シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

最後に頼れるのは才覚ぐらいしか思いつかない

 
togetter.com
 
togetterに、「最後に頼れるのは制度か、それとも血縁か」という話に関して、核家族の耐用年数切れといった話が記されていた。以前から私は個人主義や核家族システムの隘路について考え、書き記すのが割と好きなほうで、たとえば十年前には「人は一人では生きられない。もう一度群れるしかない。」という文章を書いている。私と同じように考える人が増えているならば、今はそういう趨勢にあるのだろう。
 
 

一人暮らし、核家族、個人主義の前提条件を振り返る

 
一応断っておくと、独り暮らしや核家族を貫き、独り身の気楽さ、しがらみからの自由を満喫する方法はこれからもある。ずっと未来においてさえそうかもしれない。しかし、それなら先立つものについて考えなければならない。独り暮らしや核家族を成立させるに足りる金銭や収入、あるいは財産といったものだ。
 
個人主義というイデオロギーをベースとした、独り暮らしや核家族はそりゃあいい。しがらみによるストレスがなく、誰かを助ける必要も、誰かと社会関係を維持する必要も最小限で済む。なんなら、無、で済むかもしれない。そうしたコストは契約社会に丸投げだ。
 
コストがないとは、もちろん嘘である。実際に個人主義を支えるためには、飲食物を手に入れるにせよ、洗濯をしたりトイレを利用したりするにせよ、コストがかかる。それらは有償だ。また一人暮らしは、自由であるかわりに自己責任、すべての労務や雑用を自分でやらなければならない点も高コスト体質で、本来的に高い能力や才覚を要求するものである。一人暮らしで部屋が散らかってしまう人、カード破産してしまう人、生活リズムが乱れてしまう人などは、一人暮らしと表裏一体な自己責任に基づいて生活が維持できない人、自己責任を前提とする生活に能力や才覚がついていけない人という部分が少なからずある。
 
独り暮らしでは誰も自分の能力の弱いところを補ってはくれない。核家族においても、父や母として欠格である部分を祖父母など他の親族が補ってくれることなく、家庭の病理は余さず子どもに転写される。もし片付けが得意な人と同居していたら、もし財布のひもをしっかりと握ってくれる人がいたら、もし父や母として欠格である部分を補ってくれる人がいたら避けられたはずのトラブルが、片付けができない人はゴミ屋敷というかたちで、金銭のだらしない人はカード破産といったかたちで、親ができない人は子どもの育成の問題というかたちで顕在化してしまう。
 
一人暮らしがインフラと法治に支えられている点も見逃せない。1970年代から増え始め、1980~90年代には時代の雛型として賛美されてきた核家族や一人暮らしは、それを可能とする都市の発展やインフラの整備、サービス業の発達と表裏一体のものだった。なにかと便利な『別冊 宝島 80年代の正体!』では、80年代のライフスタイルとしてコンビニを紹介されているが、コンビニが登場する以前の一人暮らしはかなり難しかった。
 

 
コンビニの手前には百貨店とスーパーマーケットもあった。いずれも流通に関連したインフラとサービス業の発展の賜物である。
 
それから家電製品。80~90年代には、独り暮らしを始める大学生はテレビから冷蔵庫洗濯機まで一切合切を買って一人暮らしを始めたものだが、それってお金のかかることで、日本が豊かだったからこそ20世紀の段階で誰もができるように思われたことだった。日本のデフレ経済が続いていたうちは、そうした家電製品をまるっと購入して独り暮らしをするやりかたは、中国製品をもってすればまだまだ可能だった。しかし日本の、というより日本国民の経済的与件が変わってきている今は、同じことをやってのけるためにはそれなりの経済力が必要になる。
 
それとは少し文脈が異なるものの、00年代にはシェアハウスというアイデアが(例えば)phaの提言などとともに広められていった。シェアハウスは、もはや独り暮らしではない。独り暮らしの経済的デメリットを減らしてくれるが、若干にせよ、集団生活のしがらみや相互賦役的な性格を受け入れなければならない部分もある。
 
そしてそのpha自身が『パーティーが終わって、中年が始まる (幻冬舎単行本)』でも触れたように、比較的少ない経済的負担感で独り暮らしのメリットを享受できた背景には、日本がデフレだったこと、究極的には日本が経済的に豊かな国だったことや日本円が信用に足りる価値ある通貨だったことがあった。コンビニやファミレスで、調理済みの、比較的安価でそこそこおいしいものを買ってそこそこ楽しく・健康的に暮らす、というライフスタイルが私たちに成立可能だった究極要因は、日本国の経済的繁栄である。
 
経済大国としての日本は凋落すればするほど、本当は有料で、本当は高価だったはずのそれらサービス業の値段の高さが意識されてくる。そして、私たちが20世紀からありがたがり、少なくともある世代より年上の「トレンディな人々」には常識的に思われていた核家族や独り暮らしの高コスト体質が肌感覚としてもわかりやすくなる。
 
それから治安と法治。
日本は治安が世界有数の水準にあり、盗難や強盗や殺人などに遭遇する確率も世界的にみて低い。それは、自由な個人主義社会を成立させる与件としても重要だ。平和な街だからこそ、独り暮らしで深夜で街を出歩くこと、ひいては酔っぱらった状態で自宅に帰ることが可能になる。また、ここでいう「法治」とは、犯罪が少ないだけでなく、社会契約の論理に基づいた取引や契約があてになること、比較的分け隔てなく対価に見合ったサービスや商品を受け取れることも含む。
 
社会契約の不行き届きな社会はこの限りではない。共同体で顔が利くこと、一族郎党や一門のメンバーであることが対価に見合ったサービスや商品を受け取るにもモノを言った。しかし社会契約の論理が生き届いていて、治安も良い環境ではそうした集団権力をバックグラウンドにしなければならない必要性はほとんどなくなる。
 
医療へのアクセスも、ここで言及して良いかもしれない。2026年現在、日本は誰でも救急車を呼べ、三次救急までフルアクセスできる医療体制を維持しているが、これも、少人数での生活を成立させている縁の下の力持ちだ。医療体制が劣化してくれば、次第にそれもあてにできなくなるだろう。
 
戦前から戦後、21世紀に入ってからも日本社会は治安を向上させ、法治の徹底を推し進め、個人主義的に生きたい人が生きられる社会を実現してきたから、2030年代も2040年代もそうであれかしと思う。しかし、治安と法治が守られるということも、その前提条件が問われなければならない。どれだけ立派なことが法令や憲法に書かれていても、その国の治安や法治の実態、社会契約の論理が遵守される度合いは国によって異なる。たとえばギャングが暗躍する中南米の国々で日本と同じ治安や法治の実態は望むべくもない。アメリカにおいてもたぶん同様だろう。もし、これから治安や法治があてにならなくなっていった場合、私たちは再び共同体で顔が利くことや、一族郎党や一門の一員であること、等々に頼らなければならなくなる。
 
治安も法治も一応維持されるが、それが強者を贔屓にしたかたちで進行していく可能性もある。たとえば社会契約に基づいた法治が強者にとって有利な条件に変わり続けたら、信用スコアが一定以下の人間からはモノを買わない、モノを売らない、といった社会が到来するかもしれない。そのとき、気楽に独り暮らしをやってのけられるのは社会的信用をすでに獲得していて、かつ、経済的にある程度以上恵まれている者である。
 
もし、日本国が治安と法治を今までどおりではなく、信用を司るものを持つ者に便益をはかり、そうでない者に便益をはからない方向に変え始めたら、持たざる者の一人暮らしは今よりずっと面倒になるだろうし、なんとなくそういう方向に日本社会は向かっているようにみえる。と同時に、独り暮らしや核家族が経済的にデメリットが大きいことをある種の圧力として、80-90年代とは正反対に、集団生活への親和性が好もしく語られる可能性はこれから高まっていくんじゃないだろうか。その嚆矢は00年代のシェアハウス論だったかもしれない。どうあれ、これから「おひとりさま」なるものが流行るとはまったく思えない。
 
 

集団生活に馴染めるのも才覚のうち

 
さてそうなると、集団生活ができるか、できないかが個人の社会適応にとって再び重要になってくる。それはひとつの才覚と言っていいレベルのものだ。死命を制するような才覚と言えてしまうかもしれない。
 
来日して働き続ける外国人のうちに、手狭な住まいに複数名が同居している人をみることがある。私が見聞している限りでは、そうした同居生活は色々な国の人もやっていることのようだ。
 
そうした手狭な同居はプライバシーすらうっちゃって低コストをきわめたシェアハウス的なものであり、その経済的なメリットは計り知れない。しかし、プライバシー感覚を自明としている人にとって、そのような集団生活はストレスが多すぎてなかなか耐えられないものだろう。
 
プライバシー感覚とストレスの問題は、だからどういう環境で生活可能か、どういう環境までなら耐えられるかを左右する。集団生活に適したライフスタイルか否かや、集団生活にまつわるストレス耐性の高低が、生活に要する経済的コストに直結する。独り暮らしや核家族が社会の当たり前だった時代には、そうした集団生活適性はせいぜい職場でしか問われないものだったかもしれず、たとえばフリーターのような生き方が実際に可能だった時代には集団生活適性を無視しても蔑視しても構わなかった。
 
だが、経済的に下降していくこれからの日本社会では、集団生活適性が問われる場面が増えてくるよう思われる。経済的/社会的なクレジットが乏しければ乏しいほどそうだろうし、東京のような、土地代や家賃の高いエリアに暮らしているほどそうだろう。先立つものがなければ、プライベートが維持できる空間を借りたり買ったりすることはできない。クレジットが乏しければ、シェアハウスか、もっとプライバシー空間の乏しい生活空間で生活しなければならないかもしれない。そうなった時、集団生活適性が再び重要になる。見ず知らずの者と集団生活をする、ということは、素養であると同時にハビトゥスや文化資本でもある。それに恵まれていたから助かる人、それが乏しかったからトラブったという人は今まで以上に出てくるだろう。*1 
 
 

才覚が無くても生きていけた時代を、平和と呼ぶ

 
「集団生活適性は才覚だ、それが問われる場面が増えてきた」と書いたが、もちろん才覚はそれひとつではないので、別の才覚が優れていれば、なんなら独り暮らしを続けることも核家族をやっていくこともできよう。一番わかりやすいのは経済的に豊かであることだ。何千万円、何億円とお金が入り続ける人なら、独り暮らしも核家族もどうってことはない。
 
誰とでも仲良くなれる才覚、誰かの心を穏やかにできる才覚、誰かを喜ばせる才覚などもきっと頼りになるに違いない。学力も、今までと同じぐらいには重要だろう。
 
なんであれ、資本主義社会では、その社会に適合したかたちで才覚を示すことができれば理論上は経済的成功を手に入れられる。治安が極度に悪化しても護衛など雇えるかもしれないし、というより、治安の良い場所に転居できるだろう。クレジットを山ほど所有し、いつでもどこでも着の身着のまま生きられるのは個人主義者の夢を体現したご身分だが、それをやってのけられる人間はゼロにはならない。ただし、その難易度は上がっていくだろうし、そもそも、それほどまでにクレジットを手に入れられた人間が核家族、さらには独り暮らしを続けるのかといったら、さてどうだろう、という気もする。
 
そこまでの経済的成功を達成しなくても、才覚がなんらか社会と噛み合えばそれは生きやすさに繋がる。集団生活適性も、そうした渡世の才覚の一つに過ぎない。たとえ今後、その重要性が漸増し、群れて生きる価値やライフスタイルが見直されるとしても、過大評価するあまり、それを社会適応の必要条件や十分条件とまでみなしてしまうのは早とちりだろう。
 
しかし、これだけは言える。
どういうものであれ、これからを生きるには才覚が必要だ、と。
そして才覚がなくてもぼーっと生きられた時代を「平和」と呼ぶのだ、とも思う。
 
これは、東浩紀『平和と愚かさ』を読んでいる最中だから連想されたこと……というより、似たことが『銀河英雄伝説』にも書かれていたように記憶している*2。それで言えば、日本社会は「平和」でない方向に着実に向かっている。2026年現在、日本とその周辺がわかりやすい戦火にさらされているわけではないが、それでさえ、ここでいう「平和」は脅かされているし、まさにその「平和」が脅かされているさまを意識しながら東浩紀は新著を書いたんだろうな、などと想像したりもする。
 
そして、『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリー風に言えば、その「平和」がたかだか数十年続いただけでも尊いものだったし、そのたかだか数十年を作り上げてくれた先人たちには足を向けて寝られない感じだ*3
 
しかし歳月は流れ、そのたかだか数十年の「平和」も命数を使い果たしたようにみえてならない、日本においても、グローバル資本主義社会ぜんたいにおいても。社会構造や社会体制が激変する際には、天災や疫病や戦乱が起こるだけでなく、起こらなくても、才覚が問われることになる。最後に頼れるのは才覚ぐらいしか私には思いつかない。ただし、ここでいう才覚のうち何が活きやすく、何が死にやすいのかはまだ明らかではない。見当つけて、爪を磨いていくしかあるまい。
 
 

*1:日本は少子化に向かい、家屋が余ってくるとも言われているが、余ってくる家屋のうち、十分にメンテナンスがされ、居住可能であり続けるものが何割ぐらいか、ひいてはそのようにメンテナンスが行われ続けた物件がどれぐらいの費用で贖われなければならないものかを、考える必要がある。古くて不便な物件が現在より手頃感が出るぐらいのことはあるかもしれないが、それにも限界はあるだろう。

*2:追記:調べたところ、「平和というのはな、キルヒアイス。無能が最大の悪徳とされないような幸福な時代を指して言うのだ。貴族どもを見ろ」でした。

*3:たぶんだが、次のたかだか数十年の平和を作り上げられるのか、準備できるのかが、これから私たちに問われるのだろうとも思う