シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

いまどきのインターネットは文脈文盲状態が当たり前

 
 
 
1000リツイートを越えるとtwitterの闇が迫ってくる - シロクマの屑籠
 
 
 
 上記リンク先の続きとして、いまどきのインターネットでは文脈が読み取りにくいことについて記しておく。
 
 かつてのインターネット、ネットサーフィンするインターネットには文脈があった。それぞれのウェブサイトの構造がツリー状であったこと、ハイパーリンクをとおして他のウェブサイトへと繋がりあっていたおかげで、その書き手・その文章がどういう文脈に位置づけられているのかがハイパーリンクの次元で明らかになっていた。ネットサーフィンという行為、リンク集を辿る行為が、そのまま書き手の文脈を理解する助けになっていた。
 
 ところがいまどきのインターネットは違う。ブログは記事単位で読まれ、グーグル検索などをとおして流入する人々の大半は書き手の文脈など調べるまでもなく、検索文字列と一致した情報の断片だけ持ち帰ろうとする。
 
 このブログのトラフィックを監視していると、ありがたいことに、週に何十人もの読者が長い時間をかけて、複数のブログ記事を読んでくれている。こういうのはブロガー冥利に尽きる。しかし残りのトラフィックはそうではない。このブログは、私という書き手の文脈を読み取っていただきたく、一応の努力はしているつもりだが、それでも大半のトラフィックは短い滞在時間で去っていく。
 
 twitterではそれがもっと極端だ。140字以内の文章は、リツイートされた断片としてどこか遠くへ、文脈を無視して飛び去っていく。数百、数千とリツイートされた140字ともなると、書き手の文脈など誰も気にしない。
 
 140字。
 
 ただそこに書かれている意味内容が独り歩きし、文脈がアンカーとして機能することも、文脈が意味内容を咀嚼するための補助として働くこともない。リツイートが伸びるほどに、読み手は自動的に文脈文盲状態となって140字を受け取ることになる。
 
 私はここで「自動的に文脈文盲状態のまま……」と書いた。
 
 そう、自動的であることが問題だ。
 
 読み手のリテラシーがどうこうという問題以前に、まずtwitterのリツイートという仕組みじたいが、自動的に、文脈から切り離された140字をつくりだし、そういう文脈文盲状態のまま140字が読まれる状況を作り出している。
 
 だからこれはtwitterというメディアの造りの問題、かしこまって言うならアーキテクチャの問題ということになる。トランプ大統領やロシア大使館やアメリカ第七艦隊も用いている、このtwitterというメディアには、読み手を自動的に文脈文盲状態に陥らせる性質が備わっている。
 
 

アーキテクチャが文脈文盲状態をつくり、訓練する

 
 
 インターネットで私たちが文章を読み書きする時、その場がどのような場所で、アーキテクチャがどのようなものかによって、考え方も書き込み方もかなりの影響を受ける。
 
 たとえば匿名掲示板に書き込む時は、トピックスに別れた匿名掲示板のスレッド構造によって、あるいは匿名性によって書き方が相当に左右されていた。ウェブサイトやブログにしてもそうだ。ツリー状の構造のウェブサイトがそうではないブログに変わった時、書き手の考え方や読み手の捉え方は変わる。
 
 そしてSNS、わけてもtwitterは「140字のつぶやき」というインターフェースと、140字のつぶやき一つ一つを切り抜いて拡散するリツイートという仕組みによって、文脈の切断された140字がトラフィックをうろつき回るような造りになっている。
 
 こういう、twitterのようなアーキテクチャのもとで文脈を意識するのは骨折りの割に報われない行為であり、無文脈に読み書きするようになるのは自然なことだ。だからtwitter上で文脈文盲状態に陥るからといって、愚かなことだとみなして構わないとは考えにくい。むしろtwitter上で文脈文盲状態になるのはアーキテクチャに対する優れた適応とみなすこともできる。苦労して文脈を追うより、無文脈にアダプトしてしまったほうが精神的なコストはずっとかからないのだから。
 
 もちろんこれはtwitterに限った話ではない。たとえば検索結果に混入するのは、書き手の文脈というよりネットユーザー自身の欲求や願望の反映されたパーソナライゼーションのほうだ。検索結果として提示される諸々は、それぞれのウェブサイトなりブログなりの極一部でしかない。その無文脈な断片を、私たちは疑問を抱くこともなく読んでいる。
 
 

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

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メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

 
 
 かつて、偉大な賢人はアーキテクチャによってインターネット上の自由のあり方、ひいてはコミュニケーションやコミュニティのあり方は変わると喝破した。実際、SNSやスマホが浸透し尽くした今だからこそ、「インターネットの沙汰はアーキテクチャ次第」というのはよくわかる話で、たとえば特定の思想信条を巡って噛み合わない言葉が銃弾のように飛び交うtwitterの風景も、第一にはtwitterのアーキテクチャのなせるわざ、あるいは(マクルーハン風に言うなら)twitterというメディアの特質と理解すべきなのだろう。
 
 と同時に、こうしたインターネットのアーキテクチャに私たちは日々慣らされてもいる。文脈文盲状態をつくりだすインターネットの諸アーキテクチャに毎日親しみ、その土台のうえでコミュニケーションする私たちは、おのずと無文脈なコミュニケーションに「慣らされている」のではないだろうか。
 
 
監獄の誕生 ― 監視と処罰

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 もう少しゴチャゴチャしたことを書くと、インターネットのアーキテクチャの話は、環境管理型権力という風に解され、実際、そのように機能しているとは思う。けれどもそれっきりではない。結局、これはこれで規律訓練型権力としても後付け的に機能していて、アーキテクチャによって無文脈なコミュニケーションを強いられると同時に、無文脈なコミュニケーションをみんなで繰り返す共犯関係のうちに、そのようなコミュニケーションの習慣を訓練づけている、と思う。
 
 もちろん、世の中の殆どの人はインターネットばかりやっているわけでも、ましてtwitterばかりやっているわけでもないので、そうした訓練の影響は限定的ではあるだろう。けれどもインターネットジャンキーやtwitterジャンキーになっていれば相当の影響はあるだろうし、そうしたインターネットの無文脈な習慣が現代の文化と相互作用を起こす側面もあるやもしれない。
 
 私は無文脈なコミュニケーションに慣れているわけでも望んでいるわけでもないので、現在のインターネットのあり方には思うところがある。とはいえ、無文脈なコミュニケーションには文脈に囚われない身軽さがあり、その恩恵はきっと私自身も受け取っているから、批判的になり過ぎてもいけないのだろう。
 
 そろそろ夕ご飯なので、この話題はこのへんで。