シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

あのとき推していた人は、今もここで生きている

 
ここから書くことは『「推し」で心はみたされる?~21世紀の心理的充足のトレンド』よりも未来の出来事、「推し」の最盛期から時間が流れた後のことや、「推し」に相当する人と別れた後についてです。
 
先日、拙著について相次いで感想をいただきました。ありがとうございます。まずは、大橋彩香さんを推してらっしゃる soitanさんの感想です。
 
【感想】「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド - Soitan’s life
 
そのなかに、私が過去に書いた惣流アスカラングレーの文章や「推しを自分の心の神棚に祀って社会適応する」文章について書かれていて、懐かしく思いました。
 
私が一番キャラクターを「推し」ていたのは、いえ失礼、一番キャラクターに「萌え」ていたのは20~30代の頃でした。惣流アスカラングレーとその眷属(と私が呼んでいる共通点のあるキャラクターたち)を私は好いていただけでなく、人生の目標、自分自身のフラッグとして掲げてきました。「たかが『萌え』」「たかが『推し』」と私が考えないのは、自分にとってかけがえのないキャラクターたちが自分にとっての理想や目標や希望を牽引してくれ、そのキャラクターたちの良い部分や好ましい部分を自分自身にも取り込みたいと念じて、実際に私の行動パターンや考え方や人生が次第に変わってきた、と感じられるからです。
 
もちろん「推し」や「萌え」にも問題点や難しいところはあり、それらが現実逃避的なニュアンスでしかない場合もあるでしょう。けれどもキャラクターへの「推し」や「萌え」をとおして自分自身の人生が変わり得る・心象風景が変わり得るってのは私自身、体験済みなので、そこに可能性もあると思わずにいられません。
 
ディスプレイの向こう側のキャラクターは架空の存在ですが、その架空の存在をリスペクトし、あこがれ、牽引してもらえる可能性を、過小評価すべきではないと思います*1
 
キャラクターを推すこと・キャラクターに萌えることが人生の痛みを緩和するための麻酔薬でしかないとは、私は思わないし、思えないんですよ。
 
それでも、「推し」や「萌え」の対象は歳月とともに少しずつ遠ざかっていきます。私にしても、『新世紀エヴァンゲリオン』当時や『涼宮ハルヒの憂鬱』当時の心境からは随分と遠ざかりました。過去に出会ったキャラクターたちの余熱はまだ残っていますが、昔のように推したり萌えたりすることはできません。
 
キャラクターではない「推し」の場合、別れはもっと衝撃を伴っています。
「推し」という言葉より理想化自己対象と呼んだほうが適切かもしれませんが、私にはリスペクトしていた師が何人かいましたが、寄る年波に勝てなかったり、病を得たりして亡くなりました。生身の「推し」が亡くなるのは堪えるものですね。『「推し」で心はみたされる?』にも書きましたが、高齢者は、そういう体験を何度も経験するのでしょう。
 

高齢者には自己対象の喪失体験がついてまわります──友人の死、伴侶の死、恩師の死は、自分にとって大切だった自己対象の死に他ならず、自己対象の死とは、自分自身のナルシシズムの生態系の一部の喪失とも言えます。親しい人の死とは、亡くなった人の死を悼むに加えて、自分自身にとって必要不可欠だったはずの自己対象の喪失をも悼まなければならない体験です。
━━『「推し」で心はみたされる?』より 

自分にとって親しく感じられる人の死は、親しい人の死であると同時に、自分自身のナルシシズムの生態系の一部が永久に失われる事態でもあります。長年連れ添った伴侶の死など、それが顕著でしょう。高齢になればそうしたことが次第に増えてくるでしょうね。自分のことを好いてくれた人も、自分が好きだった人も、自分が推した人も、いつかは亡くなる日が来る。二次元のキャラクターたちへの余熱がゆっくりと冷めていくのに比べると、生身の「推し」の喪失は唐突です。
 
 

それでも「推し」からもらったものは消えない

 
次第に冷えて遠ざかっていく二次元の「推し」や「萌え」も、恩師や尊敬する人の死去も、哀しみが伴うのは避けられない気がします。それでも「推し」からいただいたものは残るので、それは大切にしていきたいですね。
 
今では遠くなってしまったキャラクターたちのことを私は懐かしく思い出しますし、そうしたキャラクターが人生のフラッグになってくれたおかげで今の自分の境遇があることを常に感謝しています。惣流アスカラングレーに関しては、私は「彼女は1997年7月19日に死んだ」が最もフォーマルな理解になっているので、本当はあの映画から惣流アスカラングレーという人はいません。案外、死んじゃったから私の人生のフラッグになってくれたのかもしれませんね。彼女を忘れてはならないし、あれを無駄死ににするつもりはないし、その魂を私がもらい受けることにしたわけですから。もらい受けた後の彼女は私とともに成長し、今ではおばさんです。そういうことになっています*2
 
それは多かれ少なかれ他のキャラクターたちにも言えることで、かつて慕ったキャラクター、かつて憧れたキャラクターたちの残影や残響は私の心のなかで生きています。もう一人、感想を送ってくださった modern-clothesさんもそう思いますか?
 
何かを尊く思うこと −−熊代亨『「推し」で心はみたされる?』感想 - 残響の足りない部屋
 
上掲のブログ記事には、

 私はCCさくら世界やラブひな世界、こみっくパーティー世界やKanon世界に逃避することで、ハードな色彩に感じていた現実からの癒やしを得ていました。あの世界(たち)には本当に感謝しています。あの世界とキャラは本当に素晴らしかった…私の「推し」は素晴らしかった。

と書いてあって、加えて、現実逃避的だったとも記されています。確かに現実逃避的な側面はあったのかもしれません。でも、そのとき確かに「推し」を推していた時間があって、何かを受け取って記憶しているのなら、それは単なる過去形では済まされない、現在をかたちづくる一端となった出来事だったと私なら思います。
 
「推し」や「萌え」が社会適応にどれだけ役に立つのか、役に立たないのかという議論を、いうまでもなく私は意識します。でも、そういうのを抜きにしても「推し」や「萌え」から受け取ったものは無かったことにはなりません。少なくとも、自分自身が積極的に捨て去らない限りはなくならないでしょう。そこも、大切なところでしょう。
 
生身の「推し」については尚更です。
私の師たちは亡くなってしまったけれども、彼らから継承した知識、技能、言葉、身振りといったものは私のなかに残っています。思い出も。もう二度と彼らに会うことはできないけれども、敬意や敬愛をとおして彼らからもらったもの・盗んだものはまだここにあって、私のなかで生きています。私もすっかり中年なので、、これからは私の知識、技能、言葉、身振りを誰かにさしあげられたらいいのですけど。
 
『「推し」で心はみたされる?』では、「推し」はコフートの言葉に基づいて理想化自己対象体験とまとめられていますが、理想化自己対象体験は単なる心理的充足の経路ではなく、知識、技能、言葉、身振りの伝承経路でもあります。案外、それは生身の自己対象だけでなく、二次元の自己対象でも起こり得ることかもしれません。そうして継承されるもの・譲り受けるものがある限り、「推し」からもらったものは消えないし、自分の代からもっと後の代に継承させることさえできるかもしれません。
 
「推し活」にも色々あって、刹那的で、後に何も残らないような「推し活」もあるのでしょうね。でも、たいていの「推し活」は何かが残るし、何かが継承されるし、いつか別れの時が来ても受け取ったものは手許に残ると私は考えています。「推し」なんてむなしいことでしかない、とは考えたくないですね。二次元でも三次元でも、良い「推し」に出会ったなら、より良く推していきたいですね。拙著が、そういう推しとのお付き合いのヒントになったとするなら、私は嬉しいです。引用させていただいたふたつのブログそれぞれの筆者さん、感想、ありがとうございました。
 

阿佐ヶ谷ロフトで2月25日の昼間におしゃべりをする予定です。よろしかったらおでかけください。
 
 

*1:それをどこまで「計画的に人生のなかで利用しようと目論む」のかはまた別の問題です。あまり計算高くなってはうまくいかないように私は思いますが

*2:この「私にとってこのキャラクターは私のなかではこうなっている」がAさんもBさんもCさんもそれぞれ持って構わないという含意があの頃の「萌え」には間違いなくあり、それも私に味方しました