シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「ママを選んで生まれてきたよ」と二周目の性選択、人間の進化

 
  
ママを選んで生まれてきたよ、というフレーズがある。ちょっとオカルティックに聞こえるかもしれないが、現代社会で必要とされ、流通している言葉のひとつだし、想像するに、この言葉は祝詞のたぐいなのだろう。
 
しかしそれを度外視して、穿った見方で眺めるなら、オカルティックでもなんでもない事実でもある。確かにママは選ばれた。だからその子は生まれてきた。父親によって。むしろ社会や環境の選択によって。母親として選ばれた選択の基準は何だったのだろう? 容姿だったのか、若さだったのか、経済力や才能や性格だったのか。なんにしても、母親として選ばれるに足りるものが先立たなければ、原則として母親は母親になれない。
  
その母親を選んだ父親においては、尚更である。父親として選ばれた選択の基準は何だったのだろう? 経済力だったのか、容姿だったのか、才能や性格だったのか? 動物の世界では、雄は雌に選ばれるか選ばれないかのギャップが大きな性であることが多く、精子による選別過程に加えて、同性との競争に勝った者が生殖を総取りしやすい性別だった。
 
人間の場合、トドやゴリラのような極端なハーレムを築くには至らない。というのも、人間は男性の協力が子育ての成否にとってきわめて重要で、しかも一夫一婦制と家父長制の組み合わせが特定男性による過剰な独占と選別にブレーキをかけてきたからだ。しかし現代では家父長制がなくなり、女性による男性の選別の重要性が高まった。ために、一夫多妻制ではないにせよ、配偶や生殖、ひいては性選択から除外される男性の割合は(女性もある程度そうだが)増えている。
 
そういったことを含めて考えると、いまどきの子どもとは、母親が父親に選ばれ、父親が母親に選ばれ、とにかく、選び選ばれて生まれてきた所産、と言っても言い過ぎじゃない。個人というミクロな水準でみれば、それは相思相愛になるための相性の問題とうつるけれども、マクロにみるなら性選択(性淘汰)であり、生存をめぐる自然選択(自然淘汰)のなくなった人間にとって子孫が残るか残らないかを決定づけるほとんど唯一の選別プロセスとなる。
 
そうした男女の相互選択・相互選別は、昭和以前にもあったという。それでも、お見合いどころか挙式で初めて顔を合わせることさえあった家父長制的な結婚制度のもとでは、今日と同じことが起こっていたとは考えられない。当時は当時で、家父長制的な結婚制度に妥当する男性や女性が選択されやすく、逸脱しがちな男性や女性が不利になるといったこともあっただろうけれども。
 
話を現代に戻そう。男女がお互いを選びあい、その選び選ばれたママとパパを選んで子どもが生まれるようになって、三世代目になろうとしている。今、子どもをもうける適齢期を迎えている男女は、親の代から恋愛結婚という名の相互選択のフィルタを通過している確率が高い。今、生まれてくる子どもは、いわばママを選んで生まれてきた子どものそのまた子どもにあたる。
 
日本では婚外子が少ないので、男女別の有配偶率が、性選択の度合いについて考えるモノサシになるだろう。確認してみると、女性の有配偶率は60~64歳で92%ほど、35~39歳で76%ほどになる。男性の有配偶率は60~64歳で85%ほど、35~39歳で65.5%ほどになる(2020年、こちらより)。これらひとつひとつの確率を見ると、それでもだいたい過半数の人の遺伝子が引き継がれているとうつるけれど、自分の代の男女、親の代の男女がそれぞれに相互選択や相互選別からあぶれなかった確率を掛け算していくと、なるほど、ママとパパを(そして祖父母を)選んで生まれてきたよ、と言いたくなるほどの確率になる。
 
してみれば、血筋はそれなり断絶しやすくなり、私たちは自然選択に曝されていないけれども性選択にはそれなり曝されていて、今、生まれてくる子どもはその性選択の所産であるわけだ。
  
その性選択の所産である、いまどきの子どもはどんな子どもだろう? 順当にいけば、親の代や祖父母の代に比べて、今日の性選択を潜り抜けてきた世代にふさわしい遺伝形質を持った、そのような子どもだろう。いや、「今日の性選択を潜り抜けていない人の遺伝子は継承されていないが、今日の性選択を潜り抜けた人の遺伝子だけが継承されている」という表現のほうが適切か。もちろん二代程度の性選択では、たとえ親の代の有配偶率が現代並みにシビアだとしても、進化といえるほどの変化は起こりそうにない。
 
でも、こうしたことが向こう五十年、百年と続いたら?
十分に移民が流入したり(未来の日本にそんな魅力があるだろうか?)、異民族が侵入し男が殺され女が攫われるような出来事が起こったり(いったいいつの時代だ?)しない場合、今日の性選択を延長線上のような、いまどきの子どもから感じられる傾向を強調したような子どもが生まれてくる、のだろう。それは進化と呼ぶほどのものではなかろうし、そもそも、文化からの重たい影響によって遺伝形質の僅かな変化はマスクされるに違いない。
 
文化の急激な流れに比べれば人間の進化の速度はずっと遅い。けれども性選択を何代も何代も繰り返していれば、それは、環境からの選択をとおした進化を人間に促し、人間はわずかずつでも変わっていくだろう。生物学でいう evolution というものの理屈としてはそうだろう? 日本という範囲に絞っても世界全体という範囲に広げても、人間はいちおう、僅かずつであっても環境によって選択・選別されて、そのプロセスをとおして進化をし続けているはずである。そして今の環境から選択される男女とは、狩猟採集社会当時に選択された男女とも、中世暗黒時代に選択された男女とも、だいぶ違っているはずである。
 
だからどうした、という話ではある。が、年の瀬の街で子どもの歓声を聞き、その親たちの容姿や身のこなしをみているうちに、ふと人間の進化について連想してしまったので、備忘録的にこれを書いた。たとえば今の日本の環境で人間の遺伝形質が変わっていくとしたら、それは自然選択によるのでなく、性選択によるに違いない、と思いながら。