シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

人間が政治や権力に弱い動物であるさまは、ツイッターを見ればよくわかる

 
twitterがXに変わってから1年以上が経った。
 
Xのタイムラインを眺めていると、政治家や政府広報や大企業のステートメントが流れてくる。とりわけ、リポストをとおしてドナルド・トランプ氏やイーロン・マスク氏のそれが目にうつると、「ここは政治の舞台なんだな」と強く感じる。不特定多数が閲覧するメディアに政治家が語りかける時、それが(たとえばトランプ大統領の好物である)ファーストフードの話だったとしても、そこに政治的な意味合いや含意が発生せずにいられない。
 
いつからtwitterはこんな風になっちまったんだろうなぁ……と回想する。東日本大震災の頃や、コロナ禍が起こって間もない頃の記憶が蘇る。たとえばコロナ禍が極まっていた頃、どこまで行動自粛するべきか、すべきでないか、さまざまなステートメントが飛び交っていたと思う。東日本大震災後の原発稼働についてもそうだ。政治家はもちろん、専門家や運動家も様々なステートメントを繰り返していた。
 
それだけではなかった。そのいずれにも当てはまらない市井の人々も、まったく同じような文体でまったく同じようなステートメントを繰り返していたりした。リツイートやシェアをとおして誰かのステートメントを拡散する人、「いいね」をつける人はもっと大勢いたように思う。政治的なステートメントは狭義の政治・政策の話にとどまらなかった。表現規制の問題や、マイノリティの定義や処遇の問題を含んでいた。政治の舞台となったtwitterでは、アニメやゲームについてのツイートですら、ときには政治的色彩を帯びる。
 
00年代の頃、インターネットの片隅でゲームハードの優劣について熱心に舌戦を繰り広げていた人々の、やけに政治的な仕草はそれでも笑って済ませられるものだったし、2ちゃんねるの政治談議はいつも便所の落書きでしかなかった。黎明期のtwitterのつぶやきも同様だ──政治談議に耽る人がいても、それが政治的な威力を持つことはなく、一種の趣味でしかないとみることができた。
 
少し前のtwitterや現在のXはそうではない。言葉遣いが穏やかでも、冗談めかしていても、目が笑っていないステートメントが数多ある。影響力や政治力を宿したステートメントが拡散していくなかで、党派性を帯びたクラスタが生成・強化されたりする。大きめのクラスタの中枢には必ずなんらかのインフルエンサーが存在し、彼らは影響力を持っているだけでなく、影響力を持っていることを自覚し、自覚のうえで、行使することもできる。
 
 

どうしてこうなったかは、みんな知っているでしょ?

 
twitterのつぶやきが、いつしかステートメントになっていった。その過程は、ここ10~20年のインターネットを体験している人なら誰でも思い出せるだろう。人が集まり、それをあてにした人々も集まり、情報も集まり、声も集まり、そのうち政府広報などもSNSに相乗りするようになった。そうしたなかでtwitterという場が政治的な場に変貌し、つぶやきがステートメントに変貌していった。
 
じゃあ、twitterが政治的な場に変貌していったのは、つぶやきよりもステートメントを意識する政治的に意識の高い人たちのせいだったのだろうか?
私は、そういう一部の政治業者やインフルエンサーのせいだけではないと考えている。ましてや、政治的な書き込みを2ちゃんねるやブログにしていた人たちのせいだとも思えない。先にも少し触れたように、インターネットには政治的言動をしたがる人は昔からいて、2ちゃんねるやブログなどで政治を論じていた。そうした人々のなかで特に知られていたのは、たとえば「ネトウヨ」と呼ばれた人々だろう(その正反対、「ネトサヨ」とでもいうべき人々もいた)。
 
しかし、政治的に意識の高い人たちが2ちゃんねるやブログで政治を論じていたところで、それらが今日のXほど政治的な場に変貌することはなかった。twitterが政治的な場に変わっていったのは、1.もっと影響力のある人物や組織がtwitterを利用するようになった頃であると同時に、2.みんながtwitterには影響力があると信じるようになった頃でもあった。1.2.のどちらが先なのか、どちらが卵で鶏なのかは私にはよくわからない。しかし1.2.は相互に影響を及ぼし合いながら急激に進んでいったようにも思う。
 
影響力がtwitterに宿っているという自覚は、そのまま政治力がtwitterに宿っているという自覚に繋がる。政治や人気取りのベテランたちがtwitterの影響力=政治力に可能性をみるようになり、ステートメントの場としてtwitterを利用するようになった時期と、そうでもない人たちまでもがtwitterがふるう影響力や政治力に気付いてしまい、自分たちのつぶやきやリツイートのひとつひとつが有意味だと自覚しはじめた時期は、控えめにいってもそれほどタイムラグがないように思う。
 
そうしてtwitterは政治的な場にますます変わっていき、ピュアなつぶやきは少なくなり、ステートメントが優勢な場となった。つぶやく人も、また然り。
 
つぶやきには影響力や政治力が宿る。それが泡沫アカウントによるものだとしてもだ。
人間は社会的生物だから、影響力や政治力のにおい、とりわけ自分がふるうことのできる影響力や政治力のにおいには悲しいほど敏感だ。早い段階から影響力や政治力を意識してしまっていた人はもちろん、それらと縁のない境遇にあった人のなかにも、その生臭くて強烈で魅力的なにおいに気付き過ぎてしまい、意識し過ぎてしまう人は珍しくなかった。00年代の頃は長閑なつぶやきに終始していたツイッターアカウントが、Xの時代にはろうたけた政治生命体に変貌していることなど珍しくもない。話題が政治の話ばかりになってしまう人もいれば、語り口が政治的になってしまう人もいた。かように人間は政治と影響力に(つまり権力に)弱い。
 
そもそもインフルエンサーという言葉が象徴しているように、人間が集まり、繋がりあえば、そこには影響力が生まれる。影響力が生まれるとは政治力が生まれることでもあり、権力が生じることでもある。その影響力や政治力や権力を束ねて行使するのは、もちろん政治家や行政組織や大企業のアカウント、さらに運動家やインフルエンサーのアカウントたちだ。しかし、twitterに生じた影響力/政治力/権力を、そうした「デカいアカウント」だけのものと勘違いするのは間違っている。まず、私たちひとりひとりのアカウントが獲得し、行使している影響力/政治力/権力が存在しているのであって、そのミクロな影響力/政治力/権力が草の根から支えるかたちで「デカいアカウント」の影響力/政治力/権力は成り立っている。
 
だから、twitterの権力の構図はどんなに「デカいアカウント」が扇動し動員しているようにみえる場合でも、ひとりひとりのアカウントが獲得し行使している影響力/政治力/権力はひとりひとりのアカウントのものであること、「デカいアカウント」がそのようなものとして成立するためにはひとりひとりのアカウントへの目配りや目くばせが必要不可欠であることは、見逃してはいけないように思う。
 
twitterひいてはXが政治の場に変貌し、政治や権力のにおいがぷんぷん漂うようになってしまったのは、つぶやきの時代を懐かしく思う人にはがっかりだろうし、私もがっかりしている。他方、私も含めて大半の人がSNSが政治の場たりえることに気付き過ぎてしまい、ひいては自分のアカウントのつぶやきに影響力や政治力が宿り得ることに気付き過ぎてしまい、そうした結果として単なるつぶやきをステートメントに変えていってしまった。つぶやきがステートメントへと置き換わた速度や程度には個人差があるが、十中八九、そのような変化を被ったように思う。*1 かように人間は政治と影響力に(つまり権力に)弱い。
 
twitterがXに名称変更するよりも早く、つぶやきはステートメントに変わり、何かに抗議したり何かを推したり何かを煽ったりする場に変わった。と同時に、私たちの政治する動物らしい仕草があらわになって、私たちはつぶやく動物からステートメントする動物に変わった。それで獲得されたものもあるから文句を言ってもはじまらないし、本当につぶやきを取り戻したい人は、つぶやきやすい場所に移住してしまえば良いだけだ。ただ、私が今夜ここで書き殴ったのは、そうした変化が草の根の現象であること、いわゆる泡沫アカウントまでもが政治や権力の渦に案外巻きこまれている(なんなら、泡沫アカウントが政治や権力の渦に巻き込まれていることこそが主たる問題かもしれない)ことを指摘したくなったのだと思う。
 
「デカいアカウント」にばかり注目してしまって、泡沫アカウントの泡沫なステートメントにも宿っている影響力/政治力/権力を見逃すと、実はボトムアップでもあるSNS上の影響力/政治力/権力の理解は片手落ちになってしまうんじゃないかなぁ。
 
 

*1:2024年のXにおいてもなお、ステートメントではなくつぶやきを貫こうと思ったら、よほど影響力/政治力/権力に鈍感であるか、よほどそれらを避けるような意図が必要になった。私が長年観測しているツイッターアカウントにうちに、そのように鈍感だったり意図的だったりする人はそれほど多くない