今年は八月の中旬ごろからだろうか、真っ青な空や雄大な入道雲を見かけなくなり、秋雨前線と見まがうような低い灰色の雲が垂れ込めるようになった。久しぶりに晴れたかと思ったら、早くもオレンジ色に染まった羊雲が並んでいる。なにが小さい秋見つけただ、ふざけんな、もうしばらく夏を楽しませてくれよ、と思う。
道を歩いていても、否応なしに夏の終わりが目に留まる。今年はセミの当たり年だったのか、とりわけたくさんのセミの声を聴き、住宅地の電信柱や鎧戸にまで張り付いているのを見かけたが、そのぶんセミの死骸に出くわすことも多いと感じる。せめて、その短い晴れ舞台が生殖の喜びに満ちたものであって欲しいと願う。ふとジジジッと断末魔のような声を聞いてそちらを見やると、弱ったオスのセミをスズメが突いていて、やがて、くわえてどこかへ行ってしまった。自然界にはいつも元気な生き物しかいない。なぜなら元気のなくなったものは食べられてしまうか分解されてしまうからだ。
そうしたなか、先日、いつも通るアスファルトの路上でアブラゼミの死骸を見かけた。
その死骸は新鮮だったのか、無数の蟻がたかっていた。蟻はなんでも食べるけれども、この場合、蟻は生態系でいう分解者の役割を担っているわけか。蝉の死骸が無数の蟻におおわれているさまを見た私は、私は世の無常を思うと同時に、夏の終わりって残酷だなどと思ったりしていた。
ところが翌日、同じ場所を通ってみて驚いた。アブラゼミが「埋葬」されていたのである。
正確には、アブラゼミの死骸を覆うように、砂利のような、砂のようなパラパラしたものが積み上げられていた。だいたい円錐形のそれは、まるで賽の河原に積まれた石のようにも見えた。
よもや、蟻が砂利や砂をよそから運んできたわけではあるまい。そのパラパラしたものはセミを分解する際に生じた破片か何かなのだろう。それにしても、セミが蟻に分解されると、こんなにストレートに土に還るとは知らなかった。そして蟻が分解したセミを覆い隠すようにそれを積み上げるとも知らなかった。夏がこんなに好きで四十余年を生きてきたのに、まだまだ新しい発見があるものだ。
日本人になぞらえると、石を積むという行為には、供養する意味合いや、何かを封じる意味合いがあるようにみえる。だから日本人である私には、それがセミを食すると同時に弔う、蟻の菩提心の発露のように見えた。蟻の行動に菩提心だの供養だのを見出すのは私の勝手ではあるのだけど、そんな私からみた蟻は、まるで死んだアブラゼミを餌にしつつも浄土に向かわせる送り手のようにもみえた。実際、生態系における分解者とは送り手にほかならない。
この、アブラゼミの弔いを見知って以来、近くの路上や公園にも同じような円錐形の、ぱらぱらしたものがあることに気が付いた。それらもセミのかたちをとどめていないか、かろうじて羽の残骸が埋もれているだけで、以前だったらセミの亡骸とは気づきもしなかっただろう。この街ではこんなにセミが死んでいて、こんなに蟻がそれを葬り、弔っていたのだ。それとも今年がセミの当たり年だからことさらにそれが目につくだけなのだろうか?
これまで私は、セミは盛者必衰のことわりを象徴する昆虫だと思い込んでいたのだけれど、少なくとも最後まで生き残り、路上で息絶えた者はこのように蟻が弔ってくれるのだとしたら、なにごとも苛烈な娑婆世界にあって随分と情け深いことだな、などと私は思った。もちろんこれは私の宗教観、死生観に基づいたものの見方でしかない。いやしかし、夏は終わってしまい、盛者の季節は、必衰の季節に移り変わろうとしている。