「東京でハトをひき殺した疑いで運転手が逮捕された」という不思議なニュースがインターネットに出回った。
nordot.app
私の経験では、ハトやカラスはよく心得たもので自動車が近づいてくれば飛んで逃げるし、だから簡単には車にひかれない。じゃあどうしてハトがひき殺されたんだと思ったら、車を急発進させて・わざわざ殺していた嫌疑がかけられているという。もし故意に殺そうとしていたなら、鳥獣保護法違反に当てはまるのはなるほどそうなのかーと思った。だいたいそんなことのために都会の道路で車を急発進させるのは不穏だ。
ところで、この滅多にみることのないニュースのなかで、運転手はこんなことを供述していたという。
「道路は人間のもので避けるのはハトの方だ」
こう言いつつ故意に車を急発進させハトをひき殺していたなら言い訳にもならないのだけど、それはそれとして実際問題、道路とは人間のものであり、ハトが車を避けるべきってのは本当にそうじゃないかと私は思った。なぜなら道路とは人間が往来するために設けられた設備であり、それは動物のためのものではなく、人間のためのものだからだ。
もちろん地方の田舎で道路について「動物のためのものではなく、人間のためのものだ」なんて言ったら大勢の人が笑っちゃいそうではある。地方の道路も人間が設けたインフラであり、そうである以上、動物が車や人間を避けるべきだが、実際にはそうなっていない。道路には鹿や熊や猿や猪や狐や狸が出没する。それらは大きくてある程度危険でもあるので、地方のドライバーがそれらの動物をひこうとすることはない。なるべく動物たちをひかないよう努力はしているけれども、時折事故が起きてしまう……というのが実情だろう。道路は人間のものとは言っても、鳥獣保護区、国定公園に敷かれた道路を動物たちが通過するのはおかしなことではないと思う。保護区や公園は動物たちが暮らして構わないことになっているわけだから。
だけど、事件が起こった東京ではどうだろう?
東京は鳥獣保護区や国定公園に指定されていない。少なくとも事件の起こった新宿区がそれらに該当するわけではないだろう。そして東京は人間がつくった人間のための街だ。道路も建物も人間のものだ。それらは私有地や公有地である。ドバトのための土地、ドバトが暮らし繁殖するための場所など新宿区にはないはずである。この点において「道路は人間のもので避けるのはハトの方だ」という言葉は東京においては実際そのとおりだったのではなかったか。
東京は、あらゆる土地が私有地や公有地から成り、どの土地がどのような用途に用いられるかがはっきり定められている。そうした私有地や公有地を所有者に意志確認することなく勝手に用いたり、法や条例に定められた以外の使い方をすることは禁じられている。地方でも"法的には"たぶんそうなのだが、東京ほどそれが顕著ではないし、先に挙げた鳥獣保護区や国定公園のような場所もある。その道路、その土地がどこまで人間のためのものでどこから動物のためのものかという観点でみれば、東京ほど人間のためのもので動物のためのものではない土地は無い。
にもかかわらず、人間のための土地であるはずの東京には大量のドバトが棲みついている。かつてのカラスと同様、ドバトは駆除されるべきとみなされ、実際、駆除が行われているはずである。駆除されるべきドバトは、しかるべき手続きをとおして駆除されるなら──そのしかるべき手続きと駆除は、一般に専門家のなすこととみなされている──合法とみなされていて、そうでない駆除、いわば素人による駆除は鳥獣保護法違反、つまり違法であるとみなされている。
ドバトをはじめとする害獣駆除の話を聞くたび、私は合法的とは何か、そして動物を愛護するとは何かについて、考えさせられる。合法的な害獣駆除とは、あるいは害獣駆除と動物愛護の両立とは、素人が直接害獣をどうこうしてはいけないもので、専門家がプロトコルを守ってやるぶんには害獣をどうこうして構わないものとみなされている。もちろん専門家はドバトをボウガンで撃ったり卵を叩き割ったりはしないだろう。だが専門家はドバトの行動範囲を制限したり追い立てたりすることをとおして、ドバトの繁殖を防ぐのみならず生活の場を冒し、結果として滅ぼす。血まみれになってドバトを殺すことはないが、目に見えないところでドバトが困って死ぬぶんには手が汚れない……ということなんだろうか。
一人の専門家が結果的にドバトを何羽殺したのかは、ここでは問題にならない。殺したドバトがたった一羽でも、素人が・故意に殺したならそれは違法であり、専門家が生活の場を冒したりして何十羽何百羽ものドバトを結果的に死に至らしめたとしても、それは合法である。動物愛護。現代社会ではこれが妥当とわかっている一方で、なんだか不思議な気持ちになることがある。昭和以前の素朴な人々は、動物を殺してしまうぐらいならしばしば野に放とうとしたものである。それが野良犬や野良猫となり、ときには外来種が池や川に棲みつく結果にもなった。しかし今、こうした「野に放つ」を動物愛護と考える人はいるまい。動物がワンチャン生きていく可能性があるからと野に放つ行為は、たとえそれが動物が生きていく可能性を期してのものだとしても動物愛護の範疇には入らない。そうした野に放つ行為が慈悲心から出ているとしても、そんなものを省みる人は令和の日本社会、特に正しさの王国であるインターネットの世界にはまずいない。
では、害獣駆除の対象であるドバトに対して私たちはどのように接するべきで、どのように駆除するのが動物愛護の精神にかなっているのだろうかと考えると、さきほど述べたように専門家の手に委ねることなのだ、と思う。だが、この考え方の先にみえるのは、「なら、専門家がドバトたちの生活の場を冒していく限りにおいて、都内に無数にいるドバトを根絶するまで駆除していいのか?」という考えにたどり着く。その駆除に至るプロセスは、専門家ならば素人より"人道的"で動物愛護の精神にかなったプロトコルを守って行われている、と期待されてもいるだろう。じゃあ逆にプロトコルさえ守れていて専門家の手によるならばドバトを根絶するまで駆除していいわけ……なのだな?
ここで再び、「道路は人間のもので避けるのはハトの方だ」を私は思い出す。
東京は日本で最も道路や建物が人間の人間による人間のための私有地・公有地からなる。そこに勝手に住み着くドバトは害獣駆除の対象であり、招かれざる野良バトとでもいうべき何者かである。野良猫、野良犬に比べて一羽一羽の害は小さいかもしれないし、ドブネズミに比べれば不衛生なイメージを喚起しないかもしれないが、都会の害獣であること、駆除の対象であることは変わりない。案外、ドバトだって病気を媒介する。社会契約の論理の透徹した空間であるべき東京において、野良猫、野良犬、そしてドブネズミやドバトは駆除されなければならない。
法にかない、動物愛護の精神にもなるべく抵触しないドバトの駆除とは専門家の手に委ねられたものだと想像されるだけでなく、そもそも東京という人間のための私有地・公有地の純粋な集合体においてドバトの居場所は無いのだから、根絶するのが好ましいというより根絶こそあるべき姿ではなかっただろうか。
ここまで考えたうえで、では、東京において生存を許されてしかるべき人間以外の野良の動物とはなんだろう、とふと考える。害獣とは?
参考までに東京都観光局のサイトの文言をちょっと貼り付けておこう。
《ご相談いただく前に必ずご確認ください!!》
※東京都では、農林水産業、生活環境、生態系へ恒常的に被害を与える野生鳥獣の中で、ニホンジカ、イノシシ、ニホンザル、タヌキ、ハシボソガラス、ハシブトガラス、ドバト、スズメ、ヒヨドリ、ムクドリ、カワウについては、いかなる場合においても保護の対象としていません。加えて、アライグマ、ハクビシン等の本来生息していなかった国内外の外来種についても保護の対象外となります。
おまえら、恒常的に被害を与えるからいかなる場合においても保護の対象外になるってよ……。
私の認識ではドバトやドブネズミは害獣として有名な部類で、ゆえに駆除されることが一般的だと思われる。スズメバチなども同様だ。しかし何が害獣で何が害獣でないのか、何が人間の私有地や公有地を害していると言えるのかは難しい問題だ。たとえばヤスデはごく少ない数が公園に住んでいるぶんには、これを害獣と呼ぶ人はあまりいまい。しかしそのヤスデが公園や道路や私有地で大量発生してしまったら、それは害獣の範疇に含まれ、駆除の対象たり得るだろう。
東京の道路はドバトのものではない。なので然るべき手段でドバトは駆除され、根絶されなければならない。根絶の際のプロトコルは専門家、ひいては法に沿って行われる限りは動物愛護の精神にもだいたい抵触しないし、その際、ドバトを根絶しドバトの害から公有地と私有地を守る大本の主体は法と法治国家だ。いやだからどうしたって話ではあるのだけど、駆除される側のドバトなり野良犬なり野良猫なりからみれば、ハトを車でひき殺そうとする人間はもちろん、法と法治国家もなかなか身勝手なものを押し付けてくる存在だと言える。動物愛護の精神とそのための法を備えつつもけっきょくは動物たちの生存・生殖・生活に介入し、害獣とみなせば駆除にとりかかる。なにより、東京のような都市空間は人間の独占物であって、他の動物たちとシェアされるものとはみなされていない。どこの土地をどのように用いるべきなのか、どの土地が誰のもので、どんな動物や生物がどこまで生存を許されるのかを決定し、改変しようとしているのはけっきょく人間であって、それは人間の勝手なのである。
人間の勝手なんて、当たり前だと、あなたはおっしゃるかもしれない。そうですね。法に基づいているといっても、都市に住み着くあれこれを害獣と称して駆除するのは人間の勝手だ。のみならず、ワンチャン生きていく可能性があるからと野に放つ行為もやはり人間の勝手だ。勝手なのである。他方、人間からみればドバトや野良猫や野良犬たちもまた勝手である。勝手に住み着き、勝手に殖えて、勝手に生活する。それらが人間からみれば害となる。ここでは勝手と勝手がぶつかり合っている。そうした動物と人間との衝突は、地方においてはツキノワグマの問題のようなかたちで、ときには命の危険にダイレクトに結びつくこともある(が、地方においては東京ほどには空間は人間だけの占有物ではない……)。
くだんの容疑者は身勝手な人間で、法を守っている私たちはそうではなくルールを遵守する模範的・標準的な人間だ、というのはそうだとしても、だが動物の側からみた人間は、法を守っていてもやはり勝手なのであり、人間の自己都合を押し付けてくるのであり、動物愛護の精神にかなっていてさえ、動物側からすれば何かを押し付ける存在、なんとなれば生殺与奪を握ってしまう存在だ。
当初予定から少し脱線してしまったかもしれない。当初の予定では、この文章をとおして「私有地・公有地の徹底的な区分けがなされた法治の行き届いた人間のための空間は人間のためのものでしかなく、ドバトの居場所はない」という話をするつもりだったが、気が付けば人間は勝手だ、どうあれ勝手だという話に落着してしまった。それで良かったように思うと同時に、当初の落着点が惜しい気もするので、できれば今月中に続編として『野良猫、野良犬、野良…人間?』というブログ文章を作りたいなと思う。