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「郊外都市には文化が無い」、というタイトルの文章がはてな匿名ダイアリーを読んだ。
タイトルが、なんだか大きな釣り針だ。ただし、この名古屋近郊に住んでいる筆者はあるていど誠実だ。というのも、
この街の文化と呼べるものに触れ合った記憶が無い。
生まれも育ちもここなのに郷土史とか一切知らねえ。
名古屋やその近郊に文化が無いと言い切っているのでなく、名古屋やその近郊の文化を自分は知らない、と書いているからだ。
たとえば自宅と職場とショッピングモールだけを往復している生活をしていたら、自分の暮らしている場所の文化についてロクに知らないこともあるだろう。交通網が発達し、地域共同体への依存度が低いニュータウンで暮らしていれば尚更だ。
それについて、名古屋を街歩きした時を思い出しながらちょっと書いてみる。
名古屋近郊の住宅地には文化が[無い|ある]
まず、名古屋近郊のgoogleマップを眺めてみると、以下のようなニュータウンっぽい地形がたくさん見つかる。
これを衛星写真に切り替えると、戦後に建てられたらしき家々が整然と立ち並んでいる。そうしたニュータウンにはところどころ傾斜があって、かつては丘陵地だったのだろうと見当をつけられる。●●ヶ丘といった地名が残されている場合も少なくない。そうしたニュータウンで神社や寺院を探してみると、密度がとても低く、昔は人があまり住んでいなかったのだろうなと想像される。匿名ダイアリーの筆者は、
かろうじて誇れるのは長い遊歩道があることくらいで、それ以外はコンクリートジャングルだ。
と書いているが、長い遊歩道っていうと、たとえばここだろうか? ↓
どこまでも続く人工的空間につくられた、これまた人工的な遊歩道。ここを歩いた時、私は「インフラにお金をかけてるなぁ」と思うと同時に、地元の歴史や文化を実感できる構造物でもないな、とは思った。こういうのを眺めると、文化の砂漠って言いたくなるのもわかる。
じゃあ、本当に名古屋近郊には文化が無いんだろうか。
いやいや。そんなことはないだろう。だってそこには名古屋の人、愛知県の人が暮らしているじゃないか。
名古屋の街を歩いていると、現在も、現地の方言を耳にする機会がある。それはこの街が東京ではないどこかで、今でも名古屋として(それとも尾張として?)生きられている証拠だと思う。本当に新しい郊外では数が少ないとしても、寺社や神社もちゃんとお祀りされている。名古屋でも、観光客が訪れそうにない小さなお社に人が詣でている様子や、人が世話をしている形跡はちゃんと見つかる。元から暮らしている人にとって、それらは最も身近な神仏なのだろう。
6月には、山車を繰り出すお祭りを名古屋のあちこちで見かけた。なんでも、江戸時代からやっているお祭りだとか。
それから、名古屋郊外といっても、南のエリアは西のエリアや東のエリア*1と少し様子が違う感じがする。たとえば熱田神宮や笠寺とその周辺などは、ゴチャっとした街並みが古めかしくて雰囲気がある。人間が生きてきた、手垢のついた道路を取り囲むように、新旧の建物が無分別に建っている。そこでみかける若い衆の集まりが、どこか東京と違ってみえるのは、彼らが(ひと昔前の言い方でいえば)「ヤンキー的」で「郊外の人」っぽさがあるためだろうか。自動車のエクステリアも、ここでは東京風・オタク痛車風ではなく、そうではない何者か風だ。
食文化の違いも無視できない。
上の写真は岡崎市(三河国)のもので恐縮だが、この味噌に加えて、きしめんやすがきやといった食べ物が愛知県にはある。好悪はさておき、それらは東京からインストールされた文化とはいいがたい食文化で、控えめに言っても東京の人に比べれば、名古屋の人はそれらに馴染みがあるだろう。食文化にも何か、文化的相違があるわけで、それなら名古屋にも文化があるってことだろうし、こと、食文化に関しては「砂漠みたいな場所」と比喩されるほどの郊外にだって浸透しているだろう。
匿名ダイアリーの筆者は、こうした文化的相違に縁がないわけではなく、あまり関心がなかっただけなんじゃないだろうか。
関心がなければ、自分の住まう地域が東京とどこまで同じでどこから違うのか、セブンイレブンやユニクロやアマゾンに頼った生活には無い何かが身の回りにどのように・どれぐらい散在しているのか、意識のしようもない。意識のしようがなければ、そこに存在するはずの名古屋固有の文化も記憶に残らず、「ここには文化はない」という結論にも至ってしまうかもしれない。
文化って、なんだっけ?(特にこの問いに関して)
最後に、こういう話題についてまわりがちな問いを付け加えておく。
それは「文化とは何か」という問いである。
文化とはなんだろう?
ある人は、世界遺産や人間国宝と認定されるようなものと、その周辺の芸術や文物や活動を文化と呼ぶ。このような文化観は、人間活動の大半を文化の名に値しないものとみなし、文化として確立していない活動、たとえばユースカルチャーやサブカルチャーやカウンターカルチャーも文化未満とみなし、したがって、これから文化として興隆していきそうな活動や地方に残っていて衰退しつつある活動に対して否定的だ。
別の人は、音楽や絵画、踊りや祭り、儀式といったものを文化と呼ぶ。こちらの場合、ユースカルチャーやサブカルチャーやカウンターカルチャーも文化ってことになるし、インターネットのコンテンツたちも文化の産物ってことになるだろう。しかし、この文化観だけだと、地域ごとの挨拶の風習の違いや、方言、漬物のつくりかた、地域の暦といったものが文化として認識されないかもしれない。
wikipediaには、文化について広い定義として「総じていうと人間が社会の構成員として獲得する多数の振る舞いの全体のことである」という記述がある。私はこれがいいんじゃないかと思っている。この定義は、私たちひとりひとりが、それぞれの街や地域や共同体のなかで身に付けたり慣れたりするさまざまなものが文化の範疇におさまるからだ。それともうひとつ、この定義には文化の生産者や消費者が社会の構成員である、という含意があるのが私にはわかりやすい。
文化は共同体のなかでできあがっていくものだ。宗教的儀式も、方言も、流行り歌も、漬物のつくりかたも、味噌の使いかたも、それぞれの盛り場や商店街の雰囲気も、一人だけでできあがるものではない。熱田神宮あたりでみかける若い衆の服装だってそうだろうし、尾張や三河の方言だってそうだろう。地元の共同体の祭事にかかわる重要なものもあれば、「学生が小腹がすいた時にすがきやに行く」「外野にはわかりにくい味噌の使い方に馴染んでいる」もあれば、「名鉄に乗り慣れている」「ドラゴンズファンの多い地域に暮らしている」といったささやかな感覚も含まれるかもしれない。
ちなみに共同体の構成員として獲得する振る舞いという意味では「はてなブックマークの使い方」「インスタグラムの使い方」あたりも文化だと言ってしまえる。はてなスターをもらって喜ぶはてなブックマーカーの性質もそうかもしれない。
道路だらけの名古屋なのだから、モータリゼーションに親和的な色々も名古屋の文化の一部だと思う。大都市圏と言って良い街だけど、名古屋はロードサイド的な一面も兼ね備えていて、公共交通機関への依存度が高い東京や神奈川とは気色が違っている。同じくロードサイド的な大都市といえば福岡や札幌も挙がるけれど、じゃあ、名古屋が福岡や札幌と同じかといったら、(風土も含めて)これは絶対に同じではない。
そうやって指さし確認していくと、やっぱり名古屋には名古屋らしさとでいうべきもの、他の都市とは違う文化らしきものが人にも暮らしにも土地にも見つかり、その総体としてできあがった文化を名古屋の人は多かれ少なかれ共有しているのだと思う。もちろん名古屋に限った話ではない。福岡や札幌、新潟や岡山、もっと小さな地方都市や町村部もそうだ。東京のコピー的な食習慣や文化がトップダウン的に伝わるようになり、いわば文化の中央集権化が進んでいるのも事実だろうけど、よく見れば、その土地・その共同体ならではのユニークさがそれなり残っていて、東京との文化の相違、ひいては、その土地の文化のプレゼンスになっている。そういったものは、案外スーパーマーケットやホームストアにも現れ出ていたりするし、七夕や盆の季節にはコンビニが実によく地元文化を反映していたりする。そしてそうした文化を、実は(日本海側とか、瀬戸内とかいった)風土が裏から支えていたりもする。
こういった文化の違いはいろんな街に出かけて街歩きするとわかりやすいように思うので、
東京か田舎かみたいな論争の前に郊外都市をもっと見てくれ。マジで砂漠みたいな場所だから。
匿名ダイアリーの筆者も、いろんな地域のいろんな街、それこそ名古屋以外の街や郊外も見て回ったら、案外、砂漠が砂漠には見えなくなってくるかもよ、と思ったりする。それか、「どんな砂漠にだって文化がある」と感じるようになるんじゃないだろうか。
*1:西と東のエリアも本当はかなり違っていて、清州や稲沢のほうにいくと田んぼのある街並みが待っている