残酷な現実:都心まで通勤1時間以上の国道16号30km圏郊外に一戸建を新築4000万円で買うと10年後の再販2000万円以下。東京駅5km圏の湾岸タワマンなら新築8000万で買っても10年後の再販7500万円ー8000万円。実質負担は後者が安い!こういうのが格差開くメカニズムだからね!試験に出ないけどよく覚とけ! https://t.co/pONFh9TAlI
— 田端信太郎 @田端大学塾長である! (@tabbata) 2019年8月18日
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上掲の、田端信太郎さんのツイートを踏まえて書かれたとおぼしき、極東ブログのfinalventさんのブログ記事を読み、ぼんやりとした気持ちになった。
郊外に4000万円の居をかまえるのと、都内のタワマンに8000万円の居をかまえるのは、どちらが望ましいのか?
田端さんのツイートには将来の価格のことしか書かれていないのに対し、finalventさんのブログ記事の後半には、子育てとそれに関連した階層化の話が付け加えられている。
こうしたネットで見かける「郊外の家か、都内のタワマンか」の話には、【①物件の未来の価格可能性】の話と【②子育て上の利便性や可能性】の話が混じっていて、しかも②に関しては、【③比較する家庭の社会的・文化的状況の違い】が略されている。【④地方や郊外という時、想定されるのはどういった地方や郊外なのか】も割と略されやすい。そんなわけで、万人を納得させる文章にはなかなか仕上がりにくい。
たぶん、以下の文章もそのようなものだと自覚したうえで、地方で子育てをする者の一人として、自分の考えを書いてみる。
物件の価格は、都内に近いほど有利
まず、あまり興味の無い①の問題を済ませてしまおう。
未来の物件の価格、という視点でみれば、地方は都心にまったくかなわない。地方の物件に手を出すより東京首都圏の物件、それも都心の物件に手を出したほうが有利なのだろう。
地球温暖化や大震災などのリスクを考えるなら、都心といえども無敵というわけではあるまい。とはいえ確実視される少子化を踏まえるなら、物件の価格は都心ほど維持されやすく、都心から離れるほど下落しやすいとは予測できる。
この点でいえば、地方都市のはずれに土地を買って家を建てるのが一番どうしようもなくて、数十年後には負の遺産になると覚悟しなければならない。
ただし、地方都市のはずれ~都心の間には無数のグラデーションがある。ひとことで郊外と言っても、たとえば埼玉県や千葉県や神奈川県の、濃密な鉄道網に沿った物件がどれぐらい値下がりするものだろうか。
東京首都圏の鉄道網があてになる限り、案外、東京首都圏の郊外の物件は決定的には値下がりしないように私には思えてしまう。東京首都圏の鉄道網の沿線と、政令指定都市の物件を比べて、30年後により値下がりしているのはどちらだろう? 都心のタワマンには一生縁が無いように思われる私には、そういう比較のほうが気になる。どちらにせよ、地方都市辺縁の物件に比べればまだしも未来があるようにみえる。
「都内の子育てのアドバンテージとは何か」
それより②の問題、子育ての利便性や可能性について考えてみよう。
都内での子育てについては、しばしばこんなことが言われている――「東京は博物館やイベントが充実しているし、人脈も豊富。だから子育てには有利」といった内容のものだ。
本当にそうだろうか。
東京は博物館や図書館といった文化インフラが充実しているし、イベントも日本一充実している。各方面のインストラクターも充実している。それらの利用可能性を語るなら、確かに東京は日本一に違いない。
だが、そうした東京のインフラやイベントを大学進学以前から使いこなしている子どもが一体どれぐらいいるのだろう? もちろん、そういう子どもだっているだろう。とはいえ東京首都圏の凡百の子どもが皆、そこまでインフラやイベントを使い倒しているものなのか。
都内と地方都市の末端を比較するなら、そうしたインフラやイベントの差異は埋めがたく、なるほど都内に軍配があがろう。しかし博物館や図書館にしてもイベントにしても、地方の中核都市にも「それなりのもの」は揃っているし、ほとんどの子どもは「それなりのもの」で事足りてしまうのではないだろうか*1。
あるいは普段は地方都市のインフラやイベントで間に合わせ、ここぞという場面では上京する、というやり方だってある。「地方で4000万の持ち家か、都心で8000万のタワマンか」という二者択一を考えられるような経済的・文化的状況にある家庭の子どもなら、よほど僻地に住んでいるのでもない限り、必要な時に上京するようなライフスタイルは十分やってのけられるはずである。
もし例外があるとしたら、東京の第一人者をインストラクターにしなければならないレッスンを、大学進学前に受けなければならないようなシチュエーションぐらいか。だが、そこまでの可能性を必要とする子どもが一体どれぐらいいるのかわからないし、そこまでの可能性を可能性として求める親がどれぐらいいるのかもわからない。
たとえばの話、都内のタワマンに余裕綽々で入居する人ならともかく、ローンを組んでカツカツに暮らすようなファミリーに、子どもの可能性をそこまで拡充する経済的・心理的余裕があるものだろうか。
学力や学歴の話になると、都心のタワマンでなければならない必然性はほぼ無くなる*2。
MARCHを受験するための学力なら、政令指定都市どころか、人口10~20万人規模の地方都市でもどうにかなる。こう書くと「地方都市でMARCHに入るためには相当優秀でなければならない」といった反論があるだろうけれど、地方都市にはMARCHとは別に地方大学の値打ちがあるため (たとえば関関同立、神戸大学や奈良女子大学、各県庁所在地の国立大学など) 、優秀な学生が皆上京したがるわけではない。
そもそも、都内でさんざん教育投資をして、本人もさんざん苦労を重ねた結果としてMARCHに進学して、それで「地方に比べて子育てに恵まれていた」などと言えるものだろうか。教育投資や都内の文化的アドバンテージを生かし、あまり苦労せず東大や早慶に入学するなら、なるほどアドバンテージだろうけれど、そこまでのアドバンテージを享受している都内のファミリーとは、いったい何%ぐらいなのだろう?
都内でも苦労しなければ東大や早慶に入れないのだとしたら、そんなものは、学力・学歴のアドバンテージだとは私には思えない。子ども自身の素養とファミリーの文化資本がちゃんと揃っていれば、地方の公立進学校からもMARCHは十分に狙えるし、東大や京大や国立医学部だって射程に入る。地方の公立進学校の同窓生のクオリティがそれほど劣っているとも思えない。
学力・学歴の問題にかんする限り、本当にクリティカルなのは都内か地方都市在住かではなく、子ども自身の素養とファミリーの文化資本の程度ではないだろうか。もちろん、地方のなかの地方、過疎な町村部に居を構えていればハンディになるかもしれないが、戦後七十余年のうちに、高学歴志向なファミリーは多かれ少なかれ街に出ているだろうから、メジャーな問題ではあるまい。
「イエ」が無くなっても「血筋」は残った
ここまで書いてしまったうえでfinalventさんのブログ記事を思い出すと、私は、親から子へ、子から孫へと継承されていくものについて思いを馳せずにいられなくなる。finalventさんは、
簡単に言えば、日本の社会は、都心居住者を中心に階層化されていくし、それが世代にわたって固定化されていくのだろうと思う。
いい悪いでも、どうしたらいいというわけでもなく。
人生というのはそういうものだ。都心のマンションであれ戸外の一戸建てであれ、離婚すればそれらの資産は整理することになる。離婚はそれほどまれなできごとでもない。また、けっこうな大病するというのも、珍しいことではない。そうなれば、ローンは返せない。それらもまた、現実だろう。
と書いておられる。
finalventさんは、階層化についてだけでなく、離婚や大病によってファミリーが没落する可能性についても触れている。世代から世代へと経済資本や文化資本が受け継がれていく一方で、没落イベントがいつ起こるのかはわからない。親から子へ、階層を駆け上がることもあるかもしれないが、階層を一代で駆け上がるのは今では困難になっているから、諸資本の継承と階層の浮沈は、個人という一代のスケールで計れるものではないように思う。
個人主義社会が到来し、「イエ」という制度はおおよそ終わったといわれている。確かに「イエ」を意識する人は昭和時代に比べればずっと減った。だけど階層化の進みゆく近未来の日本では、「血筋」というか、現代の資本主義社会に最適な生物学的傾向を継承し、なおかつ、文化的・社会的アドバンテージを蓄積し続けられるかどうかが、親-子-孫のバトンリレーにおいて峻厳に問われるのだと思う。
こんなバトンリレーは、親自身だけの努力でどうにかなるものでも、子の世代で一発勝負できるものでもあるまい。うまくバトンが繋がればもうけもの、繋がらなければペシャンコ、大災害や大事故に巻き込まれてもやはりペシャンコの、シビアな、けれども当たり前といえば当たり前の命のバトンリレーなのだと思う。
都内か地方か。
もちろんそれも考慮に値する問題ではある。
だけど一連のお話を眺めているうちに、そんなことより、親から子へ、子から孫へとバトンリレーされていく諸傾向・諸資本の可否のほうがずっと重要に思えて、4000万円の郊外の家か8000万円のタワーマンションかという選択は、金額によってではなく、諸傾向や諸資本のバトンリレーの可否にどこまで貢献し、どこまで邪魔になるのかを踏まえて決めるべきという気持ちにならずにはいられなかった。
ああそれと、このことに関連して。
「親から子へのバトンリレーは常に上昇志向であるべき」と考えるのは、現代の情勢に即していないと思う。親子の情勢しだいでは、ときには守勢に回るべき代もあるはず。20世紀の親子のバトンリレーは、おおむね上昇志向的に思い描かれてきたし、そういう上昇志向は現代でも主流だろうけれども、そういうワンパターンなビジョンは危ないんじゃなかろうか。
物件や土地も、学歴や階層も、儚いものではある。
その儚いものを懸命に継承していくために、当事者が考え、実行すべき選択肢は無数にある。私は地方を選んだが、都心を選ぶ人だっているだろう。私は、土地や物件の価格よりもバトンのほうを大切にしたい。