シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

「恋愛も結婚もしなくなった日本は未曾有の先進国」

 
 
未婚の理由「めぐり合わない」 一方で「探していない」も | NHKニュース
 
 先日、内閣府が少子化社会対策白書(2019)を発表した内容をNHKが報道しているのを見かけた(pdf版はこちら)。
 
 日本では、結婚しなければ子育てはほとんど始まらない。だから少子化社会対策白書に未婚男女の意識について記されているのは当然なのだが、白書によれば、結婚を希望している未婚男女の多くが「出会わない」だけでなく「相手を探してもいない」という。
 
 挙児は一人ではできない。少なくとも一般的にはそうである。
 
 にも関わらず、未婚の男女が「出会わなくて」「相手を探してもいない」のだから、結婚は増えないし、子どもの数も増えない。たとえ婚外子を許容する文化風土ができあがったとしても、そもそも、男女が出会わなければ子どもは生まれてこないのである。
 
 少子高齢化という視点で考えるなら、このままでは国力は下がり、税制は混乱し、やがて、人心も荒廃していくだろう。
 
 だが、敢えて視点をズラして考えると、これは日本社会が文明化の最先端をいっている徴候、ある領域においてブッチギリの先進国である徴候ではないだろうか。
 
 
 

恋愛市場主義の浸透、という意味の「一億総中流」

 
 
 欧米に出掛けると私は、いつも男性が男性らしく、女性が女性らしく立ち振る舞っていると感じる。少し前の日本で流行したような「かわいい」立ち振る舞いのかわりに、大人の男性、大人の女性としての立ち振る舞いが洗練されている、と感じる。社会のなかでナメられない男・ナメられない女であることをディスプレイするために、彼らは日本人より高いコストを支払い、緊張しているようにもみえる。
 
 カップル文化、デート文化の圧力も感じる。結婚しているか否か、同性愛か異性愛かは、以前に比べて問題ではないのかもしれないが、カップルでいられない人・デートできない人は、日本社会よりも肩身が狭いのではないか。たとえば「フランスではひきこもりもデートする」というけれども、ならば、フランス社会とは、ひきこもりすらデートしなければならない社会ではないのか。
 
 対照的に、日本ではカップル文化やデート文化は希薄だ。
 
 いや、日本が欧米の模倣にいちばん熱心だった1980-90年代には、資本主義のロジックにもとづいてカップル文化やデート文化をなぞる流行が起こり、たとえばクリスマスをカップルで過ごすことが社会現象にもなった。しかしこれはうまく定着しなかった。
 
 それでどうなったのか?
 
 日本では、恋愛という体裁をとりつつ、実質的には資本主義のロジックにもとづいて男女が結びつくことになる。欧米のような、文化的因習にもとづいて誰もがデート・セックスするような社会に寄り道することなく、まっすぐ資本主義的に男女がデートしたりセックスしたり、ひいては結婚・生殖をする社会ができあがった。共同体やイエのロジックにもとづいて男女を強制的に結びつけるそれまでの社会圧を、恋愛市場主義によって打ち倒したとしても、欧米のような文化的因習が無いのだから、欧米人と同じようにデートやセックスや結婚や生殖をする社会にはならない。
 
 資本主義的に自他を値踏みしあう社会が到来したことによって、恋愛は、バリューを持った男性や女性*1が自由意志にもとづいて行うことはあっても、そうでない男性や女性が背伸びしてまで行うものではなくなった。欧米のように、デートやセックスをしなければならない(旧態依然とした)社会圧は存在しないのだから、背伸びをしなければならない道理も無い。
 
 だから現在の日本、あるいは韓国や中国では、経済的与件が比較的ピュアに男女交際を、ひいては結婚や子育てをも決定づける。少なくとも、自他を資本主義的に値踏みする作法行儀を身に付け、なにごとも資本主義的にコスパやリスクを考える人々においては、そうだといえる。
 
 この点において、東京で生活している未婚男女の大半は「模範的」である。
 
 自分自身が恋愛可能かどうか、ひいては子育て可能かどうかを、模範的な未婚男女はしっかり考える。経済合理性にもとづいてよく考え、可能なら、恋愛や結婚を選択肢のひとつとみなす。もちろん東京のような都市空間では子育ては難しいから、東京の未婚男女はしばしば結婚を諦めるし、ときには恋愛をしようという気持ちすら起こさない。少子高齢化という視点でみればゆゆしき事態だが、経済合理性の透徹という意味では、きわめて洗練された身振りだ。
 
 企業や土地を所有する大ブルジョワや高級ホワイトカラーのような中ブルジョワだけでなく、ほとんどの東京の未婚男女が恋愛や結婚を経済合理性にもとづいて見据え、行動しているのだから、たいしたものである。資本主義のメンタリティの浸透、という意味では「一億総中流」という言葉は死語ではなく、むしろ現代にこそ当てはまるのではないだろうか。
 
 
 もちろん現代の日本にも、本能のままに恋愛をはじめる人や、勢いでセックスする人、あまり考えずに子育てを始めてしまう人はいる。不勉強と言わざるを得ない。この場合、本能が勃起して恋愛や結婚を始めてしまう人は「資本主義のロジックを十分に内面化していない、不勉強で粗暴な人々」と評することができる。
 
 日本の合計特殊出生率のある部分は、そうした不勉強で粗暴な人々によって担われているのだろう。しかし、どこまでも資本主義のメンタリティが浸透してゆく日本社会において、そのような不勉強や粗暴さは時代遅れだし、進歩的な人々ほど、そのような蛮行に走ることはない。
 
 東京とその周辺の低い合計特殊出生率を見ていると、現代の未婚男女が、欧米的な文化的因習やイエや共同体の文化的因習からは自由で、恋愛や結婚に対して経済合理性にかなった判断を行っている、とみることもできる。少なくとも本能や勢いのままに男女がまぐわっていれば、こうはなるまい。
 
 現代日本では、いや、韓国や中国などでも「お金が無いから恋愛/結婚できない」という考え方はそれほど珍しくない。だが、この考え方じたいがきわめて資本主義的な、経済合理性に根ざしている。そしてそのように考えるのが当たり前で、勢いのままに恋愛や結婚や生殖に向かうのはおかしいと、大半の人が思っている。
 
 
 

一人でも生きていける社会では結婚しなくても構わない

 
 
 かつて結婚には経済合理性があった。
 いや、地域共同体にしてもそうだ。
 
 人間が集団をかたちづくって生きるのは、協同し、分業しなければ生きていけないからで、これは狩猟採集社会にも農耕社会にも当てはまった。一人では世話できない水田も集団でなら世話できるし、一人では防げない外敵も集団でなら防げる。20世紀に入ってさえ一人で生活するのはなかなか大変で、使用人を雇えるような身分でもない限り、家族や地域共同体との繋がりは必須だった。
 
 ところが20世紀の後半、とりわけ日本では、家電製品が普及し(コンビニやワンルームマンションなどといった)一人暮らしに適したサービスが進歩・普及したため、一人暮らしの難易度は大幅に下がった。
 
 家族で助け合わなくても、使用人を雇わなくても、ごく簡単に一人暮らしができる。そのうえ一人暮らしは、完全にプライベートな個人主義的生活を実現してくれる───80年代にはそうしたライフスタイルが流行したため、一人暮らしに格好悪さがついてまわることも無かった。
 
 そして仕事はといえば、家族や地域共同体から無縁になって久しい。資本家はもちろん、工場やオフィスで働く人々も、賃金労働をとおして簡単に独立できる。個人が経済的に独立しやすい素地ができていたからこそ、一人暮らしと、それに伴うプライベートな個人主義的生活が80年代に流行した、とも言えるかもしれない。
 
 いずれにせよ人々は経済的に独立し、集団で生きなければならない経済合理性は大幅に低下した。個人単位でお金を稼ぎ、たいがいのことは家電製品や出来合いのサービスに任せておけば済んでしまう社会では、結婚すること・家族をつくることにさほどの経済合理性は無い。むしろ、結婚や家族にはリスクがついてまわる。子育てを始めればお金がかかるし、離婚で失うものは決して小さくない。そうでなくても同居にはストレスやしがらみが生じる。こうしたことを、模範的な未婚男女はよく心得ている。
 
 結婚や家族は、むしろお金がかかり、リスクがある──それでも結婚するに足りるほどの相手がいれば、現代の模範的な未婚男女とて結婚するだろう。しかし、そうでなければ結婚は経済合理性にみあった選択ではないし、そのように不経済な結婚を、わざわざ手間暇かけて探し求めるのは、酔狂な、あるいは趣味的なことでしかない。
 
 結婚の是非が経済合理性にもとづいて判断されるようになり、そのうえ一人でも生きていける……というより一人のほうが生きやすい社会ができあがった以上、結婚がペイしないと判断した未婚男女は結婚しないし、するわけがない。
 
 
 

「『出会い』はノイズ」

 
 
 そのうえ、現代社会では「男女はそう簡単には出会わない」。
 
 冒頭リンク先の記事には、結婚に至らない理由のひとつとして「出会いの少なさ」が挙げられている。では、「出会い」とは一体何か。
 
 現代社会の生活を振り返ってみれば、男性と女性が顔をあわせる頻度はけっして少なくはない。いや、むしろ信じられないほど多い。たとえば電車に乗って出勤し、職場で働き、買い物をして帰宅するまでの間に、未婚男性はいったい何人の未婚女性と顔をあわせるだろうか。あるいは会話するだろうか。
 
 そう、自宅に引きこもっているのでない限り、未婚の異性に顔をあわせる頻度じたいは、現代社会ではものすごく高まっているのだ。仕事中や買い物の最中も、なんらか会話しているはずである。
 
 にも関わらず、日本の未婚男女は「出会い」が無いという。
 
 もちろん。街で未婚の異性といくらすれ違っても「出会い」にはならないし、レジで未婚の異性といくら会話しても「出会い」にはならない。職場に「出会い」を求めることも容易ではない。うかつなことをすれば、セクハラとみなされるだろう。
 
 現代社会のコミュニケーション、特に大人同士のコミュニケーションは、契約社会のロジックに従っていて、そこからはみ出すことはほとんど無い。コンビニでのやりとりは売買に最適化しているし、職場では仕事についてやりとりするべきなのであって、私生活に立ち入るようなやりとりは避けられる。「出会い」という名のノイズは、売買に最適化されたやりとり、仕事に最適化されたやりとりが当たり前になっている社会では発生しなくなる。いや、発生しなくなるというと言い過ぎかもしれないが、発生しにくくなる。
 
 街や職場で、やりとりのノイズとして「出会い」が混入することが減ってしまった以上、「出会う」ためには「出会い」に特化した場、たとえば合コンや婚活といった「出会い」を目的としたコミュニケーションの場に赴かなければならない。少なくとも、社会契約のロジックに忠実な未婚男女ならばそうだ。売買の場や仕事の場に「出会い」というノイズを持ち込むのは、合目的で効率的なコミュニケーションを旨とする契約社会のロジックからの逸脱であり、不心得なことである。
 
 現代の未婚男女は、目的にみあった合理的で効率的なコミュニケーションを是とし、そうでないコミュニケーションを不心得とする社会に生きている。このような社会では、売買に際しては売買のやりとりしかしないし、すべきでもない。仕事に際しても仕事のやりとりしかしないし、すべきでもない。そのおかげで売買も仕事も効率的に進むようになり、セクハラに遭遇したり私生活に首を突っ込まれたりする面倒も減ったわけだが、裏を返せば、男女の「出会い」というノイズも追放してしまった。
 
 学習のための場、仕事のための場、売買のための場それぞれでコミュニケーションが合目的かつ効率的であるためには、ノイズは消去しなければならないし、実際、ノイズは消去されている。現代の模範的な未婚男女は、「出会い」というノイズを学校や会社やコンビニに持ち込まない程度には、契約社会のロジックをよく内面化している。このような社会ができあがったにもかかわらず「出会い」をあちこちに見出してしまう未婚男女のほうが、どこかおかしいのではないか。
 
 現代の結婚は、見合いによらず、もっぱら恋愛によると言われている。ところが、合理的で効率的なコミュニケーションを旨とする現代社会では、男女はそう簡単には「出会わない」し、出会うべきでもない。なぜなら「出会い」は、たとえばセクハラとみなされかねないノイズだからである。だとしたら、恋愛結婚の少なくない割合は、契約社会のロジックからの逸脱の産物に依っている、ということになる。
 
 もし、このまま契約社会のロジックがますます徹底していくとしたら、恋愛という名の逸脱の産物もますます減ってゆくだろう。オフィスラブなど、洗練された契約社会にはふさわしくない。
 
 
 

資本主義・社会契約・個人主義が徹底した行先としての少子化

 
 恋愛も結婚も挙児もしない社会ができあがった背景にはさまざまな要因があるだろうし、さまざまな対策が講じられるだろう。それはそれとして、資本主義・社会契約・個人主義のロジックをみんながここまで内面化し、それを阻害するような文化的因習からも自由になった現代日本を振り返ると、どうしてわざわざ結婚し、子どもを育てようなどという動機が生まれるのか、よくわからなくなる。
 
 この、資本主義と社会契約と個人主義のイデオロギーが徹底した社会では、不用意に「出会い」を求めようとしない男女、資本主義的な自他の評価を逸脱してまで「出会い」に向かおうとしない男女のほうが模範的だ。恋愛は、最終的には合コンや婚活といった、合理的かつ効率的なシステムへと吸収されていくのかもしれない。すでに恋愛資本主義の意識はじゅうぶんに浸透しているのだから、リクルートのような企業の草刈り場になる余地はじゅうぶんある*2。もちろん一人でも生きていける現代社会だから、一人で生きていくほうが経済合理性にかなうなら、わざわざ結婚しなければならない道理はない。
 
 私のみるところ、今日のイデオロギーは、分不相応な恋愛願望や結婚願望を是としてはいないし、脈絡もないところに「出会い」を見出すような未婚男女を是ともしていない。
 
 資本主義や社会契約や個人主義が徹底して、「出会い」というノイズが減っていくのは、少子高齢化という視点でみればおそらく危機だろう。しかし、資本主義・社会契約・個人主義の進展、civilizationという視点でみれば未曾有の達成であり、社会制度や慣習が人間の生殖本能を制圧した記念碑的状況といえるのではないだろうか。
 
 資本主義や社会契約や個人主義を司る人々は、この現状を嘆くべきではなく、賛美すべきではないかと私は思う。
 「自分たちの思想は成った」、と。
 
 

*1:ここでいう経済的与件には、年収だけでなく、たとえば女性の年齢や肌ツヤのようなものも含まれる。よって恋愛市場におけるバリューは年齢や社会的地位によって変化する。

*2:というより、『ゼクシィ』が象徴しているとおり、すでに草刈り場となっている