土着の宗教としてのスカイツリー pic.twitter.com/r3uGVL85A3
— wat_mat (@wat_mat) 2024年2月12日
今朝、通勤中にX(旧twitter)をチラ見したら上のポストが表示されて「わかるわかる! 東京スカイツリーって、おれらのことを見てるよね」と思ったので少しだけ。
東京都、とりわけ台東区や墨田区のあたりを歩いていると、どこの路地からも東京スカイツリーの姿がみえる。近くに行くと、こうやって見上げなければならないほどスカイツリーは大きい。
『ブラタモリ』によれば、スカイツリーは一帯のなかでも少し高い土地に立っているというから、ただでさえ高いスカイツリーが一層目立つのだろう。そのうえ周辺にはあまり高層の建物がない。だからか、東京の東のほうを街歩きしていると、いつも同じ顔つきのスカイツリーがこちらを見つめているような気がする。それが私にはなんだか落ち着かない。いつもスカイツリーがこちらを監視しているような思い込みに駆られてしまう。
これではまるで、スカイツリーは墨田区のパノプティコンではないか!
パノプティコン(一望監視装置)は、ベンサムが考案したとされる、中央にもうけられた監視ポストから360度の囚人を監視できる監視装置だ。中央の監視ポストで監視員が実際に監視しているかどうかは、問題にはならない。いつでも監視され得ること・監視員が監視している「かもしれない」ことが重要で、それが囚人に品行方正な行動を促していく。囚人を更生させる装置としてのパノプティコンは理解できるけど、あまり気持ちの良い装置には見えない。
くだんの標語を考えた人は、この、パノプティコンという気味の悪い機構を知らなかったのではないだろうか。もし知っていたら、タバコをポイ捨てする人だけでなく、墨田区や台東区の人々ぜんたいが監視されているように思えて標語にしたくなくなるんじゃないかと思う。
東京スカイツリーに、実際にそのような監視の機能があるとは思えない。が、地表の人々が監視されているのかどうかは、問題にはならない。いつでも監視され得ること・高みから覗き得ることが問題だ。スカイツリー並みの巨大構築物を建てた人々がパノプティコンのことを知らないとは思えないから、案外、電波塔ついでにパノプティコン的な「まなざされているかもしれない感覚と、それによる人々の行動の変容」をちょっとぐらいは期待していたのではないか、などと深読みしたくなってしまう。少なくとも私のような人間には、いつでもどこでもスカイツリーが顔を覗かせるあの一帯にいると、背筋を伸ばさなければならないような気分が沸いてくる。
ほかのタワーと比較してみる
しようもない話ついでに、他のタワーについても少しだけ。
京都の南側からは京都タワーが見える場所が多い。とはいえ、京都タワーからパノプティコンみを感じたことはほとんど無い。「京都駅の近くの巨大なローソク」と思い込んでしまっているからかもしれない。京都タワーだって、けっこう南のほうからでも見えるものなのだけど。
それ以上にたいしたことがないのが東京タワーで、増上寺や芝公園ではともかく、ちょっと遠くに離れるとたちまちビルの谷間に埋もれてしまう。昭和の観光名所として、訪れ甲斐のあるスポットではあるのだけど、地面にへばりつく民衆を監視しちゃうぞって迫力はない。
それから台北101観景台。
このタワーもかなり遠くから見えて、あちこちの路地からニョキニョキと姿をみせる。でも、周囲にビルが乱立しているせいか、東京スカイツリーに比べればパノプティコンみが少ない。
こうして比較してみると、東京スカイツリーのパノプティコンみが頭一つ抜けているので、見張られている感覚を満喫(?)したい人は、台東区や墨田区で街歩きするといいんじゃないかと思います。