シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

社会が非モテ論壇に追い付いてきた(という不幸)

 
恋心すらセクハラ…若い男性が抱える「新しい生きづらさ」(清田 隆之) | FRaU
 
 
若い男性が恋心を持つのは簡単ではない、ハラスメントに相当するような恋心を抑えながら恋心を持つのは難事業になっている、といった内容のウェブ記事を見かけた。
 
サークル内の女性への親切さから恋心を持つことがあったとして、それは下心あるセクハラとみなされるのか、そうでないのか。これは、当該男女のコンテキストによっても解釈者の考え方によっても色々だろうが、文中のSさんは繊細なリテラシーに基づいて、自分の振る舞いはセクハラに相当したと悩み、後悔していた。続いて紹介されるMさんも、男性の加害者性を自覚するにつれて自己矛盾に陥り相当悩んでいる様子だった。
 
このSさんやMさんほど悩んだり自己嫌悪に陥ったりしている男性はまだ珍しいかもしれないとしても、男性が女性に声をかけるということ、男性と女性のコミュニケーションで気を遣う感覚は、昭和、平成、令和と時代が変わるなかでずいぶん変わったし、一般に、そうした変化は進歩とみなされるものだったと思う。
 
ただ、そうしたなかで男性が女性に声をかけること、さらには恋心を持つこと自体も難しくなったのではないだろうか。もちろん女性が男性に声をかけることもだ。婚活のように社会契約のとおりに男女がコンタクトをとる場合を別として、20世紀に想定されたような恋慕や恋愛のたぐいはどこまで許容されているのだろう? たとえば男性の場合、セクハラ可能性や加害性可能性を意識しつつ誰かに対して恋心を抱き、まして、そこから女性に対するアプローチしていくことはどれぐらい可能だろうか。
 
恋慕や性欲のブレーキとアクセルを同時に踏み込めば、自己矛盾に陥るだろう。その自己矛盾を克服するには、いわば"ある種の器用さ*1"が必要になるわけだが、そういう器用さを万人が持っているとも思えない。不器用な人は、恋慕や恋愛を敬して遠ざけるしかない。
 
  

まさに、十数年前にはてな非モテが議論してきた道だ

 
ところで、私は冒頭リンク先を読んでいて懐かしい気持ちにもなった。
 
というのも、こうした男性の自己嫌悪や自己矛盾やセクハラ可能性・加害可能性については、十数年前に"非モテ論壇"といわれたブロガーたちが議論や慟哭を盛んにアップロードしていたからだ。フェミニズムの考えに基づいて考察を重ねる人もいれば、もっと朴直に自己嫌悪と女性に対する加害性、ときには女性に対する迷惑性を嘆いて泣いている人もいた。しばしば議論が空転し、散らかっていたけれども、とにかくもちょっとしたブームがあったことを私は記憶している。
 

電波男

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ルサンチマン(1) (ビッグコミックス)

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最強伝説 黒沢 1

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そうした非モテの議論のなかには、たとえば『電波男』や『ルサンチマン』や『最強人間黒沢』といった作品もしばしば引用されていて、議論が、意識の高い人たちの空中戦ばかりではなかったことを断っておく。
 
そうした00年代の非モテの議論は、はてなダイアリーを中心地とする一部のブロガーだけの出来事、いわばコップのなかの嵐のようなものだった。非モテの議論と00年代の多数派の通念や慣習には、まだ大きなギャップがあった。恋愛信仰の名残がまだ残っていた時代だったから、というのもあるかもしれない。
 
 
しかし2020年からみると、00年代の非モテの議論が世の中を先取りしていたようにもうつる。つまり、非モテの議論と多数派の通念や慣習との間にあったギャップは縮小しているのではないだろうか。非モテが議論し抱えていた自己嫌悪や自己矛盾が、ごく一部のブロガーや意識の高い人だけが抱え込むものから、もう少し裾野の広い悩みへと広がってきているとしたら……。
 
男性性について勉強を重ねている人々に限らず、いまどきは、男性が女性にアプローチすることにはさまざまなリスクもついてまわる。婚活のような(あるいは風俗業のような!)社会契約上の明瞭なコンタクトはさておき、そうでない社会関係のなかで男性が女性にアプローチすればハラスメントとみなされる可能性があるし、そうでなくても失恋というリスク*2もついてまわる。
 
こうした、恋愛をリスクやコストで考えたがる考え方じたい、非モテブロガーたちが盛んに議論していたものだが、実際、リスクやコストが可視化され喧伝されるなかでなおも恋愛や恋慕をやってのけるためには、リスクやコストを度外視するための飛躍が必要になる。本来、リビドーはそうした飛躍の原動力となるわけだけど、意識の高い若い人が、リビドーにエイヤと身をゆだねるのは勇気が要るだろうし、今日日、そうやって衝動に身をゆだねることに若い人々が慣れているのか、私にはよくわからない。思うに、昭和の"野蛮な"人々ほどには衝動に身をゆだねる訓練をしていないのではないだろうか。
 
また、恋愛や恋慕といったものは、サークルや職場のノイズでもある。「趣味を共にする場所と関係」「仕事を共にする場所と関係」であるとお互いの同意にもとづいて集まっている集団のなかで、そうでない恋愛や恋慕が発生するのは社会契約からの逸脱である。もちろん20世紀の段階では、そのような逸脱が逸脱とみなされることは少なかったし、もっと多種多様な逸脱がサークルや職場でも起こり得た。ところが社会契約の通念や慣習がいよいよ極まってきて、より快適に、より便利に、よりお互いが迷惑にならないように意識が高まり続けてきた結果として、サークルや職場での恋愛や恋慕は忌避されるもの、そこまでいかなくてもノイジーなものへと変わってきた。
 
現在では、典型的な非モテ男性に限らず、女性とのコミュニケーションにある程度慣れている男性でも「自分が恋心なんか持ったら迷惑になる」可能性に思いを馳せないわけにはいかないだろう。それでも無神経な人はどこでだって恋慕するに違いない。だとしても、繊細な人ほど、誠実な人ほど、恋愛や恋慕に対して及び腰にならざるを得なくなる。
 
恋愛や思慕は、社会契約にもとづいた関係のなかではリスキーでコストがかかってノイジーだからだ。他人に対しても、自分自身に対しても。
 
 
 

社会が非モテ論壇に追い付いてきた(かのような)

 
00年代の非モテの議論は、全体として息苦しいものだった。異性にアプローチできないこと、異性を諦めていること、加害性や自己矛盾性を自覚して自縄自縛になっていること、いずれも朗らかさから遠い境地のように私にはみえた。どうしてこんな苦しみが生まれるのか──当時の非モテ論壇のなかには、恋愛市場主義を苦しみの源とみなし、なかにはバレンタイン爆砕デモやクリスマス爆砕デモといったものを企画する人もいた。
 
だが、その後も考え続けるなかで、恋愛市場主義はことの現れのごく一部にすぎず、社会全体のネオリベラリズム化や社会契約にもとづく人間関係の徹底化など、さまざまな変化の帰結として恋愛や恋慕は難しくなっていったと私は考えるようになった。言うまでもなく、恋愛や恋慕の難しさは結婚の難しさともリンクしているし、少子高齢化という大問題ともリンクしているだろう。『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』の第四章から第七章は、まさにその周辺について書いたものだ。
 
私は、00年代の非モテの議論からたくさんのことを教わったし、当時のやりとりは有意味なものだったと今は思っている。それと、これは私がネットをやりすぎているからそう思ってしまうのかもしれないが、非モテの議論に限らず、00年代のブロガーたちの議論は10年代後半から現在にかけてのエクリチュールの流通に有形無形の先鞭をつけているようにも思う。もう少し具体的に言うと、現在のネットのアクターや弁士のなかには、00年代のブロガーたちの議論をさまざまに吸収し、自分たちの世代のかたちへ換骨奪胎して開花させている人が少なくない。00年代からブログを書いている者の一人としての私は、そうした継承を嬉しく思う。
 
それでも、社会が非モテ論壇に追い付いてきたということは、この手の悩みや自縄自縛が社会に現れやすくなり、間近になりやすくなった、ということでもある。非モテ論壇の悩みがみんなの間近になってしまう社会の先行きが明るいとは、私には思えない。どうしてこんなに男女のコミュニケーションは難しく、遠いものになってしまったのだろう。
 
[関連記事]:「恋愛も結婚もしなくなった日本は未曾有の先進国」 - シロクマの屑籠
 
 

*1:ここでいうある種の器用さのなかには、天真爛漫なものから自己欺瞞のたぐいまで、さまざまなパターンが想定される

*2:「失恋するのも恋のうち」「失恋も恋の大事な一部」「自分の気持ちをきちんと相手に伝えること」などを貴ぶ人はいまどきはあまりいないようにみえる