シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

「いつも異性選びで失敗する」→「自由意志に逆らうしかあるまい」

 


 
人間は、くっつくべき人間とくっつく。
 
これは本当のことである。
人には好みがあり、同じタイプの異性に惹かれ続け、その傾向は簡単には変わらない。だから学生時代や社会人一年目の恋愛で大失敗した人が、二十代の後半になっても、三十代の半ばになっても、同じ傾向を持った異性を選好し続けて、疲弊し続けることはまったく珍しくない。むしろそれが娑婆の因縁メカニズムに基づいた平常運転なのだとさえ思う。
 
ここで、娑婆の因縁メカニズムという変な言葉を使ったが、これは、私が聞き知った(仏教の)因縁という考え方にもとづいている。
 
世間では、仏教由来っぽい言葉として「因果」が有名だが、実際に仏教的なのは「因縁」であり、娑婆、つまり世の中で起こっている出来事も因果関係よりも因縁関係にもとづいて考えたほうがうまくいく。
 
というのも、因果(因果関係)とは、原因と結果が一対一の出来事に用いるべきで、対して世の中で起こっている出来事の大半は、複数の原因や要因から生じて、その結果も単一ではなく、さまざまな結果に波及していくのが一般的だからだ。
 
で、ほとんどの人から見て間違いなくハズレな男に必ず惹かれてしまう女、間違いなくハズレな女に必ず惹かれてしまう男……というのはよくいるものだ。「蓼食う虫も好き好き」という諺では、こうした男女のありさまは説明しきれない。なぜなら、そうした男女は毎回のように選んでしまうそうした異性に満足しているわけではないからだ。DV癖のある女性を毎回選んでしまう男性、借金癖のある男性を毎回選んでしまう女性は、常に苦しんでいる。にも拘わらず、せっかく異性と別れてせいせいしたと思いきや、数年後には似たタイプの異性と連れ添っている。
  
こうした「いつも同じタイプの異性を選んで苦労してしまう人の話」については、かつて、精神分析の世界で盛んに話題にされていたし、たとえばこの『夫婦関係の精神分析』などは大変興味深かった。この本では、異性の選択を(精神分析の概念にもとづいた)精神病理性と結びつけて、複数のパターンを例示して説明している。
 
でもって、この本は良くも悪くも誠実な精神分析的書籍だ──つまり、現実無視の理想論には陥っていないのである。だから人間理解や娑婆ウォッチの手引きとしては信頼できる一方、本当に困っている人の助けにはあんまりならない気がする。少なくとも当事者がこの本を読み、頭で考えて自分の恋愛や婚活をアレンジするのは難しいので、ライフハック書としておすすめすることはできない。
 
そうしたわけで、私が異性の選択で失敗している人のソリューションとして精神分析的なアイデアを連想していたのは10年ぐらい前までで、それ以降、精神分析的に考えるのはやめてしまった。
 
それと、異性の選択には遺伝子の関与がある。服を着て法律を守って暮らしているようにみえる人間だって、配偶という次元では案外動物だ。その動物が、免疫学的事由なども含めて、たとえばにおいなども込みで異性を選択しているきらいがあるのは、まあ間違いないだろう。精神分析的なアイデアは、こうした本能的選択まで込みで考えるには向いていない。
 
 
それなら、精神分析が得意な生育環境の問題と、生物学的な遺伝の問題をまとめて考えるのに適したワードは無いものか?
あるじゃないか!
それが仏教でいう因縁だったというわけだ。
 
では早速、この問題を因縁に基づいて考えてみよう。すると、だいたい以下のような感じになってしまうだろう。
 
「人間は、くっつくべき人間とくっつく。なぜなら、家庭で育まれた病理性、生まれ持っての遺伝性、それからどんな場所でどんな人間と巡り合うかの縁の問題は、すべて因縁のなした結果と言えるからだ。」
 
となる。じゃあ、その因縁をもたらす原因や要因を分析して、未来を予測したり、未来を変更したりするにはどうすればいいんですかと考えると、仏教に忠実に考えるなら、以下のような答えになると思う。
 
「因縁をもたらすさまざまな原因や要因をすべて考慮し、そこから未来を予測できるのは、人間には難しい。仏教的にそれが可能なのは、如来だけである。ちなみに如来は、釈迦牟尼か、あとは形而上の存在だからよろしく。」
 
……まるで役に立たない。
 
いまどきは仏教にも色々あって、護摩壇に火を焚いて現世利益を謳うものや、念仏を唱えれば来世はなんとかなりますと宣伝するものもある。けれども、こと、因縁という考え方に基づいて配偶者選択をうまいことやろうと思っても、私たちには上手くいきそうにない。少なくとも如来のように、ズバリ未来を予測したり、自在に未来を変更したりってわけにはいかないだろう。
 
加えて、因縁の考え方次第では、自分の自由意志がなんとも頼りない気がしてくる。いや実際、自由意志とは(欧米の)近代個人主義社会が要請した概念として存立しているのであって、その要請を剥がして自由意志を点検すると、案外フニャフニャしていて、頼りなく見えるのだけど。そうした近代個人主義社会の要請をひっぺがし、因縁という考えにもとづいて点検する自由意志は、流されがちな、意のままにならないものである。今まで自由意志だと思っていたものが、(家庭や社会環境や遺伝子といった)過去の因縁にもとづいて構築されていると考え、それが毎回救われない恋愛や配偶を"自己選択"していると考えた時、なんだか救いがないように思えてこないだろうか。
 
そのうえ現代社会は自由恋愛化しているので、お見合いとか、会社の仲人とか、イエの押しつけとかで配偶が起こることはまずない。自由恋愛は、自由意志にもとづいた恋愛や配偶を可能にしてくれるが、まさにそうだからこそ、自分自身に内在する諸要因によって異性の選択に毎回失敗している人を、必ず失敗させてしまう。自分自身に内在する病理性や遺伝的素因が異性の選択に影を落としているタイプの人にとって、自由恋愛とは、出口なき永遠の輪である。
 
でも、ここまで考えると、因縁を自由に操作するとまではいかなくても、ある程度揺さぶる方策が見えてくる。
 
自由意志に対する反逆。
 
これが、自由恋愛の、出口なき永遠の輪から抜け出すための突破口になる。
 
いつも同じように恋愛や配偶で失敗する人は、自分の意志や選好、直感といったものをあてにしてはならない。まったくあてにしてはならないわけではないとしても、どこか、逆らってかかる部分がなければ次の恋愛や配偶も同じように失敗すると思ってかかったほうがいいだろう。そのうえで、自分が望みもしなかったパートナーシップで満足している人の選好に身を委ねてしまえば、たぶん、同じ失敗は起こりにくくなる。お見合い的な、誰かの紹介にもとづいた出会いでも良いかもしれない。
 
こうした、自由意志に対する反逆を100%やろうとすると著しい苦痛を伴うし、"逆張り=必ずアタリ"というわけでもないので、「どんな反逆なら望ましいのか」という問題はついてまわる。また、自分自身の病理性があまりにも深刻すぎるために、どんなパートナーと巡り合っても、そのパートナーを同じように変質させてしまう、そんな人にもこの方法は通用しないだろう。それでも、自由意志に忠実すぎると同じ轍を踏むという隘路にくさびは打ち込める。
 
この結論を過度に単純化するなら、「男運や女運のない人は、自分のセンスを信じるな。」となるのかもしれない。けれども、その結論にたどり着くまでのプロセスとして、私は因縁の考え方がどうしても避けて通れないので、こういう考え方をとおして、こういう結論にたどり着くことになる。
 
 

じゃあ、誰のセンスにチップを賭けるべきか

 
ところで、「男運や女運のない人は、自分のセンスを信じるな。」と考えるに至った後、じゃあ、一体誰のセンスをあてにすれば良いのだろうか。
 
恋愛コンサルのいうことだろうか。
そうかもしれない。けれども不特定多数に向かってアナウンスされているアドバイスの場合は、自分にどこまで当てはまるのか、それとも当てはまらないのかの判断が難しいように思う。
 
じゃあ、自分によく当てはまるアドバイスを的確に与えてくれるのは誰なのか。自分のことをよく知っていて、自分のために骨惜しみしない親しい第三者のアドバイスが可能な表向きの人物は、親である。ところが親は遺伝的にも環境的にも因縁が深すぎるので、自分の自由意志とあまり変わらない欠点が親のアドバイスにしみこんでいる可能性は結構高いと思う。親のアドバイスがあてになる度合いは、親と自分自身の関係性や、親自身の配偶や恋愛がどれぐらい成功裏に進んだのかによって大きく左右される。
 
だから、配偶や恋愛を親のアドバイスに基づいて決めてしまうのは、案外危ないかもしれない。とりわけ親自身の配偶や恋愛がひどいもので、その結果としてあなたの家庭環境が情緒的に良くない環境だった場合はそうだ。
 
「じゃあ、そのような個人はむしろ親の逆張りをしたらいいんじゃないか?」と思う人もいるかもしれない。が、親の逆張りも難しい。前掲の『夫婦関係の精神分析』でも触れられていたが、親の逆張りを意識するあまり、逆にコインの表裏のような失敗にたどり着いてしまう人をよく見かけるからだ。たとえば自由意志の制限された結婚をして苦労した親の子が、自分の代になって自由恋愛や自由意志にこだわるあまり、硬直したパートナーシップしかできない……なんてことはよくあることだ。
 
親より、たとえば叔父さんや叔母さん、少し年上の仲の良い親戚などにアドバイスや参照先を求めたほうがいいんじゃないかと私は思っている。なんなら高校や大学の先輩とか、尊敬できる職場の上司でもいいかもしれない。そうした人々の、自分とは異質な配偶者選択の方法論や考え方を導入すると、自由恋愛下の因縁の牢獄を突破できるかもしれない。
 
 

社会が自由だからこそ、自分自身に束縛される。

 
この自由恋愛の領域に限らず、なにごとにつけ選択の自由度が高い領域では、その選択には、より純度の高いかたちで自分自身の良いところも悪いところも反映されがちだ。でもって現代社会は、まさにそのような社会なので、自分自身の弱点や欠点をどう回避しながら、強みや長所をどう残すのかがすごく重要な課題になっていると私は考えている。その際、私なら因縁という概念で考えると整理がしやすい。たぶん、他の概念でも整理はできるように思う。
 
 
ここ2ー3年の私は、社会制度やアーキテクチャによって人間が束縛される話ばかりしていたので、こうした、自縄自縛によって同じ過ちを繰り返すタイプの話はしばらく忘れていた。でも、本当はこの種の自縄自縛についても喋りたいし、これは、娑婆の重要な一部をなしている現象だと思う。
 
人間はさまざまな次元で不自由な存在だ。そのさまざまな次元の不自由とどう折り合っていくのかが渡世のコツでもあり、社会問題でもあるよう思われるので、来年以降もそういうことをブツブツ書いていくブログをやっていくつもりです。