シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

人間は身勝手な危険動物だから、ザリガニを勝手に増やし勝手に殺すのも通常運転

 
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虐殺が行われるのを、ただ見ていた。
 
令和5年の夏のある日のこと。現場には少し前の日からロープが張られ、午前8時頃、作業着姿の中年男性たちが白いハイエースに乗って現れた。発動機の音高く、草刈り機が起動する。土地を覆う植物たちは無残に薙ぎ払われ、小さな蝶やバッタ、コオロギたちが逃げ惑っていた。地面に放り出された芋虫が、鳥たちについばまれていく。
 
しかしそれも前奏曲でしかなかった。
 
本当の破局はお昼過ぎに訪れた。小さなダンプカーがやってきて、草刈りが行われたばかりの大地に土砂を流し込んだのだ。小さな命を揺籃してきた緑の楽園が、茶色い土や礫に埋め尽くされていく。作業はその日いっぱい続けられ、おそらく、蝶の幼虫たちはなすすべもなく死に絶えた。背の高い草木にはセミの抜け殻もついていたから、地下に残された彼らも助からないだろう。コオロギやバッタのなかにはアスファルトを横断し、近くの家の庭にたどり着いた者もあったかもしれない。しかしあの家の主人は庭いじりに熱心だから、発見されるや殺されるだろう。
 
そうした昆虫たちの殺戮劇をまだ覚えているうちに、冒頭の「アメリカザリガニの駆除」の話を読んだ。
 
子どもの情操教育の題材として、また外来種の問題を考えるうえでも恰好の素材で、読者にも啓発的な内容だと思った。私は八百万の国に育ち、大乗仏教の六道輪廻の教えを真に受けて育ったので、こうした外来種を駆除せざるを得ないとわかっていても無暗に苦しめたくないと意識する。それは、私の宗教観や世界観に基づいたささやかな祈りだ。私の来世はあのアメリカザリガニかもしれないのだし。
 
同じく、キリスト教の博愛精神や動物愛護の精神を真に受けて育った人にも、それぞれの思いがあるに違いないと思う。
 
が、それはそうとして、私たち人間にとってアメリカザリガニを駆除するなど、わけないことではなかったか?
 
つい先日、私の目の前で行われた虐殺を思い出す。
あの小さな緑の楽園を人間たちが踏みにじった出来事は、新聞には報じてもらえなかった。考える材料にすらならなかった。ごくありふれた、小さな工事の一幕でしかない。
 
だが、あの土地で人間たちが行ったのは節足動物の大虐殺であるはずなのだ。アメリカザリガニを外来種として駆逐する、その出来事のうちに悪ふざけが入ってはいけないし、命は尊いと子どもに教え諭すこと自体には賛成だ。だが、アメリカザリガニの駆逐など、事態のほんの一端でしかない。わたしたち人間が節足動物を、あるいは環形動物や軟体動物をも現在進行形で無数に殺しながら日常や文明を成り立たせていることを思えば、アメリカザリガニの駆除、それそのものにスクープ味があるわけではない。(あの記事は、そうしたことを子どもが実体験するという話にスクープ味がある)
 


 
冷静に考えるなら、上掲ツイートにあるとおり、人間はその存在自体、危険動物で、これまでさまざまな生物種を自分たちの都合で絶滅させてきた。人間は、歯や消化管の構造や脳の脂質の割合からいっても他の動植物を食べて生きなければならない宿命にある。もし、動物を食べた・節足動物を殺したといったことが罪であるなら、人間は存在そのものが罪であり、そこにこだわりたいなら私たちはまず私たち自身を始末するのが先決だろう。
 
人間は食べるだけでなく、土地改良などをとおしてその土地の生物を不断に殺し続けている。リチャード・ランガム『火の賜物』によれば、人間は旧石器時代から山に火入れなどをすることで、環境を自分たちにとって都合よいものに改変し続けてきたという。
  
そして現在は道路工事や治水事業などをとおして、不断に魚類や両生類や節足動物などを殺し続けている。外来種の駆除は報じられても、道路工事で街路樹を掘り返した時の動植物の死、護岸工事で磯を埋め返した時の水生生物の死は報じられない。そんなのは当たり前すぎる。顧みられることがない。
 
かと思えば、ロブスターを茹でる時には作法がなってないと難癖をつけ、愛護の精神がどうこうと言ってみせたりもする。そんなにロブスターの死にざまが気になるなら、同じ節足動物のあいつらの死にざまはどうなんだ! それともあれか? エスタブリッシュメントの食べるロブスターはかわいそうで、労働者の土木工事で死んでいく昆虫たちはかわいそうじゃないとでも言いたいのか。もしそうだとしたら、節足動物の世界にも身分や「かわいそうランキング」があるみたいで、世知辛いことである。
 
人間が勝手に放流し、その人間に今度は駆除されるアメリカザリガニの「処遇」も含め、この件で私が一番強く思い、そして自分の子どもにも伝えたのは、「けっきょく人間は多くの生物種を滅ぼす食物連鎖のてっぺんの危険動物で、そのくせ、何を殺していいか殺しちゃいけないかをしたり顔で論じてみせる、度し難い存在だ」ということだった。ついでにこうも伝えてある:「でも、人間という動物がそういう存在だって知っておいたうえで、それでも人間にイエスと言えるかどうかが問われるところだと思う」。
 
どんなに言い訳をしても、人間はその生物学的特徴・生態学的傾向からいって、他の動物を食べたり駆除したりしなければ生きていけない存在だ。それ自体も罪な存在だが、オオタカやシャチやチンパンジーなどもそれに近いといえば近い。加えて人間は、さんざん殺したり食べたりしながら、何を殺していいか殺してはいけないかをしたり顔で論じてみせる性質がある。この、したり顔で論じてみせる性質は、善性だろうか? 悪性だろうか? ともあれ、オオタカやシャチやチンパンジーが自分の生業をしたり顔で論じてみせないのはほとんど間違いない。フォアグラの飼育には問題があると論じてみせながら、雨の日の幹線道路でカエルを踏みつぶしても眉ひとつ動かさない人がいる。ロブスターの茹で方を批判しながら、ガーデンの草刈りで無残に死んでいく他の節足動物たちには一瞥もくれない人がいる。
 
もちろん私も世間なるものを多少は見知ってきたから、それらをダブルスタンダードとは呼ばないらしいと推測することぐらいはできる。だが、幹線道路で踏みつぶされるカエルや草刈りに巻き込まれて死んでいく節足動物たちからみれば、どうしてフォアグラやロブスターはかわいそうだと言われて、俺たちには一瞥もくれないのか、ダブルスタンダードだ、と言いたくもなるだろう。
 
そうしたダブルスタンダードを本気で避けようと思ったら、行きつく先はジャイナ教徒のように、あらゆる動物を殺さないように箒をはきながら歩かなければならない。そういうことをするジャイナ教徒は、それはそれで敬服に値すると私は思う。一方で、しょせん人間全体でみればジャイナ教徒は例外だし、人間のありようとして不自然だとも思う。人間は、動植物を食べたり駆逐したりして生きる危険動物だ。そして自分たちの(他の生物種からみればよくわからない理由の)自己都合で殺しの是非を云々したりダブルスタンダードを掲げでみせたりする、そういう存在だ。是非はともかく、まず、それを認めるところからスタートすべきじゃなかったか。
 
あの緑の土地の虐殺を目撃した後も、私は何事もなかったかのように節足動物を食べている。カニチャーハンもエビのアヒージョもうまい。食べる時には、いただきます、ごちそうさま、を欠かさない。だが、それがなんだって言うんだ、とも思う。慈悲だ感謝だと言ったって、けっきょく私はカニを食べてエビを食べて、土木工事や治水工事の恩恵を受けて生きている、それらなしでは生きていくことも難しい動物だ。その傾向は、人間を旧石器時代の水準まで逆行させたとしても変わらない。結局人間は狩りをして食を得て、野に火を放って動植物をまとめて殺し、環境を改変しながら生きていくしかない、そういう食物連鎖の最上位種なのだから。そしてニホンザルや熊やイノシシにおびやかされる地方の現状をみればわかるように、他の食物連鎖上位種と競合的な関係にある。私は地方在住だから、ニホンザルや熊やイノシシの駆除をかわいそうとは、あまり思わない。彼らは私たちの生存圏をおびやかす、敵性動物だ。絶滅寸前まで減って欲しい。ま、これも身勝手な願いなわけだが。
 
命は大切だ。
そうかもしれない。いや、そうですねと答えておきたい。
だとしても、食物連鎖最上位である私たちにとって命を奪うとはあまりにも当たり前すぎて、人間の存在や文明そのものが殺しと収奪に圧倒的に依っていることも思い出しておきたい。ならば、アメリカザリガニを勝手に増やして勝手に殺すなど、人間の、通常運転以外の何物でもない。殺して良い命など無い、と学ぶついでに、その裏側にこびりついている「人間はあまたの命を奪っていなければ生きていけない危険動物だ」も、学んでもらいたいと思う。私はそんな人間のありようでもイエスと言いたいが、なかには、そんな人間のありようにノーと言いたい人もいるだろう。そういう論じあいができるのも、人間という存在だ。