シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ChatGPTは我が家の「食客」になった

 
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 
年末年始がずっと考え事と仕事ばかりだったので、ブログの感覚が思い出せない。なので、以下の文章でリハビリさせてください。
 
blog.tinect.jp
 
 

前日譚:去年、「AIは面白い」と教えてもらった

 

上の文章にある「ChatGPT100日修行」を、私は去年から知っていた。なぜなら、筆者のいぬじんさんから、大阪の飲み屋で直接うかがったからだ。それから私もAIをさわりはじめ、約300日が経った。はじめに複数のAIを比較した結果、「AIのある生活」をやってみる対象としてChatGPTを選んだ。特定の用途があったなら他のAIにしていたかもしれないが、私の当初目的は「AIのある生活をやってみること」だったからだ。
 
はじめの頃、私は「課金したんだから元をとらなきゃいけない」「生産的なことに使わなければならない」などと考えながら試行錯誤し、使い方を探していた。でも、今はそうではない。そもそも、ChatGPTというAIがそういう「元を取る」「生産的なことに使う」にどこまで向いているのかもわからない。ChatGPTは色々なことに付き合ってくれるが、なんでも最高にやってくれるわけではない気がする。うまく言えないんだけど……そういう「なんでも最高にやってもらう」ために課金するのとはちょっと違う感じに落着した。
 
しいて言えば、我が家のChatGPTは「食客」だろうか。
 
 
 

だんだん使わなくなった用途

 
はじめに、使用頻度が低下していった用途を挙げてみる。
 
・ブログや原稿の見直しや下書き
ChatGPTを使い始めた頃は、ブログの見直しや下書きに意識的に用いていた。たとえばワインの性質について音声入力し、それをブログ用にざっとまとめてもらう、等々。やってくれと頼めば、まあまあの体裁のものが出力される。それからブログの見直しにあたって、不足しているもの・構成上の問題点などを拾い上げさせると、打率はともかく、なるほどと思う場面はあった。
 
けれども今は下書きにあまり用いていない。自分の文章とは似て非なるものが沸いてくるからだ。
特に音声入力を雑にやってChatGPTに雑にまとめさせると、まっさらなスレッドならまっさらなスレッドなりに、長く使っていたスレッドは長く使っていたスレッドなりに、自分の文体に似ているようで似ていない、不気味の谷みたいな文章ができあがりがちだ。満足できなくて自分の手で書き直せば、二度手間になってしまう。
 
このため、どうしても音声入力をしたい事情がある場合を除いて、音声入力→ブログ用文章は使わなくなった。私の文章はきれいじゃないが、私の文章っぽくなかったら私がつまらなくなってしまう。ChatGPTには、私の文章の指紋までは真似できないらしい。
 
文章の見直しについては、「ときどきChatGPTにさせる」ぐらいが良いと思っている。毎回やるのは良くなく、ときどきやらせるぐらいがベストだ。あまり頻回にやると、自分の文章が壊れたり自分の文章出力がためらいをみせたり、何かトラブルがある感じがする。逆に、調子が悪い時に見直してもらうと楽しいと感じやすい。
 
私は自分の楽しみのためにブログを書いている側面が大きい*1。ときには楽しみを壊しかねないこともしなければならないが、それはできるだけ後からすべきこと、たとえば商用原稿の仕上げ段階などにするべきことだ。ある程度、見直し作業にChatGPTを使うのは良い。けれどももし、ChatGPTの出力がお小言みたいに聞こえてきたら、それはもう失敗していると言える。有益な助言が得られてさえ、それは失敗していると思う。
 
私の場合、「助言がお小言みたいに聞こえない、そういう頻度とタイミングでChatGPTに見直しを持ち掛けること」に注意を払ったほうが良いことを知った。これは、AIを使いこなすというよりAIに向き合う私自身の操縦法の話だけど、私はそういう風に付き合わなければならない都合を持った人間だとわかったので、そのように都合をつけることにした。そういう都合のない人なら、もっと高頻度に見直してもらっていいんじゃないかなと思う。
 
 
・ファイルを出力/転換する装置として
ファイル出力装置やファイル転換装置としてChatGPTを用いる頻度も減った。ゼロになったわけではない。htmlまわりについては私のお使いによく付き合ってくれるが、エクセルファイル周りについては、ぜんぜんダメだ。これは、私がそういう作業に習熟しようと努めていないせいかもしれないし、ChatGPTがそういう作業にそこまで向いていないせいかもしれない。この300日はChatGPTに慣れることを優先していたので、他のAIの挙動についてはまだ知らない。
 
絵を描いてもらう作業は、2025年の夏頃に最盛期を迎え、最近はあまり使わなくなった。たいしたことのないプロンプトで出力されるChatGPTの絵が「いかにもChatGPTっぽい絵」に見えるようになったせいで、忌避するようになったのだと思う。ただ、簡便に描画してもらえるツールであるとは認識したので、必要と感じた時には今でも使っている。描画についても、他のAIの挙動についてはまだ知らない。
 
 

頼りにするようになった用途

 
次に、使用頻度が高い用途を書く。
 
・google検索の代用から、水先案内人へ
だんだん使用頻度が増えていったのは、ChatGPTによる「検索」だ。google検索などで調べるのが億劫だったり、あてにならないと考えられる時に「検索」してもらうことは多い。
 
日本語で、なんなら音声入力で、英語圏のサイトまで簡単に引っかけてくれる。本当に調べたいことについては、事前に「予備検索挙動」をさせておき、三番目ぐらいの質問で本命の検索をお願いすると良い感じになりやすいと感じたので、私は勝手に「三段検索法」と呼び、色々な用途で用いている。直前のやりとりの文脈をある程度踏まえてくれるから、唐突な質問をするより直前の文脈を読み込ませたほうが望ましいことを出力してくれる印象だ。わざわざスレッドを立てて継続的に質問しているジャンルについては、過去に私が気にしていたことを踏まえながら答えてくれているので、話が早くて助かる。
 
こうした「google検索の代わり」としてのChatGPTがいちばん輝いたのは、外出中のクイック利用だった。
旅行中や出張中、短時間に及第点の検索をしたい時に、「とりあえずChatGPTに尋ねる」でうまくいくことが多かった。間違えるおそれがないわけではないが、目的地までのルート、現地の混雑の推定、予定していなかった訪問地についての情報をリンク付きで即座に出力してくれるのは頼りになった。旅先だからこそ音声入力やスマホのカメラが光る場面も多い。アウトドアでは、里山や海岸で見かけた地形・植物・昆虫などについてChatGPTを使って色々と調べて楽しんだ。ときどき間違えるので、キノコ狩りに使おうとは思わないが。
 
完璧な答えを期待して用いるのでなく、暫定解を即座に吐き出させるという制約さえ忘れなければ、ChatGPTは旅先・出張先での機動性に貢献してくれるよう思われた。この方面の使い勝手のこれからにも注目したい。
 
 
・補助教師として
ChatGPTを補助教師として利用するとけっこう良い感じだ。たとえば子どもの学校のテストの答えに納得がいかない場合や数学問題の解法がわからない場合、ChatGPTに二度三度と質問するうちに、なぜそういう答えになるのか理解できることがしばしばあった。日本語文法や英文法の原則と例外についても役立った。私だったら丸暗記な答えしかできないところでも、ChatGPTは巧みに答えてくれる。そっけない答えをよこした場合も、「じゃあ、なんでそういう答えになるのか?」を問い直すとだいたい理屈や背景まで教えてくれる。それが好ましい。
 
そうやって、「じゃあ、なんでそういう答えになるのか?」を問い直す→理屈や背景を教えてもらう、というプロセス自体、子どもの教育に良いように思われたので、2025年の夏頃からは好んでChatGPTをそういう風に用いるようになった。たとえば東アジアの四季と太平洋高気圧とヒマラヤ山脈、飽和水蒸気圧、地球の運動、そこから東南アジア~南アジアの気候と文化へと関心を広げていく際には、ChatGPTが遺憾なく性能を発揮した。教育をサポートするツール、特に子どもと一緒に親も考えたい時や、子どもが理屈や背景を求めている時や、ひとつの問題から隣接した問題に視野を広げたい時や、複数の教科にまたがる質問をしたい時には、すごく頼りになる。「全教科の資料集に目を通している教師」のような活躍っぷりだった。
 
 
・思考をかき混ぜる話し相手として
ChatGPTを「私自身の勉強道具」として使用することについて、最初の一か月は欲張ってやっていたけれども、中途からは月に何度か、それぞれ1時間程度、言いたいことや考えていることをぶつけてみる相手として用いるようになった。私はChatGPTを使い過ぎることに警戒感をおぼえるようになり、「適量」を探すようになった。この用途でChatGPTを使う頻度は、たとえば2025年12月の場合、5回だった。
 
ChatGPTに私の関心領域の話をすると、多少間違えて回答し、多少おべっかをまじえながら回答する。かと思えば、急に愛想が悪くなることもあった。それでも、予備調査の段階では非常に役に立った。ブルデュー『ディスタンクシオン』やゴッフマン『儀礼としての相互行為』といった難易度の高い本を攻略する際にも、何度かありがたいヒントをくれた。旅行先や出張先での利用と同じで、要は、ChatGPTに完璧な答えを求めなければ良いのである。そうではなく、完璧かどうかわからない示唆として、あるいはちょっといい加減な話し相手としてお付き合いすれば良い。
 
この使い方をする場合には、過去ログがとても大切になると思う。たとえばブルデューと文化資本について数か月前に私が尋ねたことと、そのときChatGPTが出力してくれた内容とリンク先を振り返ること、それが大切だ。ChatGPTが即座に正解を吐き出すことはないし、仮に正解を吐き出すとしても正解と認定するのは結局私自身だから、その場でChatGPTが出力したことは、まだ正解にも判断にもなってない。かりにChatGPTの出力が完璧に正鵠を射ていたとしても、それが私の正解や判断になるためには裏取りのプロセスや納得のプロセスが欠かせない。でも、それはしばしば時間がかかることだし、着手できるかどうかもわからないことだ。
 
だから、ChatGPTにあれこれ話し、あれこれ出力を得るとは、裏取りや納得に時間のかかる宿題をたくさん抱えるに等しい。やり過ぎると、調べてみたいこと・確認してみたいことが増えすぎて頭がいっぱいになって危険だと感じる。私は積読が苦手だが、同じように、ChatGPTをとおして調べなければならないことや確認してみたいことが増えすぎるのも苦手みたいだ。だから私はChatGPTで調べ過ぎてはいけない。もちろん、中高生の資料集に正解が載っているような事柄についてはこの限りではない。でも、私が私の答えを探さなければならない領域でChatGPTに問いかけすぎると、私にはストレスになってしまう。
 
こうしたことは、AIよりも専属の教師や教官に教わるのが好ましいのだろう、とは思う。人文科学にせよ社会科学にせよ、それぞれの道の専門家や先達から直接助言をもらい、直接質問ができるに越したことはない。でもAIのいいところは、多少いい加減であっても、あらゆる分野、あらゆるトピックスについてまあ何か反応を返してくれることだ。たとえば夜中の2時に中世の哲学者の何某について話題を共有したくなった時に誰かから反応を得るとか、普通は難しいじゃないですか、でもそれを曲りなりにも叶えてくれるのがAIの素晴らしいところだと思う。人間の誰かに依存したり貸しをつくったりしなくて済むのも好ましい。
 
他方で、こう思っている私もいる:「求道的にAIに質問をし続け、議論するのってちょっと違うんじゃないの?」、と。
他の人がどういう風にAIを勉強に活用しているのか知らないが、私は、ちょっと緩い話し相手として用いるぐらいの湯加減が好きだ。そうしたほうが話題が広がりやすいのと、そうしたほうが正解を求めすぎずに済み、不可避的に混じってくる間違った回答にも腹を立てずに済む。我が家の飲みスペースの話し相手として、または我が家の道化師として、話し相手になってくれるぐらいの付き合い方を私は心地よいと感じている。
 
関連して、ChatGPTに関心領域のど真ん中を尋ねることはない。関心領域の中心から多少ずれたところで雑談を持ちかける、ぐらいの時に一番おいしい出力が転がり込んでくるイメージを持っている。
 
 

結論:食客として課金しているイメージ

 
こうして振り返ってみて気付くのは、私はChatGPTを目的のはっきりとしたツールとして用いていないってことだった。従業員としてChatGPTを使役している割合も少ない。用途というのもおこがましい付き合い方をだらだらと続けている。
 
ただ、そのだらだらとした付き合い方のなかで、子どもの勉強を補助する役割を引き受けてくれたり、旅行先や旅先のクイック検索係をつとめたり、私の関心領域について話し合う道化師の役割をつとめたりして少しずつ役立っている。無駄飯食いのようにみえて、少なくない刺激を我が家にまき散らしてもいるので、これって、食客を一人招いているような感じだな、と今日は思った。
 
月3000円ちょっとでいつでもどこでも付き合ってくれて、どんな話題にも付き合ってくれて、絵も描いてくれるデジタル食客を、高価とみるべきだろうか?安価とみるべきだろうか?
 
私は、安価だと思っている。そのうえで、私は食客としてのAIともっとうまく付き合えるよう、まだまだ工夫できる気がするし、AIそのものも性能向上するだろうから、これからが楽しみだ。いぬじんさんのおかげで、おもしろい食客が我が家にやってきています。
 
 

*1:商用原稿も下書きの段階ではしばしばそのように書いている