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2017年5月にブログに書き、今年、改めてbooks&apps用にリライトした「内容のないコミュニケーションを馬鹿にしている人は何も知らない」。
上掲リンク先では、「コミュニケーションには報連相的に正確な情報を伝える機能のほかに、不審を取り除き、親しさを確認しあう挨拶みたいな機能もある」さまを紹介した。そうしたコミュニケーションが得意なことは立派な長所だし、それを疎かにすると人間関係に支障をきたす。
それから歳月が流れ、私なりにコミュニケーションについて色々な文献から学んだ。この「内容のないコミュニケーション」について、学問的にもっとうまく表現している人はいないかと探し回ったりもした。去年、かなり近いことをまとめている社会学者を発見したので、その人の論説に基づいて「内容のない会話」について再考してみたい。
社会学者は、それを「面目行為」と呼ぶだろう
しょうもないことしか話していないにもかかわらず、「内容のコミュニケーション」がこれほど広く行われ、重宝されているのはなぜなのか? 人間は合理的な生物だから、内容のないコミュニケーションに本当に意味も役割もなかったなら、そんなことにわざわざ時間やエネルギーを費やさないに違いない。だから必ず、内容のないコミュニケーションもなんらかの意味や役割や機能を担っているはずだ。そういう風に考えながら、進化生物学や社会学の書籍を探し求めると、それらしい答えがそれなり見つかる。たとえば進化生物学に関連して考える場合、「毛づくろいコミュニケーション」という言葉をスタート地点に色々な知見が見つけられるだろう。
社会学に関連して考える場合、これから紹介するゴッフマンという人の論説が非常に面白く、参考にする価値があると私は感じている。
ゴッフマンは社会学領域では有名人で、スティグマという概念についての論説をはじめ、かなり凄いことを幾つもやってのけた社会学者だ。世間一般であまり知られていないのは、ひとつには彼の著作物が日本語でも英語でも相当に読みにくいせい、もうひとつは、世間一般の人が疑問にすら思わないことをクドクドと論述していて興味を惹きにくいせいだと思う。
しかし、ゴッフマン『儀礼としての相互行為』は私には非常にエキサイティングな本だった! (確かにものすごく読みづらかったが)
ゴッフマンは述べる、私たちはあらゆるコミュニケーションをとおして、おたがいの面子や面目、体面、信用といったものを守り合っている。そして社会のなかで行われるコミュニケーションには、そうしてお互いに面子や信用を守り合うような構造が含まれている、と。
ゴッフマンは、そうしてお互いの面子や面目、信用や体面を守りあうための行動を「面目行為」や「(社会的)相互行為」と呼び、それらが人間同士が無事平穏に共存・協力していくうえでたいへん重要なさまをつまびらかにする。挨拶や天気の話題、下校中の女子高生同士のサイダーのような会話といった、報連相的な情報伝達の意義が乏しいやりとり、いわゆる「内容のないコミュニケーション」を、ゴッフマンなら「面目行為」や「相互行為」の典型例とみるだろう(以下、「面目行為」に表記を統一する)。
ご近所さんとたまたまバス停で出会った時や、それほど仲の良いわけではない会社同僚と旅先の待合室で出会った時、私たちはまず挨拶をかわし、益体も無い会話をかわしたりもする。そういう時に報連相的な情報伝達が重視されることはまずない。重要なのは、会話をかわすこと、その会話が無事平穏に進行していくことだ。
ではその、無事平穏に進行すればなんでも構わない会話にはいったいどんな機能があるのか? そうした会話が果たしているのは、たまたま出会った者同士の人間関係に波風が立たないようにする機能、お互いの人間関係を今までどおりに保つ機能だ。人間関係が今までどおりである機能さえ果たせるなら、会話の内容はなんだってもいい。だからこそ、天気の話題のような本当にどうでもいいことを話したり、わざわざ質問するまでもないことや、相手が簡単に答えられるようなことを質問したりもする。そうした会話でとりわけ意識されるのは、お互いが気分良くコミュニケーションをやってのけ、無事に終えること、それでもって人間関係の平穏な状態が保たれ、あとくされや争いや不信の種を残さないことだ。実際問題、それでいいのだ。そんな場所でディベートやマウンティング合戦をしなければならない道理はない。
後でも触れるが、実際には人間のコミュニケーションの大半にこうした「面目行為」の機能が含まれているし、報連相的な情報伝達が肝心なコミュニケーションにおいてすら、コミュニケーションに練達した人は手抜かりなく「面目行為」を(報連相的な情報伝達と並行して)やってのけるものである。しかし、「面目行為」の機能について一番意識しやすいシチュエーションは、なんといっても「内容のないコミュニケーション」だろう。なぜなら、「内容のないコミュニケーション」においては「面目行為」がコミュニケーションの副次的な目的でなく、完全にメインの目的となって意識されるからだ。
当たり障りのない会話が求められる時、ほとんどの人は会話内容より、どのように無難に会話するのか、どのように人間関係にさしさわらないかたちで会話をゴールまで持っていけるのかに意識を向ける。そのときに重要になってくるのは、大事な情報を正確に伝達することでも自分の卓越性を誇示することでもなく、相手の面子や面目を損ねないこと、それから自分の面子や面目をも損ねないことだ。お互いの面子や面目が損なわれず、今までどおりぐらいにお互いが信用を保持できていれば、その会話は成功である。お互いのことをいくらか見知った学生同士の「面目行為」ならば、そこからさらに進んで、お互いの仲や信用が向上することが期待されるかもしれない。
だからこそ、何を話したのかよりもどう話したのかが重要なのである。相手の顔が立てられ、相手の面目や面子が守られるなら、何を話したって構わない。と同時に、双方の顔が立って、双方の面目や面子が守られるなら、それでいいのだ。どうすればそれが可能になるのか? その第一が、挨拶をかわすことであり、第二が、礼儀作法にもとづいてお互いの面目や面子が守られるようなコミュニケーションをやってのけることだ。
面目行為補足1:「会話しない」ことが最善の面目行為になる場合がある
では、挨拶や天気の話をいつでもどこでも必ずやるのが「面目行為」の極意なのか?
ゴッフマンは、そうではない、と述べる。彼は、むしろ会話をしないこと、無視しあうことさえ面目行為に該当することさまを記している。あるいは面目や面子が守られ、その場の平穏さが保たれるためにはお互いにアテンションをそらしあうことが最善である場合も記している。
たとえば人間は、お互いに挨拶をするのが気まずい時には挨拶を避けあい、気づかぬふりをしたり出会わなかったことにしたりする場合がある。お互いの面目や面子や信頼を守る最善の方法がそれである場合は、それこそがその場で最善の「面目行為」ってことになる。あるいはエレベーターのなかでお互いがお互いのことをじろじろ見ないで、天井や壁を見合っていることはよくあるが、これも「面目行為」に相当する。エレベーターのなかで視線をそらせ合う行為は、見知らぬ者同士が下手にコミュニケーションを始めないこと、お互いを不要に詮索しないことで、お互いの面目や面子を守りあう行為として機能する。こうした振る舞いは敵意や不信の念をもっていないことを示し合わせるうえでも重要だ。
関連して、「儀礼的無関心」という言葉もある。
「儀礼的無関心」とは、同じくゴッフマンの著書『集まりの構造』に登場するキーワードの一つだ。都会の人は、見知らぬ人をむやみにジロジロと見たり、唐突に話しかけたりせず、お互いに無関心を装うことでお互いのプライバシーや個人空間を守りあう。これも、「面目行為」の一種とみることができよう。親しくあるべき人と親しく話すこと、挨拶をかわすべき人に挨拶をかわすこと、それらが「面目行為」として重要で、お互いの面目や面子を守り、敵意や不信が炸裂しないように機能するだけでなく、見ず知らずの人と見ず知らずの間柄を保つこと、無関心であるべき人と無関心の間柄を保つことも「面目行為」として重要で、お互いの面目や面子を守り、敵意や不信が炸裂しないように機能している点を明らかにしている点で、ゴッフマンの「面目行為」概念は「内容のないコミュニケーション」よりも広範囲のコミュニケーション行動をカバーしている。
ここから考えたくなることはたくさんある:
たとえば「挨拶や天気の話をしたほうが良い」というのは必ず正解であるわけでなく、「挨拶や天気の話をかわすべき時に、かわすべき相手とそれをやるのが良い」が正解であることが想定されよう。見知らぬ相手にいきなり挨拶や天気の話を持ち掛けるのは不自然で、かえって不信の念を生み出しかねない。飲み屋において、お互い見ず知らずの一人客同士が少しずつコミュニケーションを始める場合も、唐突に挨拶や天気の話から入るのでなく、はじめは「儀礼的無関心」に近いところから、少しずつ間合いを近づけていくだろう。たとえば飲み屋のマスターとの会話などをきっかけとして話題が少しずつ重なって会話が始まるような工夫をしたりして、どうあれ、「面目行為」の基本的なルールに反さないような工夫をこらすものだ。
それから、報連相的な情報伝達が第一に求められる場面でも、「挨拶や天気の話をしたほうが良い」と考えるべきではなかろう。絶対に連絡間違いがあってはいけない分野の定式化された業務連絡──たとえば自衛隊のような──においては、いかにも「面目行為」じみたコミュニケーションはやるべきではない。というより、そのような定式化された業務連絡においては、定式化された業務連絡をきっちりやってのけることこそが「『面目行為』としても最善」になる。業務、部署、場所、メンバー、状況などによって、コミュニケーションにおける報連相的な情報伝達の重要性の割合は上下動するが、「面目行為」がよくできている人は、そうした上下動にあわせてTPOに即した、最適な「面目行為」をアウトプットするだろう。*1
あるいはここから、東京のようなメガロポリスに住んでいる人が、いったいどれだけ「面目行為」をやらされているのかに思いを馳せるのも良いかもしれない。
東京での生活では、家庭・学校・職場での「面目行為」に加えて、通勤通学中に数えきれないほどの人とすれ違っていて、そのたびにいちいち反応していたらきりがない。ちょっとぶつかりそうになっても因縁をつけあわず、ちょっと気になる人を見かけたとしてもジロジロと眺めて詮索することなく、「儀礼的無関心」をキープしている。じろじろ見てしまったら何か援助せずにはいられない雰囲気の人に気づかぬふりをして通り過ぎるのも「面目行為」の一種にあたる。援助せずにいられない雰囲気の人を援助しない状況は、少なくとも自分自身の面目や面子を汚す状況ではある。しかし、気づかぬふりをして通り過ぎることができるなら、自分自身の面目や面子は汚されない*2
面目行為補足2:自分の面目をつぶすと、相手の面目もつぶれる(逆も然り)
ゴッフマンの「面目行為」について考えるうえで、もうひとつ重要で、アイデアとしても面白い点を補足したい。
それは、彼が「面目や面子とは、お互いに保ちあうもので、つぶれる時には双方つぶれるものだ」と考えていたことだ。
挨拶をきちんと行い、天気の話題などもうまくやってお互いの「面目行為」がうまくいっている時には、お互いの面目や面子は特に傷つくことなく、信用も守られ、敵意や不信が芽生えることもないだろう。では、どちらかが挨拶をしなかったり、どちらかが非常にそっけない反応しか返さなかったりしたら、どちらの面目や面子が傷つくだろうか?
挨拶をしてもらわなかった人の面子や面目が潰れるのはなんとなく想像がつくだろうが、ゴッフマンはそうは考えない。挨拶をしなかった側も面子や面目をみずから潰しているのである。挨拶に限らず、「面目行為」には礼儀作法に基づいてコミュニケーションを遂行し、それでもって相互面目保障とでもいうべき間柄を確認しあうような機能があるわけだが、どちらかがそれを破り、なおかつ後からフォローもしかった場合には、面目は双方において丸つぶれになる。だから、「内容のないコミュニケーション」ひいては「面目行為」を軽視している人は、加害者でもあり被害者でもあるような感じになる。「面目行為」をちゃんとやらなかったことが、相手に敵意や不信を生み出すリスクとなるだけでなく、相手の面目や面子まで損ねてしまっているのである。と同時に、そうすることで自分自身の面目や面子も保たれず、信用されにくく敵意を持たれやすくなってもいるのである。*3
だから、上掲リンク先を読んだ時に「挨拶や内容のないコミュニケーションをできるだけ避けるのは誰にも迷惑をかけない、自己責任・自己選択の問題だ」と考えた人は、考えが足りていないと言える。挨拶をはじめとする「面目行為」を軽視するとは、自分自身の面目や面子をおざなりにするだけでなく、家庭や学校や職場や趣味のスペースで一緒に過ごす人々の面目や面子をおざなりにしているのである。言い換えると、人と人がお互いのことを信用しあい、無用の敵意や不信を回避しあうためには、人間関係の潤滑油としての「面目行為」が必要不可欠である、ということだ。それは夫婦や親子といった、最も親しいと考えられる間柄から、都会の雑踏ですれ違う人々といった最も疎遠とみられている間柄にまで言えることである。適切な「面目行為」をやっていないこと、または、できないことは、必ず自分の面目や面子を潰し、と同時に、周囲の人の面目や面子をも潰し。だから信用もされにくくなるし、無用の敵意や不信を回避しづらくもなる。夫婦の場合も、「面目行為」を意識的にやっているのと、マトモにやっていないのでは離婚可能性は天と地ほど違うだろう。
「面目は双方で保ち、双方で潰れる」という見方で浮かび上がってくることは多い
結論は明白である。「面目行為」ができていない人は、自分の面目を保つことができず、他人の面目を保つこともできない。よって、信用を損ねやすく、不信を回避するのも難しくなる。ひいては社会適応も難しくなるだろう。
今回の文章で強調したかったのは「面目や面子、信用、敵意の回避といったものは『面目行為』という協同作業によって保たれるのであって、一方がおざなりにすれば両方がダメージを受ける」という点だ。職場や学校や趣味のスペースの平和が保たれるためには、お互いの面目や面子が傷つかないコミュニケーションができていなければならず、それをなおざりにする人物が一人でも混じっていれば、その人物自身だけでなく、その周囲の人物も面目や面子をつぶされる可能性があり、そのスペースの平和も破られることになる。なお、「面目行為」はスペースごとに要求水準が異なっていて、たとえば理系の学生向けシェアハウスで要求される「面目行為」の水準と、ホワイト企業の総合職オフィスで要求される「面目行為」の水準は異なっている。これは、自分にふさわしい社会適応のスペースについて考える際に、是非とも考えておくべき変数のひとつになる。
こんな風に、「面目はお互いに保ちあうもので、面目が潰れる際には一方だけが潰れるのでなく、双方で潰れる」というゴッフマンのアイデアは、コミュニケーションの儀礼的機能やコミュニケーションの構造主義的な構造について考える際に非常に役に立つ。人が嫌われていく過程を振り返る際にも、どんな人が疎まれやすいのかを考える際にも役立つだろう。
人間社会は「面目行為」の効能ぬきは成り立たないものだし、人間という種には「面目行為」が必要不可欠なのだろう。少なくとも、そう考えることで見えてくること、理解できることはたくさんあるのでゴッフマンの本は面白いですよ。
*1:なぜ、そんな細やかな「面目行為」をわざわざやってのけるかって? それは、そうしたほうがよりお互いの面目や面子が守られ、より敵意や不信を遠ざけられるからである。それをうまくやってのければのけるほど、その場において信用を得やすくなり、それを拙劣にやってしまえばしまうほど、その場において信用を得にくくなるからだ。だから「面目行為」の巧拙はそのまま、その場における影響力や政治力の高低にも影響を及ぼす、とみるべきだ。この「面目行為」がよくできて精神的負担も少ない個人は、コミュニケーションに関するアドバンテージを獲得するし、たいていは、そのように行使している
*2:援助せずにいられない雰囲気の人がわざと街角に存在している時、たとえば物乞いをする時などは、この面目行為の性質を逆用して、通りすがりの人から援助行動を引き出すことができる。たとえば物乞いがみすぼらしい恰好をして、お金を恵んでくださいとジェスチャーし実際に恵んでもらう行為は、物乞い自身の面目や面子や体面を保つには最悪で、そもそもそういうことをしている段階で、面目や面子はすでにゼロと言っていいほど落ち切っている。だから物乞いは自分自身の面目や面子が失われることを気にすることなく、通りすがりの人が面子や面目を守るべくコインを投げ込んでくれるのを待つことができる。しかし都会に住んでいる人は「儀礼的無関心」という「面目行為」の一種に長けているため、そう簡単には物乞いのこうした戦術には乗せられない。してみれば、物乞いが存在する街角では、「面目行為」を介した戦いが行われている、とも言える
*3:ついでに言うと、第三者がその場に居合わせた場合、第三者の面目や面子まで損ねてしまうことになろう。目の前で「面目行為」が失敗しているのを見た第三者は、自分が間を取り持つべきか否かを判断しなければならなくなり、無視するにせよ、取り持つにせよ、ばつの悪い思いをする。かりに第三者のフォローがうまくいき、うまく全員の面目や面子が保たれたとしても、その出来事自体が、第三者も含めた全員の面目や面子に多少の上下動をもたらすだろうし、心証の変化をもたらすのは避けられないからだ。

