(※この文章は『リコリス・リコイル』のネタバレを含んでいるので読みたくない人は回れ右をしてください)
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はてな匿名ダイアリーに、アニメ『リコリス・リコイル』(以下、『リコリコ』)の気味悪さを指摘する文章が書かれていた。気持ち悪い・鼻につく、等々と書かれているので批判的な言及として受け取っていいのだろう。
でも私は、ここで批判的に書かれているところが嫌いになれない。その鼻につく成分が、都合良くデフォルメされた『リコリコ』の世界に添えられたリアリスティックな薬味になっていると感じられるからだ。
「大人による無自覚な搾取構造」というリアリティ
上掲のはてな匿名ダイアリーでは、
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
と記されている。
この気味悪さには共感をおぼえるし、リコリスの犠牲や献身のもと、平然と・無自覚に成り立っている穏やかな社会を気味悪く思った視聴者は(程度の差はあれ)多いんじゃないだろうか。
じゃあ、それが作品の面白さを毀損するかといったら……私の場合、面白さを毀損するというより、面白さにアクセントを与えていると感じる。ゆるふわ百合ガンアクション作品に付け足された一種のスパイス、薬味のたぐいで、それが効いているとも感じる。
私にとって、この『リコリコ』の薬味の加減がめちゃくちゃ好みで、一話を観たとたん、すっかりやられてしまった。もっと薬味がきついほうがいいという人もいれば、薬味なんて入れずにもっと砂糖マシマシにしろ、ゆるふわ百合アクションに徹しろって期待する人もいるだろう。人それぞれの好き好きがあるのだから、それは仕方ない。私は自分好みの味付けの作品がここまで作り込まれている幸運に感謝して、最後まで視聴するのみだ。
無自覚な大人たちによる、若者たちの搾取と犠牲、その描写。
それが戦場ではなく穏やかで秩序ある社会で、人知れず起こっているということ。
リコリスたちが搾取されるべく育てられ、実際搾取されてバタバタ死んでいるこの世界観って、今の日本社会の直喩にはなっていないけれども、暗喩としてはいい塩梅のように私にはみえる。
上掲リンク先の引用文に『エヴァンゲリオン』の名前が挙がっていたので、それでいうなら。
1990年代中頃、『新世紀エヴァンゲリオン』の作中では碇シンジたちが繰り返しテストを強要され、エヴァに乗せられ、無茶苦茶な戦いに投入されていくさまが描かれた。それが『エヴァンゲリオン』という作品のメインテーマだったとは思えない。が、それを見た視聴者の少なくない人間が、エヴァに乗せられる碇シンジたちを自分ごとのように感じ、感情移入した。
同じように、リコリスリコイルを2020年代の日本社会の暗喩として眺めるとしたら。
まだ明かされない部分が多いけれども、『リコリコ』の世界は秩序が行き届いている。刑事さんが千束を見て「ああいう子が安心して暮らせるなら、誰が何を隠蔽していたっていいだろう」と言うぐらいには穏やかで好もしい社会であるらしい。と同時に刑事さんすら知らないように、『リコリコ』の世界は誰も知らないところで献身し搾取され犠牲になっている若者たちによって成り立っていて、それらは省みられることがない。
DA本部のディストピアっぽい描写も相まって、この、無自覚・無感覚な構図じたい、なにやら巨大な搾取構造を示唆してやまないし、視聴者がそう感じるよう、『リコリコ』はつくられているようにみえる。ヒロインたちのかわいらしさや楽しいガンアクションの背景として、この作品の制作陣は、若者をすりつぶして無自覚に成り立っている安全・安心社会をみせておきたいらしい。
もし『リコリコ』世界の大人たちや、組織、社会構造の無自覚・無慈悲さが外道だとしたら。
その外道っぷりは私たちの生活、私たちの社会にも染みついた外道さでもあるんじゃないだろうか。外道なるものは、現代日本の、安全・安心な社会とその成立基盤にも本当は根深く絡みついているのではなかったか。外道な風景が視界外に追いやられ、無感覚でいられるよう、私たちの社会だってできているんじゃなかっただろうか。
こうやって考えると、作中の無自覚・無感覚・無反省な若者搾取の構造は、この作品に仕込まれたリアリティを想起させる仕掛け(のひとつ)とみたくなる。もとより、このゆるふわ百合ガンアクション作品はなにからなにまで現実的な作品ってわけじゃない。あっちこっちがデフォルメされて、脱臭されて、かわいくまとめられて、そうやって商業的成功を保障しなければならないのも『リコリスリコイル』の一面ではあるのだろうし。
だけど、優れたアニメはしばしば、作品のリアリティラインやデフォルメの湯加減からはみ出すことなく、視聴者に現実の一側面を想起させる。『まどか☆マギカ』や『天気の子』だってそうだったじゃないか。
『リコリコ』を、純度100%のゆるふわ百合ガンアクションアニメとみるなら、こうした気味の悪さは不要だし、制作陣は、その気味の悪さを描かないという選択だってできたはずだった。ところが実際には第一話から不穏なディストピア感が宿っていたから、この作品はゆるふわ百合ガンアクションアニメでありながらも、なにやら社会や社会構造について思わせぶりな作品なのだろうと私は解釈し、そういう姿勢で視聴していくことに決めた。
で、『リコリコ』に宿る不穏さを現代社会と照らし合わせながらみるにあたって、すりつぶされるリコリスの若者たちに無自覚な大人たちの姿、すりつぶされる当の若者がすっかり秩序を内面化している姿はお似合いだ。中途半端な自覚や罪悪感を出すより、ああいう風に、誰も何も気づかないまま若者をすりつぶしていくほうが「らしい」と感じる。だってそのほうが2020年代の若者の搾取って感じがするじゃないか。
このまま進んでも、路線変更しても、最後まで楽しみたい
そういうわけで、若者の命や未来を、罪悪感も欠如したまま構造的にすりつぶし、それで平穏で秩序ある社会を維持して世の中は良くなったって顔をしている人間の一人として、『リコリコ』に感じる気味悪さ、鼻につく感覚を存分に吸い込んで、咳き込んでおきたい。居心地の悪い思いをしておきたい。かわいい千束とたきなの応酬を楽しむ作品に、蛇足のように付け加えられた現実っぽさを気味悪がっておきたい。
……こんな風に書いてはみたけれども、もちろん、作品がこれからどうなるのかはわからない。
私個人は、この路線のまま、構造的な搾取が温存されたまま突き進んでも案外楽しいだろうなと思う。そんなディストピアめいた作品が専らゆるふわ百合ガンアクションアニメとして消費されることになっても、きっと私は最後までニコニコしながら楽しみつづけるだろう。あるいはDAの司令以下、大人たちが相応のリアクションしたり、千束たちが秩序に一矢報いたりして「答え合わせ」や「清算」が行われるのかもしれない。それもそれで楽しみな展開だ。
視聴者としての私は、どっちに物語が転んだって構わない。もうここまで入れ込んだら、どっちに転んだって楽しむっきゃないのだ。よくできたアニメなのはおそらく間違いないのだから、自分のストライクゾーンから作品が逸れていっても最後まできっちり追いかけ、その面白さ・その趣向をしっかり捕まえたいと思う。作品は、まだ半分残っている。どうあれ後半で息切れすることなく、しっかりつくられた作品・何かを考えさせられる作品・かわいくて仕方がない作品であり続けて欲しい。