ウマ娘プリティーダービーにハマった。
以来ずっと養分をやっている。
2021年から2022年にかけてあなたがハマったゲームは何? と聴かれたら、私は『ウマ娘プリティーダービー』と答えなければならない。ここでいうハマったとは、「熱中した」という意味だけでなく、「ぬかるみに落ちた」「やられた」という意味を含んだものだ。
ウマ娘プリティーダービーは現在、1.5thアニバーサリーなるものをやっているから、足かけ一年半、私はこのゲームに付き合っていたことになる。それは、ひたすら「養分」をやる時間、養分としてのソーシャルゲームプレイだった。
以前にも書いたが、はじめ私は、ウマ娘のガチャの仕組み、完凸というフィーチャーがよくわかっておらず、後手に回ってしまった。他のプレイヤーと競争する要素のあるゲームで後手に回るとは、すなわち養分になった、ということにほかならない。リソース整備の面でも知識・経験の面でも大きく出遅れてしまった。
でもって、よせばいいのに、ウマ娘のかわいさに魅了されるまま、この遅れをどうにかしようと頑張ってしまった。
無理のない範囲で課金を続けて、完凸という仕組みに合わせてリソースの整備をこつこつと進めてきた。重課金ではないから、ジュエルを積み上げてリソースを整備するには時間がかかる。何十日も時間をかけて、その間、他のプレイヤーとのレースで負け続けながらリソースを整備していった。ジュエル購入のお金を積んだという意味で養分だった以上に、可処分時間を献上し、他のプレイヤーを喜ばせるやられ役を続けたという意味でも、まさに私は養分だった。私はウマ娘たちのこやしになったのだ。
けれどもその甲斐あって、2022年の夏、ようやくリソースが整ってきた。戦局をひっくり返すことになったのは、この「玉座」というサポートカードだ。2022年の夏の段階では、このサポートカードを持っていることが決定的優位のように思われた。「玉座」という”人権”カードがある限り、自分は食われる側から食う側へ、養分から捕食者へと変わるはずだ!
実際、その直後のプレイヤー同士のレース、「レオ杯」では初めて他のプレイヤーをさんざんに打ち破った。お、おれの育てたウマ娘がAリーグで優勝したぞ! 脳汁が出た。手がぷるぷると震えた。これで勝つると思った。
ところが8月のお盆明けに再び環境が変わり、"人権"カードとしての「玉座」はわずか一か月半の寿命を終えて、「便座」と呼ばれるようになった。インターネットの都大路に流れる、玉座、便座、玉座、便座といった言葉に私の心は千々に乱れた。短い栄光の時間は終わった。今は心を入れ替えて、ウマ娘たちのために、それと重課金プレイヤーや利口なプレイヤーのために再び養分をやるという決意を新たにしている。
「かわいいから、推しだから養分をやる」というマインドと資本主義の摂理
こうして私は、かわいいウマ娘たちのために、それと自分のソーシャルゲーム音痴のために、ウマ娘プリティーダービーでもっぱら養分をやっている。こうした、レースに勝てない状況に自覚的に養分をやるというゲーム体験は初めてで、『FGO』の時も『アズールレーン』の時も意識していなかった。これは、ウマ娘プリティーダービーがレースを中心につくられているからだろう。でもってそれなり悔しい。
じゃあ、いったいなぜ私は、レース場をジュエルで敷き詰める養分の一匹をわざわざ続けているのだろう?
それは単純に、キャラクターの魅力のためだと思う。
ウマ娘のデザイン、特にゲーム版のデザインは私の好みのストライクゾーンを撃ち抜いている。ライブ映像などは、どれだけ眺めていても飽きない。3Dみがちょっと残っているので、苦手な人には苦手なデザインだろうけれども、私の場合、この適度に残った3Dみがかえって良くて、見た目だけでいえば、自分史上、いちばん好みだと思う。
そのウマ娘が走って、笑って、駆け抜けるのが見たくて今もウマ娘プリティーダービーにかじりついている。本来それは、ゲーム愛好家・アニメ愛好家のありかたとして好ましいものだったはずだ。
推しがいると人生が豊かになるし、そういうオタク的な生き方が世間に広まるのはいいけどそうなると資本主義社会がその尊い感情まで食い物にしてくるってのがジレンマ
— もぃこ (@molKo_PaL141230) 2022年8月19日
けれども上掲ツイートで言われているように、「好きなキャラクターを推す」という感情や活動は、とっくの昔に資本主義のロジックに組み込まれている。たとえばウマ娘プリティーダービーも、それを作ったサイゲームズにしてみれば成功した集金スキームってことになるのだろう。そのような集金スキームがなければ、あの綺麗なライブ映像も誕生しなかったのかもしれない。
いやしかし、一歩身を引いて考えると、私はその集金スキームが生んだ集金装置に群がった蛾の一匹でしかなく、正しく資本主義の養分をやっていると考えざるを得ない。
人生は短く、なすべきことは多い。
二十代の頃なら「これも人生の彩り」などと言ってしまえただろうが、中年のみぎり、こうしてディスプレイの向こう側のかしましさに囚われて本当に良かったのか、考え込まずにはいられなくなる。今のところ、このハマったぬかるみから抜け出す目途は立っていない。