シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

『時間とテクノロジー』雑感、それと自由のゆくえ

 

時間とテクノロジー

時間とテクノロジー

  • 作者:佐々木俊尚
  • 発売日: 2019/12/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 週末、佐々木俊尚さんの近著『時間とテクノロジー』を読んだ。自動車運転やVRも含めた情報通信テクノロジーに私たちが完全に包まれて、お膳立てされ、環境そのものが知能を持つようになった近未来について考えさせてくれる本だ。
 
 近未来が、この本に書いてあるとおりになるかはわからない。それでも、「テクノロジーの進歩によって人間の世界の捉え方が変わる」というテーマの大筋は間違っていないだろうし、いくつかの具体例には説得力を感じた。
 
 たとえばレコードを買っていた時代からストリーミング配信の時代に変わったことで音楽の受け止め方が変わり、「古い時代の曲も新しい時代の曲も懐かさを伴わなくなる」というのはわかる話だ。また、デジタル録画が鮮明になればなるほど、鮮明すぎる過去の録画から郷愁を感じとることは難しくなる。
 
 過去のコンテンツも未来のコンテンツも等しいクオリティで体験できる時代では、どの音楽やコンテンツが古くて新しいのかはっきりしない。
 
 これに近いことを、私はコンピュータゲームの分野で感じる。
 
 たとえば私は『ドラゴンクエスト3』や『ディアブロ2』を懐かしいゲームと感じる。ところが配信サービスやアーカイブをとおして新旧のゲームにアクセスする私の子どもは、switch版の『ドラゴンクエストビルダーズ』と同時にファミコン版の『ドラゴンクエスト3』を知るから、後者に古さを実感していない。『ディアブロ2』にしてもそうで、2019年サービス開始の『ラグナロクマスターズ』を遊んだ後に『ディアブロ2』に触れているから、むしろ『ディアブロ2』に新しさすら感じている。
 
 「古いハードウェアのゲームBGM=古い」という感覚も子どもには無い。ファミコンの音源で奏でられる『ドラゴンクエスト3』のアレフガルドのBGMは、古いものでも懐かしいものでもない。新しいものですら……ないのかもしれない。とにかく、新旧のコンテンツに対する感性が私と子どもではかなり違っている。
 
 佐々木さんは、こうした変化がコンテンツだけに留まらないと指摘する。たとえばVRや自動運転がすっかり当たり前になり、それこそ『PSYCHOーPASS』で描かれる世界のように服装*1や部屋のインテリアまでもがAIにリコメンドされ、体験される時代になったら、体験の真贋や体験の新旧はますますわからなくなり、そういったことに拘る世界観はなくなっていくだろう。
  
 この手の、「コンテンツ、というよりメディアが変わると人々の感性が変わり、ひいては文化が変わり、しまいに知性のありかた自体が変わる」といった話は、文字が登場した時にも、活版印刷が出現した時にも、ラジオやテレビが登場した時にも適用できるものだった。
  
 では、メディアがテレビやPCやスマホから飛び出し、VRやARや自動運転の発展によって私たちの五感を覆いつくすようになった時、いったい何が起こるだろう? そういうことを考えたくなるのがこの本だ。 
 
 
 

『時間とテクノロジー』から、政治と権力について考える

 
 ところで『時間とテクノロジー』には、政治の話、言い換えると権力の話があまり登場しない。
 
 テクノロジーやメディアが変わると、感性や文化や知性が変わるだけでなく、政治や権力も変わるはずだ。というか、活版印刷があったから宗教改革が起こり、SNSがあったからアラブの春が起こったわけだから、佐々木さんの議論に付け足すかたちで、近未来の政治や権力について考えたい気持ちが高まってきた。
 
 すでに私たちは、テクノロジーやメディアの変化によって政治や権力が変わっていく最前線を生きている。
 
 そのはなはだしい例はアラブの春やアメリカ大統領選挙だが、さいきんの映画の大ヒットやタピオカミルクティーについてもそうだといえる。20世紀は雑誌やテレビといったマスメディアが流行を主導していて、主導していたからこそ、マスメディアは流行の分野にかんして強い政治力と権力を握っていた。ところがスマホやSNSが普及し、政治や権力の新しいフィールドになったことでマスメディアは流行の主導権を削がれてしまった。
 
 狭義の政治に囚われない限りにおいて、スマホやSNSの普及はへたな革命よりもよほど政治的で、よほど権力を動揺させる出来事だったのではないか?
 
 してみればtwitterやフェイスブックやgoogleは、情報産業の旗手であると同時に、ほんとうは、政治や権力を変えていく革新者でもあったのではないだろうか。
 

 
 『時間とテクノロジー』で引用されているローレンス・レッシグや、ミシェル・フーコーなどは、アーキテクチャ(空間設計)と政治・権力の関係に敏感だった。こんにちのプラットフォーマーの設計者たちが、レッシグやフーコーを知っていたかはわからない。が、知る知らないに関わらず、アーキテクチャを設計する者は政治や権力を水路づける者である側面を免れない。
 
 これまで、アーキテクチャの設計を政治・権力の問題として議論する人は限られていた。まあ実際、インターネットの片隅で産声をあげたばかりのプラットフォームの政治・権力など、深刻ぶって論じるものではなかっただろう。
 
 しかし、『時間とテクノロジー』に記されているような未来、それこそスマホやPCを覗いている時だけでなく、VRやARや自動運転をとおしてありとあらゆる行為や時間がアーキテクチャに包囲されるようになった、いわば「テクノロジーとメディアが遍在するようになった」未来において、それらの設計にかんする政治や権力の問題はスルーできるものだろうか。また、スルーして構わないものだろうか。
 
 自動車運転も家庭生活もプラットフォームに包囲され、パーソナライゼーションにさらされ、その影響下に置かれるようになると、私たちが自分で選ぶまでもなく、最適な移動ルート、最適なBGM、最適な食事がプラットフォームからリコメンドされるようになるだろう。『PSYCHO-PASS』のように、最適な人間関係や最適な仕事までプラットフォームが見繕ってくれるようになるかもしれない。というか、そうなるだろう。
 


『PSYCHO-PASS』の世界では、個人の選択の多くをシビュラシステムがリコメンドしてくれる。と同時に、シビュラシステムに逆らって生きることはきわめて難しい。

 
 そうやって色々なことが人間の自由選択ではなくなり、プラットフォームのお任せになっていくとしたら、政治の主体としての私たち、権力の主体としての私たちはどうなるのだろうか? そしてプラットフォームが握る権力は、どこまで大きくなるのだろう? 
 
 アーキテクチャがたくさん選択してくれるようになり、私たちが自由をアーキテクチャに委ねれば委ねるほど、依存すれば依存するほど、レッシグやフーコーが論じたタイプの権力の影響を、私たちはアーキテクチャから受けることになる。そのぶん私たちはアーキテクチャに権力を委ねるようになる、と言い換えることもできるだろう。
 
 そのほうが効率的で、快適で、正確な場面は増えていくに違いない。そのような委任生活は、少なくとも百年かそこらは悪いものではないかもしれない。
 
 だが、そうやってごく一握りの優れたアーキテクチャ設計者やAIがますます権力を委任されるようになり、一般大衆が彼らに委ね続けていれば、一般大衆は政治の主体でも権力の主体でもなくなってしまうだろう。一般大衆が主体であるという意識や、デモクラティックな思想までなくなってしまうかもしれない。
 
 そうなってしまった人間は、良く言えばお金持ちの家のペルシャ猫のようなもの、悪く言えば養鶏場のブロイラーのようなものではないかと私は心配になる。
 
 私たちが政治の主体や権力の主体としての"主権"を失った後、ペルシャ猫として愛玩されるのか、それともブロイラーとして何らかの目的のために生産され処分されるのかは、(そのときの主権者にとっては)たいした問題ではなくなる。
 
 ものすごく長い目でみれば──それこそ弥勒菩薩のスケールでみれば──人間が養鶏場のブロイラーになったとしても、それはそれで大した問題ではないのかもしれない。優れたAIがゆっくりと人間を飼い殺し、やがて緩慢に滅ぼしていったとしても、やはりたいした問題ではないのかもしれない。
 
 人間が滅んでも地球は回り続けるし、AIは自律し続けられる。いやAIが存続しようが停止しようが、それもたいした問題ではないのかもしれない。
 
 けれども今世紀に絞って考えるなら、アーキテクチャに私たちが包囲されていくにあたって、私たちの自由と表裏一体の政治や権力のゆくえが議論されなければならないと私は思うし、私たちの生活全体を覆っていくものの政治性や権力性に気を許してはいけないとも思う。
 
 さしあたり現在は、そうしたテクノロジーやアーキテクチャは私たちをますます快適で効率的な生活へと導いてくれるだろうし、そんなに神経質に構えなくていいよという人のほうが多いだろう。でも私は『時間とテクノロジー』を読んで神経質な気持ちになったので、これを書き留めておくことにした。
 
 他にもいろいろなインスピレーションを受け取ったけれども、それはまた後日ということで。
 
 

*1:というより、この場合、アバターと言うべきかもしれない