シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

自分の物語でなく、東京という物語を生きることの功罪

 
「東京をやっていこうとしている」人たちの一喜一憂 | Books&Apps
 
昨日、books&appsさんに「東京をやっていこうとしている」人たちについての文章を寄稿した。「東京をやっていく」という表現は不自然かもだが、東京のイメージに沿って生きようとしている人、東京からイメージされるライフスタイルを追いかける人ってのは実際存在している。そうした人たちを「東京をやっていこうとしている」人たちと呼ぶのはそんなに的外れでもないだろう。
 
と同時に、「東京をやっていこうとしている」こと自体は悪いことではない、はずだ。
 
リンク先でも書いたように、東京をやっていこうとしていること自体はプラスにもマイナスにも働き得る。ツイッターでぶんぶん唸り声をあげているタワマン文学的・東京カレンダー的文章に感化されると、つい、それが執着無間地獄への片道切符のようにみえるかもしれないが、タワマンに住む人が皆そうなるわけでも、上京する人が皆そうなるわけでもない。東京をやっていこうとしていて、まんざらでもない人生を歩む人もそれなりいる。
 
ただ、そういう人はツイッターでぶんぶん唸り声をあげているような、いわばタワマンの上層階を見上げて首が痛くなってしまうようなライフスタイルと自意識を持っていないだけのことだ。
 
もちろん東京という街は、住まいもファッションもホビーもなにもかもヒエラルキーづける・差異化づけられる街で、ぎょろぎょろと見ている人は見ているだろう。しかしこれだって程度問題だ。タワマンの上層階を見上げて心が頚椎症のようになってしまう人もいれば、ときどき意識して、ほんのり羨ましいと思って、でもその程度で済んでしまう人もいる。羨ましいと意識にのぼることがほとんどない人だっているだろう。
 
ファッションや趣味についてもそうだ。東京では、ヒエラルキーや差異化の視点でみるなら、上を見ても下を見てもきりがない。そうしたなか、首がもげそうなほど他人を見上げたり見下したりしていれば、どうあれ、まともな精神でいられるとは思えない。
 
実のところ、本当に肝心なのは「東京をやっていこうとしている」か否かではない。その、上を見ても下を見てもきりがない環境のなかで、タワマンの上層を見上げたり下層を見下げたりして心の頚椎症になってしまうようなメンタリティ、あるいはそれに関連した自分自身のありようこそ、肝心なのだろう。
 
 

自分の物語が見えてこない状態

 
では、心の頚椎症になってしまうメンタリティと、それに関連した自分自身のありようとはどういったものか。
 
一言にまとめるなら、「自分の人生を生きているのでなく、『東京』という物語を生きている人」という表現になるだろうか。もとより、これで言い切れたわけではない。けれども「東京をやっていこうとしている」人が執着無間地獄に落ちてしまうストーリーに触れる時、自分の人生を生きているというより、東京という物語を生きようとしていたり、東京という物語に生かされようとしていたりするさまを連想せずにいられなくなる。
 
ここでもう一度、『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』から引用してみよう。
 

 

 多少お金があると、人は文化と子育てにお金を使うようになるんです。僕にはそれがセットで来ました。お絵描き教室に通わされたり、市民ホールで興味のない歌舞伎を観させられたり、わざわざ車を出して隣の県の美術館に連れて行かれたり。特に母は、僕が美大にでも進むことを期待しているようでした。
 うつくしいものを注がれ、うつくしくないものは取り去られました。けろけろけろっぴのマグカップ。みんなと同じイオンのランドセル。仮面ライダーの変身ベルト。欲しかったけど買ってもらえなかったものたち。母は僕の持ち物だけでなく、まだ子どもで、友達と同じものばかり欲しがる僕の感性も完全にコントロールしようとしていました。
『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』所収、「うつくしい家」より

 
この短編集の短編それぞれの主人公たちは、「東京をやっていこうとしている」という言葉があてはまるだけではない。彼/彼女らは東京という物語を生きようとし、それが上手くいっていない。そして自分の物語を生きているという感覚がどこか薄い。
 
引用の人物などは、当人の人生に親の願いが覆いかぶさり、それが人生に染みついていてとれなくなっている。しかし同短編集で描かれているのは親の願いばかりではない。生まれた土地や継承した遺伝的形質、そういったものも自分の人生を生きることを困難にしているようにみえる。それとも、自分にはないものを持った他者を羨むあの目線。誰かをロールモデルとし、そのロールモデルに沿った価値観を内面化すること自体は構わない。しかし自分が幸福になれっこないような誰かをロールモデルとし、そのロールモデルを羨望したり嫉視したりして生きるのはいったい誰のための人生なのだろう。
 
そうしたわけで『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』には、自分の物語を生きている主人公がいないようにもみえる。主人公たちは、他人のことをよく見ていて、他人を見上げたり見下したりしている。自分自身のことも冷ややかに見ている……ようにみえるが、実際のところ、この登場人物たちは自分自身が本当に欲しいものがなんなのか、目星がつけられていないようにもみえる。「東京」をやっていく能力や背景が足りなかったのが表向きの躓きにみえて、実のところ、自分の物語、自分の執着についてこの人たちは把握できていないのではないだろうか。その結果として、東京という物語に人生を乗っ取られたマリオネットのように欲しがり、行動してしまう。
 
他人をじろじろ見るばかりで、「東京」という物語に人生を乗っ取られたかのような人物は、現実にも案外存在する。もちろん『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』の登場人物たちほど甚だしいことは稀だが、自分の物語がみえなくなって東京という物語に乗っ取られたような、それか東京という物語に依存しているような状況は珍しくない。そうした人々のすがる東京という物語にもさまざまなバリエーションがある。港区だけがその舞台なわけでもない。中央線沿線、小田急沿線でもそれは起こり得る。
 
 

自分の物語をどうやって確保すればいいのか

 
人間は社会的生物だから、ある程度までは社会や世間の物語を、他人の物語を生きてみたってかまわない、と私は思う。タワマンに夢を託したり、東京ならではの活動にアイデンティティの置きどころを見出したりするのも人生だ。それで自分の人生の物語を上手につくっている人などごまんといる。
 
しかし自分の物語ががらんどうのまま、東京という大きすぎる物語を生きる時、人という器は壊れてしまいやすいのだろうとも私は思う。人によっては「人という器が先に壊れていたのでしかない」と指摘するだろうし、そういう事例もあるだろうけど、皆が皆、そうというわけでもあるまい。なぜなら大学進学や就職あたりまでの時期は、自分の物語が自分でもわからなくなりやすく、社会や世間や他人の物語をレンタルせずにいられない時期でもあるからだ。
 
もし、そうした多感で曖昧な時期を東京で過ごすとして、東京の物語のマリオネットにならないためには何が必要なのだろう?
 
強いエゴパワーがあればいいのかもしれない。自分がどう生きたいのか見えていたらいいのかもしれない。もっと間近で尊敬に値する人生のロールモデルとの縁があればいいのかもしれない。それとも友達関係こそ、東京という物語を直視しすぎないために必要な秘訣だろうか。
 
わからない。
しかし間違いなく言えるのは、東京というあまりにも大きい街の、あまりにも大きすぎる物語に真正面から対峙するのはなかなか大変だということだ。東京という物語に過剰適応し、自分という物語を見失ってはならない。東京という物語に飲み込まれないまま東京に住んでいる人たちにとって、それは呼吸するのと同じぐらい簡単なことと思えるかもしれない。が、そうでない人にはまったく難しいことなのだろう。