シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

帰ろう、はてな村(的などこか)へ。

 
インターネットの大海原とそこでの消耗、消耗の回避についてざっと意見申し上げてみます……という体裁で書きたいことを書かせてください。
 
書くのが「怖い」とか「めんどくさい」という気分になることが多くなってきた - いつか電池がきれるまで
Twitterとは、何だったのか。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
 
 
お二方の文章を読んで私はこう思いました。「帰ろう、『はてな村』へ」。今のブログでは書きづらくて、今のツイッターが危なっかしくて神経を遣うとしたら、私たちはもっと小さな場所に籠って、自分の言いたいことを言ったり、自分が書きたいことを追求したりしたほうがいいのではないでしょうか。
 
 
 

井の中の蛙、というけれど

 
「井の中の蛙大海を知らず」って、何か良くないことを指摘する際に用いられがちな言い回しですね。しかし、ときには井の中の蛙でいること・いられることも大切で、なんなら必要ではないでしょうか。
 
例えばこのはてなダイアリー(はてなブログ)では、過去に「はてな村」という幻想が成立して、相互認識しているブロガーたちが内輪感覚で繋がっている時期というか現象というかがありました。それを当時のブロガーたちは「はてな村」と呼び、その内輪感覚やローカルルールが嫌われたりもしていました。しかし内輪にいた人々は結構自由に文章を書いていたように思います。平和だったとは言えないかもしれないけれども、自由には違いなかった。まだ十年も経たないぐらいの過去ですから、冒頭リンク先のお二方なら覚えておられるでしょう。
 
あるいはツイッターも。00年代のツイッターは本当に自由で、なんでもアリで、それでいて炎上リスクの小さな何処かでした。Favoriteが五つ以上たまると「ふぁぼったー」で投稿が赤く表示されたのも懐かしい思い出ですね。お金にならない。宣伝にもならない。そのかわりつぶやく自由があり、憂鬱や苛立ちや科白が堆積するに任せる場所としてのツイッター。色んな人と繋がれるとはいえ、まだまだ政治家や専門家や芸能人と繋がれる場所だとは思いにくかった、開いていて閉じていたあの空間としてのツイッター。
 
「はてな村」や当時のツイッターは、まさに井の中の蛙の空間でした。あるいは湾や入り江や汽水域のようなものでしょうか。グローバルな大海に一応繋がってはいるけれども、意識としても実装としても現実としてもたかが知れていて、身内的で、だからといってFacebookとも違っているインターネットの数ある小さな井戸、または水たまりでした。そこで私たちは自由に、ゲコゲコと、かえるのうたを歌っていたわけですね。
 
しかしインターネットはそうではなくなりました。とりわけツイッターはあまりにも繋がって、繋がりすぎるせいで万人の万人に対する監視と宣伝と立場と政治の場所になってしまいました。現在のツイッターにはアメリカ大統領や大実業家のアカウントがあります。大企業や省庁のアカウントもあります。インターネットがあらゆるものを接続するのは過去も現在も同じといえば同じかもしれません。それでも使われ方や内実は随分違ってきたでしょう?
 
今では、まったく無名の泡沫アカウントでも大統領や省庁や大企業のアカウントのつぶやきを聞くことができ、そこに返信することもできます。そして炎上する可能性もあれば炎上に加担する可能性もあります。そういった諸点を踏まえるなら、過去の「はてな村」や過去のツイッターと同質とはいいきれません。
 
そうしたわけで、実際、私たちの仕草も変わってしまいましたね。ツイッターで政治やビジネスをしている人はそのように。そうでもない人もそうでないように。どちらにせよ、井の中の蛙の振る舞いではありません。シャチやホオジロザメが回遊している、大海を前提とした振る舞いです。そこは、経済的・政治的・芸能的・文筆的にビッグな人々が餌を求めて徘徊し、群れをなし、おこぼれにあずかろうとするスカベンジャーが蠢くような生態系です。この大海原において、言葉はどこまでも届くし誰の目に留まるかわかったものではありません。自由ではあるでしょう。けれども大海の自由は、井の中の蛙の自由とは質的に違っています。できること・やって構わないこと・似合っていることが違い過ぎている。
 
 

書くことを養うのは大海ではなく井戸や入り江だったのでは?

 
お二方は、この繋がりすぎて遮蔽物の乏しいインターネットで言葉を紡ぐことに倦んでいるようにも、消耗しているようにもお見受けしました。私も本当はそうで、2022年になってインターネットの大海での活動を意識的に減らしています。そこで何かを語るだけでなく、何かを見ることも減らしました。そういう神経を遣う生態系に滞在し続けては、インスピレーションは高まらないと思うので。
 
本当は、ツイッターなどを主戦場にしている人たちも結構消耗しているんじゃないでしょうか。もちろん、そこでシャチやホオジロザメをやらなければならない人には相応の理由がありますから、消耗するからといって回遊しないわけにもいかないでしょう。とはいえ、大海を泳ぐこと、それ自体がインスピレーションを養い、自由な着想や奇想天外なアイデアを生み出すとは、私にはあまり思えません。
 
過去の、インターネットが楽しかったと感じていた場所と時間を思い出すと、そこは大海ではありませんでした。そこは井戸や入り江や汽水域に例えるべき場所や時間だったはずです。匿名掲示板や相互リンク文化のウェブサイトも含めて。そういう場所や時間だったから、私たちは楽しんで、インスピレーションの火花を散らしやすかったのではないでしょうか。
 
ならば、答えはもう決まったも同然。
今のインターネットに書くことに倦んでいる人は、帰るのがいいと思うのです。
帰ろう、はてな村へ。
あるいはゲコゲコと鳴いていた懐かしい井戸へ。
大海の塩水と甘い淡水の混じり合う汽水域へ。
 
不特定多数に対してステートメントを出すための場所と、インスピレーションを養うための場所は、分けて考えなければならないのが今のインターネットではないかと私は思います。では、井戸や入り江や汽水域に相当するのはどこなのでしょうか?
 
それはredditやdiscordやtelegramかもしれない。LINEやmixiやマストドンかもしれない。いやいや、近所の居酒屋でも本当は良かったはず。残念ながら、ブロガー居酒屋はなかなか存在しないのですが。でも、オフ会ならできるかもしれません。居住地の都合などあるのでオフ会もオフ会でハードルがありますが、インスピレーションを養えそうな者同士で打ち解け合うオフ会ならば、火花が散りやすく、エンカレッジされやすいように思います。
 
もちろん、大海然としたインターネットに何かを書き置くことにも意味はあるでしょうし、書くことだってあるでしょう。でもそれだけではインターネットは塩辛くて神経を遣ってしまいそうだから、自分のインスピレーションや感情や意欲を養うどこかが今は不可欠のように思います。考えてみれば、世の文筆家や漫画家や小説家にしても、大海としてのインターネットだけでインスピレーションや感情や意欲を養ってきたとは、あまり思えません。そうでない何処かも含めてアウトプットと自分自身の内界との帳尻が合っていたのではないでしょうか。
 
ここではない何処かで養生中のp_shirokumaからは、以上です。