シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

私にとって、オタクやキャラクター消費の話は社会の話なんです

 
 

cider_kondoのブックマーク / 2024年1月23日 - はてなブックマーク
シロクマ先生、今ホッテントリってる意地悪婆さん話もそうだけど、こういう本業と社会の変化踏まえた考察の方が(よく書いてる迷走してるオタク論みたいなのより)圧倒的に面白いよな…

 
こんにちは、はてなブックマークユーザーのcider_kondoさん。熊代です。先日のブログ記事に上掲コメントをくださりありがとうございました。これに関して、cider_kondoさん個人に返信したいと思います。
 
 

長く相互認識している人でなければ返信は難しい

 
少しだけ前置きを。
私は現在、ブログ側からはてなブックマークに返信するのは難しい、と感じています。00年代の頃は見知らぬはてなブックマークユーザーに返信するのも気軽で、ブロガーがそうしている様子をしばしば見かけたものです。しかしはてなブックマークを中心としたコミュニティが希薄化し、その後色々な出来事もあったために、ブログ側からはてなブックマークに返信することは少なくなりました。ブロガー同士でもです。
 
でも、cider_kondoさんはしばしば私のブログを読んでくださっているし、タイトルしか読めない人やタイトルすら読めない人からは遠いとも思うので返信してみます。「これは、返信という体裁をとったモノローグだ!」とご指摘されたら、にべもありませんが。
 
 

オタクの話は社会の話と繋がっている。私のなかでは。

 
さて、cider_kondoさんは「よく書いている迷走したオタク論よりも、精神医療と社会の変化についての考察のほうが面白い」と書いてらっしゃいました。
 
私はこれを読み、自分自身の至らなさを思いました。cider_kondoさんがこのように評しておられるならば、事実の一端を示しているのは間違いないでしょう。
 
ひとつ。私がオタクやその周辺について書いたものが面白くないとしたら、至らないですね。私自身にとって面白いこと・私自身が興味を持って眺めていることが、面白いこととしてちゃんとした読者にも伝わっていないのです。それはブロガーとして慚愧のきわみです。
 
ふたつ。私がオタクやその周辺について書いたものが、継続的に読んでくださる方にも迷走してみえるとしたら、至らないですね。私のなかではオタクについて、特にオタクのキャラクター消費については一貫した見方があります。フリーレンの話も、湯水のように消費されるキャラクターの話も、「神様としての初音ミク」の話もベースは同じで、自分では頑なだと思っていました。となると、私はもっと工夫し、努力すべきだと思いました。
 
みっつ。私がオタクやキャラクター消費について書く時、たいていは精神分析と社会の変化といった目線を含んでいるつもりでした。私がオタクについて論じる時、頻繁に脳裏をよぎるのは以下の書籍たちの内容です。
 

 
特に重要なのがH.コフート『自己の修復』ですね。より正確には『自己の分析』『自己の治癒』も含むコフートの自己心理学三部作です。二次元でも三次元でも、遠くのインフルエンサーでも近くの先輩や後輩でも、向社会的な心理的欲求とその充足*1について、私はコフート三部作に基づいて考えています。これを下部構造として、ポスト構造主義的ないろいろが乗っかってあれこれを考えているわけです*2
 
フロイトやその弟子筋の自我心理学の述べてきた事々と比較して、コフートが創始した自己心理学・およびそのナルシシズム論は、核家族化が進行し一人世帯が増えた社会によくフィットしていると私は考えています。自己心理学は、統合失調症や双極症など明確な精神疾患を紐解くものではありません。コフートは自己愛パーソナリティ(障害)からスタートして、やがて、20世紀後半以降のありふれた個人のありふれた心理的欲求とその充足を取り扱えるナルシシズム論へと転向しました。大筋として彼は、ナルシシズムの否定でなく、ナルシシズムのメカニズムとナルシシズムの成長可能性について記しています。
  
リースマン『孤独な群衆』でいえば、フロイト時代に相当する「内部志向型人間」の次である「他人志向型人間」の心理的欲求とその充足にしっくり来るのがコフート(とその自己心理学)、といえばイメージが伝わるでしょうか。
 
そしてコフートの理論立ては、心理的欲求とその充足に際して、友達や師匠や恋人といった他者が実際にどうであるかよりも、その人自身にとってどのように体験されているのかを重視しています。ナルシシズムをみたしてくれる対象を「自己対象」と呼び、ナルシシズムがみたされた体験を「自己対象体験」とわざわざ呼ぶのもその反映です。自己対象の論立ては人間だけでなく、「萌え」や「推し」の対象であるキャラクターにも適用できます*3。私が「萌え」や「推し」について語っている時は、必ずといって良いほど背景にはコフートの論立てがあり、その人自身にとってキャラクターがどのように体験されているか、ひいてはどのような心理的欲求のニーズに基づいて、どのように欲求充足が行われているのか(または欲求充足がうまくいかなかったのか)を念頭に置いてしゃべっています。
 
ただし私は、そのコフートと自己心理学も絶対的なものでなく、相対的なものだとみなしています。たとえば、さきほど挙げた『孤独な群衆』でいう「内部志向型人間」の時代にはコフート三部作はあまり有効ではなく、フロイトのほうがしっくり来るのではないでしょうか。狩猟採集社会にもコフート三部作は不向きでしょう。
 
私は精神分析諸派がわりと好きですが、ひとつの精神分析モデルを絶対視するより、時代や社会によって相対化され得るモデルとみるのが好きです。そうしたわけで、私がコフートに基づいて「萌え」や「推し」について考える際にも「でも、これって核家族化や一人世帯化の進んだ社会の話ですよね?」というリミテーションをいつもくっつけています。そういうリミテーションの話も本当はもっとしたいですが、まだできていません。その話は21世紀後半の社会状況に見合った精神分析モデルがどんなものなのか、考えることにも通じているでしょう。
 
ですから、私の視界のなかでは、精神分析のいずれかに依拠して何かを語ることは社会や時代を語ることと常時接続しています。オタクや、オタクの嗜好するキャラクターたちについて語るのも、社会を語ることの一端です。『涼宮ハルヒの憂鬱』の長門有希萌えについて考えるのも、『バカとテストと召喚獣』の秀吉について考えるのも、その一端でした。が、cider_kondoさんにはそれが伝わっていない。他の読者ならいざ知らず、継続的に読んでくださるcider_kondoさんに。これはcider_kondoさんの問題でなくブロガーとしての私の問題でしょう。今更何かを変えようと思っても手遅れかもしれませんが、微力を尽くしたいと思いました。
 
 

自分に見えている世界を、愚直に書いていくしかない

 
私に限らずですが、ブログや書籍が複数名の目に触れる時、賛否があるのは当然です。最も成功した記事や論説やレビューでさえ、2割ぐらいは否定的なコメントがつくでしょう。
 
そのことを踏まえて、何を題材に・どのように書くか? スタンスやポリシーは書き手によってさまざまです。なるべく否定的なコメントがつかないよう書こうとする人もいれば、なるべくアテンションをかき集められるように書く人もいるでしょう。 
 
私の場合は、自分が見えている世界を愚直に書いていくしかないと思っています。
 

 
2月21日にハヤカワ新書としてリリースされる(と予想される)『人間はどこまで家畜か:現代人の精神構造』は、私が望遠レンズで世界をみた場合の話をしていて、望遠距離は、ホモ・サピエンス以前から22世紀ぐらいを想定しています(まだ書影も出ていないので、あまり細かいことは今は書けません)。
  
他方、1月20日にリリースされた『「推し」で心はみたされる?』は、もっと手前のレンズで世界をみた話です。時代は20世紀末~2020年代に限られ、「推し」を出発点として現代人の社会適応と心理的充足のトレンドに話が向かっていく本です。『人間はどこまで家畜か』ほどのスケール感はありませんが、これはこれで私が見た世界・私が見ている世界に違いありません。
 
冒頭で引用したcider_kondoさんのコメントは、読みようによっては「オタクのことなんて書いてないで本業と社会の変化について書いたほうが良いよ」というサジェスチョンにもみえます。が、ここまでお読みになればわかるとおり、私は自分が見た世界・見ている世界を愚直に書いていくしかありません。そして私はアニメやゲームが好きであると同時に、アニメやゲームが好きな人々の動向にも関心があるので、そちらも見つめ続け、書き続けるでしょう。
 
私のなかでは現代のキャラクター消費と現代のコミュニケーションの様態は近しく感じられていて、とりもなおさず、それは現代の心理的充足やナルシシズムの様態とも結びついたものです。アニメやゲームのキャラクター消費や市場淘汰のありさまは、(ある程度までは市場規模の拡大による生産者と消費者の多様化による影響などで説明できるとしても)、ある程度からは現代人のキャラクター観、ひいては人間観やコミュニケーション観と繋がりのある現象だと思います。それはそれで、私にとって追いかけ甲斐のある世界の姿、娑婆世界の様相なんです。
 
id:cider_kondo さんへの返信と称しながら、けっきょく「私はこんな風に世界をみていて面白がっています」の話に落着してしまいました。ああ、私ってこんなやつなんだな、とも思いました。反省はあまりしません。ブロガーって多かれ少なかれこういう生き物だったはずですから。cider_kondoさんからご評価いただける文章も、迷走しているとご指摘いただきそうな文章も、これからも真っすぐ書き続けていこうと思います。ではまた、インターネットの片隅にて。
 
 

*1:や、そこについてまわるトラブルや防衛機制

*2:それはそれとして、私は個別のゲームやアニメについて感想を書いていることがあります。が、それらがどう映るのかはここでは問いません

*3:自己対象という語彙も、人間に絞っていないことを念頭に置いた語彙ですね