シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ベーシックインカムはきっと面白い人の味方

 
ITが単純労働を食い散らかした後にやってくること - orangeitems’s diary
 
 リンク先の文章は、ITが人間の仕事を奪っていった先に、労働や勤労の「権利」はどうなってしまうのか、を問うたものだ。人間の仕事がどんどんなくなり十分なベーシックインカムが普及したら、今度は「働く権利の喪失」という問題が浮上するのではないか、と書いている。
  
 世の中には、「人間にしかできない仕事をすればいい」という人もいる。では、人間にしかできない仕事がいったいどこにどれだけあるというのか? 人類史は、効率化とそれによる仕事の消失を繰り返してきた。産業革命がインドの機織り職人を壊滅させたように、オートメーション化によって単純労働の正規雇用がすり減っていったように、これからもテクノロジーは人間から仕事を奪い続けるだろう。少なくとも、狭い意味での仕事についてはそう考えたくなる。
 
 しかし、狭い意味での仕事に囚われないなら、この限りではない。噂話に夢中になること・憎悪すること・愛すること・生殖することなどは、人間にしかできないし、人間しかやりたがらない。また、機械やAIが完璧にこなしてみせることを、人間がやりたいようにやるのも仕事になるのかもしれない。ただし、21世紀に暮らす私たちはそれらの営みを仕事とは呼ばないし、仕事を「権利」と呼ぶ人々がありがたがるものでもあるまい。
 
 
 狭い意味での仕事を尊いもの・人間を救うものとみる見方は19世紀、さらにそれ以前にまで遡ることができる。
 

近代の労働観 (岩波新書)

近代の労働観 (岩波新書)

  • 作者:今村 仁司
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1998/10/20
  • メディア: 新書
 
 昔の偉い人達はしばしば仕事を神聖視してきた。いや、今でもそのような物言いをする人はまれではない。
 
 しかし狭い意味での仕事、ましてや嫌々働かなければならない仕事を、人間を救うものとみなせるものなのか。『近代の労働観』には、仕事が人に自尊心を与えて救うという時、それは仕事そのものが自尊心を提供しているのでなく、仕事をとおして他人から承認されたり社会と繋がったりしているから救われているのではないか、と疑問を投げかけるパートがある。
 
 この問いは、私たちにも間近に感じられるものだ。というのも、高収入というかたちで経済的に報われたと感じるか、仕事関連の社会関係をとおして承認欲求や所属欲求を充たされるか、ともあれ、自尊心の充足を伴った仕事を現代人は好むものだからだ。そして自尊心の充足を伴わない、ただキツいだけの倉庫番のような仕事に疎外を感じる。
 
 人間にとって肝心なのが仕事や労働そのものではなく、経済的、心理的、社会的な充足のほうだとしたら、機械やITが仕事をことごとく奪い、ベーシックインカムが実現した未来も案外悪くはないのかもしれない。狭い意味の仕事がなくなっても、さまざまな営みやレクリエーションをとおして承認欲求や所属欲求を充たせる暮らしが実現するなら、人は、それほどには疎外されないかもしれない。
 
 少なくとも、狭い意味での仕事がなくなっても疎外されず、おしゃべりやゴシップやレクリエーションや性行為をとおして満足に暮らせるタイプの人間がいるのは、間違いないと思う。
 
 

ベーシックインカムは面白い人・豊かな人を利する

 
 思うに、機械やAIが狭義の仕事を人間からとりあげて、高水準のベーシックインカムが実現した時、それが福音になる人間と疎外になってしまう人間がいるのではないだろうか。
 
 世の中には、おしゃべりやゴシップやレクリエーションをとおして自尊心を充たすのが上手な人がいる。特殊技能を持っているわけでも高収入なわけでもないけれども、人間関係を楽しむのが上手く、承認を獲得するのも、メンバーシップを実感するのも得意な人にとって、仕事からの解放は決定的にまずいものではないと思う。原田曜平がマイルドヤンキーという言葉で論じた人々のなかにも、そういう人は少なくないだろう。
 
 インターネット寄りの世界にも、ベーシックインカムが福音になりそうな人がたくさんいる。
 

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

  • 作者:pha
  • 出版社/メーカー: 技術評論社
  • 発売日: 2012/08/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 たとえば『ニートの歩き方』などで知られるphaさんは、ベーシックインカムの時代になっても困らないだろう。phaさんは、シェアハウスを立ち上げたり、面白い本を書いたり、面白いトークをやったり、楽しいことを自分で見つけられる人物だと思う。最近は、楽器をたしなんでいるという。
 
 従来の仕事の枠組みのなかでは評価のされようがなかったphaさんのようなタイプは、ベーシックインカムの時代には社会適応の王道を歩む人になるのではないだろうか。なぜなら、面白い話ができて、人の輪をつくることができて、楽器の楽しさを素直に楽しめるような人は、狭義の仕事に依存することなく自尊心を充たし、ひいては社会関係にも恵まれるだろうからだ。
 
 phaさんに限らず、面白いトークができる人、歌ってみたり踊ってみたりするのが上手い人、ゲームプレイで人を魅了できる人がインターネットの才人世界にはたくさんいる。グローバルな競争に勝てるほどの才能や技量がなくても、ライブで面白い人、小さな人間関係のなかでこそ輝く人なら、ベーシックインカム時代でも困ることはあまり無いように思う。
 
 ほんらい、収入という資本主義のモノサシでは高く評価されていなくても、やはり面白い人・豊かな人というのはいる。歌って、踊って、トークして、友情を感じたり恋をしたり、太鼓をたたいたり笛を吹いたりするのは、人間らしい豊かさだ。資本主義の尺度に忠実な機械やAIがやろうともしない豊かさを持った人が、ベーシックインカムの時代には光り輝く。
 
 付け加えると、他人をアトラクトしてやまない宗教家・政治家・芸能人のたぐいも、ベーシックインカムの時代にはますます活躍するに違いない。
 
 しかし逆に考えると、狭い意味での仕事しかできない人、あまり面白くない人は、ベーシックインカムの時代には光り輝かない、ということでもある。
 
 AIを制御するような一握りのスーパーエリートを例外として、ほとんどの人間がベーシックインカムに養われる時代が来たとき、狭い意味での仕事をとおして自尊心を充たすよう特化してきた人は、自尊心の宛先を見失ってしまう。冒頭リンク先の記事に書かれている内容は、そのような人々にこそ当てはまるだろう。
 
 人間らしい豊かさを犠牲にしてまで仕事に能力を振り分けてきた人々が、ベーシックインカムの時代に最も疎外されるのではないだろうか。
 
 誰もが面白くて豊かな人間になれるなら、ベーシックインカムの時代は薔薇色に違いない。ところが世の中には、仕事を失ってしまったら自尊心の宛先もモチベーションも見失ってしまう人々がいたりもする。歌や踊りやトークにもともと向いていなかったのか、それとも資本主義の下僕として真面目にトレーニングを積み重ねてきた結果としてそうなのか、ともあれ世の中には仕事に救われている人間、仕事がいちばん向いている人間が存在する。そのような人々にとって、ベーシックインカムの時代はユートピアとは言い難い。少なくとも、面白さや豊かさに恵まれた人間に比べると分が悪いだろう。
 
 
 ※12/1717:00追記。そうそう、上掲ツイートみたいなことが起こる。
 
  
 現代のような狭い意味での仕事の時代と、ベーシックインカムの時代では、人間に求められる資質が変わる、と言い換えることもできる。考えてみれば、そういうことは人類史のなかでは珍しくもないことだった。農耕社会が到来して移住の資質が要らなくなり、暴力が国家に束ねられるようになって腕力で争う資質が要らなくなった。20世紀後半には単純作業を繰り返す資質が要らなくなり、21世紀にはホワイトカラーの仕事をこなす資質が要らなくなりつつある。
 
ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来

 
 『ホモ・デウス』のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、テクノロジーの進歩の果てに人間が要らなくなる未来、または超人間が爆誕する未来をみる。そうかもしれない。しかしハラリ氏の未来予想は資本主義のロジックにちょっと忠実すぎると私には思える。それと、なんだか禁欲的で、享楽が足りないとも感じる。 
 
 たとえ資本主義の神に見放されても、歌って踊り、群れやカップルをつくって子どもを育てて、愛したり憎んだり噂話したりするユニークな動物としての人間は、滅ばない。AIや超人間が資本主義システム全般を我が物にした時、野生動物としての人間は資本主義の主人公でなくなると同時に、資本主義の軛から解放されて(または放逐されて)、良くも悪くも旧来の"人間力"を試されるのではないだろうか。
 
 もちろん資本主義の神そのものは冷酷きわまりないので、野生動物に戻った人間が資本主義に貢献しなくなったら害獣とみなされる可能性はある。別にジェノサイドしたりする必要はない、ただ、人間の繁殖確率を減らせば良いだけのことだ。しかしその緩慢な衰退のプロセスにおいて、ベーシックインカムという状況をいちばん楽しく過ごせるのは、きっと面白い人々、ある種の豊かさを捨てなかった人々だ。人々は再び、ユニークな猿として生きていく。
 
 
 
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 この文章を書き始めた段階では、「ベーシックインカムの時代になったら、文化資本のある人が人気者になって、文化資本の乏しい人が不人気者になるから、結局なんらかの格差は残るのでは?」と書くつもりだった。
 
 ところが「ベーシックインカムが導入される」という夢のような話にあてられているうちに、私の空想もどんどん膨らんでしまった。
  
 人間は社会的生物だから、どんな時代になっても、承認や所属を求めてやまないユニークな動物のままだと思う。そして人気や影響力を巡って競争し続け、勝者と敗者が生まれるのだろう。その度し難い性質は、ベーシックインカムが実現して100年やそこらぐらいでは変わるまい。