子どもがいることの幸せや嬉しさを、ロジックで説明することは出来ない: 不倒城
リンク先でしんざきさんが書いておられる文章は私にもよく「わかる」。なぜなら私も、子育てをとおして得られる意味や価値が、リスクやコストといった現代風の考え方にそぐわないと感じているからだ。
でも、このしんざきさんの文章を15年前の私が見たとして、同じように「わかった」だろうか。
たぶん無理だろう。当時の私は子育てをしていなかったし、子育てなんてあり得ないと思っていた。自分のために使う時間やお金が無くなってしまうといった、リスクやコストのことが頭を占めていたように思う。
だから、現在の子育てをしていない20~30代の人々にも、冒頭の文章は届きにくいのではなかろうか。
リスクやコストを考えずに子育てを始めるほうが「おかしい」
いまどきは、コスパという言葉がよく使われて、なかには自分の人生までもコストパフォーマンスになぞらえて考えようとする人もいる。
子供は人生で一番高い買い物だと思う
上記リンク先の文章には、「リスク」「リターン」「コントロール」「コストパフォーマンス」といった言葉が並んでいる。リスクやリターンやコントロールのことを考えると、確かに子育ては費用対効果が悪い。このはてな匿名ダイアリーの文章は、リスクやコストにもとづいて子育てを考察したがる、子育て未経験者の考え方として、ひとつのステロタイプではないかと思う。
と同時に、子育てを「リスク」「リターン」「コントロール」「コストパフォーマンス」といった考え方で眺める限りにおいて、リンク先のステロタイプが間違っているとも思えない。時間的にも金銭的にも子育ては「リスク」にみあった「リターン」が保証されるものではないし、期待するものでもあるまい。昔だったら、子どもをイエのために売り飛ばしたり、イエの発展のためにスパルタ教育したりすることがまかり通っていたし、これらは経済合理性にかなっているけれども、21世紀の日本では無理筋である。
それぐらいなら、子育てに時間や金銭を差し向けるより、仕事を頑張ってお金を多く稼いだり、自分自身のスキルアップに時間をかけたりしたほうが「リスク」が少なく「リターン」が見込めると考えるのは、筋道が通っている。
いまどきの日本の若者には、こういう「リスク」や「リターン」についての考え方がしっかりインストールされている。少なくとも昭和以前の若者に比べれば、そういうことを考えている。
コスパなんて言葉が流行るということ自体、資本主義的・合理主義的な考え方が昔より浸透している証拠だろう。なんでも最近は、中高生のうちにファイナンシャルプランナーの資格を取ろうとする人もいるのだとか。
そうやって資本主義的・合理主義的なモノの考え方をしっかり内面化している若者たちが、子育てについて資本主義的・合理主義的に考え、判断をくだすのはきわめて自然なことだ。
むしろ、子育てについて資本主義的・合理主義的に考えないほうが「おかしい」のではないか。
誰もが資本主義的・合理主義的にモノを考えるよう促され、訓練されてもいるこのご時世に、後先も考えずに生殖し、なし崩し的に子育てしてしまっている人々は、資本主義的・合理主義的なモノの考え方が足りていないというか、勉強不足というか、訓練不足ではないだろうか。
一億総活躍社会というシュプレヒコールのもと、誰もがお金を稼いで自立できることが望ましいとみなされ、若いうちからNISA積み立てだのインデックスファンドだのを始める人が後を絶たず、日経平均だのダウ平均だのを気にしながら勤勉に働く現代社会において、リスクやコストにもとづいて物事を判断し、決定する能力は社会から必要とされているものだし、おそらく、個人の人生にも必須である。
そのような社会からの要請があるのに、後先を考えずに生殖してうっかり子育てしてしまっている人というのは、一体なんなのか。
リスクやコストにもとづいてあらゆる物事を考える現代社会においては、コストパフォーマンスを考え、子どもを作らない選択をする人が出て来るのが、社会からの要請に適っている。だってそうだろう? 資本主義的・合理主義的主体であることが、一生懸命に教えられ、語られ、勧められているのだから、子育てに対してもそういう考え方で望むのが現代人ってやつだろう。
都内の人々が極端に子どもをつくらないのは、ある部分では、都内では子育てのリスクやコストが高く見積もられるからだろうし、また都内の若い人は田舎の若い人にくらべて資本主義的・合理主義的なモノの考え方がしっかりインストールされているからでもあろう。
東京の、あの出生率の低さは、当該年齢の男女が資本主義的・合理主義的に行動選択している結果なのだと思う。おそらく台北やソウルの出生率の低さもそうである。東アジアの大都市圏のクレバーな若者たちは、リスクやコストをよく考え、それこそファイナンシャルプランニングのノリで人生もプラニングしているのだろう。
対照的に、地方の比較的高い出生率は、地方では子育てのリスクやコストを低く見積もれるからでもあろうし、地方の人々がリスクやコストにもとづいて物事を考えきれていないから、でもあるだろう。
資本主義的・合理主義的ではなさそうな子育ての一指標として、「できちゃった結婚」についての都道府県比較を確かめてみると、予想にたがわず、東京近辺のランキングが低く、九州地方や東北地方のランキングが高い。
todo-ran.com
上掲リンク先によれば、
相関ランキングを見ると、女子出産年齢や第一子出生時年齢(男性)、男性初婚年齢、女性初婚年齢と負の相関がある。つまり若くして結婚・出産する地域はデキ婚率が高い。
その他、高校生求職率や農業就業人口と正の相関があり、最低賃金と負の相関がある。農業がさかんで最低賃金が低く、高卒で就職する若者が多いところでデキ婚が多いことを意味しており、地方でデキ婚が多く、都市部で少ないと言えそうだ。
と書かれている。資本主義や合理主義の辺境地域では「できちゃった婚」が多い、と考えてもあながち大きな間違いではなさそうだ。
「コスパ時代」の合理主義者は子育ての夢を見るか
さてそうなると、「コスパ」時代の若者は、子育ての夢なんてみられるのだろうか?
資本主義と合理主義は、どちらも現代では支配的な通念であり、イデオロギーでもある。若い人ほどこのイデオロギーを強固にインストールしているとしたら、それに逆らって、あえてリスクやコストを勘案せず、エイヤと生殖して子育てになだれ込むのは、イデオロギーに対する背信になる*1。
よく内面化されたイデオロギーに背を向けてまで、エイヤと生殖して子育てに身を投じるとしたら……その人は乱心しているということにならないか。
もちろん私は、こうした疑問をなかば皮肉として書いている。すでに子育てを経験し、何かしら手応えを感じている人は、こうしたコストやリスクに基づいた子育て観が片手落ちであることを知っている。子育てには、資本主義と合理主義では語りきれないエッセンスが間違いなく含まれていて、そこを視野に入れないままコストやリスクを云々するのはナンセンスも甚だしい。
だが、資本主義と合理主義には馴染まないエッセンスがあるということを、資本主義と合理主義に骨の髄まで浸かった若者にどうやって伝えれば良いのか? 資本主義と合理主義の申し子たちは、世界は、資本主義と合理主義でできていると捉えている。いや、もうちょっと丁寧な言い方をするなら「資本主義や合理主義にもとづいて世界を把握し、それらのロジックにもとづいて行動している」。そのようなイデオロギー・そのような視界を持っている人々に、それらが適用できない外側の価値とか意味とかを語って聞かせたところで、わかってもらえる気がしない。
冒頭のしんざきさんは、たとえばbooks&appsに資本主義や合理主義にもとづいた教育論を書いておられるから、そういったイデオロギーをそれなり身に付け、子どもにも授けようとしているように思う。それはおかしなことではないし、私だってそうである──いまどき、資本主義や合理主義にもとづいた行動選択をできないようでは、渡世は覚束ない。
だが、人間が意味や価値を見出すのは、資本主義や合理主義の内側だけとは限らないし、しんざきさんも私も、資本主義や合理主義の外側に相当する何かを実感しているからこそ、子育てや子どもに意味や価値を見出してもいるのだろう。
子育てをやっていると、楽しいこともある。苦しいこともある。でも、子育てという時間のなかで親も子も歴史を重ねていく、その一連のプロセスには一種独特の意味づけが宿り、それが私には最も貴重なものと感じられる。子育て=幸福とは限らないけれども、子育てのプロセスのうちにできあがっていくこの歴史っぽい意味づけは、六本木や銀座でも売っていないし、ディズニーランドや大英博物館に行っても経験できない。
もし、ここのところに価値が見出せるなら、子育ては、やはり素晴らしいものだと思う。
だとしても、誰もがそこに意味を見出せるとも思えない。骨の髄まで資本主義や合理主義の考え方に漬かっている人が、みずからのイデオロギー体系では説明できず、可視化することもできない体験に、時間やお金や体力を費やすとは思えない。どうやったらわかってもらえるのだろうか。そもそもわかりたいと彼らは思っているのだろうか。
以前私は「人生のコスパを語りたいなら、まず人生のベネフィットを語ってみせろ」というブログ記事を書いたことがあるが、最近は、人生のコスパを語る人は、本当にコスパでしか世界が捉えられなくなっているのでないか、と思うこともある。交換可能・換金可能な価値しか価値と認めていない……というより価値の認識方法がわからない人というのも、案外いるものではないか。
リスクやコストで人生をはかる人に、「子育ての意味」は届くものだろうか。
*1:もし、余ったお金で趣味として子育てを始める場合は、子育てはイデオロギーに対する背信にはならない。あるいは平成初期の毒親みたく、子どもを次世代において資本を拡大再生産するための道具とみなす場合も、子育てはイデオロギーにたいする背信にはならない。前者はそれだけの余裕を持つ人が少なく、後者は現在の流行ではないし、個人主義の浸透した現代社会では批判されうるものだろう