シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

「俺らが生きづらい社会」は「あいつらが生きやすい社会」

 
 


 
 このtwitterの文章を読み、「世の中ってそんなものだよね」と思いつつ、社会の変化に思いを馳せた。
 
 この文字列から、私は二つの連想をせずにいられない。
 
 まず、小さな問題として、日本をはじめとする先進国で起こっている混乱。
 
 少子高齢化と経済的停滞の続く日本はもちろん、アメリカはアメリカで、ヨーロッパはヨーロッパで、現代の社会問題にのたうち回り、その解決の目処は見えない。
 
 他方で、途上国と呼ばれていた国々の所得は向上し、生活水準も良くなっているという。
 
 私は少し悲観的に考える癖があるので、資本主義的な豊かさが国単位で安定するためには、本国と植民地、先進国と途上国のような政治的・経済的勾配が必要だと疑っている。地球がフラット化すれば、往年の欧米諸国のような、国単位の豊かさは成立しなくなると心のどこかで思っているふしもある。
 
 日本の20世紀後半の豊かさにしても、戦前は欧米列強の末端に食いつき、戦後もそのアドバンテージを生かして成立したもので、たとえば東南アジアの国々がこれからもっと豊かになるとしても、日本のような国単位で先進国然とした仕上がりにできあがるとはあまり思っていない。
 
 私が日本が先進国然としているとみなすのは、東京が素晴らしく発展しているからではなく、地方の田園地帯や半島部にさえユニクロや大手コンビニチェーンが進出している点、東京と同じ言葉で比較的近い文化が消費されている点だ。バンコクなどと同様、東京はたいがい地方から血を吸い上げて繁栄しているが、とはいえ地方にもそれなり豊かさが分配されている。
 
 話が逸れたのでもとに戻ろう。
 
 その先進国たりえた日本では「どんどん世の中は悪くなっている」。
 
 その悪くなっていると感じる理由のある部分は、国内の失政(=制度疲労と国民の判断ミス)に由来すると同時に、地球温暖化のような世界レベルの問題に由来する部分もあるだろう。
 
 だがそれだけではなく、地球がフラット化し、先進国側のアドバンテージが途上国の猛追によって失われたことに由来する部分もあろうし、それが、20世紀後半に成立した「日本スゴイ」的な自尊感情をも喪失させてしまったのだろう。
 
 いつまでも日本が世界第二位の経済大国のままで、アジア唯一の先進国だったなら、本国と植民地、先進国と途上国のような勾配が続いて、人々の生活は豊かなままだったかもしれない。そして「日本スゴイ」的な自尊感情に溺れたままであれば、「どんどん世の中は悪くなっている」という気持ちは現実の2020年に比べて軽いものになっていただろう。
 
 国や国民といった垣根を越えて考えるなら、たぶん、「どんどん世の中は悪くなっている」と考えるべきではなく「フラット化によって途上国の人々がどんどん豊かになって、世の中はどんどん良くなっている」と考えるべきなのだろう。そしてグローバルに働き、グローバルに考えることのできる人々からみれば、国という小さな垣根の内側で「どんどん世の中は悪くなっている」と考える人々は、視野の狭い、愚かな人々のようにうつるのかもしれない。
 
 

どんどん進歩する社会と「どんどん世の中は悪くなる」

 
 もうひとつ、もっと私の関心領域に近い「どんどん世の中は悪くなる」について記そう。
 
 ここ数十年の間に、日本社会はいろいろな意味で進歩した。
 
 1970~90年代に比べると、東京をはじめ、都市の街並みは美しくなり、人々は行儀良く、清潔になった。20世紀の日本人は今よりもずっと粗暴で、もっとカジュアルに法をはみ出していて、それらが当たり前のような顔をしていた。成人が犯罪を犯す率も、未成年のうちに補導される率も、今よりずっと多かった。
  
 仕事や生活の面でも、私達はまぎれもなく、大きく進歩している。業務は効率的になり、飲食店の店員はテキパキ働くようになった。昭和時代の人々はもっと非効率に働いていたし、もっと業務の質にムラがあった。医療機関や役所や警察の窓口で横柄な態度に出会うことも多かったと記憶している。情報環境という点でも、インターネットの普及によっていろいろな事が変わった。
 
 だが、こうした進歩の恩恵を皆が一律に受け取ったのだろうか。
 私はそうは思わない。
 
  


 
 たとえば、境界知能と呼ばれる人々がいる。知的障害と診断されるほど認知機能が低いわけでもないが、平均に比べれば低めと測定される人々だ。境界知能は知的障害と診断されないため、これ単体では障害者として援助の対象とみなされることはない。もちろん、なんらかの精神障害等に罹患し、医療機関で認知機能を測定してみた際に境界知能に該当した、という事例じたいは無数に存在するのだが。
 
 では、この進歩した社会は、この境界知能に当てはまる人々を生きやすくしているのか。
 
 彼らとてコンビニや市役所や警察窓口などを利用しているわけだから、便利で効率的になった社会の恩恵は受けている、と言える。だが、どこでも便利で効率的なサービスを受けられる社会になったということは、働く際には便利で効率的にサービスを提供しなければならない、ということもでもある。
 
 そして第一次産業から第三次産業まで、少なくない仕事がテクノロジーによって代替されるか、ホワイトカラー的な業務内容へと変わっていった。愚直に肉体さえ動かしていれば一人前の給料を貰える、という仕事がいまどきいったいどれぐらいあるだろうか?
 
 「コンビニのレジ打ちなんて、誰にでもできる」などと嘯いている人もいるようだが、コンビニのレジ打ちは単純作業ではなく、オペレーションである。昭和時代の仕事の多くは、複雑なものであれオペレーションではなかったが、令和時代の仕事の多くは、単純にみえるものでもオペレーションと呼ぶに値する様式になっている。
 
 業務に知的な柔軟さやコミュニケーション能力が期待されるようになったのはもちろん、行儀良く・効率的に・むらなく・安全に・確実にオペレーションをこなせる素養が求められるようになった。
 
 こうした職務の変化に苦もなくついていける人にとって、こうした職務の変化から得られるのは恩恵だけである。自分にとっての当たり前が世の中の常識になっていくわけだから「世の中はどんどん良くなっていく」と感じるだろう。しかし、こうした職務の変化から篩い落とされる人、昭和時代には正社員になれただろうけれど、令和時代には正社員に到底なれそうにない人からみれば「世の中はどんどん悪くなっている」と感じるほかないし、世の中から自分は取り残されているという疎外感は不可避だろう。
 
 こうした、「どんどん進歩していく世の中」からの疎外が、就労の世界だけでなく、たぶん、あらゆる領域で起こっている。
 
 日常生活においては、清潔で臭わない生活が進歩的な生活習慣から、できて当たり前の生活習慣へと変化した。いまどきは、臭わない生活を「できて当たり前っしょ」と思っている人のほうが多数派だろう。清潔や消臭ができて当たり前の社会へと進歩したことによって、何らかの理由や事情によって不清潔だったり臭ったりする人は、当たり前のことができない人とみなされるようになった。
 
 インターネットやスマホによる情報革命にしてもそうだ。
 情報リテラシーや金融リテラシーに優れた人々にとって、情報革命はチャンスの拡大であり、「世の中が良くなっている」と感じるための好材料とみなされることだろう。だが、情報リテラシーや金融リテラシーを身に付けることの難しい人々――それこそ、たとえば境界知能の人々――にとって、情報革命は手に負えないリスクや搾取となって立ちはだかる。
 
 令和時代の情報環境のなかで、いったい誰が巨大企業に最もひどく搾取され、いったい誰がネット山師たちの好餌とされているのか。誰がヘイトスピーチを振り回しているつもりでヘイトスピーチに振り回されているのか。
 
 進歩についていけない人々は、今日の情報環境のなかで何重にも搾取されて、何重にも損をしている。アマゾンや楽天では便利なサービスを受けているかもしれないし、ソーシャルゲームでは無料でガチャを回して喜んでいるかもしれないが、それでもトータルとしてみれば、進歩と自分自身とのギャップの程度のぶんだけ、搾取されたり損をしたりしているはずである。
 
 いっぽう、進歩についていける人は進歩の恩恵にあずかり、チャンスをものにする。インターネットに搾取される以上に、インターネットで利益や機会を掴んでいく。
 
 誰もが効率的にオペレーションをこなし、誰もが清潔で臭わず、ますます高度化していく情報環境のもとでは、それらについていけない少なくない人々がますます生きづらくなり、疎外されるとともに、そこにぴったりと適応できる人々はますます大きな便益を享受し続ける。
 
 かろうじて医療や福祉がこの図式を緩和していて、たとえば「大人の発達障害」という概念によって援助される人も増えてはいるけれども、医療や福祉にはこの図式を解消するほどの力は無い。
 
 

「どんどん良くなっている」人に「どんどん悪くなっている」人の気持ちはわかるのか

 
 だから、この進歩に対する肌感覚は大きく2つに分かれると思うのだ。
 
 「世の中はどんどん悪くなっている」と感じる人々と「世の中はどんどん良くなっている」と感じる人々に。
 
 あるいは「世の中はどんどん生きづらくなっている」と感じる人々と「世の中はどんどん生きやすくなっている」と感じる人々に。
 
 たとえば清潔な身なりと規則正しい生活を当然のものとし、高度な情報リテラシーと金融リテラシーを持ち、グローバルに開かれた生活をしている人々が「世の中はどんどん悪くなっている」と感じるのは難しいことではないだろうか。
 
 そういう人は、「えっ? なに? 世の中便利になってチャンスもどんどん増えてるでしょ?」で考えるのを止めてしまったほうが適応的だ。そこで考えるのをやめてしまえば葛藤も抱えずに済むし、罪悪感を覚えることもなくなる。
 
 逆に、進歩から置き去りにされ、「世の中はどんどん悪くなっている」「世の中はどんどん生きづらくなっている」と直観している人々には、世の中がどんどん良くなっていると感じる機会は少ない。コンビニや警察窓口では昭和時代より丁寧に対応してもらえるかもしれないし、ソーシャルゲームでは無料ガチャを回させてもらえるかもしれないが、生活が上向いている実感はあるまい。それでもメディアで発信力を誇っているのは進歩的な人々とそのメンションだから、自分たちが進歩に乗れていないにもかかわらず、自分たちを篩い落としていく進歩に乗れている人々が現に存在し、チャンスをものにしているらしいことは伝わってくる。
 
 こうした疎外感が、進歩のど真ん中で、当たり前のように適応している人にどこまで想像可能だろうか。
 
 

「進歩は、これからもあなたの味方をしてくれますか?」

 
 テクノロジーや文化という点では、私達は間違いなく進歩し続けている。
 
 だが、進歩によって専ら便益やチャンスを獲得している人もいれば、進歩によって疎外されている人、進歩に置いていかれている人もいる。たぶん、これからまさに進歩によって疎外され、置いていかれようとしている人もいるだろう。
 
 私がこれを書いているのは、私がある面では進歩に適応的だが、別の幾つかの面では進歩に疎外されていて、いまにも進歩に取り残されようとしていると直観が働き、脳内の警告ランプが点灯しているからだ。進歩は私たちをますます便利に、快適に、効率的にしていくだろう。だが、その便利さ、快適さ、効率性に、私はどこまでついていけるだろうか。 そしてあなたは? 
 
 「社会の進歩は、必ずみんなの味方をしてくれる」という考えに、いまどき一体どれぐらいの割合の人が同意できるものだろう? 少なくとも私には、それが条件付きのもののように思われてならない。