シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

もうスポーツ選手や動画配信者は"野良犬のヒーロー"ではない

 


 
WBCが開催され、大谷翔平選手が出場していたりする中、上掲のようなツイートを見かけた。いや、本当に。スポーツ選手は品行方正になり、長く活躍する選手はフィジカルやメンタルの管理に余念がなく、「遊び」にうつつを抜かしているようにはみえない。発言、という点でもそうだろう。舌禍は一流選手にあってはならない。「口は悪いが腕は良い」などということが、今日日、どこまであり得るだろうか。
 
過去を振り返ってみれば、スポーツはもっと行儀の悪いもので「遊び」を多々含むものだった。昭和時代にあった、プロ野球選手の賭博問題、それも当時一流とみなされた選手たちによるスキャンダルなど思い出す。平成時代になってからも、一流とみなされたプロ選手が「遊び」で身を持ち崩すようにみえる姿がみられた。それらは選手とチームに悪影響を及ぼし、選手生命にも影響する。
  
アラン・コルバン監修『身体の歴史 II』によれば、特に近代以降、スポーツはより安全に・より行儀良く・よりデータ重視のものに変わってきたという。
 
かつてのスポーツは怪我をしやすい荒っぽいもので、馬上試合などはそのきわみだった。馬上試合に勝てばモテるし声望もあがる。が、競技とはいえ命を落とす可能性もある。馬上試合は早くに廃れたが、近代以前の他のスポーツももっと野蛮で野良臭く、今日のスポーツの定義に一致するものではなかった。今日でもスポーツに事故や死亡が伴うことはあるが、近代以前はその比ではない。
 
そのうえスポーツの周辺には騒動や問題がついてまわった。試合には賭け事や喧嘩、抗争が伴うもので、それが当たり前だった。BBCのニュースで「インドネシアのサッカー場では暴力行為が珍しくない]」と報じるものがあり、現代の私たちからみれば異様だが、過去のスポーツの試合とはそういう騒乱を伴いがちなものだったのだろう。
 
そんな、野蛮で危険で無秩序なスポーツ(の前身)がクリーンかつ安全にになっていく。近代のブルジョワ階級にとってのスポーツは、自己研鑽の過程であり肉体的・精神的卓越の証でもある。フェアネスが重んじられるようになる。「均整のとれた身体こそ美しい」という価値基準が台頭し、スポーツは生産性の高い人間をつくる手段ともなる。計測、という方法論をとおしてスポーツとその選手は科学的にもなった。スポーツ選手は管理されなければならず、作り替えられなければならない。
 
大谷選手やイチロー選手は、そうした、スポーツのクリーン化と科学化、管理化の最も成功した例なのだろうと思う。クリーンで、フェアで、記録や成績に最適化されたかたちで自分自身を作り込んでいく、その身体性と精神性。モニタリングやマネジメントに親和的であること。いまどきのトップスター選手には、そうしたものが必須なのだろう。IoT化をとおしてそうした技術は加速し、選手の身体は、いや、生活や行動までもが管理や自己改造の対象になっていく。
 

……最新のプロスポーツの世界では、AIとデータの世界に最適化しているカラダを改造させるというところまで進んでいる。
『ポスト・スポーツの時代』という本によると、米国のメジャーリーグでは高性能なレーダーで打球や投球、選手の動きなどを追尾して分析するシステムが普及している。これによって「フライボール革命」というものが球界を席巻しているという。
 同書が紹介しているのが、フライを打ち上げることがより高い確率で得点につながる可能性があるというデータによる新しい打撃理論である。その数値も明確になっており、打球速度が時速158km以上で、打球角度が26度から30度の範囲に打ち出されると、8割以上の確率で被っとになるという。……ヒットになるフライを打ち上げるのには、最低でも打球速度が158km必要だという。この速度を実現するためにはスイングの速度が時速約128km必要で、そのスイングのために必要な打者の体格は、脂肪を除いた体重で約65kg。かりに体脂肪率が15%だとすると、体重約75kgでこの打球が可能になる。
『Web3とメタバースは人間を自由にするか』より

未来を論じる『Web3とメタバースは人間を自由にするか』のなかで、佐々木俊尚はこのようにスポーツの未来を紹介したが、実際、今後ますますスポーツ選手はモニタリングやマネジメントをとおして作り替えられていくだろう。それでより強い選手となり、より長く活躍できる選手となり、より長くチームに貢献しより興業に貢献し、当人自身も社会的・経済的に成功する、というわけだ。
 
それらをストイックに突き詰めた時、「遊び」が選手の生活のうちにどれだけ残されるのだろう? そもそも「遊び」を求めたくなる精神性じたいが選手として欠格とみなされる未来がみえてくるし、もう、そうなっているのではないかとも疑う。プロスポーツ選手なるものが、ノイズなく、ぬかりなく、いつも記録や成績を追究しなければならないとしたら、それを可能とする精神性を持った人間こそ、鍛えられるべきサラブレッドだろう。プロスポーツ選手としてチームや世間に応えるうえでも、選手自身が最大の成功をおさめるうえでも、人間はサラブレッド化しなければならず、そのサラブレッド化はエビデンスと科学と資本主義の道理にかなったものでなければならない。
 
荒くれもののスポーツ選手・貧乏からたたき上げたスポーツ選手といった過去のテンプレは、きっと時代遅れだ。実際、スポーツ選手の卵たちを見ていると、えらくお金をかけながらトレーニングしているなと思わずにいられなくなる。
 


 
子どもが草野球や野良サッカーをやっていられる場所は令和の日本社会にはもうない。スポーツ少年たちは小さい頃からお金を払ってトレーニングを受け、モニタリングやマネジメントに馴染んでいく。科学的なエクソサイズによく馴染み、トレーナーによく訓練され、よく改造され得ることも才能のひとつだ。スポーツ選手はもう"野良犬のヒーロー"ではない。トレーナーによく訓練され得る"サラブレッドの星"と比喩すべきヒーローだ。
 
 

動画配信者も私たちも、そうして馴致されていく

 
似たようなことを、動画配信者として成功しているヒカキンにも思う。
 

 
ヒカキンはたくさんの美質を連想させる人物だ。動画づくりにストイックで、動画配信者人生に人生や生活を捧げたかのようにみえる。あちこちの動画配信者やVチューバ―がスキャンダルを起こしているのをよそに、品行方正をおおむね保っている。
 
動画配信者として長く活躍するにあたって、ヒカキンのストイックさは美質で、期待されるものだ。そうした性質はファンを喜ばせる動画を作り続けるだけでなく、取引先などに迷惑をかけないという点でも優れていて、いわばヒカキンの商品価値は高い。
 
逆に、登録者数や再生数の多い動画配信者でも、「遊び」にうつつをぬかしている人はアウトプットの先行きがわからないし、品行方正でない人はスキャンダルをとおして取引先やファンに迷惑をかけるかもしれない。生産性の先行きや信頼性の面で、そういう人は商品価値が低い。
 
プロスポーツ選手でも動画配信者でも小説家でもなんでもいいが、商品価値について考えるなら、まっすぐ商品価値を高めるようつとめられるのが良くて、「遊び」にうつつをぬかさないのが良くて、品行方正で信頼に足りることが良いことになる。SNSでの発言などもきっとそうだろう。プロスポーツ選手や動画配信者がSNSを適切に用いているか、不適切に用いているかは商品価値に直結する。
 
さて、そうしたうえで、もっとありふれた職業に就いている私たち自身を振り返ってみた時、プロスポーツ選手や動画配信者をどこまで他人事とみなせるものだろうか。
 
資本主義社会で労働力を売って賃金を獲得する私たちは、契約し労働力を売るという点においてやはり商品である。日本社会ではそう言い切れるほど労働力の流動性は高まっていない気もするが、とはいえ「労働力はいらんかえー」と売るにあたって私たちはやはり商品だし、履歴書や面接時の振る舞いをとおして、ときには過去のSNSの履歴などをとおして、商品価値が推し量られるのも事実だ。
 
そういう商品価値を問われる社会とは別段新しいものではないし、長く成功する人はストイックな継続能力や品行方正さを伴っているものではある。けれども実態としての労働者はもっと自堕落で、もっと「遊び」を含んでいて、子育てを含め、業務以外のことにも時間や労力をかけながら生きていた。ところが社会の生産性が高まると同時に誰もがクオリティ高く、私たち自身に期待される商品価値も高まっていくにつれて、私たち自身ももっとストイックにならねばならず、もっと「遊び」に流されず、もっと業務に資する生活をしていくよう期待されるようになっている。健康管理などもそうだろう。健康管理は個人の寿命の問題であると同時に、資本財としての私たちの商品価値にかかわる問題でもある。
 
そうした意識や実践の向上をみた時、私は、私たちの生がいわば大谷選手化、ヒカキン化しているとも感じる。私たちは商品価値を向上させ、あるいは維持させるためのモニタリングやマネジメントやトレーニングに馴致されなければならない。そうして誰もが馴致されるのが当たり前になれば、馴致されないことが問題点となり、逸脱となり、障害となるだろう。社会が進歩し、スポーツも発展し、私たちがいよいよ隅から隅まで商品化され科学化されデータ化されていく一連の流れのなかで、人間らしく生きるとは、人間らしく活躍するとはどういうことなのか立ち止まって考えてみる。私は「それって人間かよ、まるで生産されるサラブレッドみたいじゃないか」という思いがする。その比喩でいうなら、大谷選手やヒカキンは最高に活躍したサラブレッドだ。
 
幾分の皮肉を込めて言えば、私たちにはサラブレッドと違っている部分もある。活躍しなかったサラブレッドは食肉になるというが、今のところ私たちは食肉になることはないからだ。もうひとつ、サラブレッドと違っている部分がある──私たちには勤勉の倫理や資本主義的な価値観を内面化していくという、人間らしい機能もある。人間には意志や超自我があって凄いですね。大谷選手やヒカキンのストイシズムは、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に記された新教徒のストイシズムにも似ている。新教からキリスト教くささを取り除いた、キリスト教的というより資本主義的な倫理や価値観への信仰をも問われている点でも、私たちはサラブレッドたちとは違っている。
 
そうしてずっと働いて、ずっと管理されて訓練されて、ずっと活躍していれば、天国に辿りつけるのだろうか? しかして資本主義は、その問いに答えてはくれそうにない。