シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

どんなアニメ・ゲームをやっているかで人間を値踏みする勢は減ってないか、増えてるのでは

 
今日は2年ぶりにコミックマーケットが開催されたそうで、うちのタイムラインは、それを寿ぐ画像やメンションでいっぱいになった。そういえば、私はもう10年近くコミケに行ってない。今行ったら自分は年寄りだろうなとも思ったりした。
 
ところでコミケも含め、いわゆるオタク界隈とみなされる領域から発展した諸コンテンツの一般化、カジュアル化がいわれて久しい。新世紀エヴァンゲリオンの頃も、涼宮ハルヒの憂鬱の頃も、まどか☆マギカの頃もそれは言われていた。2021年の歌番組にウマぴょい伝説が登場するのも、そうした変化の帰結と言えるかもしれない。
 
だからアニメやゲームを楽しんでいるといってオタクとは限らない、と言いやすくもなった。そしていわゆるキモオタとは、キモいコンテンツに夢中になっているからキモオタなのではなく、主な趣味がSFや漫画やアニメやゲームだからキモオタなのでもなく、当人自身の(挙動も含めた)外観の問題と広くみなされるようにもなった。
 
「あなたがキモオタとみなされるのは呼ばれるのは趣味のせいではなく、あなたがキモいからです」という、例のやつだ。
 
では本当に、界隈のコンテンツはキモオタのあらわれではなくなったのだろうか?
 
たとえば新海誠の人気映画を観に来ているお客さんを眺めていると、そうだ、と言いたくもなる。今、新海誠を観ているからといってキモオタのあらわれとみなす人はあまりいないだろう。シン・エヴァンゲリオンにしたってそうだ。
 
けれども全てのコンテンツが一律にそうなったわけではない、気がする。選んでいるコンテンツやコンテンツの消費態度のうちに、何らかのヒエラルキーを読み込む筋はいまだに存在していて、キモオタとまではいわなくても、あまり褒められない風にみられやすいコンテンツ、鼻で笑われやすいコンテンツの消費態度といったものは健在なんじゃないだろうか。
 
というより、そういう読み筋に基づいてアニメやゲームを見る向きが案外強まっていたりして、ソーシャルな差異化のメカニズムの一端としてあてにされていたりしないものだろうか。
 
 

「でも、就職した女子はそういうアニメやゲームがバレないようにするものなんです。」

 
話は2010年代の中頃に遡る。
 
そのとき私は、前途有望な20代の集まりに参加する機会をいただき、いまどきの世間だの、グルメだの、適応だのについて意見交換していた。そういった場では、90年代のオタクのオフ会とはずいぶん違った話題も出るし、考え方も出る。たとえば涼宮ハルヒの憂鬱が話題に出るとしても、それをどのように位置づけ、どのように語るのかのアングルはだいぶ違うと感じたりした。
 
宴がお開きになり、レストランから駅に向かう道すがら、私はある女性の執筆者としゃべっていた。間違いなく前途有望な執筆者で、アニメやゲームについてもよく知っていた彼女は、レストランでの話の続きとして、私にこんな風なことを言ったのだった。
 
「でも、就職した女子はそういうアニメやゲームがバレないようにするものなんです。」
 
まあ確かに。たとえば病院で若いナースが休憩中に、ソーシャルゲームをいじっていたりアニメを視聴していたりするのを見かけることはあるけれども、彼女らがそういうコンテンツを楽しんでいることを大っぴらにするようなことはない。いや、そういう話ではないな? 彼女の語る「バレないようにするものなんです。」には、職場で公言しないという意味に留まらないニュアンスが宿っていた。強者女子というか、ハイクラス女子というか、そういった女子はアニメやゲームを楽しんでいると友達にも知られないようにするといった意味だった。アニメやゲームを楽しんでいるとバレたら女子としての、または社会人としての「格」が下がるということなのか。
 
まあ、ハイクラスな女子ともなると、そういうものかもしれないな───当時の私は、それ以上深く考えるのをやめた。
 
ところがそれ以降も、類似点を感じさせる話が、とりわけ前途有望な若者の集まりでしばしば聞こえてきたのだ。
 
彼ら彼女らも、確かにアニメやゲームを楽しんでいる。『君の名は。』や『天気の子』は観ているし、スマホにはなんらかのゲームがインストールされていたりする。けれども彼ら彼女らの言葉尻からは、なにやら、"アニメやゲームを楽しみすぎるそぶりは見せすぎるものではない"といったような、それか、"アニメやゲームを楽しむそぶりには礼法や節度がある"かのような、そんなニュアンスが感じられた。
 
そして幾つかのコンテンツに関しては、poorな人間が嗜むものであるといった、哀れみの響きさえ感じられたのである。
 
最近、自分よりもずっと若い人々がスクールカーストについて語っている場面に出会ったけれども、そこでも、いわゆるオタク的な趣味はローカーストということで意見の一致をみていた。対して昔から人気の運動部や一部の文化部がハイカーストとみなされていたのは言うまでもない。
 
 

趣味で人間を値踏みするまなざしはたぶん健在

 
ということは、アニメやゲームがこれほど一般化・カジュアル化したといっても、アニメやゲームがメインの趣味だと周囲に知られるのは、いまどきの思春期男女にとってもリスクやコストを伴う選択なのだろうか。あるいはハイカーストに属することができない人間の表徴とみなされるものなのだろうか。
 
フランスの社会学者のブルデューは、人々の趣味や所作と、文化的なヒエラルキーや位置づけについてさまざまに論じた。
 

 

 
たとえば小説愛好家とひとことで言っても、どんな小説を読んでいるか、どう小説を読んでいるのかによって上掲図のような体裁の違いがあり、それは小説愛好家同士の間では意識されるものだろう。こうしたことは自動車の選択にも、衣服や音楽の選択にも、食事の選択にもしばしば当てはまる。それならアニメやゲームにだって、きっと当てはまるだろう。
 
アニメやゲームが一般化・カジュアル化したこと、その見立て自体は間違っていない。
けれどもそれらがカジュアル化していくなかで、どんなアニメやゲームを選んでいるのかや、どうそれらを楽しんでいるのかが、文化資本のマッピングや人間評価のヒエラルキー軸に組み込まれてしまった向きも、あるように思う。90年代まではアニメやゲームのほとんどを嘲笑していた層、いわば、人間評価のヒエラルキーを差配しているハイカースト層までもがアニメやゲームをたしなむようになった結果として、アニメやゲームもまた、どれを楽しんでいるのか・どう楽しんでいるのかが峻厳に評価され、意識される標的になったってのはありそうな話だ。
 
これは穿った見方だろうか?
かもしれない。
けれどもこうした見立ては、2010年代後半に私が出会った前途有望な若者たちの、アニメやゲームに対する繊細な感覚とよく合致している。あるアニメやゲームならばハイカーストにも楽しまれやすく、あるアニメやゲームならばハイカーストに敬遠されやすい──そういった向きがあるとしたら、キモオタか否かはともかく、人間評価のヒエラルキーを左右する要素として、アニメの趣味やゲームの趣味が問われずにいられなくなるだろうし、くだんの女性執筆者が語ったように、自分のヒエラルキーを守るために一部のコンテンツを隠す、またはそういったコンテンツに近づかないといった処世術も要請されるだろう。
 
それじゃあ、オタクであるとバレるのが恐くて「隠れオタ」をやっていた頃と同じか?
 
……いや、同じとは言えない。もはやアニメやゲームは、カウンターカルチャーというよりメインカルチャーだ。だからハイカーストな人々も嗜むようになり、その選び方や嗜み方が問われるようになったという点では、濃いオタクだけがそれらを楽しんでいた時代、うるさいサブカルだけがそれらのヒエラルキーを論じていた時代とは違っているだろう。
 
で、私は。
 
私のように中年になるまでアニメやゲームを愛好し続け、その趣味があまり良くないと自覚している人間は、定めし趣味の悪いローカーストな中年とみなされやすいのだろう。ああ、痛いなあ。私はそのようにまなざされるリスクを冒しているわけか。オタクだからキモいと言われる時代じゃなくなっても、その選好、その所作がローカーストなのだとしたら仕方ありませんね。
 
だからといって、自分の趣味を改める気があるかといわれたら、ノーだ。ある先人は、「オタクとは、自分が好きなものと自分が好きではないものが選べる人間、そのうえで自分が好きなものを選ぶ人間」と言っていた。私は、自分が好きなものを選ぶ人間であることを大事だと思っている。そのために他人からの評価が下がることも承知のうえで、このままの中年でいたい。