シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「向精神薬で自意識や虚無感の悩みが治る?」&「近代に根ざした自意識や虚無感は時代遅れでは?」

 


 
6月25日、小島アジコさんが上掲のような投稿をXにしているのを見かけました。でも、あまりに忙しかったから私は、「向精神薬は個人の気分や行動に作用するし精神疾患に有意差のある改善をもたらすけれども、自意識や虚無感の問題は解決してくれないんじゃない?」とXに書きました。ただ、これは返信の半分(をダイジェスト化したもの)でしかなく、7月になったらブログにまとめよう、と思っていました。
 
そうしたら、アジコさんのほうが手が早くて、6月27日に「物語のパターンは既に出尽くしてる問題に絡めてだけど、近代に流行した鬱屈とした自意識や虚無感、20世紀後半にいい薬がたくさん発明されたおかげで「心療内科にいってお薬を飲めばいいのに」で解決してしまって、物語としての強度を保てなくなってる件について」という長い長いタイトルのブログ記事を書き足してらっしゃいました。そちらを横目でチラチラと見ながら、私は私なりに「近代に流行した鬱屈とした自意識や虚無感」のこれまでとこれからについて書いてみます。
 
 

1.向精神薬は自意識や虚無感を「治して」はくれない。

 
まず、向精神薬は自意識や虚無感を「治して」くれるかどうか。アジコさんは、6月27日のブログ記事のなかで"向精神薬の内服で感性が変わった人が書き記したはてな匿名ダイアリー"を引用しているけれども、私には、自意識や虚無感を「治して」いる例証として不適切だと思いました。なぜなら、当の匿名ダイアリーの筆者は向精神薬によって自意識や虚無感が変化したビフォーアフターを書いているのでなく、向精神薬によって感覚や感性が変化したビフォーアフターについて書いているからです。この匿名ダイアリーの筆者が書き記したように、向精神薬は感覚や感性にしばしば作用します。気分の高低や起伏に作用するものも多いです。しかし、それらの薬効は、まず大原則として【統合失調症や双極症*1やうつ病の病状を評価するスコアをプラセボと比較して有意に改善させた】点にあるのであって、本当にそれらの疾患の首根っこを押さえつけているかすらわからず、当然ながら、ここでいう自意識や虚無感を「治す」ことを目指して臨床投入されているわけではありません。
 
ですから、向精神薬が鬱屈とした自意識や虚無感を「治す」かどうかについて、最もフォーマルな回答は「そのようなエビデンスは存在しません」ではないかと思います。
 
続いて、実際に臨床現場で向精神薬を処方している者として書きます。
さまざまな病態・病状・個人史を持ったそれぞれの患者さんに、抗うつ薬や抗精神病薬や気分安定薬を処方し、経過をみる時、その人の自意識や虚無感が薬物療法で「治った」と感じることはありません。それらの向精神薬が、患者さんの症状や病状、ひいては感覚や感性や気分を変えた結果として、患者さんの自意識や虚無感に関連した諸問題が解決に向かって動き出すことはままあるため、自意識や虚無感のことで悩んでいる人に向精神薬が役立つは可能性はあります*2。が、少なくとも向精神薬単体で、鬱屈とした自意識が改善する、虚無感が軽減する、といったことはないよう思われます。
 
そもそも向精神薬って効果発現の時間が短いですよね。
たとえば睡眠薬のたぐいは速やかに効果が発現します。効果が出るのに時間がかかると言われる抗うつ薬でも、数週間あれば効果が発現するし、それぐらいで効いているか否かを判定していいことになっています。でも、自意識の悩みや虚無感って、そんな短期間には「治らない」じゃないですか。
 
たとえば私自身を思い出すと、鬱屈した自意識や虚無感は20代の頃には強かったけれども30代にはだいぶ軽減し、40代には一年に数回程度発作的に蘇るぐらいになりました。変化の時間的スケールがすごく長かった。そうした長期的な変化に向精神薬がどれぐらい役に立つのかは、判定が難しそうですね。ただ、たとえば社交不安症の人がSSRIを内服した結果、対人関係や社会適応が大きく変化し自意識の悩みや虚無感が薄れていくチャンスを掴んだ、みたいなことは起こり得ると思います。ただし、そのときも向精神薬が直接的に自意識や虚無感を「治す」のでなく、症状や病状を改善させることをとおして間接的に「治すお手伝いをする」といった具合に、控えめに期待しておきましょう。
 
さきほど私は、社交不安症の人を挙げて「対人関係や社会適応が大きく変化したら」と書きました。
ここから思うに、自意識の悩みや虚無感を本当に「治す」のは、対人関係や社会適応ではないでしょうか*3。言い換えると、それは友達の有無だったり、パートナーの有無だったり、社会的なステータスや収入だったり、社会貢献をしているという手ごたえだったり、自分が生きていて構わないと思えるレゾンデートルだったり。
 
承認欲求や所属欲求(ひいてはナルシシズム)の安定的充足、そのための布置ができているか、できていないか、という捉え方も可能かもしれません*4。自分にとって望ましく感じられる人間関係に包まれていること、自分がここにいて誰かのためになっていると感じられていること、等々は自意識の悩みや虚無感にとって重要なことで、逆に言うと、そうした対人関係の成立が困難になっている境界性パーソナリティー症にあっては、自意識の悩みや虚無感が大きくなりやすいのは当然でしょう。
 
あるいはADHDの患者さんでも、その症状や病状が対人関係や社会適応を大きく妨げている場合、自意識の悩みや虚無感が大きくなりがちなのはそうだと思います。でも、ADHD治療薬がそうした症状や病状を改善させた結果として患者さん自身の自意識の悩みや虚無感が(長い時間の果てに)改善していく場合でも、それはADHD治療薬が「治した」のでなく、ADHD治療薬を助けとしながら患者さん自身が対人関係や社会適応をうまくやってきたおかげじゃないのかな、と私なら考えます。
 
ですので私は、向精神薬は自意識や虚無感を「治して」はくれない、病状や症状によっては「治すお手伝いならしてくれるかも……」とここでは答えておきます。
 
 

2.そもそも、自意識や虚無感が語られること自体、減っているのでは

 
ところで、自意識や虚無感の悩みって、昔ほど積極的に患者さんが言語化しなくなったと感じています。00年代に精神科医をやっていた頃は、患者さんからそうした悩みを聞くことは多かったものですし、(自分の受け持ちでなくても)院内の新患プレゼンの症例として目にすることもよくありました。でも今は、そういう自意識や虚無感の悩みを語る患者さんはあまり多くなく、新患プレゼンでもそういった症例は少なくなりました。
 
ですから、そもそも令和の日本人、特により若い日本人においては、昔に比べて自意識や虚無感の悩み、それこそ近代人にあってしかるべき懊悩といったものが観測しにくくなっているのではないか、という疑いを私は持っています。
 
現在でも、自意識や虚無感の悩みをしっかり抱えている患者さんが絶無というわけではありません。また、こちらから質問をすればある程度それに類する言葉を返してくれる患者さんもいらっしゃいます。でも、どことなく精神科医にしゃべっても仕方ないと思っている風だったり、自分の自意識の悩みや虚無感の輪郭をくっきりと表現できない様子の方が多いですね。自意識や虚無感の悩みをハッキリ表現できる人って、今はあまりいないよう思います。というより、自意識や虚無感の悩みを言語化するプロセスにあまり慣れていないのではないでしょうか。40~60代の患者さんのほうが、そういったことを上手に言語化してくれる、というより「ああ、この人は自意識や虚無感の悩みを語り慣れ、考え慣れているんだな」と感じさせることが多かったりします。逆に若い方は、高学歴でもそのあたりがこなれていなかったり。
 
それは年の功の問題でしょうか。それとも観測者としての私が年を取ったために、若い患者さんが「こんなおじさんに語ってもわかってもらえないから」と諦められているためでしょうか。私の用いる語彙が操作的診断基準に準拠していて、自意識や虚無感の悩みについて語り合うのに適したフォーマットになっていないからでしょうか。でも、私自身が診る患者さんでなく、院内の新患プレゼンの症例にも似た傾向がみてとれるので、やはり、自意識の悩みや虚無感が言語化されにくく観測されにくくなっている、少なくとも20世紀末~00年代あたりに盛んに語られた風にそれらが語られなくなっている、とは言えそうに思います。
 
だからといって自意識や虚無感の悩みがなくなったと言いたいわけではありません。それらの語られかた・現れかたが昔と違ってきているんじゃないのか、と私は疑っているわけです。アジコさんが述べたことにも繋がりますが、近代のマインドに即した自意識や虚無感の語られ方がすたれて、実際問題、マインドそのものも近代に前提とされたそれから遠ざかっているんじゃないでしょうか。
 
 

3.ポスト近代の自意識と虚無感とは

 
アジコさんは、自意識や虚無感の悩みについて、近代のマインドに基づいている的なことを書いてらっしゃいました。ちょっと引用すると、
 

 さて、やっと、近代文学の話になります。
 近代はざっくりと、神様が死んで、『人』が、大きな社会に属する一部品から『個人』となっていく時代です。個人主義。ゲマインシャフト(地縁や血縁などで深く結びついた自然発生的なコミュニティ)からゲゼルシャフト(利益や機能・役割によって結びついた人為的なコミュニティ)に移り変わっていく時代です。ゲゼルシャフトの下では、人は、常に『自分は何者か、何をもって個人として行動し、意思決定をするのか』を問われ続けます。自分の住んでいるコミュニティが自分を既定してくれない。自分で、自分を既定して、属するコミュニティを決めなければならない。自分で自分を定義する、その嘆きとかなんか辛いっていう感情をしたためて、みんなで共感できるコンテンツになったのが近代文学であり『近代に流行した鬱屈とした自意識や虚無感』であるわけです。

この文章に、大筋では同意します。近代のマインドは個人主義的で、自己決定的で、自由意志を尊重します。それから理性的・合理的な主体性が個人にはあるべきで、衝動的・非合理的な主体性は個人として好ましくない、みたいな前提もあるでしょう。でもって、そうした近代のマインドが内面化されているのに実際にはそれが実践できない葛藤のうちに近代文学の花が咲く、といった連想が浮かびます──たとえば夏目漱石『こころ』の"精神的に向上心のない者はばかだ"とか。それから近代のマインドは個人に一貫性のある歴史とアイデンティティを想定していて、その個人の歴史性やアイデンティティが動揺する際にも近代文学の花が咲く、といった連想も浮かびます。
 
では、こうした近代に想定されて、理想視されていた個人のあるべき姿は、今も信奉されているのでしょうか? また、どこまで成立可能でしょうか?
 
アジコさんも書いてらっしゃいましたが、個人主義(および個人主義という物語)はなんだか難しくなっていると思います。もちろん、今日でも個人主義者たれという規範が一応は存在しています。けれどもそれは規範でしかなく、みんなに篤く信奉されている物語とは思えないし、実践し甲斐のあるライフハックになっているとも思えません。もし、20世紀同様の個人主義が今でも信奉しやすい物語で実践し甲斐のあるライフハックだと思ってらっしゃる方がいたら、その人は、よほど近代という物語の枢要に近い場所でお育ちになっている人ではないかと想像したりします。近代の舗装がはげ落ちかかっている領域や、もともと近代の舗装が不十分だった領域ではもう、近代という規範は不器用な勉強家の努力目標でしかないように思われるのです。
 
実際には、私たちの心は行動経済学的にナッジされ、アーキテクチャの権力に管理されたりしているわけです。昔もそういうのはありましたが、現代のほうがそういうのが目立つし、そういうものに自分自身が晒され操作されていると自覚しやすいでしょう。そんな状況下で、近代というお題目、近代という物語を真正面から信奉するのは難しくないですか。信奉したってご利益なさそうじゃないですか。
 
そのうえ、私たちは(平野啓一郎的にいえば)「分人的」に生きています。
 

 
幾つものアカウントをつくり、ネットサービスごとに違ったポストを繰り返し、学校・会社・読書会・婚活、それぞれの場面で違った顔をする社会適応は当たり前のものになりました。かつて、そうした個々の場面で違った顔をするのは一部の職業・身分の人だけやっていた。でも今では誰もがそういうことに慣れてしまっています。個人のアイデンティティや歴史の観測者兼アンカーになっていた共同体がほとんどなくなった今、そもそも、個人のアイデンティティや歴史を一貫して観測可能なのは自分自身ぐらいのものです。しかし、その自分自身すら、いざとなったら垢消しして「なかったことにする」「黒歴史扱いする」時代じゃないですか。そんな今、個人のアイデンティティや歴史っていったい何でしょう? まして、その一貫性のある物語とは……?
 
個人のアイデンティティや歴史を一貫して観測できる人間がもう自分自身ぐらいしかいなくて、その自分自身も「分人的」に考え、いざとなったら垢消しして「なかったことにする」時代になってしまったら、「分人」の話は与太では済まされないものだと思います。かつて私は、こうした平野啓一郎的分人主義を「与太でしかない」と思っていましたが、でも時代が経つにつれて、人々のマインドが変わっていく方向は確かにこちらではないか、と思うようにはなったのです。
 
もちろん個人は「一貫性のある記憶」に未だ束ねられていて、決して解離などという症候学的語彙が当てはまる状態ではないのですが、それでも個人のアイデンティティや歴史に一貫性を期待し、強調する向きは20世紀と比較してゆるくなっていますし、地域共同体や血縁共同体といった個人のアイデンティティや歴史に一貫性を外側から提供してくれる装置が復活する見込みはありません。そうしたなか、個人のアイデンティティや歴史に「一貫性がなければだめだぞ」とみる圧力は乏しくなる一方だ、とも思われるのです。
 
とりわけインターネットの領域では「一貫性がなければだめだぞ」という圧力はほとんどゼロですからね。Aというアカウントでは会社や学校での活動を賛美し、Bというアカウントでは呪詛を並べ立て、Cというアカウントでは地下アイドルの推し活をやる……みたいなありようが、令和では当たり前になりました。もちろん90~00年代にもそういうありようが無かったわけではありません。でも、それがアーリーアダプターの特権からレイトマジョリティまで不可避になったのは大きな違いだと思います。それって、すごく近代っぽくない、近代よりも後、つまりポスト近代的な現象ではないでしょうか。
 
20世紀の段階でも、近代のマインドの変化は色んな人が書き残しました。私に馴染み深いところでは、リースマン『孤独な群衆』やコフート『自己の修復』なんかですね。
   
リースマンは、近代然とした、フロイトがひも解いたような「内部志向型人間」のマインドの次が来ている、それは他人の反応や評価にもっと左右されやすい「他人志向型人間」だ、と言いました。リースマンを読んでいて私が楽しいと感じるのは、彼は近代のマインドの次を記しただけでなく、プレ近代のマインドも記していて、プレ近代→近代→ポスト近代のマインドの変化と社会環境の変化を追える読み方ができる点です。
 
コフートも、フロイト直系の精神分析の想定するマインドがうまく当てはまらない、その次の時代のマインドの到来を告げましたが、ざっくり書いてしまうと、それも他人の反応や評価に左右されやすいマインドでした。
 
リースマンもコフートも何十年も前の人です。そのうえで、今のマインドはどれぐらい近代で、どれぐらいポスト近代なのか? って考えてみましょう。近代に典型的なマインドってだいぶ珍しくなっていて、近代にそぐわないマインドのほうが社会適応しやすい、そんな時代が到来しているんじゃないですかねえ、と私はいつも思っています。
 
近代の典型的なマインドが珍しくなってしまったら、そのとき、人生の物語化はどうなるのでしょう?
そのとき期待される物語は、夏目漱石のそれとは違うと思います。村上春樹ならどうでしょうか? まあ、いくらか近いかもしれませんが、村上春樹にはまだ近代の残滓が残っていたりしませんか。それなら……。
 
どのあたりの創作作品に2020年代のマインドがくっきりと反映されているとみるべきかは、ここではちょっと保留します。ともあれ、20世紀と同じでないことは確かです。で、以下のアジコさんの文章にも基本的に同感です。
 

シロクマ先生がおっしゃってる、個人史での、『そういう虚無とかからの逃避』というのは、あります。でもそれは『普通のサラリーマンが親子ほどの年の離れた女の子とセックスする話』によってなされます。むしろ、文学というのは、『そのような個人史では解決できない【自意識や虚無感】』を扱って来ました。でも、その【自意識や虚無感】自身が、本当は存在しないものだとしたら……?一体、俺たちは何と戦っているんだ…まるで、幽霊じゃないか……。ここに意味なんてあるのか…。もともと、意味なんてないってわかってたけど、本当に意味がないのか……。というのが、『いい薬』が発明されて以後の、個人主義的文学が置かれている状態だと思います。

近代のマインドが失効したなら、近代に即した葛藤も失効し、近代に即した自意識や虚無感も失効する……んじゃないでしょうか。そうなった時、人々に期待される物語やソリューションも近代とは違ってくるでしょう。そのときには、案外アジコさんが挙げていらっしゃったように、向精神薬の作用がソリューションと思えたり、ずっと年下の異性とセックスすることがソリューションに思えたりするかもしれません。一貫したアイデンティティや歴史が求められず、それについてまわる規範がゆるくなって葛藤することも少なくなったら、そういうごまかし(のように私には見えるもの)が必要十分なソリューションになったりするのかもしれません。
 
個人史も「分人的」、それか「断片的」になって、自意識や虚無感も、それぞれのアカウント、それぞれの場面ごとに浮いたり沈んだりするようになるのかもしれませんね。仕事中は死んだ目で働いていても、帰宅してweb小説を読んでいる時にイキイキしていればそれで私は生きていける。そこで葛藤する必要はもうない、みたいな。
 
そもそも、葛藤ってのも古臭い言葉ですね。葛藤しないことが正しくて、推しと一緒にクソデカ感情が隆起して、葛藤をブロックしたりミュートしたりできるアーキテクチャが存在するご時世に、律儀に葛藤するのは馬鹿げています。昔ながらの人はともかく、マインドのつくりが近代から遠い人において、折り目正しく葛藤するのかは甚だ怪しい、と私は疑っています。あとはアジコさんのおっしゃる、
 

あと、それとは別にゲマインシャフト2・0というのを自分は感じていて、個人で選び取った所属が、実は自分で選び取ったものではない問題というのが、いま発生していると思うのですが、そこらへんは、また長くなるので。インターネットのせいで生じるエコーチャンバー。みんながみんな何かに洗脳された状態で、自分の意志や自我を持たず、しかし本人はそれを『自分の自我』だと信じている状態。でもそこには個々人の『鬱屈とした自意識や虚無感』は存在しない。大きな所属、誰かの物語に巻き込まれる人たちが今、すっげー多いんじゃないかな、って思っていますし、そしてそういう人は小説を読まない!

このあたりの話。
 
近代に信奉されていた自己選択や自由意志が失効しているとして、次の時代の自分とは何か。ここでも、近代という物語に依拠した自分ってやつは弱くなっているでしょう。でも、その近代がそこまで弱り果てている領域は都会のアーリーアダプターやインテリのいる場所ではなく、地方も含めた、もっとありふれた人たちのありふれた場所で先行している感があります。ですから都会の専門家たちは、この事態を軽視しているか、あまりうまく言語化できていないのではないかという予感もあります。ゆえに、2020年代の精神を体現している日本の作家や思想家、というのは咄嗟には思いつきません。いや、本当のところはわかりません。どこかにいるのかもしれないし、これから探すべきだとも思うのですが、道半ばです。
 
ああ、すっかり長くなってしまいました。
  
昔だったら、こういう長めの雑談を専門家の人もブログに書いてらっしゃったと思うのですが、みんなどこかに行ってしまったので、こういう話の相手をしてくれる人がすっかり少なくなってしまいました。アジコさん、いつもありがとうございます。こういう雑談ができることを嬉しく思います。
 
 

*1:双極性障害

*2:もちろん、その悩みの背景に診断学的に妥当な診断があり、向精神薬の標的たりえる症状や病状があるという前提の話です、闇雲な適応外使用を勧めるものではありません

*3:ただし、アジコさん自身も含め、創作大好き人間の場合は自分が思うような創作や表現ができていることもある程度は大事です。でも、その創作大好きな人間だって、生前のゴッホみたいな境遇には簡単に耐え切れず、対人関係や社会適応、ひいては社会的評価に自意識や虚無感は左右されやすい、みたいなことは思います。ヘンリー・ダーガーみたいな人もいますが、ああいう人を例外ととらず一般的ととるのは間違っていると思います

*4:承認欲求や所属欲求やナルシシズムが自意識の悩みや虚無感とどのように関連するのか、と問われたら、私は、それが瞬間的に充たされているかどうかでなく、それが安定的に充たされ得る布置ができあがっているか否か、に着眼したほうが大切だと答えます。それはナルシシズムがどれだけ成長し社会的に妥当なかたちで充足の手段ができあがっているかだったり、承認欲求や所属欲求を充たしてくれる対象との安定的な関係性が構築できているかだったりします