シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

均一であるよう人間に圧がかかっている現状と、多様性という言葉

 
今日の内容はブレストなので根拠・引用を引いてくることはなく、自分自身に向けて書いた内容だ。それでも覗きたいって人以外は回れ右してください。
 
私は多様性という言葉にいつも引っかかりを覚えている。生物多様性、文化的多様性、そういったものを大切にしなさいと聞いてきた。多様性は大切なものなのだろう、生物学的にも、資本主義的にも、個人主義的にも、正当性を伴った統治を執り行ううえでも。
 
他方で精神医療やってると、なんだよ、多様性って本当にやる気ってあんのかよ、という現実も目に飛び込んでくる。落ち着きのない人、不注意な人、対人コミュニケーションに特有の性質のある人、大勢の前でしゃべるのが苦手な人、等々。そうした人たちにさまざまな診断を行い治療や援助を行うのは大切な仕事だ。自分の仕事が患者さんに貢献できていると感じられる。
 
でも、そこで治療や援助を行って患者さんが「良くなる」「生きやすくなる」って、多様性とは違うようにみえる。もともとは多様だった人間の多様な性質を、診断や治療の必要がない、比較的多くみられるタイプの人々*1へと「寄せる」のが治療や援助の内実のようにみえる。社会のマジョリティのほうに寄せきれない場合、ハンディキャップがあるとして支援を受けながらの社会参加をしていただくよう手伝うことも多い。繰り返すが、個々人に対してはそれでいいんだと思う。だって困っている人がいて、それを困らなくするよう相談を受けているのだから。
 
でも、それって多様性じゃないよね。落ち着きのない人や不注意な人を落ち着いて注意力の豊かな人に改造する、大勢の前でしゃべるとドキドキしてしまう人をそうでない人に改造する、それは多様性というより均一性だ。多様であるはずの人間を均一化する。社会のマジョリティという鋳型、それか現代社会のルールや仕組みに適合しやすい個人という鋳型に入れ込む。こんなの多様性って言っちゃって本当にいいの? こういうことをやって守られる多様性とは、いったいどんな多様性なの? ともよく思う。
 
生物多様性が大切というなら、人間だって生物で、人間だって多様で、その多様な人間が織りなしてきたのが人類史だったはずだ。そうした多様な人間がそれそのままで社会に存在し、存在して構わない状態こそ「多様性が尊重されている状態」だと、私なら思いたくなる。
 


 
精神医療の場で診断と治療をとおして提供されていることは、生物としての人間の多様性をそれそのままに肯定することとは違うんじゃないだろうか。個人の援助というミクロな営為をとおして、結果として、社会というマクロなフィールドの均一性を押し上げてさえいるかもしれない。医療は第一に個人のほうを向いているべきだから、それはそれでいいだろう。でも、家族や会社や学校から「あなたのその性質をなんとかしてください、だから病院に行ってみてはどうですか」と言われるような流れがあるとしたら(実際あるだろう)、本当はみんな、生物としての人間の多様性なんて望んでいないし、尊重したいとも思っていないんじゃないかとも思う。なるべく均一で、社会のどこでも働けて、摩擦やあつれきのないなめらかな人間。それが無理としても、なるべくなめらかな人間であって欲しい、あるべきだという圧力を感じることはありませんか。
 
 
で、効率的な人間のマスプロダクションをベストとしつつもそれが叶わないから、ベターとしてミクロな個人の悩みに診断と治療というソリューションが提供され、ある程度まで人間のマスプロダクションに近づけるか、近づけ切らない場合にはハンディキャップがあるという前提で(たとえば)障害者雇用のようなかたちをとる──もちろんこれは精神医療の見方としては一面的で、もっと他にいろいろあるじゃないかという指摘はあるだろう。逆に言うと、一面としてはそういう切り取り方ができちゃうようにも、やはり思える。
 
人間界の文化的多様性は尊重されているという。実際には、そうでもなさそうなバッシングや偏見や発禁が洋の東西を問わず存在するようにもみえるけれども、ここでは秩序に従い、人間界の文化的多様性は尊重されているってことにしよう。でも、その足元で人間自身の多様性が社会のマジョリティという鋳型へ、それか現代の産業社会構造や道徳性といった鋳型へ嵌め込まれ、実質的には矯正を余儀なくされているとしたら、その文化的多様性とはいったいどのようなものだろうか。それって「花屋の多様性」でしかないんじゃないだろうか──花屋にはさまざまな花が売られているけれど、どれも一定の規格をクリアした商品ばかりで、野花がそのまま売られているわけでも、規格外の花が売られているわけでもない。稀に規格外の花が売られることがあっても、それは規格外だからものすごく安く売られることになる──。花屋に並べられた美しい花々は、色とりどりでも均一な規格品だ。
 
だとしたらだ。
実際に社会のなかで期待されているのは、文化的多様性なる商品としての多様性でしかなく、商品としての私たちは均一な品質のマスプロダクションモデルでしかないんだろうか。プログラマも漫画家もコンビニ店長も裁判官も、職業というアプリは多様でも同じOSで同じハードウェアで、互換性の高い人間であるよう期待されているんじゃないだろうか。
 
で、更にだとしたらだ。
それって人間やめろって言ってるようなものじゃないの? とも思うわけだ。
人間は有性生殖する動物なので、有性生殖するからには、毎世代ごとに人間の形質(行動や考えや能力の性質など)にはばらつきが生じる。そうしたばらつきは、環境が大きく変わってしまった時にも誰かがうまく適応するという意味では(種や集団レベルでみれば)保険のように働き、有性生殖という世代交代ガチャならではの恩恵をもたらす。そのかわり現環境に最適でない人間が必ず一定割合で生まれてきてしまい、たぶん、そういう人間は生きづらくなってしまうという問題を生み出し続けている。してみれば有性生殖をとおして生み出される形質のばらつきは反出生主義者でなくとも苦の源ではないか、と思いたくなるところがあり、それをなくした世代交代のほうが苦を減じられて良い、と思いたくもなるかもしれない。有性生殖する自然な人間なんてくそくらえだ、というわけだ。
 
でもそれって優生主義的だし、人間の本来の性質とは乖離しているし、環境の変化に対して脆弱になるのは避けられないだろう。感染症にだってきっと弱くなる。形質のばらつきは人間らしさの一部でもある。国家が、そのようなばらつきを均一化するようトップダウンで指示する事態は、優生主義という概念が広まっているからたぶんないだろうけれど、企業が、産業システムが、資本主義の需要と供給が、家庭が、個人がそれを望むとしたら結局はなし崩しに是認されるかもしれない。少なくともそれを予感させる兆候はある(たとえば精子バンクとか、たとえば出生前診断とか)。
 
反出生主義者だけが苦を減らしたいと願っているわけではなく、新しい命を望んでいる人だって苦を減らしたいと願っているものだ。個人の幸福と苦の回避を目指す限りにおいて、人間を均一性の方向へ、現代社会によく馴染む方向へと改変し、矯正することは正当化され得る。げんにそれはさまざまなかたちで実施されていて、正当化されているからその実施を悪いことだと思う人はあまりおらず、結果、社会はますます人間が均一化する方向に傾き、社会に適応するために越えなければならないハードルの数は増えているようにも思える。その是非をここで考えたいとは思わない。ただ、こうした現象に多様性という言葉をあてがうことに違和感はおぼえるし、この潮流の行き着く先には有性生殖の否定が待っているかもしれないとは、いったんメモしておく。後日、資料を集めてみたいところだ。
 
 

*1:定型発達、という行儀の良い言葉が流行っているが、結局念頭にあるのは「正常」という言葉に近い何者かで、現在の人間のなかで最も多くみられるタイプの形質が「正常」として念頭に置かれやすい。それは悪しきことかもしれない。他方でスペクトラムという概念に基づいて精神機能を考えた時、「定型発達」や「正常」が統計的な平均値や中央値付近のそれとして捉えられるのは、統計に基づいて健康不健康を判断する現在のパラダイム全体には案外馴染むことではないか、と思わなくもない。