シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

良いところも悪いところもあった映画『トラペジウム』

※この文章は映画『トラペジウム』のネタバレを平然と含んでいます。心配な人はブラウザバックしてください※
 


 
前島賢さんがおっしゃるには、映画『トラペジウム』はロールシャッハテストであるという。実際、X(旧twitter)では色々なオタクの人がこの作品について色んなことを言っているのを目にした。そこで私も観に行ってみることにした。噂にたがわず、お客さんは少なかった。
 
「アイドルを目指す主人公が、東西南北(仮)という四人組をつくってアイドルを目指す作品、今流行のギスギスシーン有り」と書いてしまえばありがちに聞こえるかもしれないけれど、なんというか、すごく変わった作品だった。私自身は、面白いと感じた。でも私が面白いと感じたのはこの作品から面白さを汲みあげてやろう・面白くなさもしっかり探してやろうと身構えていたからだと思う。この作品の序盤はそういう身構えた視聴態度に向いていて、つまりアニメをねっとり視聴しようと考える人・ねっとりと視聴したい人は序盤から作品に踏み入っていくことが可能だ。でも、アニメ映画をもっと楽な姿勢で眺めていたいお客さんを作品世界にご案内するようにできているとは言えない気がした。
 
そういう、みずから作品に踏み入っていくことを要求する作風・踏み入っていけば面白味や気配りがみえてくる作風はアニメフリークな人にはたまらない点かもしれないけれども、この作品を広く遠くに流行らせるには問題があるように思えた。
 
 
 
以下、感想というほどまとまっていない、映画『トラペジウム』を観て思ったことを書き残してみる。
なお、これを書く半日ほど前に小島アジコさんらとごちゃごちゃと意見交換し、そこで見聞きした話から影響を受けていると思うので、そういう前提だと思っててください。その小島アジコさんは、映画『トラペジウム』について以下のような投稿をXにしています。
 
私はアジコさんがこう書いていたので not for me だと思ったけれども、映画館で眺めている最中は「いけるいける、面白い」と感じていました。今もそうです。
 
でも、これはどうかな。東西南北(仮)それぞれがみんな違うのも、願望や性格に違いがあるのもまあわかる。でも私は、南の子、西の子について一回きりの視聴ではわかった気がしませんでした。それで良かったのかもしれないし、そういうところも本作品の良さかもしれない。摩擦係数0のツルツルなキャラクターならともかく、実物の人間ってもやもやしていてわからないものじゃないですか。この作品のキャラクターたちには、そのもやもやに通じるものがあり、良かったように思われました。
 
 

人を選ぶ作品なのは間違いない

 
・この作品は、10代の友達関係、そのたわいもなく、脈絡もなく、一緒にワチャワチャやっているだけで楽しい時間の貴重さを思い出させてくれるし、主人公の東は最終的に格好良い大人になった様子だった。ただ、そういう理解に至るまでの道のりが険しい作品だ。ワインでいえば、「高いポテンシャルはあるけれども、最初の一口で初心者から上級者まで魅了するようなワインではなく、渋みと酸味で不慣れな人を狼狽させてしまうワイン」みたいな感じだろうか。
初心者から上級者まで魅了するワインに難しいところがないのと同様に、初心者から上級者まで魅了するアニメも難しいところがなく、楽しみ(の全部とは言わないが多く)はスクリーンの向こう側から勝手にやってきてくれる。でも映画『トラペジウム』はそうじゃないよね。視聴者がスクリーンに楽しみを取りにいかなければならないし、忍耐を強いられたり過去の古傷を思い出したりさせられる場面がある。東の言動は特にそうだ。
 
・序盤は、東がアイドル結成のメンバーを探しに行く場面が続く。一応アイドルものと仄めかされる描写はあるけれども、本当にそうなのかちょっとわからない気持ちになる。アジコさんは「まともな映画のまともなシナリオは最初の5分でどんな映画かテーマがわかるものだが、これはそうじゃない」とおっしゃったけれども、その意味では本作はまともな映画のまともなシナリオから逸脱している。「確かアイドルについての作品だよね?」みたいなことを思い出しながら、手探りで視聴しなければならない一面があった。
じゃあ、それが悪いことだったかといったら、そうとも言えない。この作品は東が自己中心的にアイドルを目指してしまうストーリーが目立つ一方で、東西南北(仮)の四人組が友達として色々なことをやって思い出を作っていくこと、それを通して変わっていくことも大きなウエイトを占めていて、後者が本命だったとさえ言える。だからアイドルっぽさの目立たない序盤の展開は、本当は、この作品の通奏低音を観測しやすいパートでもあるのだけど、初見の段階ではその構図に気づけず、「こいつら、何やってるんだ?」感のほうが強かった。東のノートがアイドルを目指していることを示唆しているのはそうだけど、実際には東がノートで予定していたとおりにはならず、それをどう解釈すべきかが初手ではわからない。繰り返すが、それが悪いことだったかといったら、そうとも言えない。後から思い出すとあれで良かったんじゃないの? とも思える。
 
・なにより主人公の東のくせが強すぎる。あのメンバーのなかで東だけが本当にアイドルを目指したがっていたが、結局それは自己中心的で、東西南北(仮)は崩壊してしまう。Xでは、この東を非常に悪く書いている人もいたが、それは無理からぬことと思う。制作陣はこうなることを覚悟のうえで彼女をああ描いたのだろうし、彼女の成長過程の一部として重要な描写だと思ったけれども、とにかくきつかった。「きつければきついほど良い」みたいなハラペーニョ依存っぽいアニメフリークには受けがいいかもだけど、私はもう少し甘口のほうが好きなので、とても、しんどかったです。
 
 

でも、この作品だからこその魅力・表現はあるよね

 
・そんなこんなで難しい作品だったけれども、いいものを見せてもらった、という感想が残った。アジコさんは、「ハレとケ」という表現を用いて、アイドルというハレの体験に対してケの体験が重要だ、といった表現をしていたけど私も同感だ。私だったらケの体験を「十代の友達同士がただたむろっている体験」とか「戦略性とか抜きに、友達同士でワチャワチャやっていられる体験」って呼ぶだろう。あの四人組の未来を支えるのは東のアイドル戦略に沿った体験ではなく、一緒にできることをただやっていた体験のほうで、それって十代の青春においてめっちゃ大事なエッセンスだったよね、ということを本作品は強く思い出させてくれた。
 
・この視点では、アイドルを目指しているのか不明瞭に見える序盤が、まさにケの体験、十代の青春の一部だったんだなと思い出される。高専のロボット大会準優勝も、夏の花火も、ボランティアも、戦略的にやって戦略的に成功したかどうかは本当は重要ではなかった。そのとき友達同士で一緒に楽しんでいたことのほうが重要だった──そのようにこの作品は描かれている。でもって、それはアイドルを目指す過程もそうだったのかもしれない。テレビ番組に備えて自主練をやっていた頃、東だけでなく他の三人もキラキラと輝いていた。つまり自主練をやっていた頃の東西南北(仮)は(東の戦略にとってそれがどうだったのかは別にして)ケの体験の領域に属していて、十代の青春をちゃんとやっていたのだった。ところが大人の領域に進出するなかで東の戦略性の有害性があらわになるようになり、ついに東西南北(仮)は壊れてしまう。
 
・私は、東西南北(仮)のみんなは「ちゃんと壊れてくれた」と思った。壊れるまでのプロセスは見ていていやな気持ちでいっぱいだったが、全員壊れてくれたこと自体にはホッとした。西の子が最初に壊れた。無理してたから。北の子も彼氏の問題が露見し、南の子もちゃんとギブアップしてくれた。南の子は流れに身を任せるのが得意な人っぽかったが、それが出来過ぎるのも考え物だ。でも友達が壊れていくなかで彼女自身もちゃんと壊れることができていた。壊れるべき状況下で壊れるのは、とても大切なことだと思う。10代だったら尚更だ。
東だってちゃんと壊れていた。あの東西南北(仮)が終わってしまう場面の彼女の振る舞いは、単なる自己中心的な行動のそれを超えていて、タガが外れていた。でも彼女は自分が友達にやったことを振り返ることができるぐらいにはマトモで、ベランダではきっちり泣いていた。あのベランダのシーンの直前、母親(?)から「良いところも悪いところもある」と言われていたシーンが私のお気に入りだ。作中の東、ひいてはこの作品を表現する言葉として「良いところも悪いところもある」という言葉ほど似合うものはないし、あの時の東にはその一言が必要だった。もし、東が自分が友達にやったことから逃げ続け、自己欺瞞を貫こうとしていたら自己欺瞞に食われていたかもしれない。
 
・東はいつもアイドルのことを考えている。そのせいで、東は友達同士の時間を作る側でなく削る側……と、思い込んでしまいそうになる。でも、そうとも言い切れない。アイドル活動だってある時期までは「一緒にできることをただやっている体験」のひとつとして東以外には体験されていたんじゃなかっただろうか。もしそうだとしたら、東が持ってきたアイドル活動は北の子が持ってきたボランティア活動や西の子が巻き込んだ高専ロボット大会と(ある時期までは)並置されるべきことだったのかもしれない。あと、アイドル以外の活動をやっている時の東の顔って、はじめは曇っていてもだんだん良い顔になっていくんですよね。東のそういう性質はとても良かったと思う。
視聴者の視点から見ると東の自己中心性やアイドル活動の厳しさが意識されるけれども、西の子は西の子で、北の子は北の子で、それぞれのやりたいことを友達に付き合ってもらっていた。高専ロボット大会で準優勝ってのは巧いところで、「もし、あの時優勝していて西の子中心の物語に向かっていたら」というifを連想させる。その際には、それぞれの立場が入れ替わっていたかもしれない。
 
・ボランティア活動の話の時に、北の子が「ボランティア仲間じゃなくて友達って言ってよ」的なことを言って怒っていたのが、すごく効いていると思った。この作品、そうやって友達同士でワチャワチャやっている時間が大事なんだってサインはちゃんと視聴者に送ってくれているわけだ。この台詞は、その後アイドル活動に飲まれていって生気と正気を失っていく彼女たちの姿と一貫性があり、納得感がある。これと正反対の台詞が、東が北の子にぶつけた「彼氏がいるなら友達にならなければ良かった」だ。これは北の子にとって耐え難い一言だったはずで、転じて、「アイドル目当てで付き合っているなら友達にならなければ良かった」というかたちで東自身に跳ね返ってくる呪いの一言でもあった。
繰り返しになるが、このあたりの東の言動は見ていて本当に辛かった。東自身も呪いに焼かれ、反省もし、そののち、仲間たちと一緒に成長する。大きな過ちがチャラになり得るのも10代の友達同士だからこそ*1だとも言える。ラストの描写もいいだろう。でも、そうした色々を許せるのは、私にとってかなりぎりぎりのことで、私自身が「一緒にできることをただやっている体験」や「ケの時間」を高校時代に積み重ねてきたと感じていることに支えられている。もし、私がそうでなかったら東に対して堪忍袋の緒が切れていたかもしれない。
冒頭に貼り付けた前島賢さんのXのポストを思い出す。東西南北(仮)が破綻を迎えるシーンでは、強烈なエモーションが喚起される。あの、客観的になりきりにくい時間帯に自分自身の高校時代や友達関係を思い出さずに視聴し続けるのは至難の業だから、そこが本作品の感想に直結するのは避けがたい。
 
・そうである以上、まだ10代を経験しきっていない現在の中高生が本作品をどのように受け取るのかは興味があるけれども、10代の人がこのアニメに吸い寄せられるかは、正直よくわからない。
 
 
はじめは2000字ぐらいにまとめようと思っていたけれども、書き連ねるうちにこんな長さになってしまった。それは私なりにこの作品にエモーションを掻き立てられ、青春の一幕を思い出したからなんだろうけれど、それだけで言い切った気にはまったくなれないし、なぜこのような映画が眼前に現れたのかも正直よくわからない。そういうよくわからないアニメ映画を鑑賞できたことは、とても良かったと思っています。
 
 

*1:大人の間であれが起こったら許しがたいだろうし、そもそも大人の間で本作の物語のような出来事は、本作で語られるようなかたちでは起こらない