ブログを使って誰かに返信を書く時、私は自他の違いを意識し、自分の輪郭がいつもよりくっきり見えるような気持ちになります。今回、小島アジコさんから返信をいただいたので、返信がてら、「才覚」が求められる時代に対する私の不安を可視化してみたくなりました。
1.お手紙ありがとうございます! どんな時代にも頼れるのは「才覚」っすね!
orangestar.hatenadiary.jp
こんばんは、アジコさん。私の最後に頼れるのは才覚ぐらいしか思いつかない - シロクマの屑籠に返信くださりありがとうございました。おっしゃるとおり、最初っから最後まで、人間、頼れるのは「才覚」しかないっすね!
アジコさんがご指摘されたとおり、今回私が言っている「才覚」は広義のもので、才覚、能力、長所、できること、が含まれます。アジコさんが丁寧に補足してらっしゃるように、先天的なものから後天的なものまで、生物学的なものから社会的なものまで、ハビトゥスのような文化資本から資格や学歴といった制度化された文化資本まで、含めて考えるべきものと思います。
今回の話の文脈で述べるなら、人間は生まれた時から死ぬまで「才覚」によって生き、その不足に関連して不適応に陥るので、「人が生きていくのに最初から最後まで才覚が必要」ってのは本当にそのとおりです。たとえば赤ちゃんが生まれてきて、やがておぎゃあと泣くのだって「才覚」ですよね。少し前までの社会では、おぎゃあと泣けない赤ちゃんはいきなり社会不適応に陥った、そして高確率で死に至ったでしょう。なんなら母親の胎内にいる時から「才覚」は問われていると言えるかもしれない。生きるってことを、その人の「才覚」を行使していると表現するのは可能だと思います。その「才覚」には、学歴や資格といった制度的なものも含まれます。日本国民やアメリカ国民であることも制度化された「才覚」としてカウント可能で、パレスチナで苦しんでいる人からみれば、それらは実に大きな制度化された「才覚」とうつるでしょう。
もうひとつ、アジコさんは時代によって必要とされる「才覚」が変わってくる、とおっしゃいました。これも全く同意です。中世では英雄になれた人が、現代社会では刑務所に入るしかないとか、精神障害に相当すると判定されるとか、そうしたことは大いにあり得そうです。歴史学者のノルベルト・エリアスが述べるところによれば、感情表出が乏しい人間は、中世においては修道院に入らなければならなかったそうですね。
でも、たぶん今は逆で感情表出が激しすぎる人間、泣いたり怒ったりが激情的である人間は、修道院……には入らなくて構わないかもしれませんが、精神医学の対象とみなされるかもしれません。そのわかりやすい現れとして感情障害や気分障害といったカテゴリーが広まっている現代は、これまで人間の「才覚」として重要だった感情表出の一部がナーフされ、感情表出の穏やかさがむしろ「才覚」としてクローズアップされている時代なのかもしれません。
……とはいうものの、私はある部分では、感情表出はまだまだ「才覚」として強いカードだと思っています。激情的な感情表出は徹底的にナーフされていますが、制御された感情表出、戦略的に行使可能な感情表出はコミュニケーション能力をエンハンスするものとして相当強いのではないでしょうか。感情労働への適性にもかかわってくる「才覚」でしょうし。これに限らず、生物学的にできあがっている「才覚」は、全体的に思うほどナーフされていない気がします。たとえばガタイの大きな男性のガタイの大きさは、今でもさまざまな場面で男性の身を助けるでしょう。
総体として時代により必要な「才覚」が変わってきているのはそうだと思います。暗記にまつわる「才覚」は情報記憶媒体の増大によって重要性を減じていますし、エネルギー代謝にまつわる「才覚」は、飢餓の多い時代と飽食の時代では正反対に働きがちです──飢餓の多い時代・社会で育った人がいきなり飽食の時代・社会で生活すると、なにかと大変なことになるのは南太平洋諸国の健康問題などを見るとよくわかります。また社会契約が浸透し、暴力が国家に独占されるようになってからは、他人を腕ずくで従わせる「才覚」の出番も少なくなったでしょう。
ですから、アジコさんのお話のこの部分までは、私と考えていることはたいして違わないだろうな、と思います。
それでも「平和な日本社会」は、「才覚」にかかわらず人が生きていけるよう進んできた
ここから、私とアジコさんの考えの違ってそうなところを言語化してみたいです。
アジコさんのご返信の力点は、「いつの時代にも『才覚』が必要」なのに対して、私の文章の力点は「これからますます『才覚』に頼るほかなくなる」でした。私はアジコさんより、これからの日本社会では今までよりも峻厳に「才覚」が問われる、ぼんやりと生きていられなくなる、と言いたいみたいです。それは、アジコさんがそれとなくご指摘されているように、私自身の不安を反映しているとも想定されます。
そう、私は不安なのです。
私が国際情勢や日本社会について書く最近のラクガキの少なからぬ部分は、私が不安であること、その不安を防衛するために言語化すると同時に、自分自身の舵取りを調整するためにやっていることに依っていると思います。もちろんそれだけでもありません。それらに基づいて未来を占い、これからの人間社会や日本社会について自分の問題として捉えるのはモノカキとして有意義で面白い活動です。
私は、不登校のダメージから立ち直ってから数年間は自分ごとに精一杯でしたが、研修医になった頃から周囲を見渡し、今後、自分の生存を脅かしそうな要素はなんなのか考えるようになりました。アジコさんは私と付き合いが長いから、私が最初に目をつけたのがコミュニケーション能力だったことはご存知でしょう。汎用性の高い「才覚」群としてのコミュニケーション能力はどんな時代・どんな状況にも有用です。それを「才覚」の筆頭格にしていくのか、それとも「才覚」のぎりぎり合格程度の履修にするのかは人によって異なるでしょうけど、コミュニケーション能力を養って無駄ってことは基本ないでしょう。
私は冷戦のさなかに生まれて、大人たちが述べる核戦争の話や、世紀末終末思想などに触れても育ったので、社会は、いずれ悪くなる可能性が高い、日本社会はいずれはもっと苦境に陥り世界は戦争くさくなるだろう、とも漠然と思っていました。少なくとも「平和」が唐突に終わることは不登校になったいきさつでよくわかったのです。そうした漠然とした「平和の終わり」が「いつ」起こるのか、「どう」起こるのかを特定できなかったので、結局なんにも役にも立ちませんでしたが。それでもコロナ禍が起こり、その後に日本と世界で起こったことは社会が悪くなる可能性を示唆してやみません。この社会とこの世界、難しくなっていませんか。
「生き馬の目を抜く」という言葉があります。
これから、生き馬の目を抜かなければ生きていけない社会が到来するとしたら、それって「才覚」が今まで以上に必要な社会ですよね? ちょっと極端な比喩をするなら、今、戦火に晒されている国や地域はそうでない地域に比べて死亡率が高い、「生き馬の目を抜く」国や地域になっていると思います。そこまで極端なことに日本社会はならないとはどこかで思っていますが、今より「生き馬の目を抜く」必要性の高い状況になりやしないかと、私は不安をおぼえます。そうなっちゃったら、私自身も、私の知っている人たちも、生きるか死ぬか、伸るか反るか、危ない橋を渡っていかなければならず、そのとき"「才覚」の持ち物検査"に引っかかったら命取りになってしまうかもしれません。それは、怖い未来です。
他方で、日本社会はそうした"「才覚」の持ち物検査"になるべくならずに済むような方向に長いこと進歩し続けてきました。
上掲の本では、私は現代社会をどちらかといえば批判的な目線で論じていますが、それでも今までの日本は、多産多死の時代に比べてより少ない"「才覚」の持ち物検査"で済む社会になってきたのだと思います。20世紀前半などと比較して明らかに「才覚」がなくても生きていける最もそれらしい証拠は、各年齢の死亡率と人口ピラミッドのかたちだと、私は思いますよ。生きているか・死んでいるかというのは大ざっぱな指標ですが、これほど手堅く雄弁な指標もないでしょう。『窓際のトットちゃん』の時代を思い出してください。ある程度裕福な家庭の子女でさえ、色々な「才覚」がなければ生きていけない時代でした:子どもたちは公園で遊ぶ、裏庭で遊ぶ、学校に通学する、そのたびに「才覚」を試されたでしょう。時代がまだ進んでいなかったから可視化されていなかった"「才覚」の持ち物検査"もたくさんあったんじゃないでしょうか。たとえば「いじめ」というマターは20世紀には日本でもアメリカでも「あるのが当たり前」で「子ども時代の試練」で「それをとおして子どもが成長していく」ものでさえありました。そんな時代には「いじめ」によって本当は命を落としていたけれども、それが意識されなかったり表沙汰にならなかったりした例はたくさんあったでしょう。
その「いじめ」対策にしても、メンタルヘルスの諸問題にしても、古い家庭の食器棚に埋もれている血と汗と涙にしても、不可視化されてきただけでなく"「才覚」の持ち物検査"として人間を振るい落としてきたわけです。
ですが、日本社会の先人たちは、そうした"「才覚」の持ち物検査"によって人が振るい落とされない社会を、「才覚」の多寡にかかわらずできるだけ大勢の人が生きられる、生きやすい社会を目指してきました。昭和20年代に「才覚」の不足で生きられなかった人も昭和60年でなら生きられる、そういう状況があったのではないでしょうか。あるいは昭和60年では忍の一文字しかなかった人が、令和元年にはもう少し大手を振って生きていられる、そういう状況もあったのではないでしょうか。
私は進歩主義な人間ではなく、どちらかといえば保守的な人間ではありますが、それでも、日本社会をここまで進歩させてきた人たちの志、「才覚」の多寡にかかわらず人としての権利や尊厳が守られ、実際的な生活状況をも改善させてきたムーブメントは偉大だと思います。戦後、高度経済成長期を経て日本社会は豊かになってきたと言われますが、それは経済的発展だけでなく、人倫にかかわる領域や命にかかわる領域においてもそうだったのだと思いますよ。ひいては「才覚」の多寡をそこまで直視しなくても構わない社会が不完全にせよ一時的にせよ実現した。それはとても豊かなことで「平和」なことだと思います。
就職氷河期はそうではなかったとおっしゃる人がいるのが想像されます。それもある程度はそうです。だけど終戦前後の日本や現在のパレスチナに比べれば"「才覚」の持ち物検査"の峻厳ではなかったと私は想像していますし、就職氷河期を抜けてからしばらくの日本社会はだいぶ状況が改善していたと思います。絶対的に考えるなら、そりゃあどんな社会の個人も「才覚」を問われないわけにはいかないし、差異が資本として生産される東京という街ではなおさら強く意識されるものかもしれない。それでも、"「才覚」の持ち物検査"で命を落としてしまうリスクが減り、みんなが相対的に長生きしている昨今の日本は、そうでなかった頃の日本より「才覚」が峻厳には問われていない、「平和」な社会じゃないの? って思わないわけにはいきません。私が今ことさらそう思うのは、未来の雲行きがとてもまずくて、日本政府に限らず、いろいろな国々で今までの暮らしの持続を(いったん、かもしれませんが)諦めている動きがみられるからです。
娑婆の風が冷たくなれば、多くの人が斃れるのは歴史の常でした。で、私が生きてきてこのかた、こんなに娑婆の風が冷たくなっているのを観測したことがありません。ですから、生存や社会適応に絶対確実という言葉はなくても、できるだけ「才覚」を大事にしていきたい、願わくは、社会変化を少し先取りするかたちで「才覚」のスキルセットについて考えたいと思っているわけです。そんな個人の「才覚」など一瞬で粉みじんにしてしまう、巨大な歯車の音が聞こえるとしても、です。
加齢と「才覚」
最後に、私の「才覚」の衰えについて。
アジコさんは、私が年を取って「才覚」が枯れてきたとおっしゃいますが、それはそうだけど、そうでもないとも思います。
確かに年を取りました。体力も目減りしているし、新しいことを吸収する力も衰えてきているし。技術上のことは吸収できなくもないけど、感性的な部分で若い衆のそれをうまく消化できていないと感じます。若い衆の感性を消化できないのも、「才覚」の衰えと言えそうですね。
ただ、中年が、若い衆の真似しようとしてもいいことなんてないじゃないですか。若い衆の評価尺度で今の自分自身を劣化したと嘆いても面白いことはありません。代わりに、中年にならなきゃわからなかったことがわかり、中年にならなきゃできなかったことができるようになったことをどう活かすのか、に今は集中しなければなりません。
私の場合、「本が前より読めるようになった」のは凄いことなのです。私は今、自分がやりたいことの材料として本が読めるんです。最近は月5冊ぐらいならぺろりと読んでしまうし、難読書と呼ばれる本にも挑戦しやすくなりました。私はもう歳ですけど、結晶性知能はあと何年かは伸び続けるでしょうし、伸びが止まっても数年程度、それを行使できるでしょう。この、今までの人生のなかで一番「本が前よりも読めるようになり」「社会についての知見をいちばんよく覚えていて、それらを頭のなかでシナプス結合させている」状態を生かしたいのです。というか、生かそうとしています。2026年現在、そのトライアルはあまりうまくいっていませんが、焦ってもしようがないし、できることをやっていくだけです。で、結晶性知能がだいぶ弱ってきた時に私に問われるのは今とも別の「才覚」でしょう。
これって本当は中年期や老年期に限った話じゃないですよね。小学生の時に問われる「才覚」と中高生の頃に問われる「才覚」も異なるし、就職間もない新社会人と、そろそろ結婚とか考えようかって年齢の社会人に問われる「才覚」も異なるのも同じことです。個人の発達心理学的な見地に立つなら、あらゆる「才覚」が衰え果てた後にもなお、新しい課題が生じ、新しい「才覚」が問われるのだと思います。まあ、そうやってがっかりしたり、有頂天になったりしながら私は頑張ってみます。たとえ失うものが多くても、「才覚」の最後の一滴にすがりつくような気持ちで私は生きていけたらなと願っています。では、また。

