シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

形骸と形式になり果てた夏でも、夏は夏だ

 
 

 
 
ニイニイゼミがおそるおそる鳴き始めて、2022年の夏が幕を開けた。
 
梅雨が本当に明けたのか半信半疑だし、いきなり猛暑なので、20世紀の思い出の夏とはだいぶ違う。そんな夏でも夏は夏だ。私は夏が好きだ。透明すぎる直射日光と深緑の山。そして青い海と生き物のような入道雲。
 
西暦2000年頃にオタクをやっていた者の一人として、夏が来るたび『Air』のことを思い出す。『Air』は800年の夏の物語だった。それでいて、夏の終わりを迎える物語でもあった。出会ってから20年以上経ち、歳を取っても不思議と思い出される。今年も例外ではない。
 
酷暑に負けそうな今年は、あと何度、この夏を迎えられるんだろうか、と思う。
 
人生の先輩がたを見ていると、平均的にことが進むなら、私はあと30~40回ぐらいは夏を迎えられるってことになる。けれども平均とは、統計的な期待値を示しているにすぎず、個別の運命を予言するものではない。そして平均が最も正しく読めるのは過去に向かってであって、未来に向かってではないのだ。
 
かりそめの豊かさ、かりそめの平和が崩れてしまえば、日本人の平均寿命なんて簡単に縮む。天災や人災にまみえることもあろうし、個人的に健康を害することだってあるだろう。だから、たとえば私があと何度の夏を迎えられるのかなんて本当は誰にもわからない。 
 
行儀がよくないので、これを打ちながらスパークリングウォーターを飲み、キュウリと茗荷の和え物をかじっている。エアコンをつけても室内は蒸し暑い。昔は扇風機だけで良かったのに、今はエアコン+扇風機でちょうど良いぐらいだ。こんなバカみたいな夏があるか、とも思う。
 
そういえば故郷の海も、昔は牡蠣がたくさんとれていた岩場にムール貝が生えて、水質がすっかり悪くなってしまった。さらに遡って昭和の頃と比べれば、私の知っている故郷の海も変わってしまった後のものだそうで、年長の人の話によれば、昔は少し泳ぐだけでイワシの大群に当たり前のように出会えたという。
 
そうやって夏そのものが変質していくと同時に私自身も変質していく。今年、『Air』がニンテンドースイッチでリリースされると聞くが、それをやっている猶予は中年の自分には無い。やったとして、往時の感動が蘇るとも思えない。あれは2000年に20代前半の私が出会ったから感動したのであって、『Air』をやったことのない40代が感動を共有できるとは考えられない。『Air』をやったことのない20代がやったとしても、時代が違うので違ったものを受け取ることになるだろう。
 
だとしたら、私にとって本当に肝心な夏は過去のものになっていて、今はその形骸と形式を毎年繰り返しているだけなのかもしれない。そうやってスイカも高校野球も花火の音もリピートしているだけなのかもしれない。もちろん、若い誰かにとっては2022年の夏こそが本当に肝心な夏である、というのは肌でわかる。
 
で、そうやって若い誰かが胸を弾ませながら浴衣姿で夏祭りに集まる風景。それらを見ているだけで案外うれしく、胸が弾むものでもある。形骸と形式のリピートといえども、それでも夏はいい。この夏を、いいものとして来年も受け取るために、濁りの度合いを増していくおのれの命にしがみつき、生きたいとあがくのは私には自然なことに感じられる。過ぎた自分の盛期を思い出すのも、森や海や若者の盛期を感じ取るのも、とても幸福なことだ。あまりにも日差しが強くなって人間も蝉もイワシも生存不能にでもならない限り、変わってしまった夏でも私は夏としてそれを受け取るだろう。そして夏が終わるたびに名残惜しく思うのだろう。
 
こうやって私が夏を惜しく思うように、人は皆、何かを惜しいと思いながら、何かに執着を寄せながら、齢を重ねて死という事象の終わりに近づいていく。私は輪廻という概念をいちおう知っている大乗仏教徒だが本当は死は事象の終わりだとも想像しているので、私の終わりは夏の終わりで、夏の終わりは私の終わりだと疑っている。『Air』の作中描写ように、それでも何かは引き継がれていくに違いない。けれども私自身の夏はいつか命数を使い果たす。悲しいことだ。いやしかし、それでも2022年の夏を夏として今は受け取っておこう。汗を流し、スイカをかじり、空を見上げて、夜の散歩のにおいを嗅ごう。