シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

自由で平和な日本の脱ー社会的作品『お兄ちゃんはおしまい!』

かつて、アニメやゲームは大人のカルチャーではなく子どものカルチャーであり、メジャーではなくマイナーなカルチャーでもあった。
 
それが今や、明るく正しい青少年も楽しむカルチャーとみなされ、「大人のためのアニメ」「大人のためのゲーム」といった言葉も飛び交ったりしている。おめでとう! しかしそのせいか、アニメやゲームはマジョリティの言葉で記され、マジョリティのための内容でなければならないと思う人も増えてきた。残念! しかし捨てる神あれば拾う神あり。思うに、『お兄ちゃんはおしまい!』はそんな作品だ。
 

 
『お兄ちゃんはおしまい!』は、ダメヒッキーニートなお兄ちゃんであるまひろが、妹のみはりが作った怪しい薬によって女体化し、女子中学生として新生活とアイデンティティを獲得していく物語だ。こう書くと、荒唐無稽な設定の主人公が更生していく物語と聞こえるかもしれない。が、全体としてはやはり荒唐無稽なアニメだ。
 
明るすぎ、それでいて慣れてくるとクセになる色彩、性転換にまつわる制度上の仔細を省く作風、等々がこの作品のリアリティの水準があまり高くないことを示唆している。そもそも第一話冒頭のみはりのセリフからして、
 

「お兄ちゃん、ひとつ、いいことを教えてあげる。女の子の快感ってね、男子の百倍すごいんだって。もし、今のお兄ちゃんがそんなの急に体験しちゃったら、ショックで頭がこわれてパーになっちゃうからね。」 『お兄ちゃんはおしまい!』より

といった調子なのだから、リアル路線で眺めるものではあるまい。
 
そうしたわけで、まひろが女の子になった後の「女の子ってこんなに大変なんだぞ」という学びも、生真面目に受け取っていいのか迷うところである。生理の驚き。髪のメンテナンスに膨大な時間がかかる気づき。女子が集まった時の姦しさ。これらは女性について無知な男性視聴者を啓蒙する光だろうか? それとも無知な男性視聴者に空想上の女の子の空想上のリアリティを提供し、作品世界に耽溺するよう促すためのフックだろうか? 私には後者に見えてならない。リアルな女性像を視聴者に啓蒙するものではなく、ボードリヤールが語ったところのシミュラークルやシミュレーションとしての生理・髪のメンテナンス・姦しさ。都合の良いハイパーリアルとしての『お兄ちゃんはおしまい!』。あー女の子も大変なんだなーという enjoyable な把握。女体化したお兄ちゃん、ヤバい妹、ギャル、そういった属性を持ったキャラクターたちから東浩紀『動物化するポストモダン』でいうデータベース消費を思い出す人もなかにはいるかもしれない。
 

 
で、こうした特徴を挙げて私はこの作品を批判したいのか?
 
とんでもない! 逆だ。
 
ここまで書いてきたことはすべて、この作品の長所だと思っている。リアルな問題がとぐろを巻き、現実的な問題が噴出し、何かの役に立つこと・何かに値することが大切だといわれる今の世の中に、この作品は逆行してみせている。原作者やアニメ制作陣の思惑はわからないが、結果としてこの作品は反ー社会的な、いや、脱ー社会的な作品になっていると思う。それだけが取り柄なわけでもない。2023年の優れたアニメ作品としてできあがっていることが素晴らしいし、まひろとみはりの掛け合いをはじめ、会話はしばしば気が利いている。女体化したお兄ちゃん、ヤバい妹、ギャルといった属性は目立つにせよ、その属性に頼り切ったキャラクター造形ではなく、登場人物たちは作り込まれていて丁寧だ。
 
いや本当にいい作品なんだ『お兄ちゃんはおしまい!』は。
これを見て憤慨する人がいるに違いないとしても。
 
 

2023年の世界の都合というものを無視し、中指を立てているかのようだ

 
そもそも「ダメヒッキーニートが女体化する」というモチーフじたい、なんとも古めかしい。主題歌が往年のエロゲソング的である点も含め、本作品のモチーフ自体は2010年代風、いや、2000年代風とさえいえる。
 
ところが本作品は2023年のアニメ制作陣によってつくられている。現代の技術で磨き抜かれた「萌え」アニメがここにある! 本作の美質のひとつはこの点で、単なるアナクロニズムには留まっていない。いにしえのテーマ、いにしえの「萌え」を現代の技術で作り込むとこうなるわけか!
 
そのうえ本作品は案外ギリギリのボールを投げてくる。つまり第二話では生理が登場し、第三話で失禁が登場し、さらに失禁が繰り返される。その筋の人にはたまらないだろう。ちなみにAmazon primeのレーティングはノンレーティングだったり7歳以上だったり13歳以上だったりまちまちだが、これって見る人が見たら絶対に「けしからんアニメ」だよね……。
 
そういったわけで、この作品はたいへんに脱ー社会的で、脱ー規範的である。ここでいう脱ー社会的とは、社会秩序に公然と逆らうものでないが社会からの要請、たとえば男性のジェンダー的規範から退却するさまを楽園風に描くような、そういうものだ。アメリカでつくられたゲームがしばしば反-社会的な内容を含むのに対し、日本でつくられたゲームはしばしば脱ー社会的な内容を含んでいる。その延長線で考えると『お兄ちゃんはおしまい!』はすぐれて脱ー社会的な作品だ。中国当局などはこの作品を絶対に妙齢の男子に見せたがらないだろうし、欧米諸国のマジョリティも、この作品をクソミソにけなすに違いない。たぶん、いかなる社会においても、本作品を一生懸命に視聴する男性オタクは良い風にみられないだろう。でも、そういう男性オタクのための作品がこうして丁寧につくられているのって素晴らしいことだ。ああ、自由な日本社会!
 
2023年現在、世界は再び髭の生えた男たちのパワーゲームの舞台になりつつある。そうしたなか、この、社会的には何の役にも立たず、2023年の世界の都合というものも弁えず、いにしえの男性オタクのプレジャーをまっすぐ求道している『お兄ちゃんはおしまい!』がオンエアーされているのだ。 (社会的には)クソだな! (カルチャーとしては)最高だな! 欧米のポリティカル・コレクトネスの枠組みから考えても、この作品は逸脱や異端とみなされるだろう。こうした作品がちゃんと作られている日本社会の現状と、こうしたアニメをこうしたクオリティでみせてくれる制作陣に感謝したい。
 
『お兄ちゃんはおしまい!』のような作品がこれからも楽しめることを私は望むが、未来がどうなるのかとても心配だ。同じく心配な人は、焚書の対象にならないうちにご視聴を。
 
たぶんだけど、世界の都合は本作品を排斥する言葉をこれから増やしていくと想像され、本作品を弁護する言葉をいよいよ失っていくだろうとも想像される。このような作品がつくられ流通している日本はとても自由で平和な国で、この状況は財産といえるものだったと今の私は思う。してみれば、平和だった日本の守るべき自由な表現とはこのようなものではなかったかとも思うし、2023年現在、その自由は一応保たれている。このような社会が乱世において持続可能とは信じにくいが、戦前の日本文化の豊かさとして、忘れずに記憶しておきたい。