シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

現代人がSNSの影響を受けるといっても色々で……

 
20240704 - 退屈なエピローグはつづく
 
2024年初頭、まだ寒い京都のカフェで私は上掲リンクの筆者、ちろきしんさんにお会いする機会を得た。その前には、ちろきしんさんの同人誌制作を少しお手伝いするご縁もあって、その同人誌は90~10年代ぐらいにかけてのビジュアルノベルやエロゲーについて記したものだった。
 
で、上掲リンク先である。
 
私がちろきしんさんに「ひと昔前にいたような青年」という印象、それから懐かしさを感じた。上掲リンク先でちろきしんさん自身が書いているように、ちろきしんさんの関心と懊悩はSNS時代の自意識や悩みとして以上に、90~00年代的な自意識や悩みとして現れている。
 
90~00年代的な悩みや自意識も、いちおう近代に属する産物なのだろう。個人主義的で進歩的で、連続性や統一性のあるひとりの人間の内側で葛藤しがちな自意識、ひいては自己だ。とはいえ近代的な自意識にもいろいろとあるはずで、明治時代の先進的インテリのそれと、昭和時代の終わり頃の小説や映画で描かれていたそれと、LeafやKeyのビジュアルノベル(いわゆる葉鍵ってやつだ)に何か大事なことが書いてあると感じていた人々のそれは、それなりに違っているようにも思う。
 
と同時に、その相違はフロイト的な自己とコフート的な自己の違い(つまり構造神経症的な自己と自己愛パーソナリティ的な自己の違い)とも、リースマンの内部志向型人間と他人志向型人間の違い、と言えるかもしれない。
 
こうした、近代的な自意識・自己のなかのサブカテゴリ―や相違みたいなものを前提に考えると、SNSという装置は人間をリースマンが想定していた頃以上に他人志向型人間にしやすく、コフートが論じた頃以上に自己愛パーソナリティ的な自己に持っていきやすい、そんな装置だと言いたくなる。いや、実際そうだろう。SNSは承認欲求を意識させやすく、それが充足するように人をたきつける。それだけではない。所属欲求を意識させやすく、それが充足するよう人をたきつける一面も持っている。
 
後者は思想信条ごとにエコチェンバー化したタイムラインを作り出しただけでなく、推し活を意識しやすい社会状況も生み出した。コフートに基づくなら、承認欲求の充足は鏡映自己対象体験に、エコチェンバー化したタイムラインや推し活は理想化自己対象体験に通じ、どちらもナルシシズム充足体験に相当する。そのような充足体験の気持ち良さを体験しやすく、欲しがりやすくするのがSNSの一面で、そのうえ、その充足までの待ち時間や手続きが異様に短いのもSNSだ。
 
SNSをとおした承認欲求・所属欲求・ナルシシズムの充足、要は社会的欲求の充足は、従来からの欲求充足に比べると
 
1.欲求充足のためのダイスロール*1→欲求充足の成否が判明するまでの時間が短い
2.欲求充足のための時間的制約が少ない(24時間365日、欲求充足のダイスロールができてしまう)
3.欲求充足のための空間的制約が少ない(職場のトイレでも、寝室でも、旅先でもダイスロールができてしまう)
4.欲求充足のためのジャンル的制約が少ない(どれほどマイナーな趣味・意見・主張でも、承認欲求や所属欲求の充足が可能な人や集団が見つかる)
5.欲求充足のための方法的制約が少ない(自分が得意とするものや見せたいものだけを提示できる、苦手なものや見せたくないものを隠しやすい)
 
といった特徴を持っている。これらの特徴は、ある程度までは(昭和以前の地域共同体と比較して)80-00年代の大都会にみられるものだった。なぜなら、匿名性が高く不夜城的な大都会は、SNSほどではないにせよ、それ以前の地域共同体と比較すればこれらに当てはまる傾向が強かったからだ。
 
こうして考えると、SNS時代の自意識や自己といっても、その前身は80-00年代の大都会のそれ、匿名的でデジタルな人間関係が可能になったゲゼルシャフト的な都市空間のそれの発展型と考えてもいいのかもしれない。そのことを思うと、SNSがいまどきの自意識や自己を生み出したのか、それとも80-00年代の大都会の自意識や自己をプロトタイプとしてSNSが生み出されたのか、わからなくなる思いがする。
 
現段階の私は、SNSをつくりだした人々が想定していたコミュニケーションが既に80-90年代の大都会のそれだったからSNSがこのように作り出され、SNSをとおして私たちの自意識や自己が今まで以上に1.~5.の特徴を持ったコミュニケーションに慣らされているんじゃないかと想像していたりする。が、twitterやFacebookの創始者が21世紀の人々の自意識や自己を変革しようとはじめから意図していたわけでもなかろうから、こうしたことを一生懸命に考えていても詮無きことだろう。
 
ともあれだ。
こうしたコミュニケーションと欲求充足の構図が20世紀以前よりもずっと優勢になり、ずっと普及してしまったのが2024年の日本社会、ひいては世界全体の構図なのだろう、と思う。こうしたコミュニケーションの可能性は、もちろんパソコン通信の時代やインターネットの黎明期~普及期にも予測可能なものではあった。しかし、普及率がめちゃくちゃ高くなったこと、非常に若い頃からSNSを誰もが利用するようになったことで、もはや避けて通るほうが難しいほど社会に定着してしまった。
 
 

ただし、SNSの影響を受ける人にもいろいろあり……

 
じゃあ、誰もがSNS経由のコミュニケーションにすっかりとらわれて、SNS的な自意識や自己としてできあがってしまうものだろうか?
 
SNSごしに専ら社会を覗いていると、そのような個人がたくさんいるように見える。SNSで癒えることのない欲求充足にあくせくする人々、および、欲求充足と収入を接続させてしまった人々は、SNSという鉄鎖に自意識や自己を縛り付けられているようにみえる。なるほど、アカウントごとに自意識や自己を「分人」することはできようけれども、アカウントひとつひとつにフォーカスをあてるなら、そこで終わりなき欲求充足をがんばっている人は、永遠の苦役と永遠の欲求充足の区別がつかない世界に縛り付けられているようにみえる。
 
しかし、実際にはそんな人ばかりではない。
適度にSNSを利用している人もいるし、1.から5.までの条件にそこまで自意識や自己をゆがめられていない人だっている。では、誰がSNSから強い影響を受けて、誰がたいした影響を受けないのかを考えたくもなる。
 
ひとつには、SNSへ依存せざるを得ない度合い。
欲求充足がSNSの外側でだいたい完結している人は、SNS上で欲求充足する必要がほとんどない。友達や恋人や家族といった、人間関係がSNSの外側にたくさんある人も同様だろう。SNSを使い込む必要も、SNSで欲求充足に明け暮れる必要も乏しければ、受ける影響は小さくなる。当たり前といえば当たり前のことだが、これは見逃してはいけないポイントのひとつだろう。今日、SNSとオフライン世界を区切り過ぎるのナンセンスだが、とはいえ、オフライン世界のほうがウエイトの大きなコミュニケーションは、そうでない、SNSオンリーのコミュニケーションとは質的にかなり違っている。
 
もうひとつは、個人精神病理の問題。
私がこういう言葉を書く際には「病態水準」というテクニカルタームが脳裏をよぎっている。この「病態水準」という言葉は神経発達症(発達障害)が人口に膾炙し、精神分析的な読み筋が目立たなくなった現代では知っている人しか知らない言葉になってしまったが、しかし自己や自意識の被影響性や防衛機制のしなやかさなどを推しはかる際には有用なテクニカルタームだし、ロールシャッハテストなどを読み取る際にもわかっていたほうが良いものだ。
 
……などと書くと大げさだが、ここでは仮に「個人精神病理の問題=ひとりひとりの心の性質、脆さやしなやかさや融通性の問題」と思っておいていただきたい。
SNSの欲求充足の環に入って、たちまちそれに呑まれる人もいれば、わりと平然としていられる人がいる。推し活に熱をあげた時に社会適応ときちんと折り合いがつけられる人がいれば、それができずに経済的・社会的な損失を招いてしまう人がいる。そうした個々人の相違はなんだかんだ言っても大きい。
 
よく、「〇〇という作品を見て影響を受けて犯行に及んだ」などと証言する容疑者がメディアで報じられたりするが、あれも、基本的には個人精神病理の問題とみるべきだろう。ほとんどの人は、殺人事件のドラマや変態的なアニメを見てもそれに影響を受けて犯行に及んだりはしない。だが、ごくまれに、きわめて被影響性の強い人も世の中にいて、そういう人が作品に触れてしまうと、通常は考えられないほど感化されてしまうことがあったりする。そのような「〇〇という作品を見て犯行に及んだ」系の事件は、だから基本的には容疑者自身の特異性が問題にされなければならないし、きっとその人は当該作品に出会わなくても別の何かに出会って影響を受け、何かをやってしまっただろう。
 
もし、本当にドラマやアニメが犯行をうながすものだったら、放送直後にその内容を模倣した事件が同時多発しなければならないはずである(し、もし、そんなドラマやアニメがあったら、確かにそれは禁じられなければならないだろう)。
 
ここで、ちろきしんさん自身のことに話を戻すと、だから、ちろきしんさんがSNSという環境から受ける影響には、ちろきしんさん自身の人間関係やちろきしんさん自身の心の構造──ここでいう心の構造とは、さきほどから登場している個人精神病理といったテクニカルタームがあてがわれる領域として想像していただきたい──の問題が絡んでいる。
 
私はこの個人精神病理の問題に関心をある程度持っていたが、私の好きな理論家はだいたい個人精神病理の問題がそれほど大きくは変化しない(少なくとも、変化を促すのは容易なことではない)と言っているので、私もそれにならい、観測はするけれども改変はできるとあまり考えなくなっている。少なくとも今日の精神医療はそれを真正面から取り扱い、改変を目指すような仕組みにはなっていない。
 
しかし、人間関係や社会関係の網目は人生のなかで刻一刻と変わっていく。そして人間関係や社会関係こそ、人を変え、人を成長させる可能性をもたらすものなので、ここを耕すのが結局一番大事ではないか、と個人的には思う。その際、SNSは味方にも敵にもなりえる。ここから、どんなSNSの使い方が人間関係や社会関係を耕すことに直結するのか、という問いが生まれるだろうけれど、それは今までブログでも本でもたくさん書いてきたので今回は省略する。ともあれ、結局自己や自意識の問題は、自分自身を取り囲む人間関係や社会関係に大きく規定され、またそれらによって変化を受け続ける。だから現在の自分自身の自己や自意識のありように実践的な変化をもたらしたい人には、人間関係や社会関係をどう維持・改変していくのかに意を用いる必要があるし、どのような場(もちろんSNSを含む)でそれを追求するのかに思慮を働かせる必要もある。
 
なお、そうした人間関係や社会関係の操縦の難しさやままならなさについては、たぶん私よりも文学を追いかけている人のほうがセンシティブだと思われるので、そういう人の言葉に耳を傾けると何か聞こえてくるかもしれない。文学も社会適応のよすがたり得るが、書き手にとってはともかく、読み手にとってどこまで効果があるのかはよくわからない。まあこれも個人差があるだろう。SNS時代の生きづらさについては、Xやはてなブログには私よりも詳しい人があちこちに沢山いると思われるので、そういう人の声を丁寧に拾っていってください。
 
 

*1:ここでは、欲求充足のための行動やアウトプットを、TRPGっぽくダイスロール、という表現にまとめておく