www.asahi.com
少し前に、2024年の出生数が70万人を割り込むという推計がアナウンスされた。70万という数字にこだわっても仕方がない。男女が出会いにくく、子どもをもうける動機も少なく、子どもを育てるコストやリスクばかり目立つ状況では当然だろう。
少子化は本当に止まらないのだろうか?
かりに今とまったく同じ社会状況が持続するなら、少子化はこのままきっちり進行しそうだ。でも、きっとそんなことはない。社会状況も社会規範もなんらか変化するのが常だからだ。
ちょうど昭和100年なので昭和時代まで振り返ってみるだけでも、この100年間に社会状況と社会規範がびっくりするほど変わったと気付く。もちろん出生率もだ。出生率は経済も含めた社会状況、それから社会規範や社会通念によって大きな影響を受ける。挙児の手前である、配偶や恋愛や性愛についてもそうだ。昭和から令和にかけての日本社会は、20世紀後半に一時的な平衡期間がありつつも、子どもをもうけたくない方向へ次第に変わり続けてきたと言える。
逆に考えると、社会状況や社会規範が変われば出生率が戻ってくる可能性はあるかもしれない。子どもをもうけたくなる、子どもを育てたくなる、子どもを持つリスクやコストよりも、子育てをとおしての喜びやチャンスが着眼される社会が到来すれば出生率は上向く。バースコントロールがある社会であっても、そもそも子どもが多ければ多いほど経済的・心理的・社会的なベネフィットが見込める社会なら出生率は増加に転じるはずだし、各国政府がやっている出生率対策も、一応そうしたことを期待しているのだろう。
そのあたりについて、いつものように私が考えていた時に、以下のようなメンションをXで見かけた。
人口が激減して子供がいるだけで有利と気付けば少子化は止まるはず。既に新卒は足りなくなってきてるし、あと10~20年したらその辺りの意識が大幅に変わる可能性がある。いまさら、もうける子供の数を絞るのはちょっと遅いかなと思う。
— Willy OES ☀ (@willyoes) 2025年1月22日
人手不足の顕在化する日本では、新卒者の争奪戦はすごいことになっている。標準的に教育を受け標準的に労働できる新卒者のバリューが、にわかに高まった。驚きだ。就職氷河期の頃は、多くの新卒者が不要とみなされ、養育や教育にみあわない値付けをされた。コロナ禍が到来するまでの日本社会もいわゆるデフレ経済的で、状況はあまり好転していなかった。
すなわち、子どもが一人前になるまでにより多くの経済的負担がかかるようになり、より長い時間もかかるようになり、より多くのリスクに親が耐えなければならなくなっているにもかかわらず、ようやく社会に出てくる新卒者の報酬はたいして上昇しなかった。働き続け、生涯かけて手に入れられる経済的・心理的・社会的ベネフィットの見積もりもたいして上昇しなかったと言える。就職氷河期からこのかた、社会に出てくる新卒者はしばしば、給与所得の安い分野に就職せざるを得なかった。心理的・社会的ベネフィットという点でもそうだっただろう。
得られるものの少ない就労先は、失業を回避するバッファとして機能したともいえる反面、社会が停滞してもなお社会保障の水準を落とさず、豊かな生活を安価に実現させ続けるための人間防波堤として買い叩くもの、社会全体で人間をダンピングするものだったとも言える。新卒直後だけでなく、未来にわたってのダンピングだ。
バブル景気崩壊後の日本社会を物語るアングルはいろいろだが、「社会全体で若者を買い叩く」というアングルから眺めれば、戦後、これほど社会が若者を買い叩いた時期はなかったのではないだろうか。
戦後からこのかた、子どもを一人前にするためのコストは上昇し続けてきた。極論を言うなら、昔は「親がなくとも子は育った」。高学歴は望み薄でも、中卒でも子どもは育ったと言えるし一人前になれたとも言えた。塾や稽古事に通わなければならない必然性もそこまで高くなかった。他方、子育てが招くリスクは低かった。そうしたリスクの低さのうちには、子どもが死ぬということ、子どもが誰かに迷惑をかけることに対する社会規範が今とは異なっていた側面もある。今日のような、絶対に死なせないよう・絶対に他人に迷惑をかけないよう子どもを社会規範のガラスの檻に軟禁し、子どもに関するリスクを親が全面的に管理しなければならない社会規範は昔はできあがっていなかった。
子育てのコストを勘定する際には、高学歴化に伴う教育コストの上昇だけでなく、子どもにまつわるリスクを管理するためのコストまで勘定しなければ実態には合わない。
そうして子育てにかかるコストが上昇してきたにもかかわらず、経済が急停止した時、日本社会、ひいては為政者とそれを支持する日本国民は、豊かな生活を維持するために新卒者をダンピングした。そしてダンピングする側は、ダンピングされる側を「それが社会というものだ、競争しろ、働け」という顔つきでそれをやった。ダンピングされて不遇をかこつ若者自身、サービスを購入する際にはダンピングする側の顔をしていたことは、記憶に留めておくべきだろう。そうやって社会全体で新卒者をダンピングしたのだから、逃げ場などあるわけがない。
その典型が就職氷河期世代だった。1990年代は大学入試の競争率がとりわけ高く、浪人して難関大学を目指す者も少なくなかった。親からの仕送り額が最高に高かったのもこの時代だ。そうして多額のコストをかけられて大学を卒業した彼らが、そのコストにみあわない職しか得られない事態が多発した。ダンピングされたみずからの境遇を、彼らは教訓として刷り込まれただろう──子育てはハイリスクでローリターンである、と。
社会にダンピングされた新卒者たちの経済的・心理的・社会的境遇があまり改善しないまま、ゆえにその悲観的教訓の刷り込みが改められることもないまま、豊かな社会の上っ面だけは保たれ続けた。それが、『失われた30年』の別の顔ではなかったか。
こういうの、日本だけじゃない
こう書くと、日本固有の問題っぽく読めるかもだが、このアングルで語れるのは日本社会だけではあるまい。
たとえば台湾では日本以上に高学歴志向があり、大卒者がものすごく増えた。子どもを大学に入学させるための親の苦労や、青白い顔をして塾に通い続ける子どもたちの苦労は推して知るべしである。にもかかわらず、大卒者に報いるにふさわしい高収入の職はなかなか見つからず、低賃金労働のニーズは高い。台湾社会は介護領域などで外国人をかなり導入しており、日本とまったく同じとは言えなさそうだが、いずれにせよ、子育てのコストとリスクの上昇にみあった報酬に若者がありついているとは、あまり思えない。
日本のまわりの東アジアでは火の玉のような勢いで少子化が進行しているが、そうした国々には共通点がある。20世紀の終わりから21世紀にかけ、それらの国や地域では受験戦争をはじめ、子育てのコストが急上昇した。ところが新卒者がそのコストにみあった報酬を得られる見込みは少ない。厳しい選抜を潜り抜けた者だけが例外で、残りの多くの若者が低賃金労働を余儀なくされるのなら、結局のところ、その社会の若者は社会からダンピングされ、低賃金労働に回されることになる。親子ともに報われず、社会が全体として新しい労働力を買い叩いていることには変わりない。
そして東アジアほど顕著でなくても、結局、これは全世界で進みつつある事柄にもみえる。
ヨーロッパでも大卒者は余りがちで、アメリカでも学資ローンが深刻だ。子どもを手塩にかけて育てるために親はぎりぎりまで頑張り、子の高学歴化が進んでいる。にもかかわらず、そうして増え続ける高コストにふさわしい就職先が乏しい情況が続き、せっかくの大卒者があぶれ、あぶれた大卒者は不幸になってしまう。なんなら借金まで背負って社会に叩き出されるまである。こういうのをダンピングと言っていいのかちょっとわからないが、ともあれ親が大枚をはたき、子自身も苦労してきたはずの高コストな若者が、それにふさわしい報酬を受けにくい状況があっちこっちにある。
ちなみに、この状況を微視的にみるなら、若者それぞれの努力不足や才能不足に帰することは可能だ。おまえは社会の競争に負けた、あの起業家やエリートたちをご覧なさい、この能力主義社会のなかでお前の負けは言い逃れのできないものだ……と言い切ってしまうこともできよう。少なくともある時期まで、そうした言い切りが流行っていたものである。
上記のようなフレーズは、氷河期世代がダンピングされていた頃に大人たちが吐いていた(なんなら氷河期世代自身が自分たちを呪縛する言葉として口ずさんでいた)ものでもある。個人の努力不足や才能不足も問題には違いない。だがこの状況を巨視的にみれば、世界じゅうの国で高コストな若者たちが期待された報酬にアクセスできず、だというのに学費や資格費用はどんどんむしり取られる状況は、若者がダンピングされ、さらに教育ビジネス等の食い物にされているとみることだってできる。ちょっと異なる文脈からの引用で恐縮だが、『官僚制のユートピア』には以下のような文章がある。
そんな境遇とは無縁の人間にとって、一年間の専門教育の主要な成果と言えば、学生ローンによる膨大な借金でがんじがらめになったことである。たとえ職にありついたとしても、その後の収入のかなりの部分が、月ごとに、金融機関に吸い上げられる。なかには、こうしたあたらしい訓練の必要が完全なる詐欺としかみなしようのないものもある。金貸しと訓練プログラムの立ち上げをもくろむ人間が、手を組んで政府に圧力をかけ、たとえばすべての薬剤師は以後、追加の資格試験をパスする必要があるという決まりを発表させ、すでに職に就いている多数の人びとが夜学に通うよう余儀なくさせる、といった場合である。薬剤師たちの多くは、夜学に通うにも高利の学生ローンに頼るしかない。これによって、金貸しは、実質的に、薬剤師のその後の収入の削減をみずから法制化させているのである。
『官僚制のユートピア』より
『官僚制のユートピア』の著者は、こうしたことが薬剤師だけでなく、あらゆる資格職業に起こっていると述べる。就職に先立つインターン活動も似たようなものかもしれない。ある一面からみれば、それらは技術の進歩にキャッチアップするためとか、より高いスキルを獲得するためとか、もちろん言えてしまう。しかし別の一面からみれば社会が構造的に若者にコストを支払わせ、経済的・時間的に搾取しているとみることもできる。個々の業界、個々の企業がそうしているわけでなく、社会全体が全体としてそのようなコストを若者に支払わせている点が重要だ。この点に関しては、社会とその構造は間違いなく子育てをハイリスクでローリターンな方向へと傾け続けている。
高学歴化にともなう時間的な負担も大問題だ。博士号などを狙わない若者でさえ、いまどきは卒業後も資格取得に時間をとられ、一人前になる時期が遅れがちだ。薬学部はいつの間にか6年制になり、医師も研修期間が長くなった。30歳になるまで一人前になれない職業の多い社会とは、一人前になってから結婚し子どもをもうけるまでの猶予期間が異様に短くなった社会(ひょっとしたら、ほとんどゼロになる社会)である。
現代社会が高学歴な人材をもっともっと必要とし、誰もがそのトレーニング過程を30歳以上まで費やさなければならない社会が到来したら、たぶん、それだけで少子化は進むだろうし、ぶっちゃけ、そのこと自体が人類滅亡の脅威のひとつではないだろうか。人類滅亡の脅威には、気候変動とか、戦争とか、宇宙人とか、思想とか、パンデミックとか、色々と空想が広がるが、高学歴化とそれに伴う構造的搾取を進めるだけでも、人類が滅亡するには十分だろう。私には、先進国のとめどもない高学歴化とそれに付随する若者ダンピング&搾取のスキームが実は社会にとってかなり危険ではないかと疑っているが、そのように学者先生がおっしゃっているのをあまり見かけたことがない。大丈夫なんだろうか?
じゃあ、どうすればいいの?
ここまで書いたことは、個別の国の出来事というより、全世界レベルで起こっていて、現代社会の構造の根幹とたぶんリンクしている。じゃあ、これってどうすればいいだろうか。
答えのひとつは、案外日本で起こってくれるかもしれない。
前半で引用したwillyoesさんの、「若者が足りなくなる→若者のバリューが見直され→報酬が改善する」がそれだ。昨今の人手不足により、大企業は新卒採用の報酬を大幅に引き上げている。大企業に釣られて他の企業も同じことをやらざるを得なくなれば、少なくとも日本の若者のダンピングの程度は軽くなっていくだろう。一人前になった後に期待される報酬が子育てのリスクやコストを上回るようになればなるほど、子育ては割に合うものになり、「子どもをもうけないほど経済的」だったのが「子どもを育てるほど経済的」に変わる可能性がある。
つべこべ言っても、日本の若者のクオリティはなかなかのものだ。読み書き算盤やIT機器の取り扱いがある程度できて、法治への親和性も高い。英語圏に飛び出すには邪魔な日本語だが、内需に応えるという点ではネイティブの日本語者はなかなか代わりがきかない。今後、移民が世界レベルで減っていくことを考えるにつけても、日本で生まれ育った若者のバリューが向上し、ぐるっと回って子育てに成功するほど経済的な未来はあり得ない話ではないように思う。
もうひとつ、人生前半に集中してしまっている教育や資格取得のキャリアをどうするか? 挙児に際してのホモ・サピエンスの生物学的制約に対し、今日の高学歴向けキャリアは相性が良くないし、配慮も乏しい。以前、学生時代に結婚し研修医としての研修が始まる前に二児をもうけ、子育てが少し進んでから研修医としてリスタートをしたQ先生の話をbooks&appsさんに寄稿したことがあったが、本当に若者を大切にする社会、少子化に対して本気で取り組む社会は、医師に限らず、高学歴者がキャリアの中途で婚姻や配偶ができるようにあるべきで、そのことから目を逸らし続けるべきではない。
これは、社会制度が妨げになっているタイプの問題だから、少なくとも地球の自転を逆回りにするよりは可能な事柄だろうし、なんなら、日本や東アジア諸国のどこかが先頭を走ってもおかしくないことのはずである。それでも難しいのはそのとおりだが、社会が高学歴化すればするほど、現行の高学歴キャリアは少子化の足枷になる度合いは高くなり、また逆に、社会制度のこの部分にメスを入れる意義は大きくなるだろう。
事態はもっと複雑だ
とはいえ、もちろん現実には問題だらけだし、簡単にできるなら苦労はしない。
日本の新卒者の月収があがっていくと言っても、まだ始まったばかりだし、どこまで続くか不明である。また、仮にそうなった場合も、月収のあがりにくい仕事はどうなるんだ? というクエスチョンは残る。たとえば昨今は「2025年問題」といって介護業界の人手不足が懸念されているが、月収上昇のトレンドのなかで介護業界がその最後尾を走るとしたら、介護者の不足は必発だろう。
そもそも世界各国には、それぞれに異なる産業の発展度合いや雇用ニーズの違いがある。内需の大きな国、外需に頼るほかない国といった事情の違いも大きいだろう。この文章ではそこはあまり振り返っていない。たとえば外需に頼るほかない韓国の事情と巨大な内需を抱えている中国の事情は違うはずだし、もちろん日本の事情も異なる。
教育や資格取得のキャリアもそうそう簡単に変えられるものではない。目敏い企業のなかには、新卒者を集める一助としてこうした問題に着手しているところもある感じだが、一度に全部はできないし、最終的には国の制度全体の話になるだろう。「それでもやるんだ」「それでもいつかはやらなければならない」とは思うが、もし、政治家と有権者が自分の代のことしか考えられない場合、ずるずる先延ばしになる可能性が高い。
これらに限らず、この文章はざっくり読めるよう色んな問題を端折って書いている。たとえば地価の問題と大都市への人口移動の問題はここでは挙げていないし、思想やユースカルチャーの影響についても触れていない。家族観の新旧、宗教の影響、キリスト教世界とそれ以外の異同などについても触れなかった。また、若者をダンピングをしていると何度も書いたが、ダンピングが経営者によるのか、国民全体によるのか、(官僚制のような)制度的なものによるのか、そもそも「○○がやっている」的な構文をあてがって良いものなのかは、本当は時間をかけて考えるべきだろう。
それでも、【子育てにかかるコストやリスク>育った子どもが得られる報酬の見込み】という構図が変わらない限り少子化が止まるわけがないとは思われるので、そこのところどうなのよ? という問いを立ててみたくなったので、これを書いた。子育てのコストやリスクに見合った報酬が見込めず、せっかく育った若者とその労働力が氷河期世代のようにダンピングされ続け、しかも高学歴化がますます婚姻や挙児のための時間まで奪っていくとしたら、子どもなんて増えるわけがない。もし増えたら、そのほうがむしろおかしい。こうした、あまりに制度化されあまりに常識になっているけれども、どう考えてもホモ・サピエンスの繁殖の妨げになっている構造や構図について、界隈のえらい人にはもっとオープンに考えていただきたいといつも願っています。