ちょっと関西に行ってきました。
関西に向かったメインの目的は京都にあったのですが、少し滞在を伸ばして大阪にも立ち寄り、ブログ仲間として十年以上の付き合いになるズイショさん・いぬじんさんと忌憚ない意見交換をしてきたのでした。
人間、胸襟を開いておしゃべりができるのは飲食をともにする場面ですよね! 当日の会場は、これも古参はてなブロガーのzaikabouさんがおすすめしていた西天満の飲み屋です。私たちはいろんなことをしゃべりましたが、なかでも特に記憶に残ったのは、「人間アホちゃうか」と「だけど、そのアホな人間を愛せますか?」という話でした。
昨今、AIが次第に幅を利かせようとしていて将来的にはAIがもっと発展する、という見通しで私たちの意見は一致しました。ホワイトカラーのやっている仕事の少なくともある部分はAIに置換されようとしているし、なんならAIのほうがうまく処理できることさえある。と同時に私たちはAIに問いを投げかけることを通してAIがまだ知らない知恵を授けたり、まだAIが持っていない目や身体の代わりの役割を果たしているのではないか? といったことをしゃべりました。AIが身体を持つようになって、自己増殖の動機を持つまでになったら人間は要らないやん! 最後にAIが責任を引き受ける主体になるまで行ったら終了! といったこともしゃべりました。
合理性や効率性が問われる場面や、ある種のマネジメント領域に関しては人間はAIに勝てなくなるでしょう。これはもう、電子計算機や自動車が通った道とたぶん同じで悪あがきをしても勝てません。その時、人間の存在意義、ひいては人間らしさとはどんなものになるでしょうか。
例えば19世紀の頃は、人間らしさ=合理性や効率性だったと思うんです。「理性」、とまとめて良いでしょうか? 動物と人間との違いは、人間ならば合理性や効率性に根差した思考が可能で、その思考に基づいて判断し、行動できる点でした。それこそが、動物との対比のなかで浮かび上がってくる人間らしさだったと思います。
ところがAIとの対比のなかでは、合理性や効率性は人間らしさとして浮かび上がってはきません。むしろ、AIとの比較では合理性や効率性の不徹底や不条理さ、衝動性、そういった動物寄りの性質こそが人間らしさとして浮かび上がってくるように思うのですよね。動物との比較では人間は合理的で効率的かもしれませんが、AIとの比較では人間は不条理で、衝動的で、むしろその動物性こそが人間らしさの兆候としてうつるのです。
「人間なんて、しょうもないものじゃないですか、でもそのしょうもない人間を愛せるかどうかが肝心なんです」
「AIに比べたら、おれらはほんとアホ。アホやけどアホがかえって人間の魅力ですらある」
「AIが得意な仕事って人間がしんどい仕事ばっかりじゃないですか、みーんな、しんどそうな顔して働いてますやん」
合理性や効率性の次元では、もうAIに負け始めている人も少なくないんじゃないでしょうか。近い将来、AIが目や鼻や身体を持つようになったら、ほとんどのホワイトカラーは全面的に負けちゃうでしょう。そうなった時、人間のしょうもなさやアホさ加減はかえって人間ならではの魅力として目立ちやすくなってくるとも思うんですよね。
AIがホワイトカラーな仕事を人間以上にこなせるようになった時、人間の値打ちや人間らしさは、ホワイトカラー的な仕事のうちにではなく、そうでないどこかに見出されなければなりません。そうでないどこかとは、大のおっさんが大阪の片隅で飲み食いしながらゲラゲラ笑っているここにある! ギャハハ! 笑ったり歌ったり毒づいたり、なんなら阪神が優勝して道頓堀に飛び込んだりする、それが人間ってやつじゃあないですか。
ブログを書いていた古い仲間が飲み屋に集まり、刺身やおでんを食べていること自体、合理性や効率性とは相入れません。ところがしょうもない人間たちときたら、こうやって居酒屋に集まって何かを得て、情報だけではない何かを交換しているつもりらしいんですよ。それは身体的な現象かもしれず、ひょっとしたらAI自身にとって喉から手が出るほど欲しいものかもしれない。ともあれ、現時点ではAIは大阪の片隅に集まることはできないし、刺身やおでんを食べないし、ゲラゲラ笑わない。
ですが人間はゲラゲラ笑うんです。太古の昔から笑ってきたんです。一緒に食べるし、意気投合するし、憎み合うことさえあるかもしれない。それって人間ですよね? これってAIにできないだけでなく、ほとんどの動物にもできないことです。一緒にゲラゲラ笑って、「おれらはみんなアホでしょうもないよねアハハー」みたいな会話をして、たいがい酔っぱらって暴言妄言を繰り返す! いやーじつにしょうもない動物ですね我々は。でも、これらは全部人間の独壇場です。
そういえば、最近の人間がだんだん繁殖しなくなって少子化しているのは、ある面ではとても「賢い」ことだとズイショさんもいぬじんさんも考えてらっしゃる様子でした。でも、その「賢い」からはみ出したところにも人間らしさがあり、人間はそういう賢くないところによっても生かされている……という点でも私たちは意見が一致しました。もちろん人間はしょうもないやつだから、ときどき反省したり自嘲しなければならないでしょう。だけどそのしょうもなさ、理不尽さ、アホらしさを愛していかないといけないし、しょうもなさを愛することもウェルビーングのうちだよね、みたいなことをしゃべって盛り上がったので、この文章をオフレポとして書きたくなったので書きました。
こうしてブログにオフレポを書くこと自体、2025年の今ではしょうもないことですが、ブログって、元々しょうもないことをいっぱい書いて良かった場所だったはず。転じて、ブログをとおして自分自身の(または他人の)しょうもなさを愛していく道はあるかもしれません。AIが人間のことを知っていくために必要なのも、信頼できる論文やニュースを読み込むだけでなく、しょうもないものやアホなもので溢れかえっている個人ブログを片っ端から読み込むことなのかも……だったらいいですね。へっへっへ、またしょうもないことを書いてしまいました。