シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

「本来のシロクマ先生」をお望みの方へ

 
https://b.hatena.ne.jp/entry/4672567703114422914/comment/iguana_marikob.hatena.ne.jp
 
 林先生の「コンサータによって自己連続性」を失った話に、上記のようなはてなブックマークコメントがついていたので、ちょっと考え込んでしまいました。
 
 本題に入る前に、林先生のところの案件から自分が思い出したことをツラツラと書いてみます。
 
 今回の林先生のところの話題は、精神薬理学的に自己のありようが変化し、自己の連続性、ひょっとしたらアイデンティティにまで疑問を感じる時の話で、ここまで言語化された例は未経験です。が、たとえば芸術肌の人が特定の向精神薬を「治療」のために飲むようになったら表現に影響が出てしまった時などに、たぶん関連したことを考えさせられます。表現は、その人の精神性やその人のありかたと密接に結びついたものだろうけれども、それを向精神薬があっさりと変えてしまうことは稀によくあります。表現をやっていない人にとっては「改善一辺倒」で済んでしまうことが、表現をやっている人には「表現の質的変化」というかたちで察知され、表現をやっている人は自分の表現に簡単にはNoと言えないから、とても難しい問題として取り扱わなければなりません。
 
 林先生は、「いきづらいという程度ではたして薬を飲んで改善させるのが正しいことなのか、どこまでも慎重に考えたほうがいい」と書いておられます。私もそう思うのですが、他方で林先生は、この問題が反精神医学的に捉えられてしまうことを慎重に避けるべく言葉を選んでおられるような気がしました。反精神医学について説明すると、それはそれでダルい長話になるので強引にダイジェストにするなら、二十世紀中頃、統合失調症は文化的につくられた病でそれに薬を飲ませたり入院させたりしてるのどうよ? といった運動があったのです。
 
 ただ、運動の首謀者たちは統合失調症に該当する人々への代替案を提案できていたとは言えないし、運動のメンバーの記していた書籍を読むに、精神疾患や精神医学が憎くて仕方が無かったような雰囲気が漂っているところもあり、あまりパッとした運動にはなりきれていなかったと思います。「統合失調症も含めた精神疾患が、どこまで文化的に構築された病なのか」というテーマは、本当はじっくり検討すべきだと私は思っていますが、数十年前の反精神医学という運動はずさん過ぎて、かえってじっくり検討する余地を奪ってしまったのではないでしょうか。日本でも、反精神医学は精神神経学会に飛び火して大騒動を起こし(金沢学会)、学会機能を一時的に麻痺させた挙句、なんのオルタナティブも示すこともできませんでした。
 
 最近私は、精神神経学会方面で「精神疾患の成立と文化的・歴史的背景」というテーマで研究している精神科医をウォッチしていますが、あまり数が見つかりません。見つかったとしても、自分の物言いが曲解されないようきわめて慎重な言葉遣いをしているか、かつて反精神医学が引用した人物のあら捜しをしているか、とにかく、自由闊達に「精神疾患の成立と文化的・歴史的背景」について議論できる雰囲気にはみえませんでした。
 
 そういうテーマを考えることじたい、反精神医学的=業界の敵とみなす同業者が、ひょっとしたら一定割合で存在しているのかもしれません。トーマス・サズのような反精神医学の中心人物だけでなく、社会構築主義的に医療を考えた社会学者たちにも嫌悪と侮蔑の目を向ける精神科医を、私は何人か見かけてきました。彼らが医療全般に非友好的だったのは事実ですが、彼らが考えたようなことを誰も考えない・語らないのも、それはそれでアンバランスのように私には思われます。
 
 私は「精神疾患の成立と文化的・歴史的背景」を考えることが、そのまま精神医学へのアンチになるとは思っていないし、むしろ未来を豊かにするための歴史のパンくずになるのでないかと思っています。ですが、こうしたことを考え続け、表現し続けることには相応の覚悟や代償が必要かもしれず、あるいはそれが私の旅路の終わりになるのかもしれません。
 
 

「シロクマは医者マッチョワールドになっているか」

 
 さて、iguana_marikoさん、医者マッチョワールドに浸ったシロクマとは、このような記述をするシロクマのことでしょうか。
 
 私は最近、うつ病や統合失調症についてはブログに書いていないけれども、発達障害とその周辺についてはときどき書いています。上記のようなことを考えたり調べたりしている副産物だとお考えください。やっぱりブログは、今自分が考えていることの周辺事象をアウトプットするのがいちばん楽ですから。
 
 では逆に、iguana_marikoさんからみた、本来のシロクマとはどんなシロクマなのでしょう。
 
 個人の適応について、読めばライフハック的なことを書いていたようなシロクマか。
 
 他のブロガーとぶつかりあい、ときには皮肉や批判も厭わなかった頃のシロクマか。
 
 ゲームやアニメのことを喜々として書いていたようなシロクマか。
 
 まあどれも本当のシロクマで、私という多面体の一面が現れたのでしょう。。その都度、考えていることや関心を持っていることを吐き出すのが(私が)ブログを長続きさせる秘訣だと思っています。
 
 きっと、iguana_marikoさんがそのようにご指摘されたということは、最近の私の関心は精神医療の方面に傾いているのでしょうね。じきに医療以外のことを考えたくなったら、自然解消されるでしょうけれど、今しばらくはご容赦いただけたらと思います。
 
 ちなみに私がブログに精神医療について何かを書くのは、病気についてのいわゆる“啓蒙”を行いたいからではありません。
 
 そうではなく、精神医療のトレンドや現状を振り返り、現代人の社会適応について考えたいからなのです。最近シロクマは、資本主義のことや東アジアの少子高齢化にも言及していますが、これらも、現代人の社会適応について考える際に避けてとおれないサブテーマであるように見受けられるからです。進みゆく資本主義も、清潔になっていく街並みも、タバコ撲滅運動も、少子化も、現代社会を生きる私たちの適応の条件、オンラインゲーム風に言うなら「現代社会の適応ゲームルールの最新パッチ状況と今後の動向」のかなり重要な部分を反映しているのだとしたら、それを知ることもなしに現代人の社会適応を云々するのも、何か違うんじゃないのかなと私は思うのです。
 
 
 十年前ぐらいの私は、個人が現在社会に適応するために、どのような努力が必要か、どのようなスキルセットや素養を必要としているか、そのことを専ら考えていました。
 
 しかしここ五年ほどの間に、その個人が適応していくフィールド、つまり現代社会じたいが少しずつ変化していて、個人が適応するための最適解がどんどん変わっている点に興味をおぼえるようになりました。適応するための条件の変化は、オンラインゲームでいえば「最新ゲームパッチの更新状況」みたいなものですから、これはもっと詳しく眺めて、これまでとこれからの動向について考えられるようになったほうが良いと思うようになったのです。
 
 それと、現代人が現代社会に適応するための方法論については、私は、自分ではだいたいわかりたい部分はわかったつもりになりました。もうだいたいわかったことをわざわざブログに書くのは、集客には良いかもしれませんが、面倒くさいことです。かといって、本当の本当にに適応の諸相を詳らかにするとなれば、いじめ未満の鍔迫り合いとか、空気を誤作動させる方法論とか、読者に高いリテラシーを要求しなければならない内容にならざるを得ません。そういった面倒をおしてまで適応の諸相をブログで公開することには、いまだ抵抗があります。
 
 もし、どうしても適応の諸相をつまびらかにするとしたら、noteを使って、ふっかけた課金設定にして、あえて退屈な総論あたりから書き始めて、簡単には読めないようにしておくつもりです。
 
 他方、どんどん最新パッチがあてられて更新されていく現代社会の変化については、考え始めて日が浅く、自分の考えだけでは到底支えきれません。私が見ている社会のダイナミズムを記述するためにも、どうしても先人の教えを借りなければなりません。だから最近は本ばかり読んでいます。こういうことも10年前はあまりやっていなかったわけですから、これも、本来のシロクマではないムーヴとうつるかもしれませんね。
 
 でも、私はもっと社会適応のことをよく知りたいし、もっとよく記したい。この願望じたいはウェブサイト時代からずっと続いているもので、そうやって社会適応を知りたがる性質の背景には、かつて私が社会適応できずに敗れた歴史と、だからこそ社会適応などという、できる人には空気を呼吸するのに等しいイシューについて考えざるを得ないニーズがあるのでしょう。まあでも動機なんてなんでもいいのですが。
 
 社会適応に関心があり、その結果として社会にも関心がある、という基本路線はたぶん十年前のシロクマの屑籠も現在のシロクマの屑籠も変わりませんが、取り扱っているサブテーマが以前とはちょっと違ってきているので、常連の方にはちょっとした違和感になっているかもしれません。
 
 なんにせよ、これからも私は私が見ている風景やメカニズムを、考え続け、記し続けるつもりです。
 
 このようなとっ散らかったブログですが、それでもよろしければ、今後ともどうかご愛顧のほどよろしくお願いいたします。