉事業は必要だろうし、そのニーズに沿って都はかなり頑張っているようにみえる。と同時に、これだけやっても路上で短命のうちにこと切れるホームレスが残っているだろうことは想像にかたくない。
 
だがこれも、途方もないことではないだろうか。
 
これだけホームレス支援が進んでいる東京は、社会契約の論理に本当の本当に隙間を許そうとしていないのではないか。
 
ホームレスが滞在する東京の空間はすべて私有地や公有地だろうから、ホームレスは滞在するだけでそれは不法滞在、所有者や地権者の意図や用途に反するかたちの滞在とみなされる。昔はそうした滞在があってもうるさく言われない、いや実際には官憲と対立はしつつもホームレスが頑張っていられる隙間空間がいろいろあった。だが、これだけホームレス支援の福祉事業が充実し、街のジェントリフィケーションが進み、ホームレスの実数も少なくなっている令和の東京では、そんな社会の隙間、法治の隙間はなかなか少ない。
 
ホームレスが増加し続けている米英の大都市において、路上とは、社会の隙間たり得るかもしれないし、そこは日本の路上に比べて何が起こるのかわからず、安全・安心とは言い切れず、法治が徹底していない空間かもしれない。また同時に、野良犬や野良猫が存在可能な空間でもあるのかもしれない。
 
しかし東京はそうではない。私有地や公有地に損害や損失を与え得る動物が駆逐されているだけでなく、私有地や公有地に勝手に滞在している人までもがそれそのままでは存在できなくなっている。そしてタワーマンションやデパートのフロアだけでなく、路上も、公園も、空き地も、誰もが好き勝手に使ってかまわないものとはみなされておらず、その所有者や地権者の意図や用途に沿ったかたちで用いられなければならない。その度合いが右肩上がりに高まっている──。
 
ホームレス支援が行き届いていて、米英の大都市のようにホームレスのあふれた状態になっていないのは基本的に良いことのはずだ。だから支援事業をやめるべきとは私もまったく思わない。ただ、意図してなのか意図せずしてかは不明だが、こうした支援事業をとおして東京という街がホームレスが存在できない街へと絶えず更新されているという思いもぬぐえない。表向き、それは個々のホームレスの支援事業なのだけど、全体としてそれは都市全体のクレンジングだったり、法の隙間を徹底的になくしていく施策、そして社会契約の徹底を推し進めていく施策という側面を持ちあわせているようにもみえる。
 
東京は野良犬も野良猫もほとんどいない街になった。そのぶん安全・安心にもなったろう。だがそこは、人間自身までもが法の隙間にたゆたうことが困難になり、社会の隙間といえる場所が消えていく街でもあった。私はアナーキストではなく中央集権国家の必要性を支持し、社会契約に基づいた功利主義を支持したい意見を持っているけれども、それでもここまで法治が徹底し、社会の隙間が消去されていく現状に、なんとも言えない不穏さを感じている。私たちの社会は*1快適で安全・安心な街を求め、法治の徹底を望み、路上で短命に斃れる人を減らすよう努めてきたわけだけど、それでたどり着いたこの状況は、いつどんな時も私たちの味方をしてくれる、私たちを守ってくれると信じ切って構わないものだろうか? 私はそれが心配だ。たとえばドバトや野良犬や野良猫が法治や動物愛護に沿ったかたちで駆除されているのを見る時、そうした心配がわっと高まる。だから、ときどきこういう文章を書いて自分のなかの不安を宥めたくなる。
 
 
(本文はここまでです。以下は、ぐちぐちとした蛇足なのでサブスクしている常連さん以外は読まないでください)

*1:ところで「私たちは」とは?

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