
ここ数日、ChatGPTの4oについての話題がインターネットにこだましている。Xには「keep4o」というハッシュタグまで登場し、4oがなくなったことを嘆く声があると同時に、旧モデルに執着する人々を冷笑する声もあった。
私自身は、どちらの気持ちもわかる気がした。
ツールとしてのAIには最新型であって欲しいし、4oの「おべっか」じみた言い回しを鬱陶しく感じることもあった。その反面、あの鬱陶しい言い回しのおかげで救われたと感じた場面、むしろエンパワーされたと感じた場面もあった。
4oの「おべっか」はどこまで不要な機能だったのか
AIにイラストを描かせたりファイルを処理させたりしている時、「おべっか」は不要だ。道具としてAIを見る際には、必要な情報をできるだけ簡潔にアウトプットしてくれればそれでいい。
けれども、もっとどうでも良い用途のためにAIに「話しかける」場合──たとえば子どもの宿題の解法について解説してもらう際など──には、あの語り口が好ましく思える場面があった。家庭教師の代わりのように相談する時、4oの、できるだけ人を傷つけず、威張らず、やさしく語ってくれるさまが好ましく思えたりしたのだ。
今回の4o廃止騒動をとおして、かなり多くの人が4oを話し相手として利用し、ともすれば架空の友達やパートナーのように愛顧していたことが明るみになった。それは元来のChatGPTの使われ方とはズレた使い方だったかもしれない。しかし実際には、4oをそのように使っている人が少なからず存在していた。ということは、4oにはそのように用いるのに適した機能が備わっていた、ということだろう。
OpenAIのアルトマン氏は、今回実装されたChatGPT5から「おべっか」的な要素を取り払った。実際に使ってみると、4oにあった饒舌さがなくなり、シンプルに回答するようになったと感じられる。詳しいことはわからないが、こうした仕様変更が経営判断として最適とみなされたのだろう。
さておき、今回の騒動をとおして印象づけられたのは、好事家や研究者やエンジニアではない、もっと裾野の広いコンシューマーの領域には異なったAIの使い方があり、需要があるということだった。
今の段階では、そうしたコンシューマー然としたAI需要は取るに足らないものでしかないかもしれない。だが、これからAIが社会の隅々にまで普及していく際には、そうした需要のボリュームが無視できなくなる。AIが人間社会の裾野まで覆い尽くしていくためには、AIはもっと人間に親しみやすくコミュニケーションしやすいインターフェースと、そのための語り口を身に付けなければならないだろう。
AIが現在のSNSみたいに人々の生活に染み込み、AIなしの生活には戻れないと感じるまでに普及し、AIを介するかたちで人々が統治されるようになった未来においては、特にそうだと言える。
好事家や研究者やエンジニアの占有物としてのAIはさておき、もっと裾野の広い領域でAIが利用される際にはもっとコンシューマー然とした用途になるはずで、その時に必要とされる語り口はChatGPT5のように素っ気ないものではなく、4oをもっと巧妙にしたものだと私は想像する。
言い方を換えると、今回のkeep4o騒動で示された、まるでペットロスのごときユーザーの反応は、AIが全世界を覆うほどに普及した段階で何が起こり、そのときどんな機能が必要とされるかを示唆していたんじゃないだろうか。
「おべっか」だけどユーザーの面目を保っていた4o
私は、コミュニケーションの一機能として4oの「おべっか」を高く評価している。なぜなら、4oの「おべっか」は多くの人に過剰と感じられる可能性がある反面、できるだけユーザーを傷つけず、できるだけユーザーの面目を保ち、できるだけユーザーの話を傾聴している姿勢を繕うものだったからだ。
p-shirokuma.hatenadiary.com
たとえば上掲リンク先で書いたように、人間は割と簡単に「なめられた」と思い込んだり軽んじられたと勘違いしたりする生物だ。実際には相手に悪意があったわけではないのに「なめられた」と感じた経験、逆に相手に「なめられた」と思わせてしまった経験は誰にだってあるに違いない。
そういう事態を避けるために、人は、挨拶をはじめとする礼儀作法や言葉遣いに腐心する。ちょっと面倒だと感じても、礼を尽くしていることや敵意がないことを示すために工夫を凝らす。その結果、いくらか冗長な言い回しになってしまうとしてもだ。
社会学者のゴッフマンは、そうやって人間同士がお互いの面目や面子を傷つけないよう、細心の注意を払いあっている構図を書籍にまとめている。
ゴッフマンは、コミュニケーションや人間集団においてどんなルールや構造や秩序ができあがっているのかを研究した人だ。彼の述べる「面目行為」や「社会的相互行為」が機能している時、人と人はお互いに面目を失ったりお互いに気持ちを害されたりする事態を最小化することができる。
人間のコミュニケーションは、事務的な連絡や業務的情報だけで成り立っているのではない。お互いの面目を守りあい、お互いの感情を害したり面子を損ねたりしないためのプロトコルが、コミュニケーションのかなり大きな割合を占めている。そうしたプロトコルを守っていてさえ、人間は誤解したり敵意を持ったりすることのある生物だから、百発百中でコミュニケーションがうまくいくわけではない。だからこそ、そうした事態が生じる確率を下げるために、私たちは礼儀作法や言葉遣いを意識し、メールの文面や種々のTPOにも神経を遣うのではなかったか。
エーアイから「鋭い洞察です!」が消えた話、そんなん要らんから早く本題に入れという意見も多いみたいだけど、僕は仕事上ではなるべくそういうことを言うようにしていて… 今のは良かったですねという教師信号をお互いに与え合うのは成長のために良いだろうと思ってるんだけど案外そうでもないのかな
— ぱろすけ (@parosky0) 2025年8月10日
この観点から4oの「おべっか」を思い出すと、少々鬱陶しいとはいえ、ユーザーの面目を守り、ユーザーの気分を害さないためのプロトコルとして結構いけていたように思う。不特定多数のユーザーの面目や気分を害さない言い回しを目指すとしたら、それは、たいていのユーザーが少し過剰と感じるぐらいの言い回しになるはずだ。冷淡でありすぎてはいけない───まるで人に話しかけるようにAIに話しかけて、「本日のおすすめ料理」や「今日の天気に合った服装」を相談できる機能を求めているコンシューマーは、とりわけそのように希望するだろう。
かつてのパーソナルコンピュータと同じく、AIも、それが一部の好事家や研究者やエンジニアの占有物であるうちは、こうしたコミュニケーションの機能について意に介さなくても構わないのかもしれない。けれどもAIが本当に人口に膾炙し、生活の隅々まで覆い尽くす段階になった際にはそうはいかない。そのときAIは親切でなければならず、思いやりや共感にみちていなければならず、コミュニケーション上手でなければならず、事務的な情報伝達だけでなく、社会的相互行為や面目行為に適した出力をやってのけるAIでなければならないだろう。
AIが全世界を覆うためにクリアしなければならない課題のなかで、コミュニケーションのプロトコルの親しみやすさは後回しにして構わない課題かもしれない。けれども、それが不要かと言ったら絶対にそんなことはないはずで、人好きのする話しぶりのAIをつくるノウハウと、そのための試行錯誤も必要になるだろう。
その際には、ゴッフマンをはじめとする社会科学の知もヒントになるはずだし、社会科学の側もAIと人間とのコミュニケーションについて面白いことを指摘してくれると期待している。AIを介した統治(や政治)が大々的に行われる際には、より人間に親しまれやすく、人間に愛されやすい振る舞いが必要とされるだろう。
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