はてな匿名ダイアリーと一部のtwitter界隈で、「現代の恋愛は、告白すれば告ハラ扱いされ、付き合う前に口説こうとすればセクハラやストーカー扱いされる」、という文章が注目されていた。関連して、「ぬいぐるみペニス(略してぬいペニ)」というネットスラングについても、はてなブックマークやnoteで目にした。
現代の恋愛ってぶっちゃけ平民には無理ゲーじゃない?
[B! 増田] 現代の恋愛ってぶっちゃけ平民には無理ゲーじゃない?
「ぬいペニ」問題について|しの。|note
現状認識:交際までの曖昧なプロセスは難しくなっている
これらに対する反応はさまざまだった。恋愛や結婚の経験のある人々は「恋愛を理解していない」「告ハラなんて言われたところで無視すればいいしセクハラほどの誘い方なんてするほうが変」「まずは異性の友達作れ」などと書いていた。
1990年代的だと思うし、だからといって間違いだとも言いづらい。実際、マッチングアプリ等を使わず、既存の社会関係のなかで異性と巡り合いたいと思うのなら、ゆっくりと関係性を積み上げて、だんだんに親しくなっていくしかないだろうからだ。
しかし冒頭の増田に同意している人々は、まさにその、異性と関係性を積み上げていくためのハードルが高くなり、足切り基準も厳しくなっていることを指摘している。
『現代の恋愛ってぶっちゃけ平民には無理ゲーじゃない?』へのコメントb.hatena.ne.jpいきなり告白はありえない→時間をかけた友達からのアプローチはぬいペニなので無理、というのはハメ技っぽい。/はてなの人々、恋愛・結婚というイシューだと途端にネオリベ万歳のマッチョ自己責任論者になるのは何
2022/06/15 12:27
上掲はてなブックマークを私なりに読み取ると。
いきなりの告白は告ハラであり、論外である。だからといって少しずつ関係性を積み上げていくアプローチの場合、たとえば食事に誘ったとか、たとえば映画に誘ったとかいった段階で「ぬいぐるみペニス」だと思われてしまう。つまり無害でニュートラルな男性だから許容されていたものが、好意を持っていると知られた段階で気持ち悪いと思われ、嫌悪されてしまう。なら、どちらを選んでも結局駄目で詰んでいる。
そうした状況への疑念や苛立ちが、はてなブックマークのあちこちから立ち上っているよう、私には感じられた。
こう書けば、「でも、今の世の中でも学校や職場で恋愛している男女はいる。特に学校はまだできるほうだ」とコメントする人もいるだろう。まあ確かに。男女が手を繋いで登下校する様子は、令和でもそこまで珍しくはない。
しかしそれは、学校という今でも関係性の枠組みが曖昧な空間のおかげだったり、学生がまだ未熟で社会に出る途上だからできること、ではないかとも思う。社会に出て、利害や役割に基づいた振る舞いを期待されるようになった男女が、いまどきオフィスラブをどこまでやって良いのか・やれるのか。
オフィスラブ、普通に昔よりハレンチでインモラルとみなされるリスクが高くなってないだろうか。
今はまだ、オフィスラブだって不可能ではない。けれども職場の利害や役割を逸脱したコミュニケーションをトラブルなくやってのけるのは至難のわざだ。少なくともセクハラという概念が浸透した今、男女関係を誘う兆候に不快感や嫌悪感を感じた側はそれをクレームすることができる。誘いたいと思う側は、セクハラというイエローカードを警戒しながらことを進めなければならない。
リスク管理に敏感な若者なら、そのようなリスクは是非とも避けたいところだろう。
統計上はどうなっているだろうか。
株式会社パートナーエージェントによる「幼馴染み婚・同級生婚」に関するアンケート調査によれば、既婚者が出会った場所が職場であるパーセンテージは、かつての35%以上から2010年代には20%まで低下している。そのぶん、婚活やインターネットでの出会いや、学生時代の付き合いがそのまま結婚する割合が高まっている(グラフ・表)。
この調査は7年前のものだ。ここ3年はコロナ禍によって出会いの場としての職場機能は弱くなったから、グラフや表の傾向は加速しているだろう。昭和~平成時代の感覚で職場の出会いを考えている人は、こうしたトレンド変化を過小評価していると思う。
逆に、こうした逆境下でも職場で出会いを獲得できる人は、いったいどんな人なのか。
少し前のインターネットスラングに「ただし、イケメンに限る(略してただイケ)」というのがあった。ここでいうイケメンとは、容姿や身のこなし、話術、関係性の調節能力、経済力などを総合的に評価して、「この人になら誘いがあっても悪い感じがしない」と女性が思いやすい男性のことを指していると思われる。
同時代に「壁ドン」というネットスラングもあった*1。「壁ドン」とは、令和から思い出すとどうあれセクハラかパワハラではないかと思われるのだけれど、平成後半になってもまだ「壁ドン」がポジティブワードとして流通するぐらいには、男女の間柄は委縮していないかったし、NGとみなされるラインに違いがあった。
こうした「ただイケ」や「壁ドン」といった一世代前のネットスラングが教えてくれるのは、当時、
・女性が好むような男性には、学校や職場で特権的なアプローチが許容される余地があり、
・女性のなかにも、そのような男性に限れば特権的なアプローチを期待している向きがあり、
・社会風潮はまだ、令和に比べればそうしたアプローチを許容していて、
・もちろん女性が嫌悪するような男性には、そうしたアプローチは許容されるものではなかった
といったことだ。もちろん個人差はあるだろうが、それでも10年ぐらい前は現在よりそうしたアプローチが許される余地があったのだろう。
今日のコミュニケーションは、職場であれ趣味の集まりであれ、目的志向で、効率重視で、その必然としてノイズや遠回りや腐れ縁を避けたがるものになっている。21世紀だけを眺めるならそう思わないかもしれないが、20世紀と比較すればその傾向は明瞭である。
たとえば平成はじめまでの飲みニケーションや社員旅行のたぐいは、仕事以外のさまざまな接点を与えるものであると同時に、目的志向的ではなく、曖昧で、腐れ縁的で、なんとなればノイズやハラスメントのようなコミュニケーションだった。そういったものを避けることがスマートとみなされ、正しいとみなされ、効率的とみなされ、健康だとさえみなされていく大きな流れのなかで、いい歳した大人が職場や趣味の場で男女の間柄を構築しようと思ったら、まさに、特権的存在でなければ難しく、甚だ危険でもあるだろう。
こうした変化の影絵として、婚活、ひいてはマッチングアプリが台頭してきている。
職場で出会えないし出会うべきでないなら、婚活やマッチングアプリをとおして、効率的に出会うしかない。
よく、婚活やマッチングアプリは新自由主義的だ、資本主義的だ、疎外だ、といった声を聴く。なるほど私もそう思う。しかしだ、そういった不平の声をあげる当人だって、案外、目的志向的ではないコミュニケーションや非効率なコミュニケーションを嫌悪し、ノイズやハラスメントのようなコミュニケーションを排除してきたのではなかっただろうか?
学校でも職場でも趣味の場でさえも、目的志向的で効率的なコミュニケーションを求め、ノイズやハラスメントを嫌悪してきた人が、こと、男女の間柄に限ってその精髄ともいえる婚活やマッチングアプリを忌避するのは、ダブルスタンダードではないだろうか。いや、私は古い人間だからダブルスタンダードだと言いたくない気持ちにシンパシーを覚えるのだけど。
しかし、経済的にも社会関係的にもコスパを求めて当然という顔をしている人、商取引のようなコミュニケーションを当たり前にしすぎている人が、マッチングアプリをとおして自分自身に値札が貼られていると気付く段になって鼻白むのは、ちょっとおかしいというか、効率主義的資本主義社会の尖兵としての自覚が足りない。そういう人は、粛々と神の見えざる手に自分自身を委ねるのがお似合いであるよう思われるのだ。
では、日本人はどのように選別され、どのように変わってゆくのか
こうしたことを踏まえて、これからの日本人の性淘汰(生殖できるかできないかによって、後世に残る遺伝形質がふるいにかけられ、ひいては進化が進んでゆくプロセス)について考えてみたい。
もちろん性淘汰を介した進化は、たかだか数十年、たかだか数世代ではそこまで進みそうにない。だからこれは放談漫談のたぐいで、事実を述べようと努めているものではないことはここで断っておく。
これから生殖し、子孫を残す第一のタイプは、高校や大学で恋愛できるか、社会人になってからのリスキーな環境下でもなお恋愛ができるか、どちらかの人々だ。
第一のタイプの人は、容姿や性格も含めたコミュニケーション能力が高い人で、「ただしイケメンに限る」的な人々だ。女性も事情はそう変わらない。年上のおっさんに金や承認を求めて接近するならともかく、同級生婚に結び付くような恋愛を高校・大学在学中にやってのけ、続けてみせるのは簡単ではないからだ。
よりリスキーになったオフィスラブなどをやってのける人も同様である。学生時代とはまた異なったかたちで、容姿、そつのなさ、性格のうまさなどが問われるだろう。
第二のタイプは、婚活やマッチングアプリといった、男女に値札をつけて互いを選別する仕組みのなかで勝ち抜き、選ばれるタイプだ。この場合も、容姿やコミュニケーション能力といった、誰に対しても魅力として働く素養が有利となり、特に男性の場合は、高い経済力、とそれを支える認知機能等々が選好されやすいだろう。
この二つのタイプが子孫を残す確率が高く、そうでない人が子孫を残す確率が低いと考えるなら、将来の日本人は、
・容姿は、ますます好まれる方向に変わり続ける。第一のタイプ第二のタイプ双方において、男女を問わず容姿が期待されるのだから、性淘汰の選別因子として、容姿は今後も猛威をふるう。
・容姿以外のコミュニケーション能力、そのさまざまな構成要素も求められるが、学校で恋愛し長続きする学生に求められるものと、マッチングアプリ経由で出会う社会人に求められるものはそれなりに違う。
とはいえ、両者には共通するTPOもある。TPOは後天的に身に付けられるが、その習得コストや精度には個人差があるため、身に付けにくい人、身に付けられない人はそのぶん子孫を残す確率が低くなってしまう。
・第二のタイプでは経済力が問題となるので、その経済力を獲得するのに適した資質、たとえば学力を得やすい素質も後世に残りやすいかもしれない。しかし容姿や汎用性の高いコミュニケーション能力に比べると、どのような能力が未来社会で高く評価されるのかが想像しにくい。
ざっくりまとめると、日本人は、このような性淘汰を経て、ますます容姿に優れコミュニケーションにそつのない、そういう集団になっていくと想像される。20世紀後半からの傾向とあまり変わらないといえば変わらないが、世代から世代へと続く性淘汰競争を経て、日本人の平均的な容姿、コミュニケーション能力、TPOの卓越性はますますハイレベルとなり、その高い基準に基づいて次世代の競争が行われるだろう。
こうした趨勢は、はてなブックマークで何人かが指摘しているとおり、直接的には障碍者を排除しないが、個人の自由な選別と選択の結果として、おのずとそれに近い結果を招くと思われる。
では、平均がハイレベルになった未来の日本社会から、今日でいう発達障碍のような位置付けになる人々がいなくなるかといったら、たぶん、そうではないと思う。平均が高まったぶん、人々に求められる能力や素養も高くなる。TPOも、認知機能も、容姿もだ。そうしたなかで、生きづらさとは、障碍とは、非モテとは……といったことが云々されるのだろう。
そうやって、外見も機能も内面も高度な資本主義社会に適応した人間が彫琢されていく。
なお、ここまでの放談はこれまでの日本社会が(緩やかに衰退しながらも)持続した場合を想定した話なので、戦乱や内乱などによって国家がひっくり返ったらこの限りではないので悪しからず。
でもって世の中の雰囲気をみるに、そうなってしまう可能性がゼロとは思えない。娑婆はいつも諸行無常なので。
*1:ただし、ここから書く「壁ドン」の定義は、本来のマイナー意味が失われ、現在でもよく知られているメジャーな意味に塗り替えられたいきさつがある。が、略する。